東京近郊を中心に、たまに遠方にも脚を運んで、遊里跡やらシブい商店街などぶらりと歩いてはデジカメで撮った下手な写真を織り交ぜながら綴っています。
「●っぷる」と違って、観光案内にはなっていませんので、悪しからず。
過去に歩いた街並みの写真の忘備録的サイトとして、Ownsにて★KENTAの写真倉庫★も公開中なので、そちらも併せてどうぞ。

※コメントは承認制です。記事内容に関係のないものなどは掲載しませんので悪しからず。
  • 05 Dec
    • 【東京都・台東区】”ささっぷる”流「上野公園」の歩き方(其之玖)……「上野動物園」後篇

      前回に続いて「上野動物園」編。 その前回の最後に取り上げた「動物慰霊碑」の写真。  後ろに石灯篭のようなものがずらりと数体も並んでいるのが見えますね。  これこそ、今回の上野動物園訪問でパンダよりも見ておきたかったもの(パンダさんごめんね、言葉のアヤですw)。実はこれ、安濃津藩の歴代当主、藤堂家の墓所なんです。これは上野動物園の正式なサイトでも紹介されていません。もちろん、墓所の敷地内も入れませんので、塀の外から撮っています。中央には初代当主、藤堂高虎※の墓があるそうで。 それにしても、なぜ動物園内に墓って疑問が湧きますね。しかし、その答えは当ブログのこの記事で触れています。まあ、動物園の中に墓があるのではなく、墓がある場所に動物園ができたというのが正確なとこなんですが。そう、この場所はかつて藤堂家の下屋敷があったんでしたね。  その藤堂家下屋敷だったゆかりの史跡がもう一つ、園内に残っています。こちらの和風建築、「閑々亭」という名で、もともとは高虎が建てた茶室でした。関ケ原や大坂の陣など武功が多かった彼はまた、茶の湯などもたしなむ風流人で、それを評した徳川家光がこの茶室に「閑々亭」と名前を与えました。  さて、前にも書きましたが、高虎は徳川家康の信頼が篤く、その家康逝去後の寛永4年に上野東照宮を建立します。同時に、藤堂家の菩提寺として寒松院(かんしょういん)も建立します。先程の藤堂家墓所は、その寒松院の境内にあったものでした。しかし、寒松院は上野彰義隊の戦いで焼失してしまうんですね。その跡地に造られたのが、件の上野動物園だったわけです。しかし、園内にかすかに寒松院の名残りがこうして見られるんですね。こもれびの小径を歩くと、レンガの塀が見えますが、その向こうに先ほどの藤堂家墓所があります。かすかに石塔が見えるのがお分かりかと。 ちなみに、藤堂高虎はこの辺りの地形が自分の領地だった伊賀上野に似ているからということで「上野」と名付けた、という説があります。それぐらいに上野と藤堂高虎は縁が深いというわけです。 さて、上野動物園に来たなら、これも見ておきたい。  こちらの五重塔。なんで動物園にあるのって疑問はさておき、これは旧寛永寺の五重塔。寛永寺自体は寛永2年創建(だから「寛永寺」)なのですが、五重塔は6年後の寛永8年に建立されたものです。もっとも、一度焼失してしまうんですが、それを土井利勝によって同16年に再建されたのが現在の塔です。  で、なぜこれが園内にあるのかという疑問ですが、上野公園はもともと寛永寺の境内地でした。しかし、先程ここは藤堂家の下屋敷があった場所とも書きました。実は、その藤堂家を含む3家の大名屋敷が徳川幕府に収公され、できたのが寛永寺だったのです。その寛永寺造営も、実は藤堂高虎の発案だったという説が残っています。そんなわけで前述の寒松院も、後に寛永寺の境内寺になります。 この地は上野彰義隊の戦いで荒れ果ててしまいますが、その地を公園としてよみがえらせたのが上野公園でした。で、公園として整備した際に残っていたのがこの五重塔だったのです。まあ、先ほどの閑々亭や藤堂家墓所と同じ理屈なんですけどね。※藤堂高虎って誰という方は、こちらをご覧いただけたらと それにしても、動物園と言いながら、史跡がゴロゴロあるわ。そして、ここまで肝心の動物の写真が前回のパンダだけという(笑)  まあ、折角なので、動物の写真も載せておきましょう(一応、動物も見ているんですよw)。こちらはアジアゾウ。動物慰霊碑の横なんですね。戦時中に2頭のゾウが薬殺されたのも今は昔といった感じです。  ニホンザル。  そのサルたちがいる猿山。実は日本最初の猿山で、昭和6年に初めて造られたものだそうで。ずいぶん歴史を積み重ねて、今の猿山があるんですな。  五重塔の隣にはシカのエリア。五重塔にシカ、と言っても奈良公園ではありませんぞw  さて、上野動物園は東園と西園という2つのエリアがあるのですが、ここまでは東園。西園へはこのモノレールに乗って移動します。  「上野モノレール」というのは通称で、正式名は東京都交通局上野懸垂線、何と都電や地下鉄と同じ、東京都が運営する交通手段だったんですね。開通は昭和32年、実はこれが日本で最初のモノレールだったんです。走行距離が約0.3㎞で、モノレールとしては日本最短。  動物園の上をゆっくりと通るモノレール。レールにぶら下がって走行する懸垂式モノレールです。  東園と西園の間にはこうして公道も通っていて、モノレールも公道の上を横断しています。  西園に到着して、まずは不忍池へ。  池の上にはワオキツネサルが。  ペンギン🐧。  フラミンゴ。  ヤギ。  ヒツジ。 って感じで見ていますが、実は園内に飼育されている動物は何と500種中には希少種などもいたりするわけですが、そんななかなか見られない動物を目当てに来るのも悪くないかも。  そんなわけで、動物を見るだけが動物園めぐりではない、園内の史跡を巡るのもまた一つの楽しみでもあるわけです。次回の再訪の際は純粋に動物を見て楽しむって形になりますかな。 って感じで、上野公園編はここまで。  恩賜上野動物園台東区上野公園9-83

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  • 04 Dec
    • 【東京都・台東区】”ささっぷる”流「上野公園」の歩き方(其之捌)……「上野動物園」前篇

      明治15年開園と日本最古の動物園である、「恩賜上野動物園」(以下「上野動物園」)。年間入園者数は全国1位、全国的にもジャイアントパンダがいる動物園ということで知らない人はまずいないでしょう。  そして、ここを訪れる人は動物を見に来ているわけですが(まああたりまえですな)、特に真っ先に見るのはジャイアントパンダ。当然ながら、パンダの前は客がいっぱい。ちなみにパンダが上野動物園に初めて来たのが昭和47年、もう40年以上も前の話なんですね。  皆さん、パンダを見て、「かわいい、かわいい」と歓声を上げていますな。何だかんだ言ってパチパチ撮っていますが、実は今回訪れたのは別の目的なんですね。ほとんどの人は動物を見にここを訪れるもんですが(まあ、当たり前ですね)、はっきり言って上野動物園でたくさん動物を見ましたよ、なんて内容で当ブログが取り上げる訳がありませんw 実は、園内には史跡が多く残っていて、それらを巡るために上野動物園を訪れたわけで。まあ、東京に住み始めて長いにもかかわらず、上野動物園は今回が初めて。その初訪問の目的が動物を見るためではない時点で変わっているわけですがwそんなわけで、今回は"ささっぷる"的上野動物園の歩き方を2回に分けて書いていきます。 *:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆ さて、冒頭の写真が上野動物園の正門、と思いきや、実は違うんですね。正式にはあくまでも「表門」なんですね。  で、表門から少し外れたところ、「東京都美術館」の裏側にあるのが「上野動物園旧正門」。明治45年から昭和9年までの22年間、この門が表門=正門として使われていたんです。  ここでチケットが売られていたんでしょうか。  重厚な鉄の門の両側には、スクラッチタイル貼りの門番の小屋。  普段はこの門、使われずにひっそりとしています。ここにかつての正門があったなんて気付く人は少ないんではないかと。  園内から旧正門を見ると、資材置き場のような物置があって、何だかイマイチな図ですw  さて、先ほどのジャイアントパンダを見てすぐ、ほとんどの人は近くのアジアゾウのコーナーに向かうのが普通ですが、その近くに何か立派な建物があります。これは「サーラータイ」という、タイ風のあずまや。  天井の装飾がなかなか立派です。 これは平成19年に日本とタイの修好120年を記念してタイ政府から贈呈されたものだそうで。そんなわけで、史跡というには新しい物件ですが、これは見ごたえあります。  サーラータイの正面にあるのが動物慰霊碑。千羽鶴の向こうにひっそりと建っています。訪問客のほとんどが動物に夢中なのに対し、ここに立ち寄る人は皆無。  碑には「動物よ安らかに」と書かれています。この上野動物園で様々な理由で命を落とした動物たちの霊を慰めるために建てられた碑で、最初に建ったのが昭和6年、現在のは昭和50年のものです。特にこの碑に多く祀られているのが戦時中に当局の命令によって殺処分された動物たちの霊。ゾウやライオン、トラ、クマ、ヒョウなど逃走した場合危険な動物14種27頭が殺害されたと言われています。その方法が、硝酸ストリキオーネという劇薬による薬殺でした。  中でも2頭のゾウ(ワンリーとトンキー)のエピソードが「かわいそうなぞう」という物語となります。秋山ちえ子が終戦記念日にラジオで朗読するというのが毎回の定番でした。平和な時代だからこそこうして動物たちを眺めることができる訳で、そういった意味で、この碑に立ち寄って戦時の犠牲になった動物たちの霊を慰めておきたいものです。  秋山ちえ子「かわいそうなぞう」今年の4月に逝去、二度と生の声を聴くことはできなくなりました。 そんなわけで「上野動物園」前篇はひとまずここまで。次回は後篇、上の写真の慰霊碑の背後にある石碑のようなもの、覚えておいてくださいね。   かわいそうなぞう [ 土家由岐雄 ]1,188円楽天  

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  • 02 Dec
    • 今回の純喫茶。

           今回の純喫茶。 平井駅北口に程近い「ワンモア」。 最近になって少し有名になった感の店ですが、名代のホットケーキをはずすわけにはいかないでしょう。 小降りながら二枚重ねのホットケーキ、焼き味が絶妙に旨いのなんの。 このホットケーキ、鉄板ではなく、銅板で焼いているとのこと。 美味しさの秘密はこんなとこにあったんだ。 総武線沿線で、錦糸町や亀戸、小岩に新小岩等と比べて地味ーなイメージだった平井ですが(失礼)、今回の散策で認識が変わりましたわ。 かつては三業地だった街、この店以外にも純喫茶が多く見られました。 もしかしたら、喫茶巡りでまた行くかも知れません。 ここだけの話、昼飯は南口の「ミカド」でオムライスをいただきました。 その後に、三業地を散策して、これで二軒目w ここはまた、フレンチトーストもいいとか。 リピートありそうです。  ブログをまとめてみる > 

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  • 01 Dec
    • 【東京都・台東区】”ささっぷる”流「上野公園」の歩き方(其之質)……ひっそり閉園「こども遊園地」

      「東照宮第一売店」で一息入れた後、かねてより行きたいと思っていた上野動物園にいよいよ入ろう......と思った矢先、こんなのを見つけてしまいました。  その名も「こども遊園地」。動物園の正門の向かいに広がる子供の遊び場。柵内には乗り物がいっぱい。しかし、何か様子がおかしい。いつもなら子供たちのキャッキャ嬉々とした声がこだまするものだが......  その答えは入り口の前に掛かっていた「閉園のお知らせ」と書かれた案内にありました。そう、昭和から長らく子供たちに親しまれたこの遊園地、8月末で閉園していたのです。 「上野こども遊園地」ひっそり幕 動物園とセットだったのに(東京新聞) しかも、前々から告知したものではなく、突然この看板が現れたらしく、ネット上では投稿をきっかけに騒然。 70年続いた上野こども遊園地、「やむを得ず」閉鎖 理由に悲しみの声集まる(grape) 案内には次のような文が書かれていました。 この度、地主である東京都から『動物園の魅力を高めることを目的とした、正門前広場の整備工事』の支障になると許可を取り消されましたので、やむを得ず8月31日(水)をもちまして廃棄いたしました。 文面からはこの遊園地を利用してきた人たちへの感謝と同時に、閉鎖に対するやりきれない思いがひしひしと伝わってきます。  入口には鎖がかけられ、入れない状態に。この遊び場から子供たちの歓声が聞かれることは二度とできなくなってしまいました。  この「こども遊園地」、できたのは終戦から間もない昭和21年と、実に70年もの歴史があります。さほど広くない敷地内には、子供のころに乗ったことがあるような乗り物やアトラクションがいっぱい。  そのどれもが昭和の香りを漂わせています。開業当時からこの雰囲気だったんでしょうね。  往年の賑わいを見せていた頃の写真もありました。  東京五輪を2年後に控えた昭和37年当時、子供たちにとってハレの場所でした。上野動物園とこの遊園地、セットで家族ともども楽しんでいたわけです。  昭和59年当時、いまとほとんど変わっていませんね。それにしても、子供たちの楽しそうなこと......  少子化の昨今、だからといって客が減ってしまい経営が苦しくなったという訳ではなく、むしろ昭和レトロに惹かれる人々や外国人観光客等も多かったほど。にもかかわらず閉園するのは、先ほど出ていた案内文にあるように、『動物園の魅力を高めることを目的とした、正門前広場の整備工事』の支障になるというもの。どこかに移転するとかいう話ではなく、「邪魔だからとっとと閉鎖せんかい!」と上からの物言い、そこには、あたかも「こども遊園地」が時代遅れであるかのような偏見が見え隠れしているように思えます。  で、その整備工事の計画はいつ出てきたかというと、平成21年、『上野恩賜公園再生基本計画』というのが東京都から出されたという訳です。その当時の都知事がなんと、 石原○太郎。 いま、築地市場の豊洲移転問題で渦中にあるその人が都知事だった頃の話なんですね。築地だけではなく、この上野のこども遊園地も潰してしまおうって話が、あの知事の頃に出てたとは。いや、あの都知事なら考えそうなことか。  この上野公園の「こども遊園地」に限らず、デパート屋上の遊園地がどんどんなくなってしまい、昭和を想い起させるような遊び場が減っています。時代遅れだからなくそうではなく、昭和レトロという面で逆にウリモノにして残そうなんて発想があってもいいのではないかと。とりわけ今回のは東京都の施設、いわば都民のための施設ですからね。都民そっちのけの公園整備というのは、別にありがたくもないと思うのですが。 何だか怒りなのか愚痴なのかわかんない文で終わってしまいそうですが、豊洲とか五輪とか以前にこっちも何とかなりませんかね、小池さん。

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  • 30 Nov
    • 【東京都・台東区】”ささっぷる”流「上野公園」の歩き方(其之陸)……「東照宮第一売店」で一息

      上野公園は広い。周囲のレトロ建築めぐりを含めると、かなり歩くわけだが、そこはちゃんとしたもので、園内には一息入れられる場所が所々にあるわけです。   上野公園内に鎮座する上野東照宮。「東照宮」なのでご祭神はもちろん、徳川家康。寛永4年、家康の信頼が篤かった藤堂高虎が創建した神社ですが、実はこの地に高虎の屋敷がありました。高虎は、かわいがってくれた家康を祀るための神社を自分の屋敷の敷地内に建てたわけです。ちなみに高虎は当時、伊賀上野の城主。この「上野」の地名が「伊賀上野」から付けられた、なんて説もありますからね。 しかし、今回の主役はこの上野東照宮ではなく......  その脇に建っているバラック建ての売店。これがまたシブいのです。店前には子供が欲しくなるようなお面やおもちゃなどが出ています。  横に掛かっている看板がこれまた年季入っていて、いい感じです。白地のサビサビのに書かれているように、「東照宮第一売店」という店です。しかし、このフォントもポイント高いです。「第一」と書かれているぐらいですから、「第二」「第三」とあったんでしょうか。  看板には手書き風に「カレーライス・親子丼・おでん・五目肉うどん」と書かれています。その看板も錆具合がいい感じです。どうやらこの場所に店を構えて半世紀以上だとか。  そんなわけで、ここで休憩にします。  中はこんな感じです。渋い感じの木のテーブルとイス、そして小上がり......子供が宿題とかしてるんでしょうか。何だかよそんちにお邪魔しているかのようですw  壁のお品書き。代金は品物と引き換えという、キャッシュオンです。丼ものに麺類、カレーライスと軽食が揃っていますが、焼き鳥やおでん、ビールに清酒と軽~く一杯やってもよさそうな場所です。  この後も散策を続けるので、今回は缶ビールのみで一息。これなら、散策終えてから清酒におでんとやってみるのも悪くありませんな。  上野公園で一服するなら、この昭和な店構えの「東照宮第一売店」、お勧めですぞ。  東照宮第一売店台東区上野公園9-86

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  • 29 Nov
    • 今回の純喫茶。

         今回の純喫茶。 明日で惜しまれながら閉店の兜町mayへ。 なんと、自販機が消えてます。 そうか、こうなってたんか。 いや、むしろこっちのほうが渋くていかにも純喫茶らしく、いいんではないかと。 チーたまのサンドを耳つきで。 昼休みの証券マンで賑わっていて、途中までマスターひとりで奮闘。 こういう光景も明日までなんですね。 もしかしたら明日も立ち寄るかも。   マッチはちょうど欲しかったピンクをば。 グリーンは売り切れちゃったそうです。   ブログをまとめてみる > 

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  • 28 Nov
    • 【東京都・台東区】”ささっぷる”流「上野公園」の歩き方(其之伍)……レトロ建築後篇

      上野公園のレトロ建築、トリの後篇は東京芸術大学です。  前身は官立の旧制専門学校「東京美術学校」と「東京音楽学校」。日本で最も歴史のある芸術の最高学府、いわば"芸術の東大"のようなもんです。昭和24年に新制大学として「東京芸術大学」に統合されますが、戦前の「美術学校」や「音楽学校」の名残を残す建物を多く抱えています。まずはこちら、かつての「音楽学校」だった場所、赤レンガの正門が目印です。  門を入ると、赤煉瓦の校舎が2棟並んでいるのが見えます。写真奥が東京芸術大学赤レンガ1号館、手前が赤レンガ2号館です。  まず2階建ての1号館、もともとは明治9年に教育博物館の書庫として建てられたもの。東京都内では珍しく、明治初期の赤煉瓦造り建築です。あの関東大震災でも無事だったのが凄いところ、何しろ多くのレンガ造り建築が崩壊してしまっただけに尚更です。 何しろもともと書籍庫として建てたもの、そうなれば耐火性は必須ですね。アーチ形の窓すべてに鉄扉を付設したことで不燃性を重視。関東大震災はおろか、東京大空襲をも潜り抜け、130年を超えた今でも当時のままの姿を見せています。  そして、3階建ての2号館。こちらは1号館の3年後に東京図書館の書籍庫として建てられました。やはり耐火性を重視して、開閉口すべてに鉄扉を付けていて、先ほどの1号館と似たような外観。しかし、最大の特徴は3階の丸窓でしょうね。  入口の両脇には獅子像が建物を守っているかのように鎮座しています。  そして向かいはかつての「美術学校」の敷地。通り沿いに2棟のレトロ建築が並んでいます。  その2つの建物の間には和風の屋根を持った門があります。まずはこちらの和風の屋根を載せた東京芸術大学正木記念館。昭和10年に美術学校の第五代校長、正木直彦の功労のために建てたものです。ちなみに、その校長在任期間がなんと35年。  前回の博物館動物園駅跡の斜め向かいに面して掲げている赤煉瓦の門、実は美術学校の正門でした。大学美術館を新設する際に現在の場所に移設されたもの。木の扉が学校の歴史の長さを物語っています。  そして、反対側にあるスクラッチタイル張りの建物が東京芸術大学美術館陳列館。昭和4年に東京美術学校陳列館として竣工、設計は前回の黒田記念館をも手掛けた岡田信一郎。  屋上部分には円柱天窓が並ぶ古典主義的な装飾。しかし、全体的にシンプルな外観で上品さを持っています。なお、現在の大学美術館ができるまでこの建物がメインギャラリーで、現在も企画展示に限定ながら一般公開されることもあるそうで、その時が中の様子も伺えるチャンスでしょう。 ところでもう一つレトロ物件として有名なのに旧東京音楽学校奏楽堂(明治23年築)がありますが、こちらは残念ながら改装工事中で白フェンスに囲まれ見られず。平成30年まで姿が見られないということで、本当に待ち遠しい。 そんなわけで、上野公園レトロ建築編はここまで。ここまで歩き疲れたんで、次回はシブい場所にて休憩します。  東京芸術大学(赤レンガ1号館・2号館、正木記念館、陳列館)台東区上野公園12-8  

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  • 27 Nov
    • 【東京都・台東区】”ささっぷる”流「上野公園」の歩き方(其之豫)……レトロ建築中篇

      前回に続いて、上野公園のレトロ建築めぐり。  国立西洋美術館を出た通りはまさしくレトロ建物密集地帯。文化施設に大学、そして鉄道遺跡とバラエティに富んでいます。  交差点に位置する小さいレトロ物件、どこか国会議事堂の中央部分を想い起させる外観です。昭和8年竣工、京成電鉄の博物館動物園駅だった建物です。「だった」と書いたのは、平成9年に営業を休止し、同16年に正式に廃止となったから。京成電鉄開通に合わせて開業したこの駅、しかし老朽化に加えて利用客が減少したことにより営業休止になります。  ホームが短いため車両の長い電車は停車できず、東京都心の駅にありながら、最後まで自動改札や自動券売が導入されなかったのが堪えたようです(導入するにも費用が掛かりすぎるため)。ほとんどが近くの上野駅を利用するため、晩年は都心の駅でありながら1時間に1本程度、しかも早朝や夜は駅が閉鎖なんて感じでした。  駅としての役目を終えた後、非常用の避難口として現在も取り壊されずに残っているそうで。ただ、中の様子を見ることはよほどのイベントがない限り、しばらくはなさそうですね。  その向かいに建つのが黒田記念館。もともとは帝国美術院付属美術研究所という名で使われた建物で、竣工が昭和3年。設計した岡田信一郎は、日比谷の明治生命館なども手掛けた建築家です。あ、そうそう、銅像めぐりで取り上げた小松宮彰仁親王像の台座も彼の作品です。  黒田というのは、"近代西洋画の父"黒田清輝のこと。「湖畔」「読書」などの作品を残した黒田は、また貴族院議員にもなった政治家で、子爵でもありました。晩年は資産の一部を美術の奨励事業に充てるようにと遺言しますが、その遺志を汲んだのが黒田と同じ東京美術学校教授の岡田でした。  全体はスクラッチタイル貼りのアールデコ調建築なのですが、丸柱もスクラッチタイル、しかも特注なのだそうで。その上にさりげなくイオニア式の柱頭飾りをしつらえているのも特徴。  なお、この黒田記念館、東日本大震災を受けて耐震工事で3年弱も閉館、昨年1月にリニューアルオープンされました。館内には黒田の遺作が展示されており、一般公開されています。  黒田記念館の並びに建つこちらのデカい建物が国際子ども図書館。いやあ、マジででけぇ  明治39年に帝室図書館として竣工、昭和4年に増築してこんなにデカくなっちゃったw戦後は国立国会図書館上野支部として利用しますが、平成10年の改修工事を経て、現在のこども国際図書館に。改修工事の設計を担当したのが安藤忠雄で、その際にエントランス部分にあるガラスの箱が建物を貫く形で加わります。当時からすれば大胆な発想ですが、これには賛否両論もあったんでしょうな。  ルネッサンス様式の代表的な明治の洋風建築の一つで、外観だけでなく内装も当時のまま残っているそう。今回は時間がなく入らなかったが、入場無料だし、またの機会に探検せねば。  そんな建物の前庭にポツンと立っている銅像。台座には小泉八雲のレリーフが入っています。国際子ども図書館のサイトにその説明があって、これは「小泉八雲先生記念碑」で土井晩翠の子息の遺言でこちらに建てたとあります。台上の銅像は小倉右一郎作「蜜」。しかし、なんでこんなところに小泉八雲なのか、説明板もなくさっぱりわかりません。 レトロ建築中編はここまで。次回は後編、あの大学キャンパスのレトロ物件に触れます。  博物館動物園駅跡台東区上野公園13-23 黒田記念館台東区上野公園13-43 国際子ども図書館台東区上野公園12-49 

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  • 25 Nov
    • 【東京都・台東区】”ささっぷる”流「上野公園」の歩き方(其之参)……レトロ建築前篇

      上野公園周辺には博物館やら美術館やら、文化施設が多く点在していますが、中には戦前建築も少なくありません。あの東京大空襲でも上野の杜を避けるかの如く焼失を免れた逸品ばかり。  前回の東京文化会館や国立西洋美術館の並びにそびえるこの国立科学博物館。一言でいうと、デカい博物館のファサードにしては壮大かつ威圧感を感じさせるこの建物、明治10年創設で日本初の総合科学博物館でもあります。建物は昭和6年竣工。   威厳を保つ正面玄関ですが、実はここからは中に入れないというw入口は建物の脇にあるそうで。  その入り口付近にはなぜかD51機関車が展示。しかし、落ち葉かぶっているなあ、ちゃんとメンテしてるんかしらw  外壁はいい味を出したスクラッチタイル。  正面軒から公園を眺める。ちょうど遠足に来ている中学生が弁当を広げている様子が見えます。そういえば、この日は小学生の団体も来ていたな。  さて、次は東京国立博物館へ。建物をじっくり見るには敷地内に入らねばならないので、仕方なく(苦笑)入場料を払ってゲートへ。まずは昭和12年竣工の本館から。これは典型的な帝冠様式、洋風建築に和風の屋根を付けたような建物です。それにしても日本人は何でも屋根を付けるのが好きやね。車に屋根付けて霊柩車にしたり、船に屋根付けて屋形船にしたり。  設計は渡辺仁、銀座4丁目の交差点にある和光(旧・服部時計店)や横浜のホテルニューグランドなども手掛けた建築家です。それにしても中はデラックスですな。照明で装飾された大階段がお出迎え。  ラグジュアリーなステンドグラスの窓に、  何と黄金の扉まで、ゴージャスです。  もともとは東京帝室博物館という名で、昭和22年に現在の名称に。この建物は国の登録有形文化財指定ですが、「旧東京帝室博物館本館」という名称での登録。さすが、帝室の権威をかけて建てただけあります。ちなみに、この本館には日本美術を時代の流れに従ってジャンル別に展示してあります。一応展示は見ましたが、本来の目的はタテモノめぐりなのでここでは割愛w  そして、見どころは本館だけはありません。こちらの表慶館は明治41年築。設計は片山東熊、赤坂の迎賓館(旧東宮御所)の設計者で知られるように、皇室のお抱え建築家だった人物です。そして、この表慶館ももともとは皇室絡みの建物で、当時皇太子だった大正天皇のご成婚を記念して建てたものでした。  気になるのは正面入り口の両脇に鎮座する2体の獅子像。  そしてよく見ると、2体とも異なる表情なんですね。片や口を開けていて、片や口を閉じているという。果たして、この2体の獅子の意味や如何に  あまつさえ、正面の上部にも両側に獅子のようなものが。何か、この建物をお守りしているかのようです。  正面だけでなく、左右にもドーム。  何しろこの表慶館、ゲートをくぐらねばちゃんと見ることができない建物。だから入場料払ったわけなんですが(苦笑)展示物はおざなりに建物を見るがために博物館に来てる変わり者がここにいますw なお、今回は割愛したが、この国立博物館の敷地内には他に東洋館や法隆寺宝物館もあり、前者が谷口吉郎、後者が谷口吉生と親子の作品が同居しています。機会あればじっくりと見ておきたいもんです。 レトロ建築編の前編はここまで、次回に続きます。  国立科学博物館台東区上野公園7-20 東京国立博物館(本館)台東区上野公園12-49 

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  • 24 Nov
    • 【東京都・台東区】”ささっぷる”流「上野公園」の歩き方(其之弐)……世界遺産篇

      東京都民の憩いの場、上野公園。公園周囲には動物園や博物館、美術館などもあり、文化の場という顔も。そして、それらの施設の多くが戦前から戦後にかけて建てられたレトロ建築で、中には”世界遺産”に登録されたものも。  その”世界遺産”がこちら、国立西洋美術館。上野駅を公園口から出てすぐの場所に建っています。竣工が昭和34年、設計がル・コルビュシェ。そう、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと並んで”近代建築三大巨匠”の一人に数えられる大建築家です。西洋を中心に多くの建築を残したコルビュシェですが、この西洋美術館こそ彼が設計した日本国内唯一の建物。そして、今年”コルビュシェの建築作品―近代建築運動への顕著な貢献”が世界文化遺産に登録されますが、その中に含まれていたのが本館だったのです。  川崎造船所社長で美術蒐集家の松方幸次郎の膨大なコレクションの一部が第二次世界大戦でフランス政府に没収され、戦後に美術館設立を条件に返還されるのですが、その際に外務省がフランスの建築家に美術館の設計を依頼して実現したのがこれでした。(そのコレクションは「松方コレクション」という形で現在も展示されてます)そして、そのフランス建築家というのが他ならぬコルビュシェなのですが、彼の設計図案をもとに日本国内にいた弟子たちが図面を仕上げ、完成にこぎつけたというもの。その弟子たちというのが、前川國男や坂倉準三、吉坂隆正といった面々(特に前川の名前は後に出てくるので覚えておいてください)でした。  当初のコルビュシェの設計では1階の部分がピロティ(高床)構造でした。その名残りで、周囲にはコンクリート打ちっ放しの円柱が各辺に7本ずつ、2階を支える形で並んでいます。もっとも、現在はガラスの外壁で1階部分が室内に取り込まれていますが、その中央はロダンの彫刻の展示場で、屋上まで吹き抜けになっているのだそうです。(「だそうです」と書いたのは、中に入らなかったから。別に入場料をケチったからではないぞw)  2階の外壁は緑色の小石を前面に貼りつけたもの。もっとも、これは竣工当時のオリジナルではなく、改修の際に加えられたものですが。  中に入るにはチケットを買う必要がありますが、今回は時間がなかったのでパス。その代わり、庭園にある彫刻の数々を眺めながら美術鑑賞の雰囲気をば。まずはロダンの「地獄の門」。中央部にあの「考える人」が見えますね。  ロダンといえば真っ先に出てくるのが「考える人」ですが、もともとはダンテの『神曲』をもとに製作した「地獄の門」の一部分。地獄の門の上で熟考しているダンテを表したものだとか、ロダン自身をモデルにしたとか様々ですが、いずれにしても後に「考える人」が独り立ちする形で有名になるんですね。  「地獄の門」の両側には「アダム」と「イヴ」の像。  こちらもロダン作「カレーの市民」。美味しそうな作品名ですが、カレーとはフランスにある都市の名前。百年戦争のカレー攻防戦でのエピソードを表した作品だそうで(詳細はこちらでウィキってください)。  そして、前述の「考える人」............って、すべてロダンなんですけどね。  と思っていたら、こっちはロダンではない作品。エミール=アントワーヌ・ブールデルの「弓をひくヘラクレス」ですね。 さて、世界遺産となった国立西洋美術館の向かいには、コルビュシェのお弟子さんの作品が建っています。  こちらの東京文化会館、竣工が昭和35年、設計が(先程覚えといてと云ってましたね)前川國男です。通りを挟んで巨匠とその弟子、それぞれの作品が対峙しているのは象徴的であります。ってか、完全に意識して建てたんでしょう、この前川って人はw  この東京文化会館は都内で最初の本格的な音楽ホールで、クラシックやバレエ、オペラなどを行う大小のホールを併せ持っています。昭和28年に計画が始まりますが、当時はこの辺り、戦災で家を失った人々が身を寄せ合う場所で、現在のような文化の場ではありませんでした。しかも駅からすぐという、コンサート後の余韻を味わうには難しい立地。そんな難事業を、前川はモダニズムの作風で潜り抜けます。そして、戦後の日本に多くの建築を残した彼の代表作の一つとなるのです。  見所は何といっても中のエントランス。紺色の高い天井にランダムに照らされている照明は、あたかも星空のよう。そして、床のタイルも落ち葉が散っているかのようにも。何しろ入口に段差がなくフラットで、ガラスの壁で中外互いに様子を伺えられるのだから、建物の内部にいながら外にいるような錯覚に。遮断物をできるだけなくし、周囲の自然豊かな公園とマッチした当時からすれば斬新な発想、これぞ前川の真骨頂でしょう。  ところで、入口の脇に立っているのは、戦後初代の東京都知事だった安井誠一郎像。12年にわたって都知事を務め、戦後東京の復興や東京五輪招致などを手がけました。そんな人の銅像がなぜここにあるかというと、この文化会館の発起人の一人だったから。完成の翌年に安井は亡くなりますが、その業績を讃えるために昭和41年、当時の知事・東龍太郎が設置しました。あ、そうそう、誤解されますが、東京文化会館は国立ではなく都立の施設です。  その脇、堀の向こうにも銅像が見えますが、アメリカの女性彫刻家 アンナ・ハイアット・ハンティントンのダイアナの像だそうで。何だか、建物めぐりと言いながら、前回の銅像めぐりの続きになってしまいましたね。 今回は西洋と日本を代表する建築の巨匠、しかも師弟関係にある作品を取り上げました。次回からは戦前建築のオンパレードです。  国立西洋美術館台東区上野公園7-7 東京文化会館台東区上野公園7-7

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  • 23 Nov
    • 【東京都・台東区】”ささっぷる”流「上野公園」の歩き方(其之壱)……銅像めぐり編

      東京の北の玄関口「上野」。この界隈はネタが多すぎて、どこから手を付ければいいか迷ってしまうほど。当ブログでは以前に池之端花街を中心に取り上げたことがありましたが、そういえば誰もが知っている「上野恩賜公園」(以下「上野公園」)をじっくり取り上げたことがありませんでした。まあ、あまりにもメジャー過ぎるってのもありましたが、食わず嫌いは宜しくないということで、今回は”ささっぷる”的上野公園の歩き方ってことで数回に分けて取り上げていきます。  上野公園といえば、何はなくともこちら、西郷隆盛像ですね。まあ、あまりにもベタ過ぎて説明するのも憚れますが。作ったのは明治を代表する彫刻家・高村光雲(詩人・高村光太郎の父といえばわかり易いか)。ただし、犬(名前は「ツン」)は後藤貞行の手によるもの。後藤は特に馬の彫刻の第一人者で、皇居前広場の楠木正成像の馬は何を隠そう彼の手によるもの。  西郷隆盛は日本初の陸軍大将ということで、軍服の西郷像は鹿児島にあるのですが、こちらは着流し姿の西郷像(正確には山に入り、犬を連れて狩りに出かける時の姿)。明治31年の除幕式でこれを見た西郷夫人が"宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ)"と言い、さらに"浴衣姿で散歩なんてしなかった"と続いたというエピソードが残ってます。 実は当の西郷、かつて西南戦争で賊軍のレッテルを貼られていました。明治憲法の発布で天皇の恩赦を受けてその汚名は濯がれましたが、制作の段階で軍服姿にすることに反対する意見がまだ強かったのが理由の一つにありました。その西南戦争からまだ年月が経っていないこともあって、西郷像を見て懐かしみ、さらにはお上に盾を突こうなんて者がいては困る、なんて意見が当時の政府の中にもあったのでしょう。結局、軍人としての牙を抜いて、犬を連れて歩くという人畜無害のイメージを下々に植え付けさせよう、という意図が見え隠れしているんですね。(西郷像がなぜこんな着流し姿で、しかも上野公園に置かれたのか、詳細はこちらを見ていただければと)  そんなわけで、"上野公園といえば西郷さん"っていうほどあまりにも有名なのですが、実は公園内には西郷以外にもいろんな銅像が立っています。そんなわけで今回は、上野公園内の銅像めぐりをば。  さて、西郷像つながりでまず寄りたいのがこちら、彰義隊墓所。あの西郷像のすぐの場所に立っています。戊辰戦争で江戸城明け渡しに不満を持った徳川幕府の旧家臣たちが彰義隊を結成、寛永寺に立てこもり徹底抗戦しました(当時、上野公園一帯は寛永寺の境内地)。この辺りが特に激戦地だったらしく、彰義隊兵士の105名が戦死、それらの霊を祀ったのがこの墓所です。ちなみにそこで彰義隊と戦ったのが件の西郷を率いる政府軍。皮肉にも同じような場所にかつて敵同士の史跡が立っているわけですな。  さて、上野公園の中心に堂々と馬にまたがっている雄姿を見せているこちらの像が、小松宮彰仁親王像。明治45年建立、赤十字設立25周年を記念して作られたもので、製作者は大熊氏廣。大熊は靖国神社に立つ大村益次郎像の作者でもありました。 ところで小松宮彰仁親王って誰?ってことなんですが、詳しくはこちらでウィキってみてください。まあ、こちらも明治維新の功労者なんですが、実は前述の西郷とも因縁があるお方で、西南戦争の鎮圧にあたったのが他ならぬ彼でした。で、赤十字設立を記念して建ったというのは、日本赤十字社総裁の肩書を持っていたからなんですね。  噴水広場の奥、国立科学博物館の近くの散策路に立っているこちらの像が野口英世像。まさか野口英世を知らないって人はいないでしょうなw普段使っているお札の肖像ぐらい覚えておきましょうね。昭和26年建立、銅像の前にある表示石、敷石は昭和46年に会津会が設置したもの。野口英世の出身地は会津でした。  そして、もうひと方、上野公園で欠かせないお方がこちらのボードワン博士像。誰そいつ?なんて言うなかれ、実は上野公園の生みの親なんですね。本名はアントニウス・ボードウィン、オランダ人の軍医で文久2年に来日、明治3年まで日本に滞在しました。この地に病院を建てる計画が上がった際、上野の自然が失われるのを惜しんで一帯を公園にすべきと提案したのが、他ならぬボードワン博士でした。そして、明治6年、日本初の公園ということで上野公園が誕生します。彼の提案がなければ、上野公園はなかったという訳ですね。その功績を讃えるため、上野公園開園100年を記念して昭和48年にボードワン博士像が建立されます。  しかし、これで話は終わりではなかったんですね。実は、当時建てられた像はボードワン博士本人のものではありませんでした。原因は、製作者の手違いで間違えて彼の弟の写真をもとに造ってしまったというもの。そう、ボードワン博士と思われた像、実はその弟の肖像だったというのです。これには「ボードワン先生、ごめんなさい<(_ _)>」とばかりに上野公園の第一の功労者に対して申し訳ないと思ったか、本当の肖像に作り替え、平成18年に改めて建立します。そのような顛末を、泉下のボードワン博士はどのような目で見ていたんでしょうね。  番外編さて、上野公園に来たならもう一つ見ておきたいスポット、上野大仏です。  これが上野大仏。何と顔面部だけ、レリーフ状になっています。もともとはこの地に屋敷を構えていた越後村上城主・堀直寄により造られた粘土製の大仏でした。しかし、正保4年に地震で首がもぎ折られてしまったので、明暦~万治年間に高さ7メートほどの大仏に作り替えられ、元禄年間に大仏殿まで建てられます。ところが、あの関東大震災でまたもや首がもげ折られ、挙句の果てには首以外の全部が戦争の金属供出に遭ってしまいます。かくして寛永寺で保管されていた首だけが残り、昭和47年に現在のような形に。本当に数奇の運命に翻弄され、このような形になってしまった可哀想な大仏( ̄_ ̄ i)  春には桜の名所となり、都民の憩いの場に立っている上野公園。しかし、歩いてみると所々に銅像などが立っているのですが、空気のごとく見逃しやすい。今回紹介したのがすべてではありませんが、ぜひこうした小さいものを見つけながら散策しているのもいいでしょう。 そんなわけで、次回は建物編。         

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  • 22 Nov
    • 【東京都・豊島区】闇市から生まれた”朝呑みの聖地”「ふくろ」

      渋谷、新宿とともに三大副都心の一角をなしている"ブクロ"こと池袋。 今のような大ターミナルは戦後になってできたようなもの、しかもそのきっかけというのが、終戦とともに忽然と出現した闇市でした。 「池袋三業地」の項でも書いたのですが、東口・西口ともに規模のデカい闇市が忽然と現れ、バラック建ての屋台がびっしりと並んでいたそうで。 それと一緒に見かけたのが"パンパンガール"こと街娼で、東口・西口合わせて65、私娼も750(「東京都内青線地区私娼概況」―『実態調査全国赤線青線地区総覧』より)という規模でした。  『夫婦生活』昭和26年11月号に秋田仙太郎が夜の池袋をレポートした記事がありますが、その中で西口のマーケットの様子についてこのような記述があります。 このマーケットの九割は飲み屋。一坪か二坪の小さい店に、女が三人から六、七人もいる。これがワッとばかり寄ってくるから、足を踏み入れたら最後、素通りはむずかしい。たゞし新宿の暴力女給のようなことはない。   こゝに店を構えるあるオカミが最近、池袋署に売淫の容疑で検挙されてきた。 「あたしは、お客と寝ましたが、お金は貰いません。それでも売淫になるのですか…」 と係員に喰ってかゝっている。お上の言い分は、好きで寝たんだから構わないというのだが、警察では名前も知らない客と寝れば、金はとらなくても売淫になるという。傍らでは店の女給が、 「マダムが、お前は客のツレと一緒に旅館に行けというので一緒に泊まり、七百円貰いました」とベソをかいて調書を取られていた。 この例は、この店に限ったことではなく、客に呑ませ過ぎて勘定がかさんだので、たゞ帰すのが気の毒になって抱かれてやったまでよ、というような家ならこの界隈では珍しくない。  (昭和37年の池袋駅西口の地図―『ヤミ市跡を歩く』より) 東口の闇市跡が昭和26年に早々と整理を終えたのに対し、西口は昭和30年代半ばに入っても終戦直後のままの状態なんですね。 駅前にはマッチ箱のような店舗が現在のマルイシティの辺りまで連なっていたのが、上の地図を見るとお分かりかと。 土地の権利がややこしく、整理しようにも背後の893勢力の妨害もあったりして難儀していたのもあったんでしょう。 それでも東京五輪が先に控えるとようやく本腰をあげ、昭和37年にようやく西口マーケットの整理は完了します。 現在のように放射状に大通りが伸びるようになったのはその後でした...... .....と長~い前置きになってしまったのですが、今回の本題はその西口マーケットから生まれたあの酒場。   現代的な街並みとなってしまった池袋駅西口ですが、駅前にはあの当時の雰囲気を残す一角も実はあるんですね。 そんな場所に件の店が建っています。  この「ふくろ」という店、今でこそこういう外観ですが、昭和28年頃の開業当初はバラック小屋でスタートという、これぞ"闇市から生まれた酒場"。 そして、何より凄いのが朝8時開店という、"昼呑み"どころか"朝呑み"もできちゃうというのですね。 やはり朝開店で有名な赤羽「まるます家」ですら朝9時ですからね。 しかし、朝から空けて需要はあるの?と思われますが、夜勤めている労働者は飲みたくても仕事で飲めないですからね。 そんな夜勤明け労働者にとってこうした店はいわば救世主なんです。  中に入ると、反対側まで伸びているコの字カウンターには呑兵衛がビッシリ。これだけ人気があるのにはわけがありますが......  壁のお品書きには食べ物のメニューがビッシリ。大衆酒場の定番をしっかりと押さえています。またこの店、もともとは「食堂」としても営業していたこともあって、食事メニューも見られます。かき揚げそば/うどん、焼うどん、焼そば、ざる中華なんてのも。そして、そのいずれもが大衆価格。これじゃあ、席が客で埋まるのも無理はありません。なお、毎月8の日には食べ物メニューがすべて半額になるそうで。当然、そんな日にゃ朝から晩まで満席で常連でさえ席にありつけないことも。  一方の飲み物メニューはこんな感じ。実に素っ気ない。しかし客の方は、いやあ、銘柄などどうでもよい、酔えばいいんです、ってな感じでしょうな。  ここは刺身のメニューが豊富。目移りしそうで迷いそうですが、ここでは刺身4点盛りをば注文。  マグロ、ブリ、ヒラメ、そしてきびなご。きびなごが大衆酒場で、しかも刺し盛の一品に入っているのは珍しい。これだけでも、この日は当たりでした。酒は大関の一合ガラス瓶を燗で。  そして、本日のおすすめからチキンカツも注文。洋食モノもしっかり押さえています。  ふくろ 西口本店東京都豊島区西池袋1-14-2  なお、東口の美久仁小路にも支店があって、そちらも昭和の雰囲気タップリ。いや、むしろあっちの方が闇市上がりの雰囲気十分かも知れませんね。

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  • 20 Nov
    • 【東京都・豊島区】大歓楽街の入口にまばゆい外観の24時間営業喫茶「伯爵 池袋北口店」

      用事がない限り立ち寄ることがほとんどない池袋。そんな街を散策後、大衆酒場「ふくろ」で一杯やろうと向かう途中に通りかかったのがこの喫茶店。いかにも昭和の大箱な喫茶店という外観に、帰りに立ち寄ろうと思ってしまった。 そして、「ふくろ」での晩酌の帰り、すっかり夜の街となった池袋北口の入口へ。すぐ先にはラブホテル街や風俗街、並びに成人映画館という立地、遠くから見てもしっくりくる外観だ。窓の周囲にまばゆいほどに輝く電飾、毒々しいほどに真っ赤な看板。上野の「ギャラン」といい勝負、あるいはそれ以上かもしれない。喫茶店だと書いていなければ「ソッチ系の店では?」と思われても仕方がないような店構え。そして中はそれに違わずにシャンデリアで彩られ、鏡張りの壁、少々過剰かと思わせる装飾、赤で彩られた椅子、黒服のような制服の店員と、どこか夜の店を思わせる。しかも24時間営業、どんな客が利用するのだろうとつい想像してしまった。夜勤帰りに始発待ちで利用する水商売の客、終電に遅れてしまいここで夜を過ごそうと立ち寄る客、すぐ近くのホテルでの逢瀬の前後でちょっと立ち寄るカップル、などなど。もし深夜に入れば、どこか曰くありげな客が濃ゆい会話をしながらお茶をしているというような光景に出くわすのだろうな。そんなつまらない想像をしながら、ケーキセットで一服。もっとも、今回入ったのは夕暮れ時で、会社帰りか池袋で遊んだあとの帰りと思われる客がほとんどだろう。大ターミナル駅のすぐ目の前のせいか、店内はこうした雰囲気の惹かれた客で一杯だ。昼2時までやっているモーニングサービスというのも魅力的で、食事にも重宝しそうだ。    池袋駅北口を出てすぐ、少し歩けばラブホテル街という立地      きらびやかな外観で、夜だとすぐ目立つ      如何にも夜の街に似合いそうな赤い看板      使い勝手のいい24時間営業      ガラス張りから店内の様子がうかがえる      ゴージャスに彩るシャンデリアに圧倒される            天井にはステンドグラスの照明               渋い”めにゅう”の表紙      レアチーズケーキのセット 飲み物はホットミルク             珈琲専門館 伯爵 池袋北口店豊島区西池袋1-29-1ホテルサンシティ池袋2F 訪問 2016年11月      via 渋で純な喫茶店 Your own website, Ameba Ownd      

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  • 18 Nov
    • 今回の純喫茶。

      今回の純喫茶。 上野のモツ焼き店“大統領”で一杯ひっかけて、“ギャラン”へ。 実が今回で二回目。 相変わらずギンギラギンの店内で、さすが上野の昭和な喫茶店。 まあ、上野に来たならこれという安定牌の一軒。 ウェイトレスのチェック柄制服柄が萌え可愛いです(小並感)。 この日は上野公園を散策でしたが、ネタが多いのなんのって。上野は底なしです。 ブログをまとめてみる >

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  • 17 Nov
    • 【東京都・豊島区】駅から離れひっそりした花街「池袋三業地」

      池袋の歓楽街といえば、北口のラブホテル街やこのトキワ通り沿いの風俗街などのイメージが強いのですが、実は戦後になってできあがったもの。 戦前はというとどこにでもある場末の盛り場という程度で、あと周辺一帯に住宅がポツポツあるだけで、あとは空き地というのどかな田園風景だったそうで。 そんな立地に自由学園や立教大学が建ったのは、都会の喧騒とは無縁で学び舎として相応しかったからだろうし、江戸川乱歩がこの地を終生の住処にしたのも同様の理由だったんでしょう。 そして、当時の歓楽街といえば、池袋の隣で三業地として賑わっていた大塚でしたが、遅ればせながら関東大震災後に池袋にも三業地ができます。 その池袋三業地ですが、池袋駅から地味に離れているんですね。 駅西口からマルイシティまで進んで、劇場通りを北に進みます。 トキワ通りをも越え池袋二丁目の信号を過ぎて一つ目の角を左折します。 この折れ曲がった通りが通称「三業通り」、その西側に「池袋三業地」がありました。 現在の三業通り。 あまりにも駅前の繁華街から離れていて探すのに一苦労しますが、地味に小料理屋などがあったりして、花街の残り香を感じさせます。 検番はこのムトウユニパックのビルがある辺りにありました。 実はこの「池袋三業地」、あの『全国花街めぐり』には載っていないのですが、それもそのはず。 昭和4年に松川二郎が『全国花街めぐり』を刊行するのですが、池袋に三業地の認可が下りたのがその前年、つまりまだ"出来立て"の花街だったわけですね。 これには、関東大震災で焼け出された下町の花街の業者たちも関わっていたそうです。 そんなわけで以下、上村敏彦著『東京 花街・粋な街』を参考に書くと、「池袋三業地」の全盛は昭和10~12年頃、料理店・待合が四十数軒、芸妓置屋十数軒が狭い路地に並び、その店の軒灯と三味線の音で花街らしさを醸し出していたそうで。 しかし、昭和20年4月の空襲で池袋一帯が爆撃を受け、「池袋三業地」も焼失してしまいます。 戦後の池袋は東口、西口とも忽然と姿を現した闇市から復興が始まります。 藤木TDC著『ヤミ市跡を歩く』によれば、西口には500軒とも800軒ともいわれるバラックが建ち並ぶ巨大闇市ができ、マッチ箱のような店舗がビッシリと現在のマルイの先まで連なっていたようで。 現在のように大通りが放射状に伸びる街並みができるようになったのは昭和37年にマーケットの整理が完了した後でした。 一方、「池袋三業地」の復興は少し遅れて昭和25年ごろからで、翌年には料亭44軒に回復します。 もっとも、昭和30年後半から「池袋三業地」は衰退するんですが、これは東京都内のすべての花街共通にみられる傾向ですね。 そして、現在はすっかり住宅地化してしまい、所々に雰囲気を残す建物などが見られる程度。 『東京 花街・粋な街』には、「今でも料亭として営業を続けているのは黒板塀に囲まれた『寿々代』と『きよ初』だけ」 とありますが、「きよ初」があった場所はマンションに建て替わっていて、残るのが「寿々代」のみ。 この雰囲気のある塀の先にまだ残っていました。 竹の塀に囲まれたこの一角が料亭「寿々代」。 結論をいうと、これこそ現存する唯一の「池袋三業地」の遺構。 それにしてもひっそりと静まり返っていますね。 本当にこれ、現役なんでしょうか? 門には古い鑑札が残っていました。 「料亭」ではなく、「料てい」と書かれています。 その横に真新しいプレート。 夜になると門が開いて、三味線の音が流れるんでしょうか。 裏手に廻ると、意外なほどの大箱なのがわかります。 しかし、本当に現役なのでしょうかね? 人っ気があまり感じられないんですけど...... 通りの先に赤い鳥居が見えますが、あちらが「三社神社」。 三業地組合関係者によって奉られた小さい神社です。 もっとも、玉垣など手掛かりになるものはないんですげどね。 写真右手が「寿々代」、その反対側には「天竜」という料亭もあったそうです。 他に遺構と呼べるものはほとんどなく、「三業」という文字がある電柱のプレートに...... 町会に「三業」というのが残っている程度でしょうか。 強いてあげるなら、こちらの「きくや」という屋号の一軒でしょうか。 擬木が使われている庇の垂れ木がいい味を出していますね。 しかし、ここも現役なんでしょうか? 『東京 花街・粋な街』にあった「きよ初」も、囲碁クラブとして余生を過ごしていたとされる「三笠」もすでになく、別の新しい建物に変わってしまい、「池袋三業地」には新しい住宅がどんどん建つように。 ちょうど通りかかったこの辺りも解体工事の真っ最中だし。 一体、どんなのが建っていたんでしょうかね。 辛うじていい感じの塀が残っていましたが、これもいずれは...... その先にいい感じにレトロな美容室。 花街ですからね、こういう髪結屋さんは付き物です。 何しろ池袋駅からは微妙に離れている場所ですから、繁華街化することはなく住宅街と化していて、古いアパートも目立ちます。 そんなところにしなびた飲み屋がポツリとあるぐらいですが、それにしても屋号が「ジャイアン」ですか。 店から”ボエ~ボエ~”とすごい音波のカラオケが聞こえてきそうな...... 真新しいですがこの変わった意匠のドアに丸い窓......今回のベストドアはこれですね。 西口の闇市マーケットが撤去されて駅前が現在のような区画になると駅前に先程のような歓楽街ができるようになり、逆に駅から離れたこの三業通りは逆にしなびた昭和の趣が残る商店街に。 何となく時代に取り残されたようなこの風景です(褒め言葉)。 「池袋三業地」を離れ、喧騒の歓楽街へ。 それにしてもこの中国語表記の看板、東京の「チャイナタウン」とか呼ばれているのも伊達ではないようです。 そんなわけで、「池袋三業地」はここまで。 東京花街・粋な街 [ 上村敏彦 ] ¥2,160 楽天 東京戦後地図ヤミ市跡を歩く [ 藤木TDC ] ¥2,592 楽天

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  • 16 Nov
    • 【東京都・豊島区】”推理小説の大家”終生の住処「旧江戸川乱歩邸」

      前回は立教大学を歴史的建造物に絞って取り上げましたが、折角来たなら立ち寄ってほしい物件があります。  立教大学正門の向かいから伸びる小さい通りに、フクロウの像が見えます。池袋のシンボルキャラクターの”いけぶくろ”ならぬ”いけふくろう”だそうで、名前を知った時点で脱力しそうですが............そんなのはどうでもいいのでして(失礼)、そのフクロウと一緒に「旧江戸川乱歩邸」という案内が見えます。  件の案内に従って歩くと、見えてきました、旧江戸川乱歩邸。  門の表札には「平井太郎」、これぞまさしく江戸川乱歩の本名。ペンネームがアメリカの作家、エドガー・アラン・ポーから取ったものというのは有名な話。  乱歩がこの地に住居を構えたのが昭和9年。実は、乱歩は70年の生涯で46回も引越しをしていたというそうで。まあ、その大半は親の仕事の関係もあったんですが。そして、46回目の引越し先がこの邸宅ですが、もともとは借家だったそうですね。昭和27年に家主から買い取りますが、このクリーム色の洋館風建物は、その際に建てたもの。  玄関。  玄関内には、乱歩にまつわる展示が並んでいます。  乱歩といえば、”♪ぼ、ぼ、僕らは少年探偵団”なのですが、少年ものだけでなく、大人向けの本格的探偵小説(もともと乱歩はソッチの作品でデビュー)で多くの作品を残しているわけで。それらの作品には、衆道(現代風で言えば”やおい”とか”BL”ですかね)、男装・女装、人形愛、サディズム、残虐趣味といったエログロ要素も少なくなかったようで。現代のミステリー小説にも出てくるそれらの要素は、いずれも乱歩が開拓したといってもおかしくないですね。  乱歩の愛用品も展示。肖像写真を見ても、メガネとベレー帽を身につけたものをよく目にしますね。  応接間。  家具やインテリアにもこだわりを見せていたよう。  執筆で利用していたデスクも。  そして、裏には土蔵も。  2階建てで書斎兼書庫として使われていたそうで、”幻影城”なんて呼ばれていました。実は、中に入ることができないんですね(写真は入り口のガラスから撮影)。  そんなわけで、この映像で。ごくまれ~に特別公開する機会があるかもってことで、その日を狙って訪れていいかも。ちなみに、土蔵には約2万点以上もの資料や蔵書があるそうで。  乱歩がこの地に移った当時、周囲は何もなくのどかな景観だったことで、心置きなく執筆するのに打ってつけだったのでしょう。よほどこの池袋の地がお気に入りだったんでしょうか、以来、乱歩が70歳で亡くなる昭和40年までこの地で過ごします。 この旧乱歩邸、常時公開しているわけではないので、ウェブサイトで公開日を確認してから訪れた方がいいでしょう。  旧江戸川乱歩邸東京都豊島区 西池袋3-34-1ウェブサイトはこちら 

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  • 15 Nov
    • 【東京都・豊島区】蔦に覆われた煉瓦の学舎「立教大学池袋キャンパス」

      前回まで2回にわたって自由学園明日館を取り上げました。 自由学園明日館👉前篇 後篇 次の目的地はここから徒歩圏内に広がる広大なキャンパス、それが......  立教大学。もはや説明不要、東京六大学の一角ですね。明治7年、築地の外国人居留地(明石町)に開学した私塾「立教学校」が元祖。大正7年に本拠地をここに移し、現在に至ります。正門の向こうにそびえる校舎も当時のまま。自由学園明日館とともに、関東大震災や東京大空襲を潜り抜けてきました。  風格のある赤煉瓦の正門をくぐった先には......  立教大学本館(モリス館)。蔦に絡まる赤煉瓦組みの校舎は、いわば大学の顔。マーフィー&ダナ建築事務所の設計で、東京都歴史的建造物に選定されています。  面白いのが建物の裏側。中央の棟屋、右と左で高さが違っているではありませんか。当初からこういう形だったのか、或いはもともと同じ高さだったのが関東大震災で片方が折れてしまいこういう形になったのか。いずれにしても、謎ですね。間の時計はイギリスのデント社製で、分銅式動力ですが、何と5日に1回は手動で巻いているそうです。  ところで、この建物の別名にある「モリス」は、米国聖公会宣教師アーサー・ラザフォード・モリスから。彼の寄付によって建てられたことを記念して、「モリス館」と呼ばれるように。  キャンパス内の歴史的建造物は、モリス館を中心に固まって建ち並んでいます。正門から見て左手が図書館旧館。季節柄なのか蔦が赤く染まっているのが美しい。  入口に掲げられている”MATHER LIBRARY”の文字。実は、4年前で大学図書館としての役割を終え、「メーザーライブラリー記念館」と名称を変えています。MATHERは”マザー”ではなく、”メイザー”と読むんですね、しかもこれ人名なんです。この建物を作るのに貢献したサミュエル・メーザーという人物から取ったものだそうで。  モリス館の裏側を出ると、左右に似たような外観の小さい建物が並んでいるのを目にします。こちら(右側)は3号館。  反対側の2号館とともに、もともとは寄宿舎として使われたもの。  2号館と3号館の間を抜けた先に控えるのが......  立教大学第一食堂。現役の学食です。こういう建物で食事する学生は幸せ者だ、と思いたい。それにしても、てっぺんの搭屋が素晴らしい。しかし、それ以上に素晴らしいのが......   ハ○ーポッターかよ そう思わせるに十分な建物の中。学生面して入らせていただきましたが、とにかく凄い。天井がトラス状の木組みで、美しい。思わず、自分も学生に紛れて食券を購入しそうになってしまいました罠wいや、それぐらいここで食事を摂る学生は幸せもんだ(大事なこと何で2度云ってしまいました)。    気を取り直して、こちらも歴史的建造物である諸聖徒礼拝堂へ。  礼拝堂のそばに立つのは、ウィリアム主教像。築地に立教学校を創立したのが彼でした。  中に入ると、これまた立派な空間だこと。中にパイプオルガンがあって、ちょうど学生が演奏の練習中でした。先程の第一食堂もそうでしたが、築100年という古さにもかかわらず、中が新築のように綺麗なのに驚かされます。途中、改装工事も施したのもあったんでしょうが、大学当事者がこうした歴史的建造物をきちんとメンテナンスし、学生も大事に使っているという風でした。こういうのは、建物が長持ちするものなんですわ。  広大なキャンパス内には新旧入り混じって校舎が入っていますが、いずれも煉瓦調の外観で、見た目にも気を配っている。さすがは東京六大学の一角、伝統ある名門大学はかくあるべきものだということを教えてくれました。 なお、今回取り上げた建物は皆、東京都歴史的建造物に指定されています。    立教大学池袋キャンパス豊島区西池袋3-34-1(モリス館) 

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  • 13 Nov
    • 【東京都・豊島区】フランク・ロイド・ライトの傑作「自由学園明日館」(後篇)

      前回に引き続いて、”近代建築の巨匠”ライトの傑作「自由学園明日館」。もっとも、前回はいわば前菜のようなもの。今回は、メインディッシュにあたる中央棟へ。  中央棟は1階のホールと2階の食堂に分かれていて、まずは食堂。  当時の食堂の様子。上の写真と比べても、ほとんど変わっていません。外光を巧みに取り込み、幾何学的な装飾を取り入れるなど、ライト建築の真骨頂ここにあり。  極めつけが、天井のこの照明。珍しいこのデザイン、実はライトが考案したもの。ライトがライトをデザイン......  ......って駄洒落は置いといて(苦笑)、空間からインテリアに至るまで贅沢な造りの食堂。ここで食事を摂る生徒たちが羨ましい、と思える空間です。ちなみに、自由学園では食事はもちろん、その材料(米や野菜)も生徒たちの手で作っていたそうで、羽仁はいわゆる”労作”も教育の一環として位置付けていたようです。  ライトの建築は大谷石が多用されているのが特徴で、この暖炉も大谷石。  そして、バルコニーからは1階のホールを臨めるという。ここから下のホールに友達を見つけて、「おーい」と手を振りながら声をかける......そんな光景もあったのかも。  その1階のホールへ。ここは開校当時、毎朝の礼拝の場だったそうです。自由学園は所謂ミッション校ではないのですが、教育理念にキリスト教の精神も取り入れた羽仁の思想が浮かんできます。  この巨大壁画は、創立10周年を記念して生徒の手で描かれたもの。旧約聖書「出エジプト記」の一部ですね。  これも10周年を記念して生徒が制作したもの。「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」を体現した3人の女生徒の像だそうで、これ一つで自由学園のモットーを表しています。  さて、喫茶付き見学を希望された人は、このホールで一服。  飲み物はコーヒーか紅茶、お茶菓子はクッキーかバウンドケーキ、どちらかを選びます。今回はコーヒーとクッキーをチョイス。クッキーは自由学園生活部の手作り。  手づくりの椅子と机、そして歴史的建造物の空間でお茶する至福のひと時です。  さて、自由学園明日館と並んで見どころとなっているのが向かいの講堂......ありゃりゃ、白フェンスで覆われてるではありませんか。゚(T^T)゚。どうやら補修工事に入っちゃったようですね。  その本来見るはずだった講堂の写真。ライトの弟子である遠藤新が設計し、昭和2年竣工。大谷石を基礎部分に張り、壁はモルタル・リシン吹き付け仕上げと高価な材料ではないのですが、当時からすれば斬新な建築デザイン。  竣工当時の講堂の写真。もっとも、あれから90年も経っているのですからね、東日本大震災で耐震基準も五月蠅いですし、改修工事はやむを得ないところなんでしょう。件の明日館も、実は平成11年から2年かけて補修工事を施しているんですから。歴史的建造物を保存するのは大変なんです。注・講堂の補修工事は平成29年7月に完了の予定 そんなわけで、自由学園明日館はここまで。次回は近くにある有名大学へ、そこにも歴史的建築が目白押しです。  自由学園明日館東京都豊島区西池袋2-31-3ウェブサイトはこちら  

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  • 12 Nov
    • 【東京都・豊島区】フランク・ロイド・ライトの傑作「自由学園明日館」(前篇)

      近代建築史において欠くことができない一人、フランク・ロイド・ライト。日本でも数多くの建物を残したがその多くが震災やら戦災やらで失われており、現存しているのは僅か。帝国ホテル(中央玄関が明治村に移築保存👉こちら参照)や山邑家住宅(芦屋市・現ヨドコウ迎賓館)、そして今回取り上げる......  自由学園明日館。 あ、「あしたかん」と読みませんよ、「みょうにちかん」ですよ。 池袋駅メトロポリタン口を出て徒歩5分、繁華街の喧騒を一歩抜けると周囲は閑静な住宅街という立地に今も当時のままの佇まいを残しています。   羽仁もと子・元一夫妻がこの地に自由学園を開校したのが大正10年。昭和9年に北多摩郡久留米町(現在の東久留米市ひばりが丘)に移転後も、卒業生の諸活動の拠点として、この建物は残されます。あの関東大震災や東京大空襲を潜り抜け、現在も開校当時の姿のままに留めているというのは、ある意味凄いこと。青々とした芝生の向こうから静かにオーラを放つこの存在感、ライトは只者ではない。平成9年に国の重要文化財指定を受けます。  設計はライトと弟子の遠藤新。帝国ホテルの設計で来日していたライトに、羽仁夫妻が友人でもある遠藤を介して、校舎の設計を依頼。夫妻の教育理念に共感したライトが快諾し、大正10年に中央棟と西教室棟、続いて大正14年に東教育棟、そして昭和2年に講堂が完成して現在の形になります。  規則正しく並ぶ列柱の下は大谷石。帝国ホテルもそうでしたが、日本のライト建築はこの大谷石の多用が特徴。モダンな学校らしい風景です。  そして、幾何学的模様を施したドア。  そして、窓。  ......と外観ばっかり撮っていますが、生憎の雨模様なので、さっそく中へ入らねば。何しろ、一般に公開されていて、見学料が400円。しかし、お勧めはプラス200円払っての喫茶付き見学。月曜日と年末年始が休館日で、第3金曜日は夜間も見学できるそうです。  まずは東教室棟。教室には窓や壁に幾何学的模様が施されていて、机や椅子、棚もすべて手作り。  お洒落なデザインの木椅子。普通の学校ではまずお目にかかれまい。  菱形の窓。実は1つの教室に様々な窓の形や模様が見られるのですが、こういった細かいところにライトのこだわりが目隠れしていると思われます。  今でこそ天井に丸い照明が下がっていますが、もともとは教室に照明はなかったそうで。恐らく窓だけで採光できるようにという工夫なんでしょう。当時は周囲に何もなかったわけですし。  当時の授業風景。女子しかいませんが、もともと自由学園は女子校として創立されたもの。昭和10年には男子部もできますが、その名残りなのか現在も中等部と高等部は男子部と女子部に分かれて別学だったりします。  こちらは創立当時からあった西教室棟。いわば、自由学園が産声を上げた場所でもありました。  この教室で行われた開校式の様子。壇上にいるのが羽仁もと子。  まず前篇はここまで。後篇はこの建物のメインディッシュでもある中央部のあの部屋へ。 

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    • 今回の純喫茶?

           今回は池袋を散策。 自由学園、立教大学とキャンパスを散策し、“ふくろ”で晩酌、って感じに。 中でも、自由学園明日館はお勧め。 それも、喫茶つき見学で。 ホールで珈琲とクッキーのセットで一服しつつ、大正デモクラシーの雰囲気醸す校舎をじっくり堪能していきたい。  ブログをまとめてみる > 

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プロフィール

佐々張ケン太

性別:
男性
お住まいの地域:
東京都

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