東京近郊を中心に、たまに遠方にも脚を運んで、遊里跡やらシブい商店街などぶらりと歩いてはデジカメで撮った下手な写真を織り交ぜながら綴っています。
「●っぷる」と違って、観光案内にはなっていませんので、悪しからず。

【佐々張ケン太のセカンドブログ】

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  • 28 May
    • 【滋賀県・大津市】湖国めぐりその6・「大津」後編

      「大津」編のラストは、前回に続いて柴屋町遊廓の探索からです。         柴屋町遊廓の真骨頂は、メインストリートではなく、それから外れた裏路地。 この妓楼風の建物にもぽっかり空いた空洞が。 これも「抜けられます」的な通路かも、さっそく入ってみましょう。       すると、通りの天井から「栄の喜」という屋号らしき看板が。 もしかすると、近年まで色街として現役だった可能性も。       すると、その先にはこれまた妓楼がずらりと並ぶ光景。 辻堂の奥に見えるベンガラ色の壁など、まさしくクロでしょう......       ところで、この柴屋町遊廓ですが、戦後も赤線として続いていたそうで。 昭和30年当時の様子は『全国女性街ガイド』にも記述が見られます。   琵琶湖を売り物に発展を目論んだ大津市は案外のさびれ方で、よい芸者は京都からよそ行き〈遠出〉をつけてやってくる。花街は柴屋町で芸者は二十九名。花代は四百二十円である。 赤線は下柴屋町にあって「赤い灯」をつけた湖楽園系が六十八名。「青い灯」をつけた寿俱楽部系が六十四名。店は五十九軒ほど。   戦後もまた花街と赤線が同居していたという訳ですが、その赤線も二つの系列があったということから、戦前に上下二つの遊郭が争っていたしこりがまだ残っていたとみていいでしょう。       著者の渡辺寛氏から見ると、この大津の色街はさびれているように見えたらしく、遊ぶならすぐ隣の京都から芸者を呼ぶと断言するぐらいですから、きっと実際にそうなんでしょう。 確かに、京都にいい芸者が大勢いるでしょうし、(お金あれば)私が遊客ならそうしますね。       ところで、大津の色街というと真っ先に思い浮かぶのが雄琴温泉かと。 ちゃんとした温泉だけでなく、"特殊なお風呂屋さん"が集まる場所で有名なのですが、あそこが現在のような歓楽街になったのは昭和40年代半ばからなんですね。 つまり、赤線が廃止されてから10年程経ってからの話で、そこらへんで遊郭からの流れで続く吉原や金津園、福原などと事情が異なります。 そもそも雄琴にその類のお風呂屋さんができたのは、京都で同じ業種の出店が禁止されたという事情が大きかったようですが...... そんな感じで、雄琴を探索したところで赤線の遺構などは当然見つからないでしょうし、一日中呼び込みのボーイが所々で立っているような場所ですから散策もままならないかと。       ところでこの辺り、何だか生活感がありまくり。 洗濯物も干してあるし、ここはまだ住人が健在のようです。       玄関に架かっている「松の家」というのは恐らくかつての屋号なんでしょうね。       中には玄関が解放されているお宅もあるし。 どうやら、住人にかち合わないように、ここは風のように歩いてさっと立ち去った方がよさげです。       この裏路地、袋小路になっているのではなく、コの字というかヨの字の形になっているようです。         妓楼がそんな路地に集中しているのは表に見えないようにという配慮なんでしょう。 吉原と似た理屈かも知れません。       こちらの妓楼、先ほどのベンガラ色に対して青い壁ですが、これもまた艶な印象を与えてくれます。       「日出の家」というのは屋号でしょうか。 そして、玄関の脇に一杯鑑札が貼られています......       「料理店」の鑑札が掛かっているようで、表向きは料亭として営業していたんでしょう。       何しろ、その上に「風俗営業」とあるんですから、料理を出すという名目で実際に裏で何か営業していたのでしょう。 その何かというのは想像にお任せいたしますが......       これほどまでに色濃く妓楼が残っているのは、メイン通りからは目立つことのない裏路地という立地ゆえなのでしょう。       誰も住む人がなく、「売物件」の看板が掲げられているかつての料亭と思しき一軒。 京都のベッドタウンでもある大津ですが、歓楽街としてはさびれる一方かも知れませんね。 まあ、お隣の京都なら遊ぶ場所が多いので、そっちに向かうのかも知れませんが。       まだまだ赤線跡と思しき街並みが続きますが、そろそろ柴屋町遊郭を後にして、次に向かいましょうか。       遊郭跡のすぐそばに流れるのが、琵琶湖疏水。 向こうが琵琶湖ですが、琵琶湖に水が注がれるのではなく、琵琶湖から京都に向かって水が注がれているんですね、これが。       疎水を作っている石垣がレトロ感たっぷりなのですが、何しろ琵琶湖から京都に水を敷くようになったのが明治になってから。 実はこれ、京都の近代化に大いに貢献しました。 何しろ、天皇が東京に移ってからの京都は人口が半減してしまうほどに寂れていました。 その打開策が琵琶湖疎水で、琵琶湖から流れた水で電力を起こし、更に琵琶湖から京都への水運にも利用され、その結果として京都をモダンな街に蘇らせたんです。       疎水の両側に続くのは桜並木。 春ともなれば、見事な桜の花が咲き、見どころ満載に。 因みに、この琵琶湖疏水の見所としてもう一カ所有名なのが南禅寺がある蹴上辺りですが、できればセットで見た方がいいかも知れません。       その疏水の源となっている琵琶湖を望みながら、大津編を締めたいと思います。 もし再び訪れるなら、三井寺や延暦寺あたりも回りたいもんです。   次回は散策二日目、東海道と中山道が交差する宿場町の散策からスタートします。

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  • 27 May
    • 【滋賀県・大津市】湖国めぐりその5・「大津」中編

      前回に続いて、湖国の県都、大津。 今回はその大津に存在していた遊郭跡を巡ります。       旧東海道に並行して通っているアーケード商店街から外れた場所に、その遊廓が存在していました。 現在の地番で言うと、長等二丁目から三丁目にかけて。 当時は"柴屋町"と呼ばれていました。       この通りに飲食店が点在しており、いわば大津の夜の街といえるのですが、この通りが件の遊郭のメインストリートなんですね。       東海道の宿場町でもあったことから、当然ながら飯盛女も存在していたと思われます。 しかも、昭和5年刊行の『全国遊郭案内』を見ると、大津には 上柴地遊廓、下柴地遊廓、甚七町遊郭、そして真町遊郭 と4つも遊郭が存在していたそうですが、遊里関係のサイトを見ていると特に上柴地と下柴地の2つをひっくるめて"柴屋町遊廓"としているようです。       で、肝心の『全国遊郭案内』での記述ですが、どうもその規模がどれくらいなのか判然としないんですね(汗) 以下、その個所を引用してみます。   大津市上柴地遊廓 東海道大津市上柴地にあつて柴地遊廓と言はれて居る。(中略)古い歴史を持つだけに、随つて花街も古くから開けて居たらしい。明治初年に現在の個所に集娼妓制と成つたものである。店は陰店を張つてゐて、娼妓は芸妓と同様に送り込み花制で、廻しは取らない。遊興は時間又は仕切花制で、費用は一泊四五円で台は附かない。   大津市下柴地遊廓 同市下柴地にあつて上下両者勢力争ひの観がある。制度も費用も上下共略同様だ。   この記述から推察できることは、古くから花街も存在していたこと、明治初年に点在していた飯盛女を一か所に集めて許可地にしたこと、どうやら芸妓両本位らしいこと。 そしてここが肝心なのですが、「上下両者勢力争ひの観」とあるように、この隣接している2つの遊郭、実は上下二派に分かれて争っているらしいのですね。 そんな感じで知っちゃかめっちゃかになっているがために、妓楼が何軒あって娼妓が何人いるのかわからないという有様なのではと、(勝手に)推察しています。       メインストリートを進んでいくと、何やら立派な料亭らしき建物が見えます。 大正年間に料亭旅館として建てられた「豆信」で、何と登録有形文化財指定。 現役の料亭ですが、老舗だけに料金もお高い。 この「豆信」こそ、柴屋町遊廓というのが芸娼両本位の遊里だった生き証人といえます。       さて、再び通った道を戻ると、スクラッチタイル貼りのカフェー建築風味な建物が一軒。 しかも、左手にぽっかりと開いた空洞。 この空洞が何であるかはその後判明するわけですが......       しかし、柴屋町の凄いところ、実はメインストリートではなくそこから外れた裏路地にあるんですね。 何と、ものの見事に妓楼が並んでいるではありませんか。 これは相当な規模だったに違いありません。       さらに進んでいくと、これまたすっかり朽ち果てたとしか言いようのない姿......       そして、前回の冒頭写真のコレ。 遊里フリークのサイトではお馴染みのこの物件、これを見るがために今回の旅に大津も予定に入れたもんでした。       それにしても、この丸窓のデザインはお見事ですねぇ。       その脇には細い水路。 どうも、これが日常と非日常を分ける結界の役割をしているようです。       更に進むと、料亭のような建物も見えます。 この辺りは芸者が闊歩していたのかも知れません。       その先には酒屋さんでしょうか。 琺瑯看板が何枚も並んで掛かっています。 それも、ただレトロを演出しているのでなく、ガチで。       再びメインストリートに戻るのに、この細い通りに入ります。       鐘型の下地窓が。 そこから妓楼が遊脚を迎えていたのでしょうか。       もう一度通りを振り替えてみます。       二階の手摺にはいい感じの透かし彫りが見えます。 それにしても、生活感の跡がくっきり残っていること......       この先を抜けると、メイン通りに出るのですが......       突如として現れた「美幸クラブ」の看板。 何だか怪しそうなクラブです......       そして、出た先がなんと、先ほどのスクラッチタイル貼りの建物。 このぽっかりと開いた空洞、実は「抜けられます」だったのですね......   そんなところで、中編はひとまずここまで。 次回、更に柴屋町遊廓の散策続きます......

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  • 25 May
    • 【滋賀県・大津市】湖国めぐりその4・「大津」前篇

        湖国・滋賀の県都、大津。 地名にある"津"は「港」を意味しており、「大きな津(港)」という名の通りに古くから琵琶湖を戴く水運のかなめとして繁栄して来た街。 そして、同時に東海道と北国街道の交差する交通の要衝でもありました。 京都の隣で地味な印象(失礼)ですが、何気に見どころは多いんですね。 三井寺に石山寺、瀬田の唐橋、重伝建地区でもある坂本に比叡山延暦寺、などなど...... どれも、スケジュールの関係で回っていません(苦笑) まあ、それらは次の機会にということで、まずは旧東海道の街並みから。 江戸から数えて53番目、「東海道五十三次」のラストを飾る宿場町で、ここを過ぎれば次は京都という場所にあるのが大津宿。 当然ながら、旅人をもてなす飯盛女の存在もあったんでしょう、大津には戦前に4つも遊郭が存在していました。 遊里については次回に取っておくとして、まずは古い佇まいを残す旧東海道の街並みを軽~く見ていきましょう......   *:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆       旧東海道はJR大津駅と京阪浜大津駅の中間を横切っている通りで、"京町筋"とも呼ばれています。 京都ではテンプレの古い町名が描かれた仁丹マークの看板、まさか大津でもお目にかかるとは思いませんでした。       JR大津駅から浜大津駅に向かう途中、旧東海道との交差点にモダンな建物。 本屋さんだったようですが、すでに商売をやめている様子です。       外観からして恐らく戦前あたりの建物でしょうか。 日本瓦の屋根にスクラッチタイル貼り、アーチ型の窓という和洋折衷の妙な建物です。       古い町名が描かれたプレートが掛かっていました。 大津には所々にこうした旧町名のプレートがあり、歴史を大事にしているのをまざまざと感じさせます。       さっそく、旧東海道を歩いていきましょう。 古い佇まいが所々に残っています。       この建物を作った職人さんはいい仕事をしていますな。 古い町家ではお馴染みの犬矢来に格子窓。 特に2階の窓の膨らみ、これを手掛けるのは難しい筈......           "京町筋"と呼ばれている通り、どこか京都を思わせる町家が点在しています。 まあ、お隣がすぐ京都ですから、影響を受けない筈が無いでしょう......       京都を思わせる町家に混じって、モダンな装飾を施した看板建築も見られます。       一番、宿場町の趣を残しているのはこの辺りでしょうか。 町家が向かい合いながら並んでいます。       懐石料理を扱う「大津魚忠」という店、よく見ると登録有形文化財のプレートが掛かっています。 公式サイトには明治38年に呉服商の住居として建てられたとあります。       鍾馗様が飾られているのを見て、ここも関西であることを認識してしまいます。       その向かいにある餅菓子のお店もいいですね。 特に見所は看板......       右から「御饅頭処」と書かれているのを見ると、戦前からのもののようですね。 しかし、それよりも看板に屋根が掛かっていて、更に星形に三日月を象った台で支えていますね。 これを作った職人さん、いい仕事をしていますねぇ(中○誠之助風)       洋品店の角に立っている小さい石碑。 そこには"此附近露皇太子遭難之地"と書かれています。 日本史の教科書にも出てくる大津事件の現場はこの辺りでした。 事件の詳しい内容は各自ググっていただくとしますが、日本近代史をも動かした事件がここ大津宿の一角で起こっていたんですね。       で、今回の最大の目的である遊里跡に向かいますが、その途中にも登録有形文化財のプレートが掛かった建物が見えます。 まあ、これを書いているときに気付いたんですけどねw       この呉服店の○に"や"の字が書かれた看板も洒落ています。       何かモダンな照明の傘が掛かっています。 この灯りが灯されたのを見てみたい......       途中にキュートな教会も。 昭和6年に建てられた大津マリア教会です。       湖国・滋賀の珍味といえば鮒ずし。 その老舗の阪本屋さん、この建物も登録有形文化財のプレートが見えます。 一体、大津にどれぐらいあるんでしょう   何だか、失礼ながら大津を侮っていました(苦笑) これ、もしかすると一日がかりでじっくりと散策したほうがいいかも知れませんね。 他にも何か出てきそうだし......   そんな感じで前篇はここまで、次回は大津に存在していた旧遊郭を巡ります。  

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  • 23 May
    • 【滋賀県・近江八幡市】湖国めぐりその3・「近江八幡」後編

      "近江商人のふるさと"近江八幡の街並み、今回が後篇です。         近江八幡の恩人ということで前回は豊臣秀次を取り上げましたが、もう一人の恩人がこちらの ウィリアム・メレム・ヴォーリズ。 日本各地に一千軒以上もの建築物を手掛け、その多くが現存していますが、勿論ヴォーリズの本拠地だったここ近江八幡にも彼が設計した建物が多く残ってます。 既に前篇で池田町洋館街、 中編でも市立資料館となっている旧八幡警察署を取り上げましたが、ヴォーリズ建築はこれだけではとどまりません。       そのヴォーリズが創業した近江兄弟社の社屋が、新町通りを出てすぐの場所にあります。 因みに、先ほどの銅像はこの社屋の向かいに立っているもの。 で、この社屋には主力商品「メンターム」の資料室があって、無料で気軽に入ることができます。       建築家として有名な彼ですが、もともとは後に出てくる八幡商業学校の英語教師で、なおかつプロテスタントの伝道師でもありました。 しかし、英語教師の職を解かれたことで食いつなぐために建築の仕事とともに始めたのが「近江兄弟社」の前身にあたる「ヴォーリズ合名会社」でした。 やがて、米国メンソレータム社から日本での「メンソレータム」の販売権を得たことで、大正9年に「近江セールズ株式会社」を設立、後の「近江兄弟社」となります。       リトルナースでお馴染みのメンソレータムですが、実はヴォーリズの死後に近江兄弟社が経営破たんしたことでその販売権を手放すことになります。 やがて、会社は再建されますが、メンソレータムは既にロート製薬が販売権を持っていたことで、代わりに自社ブランドとして出したのが「メンターム」でした。 メンソレータムの類似品と思われがちですが、もともとこの商品名はメンソレータムの略称として商標登録したもの。 メンソレータムもメンタームもこの近江兄弟社で扱ってきたものなんで、決して無関係でないんですね。       さて、ここからはヴォーリズ建築のオンパレード。 まずはこちらの旧八幡郵便局で、大正10年の竣工。 郵便局自体はそれ以前から開業していて、近江八幡で最初の郵便局でした。       スパニッシュスタイルを採りながら寄棟屋根という和洋折衷の装いで、初期のヴォーリズ建築でも代表的な一軒。         ここは内部も公開しており、しかも無料。 ここでヴォーリズ建築に関する観光マップももらえます。       さて、ヴォーリズは建築のみならず、教育や病院も手掛けることになります。 こちらの近江兄弟社学園は、大正11年にヴォーリズ夫妻が創立。       中でも、あちらのハイド館は昭和6年竣工で登録有形文化財指定。 ハイドとは米国メンソレータム社の創業者の名前で、建物は彼の多大な寄付によってできたもの。 銅像はヴォーリズ夫人の一柳満喜子で、この学園の園長。 因みに、ヴォーリズも後に帰化して、日本名「一柳米来留(めれる)」と名乗ります。       当初は幼稚園として始まったこの学園ですが、後に小学校や中学校、高校も作られます。 そして、件のハイド館は現在も現役の教育施設として使われています。       その近くにある下見板張りの建物は、ヴォーリズ夫妻が晩年まで過ごした邸宅。 もともとは昭和6年に前述の近江兄弟社学園の職員寮として建てられたもの。 現在、この建物はヴォーリズ記念館として内部公開されているそうで(電話予約が必要)。       新町通りや八幡堀とともに古い佇まいを残している永原町通りに出ました。 実は左手前に見える建物もヴォーリズ建築です。       現在は個人宅になっている建物ですが、もともとは診療所だったそうです。 昭和8年築の旧岩瀬診療所。       この永原町通りもまた、重伝建地区に含まれています。 格子窓や白壁の土蔵などが続いています。 因みに、先ほど取り上げた旧八幡郵便局はこの通りの裏手にあります。       そして、古い町家ではよく見かける犬矢来。 もともと犬や猫除けとして、更には馬車がはねた泥をよけるために備え付けるという先人たちの工夫が見られます。       古い看板がいい感じです。 ここは醤油を商っていたようです。       そして、この通りの両側にヴォーリズ建築が向かい合っています。       まずこちらの旧YMCA会館。 明治40年にヴォーリズが日本で最初に設計したのがこれでした。 現在、アンドリュース記念館という名になっていますが、これはヴォーリズの学生時代からの友人の名前から。 彼の死をもって多大な寄付を受けたことで、昭和10年に現在の形に改築しました。 これも国の登録有形文化財指定。       その向かいもヴォーリズの設計で、もともとは近江兄弟社地塩寮という名の独身社員のための量でした。 こちらは昭和15年築。       その先に見える建物も実はヴォーリズ建築。 近江八幡教会といい、もともとは大正13年に彼の設計で建てられたものでした。 しかし、残念ながら焼失し、現在の建物は一粒社ヴォーリズ建築事務所が昭和58年に新たに建てたもの。       建物自体は比較的最近のものながら、どこか歴史がありそうな佇まいに見えるのは、ヴォーリズという名前の魔力によるものなのでしょうか。       さて、ヴォーリズが来日して最初に赴任したのがこの八幡商業高校(当時は滋賀県立商業学校)でした。 英語教師として生徒の人気は高く、課外活動としてミッションクラブも開いたりするほどでしたが、これが地元の古い人たちの反感を買うんですね、結局2年で職を解かれてしまいます。       しかし、新たに校舎を建てることになり、設計を受注するのですが、その相手というのが他ならぬヴォーリズだったのです。 過去のいきさつはともあれ、彼は快く引き受けるわけで、昭和15年に現在の校舎が完成します。       そんな感じで近江八幡駅に戻りますが、実は駅の近くにもヴォーリズ建築が。 こちらの近江金田教会がそうですが、こちらは昭和34年築、彼が晩年期に設計した建物です。       こうして見ると彼の残した建物には画一的な様式というのは見当たらず、複雑さがないのがわかります。 そこには、住む人や使う人のことを最優先に考えたヴォーリズの心遣いというものが感じられます。   そんな訳で「近江八幡」編はひとまずここで締めることにしましょう。 駅からはやや遠いですが、古い街並みや建物好きには恐らく満足できる街であることは間違いありません。  

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  • 22 May
    • 【滋賀県・近江八幡市】湖国めぐりその2・「近江八幡」中編

      前回に続いて、近江八幡編。 今回はメインの重伝建地区を中心に回ります。       その重伝建地区の中心にあたるのが、こちらの新町通り。 正面に見えるのが八幡山です。 織田信長が築いた安土城が本能寺の変から間もなく炎上、その3年後に替わって新たにあの八幡山の山頂に築城したのが豊臣秀次、太閤秀吉の甥にあたる人物でした。   秀次というと、後に関白になるも豊臣秀頼が誕生したことで秀吉に邪魔扱され切腹してしまうという最期の方が有名で、それにまつわるエピソードについても"殺生関白"と呼ばれたとかあまりいいイメージが無かったのですが、実は史実かどうかはっきりしてないんですね。 ただ、近江八幡の人にとって秀次はいわば大恩人。 八幡山城から見下ろすこの地に城下町を整備し、"楽市楽座"という政策を採って各地から商人たちをこの街に集めます(楽市楽座って何ぞやという人は各自でググってくださいね、学校でも歴史の授業で出てきましたねw)。 のちにこの街から"近江商人(八幡商人)"を輩出するきっかけを作ったのが秀次だったのです。       江戸時代になり、成功を収めた八幡商人たちが建てた商家や街並みは現在に至るまで色濃く残ります。 こちらの旧西川家住宅もその一つで、宝永3年に建てられたこの建物は国の重文。 暖簾に描かれているのは屋号「大文字屋」の紋で、蚊帳や畳表を商っていました。       森五郎兵衛邸。 最初は煙草や麻布、後に呉服も商うようになり、「近江屋三左衛門」の屋号で江戸や大阪にも進出します。 日本橋室町に村野藤吾設計の近三商事ビル(昭和6年築)がありますが、「近三」とは「近江屋三左衛門」の略。 さらに、当初は「森五ビル」という名前でした(もうお分かりですね、森五郎兵衛の略です)。       天保11年完成の旧伴家住宅。 屋号は「扇屋」で、こちらも畳表や蚊帳などを商い、江戸や大阪にも出店。 明治に入って「扇屋」は没落し、後に市立図書館を経て、先程の西川家住宅とともに内部を一般公開されています。       その向かいにある洋風建築は旧八幡警察署で、明治19年築。 昭和28年にヴォーリズ設計事務所の設計で大幅に改築したのが現在の建物、そう、これもヴォーリズ建築です。 現在は市立資料館として公開しています。       新町通りを出て、八幡堀に向かう途中に出くわす洋風建築が。 明治10年に建てられた八幡東学校の校舎で、現在は白雲館という名で観光案内所となっています。       当時としては立派な校舎なのですが、その建築費用の大半は八幡商人の寄付によるもの。 そこには、売り手と買い手の関係だけでなく社会貢献も重視する近江商人のモットーが強く表れています。 まあ、子弟を日本各地にはばたく商人として育てるために、立派な学校を建てようという意志が大きかったのでしょう。       やがて、時代が進むにつれて建物が荒れ果てていくのですが、このままではもったいないということで一旦解体修理して、創建時の形に復元したのが現在の建物です。 それにしてもこうした立派な校舎で学べたなんて、近江の子供たちが羨ましい......       さて、おまちかね、ここで有名な八幡堀へまいりましょう。       この八幡堀は、秀次が八幡山に築城する際に整備した堀で、琵琶湖水運の要衝としても大いに役立ちます。 かつて湖上を往来する船がこの堀を伝って近江八幡の城下町に入っていきました。       白壁の土蔵群と石垣が往時を偲ばせます。 時代劇のロケでも利用されているというのも頷けます。       そういえば、あちこちでスケッチしている人を見かけます。 やはりこの風景、絵になるんでしょうかね......       八幡堀を渡った先にあるのが日牟禮八幡宮。 近江八幡の地名はこの八幡様から採ったもので、勿論この街の総社。       この境内もまた重伝建地区に含まれていて、荘厳な佇まい。 当然、八幡商人の信仰を一身に受けているわけですね。       この日牟禮八幡宮はまた、2つの火祭りが有名。 一つはこの八幡宮で古くからおこなわれる「八幡まつり」、もう一つは秀次が八幡山城に入ってから行われるようになった「左義長まつり」。 後者は、もともと織田信長が安土で始めたもので、後に安土から移住した町人が「八幡まつり」に対抗してなのかここでも行うようになったもののようです。       では、中編の締めくくりとして、秀次が築城した八幡山へ上りましょう。       山頂へはこのロープウェイに乗って上ります。       因みに八幡山城は、秀次が切腹した年に廃城になっており、城郭を示す建物はほとんど残っていません。 ここは西の丸があったと思われる場所、ここからの眺望が絶好です。       眼下には琵琶湖が、周囲は田園風景が広がっています。       八幡山城のすぐ近くには瑞龍寺というお寺がありますが、これは秀次の生母が建立したもの。 秀次が切腹した際、その妻子たちがことごとく処刑されますが、唯一生き残った生母が出家して日秀尼と名乗り、彼らの菩提を弔ったのがこのお寺です。       更に瑞龍寺の境内からは市街地も臨めます。 よく見ると、街の周囲に田畑が広がっており、街は新町通りを中心に碁盤目状に整備されているのがわかります。 もともと田畑ばっかりだったこの場所に、秀次は京都や奈良と同じような条里制の街割りを敷いて、安土から町人を移住させたことで、城下町ができました。       再びロープウェイに乗って、眼下の街を見下ろしながら下山です。         そんな訳で、中編はここまで。 後篇は秀次と並ぶ"近江八幡の恩人"、ヴォーリズの建築物を次々と回っていきます。  

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  • 21 May
    • 【滋賀県・近江八幡市】湖国めぐりその1・「近江八幡」前篇

        ふとしたことで2連休を頂き、久々に泊りで遠出しようということで、どこに行こうかと悩んだ末に選んだのが、"湖国"滋賀県。 中でも、今回は湖南から湖東と呼ばれるエリアの街を散策しました。 タイトなスケジュールで、じっくりとまではいきませんでしたが(苦笑) それでも、近江商人を生んだ古い街並みも見ることができましたし、お馴染みの遊里跡の散策も。 しばらくは「湖国めぐり」:と題して取り上げますので、お付き合いの程を。   その第一弾は、京都から新快速で30分程の近江八幡から。 近江商人の街といえば真っ先に出てくるのがこの街で、その古い街並みが重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。 しかし、近江八幡にはもう一つの顔が。 それは、"青い目の近江商人"と呼ばれたアメリカ人、ウィリアム・メレル・ヴォーリズの本拠地ということ。 ヴォーリズという名前は、建築を学んだ人なら恐らく聞いたことがあるはずと思いますが、何しろ日本全国で設計した建物は一千軒以上で、その多くが現存しているのもうれしい話。 そんな感じで建築家のイメージが強いヴォーリズですが、彼が当初来日したのは建築家としてでなく英語教師としてなんですね。 そして、塗り薬で有名なメンソレータムを広めた実業家で、彼が設立した近江兄弟社は現在も存在している会社で、学校や病院も経営しています。 もっとも、メンソレータムの販売権は会社の経営不振で手放しており、現在はメンタームを販売しているのですけどね。 彼が"青い目の近江商人"と呼ばれたのはそんな彼の業績からなのですが、ここ近江八幡はとりわけヴォーリズ建築が多い。 古い街並みとともに、この近代建築をも愛でながら散策する街、それが近江八幡です。   *:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆       近江八幡の古い街並みは駅から離れていて、徒歩だと30分程かかるので、バスで移動。 観光客が多く向かう古い街並みとは反対方向の池田町洋館街から。 ヴォーリズが初期に設計した住宅が並んでいる通りです。 赤い煉瓦が続いていますが、これはホフマン窯で焼かれた煉瓦の中でも焼き過ぎて膨張し使えないとされたものを再利用したもの。 建築コストを無駄にせず、むしろうまく生かしたヴォーリズの真骨頂がここにあります。       赤煉瓦塀の中に納まっている住宅群はいずれも個人宅として使われており、我々は外からしか見ることができません。 こちらの和風と思える住宅もヴォーリズの設計で、もともとは近江家政塾として使われたもので、昭和11年築。       その隣が、ヴォーリズ最大の協力者であった吉田悦蔵の邸宅(吉田邸)で、大正2年築。 ギャンブレル屋根とクラシカルな玄関ポーチを備え、ヴォーリズ建築のモデル住宅として建てられました。 因みに、先ほどの旧近江家政塾を経営したのが吉田悦蔵夫人。       二本の煙突が目立つ旧ウォーターハウス邸も吉田邸と同じ大正2年築。 先程の旧吉田邸とともに登録有形文化財に指定されています。 ウォーターハウスはヴォーリズとともにプロテスタントの伝道で湖国内を回った人物。 アッと、言い忘れましたが、ヴォーリズはまた伝道師の顔も併せ持ってました。       そして、折れ曲がった先にに見えるのが、大正10年築の旧ミッションダブルハウス。 もともとは近江兄弟社の前身である近江ミッションの社員寮で、当時としては珍しい二世帯住宅。       当初、ここに住んでいたのはヴォーリズのご両親、それに自身の建築事務所の技師でした。 ヴォーリズ自身も初期の頃にはこのすぐ近くに自邸を構えていたそうです(残念ながら現存せず)。       池田町洋館街の近く、「京街道門前通り」とありますが、そっちも見ておきましょう。       観光客が向かう古い街並みとは反対側の場所にありますが、こちらは寧ろ地元民向けの商店街といったところでしょうか。       オロナイン軟膏の琺瑯看板があまりにもサビサビで、不気味ですw       結納の店って何でしょう       昭和センスなババ服の店。       観光地から微妙に外れていますが、ちゃんと古い佇まいも見せていて、流石です......       「紙平本舗」と書かれた木の看板の店、名物は丁稚羊羹。       そして、滋賀の名物といえば「飛び出し坊や」。 最近はバリエーションが豊富になっていますが、中でも滋賀では街中どこにもある代物。       ローソクの看板がいい感じです。 そういえば、ここは門前町の通りでしたっけ、そんな訳で線香やろうそくを扱う店も当然のようにありますな。       古い道標があります。 この通りはまた、かつて京街道でもありました。       「そば処日牟禮庵」と書かれた看板があります。 お蕎麦屋さんですが、何気に登録有形文化財のプレートが見えます。       突き当りに見えるのは願成就寺の山門、この通りはこの寺の門前町だったのですね。 ここから先は折れ曲がって京街道が続きますが、ここで引き返して、次回はこの街のメインである重伝建地区へ向かいます。      

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  • 15 May
    • 【東京都・台東区】戦災のない東京の風景「おかず横丁」

      前回、日本で二番目に古いとされる「佐竹商店街」を取り上げましたが、さらにその近くには戦前の建物が色濃く残る下町の商店街がありました。 今回はそんな商店街を散策した時の写真をば。       その商店街、おかず横丁という名で知られていますが、正式名称は「鳥越本通り商店会」。 前回の佐竹商店街から南へ1分程歩いた場所にあるので本当に近い。 地番は台東区鳥越。       のっけから冒頭のゲートの前にある酒屋さんがいい感じの建物です。 銅板葺きに戦前からあると思しき木の看板。 実はこれ、おかず横丁のプロローグに過ぎないということを歩いていくうちに知ることに......         このおかず横丁、佐竹商店街と同様に明治・大正から続いている商店街で、点々と散在していた店舗が関東大震災の折の復興事業を経て、現在のような商店街の体をなしていったというのですね。 東西に全長230mという決して長い商店街ではないのですが、戦前は「鳥盛会」「商正会」と2つに分かれていたのを昭和24年に一本化、現在に至ります。       そして、「おかず横丁」という名の通り、お惣菜を扱う店が軒を並べています。 この周辺には町工場が多く、そこで働く女性が多かったということで、家事を減らすためにこうした店が増えていったというんですね。       しかし、この商店街の真骨頂は、戦前の建物が色濃く残っている所にあります。 戦前の建物がほとんど見当たらない佐竹商店街とは対照的。 この鳥越界隈もまた、戦災を免れたエリアです。       中でも看板建築とか香ばしいバラック建ての店舗が多いこと。 すぐ近くの佐竹商店街でもほとんど見かけなかったのに、ここは本当に歩き甲斐があります。       こうした銅板葺き店舗が通りを歩くと所々に出くわすんですね。 関東大震災では甚大な被害に遭ったエリアだけに、この商店街も防災を人一倍に意識して整備されてきた証です。       この装飾は洒落ていますね。       今では下町情緒たっぷりの商店街ですが、当時としてはハイカラな街並みだったことを思わせます。         街並みを愛でながら歩いているうちに、おかずなんかどうでもよくなってしまいますw おっと、それではいかんがな(~-~;)ヾ(-_-;)       この通りで最も圧巻だったのがこちら。 これ以上のインパクトは他にないでしょう......       一歩路地に外れると、典型的な下町の風景。 前述のように町工場なんかも目にします。       何だかんだ言っているうちにおかず横丁の出口に。 恐らく歩くだけで5分もかからないだろう、それぐらい短い商店街。 しかし、街並みは濃い。       しかし、商店街から少し外れたところにもこんな看板建築があったりして、この界隈は奥深い。       結局、写真を撮りまくっただけで総菜を買ってなかった罠(笑) すみません、今度来たときは買いますんでw   そんな訳で、散策するだけで楽しいおかず横丁......おっと、ちゃんとお金落として商店街に貢献も忘れないようにしなくちゃね。   おかず横丁の周辺の街並みもまた戦前が色濃く残っているのですが、これについてはまたの機会に取り上げる予定です。

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  • 11 May
    • 【東京都・台東区】日本で”二番目”に古い商店街、らしい「佐竹商店街」

      前回まで戦災を免れた「台東三丁目」エリアを回ってきましたが、ここまで来たらやはり外せない商店街へ。       佐竹商店街。   都内でも代表的な全蓋型アーケード商店街、長さは330mに及ぶそうで。       アーケードが延々と続きますが、まっすぐピーンと伸びてる訳でなく、微妙にカクンカクンと折れ曲がっているのがわかります。 それにしても、「明治時代に見世物の大仏があった」っていうぐらいだから、昔はかなりの繁華街だったんでしょう。       ところで、商店街の名前になっている「佐竹」って何ぞやということですが、江戸時代、この辺りに秋田の大名だった佐竹右京太夫の屋敷があったことに由来しています。 明治時代になってその大名屋敷はなくなるんですが、その代わりにこの一帯が東京でも屈指の繁華街になったそうで、それが佐竹商店街の起源なのでしょう。       もっとも、今では典型的な昭和の香り漂う下町の商店街なんですけどね。 今どきのチェーン店は皆無で、ほとんどが個人商店だったりします。       「ゼイタク煎餅」の「重盛永信堂」って、確か人形町の店でしたっけ。 まさかここにもあったとは......   ところで、この佐竹商店街、何でも 「日本で2番目に古い商店街」 であることを標榜しているんですね。 一番を自慢したがるのはよくありますが、"二番目"を自慢するなんてのは謙虚なのか、それとも...... ちなみに、一番古いのは金沢の片町商店街だそうで。       昭和テイストな店構えの「川島ふとん店」。       甘味と軽食の「白根屋」。       洋傘・ショール・毛皮・雑貨の「長崎」。       そういえば、所々に見られるフクロウの絵ですが、実はこの商店街のシンボルマーク。   何でも、首が180度回ることから見通しが利き商売繁盛につながり、福が来る縁起の良い鳥ということで、2000年に採用されたものだそうで......   ......ってことが公式ページに書いてありました。         それにしても、自転車が多いこと......       "ファミリースナック"ってネーミングは珍しいですね。 まあ、喫茶店なんですが。       "モードショップ"って洒落ていますが、要はババ服の店なんでしょうねw       これまたエロチックな河童の絵ですな。       ここまで来ると出口はすぐそこ。 近くには地下鉄大江戸線の新御徒町駅があります。   新旧交代をを繰り返しつつも地元に根付いている「佐竹商店街」。 歩いてみるだけでなく、ここでお金を落として商店街に貢献してみてはいかがでしょうか。 そんな訳で「台東三丁目」界隈はここまで。   佐竹商店街の公式サイトはこちらhttp://www.satakeshotengai.com/      

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  • 09 May
    • 【東京都・台東区】戦災のない東京の風景「台東三丁目」・その3

      前回に続いて、「台東三丁目」を歩いています。 今回は商店街を歩いてみます。       商店街というと「佐竹商店街」でしょうが、ここは後に取っておいて、まずはこちらの「末広会商店街」から。       レンガで舗装されているこの商店街、台東三丁目の中央を東西に緩いカーブを描きながら続いています。       薬屋でお馴染みのこのポップドール。       まだ朝早い時間帯で開店前の店がほとんど、そのせいかゆるい感じです。       ここにも銅板張りの建物が見られます。 この商店街、戦前からあったようで、戦災を免れながら細々と続いているようです。       「ぢ」「ちくのう」専門指導の薬屋さん。 「ちくのう」といえば、このCMを思い出してしまいます......   もしかしたら、この薬屋さんでも扱っていたんかしら           こちらの銅板建築は珍しい3階建て。 当時は3階建てなんて認められていなかったはずだから、屋根裏部屋だと押し通して建てたんでしょう......       2階の窓にステンドグラスのようなものが見えます。       商店街の裏通り。 バラック建てが続いています。       ちょっとモノクロにしてみました。 違和感なさ杉w       この一軒は凄いですね。 フランケンシュタインのような継ぎ接ぎ感......       「京サイン」の看板もいい感じです。       再び住宅街に入ります。       看板には「加藤帽子付属品株式会社」とあります。 帽子の付属品だけを作る工場といったところか。                 鬼瓦が立派なこと......       住宅に混じって町工場があるという、典型的な下町の風景です。     さて、次回はいよいよあの商店街に入ってみましょうか。    

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  • 03 May
    • 【東京都・台東区】戦災のない東京の風景「台東三丁目」・その2

      前回に続いて、「台東三丁目」の街並みを歩いています。       看板建築が5軒続いている一角。 その中でも、右端の建物がひときわ目立ちます。       サビついていて何だかわかりにくいのですが、実は森永のエンゼルマーク。 ここは牛乳屋さんだったようです。       それよりもポイントなのが、この「マミー」の看板でしょう。       その横のビルは、朽ち果てるのを待っているかのように建ってます。       先程の看板建築を別の場所から眺めてみます。 奥の廃墟(?)ビルのオンボロさが却って目立ってしまいますw       さらに進んでいくと、洋館風の建物。 これも戦前からあったのでしょう。 奥にも出し桁造の町家が見え、その対比が面白い。       屋上のトタン建てはあとから付け足したんでしょう。 2階の縦長窓が綺麗に並んでいていい感じです。       モルタル貼りの看板建築(これも屋上に付け足し)に出桁造の商店。       このアングルからだと、迫力のある出桁ですね。       看板建築がずらりと並ぶ一角に入ります。 途中で歯抜けがありますが、そこにも同じようなのがあったんでしょうか。           ここからは、様々なファサードの看板建築が見られます。       正面に見えるのが、アーケード商店街の「佐竹商店街」。       前回の冒頭写真に出てきた病院建築と銅板建築が一緒に並んでいます。       外観は左官鏝仕上げにアーチ形の意匠。       そして玄関回りにはエンタシスの円柱と「西郷醫院」と旧字体の看板。 この辺りにまだ医院としての威厳っぽさが残っています。       そのはす向かいには銅板建築"三兄弟"。       アーケードを背にこの通りを眺めてみます。 左側に例の「西郷醫院」がちらっと見えます。         「下谷青色申告会会員」のプレート。 〇に"下"と"青"を象ったロゴです。       バラック家屋の奥に「西郷醫院」。       奥にもバラックが並んで見えます。       空き地にはいったい何があったんでしょう...... 古い建物が少しずつ消え去り、新しい建物に変わる"新陳代謝"がこの界隈でも静かに進行している感じです。   そんな感じで、次回も「台東三丁目」続きます。

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  • 02 May
    • 【東京都・台東区】戦災のない東京の風景「台東三丁目」・その1

        昭和20年3月10日午前零時7分、325機のB-29爆撃機が東京下町一帯を襲撃。 その際、高度1600~2200mから投下されたのが6トンもの高性能焼夷弾で、全体で1783トン。 この空襲で一夜にして東京下町一帯が焼失、特に被害がひどかったのが本所、深川、城東、浅草の四区でほぼ全域、さらに下谷、日本橋、向島の各区と続いた。 しかし、周囲が空襲で甚大な被害を受けながらも奇跡的に延焼を免れた地域もあった。 そのうち、JR御徒町駅の東側、とりわけ台東三丁目や小島、鳥越一丁目の一帯は下町にありながら戦禍を逃れた奇跡的なエリアである。 そんなこともあって、この界隈には戦前にタイムスリップしたかのように戦前の古い建物が所々に残っている。 今回は、そんな街並み「戦災のない東京の風景」シリーズということで、このエリアの街並みを取り上げていきます。   *:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆     まずは地下鉄日比谷線「仲御徒町」駅を降りてすぐの台東三丁目エリアを散策します。 山手線「御徒町」駅から歩いても5分ほどの場所です。       「台東区台東」という地番は、昭和39年の住居表示実施によって誕生したもので、それまでは「御徒町」とか「竹町」という地番でした。 いまでこそ駅名にしか残っていない「御徒町」ですが、ほんの半世紀前には実際に存在していた町名だったのです。       さっそく銅板葺きの店舗を発見です。 錆びている箇所もあって、相当の年月を物語ってます。       銅板建築や看板建築に加え、出桁造の町家が残っているのは、戦災から辛うじて免れている証拠。 中でも、台東三丁目のエリアはその密度が濃い。       ところで、旧町名の「御徒町」ですが、これは江戸城や将軍家を護衛する「御徒」とよばれる下級武士が多く住んでいた場所だったことから付けられたもの。 上級武士と違って馬に乗ることも許されず、町人と同様の長屋住まいで、給料だけでは賄いきれずに内職していたそうで、時代劇で武士が傘貼りとかしているシーンがまさしくそれ。 そんな「御徒町」ですが、エリアとしては現在の台東区台東から東上野、上野あたりまで広がっていました。 そんな武家町だった「御徒町」が明治に入って市街地に変わります。       戦前建築の意匠をいいドコ取りしたような一軒。 1階がスクラッチタイル貼りで2階の戸袋が銅板、さらに出桁造という外観で、おまけに斜め真鍮のドア。 もともとは何を商売にしていたのでしょう...... それにしても植木がいい具合に成長していることw         向かいは長屋状に連なる店舗建築群。       下見板張りの町家の前には植木が並ぶという、典型的な下町の光景。 この写真を撮る前、住人さんでしょうか、水やりをしていました。       2階の雨戸も木。 今どきこういうのはお目にかかれません。       トタニズムもここまで来ると芸術の域に入ってしまいます。 奥行きが意外にありますね。         おや、面白そうな家屋だ。       2階の円窓に目が行きがちですが、玄関の引き戸もいい感じですね。 腰の部分も実はスクラッチタイルだったりします。       それにしても、意外と濃ゆい町ですな、台東三丁目って。 この先もまだ、香ばしい街並みが続いていきます。 そんな訳で、「台東三丁目」編の開幕です。

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  • 23 Apr
    • 【千葉県・香取市】利根水運で繁栄した「佐原」街並み散策記(その5)

      利根川水運で繁栄した佐原には古い街並みを残しており、観光客の足もそこに集中しているわけですが......       前回に続いて小野川沿いの街並みを歩いています。 忠敬橋に戻る途中に出くわした「木の下旅館」は、創業が明治34年という老舗旅館。 腰のタイル貼りがいい感じです。       もともとは船頭さん相手の宿だったようですが、現在は一泊二食付きで6300円ということで、歴史ある旅館にしては安いぐらい。 もし泊りで訪れるなら、ここで宿泊というのも一計かも知れません。       さて、この「木の下旅館」の辺りからYの字に延びる狭い路地が見えます。 小野川沿いの街並み保存地区からは目と鼻の先。 実はこの街並みが今回のメイン。       商都として繁栄したぐらいですから、当然として遊里も存在していました。 この辺りがかつての色里と思われます。       狭い路地を進んでいくと、スナックが集結している場所に。 観光客はもっぱら表の顔といえる小野川沿いばかりに目が行きますが、ここはいわば裏の顔。 観光客の姿はおろか、人っ気もありません。       実は、昭和30年に出た渡辺寛著『全国女性街ガイド』に佐原の色里に関する記述が見られます。 以下、全文を引用。   釣師がよく遊ぶ。それだけに地味で年増で三十名。花代は二百五十円、次時から二百円、美形更になけれども千葉県にめずらしくしっとりとした色里である。       この記述から、佐原には花街が存在していたことが伺えます。 果たして、この場所がその花街だったかどうか断定はできませんが、雰囲気からするとそう推測したほうが話が進みやすい(というか都合がいいw)       既に廃墟と化したと思われる建物の妖しいドア。 入口の上に目をやると......       風俗営業(料理店)   この鑑札。 やはり人集まるところに遊里在り、ここ佐原も例外でなかった...... それにしても、どんな商売をしてたんでしょうかねぇ。       いい感じの古いお宅ですが、2階の手摺に注目。       この透かし彫りですからね。 あとはご想像にお任せしますが......       突き当りに出ると、飲み屋に混じって美容室なんかも。 遊里で働く女性にとって髪結する場所は必須ですからね。       こうした狭い路地にも旅館の看板が見えます。 転業の類かどうか、ここでは断定は控えますが、場所柄にしてどうなんでしょうか。       ここにも、雰囲気がありそうな玄関が。 船乗り相手の旅館だったのか、色街の流れを踏んだ転業なのか......       近くにはもう一軒銭湯が。 「柳湯」とあるんですが、何だか奥まった場所ですね。       舗装してない細い通りを奥へ。 途中に犬小屋? 取り敢えず、中に犬いないのを確認して先に進んでいきます。       確かに、銭湯の入口はあるんですが、これって現役でしょうか? すると、隣から犬🐶の吠える声がしてきて、うるさいのなんの(-_-;) あまり吠えられてもなんなので、ここで引き返します。       別の路地に行くと、「日下部洋服店」の向かいが空き地になっています。 実は、別のサイトで佐原の遊里の遺構があったと紹介されていた場所ですが、一足遅かったようです。 そのサイトを見ると、結構いい感じの小料理屋で、先ほどの風俗営業の鑑札も残っていましたが......       で、路地を出ると、小野川沿いの古い街並みに出る訳で。   小野川を中心に古い街並みを残してきた商都の表の顔、しかし、それを支えてきた裏の存在というにも足を運んでいただけたら...... 表の顔と裏の顔のギャップをまざまざと感じてしまった、今回の佐原散策でした。  

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  • 21 Apr
    • 【千葉県・香取市】利根水運で繁栄した「佐原」街並み散策記(その4)

      北総の"小京都"こと「佐原」、その街並みの中心は、利根川に注ぐ小野川の両岸沿いに広がっています。       前回に引き続いて、小野川沿いの街並みを歩いていきます。 川岸の両側に並ぶ柳の木がいっそう風情を醸し出しています。       忠敬橋のすぐに建つ旧油惣(あぶそう)本店は、寛政年間から続いた酒造業で、明治以降は東京へ運ぶ米や砂糖、酒の問屋も兼ねていたそうで。 店舗は明治33年の大火後に再建されたものだが、隣の土蔵は何と寛政10年(1798年)建造。 これも千葉県指定の有形文化財。       その対岸に並ぶこちらの建物も県の有形文化財。 正上醤油店は寛政12年創業で、もともとは食用油を扱っていたが、天保3年から醤油業に。 店舗もこの年に建てられたもの。       利根川の水に恵まれた佐原は、かように酒や醤油の醸造業が多く集まっているのですが、考えてみれば同じ利根川沿いの銚子や野田も醤油の街でした。 当然、千葉県は醤油生産高が全国で第一位。       この先もこうした昔ながらの街並みが続き、柳並木がその風情を演出しています。 まあ、川はそれほどきれいではありませんがw       しかし、そんな中にこういうモダンな髪結屋さんに出くわすんですな。 バルコニーのカーブが素敵なことに......       玄関回りもタイル貼りで覆われ、斜め真鍮のレトロなドア。 観光船の船頭さんの話では、やはり昭和初期に建てられたものだそうで。       その先にはお馴染み、タバコ屋のレトロなカウンターも。 この店も相当古そうです。       「たばこ」のフォントもさることながら、その下の「御進物はたばこ」という文字もいい感じ。 たばこが贈り物として買われた時代があったものです。       そして、カウンター下のタイル貼りも。 ショーケースには煙草の代わりに人形が並べられてますが。 禁煙とか嫌煙の波が押し寄せている昨今、タバコ屋さんも相当数を減らしているんじゃないかな。 大っぴらにたばこを店頭に並べるところも見なくなった気がします。       今度は反対側の通りを忠敬橋のほうに戻りながら歩いていきます。 所々の欄干に人形みたいなのが......       そういえば、東京ではあまり鯉のぼり見なくなった気もします。 地方都市の佐原ではまだまだこうした光景が残っていて何よりですが。       歩いている途中で、件の観光船に出くわしました。 こういうの風情があっていいもんですよ......       これ見よがしに赤い丸ポストなんてのも、こういう場所ではテンプレになってます。       歩いていくと、妙に目立つ市松模様のタイル貼りが。 こういうの見ると、つい反応してしまいますが......       外観からは何かを商っていたと思われる商家だと思われますね。 期待していた遊里関係ではないのは確かです。 あ、佐原にも一応ですが、遊里は存在していました。       ファンタの看板がサビサビの香ばしい店舗も。       反対側にも年代物の看板がズラリと。 キリンビールの琺瑯看板は初めて見た気がします。 「酒は長久 ビールはキリン」       ちょうどマンホールが前にあったので、一緒に撮影。       古い街並みを見ているつもりが、いつしかこうした香ばしい物件ばかり撮ってます。 勿論、好きですよ、こういうの。 キリスト教看板に交通安全の看板......       この絵柄はいつの頃のものなんでしょうねぇ...... あ、壺のことではありませんよ。   という訳で、今回はひとまずここまで。 その後、例の観光船に乗って、小野川の優雅な30分ほどの舟旅を堪能しました。 ほんの一部ですが、動画にしてみました。    

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  • 20 Apr
    • 【千葉県・香取市】利根水運で繁栄した「佐原」街並み散策記(その3)

      引き続き、古い街並みが残る「佐原」です。         今回は、かつての商都の中心となった小野川沿いへ。 言っておきますが、時代劇のセットではありませんw       佐原が"商都"として発達した背景には、「坂東太郎」と呼ばれた利根川に注がれるこの小野川の存在がありました。 更に、この川に交わる香取街道もあって、ここは交通の要衝だったんですね。 利根川水運などで物資がここに集積し、 お江戸みたけりゃ佐原へござれ 佐原本町江戸まさり という謳われていた程の繁栄ぶり。 ここに、「小江戸」と称される街並みが出来上がるのです。       小野川沿いの街並みは歩くのももちろんですが、実は舟で周遊するコースも。 幟が立っている辺りから「小野川観光船」というのに乗って、30分ほど水上から街並みを望むことができます。       観光船乗り場の前には、伊能忠敬が17歳から50歳まで住んでいた旧宅が残っています。 "佐原が生んだ偉人"と最初に紹介しましたが、本当の出生地は九十九里でした。       当時の佐原は天領(幕府の直轄地)で、武士は一人も住んでおらず、街の取り決めはすべて町民の自治によるものでした。 その中で経済的に影響力が強かったのが伊能家で、酒や醤油の醸造や貸金業を営んだほか、利根水運にも関わっていました。 佐原のこの伊能家に17歳の時に婿養子として入り、伊能家当主として50歳まで過ごします。       伊能家旧宅には土蔵造りの店舗の他に、書院や炊事場、土蔵が当時のまま残っていますが、特に店舗は忠敬が婿養子に入る前に建てられたものだそうで、築200年以上と推測されます。 勿論、佐原では最も古い建造物で、国史跡に指定されています。       炊事場。       書院。       店舗。   あ、言い忘れましたが、伊能忠敬旧宅は嬉しいことに、無料で入れますぞ。       店舗からは小野川と沿岸の街並みが一望できます。 しかも、目の前には船着場が。 地元では「出し」と呼ばれるそうで。 今では観光船の乗り場になっていますが、かつては伊能家専用の「出し」だったのでしょう。       忠敬が「大日本沿海輿地全図」を手掛けるのは50歳を過ぎて隠居してから。 寛政12年閏4月19日に蝦夷地の測量に出発し(現在、この日が「地図の日」となっている、つまりブログを書いた前日、昨日ということになりますな)、亡くなるまでの大事業が始まります。 中庭に銅像と一緒に立っている碑文に書かれているのが   「この一歩から」   彼の一大事業も一歩から始まり、その一歩一歩の積み重ねなのだと、勝手に解釈しています。 実際に、彼の測量は歩測によって距離を、天体観測によって方位や経緯を図るという地道なもの。 それでいて、完成された地図は現在のものと比べても正確さが変わっていないという精度の高さなんですからね。       さて、伊能忠敬旧宅を出て、小野川沿いの街並みを歩いていきます。 旧宅の前に掛かっている橋は樋橋(とよはし)。 よく見ると、橋から水が落ちていますが、その音から「ジャージャー橋」とも呼ばれています。       もともとは農業用水を田んぼに送るための樋(とよ)でした。 後にその上に人が通れるように橋となったのが現在の姿。   実際に水が落ちる音を動画にしてみました。       樋橋の前に建つ、洋館風の一軒。 もともとは何だったんでしょうねぇ...... お医者さん?       看板が右横書きなので戦前風かと思ったんですが、どうやらリノベした店のようですね。 建物自体は昔のまんまだと思いますが。       その向かいにあるコンクリート造りの建物が伊能忠敬記念館。 忠敬のことをもっと知りたい人は立ち寄ってみるのもいいかも、ですよ。 確か、入館料300円でしたかね。 あ、私は結局入らなかったんですが(笑)     そんな感じで、今回はひとまずここまで。 次回は、小野川沿いを進んで、街並みウォッチングですぞい。    

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  • 19 Apr
    • 【千葉県・香取市】利根水運で繁栄した「佐原」街並み散策記(その2)

      前回から始まった「佐原」散策編、今回はいよいよ"街並み保存地区"に突入です。         佐原が重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)に指定されたのが平成8年。 実は、関東地区からは初の選出でありました。 てっきり川越が先かと思ったのですが、佐原から遅れること3年経ってからだったのですね。 (因みに、関東では他に茨城県真壁、栃木県栃木、群馬県桐生と中之条で、東京と神奈川は未選出。東京と神奈川の未選出は何となく納得でしょうかね。) 佐原の重伝建地区は小野川沿いを中心に、この香取街道沿いにも広がっています。       佐原はいわゆる"看板建築"の宝庫。 まだ重伝建地区の中心に入っていないこの場所にも、こうしたモダンな建物が見られるので、レトロ建物ファンには垂涎ものの場所といえます。       こちらも年代物の看板建築と申しましょうか、円城寺本店さん。 御髭のような唐破風のパラペットが面白い。       小野川に近づくにつれ、古い出桁造りの商家がボチボチ顔を出してきます。 佐原の重伝建地区には、戦前はもとより明治、大正、更には江戸時代の建物がガチで残っています。       香取街道は先に続く香取神宮の参道にあたるのですが、実は県道も兼ねていて、車の通行量が多い。 観光客も集まる場所ながら車が容赦なくビュンビュン飛んでくるので、気が抜けません(-_-;) そりゃぁ、1時間に1本しか鉄道が通らない街だもの、佐原は、というよりは千葉県全体がれっきとした"クルマ王国"ですから。 お隣さんまで行くのに車を使うぐらいですからね(んなアホな?)       イオニア式の銀行建築ですが、今ではお蕎麦屋さんとして使われている建物。 お察しの通り、旧千葉銀行佐原支店だった建物で、昭和4年建造。       その先には出桁造りの商家がずらりと並んでいますが、手前2軒は千葉県の有形文化財指定。 手前が福新呉服店(明治28年築)、蕎麦屋の小堀屋本店(明治33年築)。 先程の銀行建築にも看板がありましたが、あちらが別館でこちらが本店。       そして、重厚な観音扉をもつ土蔵造りが明治13年築の正文堂書店で、こちらも県指定の有形文化財。 もっとも、現在は書店ではない店が入っていますが。       正文堂書店から先ほどの商家の並びを眺めるとこんな感じ。 屋根付きの袖看板が残っているのってそうお目にかかれません。       その向かいの中村屋商店は何と安政2年の建造。 しかも、現役の雑貨屋さんであります。 丁稚が店先で水まきしている光景が出てきそうな店構えです。       香取街道と小野川が交わる忠敬橋。 ここがかつての市街地の中心にあたります。       忠敬橋を渡って、更に香取街道を進むと、相変わらず古い街並みが続きます。       昔ながらの荒物屋さんも。 以前も取り上げたことがありましたっけ、"小間物"とともにこの"荒物"という言葉、使われなくなりましたね。       こちらにも重厚な観音扉の土蔵造りがありますが、こちらの中村屋乾物店は明治25年築。 実はこの頃、佐原市街地が大火に見舞われ、多くの商家が焼けてしまったんですね。 その教訓なのか、防火対策にこうした重厚な造りになっているんでしょう。       この辺りは緩いカーブになっていて、それに沿って下見板張りの出桁造り商家と看板建築が並ぶこのシーンがシャッタースポットといえます。 手前に蜷川家具店の看板が見えますが......       こちらがその本体。 昭和初期の建造と思われますが、てっぺんのアーチ状が目を引きます。       しかし、それに負けていないのがこちらの方林堂さん。 このトンガリ具合、間にアーチ窓が3つ並んでいる外観が素敵です。 こちらは昭和8年築、現在は薬屋さんが入ってます。       そして、佐原の顔というべき建物がこちらの"三菱館"。 前は三菱銀行佐原支店だったのでこういう呼び方になっていますが、もともとは川崎銀行佐原支店でした。 大正3年に建てられたものですが、日本橋にあった本店と同時開業だったんですね。 それだけ佐原という街は金融の面でも重要視されていたということでしょう。       赤レンガ造りに聖堂葺きのドームというと、何となく東京駅を連想させてしまいます。 入口のファサードは花崗岩製。       昔ながらの商家に混じって看板建築と重厚な銀行建築が向かい合う光景。 これだけ見ても、かつての"商都"佐原を象徴していると言ってもいいでしょう。 "県都"千葉と並ぶ賑わいだったと言われると、納得してしまいます。       三菱館を過ぎても、こうした看板建築にも出くわすわけです。 よく見ると後ろが土蔵ですね......       この辺りまでが香取街道では重伝建地区の範囲になりますか。   ここで忠敬橋まで引き返して、次は小野川沿いの街並みを散策します。

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  • 18 Apr
    • 【千葉県・香取市】利根水運で繁栄した「佐原」街並み散策記(その1)

      東京から成田まではそれなりに本数があるJR成田線。 しかし成田を過ぎて銚子に向かう列車は1時間に1本と激減、車窓の景色も田畑など"かっぺ(笑)"なローカル線的色合いが濃くなります。       その途中にあるのが「佐原」。 東京から成田で乗り継いで1時間半以上なので、通勤圏というよりは小旅行に適している場所。 千葉県佐原市の......あ、10年前に大合併で香取市の一部になったんでしたね、その中心駅になっています。 駅舎は平成23年に建て替えられた2代目です。       駅前通りを進んで途中に諏訪神社の鳥居に遭遇しますが、そのまままっすぐ進みます。       駅から歩いて10分ほどの公園のど真ん中に立っている銅像。 佐原が生んだ"偉人"、伊能忠敬の像です。 大正8年に製作されたもので、像はもとより台座も立派なものをこしらえてもらっています。       伊能忠敬......恐らくその名を知らぬ者はいないでしょう。 日本全国を回り、測量を重ねながら日本初の精密な地図を制作した人物。 しかし、もともとは地元佐原の商人で、名主だった人物。 こうした後世に残る事業をなすのは、そんな家業を引退した後、50歳を過ぎてからだったんですね。 ここの像は日本各地で測量している姿を描いたものですが、交通手段が徒歩、しかも機械などなかった時代、彼の死後に弟子たちの手で完成された地図は誤差も僅かという正確さだそうで。 そんな彼も来年、没後200年を迎えます。       公園から高台に上り、展望から市街地を眺めます。 咲き誇る桜の向こうには利根川が眺望できます。 そして、その手前には昔ながらの街並みが残っており、関東で初めての重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)に指定されています。       高台から降りて、古い街並みに向かいますが、その途中には香ばしい佇まいのブリキ店。 北千住にあった「ブリキヤ」といい勝負のガラス戸です。       脇道に入ると、いい感じに古い銭湯がポツンとあります。 観光マップにも出ていて、「金平湯」とあります。       入口脇の豆タイルが鮮やかです。       恐らく利根川の風景を描いた絵でしょうか......       で、夕方に再び立ち寄りましたが、何と現役でした。 ひとっ風呂入りましたが、建物自体が小さいこともあって浴室も小さめ、浴槽には4人入れば一杯という広さでした。 お湯は熱め、しかし中は激渋で、レトロ銭湯ファンなら佐原散策の帰りに一度入るのをお勧めします(特に脱衣所が見どころ満載で、いまだに藤製の丸い脱衣籠があるという)。 因みに、入浴料は300円で、東京より100円以上安い、というよりは東京の銭湯が高いのかも知れませんね。       金平湯さんの近く、文政8年に創業という佐原の地酒「東薫」の蔵元、東薫酒造さん。       ここは無料で酒蔵見学ができるので、入らせてもらいました。       貯蔵タンクが並ぶ蔵の内部は壮観です。       「昭和43年製造」とあります、50年近く使われています。 しかし、ここにはそれ以上の年代物のタンクも。 しかも、このタンクはすべて手作りだそうで、容量も一つ一つ異なるとか。       そういえば、五月人形飾っているおうちってまだあるんだろうか?       既に節句は過ぎていますが、雛人形が並べられています。       よく見ると、結構賑やかな光景だこと。       戦前の琺瑯看板、と思ったら戦後のものだそうで。       ここでは試飲もできる訳ですが、車を運転している人はダメですよw       実は佐原、あの東日本大震災でかなり被害を受けており、この酒蔵も瓦が落ちるなどの被害に遭ったようです。 崩れ落ちたと思われる瓦に書かれているメッセージには、復興への思いがにじみ出ています......       近くにもう一軒酒蔵が。 こちらの馬場本店は天和年間の創業だそうで。 全盛期の佐原には周辺も含めて酒蔵が36軒もあったという、いわば酒処でもありました。       何しろ利根川水系と水に恵まれている立地、当然ながら酒造りには持ってこいの場所ですからね。   そんな訳で「佐原」編スタート、次回は街並み保存地区に入ります。  

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  • 13 Apr
    • 【東京都・中央区】銀座の老舗でたまには背筋を伸ばして「トリコロール本店」

      今日は「喫茶店の日」。 明治21年のこの日に、日本初の喫茶店が東京の上野で開業したらしい。 実は偶然にも、INSTAGRAMで毎回書いている「日刊佐々張」でも、やはり上野の純喫茶「ギャラン」を取り上げたが、上野に喫茶店が多いのも道理で頷ける。 何しろ、喫茶店発祥の地が上野だったんだもんw   今朝のFM TOKYO「クロノス」に純喫茶コレクションの難波里奈氏が出演され言及されていたが、100円で缶珈琲が飲める時代、喫茶店で飲む珈琲は数百円。 仮に喫茶店の珈琲が500円だったとしたら、400円は店の外観、内装や雰囲気、客に対する気配りなどといった、いわば付加価値。 そう考えれば、喫茶店で珈琲一杯のために出かけるのも悪くはないでしょう。   前置きが長くなったが、今回取り上げるのも喫茶店、前回までの流れで銀座から一軒紹介したい。       恐らく知っている人は多いと思いますが、トリコロール本店。 開店が昭和11年で、オーナーの柴田文治は、あのキーコーヒーの創業者。 銀座でこれまた老舗の喫茶店「カフェー・パウリスタ」の横浜店にも勤めたことがあるそうで。 手前味噌で恐縮ながら、実はこの銀座の「パウリスタ」も一度行ったことがあります。       老舗の重みを感じさせる煉瓦造りの外観。       そして、何よりもこの重厚な回転扉。 この扉を開ける瞬間から背筋が思わず伸びてしまいます。       確か2階が禁煙席だったと思いますが、入ったときは満席だったそうで、喫煙席の1階に通されました。       因みに、2階はこんな感じ。 レンガ造りの壁に暖炉、調度品や壁の絵画、照明と、どれをとっても気品の高さが漂います。         所々に飾られている古い写真。       これは恐らく終戦直後の銀座でしょう。 空襲で焼けた箇所が所々に見られ、痛々しさがあります。 まさにこれから復興しようとしている最中の様子。       前の店舗はこんな感じだったみたいですね。         看板にローマ字で"KIMURA COFFEE"とありますが、創業者の柴田がかつて「木村コーヒー店」の店主でした。 その「木村コーヒー店」こそ、後のキーコーヒーになるわけです。       これは創業当時の店舗でしょうか。       この店の定番がこちらのエクレア。       小ぶりながらも、サクッとしたパイ生地の中にはカスタードクリームがぎっしり。 老舗の格調高き雰囲気を味わいつつ、背筋を伸ばしながらゆっくりと堪能したい。       内装もさることながら、正装の店員の応対が丁寧なのも好感。 さすがは銀座の老舗だけあります。       銀座の喫茶店ものがたり [ 村松友視 ] 712円 楽天  

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  • 11 Apr
    • 【東京都・中央区】銀座”タテモノ”めぐり。(其の豫)

        銀座は昼だけでなく、夜の街でもあります。 夜ともなれば、バーやクラブのネオンが瞬く大人の街に変貌するわけですが......   もっとも、銀座の高級クラブで豪遊なんて、我々庶民にはとてもとても......( ̄ー ̄; そんな訳ではないんですが、今回の銀座"タテモノ"探訪は我々庶民でも気軽に利用できそうな場所をば取り上げます。 しかも、いずれも老舗中の老舗ですぞ。       まず、和光の交差点から新橋の方向に向かって進んだところ、銀座七丁目交差点にあるライオン銀座七丁目ビルから。 世間では「銀座ライオン」の名で知られるビアホールの総本山がここ。 実はこの建物、昭和9年築で、もともとは大日本麦酒本社社屋でした。 大日本麦酒、聞いたことない人多いかと思いますが、現在のサッポロビールとアサヒビールの前身の会社です。       全体を見るとこれって戦前建築なのって思いそうですが、屋上に僅かですが当時のアールデコ調の装飾が。       そして、端っこに塔屋みたいなものもありますが、これも竣工当時からそのままの形で残っています。   しかし、この建物の見所は外観ではなく、中なんです。 それも、1階のビアホール。       これは凄い(ノ゚ο゚)ノ         正面の巨大な壁画はガラスモザイクを使用。       正面だけではありません。 壁には所々にガラスモザイク画が......       アールデコ調の装飾が荘厳な趣を出しています。       床全体はモザイクタイル貼り。       柱の煤け具合にこの建物の歴史の長さを感じさせます。       この建物の設計は菅原栄蔵で、彼の作品にはフランク・ロイド・ライトの作風を取り入れることが多い。 ここも例外でなく、上部の装飾にライトの影響が色濃く出ています。 但し、菅原栄蔵が直接ライトから指導を受けたということはなかったようです。       ここで供されるのはもちろん、"男は黙って"サッポロビール。         こういう空間で飲むビールは格別なものがありますな。 タテモノが最大の肴であります。   さて、もう一軒取り上げたい場所があります。       銀座の細い路地。       これが夜ともなれば、一気に雰囲気が変わってしまいます。       もう一つの主役、バーのルパン。 昭和3年創業という、銀座では老舗中の老舗のバー。 もっとも、当初は貴族の名前で開業したかったそうですが当局からダメ出しを食らったので、この名前にしたそうですが。 これにはお上も「貴族の次は泥棒か」とあきれたみたいです。       建物自体は戦後のビルで特段どうということはないのですが、このドアを開けて入ってからが凄い......       地下の店舗へ入るのですが、どこかのダンションに潜入する気分です。       これがまたシブい。 老舗の雰囲気が充分出ています。       カウンターの奥には書棚。 何だか重厚な本が置いてあるような雰囲気......       ボックス席はこれまたムーディーです。       しかし、「ルパン」を有名足らしめているのがこの3枚の写真。 林忠彦が撮影した3枚の写真の顔ぶれに注目。       織田作之助。       坂口安吾。       そして、とくに有名なのがこちらの太宰治。 まだ新進気鋭の作家だった太宰に「俺も撮ってくれよ」と頼まれて撮ったのがこの一枚。 戦後無頼派と称された三名の作家、いずれも破天荒な生涯でみな早世してしまうんですね。   もっとも、このバーに入った人の顔ぶれは錚々たるものばかりで、上記3名に留まりません。 文壇だけでも、 里見弴・泉鏡花・菊池寛・久米正雄・永井荷風・直木三十五・武田麟太郎・川端康成・大佛次郎・林芙美子 といった名前が出てきます。 他にも画壇では 藤島武二・藤田嗣治・有島生馬・安井曽太郎・岩田専太郎・東郷青児・岡本太郎 といった面々、更に 古川緑波・小山内薫・宇野重吉・滝沢修 といった演劇界の重鎮もここに顔を出していたそうです。       ここに来たらまず頼みたいのがモスコーミュール。 銅製のカップにウィルキンソン製のジンジャーエールで割ったウォッカを入れたもの。       そして、坂口安吾がよく好んで注文したゴールデンフィズ。 卵黄を使ったカクテルですが、卵臭さがほとんどなく、飲みやすい。       そうこうしているうちに、銀座四丁目交差点の夜景がまばゆい時間に。 銀座の夜はまだ続きます。     佐々張写真館   ところで、銀座には「ルパン」と並ぶ老舗バーがもう一軒ありました。       こちらのボルドー。 前に取り上げた中銀カプセルタワービルの近くにあるのですが、こちらは「ルパン」より1年早い昭和2年の開業。 夏ともなると、緑色で覆われる光景がお馴染み。       このバー、タテモノも創業当時のまま。 入口アーチ形の重厚なドアの周りは石造り。 しかし、そのドアの高さが1.8mしかないんですね、長身の方は屈んで入らなければなりませんw まあ、あの当時は平均身長も低かったので、これが丁度良かったのかも知れませんが。       もっとも、このバー、昨年暮れに閉店してしまったんですね...... 山本五十六も入ったこともあるバー「ボルドー」、一度入ってみたかったなぁ......       果たして、この建物、どうなってしまうんでしょう...... 残してほしいものですが......

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  • 10 Apr
    • 【東京都・中央区】銀座”タテモノ”めぐり。(其の参)

      其の壱、其の弐に続いて、銀座"タテモノ"探訪。 ここまで、銀座に残るレトロ物件を取り上げてきましたが、何もそればかりではございません。 銀座には"珍"建築と呼ばれるものも何軒がありまして、今回はその代表物件を取り上げます。       まずはこれ、前回の電通銀座ビルから外堀通りを新橋へ向かって進んだところにあります。 静岡新聞・静岡放送東京支社ビル。 普通のビルが建ち並ぶ中、ここだけが浮いていますw       一本の円柱からまるで木の枝か魚の骨みたいに張り出している箱。 その円柱にはエレベーターや階段が納められ、それぞれのフロアへ通じているそうです。       で、この建物は昭和42年竣工なので、築50年と意外に古い。 設計は"世界のタンゲ(笑)"こと丹下健三。 実は、似たような建物が山梨にもあるそうで(山梨文化会館)。   ところが、これに負けて劣らない"珍"建築がやはり銀座にあるんですね。       その静岡新聞ビルから、今度は御門通りを築地に向かって進みます。 そこで出くわすのがこちら、中銀カプセルタワービル。 鶏の巣箱みたいに小さい箱が凸凹しながら積まれていて、やはり周りから浮いていますw この建物は昭和47年竣工で、築45年とこれまた古い。 そして、設計したのが丹下健三の弟子にあたる黒川紀章。 師匠も師匠なら、弟子も弟子という典型、もしかすると先程の静岡新聞ビルに対抗するつもりで建てたんでしょうか......       この建物、140個ものボックスがボルト留めされており、1個1個が交換できるように想定されていますが、実際に交換されたという話は聞いたことがありません。 そして、見ての通りネットが掛かっていますが、どうやらこの建物にも老朽化というのが待ち構えているようで、建て替えの話も出ているそうです。   静岡新聞ビルに中銀カプセルタワービル、これらの建物はメタボリズムと呼ばれる潮流に乗った建物で、あの当時は本気でこうした建物が主流になると考えられていたそうです。 しかし、実際にはそういうことはなく、むしろ周りからは浮いた存在に。 時代を先取りし過ぎたといったところでしょうが、すでに半世紀も経っているんですね。 特に中銀カプセルタワーは、むしろ老朽化で存続の危機に立たされている有様。 果たして、この先鋭的とされた建物の行方は如何に   ところで、こうした"珍"物件と同じ時期に、銀座を代表するとある建物が登場しているんですね。       数寄屋橋のソニービル。 見た目からすると新しいビルに見えるのですが、実は築50年だそうで。 竣工が昭和41年で、芦原義信の設計。 芦原は東京芸術劇場や駒沢オリンピック公園の管制塔なども手掛けた建築家です。       戦後の焼け野原から創業した東通工が前身で、国産初のテープレコーダーやトランジスターラジオを誕生させたソニー。 あれから20年経った年に創業者の盛田昭夫と芦原が手を組んで建てたのがこのソニービル。 しかし、数寄屋橋のシンボルだったこの建物もこの3月で営業を終え、解体されることに......       ソニービルのフロア構成は独特で、各フロアの床面を4つに区分し、それぞれが4分の1の高さずつ下がっていく構造。 芦原はこれを"花びら構造"と名付けています。       エレベーターで一気に上に上がれば、あとは各フロアを楽しみながら少しずつ下まで降りていくことができる訳で。 このビルを訪れる人にとって、これは上から舞い落ちる花びらのように下のフロアに下がっていくわけで、このネーミングの妙といえます。       そんなビルも解体を待つ身ですが、その後は跡地に公園として開放し、5年後には新しいソニービルが竣工される予定とか。       古い建物がそのまま残るものもあれば、取り壊されてその上に新たな建物ができたり。 銀座は常に変化し続けています。      

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  • 06 Apr
    • 【東京都・中央区】銀座”タテモノ”めぐり。(其の弐)

      前回に続いて、銀座の街を散策。       銀座四丁目交差点から南下し、花椿通りへ。 花椿といえば......     これですね。 "東京、銀座、資生堂"のマークは花椿をモチーフにしたもの。 明治5年、福原有信がこの地に「資生堂薬局」を開業したのが始まりで、現在の化粧品業界に手を伸ばしたのは少し後。 最初は調剤薬局としてのスタートでした。 明治35年には薬局内にソーダファウンテンを導入してソーダ水とアイスクリームの販売を開始しますが、これがのちの「資生堂パーラー」の源流。 一つ前の写真に戻り、通りを挟んで右側が本社が入る銀座資生堂ビル、左側がパーラーが入る東京銀座資生堂ビル、何だかややこしいですねぇ......       花椿通りに入ると、椿屋珈琲店やうどんの店が目立つ建物がありますが、実は昭和9年竣工の建物であることに気付く人は少ないんではないでしょうか。       この第一菅原ビル、本性は菅原電気株式会社という会社のオフィスビル。 スクラッチタイル貼りで、2つの円窓と細長い窓がいいアクセントになっています。 設計は吉田恭二、昭和モダニズム建築の一つであります。       花椿通りの一つ裏手の通りが交詢社通り。 その名の通り、福沢諭吉によって結成された社交クラブ「交詢社」があったのがこちらで、現在もこの交詢ビルディングの中に入っています。       現在のビルそのものは真新しいものの、中央の入口部分には建て替える前の外壁の一部を保存したものが嵌め込まれています。 もともとは昭和4年に建てられたアール・デコ装飾の歴史的建造物でした。       尖塔アーチ型をした入口の上にある「交詢社」の看板は当時のまま。       歴史的建造物の名残を留めるためのファサード保存の典型ですね。 建て替える前は重厚かつ気品が高い建物だったんでしょう。 建て替える前の姿をリアルで見たかったなぁ......       交詢社のはす向かいにあるこの建物もレトロ物件の一つ。 昭和4年築の丸嘉ビルです。       最近までPIAGETという宝飾ブランドが入っていて、看板に惑わされていると、戦前建築だったということに気付かないんですね。 もともとは袋物商だった丸嘉商店だった建物。       所々に見られる装飾に加え、パラペット部分にスパニッシュ瓦が使われているのが特徴で、ここにも歴史を感じさせます。       最近は過労死問題でお騒がせの電通本社が入っている電通銀座ビル。 その前身である「日本電報通信社」の本社ビルとして昭和9年に建てられました。       過労死問題といったゴタゴタをさて置いて、建物自体は見所が多い。 エントランス上部には星形の社章、サイドには男女を象ったレリーフが見られます。 男性が広目天、女性が吉祥天という神話のキャラクターになっていて、"広告の神様"を表しているそうです。       コーナーの丸みが重厚なイメージを和らげている感じです。 しかし、最大の見どころは外観ではなく中にあります......       1階のエレベーターホール、これが見事なのです。       何と、壁面が荘厳なモザイクタイル装飾で、しかも竣工当時のまま。 こういう立派な建物をこしらえている会社が、いまでは「W民」と並ぶ"ブ●ック企業"の代表になっているという皮肉。 一体、何やってんだか......(;´Д`)   そんな訳で、銀座タテモノ探訪、まだ続きます。  

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佐々張ケン太

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