東京近郊を中心に、たまに遠方にも脚を運んで、遊里跡やらシブい商店街などぶらりと歩いてはデジカメで撮った下手な写真を織り交ぜながら綴っています。
「●っぷる」と違って、観光案内にはなっていませんので、悪しからず。

【佐々張ケン太のセカンドブログ】

★KENTAの写真倉庫★
過去に歩いた街並みの写真の忘備録的サイトとして、Ownsにても公開中なので、そちらも併せてどうぞ。
不定期更新中です。

渋で純な喫茶店
過去に訪問した純喫茶の忘備録サイト。
時々当ブログと同時に連携して記事を掲載している場合あり。
不定期更新中ですが、更新頻度は亀のごとく遅いですw

@sasabarikenta twitter
以前は"amebaなう"とかにもつぶやいていたが、現在はtwitterのみ。
ブログの更新情報だけでなく、外に出歩いている際には実況していたり、何らかの毒を吐いていたり(⁉)していますw
なお、前述のように"なう"は開店休業状態なので、そっちにフォロー申請しても無駄です(ほとんど削除してますんで)。

※コメントは承認制です。記事内容に関係のないものなどは掲載しませんので悪しからず。

※同様に、読者申請も承認制です。承認は申請者のブログを見て判断していますので、それも悪しからず。
  • 20 Jan
    • 【静岡県・熱海市】昭和が残る大温泉街「熱海」散策記(その5)…旧赤線「糸川べり」・中編

      前回に続いて、熱海の旧赤線「糸川べり」こと中央町界隈。ここは、カフェー建築が集中して残っているエリア。そんなに広くないので、目標の物件は簡単に見つかるはずです。   ハイ、この辺りですね。観光客で賑わう正月の喧騒も、ここだけは全く無関係。静かに時が止まったかのような存在感を見せてくれます。   上に屋号らしき文字がかすかに残っているのが見えますね。「つたや」と書かれています。もっとも、本やCD、DVDを扱う店ではありませんw扱うものは同じ娯楽でも、生々しく肉感タップリなやつです   そして、角のレリーフには屋号の通りに蔦の葉が使われています。波型の模様とアールという見事な外観、これぞ赤線建築といえます。   通りを挟んで反対側のこちらも負けていません。壁のレリーフは白波の海上を舞う鷹か鷲といったところでしょうか。そして、戸袋に描かれているのは何の花でしょうかね。   何しろ熱海は戦前から知られた大温泉街、当然ながら湯治客が羽目を外しに集まってきます。勿論、客の奪い合い、客引きババアがあの手この手を使って遊客を店に呼び込むわけです。それだけでなく、こうして外観をより派手目に見せることで客の気をひかせるのもあったんでしょう。   先程の「つたや」の並びにもカフェー建築が続いています。それも2軒も。   上にはお隣の「つたや」と同様、屋号らしきものが書かれたと思われる痕跡。そして、1階と2階の間に小さい回転窓が2つ。これって隠し部屋でしょうかね。一体、その中でどんなことが行われていたことか......   こちらの波型に象った外壁の凸凹、吉原にあったあの建物(こちら参照)と同様に女体を表したものなのか。妙に艶めかしい曲線に見えてしまうのは、場所柄のせいなんでしょうかね。あと、窓の左に円窓の跡がかすかに見えるのがお分かりでしょうか   数軒の飲み屋が入っているデカい長屋風の建物も遺構といっていいでしょう。   剝がれかけているかのようなグレーの外壁、汚れ具合もいい感じです。   それにしても、正月休みだというのに通りには人っ気がほとんどいません。まあ、ほとんどは起雲閣とか寛一お宮の像とか、熱海城とか秘宝館あたりに人が集まるのですからね。こんなところに足を運ぶのはよっぽどのもの好きな人ぐらいか。そんなのが約一名、ここにいるんですが(笑)   遊里には付き物の床屋さん。その2階の外壁がパステルカラーで彩られた豆タイルで装飾されています。赤線とくれば豆タイル、これがなければね。   一面、青とピンクの市松模様で彩られていて、見た目美しい。窓の周りにもパステルグリーンのタイルが敷き詰められています。それにしても、横浜曙町のスナックといい、鶴見入船のカフェー建築といい、神奈川からここにかけてこの色がよほどお好きなんでしょうか。それとも流行だったのか。でも、この色の組み合わせは好きです。   入口に女給が立って客を呼び込んでいる光景が浮かんできそうです。 で、中編はここまで。次回は後編、「糸川べり」のランドマーク的存在のあの建物が登場します。もっとも、いまは存在していないんですけどね。

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  • 19 Jan
    • 【静岡県・熱海市】昭和が残る大温泉街「熱海」散策記(その4)…旧赤線「糸川べり」・前篇

      引き続き「熱海」散策編です。 ※過去の記事(その1) (その2) (その3) 関東有数の一大温泉街ですから、当然ながら遊里もしっかりと発達していて、現在もその名残りがちゃんと残っています。中でも有名なのがかつての赤線地帯だった中央町界隈で、通称「糸川べり」。   冬でも温暖な地でもあり、この辺りは早咲きの桜で有名で、この細い川の両側に60本ほどの桜の木が並んでいます。すでに花を開いているのも見えますね。毎年1~2月にかけて「糸川桜まつり」なんてのも開催されるほど、と言っても今年で第7回だそうなので、最近になって始まったものですが......   もっとも、60~70年前のこの界隈ではむしろ"卑猥な花びら"が満開だったわけで。他の色街はあっさりとした紹介に徹する『全国女性街ガイド』も、この熱海に関しては記述量が比較的に多めで、事細かに紹介されています。筆者の渡辺寛氏がここで美味しい思いをしたのか(爆)、それほどまでに魅力的な遊里だったのだろうと察します。   以下、その記述をば。 特急もお停りになろうという昨今の熱海は、まさにお遊び天国。その種類たるや、以下に相述べます通り。熱海といえばだれでも知っているのが「糸川べり」―。東海道線にならない前の熱海は至極のどかな湯の町で、そこの酌婦らは「ざるそば」と呼ばれていた。その「ざるそば」が関東大震災後、糸川をどぶ板でふさいで玉の井風の集娼を形成「どぶ板を鳴らして出てくるパーマネント」なんて当時のモダンガールが網を張りはじめたのが、昭和25年の大火で丸焼け。焼けた跡には、糸川べりに柳並木を植え、ネオンきらめく新宿風の色里に変わった。   〔七十四軒に約三百名。若い子が多く〈平均年令二十二歳〉、部屋も清潔になり大半が温泉つき。お遊びが千円、泊りが十時から三千円、十二時から千八百円が相場。宿へ連れ込むと、このほか女の素泊料五百円~八百円がいる。松竹、早見、梅の家、金波などが古い店。検診は火曜日〕   「糸川べり」だけでこれだけの記述ですからね。その変遷は上記に述べた通り、戦前に東海道線がここまで敷かれたことで熱海の温泉街が一気に活気を増し、それとともに玉の井風の私娼街ができたのが始まり。昭和25年の熱海大火で焼失すると、この界隈は新宿二丁目にも似たネオン街に生まれ変わります。   ちなみに、熱海は戦後RAAと呼ばれる進駐軍相手の慰安施設に指定されていて、熱海大火の同じ年に朝鮮動乱が勃発すると、御殿場をはじめ近隣の米兵たちの遊び場として活況を増していきます。「糸川べり」の赤線はそんな流れで発達したのでしょう。   この周囲だけでも、RAA関連なのか、カフェー建築と思しき建物が多く残っているわけで、ここまで載っけてきた写真の物件も「クロじゃねぇの」と思えるものばかり。しかし、これはまだジャブ程度に過ぎない......   「糸川べり」の赤線遺構が残っているエリアはさほど広くなく、そんな中でも特に目立つ物件も少なくありません。赤線時代を思わせるようなゲートの骨組みが残っていますが、これ今回の散策で初めて知った罠w   そのゲートの脇に残る一軒もまさしく遺構でしょうか。   3つの小さい円窓は、もしかすると顔見世のためだったんでしょうかね。   そのお隣が「ジャズ喫茶ゆしま」さん、一見するとスナックとかバーに見間違いそうな外観ですが、純然たる喫茶店。かなり長くやってそうで、もしかすると当時からあったんではないでしょうか。この日はお休みでしたが、訪れたくなる一軒です。   実は熱海に3回ほど散策に訪れていますが、いずれの訪問もこの「糸川べり」は必ずと言っていいほど立ち寄っています。何しろ「赤線」の存在はその土地にとっては恥ずべき"黒歴史"みたいなもん、地元民にとってはすぐに消し去りたいと思ってる感が強かったりするわけで。そんな感じで、遺構が次々と消えゆくわけで、年々そのスピードは増している状態。こちらのように住人がいるところはまだいい方、主がいなくなればすぐに取り壊されかねないからね。そして、一地方都市だから大丈夫だろうと思っていた熱海も例外ではありません。 という訳で前篇はここまで。長くなりそうなので、続きは次回へ。  ジャズ喫茶ゆしま熱海市中央町5-9

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  • 17 Jan
    • 【静岡県・熱海市】昭和が残る大温泉街「熱海」散策記(その3)…熱海銀座のストリップ劇場編

      引き続き、熱海散策編。 ※過去の記事(その1) (その2) 今回は、熱海のメインストリートともいえる......   熱海銀座 「銀座」とあるように、ここが熱海一の繁華街という位置づけ、でしょうかね。もっとも、現在はシャッター街になりつつありますが。   片側通行の狭い道路に車がビッシリ( ̄_ ̄ i)歩いている人より多いんじゃ......   かつて映画館だった建物がまだ残っています。  3年前に撮った写真には、「ロマンス座」という看板が掛かっていました(現在は撤去されています)。館名から成人映画館かと思われがちですが、普通の映画館でした。まあ、あの時点ですでに映画館は閉館してしまっていて、ババ向けの洋服屋さんが入っている状態でしたが。熱海には最盛期で8軒もの映画館があったそうですが、ロマンス座を最後に映画館はゼロに。   これも3年前の写真。昭和のセンスが漂う外観の建物がありましたな。両側の円筒みたいなの、中は螺旋階段なんですかね。   こんな戦前のものと思われるモダンな建物もあったっけ......   はい、温泉街に付き物の"大人の劇場"ですね。その名もアタミ銀座劇場。   ピンクショーのフォントがなまめかしいです。   看板には"Strip Shou"とあります。スペルが違う気が......   ショーケースには何やら妖しいものも混じっていますね ところでこの劇場、何と閉館の危機が(詳しくはこちらのツイッターを参照)現在、踊り子は二人なのだが、その一人は入院で復帰が困難に、そしてもう一人も体調不良とのことで、1月は休業だとか。(そして、そのツイッターで知ったのだが、歌舞伎町のTSミュージック、広島の第一劇場も閉館と)この手の劇場もいよいよ絶滅危惧種の色濃くなります......   これも温泉街に付き物の射的、スマートボール。この日はお休みのようですが健在ですね。 向こうに何やら行列が......   その行列の正体がここ。これまたレトロ感たっぷりの洋食店の「宝亭」です。こちらは正月もしっかりと営業中で、空き待ちが出るほどの人気。   この店で特に人気が昔ながらのカツカレー。実は、前回の訪問時にここを訪れていただいています。   これがその時にいただいたカツカレー。    向かいに見える熱海商工会議所は、イオニア式の付け柱で装飾された戦前の銀行を思わせるレトロな建物。で、調べたらやはりそうだったみたいで、その前は横浜銀行熱海支店だったようです。    宝亭熱海市銀座町5-10 アタミ銀座劇場熱海市銀座町5-5 

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  • 15 Jan
    • 【静岡県・熱海市】昭和が残る大温泉街「熱海」散策記(その2)…熱海銀座への坂道編

      前回に続いて「熱海」の散策編。熱海駅から坂道を下って、熱海銀座へ向かいます。   この坂道、「駅前本通り商栄会」という商店街のようです。さっそく歩いていきましょう。   その坂道の途中に佇むレトロな旅館が2つ並んでいます。「竜宮閣」はいつ頃の旅館でしょうかね。   「家庭的な和風旅館」のフレーズがどこか昭和的です。   いい感じな木とガラスの引き戸。木の看板を見る限り、戦前からありそう。   お隣の「三景莊」もいい感じの玄関です。こちらは戦後まもなくでしょうか。「5000円より」とは宿泊料でしょうか、それにしても安い。   こちらの煤けた看板もいい雰囲気です。   坂道に沿ってビルが弧を描くかのように建っているのがわかります。そして、年季が入っています。   よく見ると、微妙にガラス窓の高さがずれているのがわかります。坂に合わせて建てるとこういう感じになるという証左でしょう。   そのビルの1階に店舗が並ぶという構図です。   昭和的な壁のユニオンビルの入口。2階より上は住居なんでしょうかね。   熱海の土産物といえば温泉まんじゅうだけではありません。海に面していることもあって、干物の店も多い。   店頭に置かれていた、からすみの干物。ボラなどの卵巣を塩漬けにして、塩抜きした後に天日干しにして乾燥させた珍味。店で試食してみたが、塩味がやや強めで酒のつまみに合いそう。結局、1本買いました。   こちらは綺麗なカーブを描いたビルですね。中の様子はどんな感じなんでしょうね。   途中に温泉のボーリングが所々見られるように、熱海市民にとって温泉は身近なもののようです。   ユニオンビルの全景はこんな感じ。横にデカいですね。   こんなところに前回触れた「豆相人車鉄道」の熱海駅舎跡地があったんですね。こうしてレールの上で3人がかりで押して車両を動かしていたんですか。小田原から熱海までこんな感じなので、相当な重労働でしょうね、当然ながら給料も弾むわけです。そうした人件費がかさんだことで、蒸気機関車の牽引に切り替わるんですが。   更に坂を下ると熱海銀座ですが、ちょっとわき道へ。   右側のビル、明らかに窓ガラスの位置がずれているのがわかりますね。   これはかなりの年代物ですね。   喫茶店か何かが入っていたんでしょうか。閉店してからかなり経っていそうです。   これでもまだテナントが入っているみたいです。   如何に坂道とうまく共存して建てているのかがわかりますね。   熱海銀座の近くにまで来たところで、これまた昭和レトロな福島屋旅館さん。実は前回の訪問時に日帰り入浴していたんです。その当時の様子についてはこちらで書いていますが、とにかく中が見ものなんです。   あの時は夕暮れで暗かったのでよく見えなかったのですが、車庫に何故か踏切の警報器があるんです。   福島屋旅館の写真が貼られています。   これは戦前の開業当時の絵ハガキですか。あの当時は木造の日本旅館という趣のようでした。   風呂場の様子の写真。当然、かけ流しの天然温泉です。   昭和30年代の写真。ちなみに、戦前の木造旅館は熱海大火で焼失してしまい、現在のような形に建て替わるんですね。  ここで入浴したいところなんですが、この日はお休みでした。まあ、前回お世話になったしね。しかし、ここは一度入っておいた方がいいですよ。 そんな訳で次回は熱海のメインストリートを歩きます。

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  • 14 Jan
    • 【静岡県・熱海市】ドアを開ければそこは別世界「くろんぼ」(咲見町)

      熱海2軒目の純喫茶は、3度目の訪問にしてようやく辿り着いた一軒。  熱海駅から坂を下って、「熱海銀座」へ向かう途中にある一軒の喫茶店。坂道に加えてカーブという位置に「くろんぼ」がある。看板には「スナック喫茶」と銘打っているように、夜まで営業しているようだ。「くろんぼ」という店名もさることながら、黒人をデフォルトしたイラストは、左巻きな言葉狩り団体なら「黒人差別だ!」攻撃しそうなところなれど、そこは昭和で時が止まったようなユル~い温泉街。目くじら立てて叫ぶほどではないと思いつつ、2つある入口のうち坂下側から入る。階段を下りて地下に入ると、あたかも洞窟に入ったかのような大理石の壁と床の店内。昭和で時が止まったような、何だか非日常の世界に迷い込んだかのような空間は、琥珀色に彩られていてシブい。洞窟に入ったかのような、とは書いたが、ひんやりとした感じではなく、むしろほのかな照明のおかげでどこか暖かい。人当たりのいい気さくなママさんと談笑しながらフルーツパフェと珈琲で一服しながら、至福のひと時。入店時には客が私だけだった店内だったが、その後に若いカップルが入店。若い世代の中にもこういうしっとりとした雰囲気に魅了して訪れる方がいるのはいいことだ。チェーン店にない個人経営の純喫茶の良さを、若い世代にも浸透できれば。そんなことを体感できる街、それが熱海であり、中でも繁華街への坂途中にあるこの店は何度も訪れたい。勿論、次回は坂上の入り口から入り、別世界の雰囲気を浸るために。  坂のカーブに沿った形で件の喫茶店「くろんぼ」が建つ。  愉快な黒人のイラストが描かれた看板。  丸みのあるショーケースには珈琲にパフェ、軽食のサンプル。  この店には入り口が2つ。実は入る場所によって辿り着く世界が違うらしい。  こちらも丸みがかった窓にはおしゃれなティーカップのセットが並ぶ。  坂下側の入り口は地階の店に通じるが、まるで洞窟探検のよう。  大理石の壁と床で装飾された店内は秘密の洞穴のよう  壁に掛かっているギリシャ神話風のレリーフ  注文したフルーツパフェキウイ、リンゴ、ミカンが盛り付けられ、見た目清々しい。  パフェの下に敷いてある皿に店名のロゴ  珈琲はおしゃれなカップと皿で入れられた。   純喫茶コレクション1,728円Amazon 純喫茶コレクション1,728円Amazon  くろんぼ熱海市咲見町3-1 訪問 2017年1月    via 渋で純な喫茶店 Your own website, Ameba Ownd  

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  • 12 Jan
    • 【静岡県・熱海市】昭和が残る大温泉街「熱海」散策記(その1)…熱海駅周辺の商店街編

      正月に日帰りで熱海を散策。もはや説明不要、東京近郊を代表する温泉街ですね。実を言うと、今回で3度目の熱海散策なんです(それ以外に会社の慰安旅行で数回行ったことはありますが)。それぐらいに熱海という街が好きなのですが、その理由は平成の世にあって未だに昭和が色濃く残っているからに他なりません。また、遊里フリークがいろんなサイトでも触れているように、「赤線」や「青線」の痕跡が濃密に残っているのですね。それらも含め、過去の訪問時の写真も交えて「熱海」編のスタートです。 *:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆   東京から新幹線に乗って50分ほどで行ける温泉街「熱海」。そういえば、新幹線の駅が存在する温泉地って、熱海以外にあったっけもっとも、今回含めて3回訪問していますが、いずれも新幹線を使ったことはなく、すべて在来線なんですね。東京から電車一本、2時間足らずで行けるんですが、最近は「上野東京ライン」ができたことで「熱海~宇都宮」間とか「熱海~高崎」間なんて電車とかが多く、東京駅で乗るとき席に座れないなんて涙目もありそうw 写真に写っている熱海駅の駅舎は昨年にできたばかり。  (『町田忍の昭和レトロ紀行』より)昔の駅舎の方がまた温泉街の風情があってよかったなぁ(・・;)味のあった駅ビルの「熱海駅デパートLUSCA」も取り壊されてしまい、今では都内の「ルミネ」と代り映えしない駅ビルだし。   駅前の足湯「家康の湯」も以前の訪問時には休止していたのですが、再開してました。もっとも、名物だった観光用の間欠泉は撤去されてしまい、見ることができないんですが( ̄_ ̄ i)   私も到着早々足湯に浸からせてもらいました。汚いおみ足ですみません(^_^;)ちょうどいい湯加減でしたw  駅前に展示してある「熱海軽便鉄道」のSL車両。 現在の東海道線ができる前、熱海と小田原の間を行き来していた軽便鉄道で、前身は「豆相人車鉄道」、その名の通り人力で車両を押す鉄道でした。しかし、人件費がかかることから、上記の蒸気機関車がけん引する形に変わります。ちなみに、当時から温泉地として知られていたにもかかわらず、地形が険しかったこともあって東海道線は熱海を通らずに御殿場を迂回するルート(現在の御殿場線)を採っていました。「熱海軽便鉄道」は、そんな交通の不便さを補う形で開通したんですね。しかし、大正13年に東海道線が熱海まで延伸したことで、その役割を終えることになります(東海道線は昭和9年の丹那トンネル完成で全通)。   駅ビルは都内のルミネと代り映えしない今風になってしまい、ブログ的に見どころはありませんが、駅前に建つ「熱海第一ビル」は昭和42年竣工当時のままの姿で、中も昭和レトロが所々に残っていて見所あり。詳細は前回の純喫茶「貴奈」で取り上げたので割愛しますが、実は地下3階に幻となった熱海モノレールの駅が眠っているそうで。もっとも、権利者が複雑なのか、今もって封印されたままらしいんですが あと、写真に出ている「MOA美術館」、何気に熱海の観光スポットになっていますが、創業者の岡田茂吉、実は新興宗教"世界救世教"の教祖なんですね。その教祖様(笑)の収集した美術品を展示した美術館が「MOA美術館」。それにしても、宗教の教祖様っていうのは儲かる商売でんなwちなみに"MOA"とは、Mokichi Okada Associatesの略であって、"MoMA"ことニューヨーク近代美術館とは一切関係がありません。   昭和レトロといえば、こちらのビルもそうですね。あ、「五月みどりの店」は別にどうでもいいのでして(爆)   1階の「レストランフルヤ」が特にシブい外観。白とオレンジの縞模様の幌が目立ちますな。これは入らねば......  ......残念ながら「準備中」なんですね( ̄ー ̄;恐らくショーケースなんでしょうが、白いのに塞がれてるしちなみに帰りにまた寄ってみたら閉店の準備していたし(^_^;)これはまたの機会に取っておきましょうか。(ここで実際に入った方のブログ記事がこちら。中も素晴らしくシブいです)   さて、気を取り直して、仲見世名店街へ。全蓋式のアーケードが伸びています。   ここは観光客向けの商店街ですね。食事処やお土産屋さんが建ち並んでいます。   こんなお土産もあるみたいです。結局、買いませんでしたけどw   「熱海名産百貨店」ってフレーズは上手いなぁ。   ジジババ向けの洋品店もありました。グンゼの看板はいつの頃のものなんでしょうか。   ちなみに、ここの地番は「田原本町」です。古い住居表示板のNECのロゴ、確か「欽〇こ」の提供で見ましたな(古っ!)   「温泉まんじゅう」ではなく、「温泉まんぢう」ですね。温泉まんじゅうの店が特に多いのはやはり温泉地だからか。まあ、定番中の定番ですがね。   古びた歩道アーケードの通りへ。ご覧の通り、この先の熱海銀座まで下り坂のカーブが続いていくんです。   「パンとケーキ」の店はこの日お休みみたいですね。   そのお隣のパチンコ屋さんは、永久にお休みのようですね......   店主の直筆でしょうか、閉店のお詫びが貼られていました。「突然の閉店 ごめんなさい。」こちらは「いえいえ」としか言えませんな。「熱海を愛し旅行にいらつしやいましてその都度のご来店本当にありがとうございました」相当の年齢のお方と思われます、これを書いた方。しかし、熱海に観光に来てパチンコなんて......   なるほど、そういうことなんですね。温泉街にスマートボールは付き物ですからね。「営業中」とありますが、どう見ても営業中ではありません。そして、お隣のポスターが「迎春 二〇〇〇年」ですかぁ、今年は二〇一七年なんですけど......って、17年もずっとこのままなのΣ(゚д゚;)   しかし、「楽しかったね」が旧字体なあたり、やはり相当な年齢なお方か......   こちらにも、オワコン状態のパチンコ屋さんがあります。入口の脇にビール瓶が置いてるんですけどw   「お気軽にどうぞ」って、もう入れないんですけど......それにしてもイラストのセンスがいつの時代なんだw そんな感じで、熱海散策編の開幕です。 

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  • 11 Jan
    • 【静岡県・熱海市】昭和レトロな駅前ビルの純喫茶「貴奈」(熱海駅前)

      「東京の奥座敷」熱海。まだ海外旅行が普及していなかった頃は新婚旅行の定番だったり、高度成長期には会社の慰安旅行で歓楽街が賑わっていたり。そんな往年の盛況ぶりはどこへやらと言わんばかりの”温泉不況”、しかし、個人的には平成の世にあって未だに昭和の雰囲気を残している渋い温泉街に魅了している。そんな訳もあって、今年の正月2日に日帰りで熱海に来たのだが、実は今回で3度目、ほぼ毎年訪れているような気がする。定番のサンビーチに寛一・お宮の像、熱海城に秘宝館、起雲閣には前回訪れているし、熱海に来るたびに、戦後「赤線」だった”糸川べり”には必ず立ち寄っている。最初に来た時には存在感に圧倒された「千笑」の建物が、前回の再訪時に更地になったときには寂しさとともに、”負”の遺産ともいえる色街の痕跡が消えゆく運命を悟ったものだ。それでも、訪れるたびにまだ見たことのない風景を見つけるにあたり、まだ奥が深いと感じさせる。昭和の雰囲気といえば、熱海はまた純喫茶の宝庫でもある。昭和で時が止まったような佇まいを残した喫茶店が多く、純喫茶巡りにはうってつけだろう。そんな感じで、熱海詣では当分終わりそうもないと思っている。 さて、熱海駅に到着し、足湯に浸かった後、これまた昭和の趣を漂わせている駅前ビル「熱海第一ビル」に入る。ビル内を歩き回り、レトロな雰囲気を感じながら、1階の喫茶店「貴奈」へ。観光地ということもあるのだろう、熱海では正月でも店を開いている喫茶店が多いこと。件の店も元旦こそは休みだったみたいだが、2日から普通に開けていたのが嬉しい。木目調を基調にした内装にシャンデリアと壁の絵画は、ちょっとした高級感を感じさせてくれる。そこでモーニングセットを注文、厚切りのトーストはバターの塩っ気が程よく染み渡り、サクッとした歯ごたえで美味。パンが美味しいから、当然ながら壁にお勧めとあったサンドイッチは尚更だろうな。再度訪れた暁には、難波里奈氏絶賛の玉子サンドを購入したいなあ、そう思いつつ、軽く燃料を補給したところで熱海散策に出た。  熱海駅前に建つ「熱海第一ビル」は昭和42年築  その1階に「貴奈」はある。  大晦日と元旦が休みだったが、この日(二日)は平常通りに開いていた、嬉しい。  木目を基調にした内装。建物の年数に反して綺麗だ。  窓側の席。椅子は高級感のある臙脂色。  天井のシャンデリアが店内に華を添える。  壁には大きな絵画、それ以外にも小さい絵画も。  貴奈特製のサンドイッチは持ち帰りも可能みたいだ。  サービスメニューのモーニングセット。パンが厚っ!  ゆで卵は遅れて出してくれる。冷めたのでなく温め直して出すという気配り。  窓からの風景を眺めながらのモーニング。 貴奈熱海市田原本町9-1熱海第一ビル(アタミックス)1階 訪問 2017年1月   via 渋で純な喫茶店 Your own website, Ameba Ownd   佐々張写真館 昭和な香りを残す「熱海第一ビル」を探索しました。  熱海銘菓”ネコの舌”の「三木製菓」さん看板がいい感じです(本店は渚町にあり)  お土産屋さんも何軒か入っています  婦人服の店も 対象年齢は高そう  昭和のセンスを残す天井の看板件の喫茶「貴奈」は目の前  2階にもありました  駅とは地下で直結しているそうだ。雨の日でも安心?  御手洗への案内がどちらもシブい。あなたはどっちが好み?  2階にはいろいろ入っていますが、それにしてもその案内のフォントがいいセンスです   純喫茶へ、1000軒1,814円Amazon  

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  • 09 Jan
    • 【東京都・台東区】日本最大の遊郭があった街「吉原」再訪記(その5)

      「吉原」散策編も今回がラスト。※過去の記事はこちら☞(その1) (その2) (その3) (その4) さて、江戸時代から続いた公娼街「吉原」でしたが、昭和33年4月の売春防止法施行によりその灯が"いったんは"消えます。  記録映画『赤線』・ネオンきらめく吉原赤線廃止直前の吉原の様子。警視庁側の記録フィルム。カメラに気付いた女給たちが店の中に引っ込んでしまう姿も。  さて、赤線廃止後の吉原はどうなっていったのか。「赤線廃止後の吉原では九十一軒が旅館に転業し、修学旅行の旅館として利用された」と上村敏彦氏『花街・色街・艶な街』にありますが、何しろ立地が立地ですから、さすがに団体客の利用は見込めなったようですね。そうなると、同じ旅館でも、"連れ込み旅館"という形で残るパターンが多いわけですね。 赤線青線が表面から消え去ってから、代わりにアンダーグラウンドな売春が何種類も横行する。待合での芸者売春、旅館の仲居、やとなの売春、旅館ホテルに娼婦をよぶコールガール型売春、旅館に女性あんまをよぶパンマ売春、結婚相談所と称して会員をあつめ、男性客に娼婦を紹介する売春、観光ガイドクラブを名乗って、客に娼婦をあてがうガイドガール売春。このほか、旧赤線青線に転業のつもりで出現したトルコ風呂、ヌードスタジオなども売春を疑われている。 (白川充『昭和 平成 ニッポン性風俗史』〈展望社〉より) 連れ込み旅館では、上記のようなアンダーグラウンドな商売が繰り広げられていた可能性が強かったかと。  (小沢昭一『昭和の肖像〈町〉』より引用) さて、現在の吉原はご存知の通り、"特殊なお風呂屋さん"の街になっていますが、吉原にその類の店が初めて登場したのが赤線廃止後まもなく。昭和33年7月、赤線業者だった「東山」が揚屋町にそのままの屋号で「吉原トルコ」として開業し、それ以降も同様の業種が次々と開業。しかし、特に目立つ増加を見せたのは、東京五輪が開催された昭和39年の前後。昭和35年当時16軒だったのが、昭和50年には65軒と4倍に、そしてピークは昭和59年の170軒に(ちなみにその年、当時の呼称だった「トルコ風呂」が、トルコ人留学生のクレームにより、現在「ソープランド」に改称され、現在に至っています)。  (『吉原 今昔図 現勢譜』より引用) 上の図は平成5年当時の吉原の現勢譜。色が付いているのが"特殊な風呂"の店ですが、吉原全体に広がっているわけでなく、一定の範囲に固まって分布しているのがわかります。実は昭和41年に「風俗営業法」を一部改正、営業禁止区域を設けることにより、これ以上「トルコ風呂」が新規開業して増加するのに歯止めをかけようとしました。吉原の場合、上の地図では江戸町一丁目と二丁目の上半分と京町一丁目と二丁目のほぼ全域がその営業禁止区域。それらの区域には色のついた部分がほとんど見られないのがわかります。"ソッチの街"であるイメージが強い吉原ですが、実際にはそういった店舗が集中しているのは特定のエリアだけで、他は普通の下町とは変わらない街並みなんです。  (小沢昭一『昭和の肖像』〈町〉より引用) まあ、当ブログは風俗レポートではないので現在の"特殊なお風呂屋さん"が集まる街並みは華麗にスルーすることにして、引き続いて戦後の名残を歩き求めていきましょう。    さて、今回吉原を再散策で訪れたのには理由があって......写真は2015年10月に散策した当時の「坂井旅館」の在りし日姿。   ちなみにこの「坂井旅館」、角町通りと江戸町二丁目通りの間の路地にあるのですが、何しろ"ソッチ"の店が集まるエリアの路地裏。普通なら、まず気軽にぶらぶら散策できる場所柄ではありません。路地裏にも店があり、普通に客引きの兄さんが立っていたりするのですから。そういうのを気にせずにバシャバシャ撮っているように見えますが、実際はちょっと緊張しいなんです(苦笑)   この「坂井旅館」は赤線廃止の昭和33年当時の屋号が「幸隆」で、その後に旅館に転業した形と思われます。塀に「坂井」の屋号、窓に紋が見えますが、訪れた当時はすでに営業をやめていて、人っ気もなかった感じでした。その「坂井」の下、看板があったような跡でしょうか。その看板には、「御休憩」とか「御宿泊」とか書かれていたりとか、そんな想像をしてしまいますが...... ......そんな訳であれから1年程経ったあの場所へ......   ハイ、ご覧のようにものの見事に駐車場と化してしまいました(T_T)早っ!これでまた一つ、戦後の遺構が消えてしまいました......もっとも、今回訪れたのは事前に遊郭部氏がツィッターで呟いていたのを知ったからなんですね。残念ながら、その呟きを直接ブログで載っけることができないので(何とかしてくれよ、ameba)、詳しくはこちらで確認していただくとして......   もっとも、いつまでも悲しんでいられません。「坂井旅館」跡地の近くに見つけたこの一軒。前回の散策では見落としていました罠。   この看板、どう見ても"連れ込み旅館"のそれでしょう。「宿泊」とともに「休憩」なんて文字があるんですから。しかも「御入浴随意」なんてあるのですから。赤字で「マッサージ」という文字も見えます。それにしても、何年前のものなんでしょう、これ。   入口の脇にはこういうプレートも。相当の年季が入っていますな、これ。しっかし、車一台分の幅しかない細い道路にもかかわらず、さっきから送迎らしき車が頻繁に通るんで、写真撮りずらいってありゃしない( ̄_ ̄ i)   それにしてもこれ、住んでいる人いるんですかねぇ先程の「坂井旅館」みたいに、気が付いたら消えていたなんてあるからね。   この細い通りを出ると仲之町通りなのですが、そこに建っているのが料亭「金村」。吉原では唯一といっていいでしょうか、純粋な料亭ですね。この座敷に上がって花魁のお相手......なんてできそうな店ですが、我々一般人には遠巻きに建物を眺めるぐらいにしかできませんなw   そして、仲之町通り沿いのこちら、自販機で入口が塞がれていますが、実はこれも旅館だった一軒です。   その証拠にこのプレートが残っています。「観光旅館」とありますが、果たして観光目的でやっていけたんでしょうか、この立地で。   なお、吉原にはかつて「稲本」という屋号そのままのビジネス旅館が現役でやっているみたいです。「INAMOTO」と書かれた看板が見えますが、あれがそうですね。しかし、"特殊なお風呂屋さん"が密集している通りにビジネス旅館ですかぁ。何だか誘惑に釣られそうな場所ですな。 そんな訳で吉原探索はひとまずここまでです。   そして、廓の外に出た後もこんなのを目にするんですな。   この外観はどう見てもクロでしょ......   もしかすると、吉原のカフェー街は廓内にとどまらずこの辺りまで広がっていた可能性がありますね。意外なぐらいにエリアが広かったのかも。 *:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆  さて、一昨年に「坂井旅館」を撮った当時、こういう建物もありましたが、残念ながら現在は見ることができません。そんな建物をここで取り上げておきます。  このファサードから、明らかにカフェー建築と分かります。   年季の入った鍼灸の看板も一緒にありました。それにしてもこれ、もしかすると"パンマ"だったんではないでしょうね。     【送料無料】 写真集 昭和の肖像“町” / 小沢昭一 【本】3,024円楽天 昭和平成ニッポン性風俗史 [ 白川充 ]2,160円楽天  

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  • 08 Jan
    • 【東京都・台東区】日本最大の遊郭があった街「吉原」再訪記(その4)

      前回に引き続いて、「吉原」の赤線遺構を探索します。 ※過去の記事はこちら☞(その1) (その2) (その3)   赤線遺構が集中しているのは、吉原大門の脇の細い通りであるかつての「伏見通り」で、これについては前回触れましたが、今回はそれ以外の赤線遺構を探索。メイン通りの江戸町通りには、"大人のお風呂屋さん"の並びにこれまたカフェー建築のようなものも。お隣の店舗の送迎者の車庫として使われているようです。   この建物のポイントは、看板部分にある2つの小窓、のようなものでしょうか。明らかに装飾として取り付けられている感じです。   その並びにも遺構のような一軒。もっとも、"ソッチ"の店が並ぶメインストリートで、いわゆる客引きもいるわけで、大っぴらに写真を撮るわけにはいきません。陰からこっそりと撮っている塩梅w   所変わって、こちらも営業禁止区域に指定されている京町通り。"ソッチ"の店もあることはあるのですが、さすがにその数は少なめ。   玄関回りに豆タイル装飾が施されている店舗のような一軒。どんな商売をしていたんでしょうか。   入口の床にも豆タイルが敷き詰められています。パステルカラーの水色と白の市松模様ですが、色が剥げていますね。   さらに進むと、ビアホールに旅館と並ぶ一角。手前が旧「正直」、さらに旧「日光」、旧「ときわ」と転業したものであるのがわかります。   特に手前の旧「正直」はカフェーだった当時のままの建物で、屋号そのままにビヤホールとして営業を続けてきた一軒。残念ながら、昨年の12月いっぱいで閉店してしまいました。嗚呼、吉原に何度も散策してきながら、この店には一度も入ること叶わなんだ('A`|||)   カレーやらオムライスやら洋食メニューが揃っているとみられるサンプルケース。色褪せ具合がいい感じで、長い歴史を物語っています。   京町通りから角町通りへ抜ける細い路地裏に入ります。この辺りも「伏見通り」と同様の下町の風景が見られます。奥に見えるのは、けばけばしい店が並ぶ角町通り。仲之町通りを挟んで反対側の揚屋町通りとともに、吉原のメインストリートで、一番"現役"の店舗が多く集まっているエリアです。   あたかも、そんなメインストリートの"エアポケット"のように、古いアパートが所々に見られます。もしかすると、これも赤線遺構かも知れません。   前にも書きましたが、吉原全体がそっちの店ばかりの街と思われがちですが、そんな隙間を縫うような感じで住宅地があったりするのです。そういえば、大阪の「飛田」もそんな感じでしたな。表面上はなまめかしい店が密集しているように見えて、奥に入るとどこにもあるような下町の風景を目にするし、普通に生活している住人もいる訳です。   こちらの一軒も、実は『赤線跡を歩く』にも出てきているんですね。石材、モルタルといろんな素材を利用している感じです。(その3)に出てきた「プリンセス」と同じように、女給が客引きするための窓のような感じでしょうか。   そして、通りを挟んで赤線遺構が並ぶ一角。手前の玄関もそれっぽい感じなのですが、最大のハイライトは奥の物件......   こちらも『赤線跡を歩く』に出てくる物件なので、赤線マニアにはお馴染みでしょう。ただし、見つけにくい場所にあるんですな、これが。   まあ、最大の見どころなのが、側面の装飾でしょう。凹凸に沿って壁の色が塗り分けられていますな。この艶めかしい曲線、女体を表しているのか、或いはハートの形を表しているのか、いろんな説が出ていますが、果たしてどうなんでしょうね。   側面の目立つ装飾に目がいきがちですが、軒下にも注目。照明みたいなのと一緒に、井桁の装飾が施されたのが見えます。色街の建物には、細かいところに気を配って客の目をひかせようという工夫が見られるのが多いのですが、これもその一環でしょうね。   色街百景 [ 木村聡 ]4,104円楽天  

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  • 07 Jan
    • 【東京都・台東区】日本最大の遊郭があった街「吉原」再訪記(その3)

      前回(その2)に続いて「吉原」。※(その1)についてはこちらへ。  (『遊郭をみる』より引用) さて、江戸時代からの歴史がある吉原遊郭ですが、残念ながら戦前より前の遺構はほとんど残っていません。それもその筈で、明治44年の吉原大火(これは映画にもなりましたね)、大正12年の関東大震災、そして昭和20年の東京大空襲とたびたび焼失してしまうのですね。 その東京大空襲では、当時1200人居た娼妓のうち約400人が焼死したり、あるいは炎から免れようと隅田川に飛び込み溺死したりと、関東大震災と同様の犠牲を出しています。そして、終戦を迎え、他の遊里と同様に吉原もRAA(特殊慰安施設協会)より進駐軍兵士対象の慰安所に指定されます。 「性の防波堤」を目指すはずのRAAでしたが、進駐軍による一般婦女子への乱暴や強姦も絶えず、さらに兵士の間で性病が蔓延したこともあって、GHQがオフ・リミッツ、つまりRAAの慰安所への出入り禁止を指令しました。 一方で、GHQは「公娼廃止に関する覚書」を出し、これにより江戸時代から続いた公娼制度を葬り去るはずでしたが、警視庁が抜け道を作るのですね。まず、貸座敷業者や娼妓を「自主廃業」させ、貸座敷は「接待所」、娼妓は「接待婦」と改称させます。「接待所」はさらに「特殊飲食店」と改め、店舗もカフェーの建物に塗り替えられ、「接待婦」は「従業婦」「女給」などと呼ばれるように。これは事実上の公娼制度黙認のようなもので、その営業地域は地図上に赤鉛筆で囲んでいたことから「赤線」と称されます。 ちなみに、東京都内で赤線に指定されたのが次の通り。吉原 洲崎 新宿 鳩の街 玉の井 亀戸 千住 武蔵新田 亀有 小岩(東京パレス) 新小岩 立石 品川 立川(錦町・羽衣町) 八王子 調布 三鷹(武蔵八丁)※※三鷹については、赤線ではなく青線に分類される説もあり  (『吉原 現勢譜 今昔図』より) 渡辺寛著『全国女性街ガイド』による昭和30年当時の吉原。長くなりますが、ここに引用してみます。 灯ともし頃ともなれば水を打ち、盛花をした石割道の両側に千本格子がならび、廊下で草履を叩く音やネズミ啼きがきこえてきた時代の吉原は情緒があってよかった、という人がある。ぱたんぱたんとフェルト草履の音をさせ花魁が自分の部屋の障子を明けるのを待っていた気分はたとえようがないと洩らす人がいる。トキを告げる拍子木の音や、「お時間ですョ」と起こしにくる新造の無情な声や、ジョーウィンドウに飾る商品のように花魁衆の修正された写真の陳列してあったのや……もう、そんなものは戦後の吉原にはなくなった。通用門もおはぐろどぶも妓楼作りもなくなった。  (「全国主要赤線地区案内」 『実話雑誌』特別増刊号第九巻第三号=昭和29年=より) だからといって、その当時の吉原だけに夢のような抒情があり、現在の吉原には味も何もないというのは間違っている。まず、梅毒と淋病の感染率が激減した。陰気な抑圧的な花魁道は地に落ちたけれど、やはり、吉原にはお女郎の古い伝統が残っている。女給と名を変えた千二百名<二十九年版"吉原図"によると組合加入店二百七十軒>の女たちは種々雑多で、八つあん熊さんにも向けば、ジャパンコムミニストにも、お上がりさんにも、汚職族にも、破瓜試験にも向く。いうなれば、その道のオーソドックスである。 さらに渡辺氏によれば、「今年になって更に変り、天然温泉が湧くという革命的飛躍期に入った」 とも。この頃より「天然温泉」の看板を掲げて営業する店も出てきて、吉原もこれからというときに、昭和33年の赤線廃止を迎えるんですね。    前置きが長くなりましたが、吉原に残る古い遺構は戦後の赤線時代のもの。特に集中しているのが吉原大門に入ってすぐの細い通り、かつて「伏見通り」と呼ばれた辺りです。   まずは、木村聡氏『赤線跡を歩く』にも出てくるこちら。「モリヤ荘」というアパートで、当時の屋号「モリヤ」をそのまま受け継いでいる一軒です。   左にカーキ色のドア、そして右側に朱色の引き戸、その間にポストが5つも掛かっているのが印象的です。   2回の戸袋にも意匠が凝っているのがわかります。洗濯物が干されているように、現在も住人が健在とあっては、当分は安泰かも?   その「モリヤ荘」の並びの一軒、どう見ても赤線遺構です、本当にありがとうございました。こちらも『赤線跡を歩く』に出てくるので、赤線フリークにはお馴染みでしょう。   こちらは「プリンセス」という屋号だった一軒で、現在は「岩淵荘」というアパートに。   コーナーには、女給が客を呼び込むためにあったとしか思えない窓。それにしても、何故にこんなところにポストがあるんでしょうかね。   そのはす向かいに建つこの一軒も赤線遺構。   建物上部には「マスミ」という屋号が見て取れます。冒頭の地図にも同じ屋号のものが見られ、完全に一致しているのがお分かりかと。   こちらもファサードが特徴的な一軒。やはり『赤線跡を歩く』にも登場しています。   先程の地図では「親切」という屋号がある辺りに建っています。現在は「大和田荘」と、これまた転業アパートとして余生を過ごしています。   こちらもファサードが特徴的なカフェー建築、地図では恐らく「黒潮」という屋号ではないかと。 ところで、吉原というと品のないネオン看板がけばけばしく輝く"大人のお風呂屋さん"の街というイメージが一般的ですが、戦後の遺構が残っていること自体は意外でもあります。吉原が現在のような街になり始めたのが赤線廃止の昭和33年以降ですが、特に目に見えて"お風呂屋さん"が増加したのが昭和39年の東京五輪辺りから。   そんな情勢に歯止めをかけるべく昭和41年に風俗営業法が改正され、吉原全域のうち江戸町一丁目と二丁目の東側半分、京町一丁目と二丁目全域が営業禁止区域に指定されます。これらのエリアには新規に店舗を構えることができなくなったのですが、そのお陰で戦後のカフェー建築が解体を免れ、現在も赤線遺構が集中して残っているという塩梅。   いま我々が眼にすることができるのはまさしく戦後のカフェー時代の物件で、風俗史上でも貴重な存在でもありますが、残念ながらその数は減る一方。何しろ、赤線廃止から60年を迎えんとしているのですから、老朽化やら空き家化やらで次々と消えてしまう運命。こればかりは如何ともし難いのですが、やはり歴史の"生き証人"が消えゆくのは寂しいもの。     そんな中、この「伏見通り」に花街や遊廓に関する書籍を専門に扱う書店が昨年秋にオープンしたんですね。主催しているのは、遊里史の書籍を出版・販売する「カストリ出版」で、その名も「カストリ書店」。   ちなみに、店舗はこれまた戦後のカフェー建築だったものだそうで。赤線だった立地に取り扱う書籍もソレ専門というコンセプトがちょっとした注目になり、特に若い女性の来客が多いとか。愛読誌でもある、あの「散歩の達人」でも取り上げられています。    現在では入手困難となった『全国遊郭案内』や『全国花街めぐり』、それに『全国女性街ガイド』といった遊里史のバイブルの復刻も実現させ、現在も埋もれた関連書籍の発掘が進行中。赤線遺構が消えゆく中、書籍で遊里の歴史を後世に語り継ぐ存在は今後も注目です。  カストリ書店東京都台東区千束四丁目11-12公式サイトあり☞カストリ出版  色街百景 [ 木村聡 ]4,104円楽天 吉原炎上 [ 名取裕子 ]2,479円楽天   

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  • 06 Jan
    • 今回の純喫茶。

      今回の純喫茶。喧騒の築地場外にあって、ここはそういうのに無縁な一軒。正月でまだ雑煮を食べてなかったっけ、ということで名物「鶏雑煮」。しかし、これは通年出されるので、正月出なくても頂けるんですな。しかも、食後の珈琲付き。実は先程、場内の「センリ軒」でカツサンドを食べたばっかwしかし、これでもまだ余裕なんですな。雑煮は別腹なんでしょうかね?まあ、しばらくもう一軒はいいかな......#雑煮 #築地場外ブログをまとめてみる >

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  • 05 Jan
    • 【東京都・台東区】日本最大の遊郭があった街「吉原」再訪記(その2)

      前回の(その1)に続き、「吉原」散策編。  (『遊郭をみる』より) 吉原遊郭の開設は元和3年(1617年)、庄司甚右衛門という遊女屋が遊郭設置願いを幕府に届け出、現在の日本橋人形町に開設したことから始まります。その際、徳川家康の御膝元であった駿府(静岡市)の二丁町遊廓や京都の柳町遊廓から業者が遊女を引き連れて移ってきます。しかし、明暦の大火で吉原遊郭が焼失、それに伴って現在地(台東区千束)に移ります。江戸時代の吉原遊郭はまた、江戸文化の一大発信地でもありました。  (『遊郭をみる』より) ところが時代が明治に移ると、吉原遊郭のイメージが激変してしまいます。遊郭は梅毒をまき散らす元凶とされ、遊女は自堕落が体の芯まで染みついた者とみられるようになります。さらに、外国からは人身売買のシンボルとみなされたことにより、明治政府によって明治5年の「娼妓解放令」(俗に「牛馬きりほどき令」)が出されます。江戸時代は文化発信の中心とされ隆盛を誇っていた吉原遊郭でしたが、明治になって衰退の一途をたどることに。  (『遊郭をみる』より) そんな負のイメージを覆すために取った選択肢が吉原遊郭の近代化というもの。妓楼を洋館風に改め、遊女にも洋装させ、廓内にはガス灯を設置するなど、以前の旧態依然の遊郭のイメージを一新させます。大門も鋳鉄製にしてアーチを架け、中央に竜宮の乙姫像を飾られるなど、ハイカラな遊郭に。    そして、もう一つの懸案だった検梅所の設置も、明治44年に吉原病院が開設されたことで実現。性病科専門の病院でしたが、戦後に「台東病院」と改称されると総合病院化されるようになります。現在は「台東区立台東病院」として、大きい病棟を抱える総合病院に。  (『吉原現勢譜古今図』より) 戦前の吉原遊郭については、松川二郎氏が著した『全国花街めぐり』における記述を抜粋。 震災前の盛観に迄全く復活するには前途尚ほ若干の時日を要するらしく、大阪の飛田・名古屋の中村等に比し外観に於て遜色あるを免れぬが、昨年昭和三年の如きは玉の揚り高正に大正七八年の好景気時代に匹敵するものださうで、不景気々々々の嘆声に搗て加へて公娼廃止の叫び喧しき折柄、一般世人からは吉原の前途を悲観されて居るに拘らず、土地の人達は却って大いに楽観してゐる有様である。現在貸座敷 二百九十五軒同娼妓 二千四百六十九人。(昭和四年三月調)引手茶屋 四十二軒芸者 大小百五十五人幇間 二十七人数に於ても、内容に於ても、以前本廓としての代表権を把握してゐるところは流石に吉原である。   仲之町通りを通り過ぎると、水道尻通りと名を変えますが、その通り沿いに建つ吉原神社。遊郭の入り口と四隅に祀られた5つの稲荷社と、遊郭に隣接していた吉原弁財天を合祀し、明治5年に創建された神社。当然、吉原遊郭とともに歴史を歩んできた神社です。   現在の社殿は昭和43年に再建されたもの。あの関東大震災や東京大空襲で幾度と焼失されては再建されるという繰り返しで、これまた吉原遊郭そのものの運命とダブってしまいます。   社殿の前には2体の灯篭が立っています。   その台座には妓楼の屋号らしき名前が世話人として並んでいて、吉原遊郭の寄進を受けていることが伺えられます。「昭和二十九年五月吉日」とあるように、赤線だった当時のものです。   この里に おぼろふたたび 濃きならむ 万 浅草出身の小説家で俳人の久保田万太郎の句碑が立っています。吉原の賑わいの風景を、かの文人が句に留めています。   その手前には、『吉原今昔図』が掲示されていて、吉原遊郭の移り変わりを一目でわかるようになっています。この地図、昨年暮れに開店した「カストリ書店」にて購入できるようになっています。   さて、吉原神社を訪れたなら、そのはす向かいの吉原弁財天にも立ち寄らねば。吉原神社とは離れていますが、実は飛び地の境内社なのです。   周囲に張り巡らされている玉垣には寄進者の名が連ねていますが、そのほとんどが妓楼関係者とわかります。何しろ、屋号も一緒に書かれていますから。   吉原弁財天の本宮です。壁には弁天様の絵が描かれていますが、東京芸術大学の学生の手によるもの。   境内には弁天池と呼ばれる池がありましたが、これのことでしょうか。随分しょぼい池です(失礼)かつてはもっと大きかったのでしょう。   しかし、吉原弁財天に訪れた際に必ず見ておきたいのがこちらの「吉原観音」。関東大震災の際、490人もの遊女が弁天池に飛び込んで溺死してしまうという痛ましい犠牲があり、その霊を弔うために大正15年に建てられました。ちなみに、震災当時、遊女の逃亡を防ぐために大門が閉じられていたそうで、そのために犠牲者が多く出たわけですね。   公娼制度としての吉原遊郭は昭和33年の「売春防止法」施行により廃止されますが、その記憶を長くとどめようと建てられた「花吉原名残碑」。多くの遊女たちが震災や戦災、病気などで命を落としてきましたが、現在の吉原の街並みを地下でどう見つめているんでしょう? (その2)はここまで。次回は戦後「赤線』だった吉原の遺構を巡ります。  吉原神社東京都台東区千束3丁目20-2(公式サイトあり)   遊郭をみる [ 下川耿史 ]2,052円楽天 花街・色街・艶な街 色街編1,512円Amazon  

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  • 04 Jan
    • 【東京都・台東区】日本最大の遊郭があった街「吉原」再訪記(その1)

      江戸に咲き誇った色街の栄華を訪ねて在りし日の旅館。ついに"あの時"が来てしまうとは......正月というめでたい時期に取り上げるのがいきなりあの「吉原」って辺りが普通のブログではない所以でして(苦笑)このエリアは何度も散策している場所なのですが、昨年の暮れ辺りにかけて変化というのが見られたんですね。まずは、遊郭跡探訪の第一人者"遊郭部"氏が自分のライフワークである遊里関連書店を開業したこと。そして、もう一つは冒頭写真の建物がついに......ということです。これについては後々触れることにして、まずは「吉原」ってどこよ?という話から............なんですが、実は現在の東京都内に「吉原」という地名は存在していないんですね。昭和41年の住居表示で、これまであった"浅草新吉原"と付く地名がすべて消滅、一括して「台東区千束四丁目」という味気ない地番に変わってしまいます。前述のごとく元々"浅草"と名が付いているように、戦前は「浅草区」のエリアでしたが、浅草のランドマーク「浅草寺」からは北へ1㎞程。最寄り駅は浅草駅に、日比谷線三ノ輪駅、入谷駅、JRだと鶯谷駅となるのですが、そのいずれからも中途半端に遠い場所なのです。そのような場所が皆さんお馴染みな、日本最大の"大人のお風呂屋さん"の街となっている辺り、常人なら信じられない話なんですね。しかし、その土地の歴史的経緯からすれば、何ら異常な話ではないのですが。そう、ここは"日本最大の遊郭"だった場所なんですね。江戸時代から戦後の赤線廃止で事実上の公娼制度としての「吉原」は消滅するのですが、その代わりに現在のような街になったという話。このようなパターンは、名古屋の「中村遊郭」に岐阜の「金津園」などいくらでもあります。地図を見るとお分かりの通り、色で付いている正方形状のエリアが"吉原遊郭"。もっとも、現在の人形町にあった"吉原遊郭"が明暦の大火を受けて現在の場所に移ったわけなので、正確には「新吉原」なんですけどね(これに対し、もともとの場所は「元吉原」と区分される。元吉原=葭町についてはこちらを参照)。斜めに向いているのは、遊客の寝床が北枕にならないようにという配慮からです。そして、前述の通り、「吉原」という地番は現存しておらず、「吉原大門」という交差点名に留めている程度です。その「吉原大門」交差点、近くには同名の都バス停留所があります。この通りは「土手通り」、かつて山谷堀が流れ、日本堤と呼ばれる土手が伸びていました(「日本堤」は現在も町名として残っています)。写真左、つまり交差点の角に遊郭の名残りである「見返り柳」が立っています。遊客が帰り際に名残り惜しむかのようにこの柳の木があった場所で廓に振り返ったことから名づけられた「見返り柳」。ガソリンスタンドの前に立っているこの柳は、冬場という季節柄か、葉っぱがほとんど抜け落ちてしまった状態でしょぼいことにwちなみに、柳は何度も植え替えられていて、上村敏彦著『花街・色街・艶な街』によると7代目だそう。柳の木の傍らに立ってる石碑。「見返り柳」とともに「新吉原衣紋坂」と書かれています。「衣紋坂」については後程触れるとして......裏に刻まれているのは恐らく寄進者でしょうか。その中に「吉原六ヶ町々会」「吉原三ヶ団体」というのがあって、明らかに吉原関係者の団体が名に連ねています。ここで、吉原六ヶ町というのは昭和41年の住居表示以前の町名江戸町一丁目、江戸町二丁目、揚屋町、角町、京町一丁目、京町二丁目の6つを表しています。さて、いよいよ廓内に向かおう。吉原大門交差点からS字状のカーブが続いていますが、これは江戸時代からそのまま。これは、街道から遊廓を見通せないようにわざと作ったもの。で、先ほど出てきた「衣紋坂」というのがこれ。遊客がここで衣紋を繕う、つまり「身なりを整える」という意味があるわけで。いまでこそ平坦な道ですが、かつては日本堤から遊郭にかけて下り坂になっていたそうです。現在は「五十間(軒)通り」と呼ばれています。そして、ここがかつて遊郭の入口「吉原大門」があった場所。脇に交番がありますが、もともとはこの場所に治安維持や遊女の逃亡を防ぐための番所があり、今も昔も役割は一緒なのが伺えます。そして、かつて廓への出入りはここ一か所だけでした。明治時代の吉原大門はこんな感じ(『遊廓をみる』から引用)。結構立派な門ですが、明治44年の吉原大火で焼け落ちちゃいます。その後、震災やら戦災やらで再建と焼失が繰り返され、現在はただ「よし原大門」と書かれただけのハリボテみたいな柱にw大門通りは正式には「仲之町通り」と呼ばれ、通り沿いには引手茶屋が建ち並んでいたそうで。貸座敷に上がる前の遊客にもてなす茶屋みたいなもんですが、いまは風情もへったくれもないけばけばしい看板が見えるだけ。「大人のお風呂屋さん」だけでなく、怪しい喫茶店も見かけますが、それが今風の「引手茶屋」なのでしょう(笑)吉原遊郭は田んぼに土を盛って作られ、周囲には「お歯黒どぶ」と呼ばれる幅5間(のちに2間)のどぶ川が取り囲んでいました。もちろん、遊女の逃亡を防ぐためのもので、これで下界と隔絶した世界が作られました。高低差が所々に残っているのは、「お歯黒どぶ」があった名残り。石垣が真っ黒になっているように、文字通り真っ黒に濁っていたそうです。そして、吉原公園も高い場所にあります。ここにはかつて「大文字楼」と呼ばれる大店がありました。児童公園ですが、場所柄なのか子供の姿がなく、いるのはオッサン、それも一人身wそして、公園の向こうには子供が入ってはいけない世界が広がっています(笑)公園からお歯黒どぶの方を眺めてみると、意外な位に高低差があるのがわかります。これでは遊女も脱走できません。ちなみにこの大文字楼、跳ね橋のある裏口もあったようで、この公園の階段はその名残りなのかも。さて、「吉原」の話はさらに長くなりそうなので、取り敢えず(その1)はここまで。次回に続きます。遊郭をみる [ 下川耿史 ]¥2,052楽天花街・色街・艶な街 色街編/街と暮らし社¥1,512Amazon.co.jp

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  • 02 Jan
    • 今日の純喫茶。

      今日の純喫茶。2017年最初の散策は熱海で。そして、今回は咲見町の「くろんぼ」をば。尤も、初喫茶は駅前の熱海第一ビルにある「貴奈」だったんですがね。なので、今日二軒目なんです。何せ純喫茶天国の熱海、あと何軒廻ることになるか。観光地というのもあるので、正月からやっておられる店が多いのが嬉しい。心地いいジャズの中でフルーツパフェを堪能。ブログをまとめてみる >

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  • 01 Jan
    • 【東京都・台東区】”元祖チキンバスケット”の店「銀座ブラジル」(浅草)

      拙い書初めで失礼いたします( ̄_ ̄ i) 今年も拙ブログをご愛顧のほど、夜露死苦(古っ)、もとい、宜しくお願いいたしますm(_ _ )m さて、型通りのご挨拶はここまでにして、当ブログは元旦も通常営業。今年は酉年、今年の初っ端はそんな年に相応しいと云っては何ですが、あの名物のこの店から。 云わずと知れた都内きっての観光地、浅草。しかし、その地にあって、なぜか店名に「銀座」が入っている純喫茶。もしかすると、銀座に本店があって、ここは支店筋なのかも知れない。新仲見世通り沿いにあり、靴屋さんの2階に入っているこの店の名代は「元祖チキンバスケット」。 「チキンバスケット」といえば、戦後間もなくの開業で、三島由紀夫や川端康成など多くの文人に愛された銀座の洋食店「銀座キャンドル」が真っ先に思い出される。しかし、惜しい哉、2014年11月で70年弱の歴史に幕を下ろしてしまった。一度でもいいから食べたかった、というのが正直な気持ちだったが、「チキンバスケット」の元祖の店がまさか別の場所にあるとは思わなかった。しかも、同じ「銀座」が入った店名。 茶色主体の店内にジャズが流れ、大人の喫茶店という感じで、浅草ながら銀座の雰囲気を醸し出される。祝日のお昼時ということもあって少々店内は混んでいたものの、かといってせわしないという訳ではなかった。件のチキンバスケットは注文を受けてからじっくりと作られるので、テーブルに運ばれるまでの時間はかかる。その間は読書をしたり、その日の散策のプランを構想したり、あるいは2階の窓からアーケード商店街を歩く観光客の様子を眺めたり。そうして30分以上待っているうちに、チキンバスケットが運ばれる。一緒に注文した珈琲のカップには素敵なロゴ入り、そして紙ナプキンとマッチにも。ビールに合いそうなチキンバスケットだったが、珈琲との組み合わせも悪くなかった。  アーケード商店街「浅草新仲見世通り」沿いの2階にある。1階は靴屋さん。  「浅草店」とあるので、本店もあるのだろう、もちろん銀座に。  ”ブラジル”だけあって「珈琲専門店」を名乗っている。  細長いショーケースには軽食メニューのサンプルが豊富。  そのショーケースに飾られた古き写真、いつの頃のものだろう?  靴屋さんの脇の細い階段が店へ通じる道。  ここにも古い写真が。  茶色主体の店内。壁の写真は”ブラジル”というよりは”アメリカン”。  大人の雰囲気漂う店内。  落ち着いた空間の窓際席から喧騒の新仲見世通りを眺める。  チキンバスケットとコーヒー。  見た目ボリューミーだが、一人でも十分平らげることができる。  カップはオリジナルのロゴ入り。  紙ナプキンにもロゴ。   ロゴ入りのマッチ   銀座ブラジル台東区浅草1-28-2 訪問 2016年12月 via 渋で純な喫茶店 Your own website, Ameba Ownd    純喫茶へ、1000軒1,814円Amazon 東京渋カフェ地図 (散歩の達人POCKET)1,296円Amazon  

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  • 30 Dec
    • 【自分新聞を作って2016年を振り返ろう!】2016年総括......みたいなもの

       一番たのしかったのは1つ挙げるとすれば大阪探索。飛田界隈はドキドキものでした。忘れられない味強いてあげれば、平井「ワンモア」のホットケーキ。ビッグニュース吉原「坂井旅館」解体。遊郭部さんのツィートで知りました(涙)これだけはやりたかった唯一未踏破の九州探訪。果たしていつになるやら(汗)。来年の抱負取りあえずは、純喫茶訪問100軒を目指す。二〇一七年も宜しく質問に答えて自分新聞を作ろう。ブログに投稿して紹介しよう!  今年はいつにも増して早かった......そう毎年同じようなこと言っている気がしますけどね(^_^;) 実は、個人的な話で恐縮ですが、7月に勤務先が異動になりまして......7月の大阪探訪は、実は結構バタバタしながらだったんですね。それでも、一度は散策したいと思っていた飛田界隈を回れたのは良かった。オッサンに絡まれやしないか、あるいはその筋の者に遭遇されやしないか、ドキドキものでしたが、早朝だったのがよかったのか、今では無事です(笑)しかし、あの近辺はああいう場所ですから、散策する人は特に注意しなければなりません。  7月に訪問した大阪飛田界隈。やはりディープでした。  で、現在の勤務先ですが、これがなかなか厄介で、有給を取るのが難しいんですわそんなわけで、2泊以上の遠征はよほど運がない限りはまず無理で(苦笑)、恐らく念願だった九州踏破は当分お預けになりそうです。件の7月も、実は当初は大阪ではなく、大分に行くつもりでしたが、何しろ希望の宿がね......連泊無理と言われた時点でもうアウトでしたわ(ノ_-。)昭和レトロな豊後高田に温泉街別府、それに赤線遺構が残る西大分と行きたい場所が山ほどあっただけに、果たしていつになるやら。 いきなり愚痴炸裂で大変申し訳ないのですが、そんなこんなで2016年も終わろうとしております。今年の簡単な総括ということで、上の自分新聞にまとめてありますが、30字以内でとても書けません(^_^;)(^_^;)そもそも2番目の質問「忘れられない味」と言われても、いろいろあるし......錦糸町「ニット」のホットケーキ、静岡「多加能」の芝えびかき揚げ、瀬戸「ひろみ屋菓子店」のおばちゃんが作る焼きそば、名駅のある意味"ネタ豊富"な「丸八寿司」、なんば「たこ政」のくわ焼、同じくなんば「アメリカン」のホットケーキ、などなど......1つ選べと言われても、それぞれのおいしさがあって厳しいものがあります  上に取り上げた「ワンモア」のホットケーキ。次回はフレンチトーストも制覇したい。 錦糸町「ニット」のホットケーキもインパクト大でした。 なんば「アメリカン」のホットケーキもよかった......ってホットケーキばっかじゃんw  また、3番目「ビッグニュース」として、上記「坂井旅館」解体を挙げましたが、これは遊郭部さんのツィッターで知ったんですね。赤線物件はアレがアレなだけに真っ先に解体のターゲットにされやすいのですが、今回の件はやはりショックでした。(......って書いたら、金津園の「ふじもと」も解体されたとの報も)  在りし日の「坂井旅館」。直近に行ってみたら駐車場に......嗚呼 金津園の代表的赤線遺構。まさかここも解体の憂き目にあうとは......  そして、これも直近ですが、11月の兜町「May」閉店も忘れることができないニュース。純喫茶は昭和の真っただ中にできたものが多く、昭和のままの渋くて純な雰囲気がまたたまらないのですが、後継者不在とか建物老朽化とかで閉店せざるを得ない事態も抱えてしまうのもまた事実。大阪住吉の白髭紳士が一人で切り盛りする「タンポポ」、横浜橋の"私の代限り"というマスターの「マツモト」とか、いつ閉店してしまうかわからない店は多いですからね。  11月末に閉店の兜町「May」。あの"チャンポン"は伝説に。 大阪住吉「タンポポ」は白いひげのマスターの人の好さが伝わる印象的な名店。元気な限り続いてほしい。   さて最後に恒例となりましたが、一応総括みたいなものを紹介していきたいと思います。簡単には分からないような街(それと店)の名前はイニシャル表示にしてあります。「県」とか「都」ですぐわかってしまうかもということで、今回は町の名前だけにしました。「区」というのもありますが、これは比較的わかり易いかな。あと、今回は街だけでなく喫茶店や酒場といった店も出してみました。まあ、当てても何も出ませんけどね(^▽^;)......って、これ昨年も書いたっけ(⌒-⌒; ) 相も変わらず変な所ばかり彷徨っているというのはよくお分かりいただけるかと。この路線は来年も継続、もとい、さらにパワーアップできればと思います。 では、よいお年を(^-^)ノ~~ C区Y町「S」黒と白の石でつくられたモダンな空間で一服したときの写真。純喫茶の第一人者N氏の著書にも出てきます。  N区とある名酒場で一杯やりに、それだけで来ました。途中、こういう銅板建築に出会い、意外にもこの街に戦前の名残りがあるのに驚きでした。酒場の店内の写真も載っけようと思ったんですが、それだけでどこか分かってしまいそうなのでやめときましたw居酒屋探訪第一人者O氏ご推挙の一軒とだけ言っておきます。  O市H区ここも居酒屋探訪の第一人者O氏推薦の名酒場(写真下)での晩酌のために立ち寄った街。店内写真を見てもお分かりのように、昭和のまんまの風情の佇まいで、肴も大衆価格。O氏が著書など紹介したことで人気がさらに高まって、満席で入れないなんて涙目もあり得そう。飲んだ後にぶらりと近所を散策しましたが、むかし街の風情に感嘆。  C区NH町とある問屋街へ向かう途中に出くわしたレトロ物件。もともとは銀行だったんでしょうか。現在はとある企業が入っています。  C区Kまだまだ昭和の下町風景が残るエリアの散策。いつか取り上げようといっていてまだ取り上げていなかった背後に巨大マンションが迫っているように、再開発の波は容赦なく襲ってきそう。  I市「W」ソフトクリームが旨いと評判の店。写真のソフトプリンを頂きましたが、やはり評判になることだけはあります。紙ナプキンですぐわかってしまいそうです(^_^;)  C区NN町「K」老舗の純喫茶でモーニング。これまた名ベーカリーのパンでのトーストが旨い。恐らく、切り方でわかってしまいそうです(苦笑)ちなみに、兄弟店が近所にあって、そちらのトーストもやはり同じ切り方でした  T区U「D」モツ焼と煮込みが旨い大衆酒場。レトロ(もどき)なホッピーのポスターを見て撮ってしまいました。足を運ぶたびにしょっちゅう通う店だけに、余計にブログで取り上げにくいんです、タイミングが。 

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  • 29 Dec
    • 【神奈川県・横浜市】昭和の郷愁タップリ長屋橋たもとの名酒場「栄屋酒場」

      横浜からの帰り、伊勢佐木町の書店に立ち寄って購入した、太田和彦氏『居酒屋味酒覧』<決定版>。2004年から版を重ねること今回で4回目、〈決定版〉と銘打っていることから今回が最終の版になるのではないかと。何しろ著者の太田氏も御年70代に差し掛かるお方、それでも精力的に全国を回り、酒場を訪ねておられる、現役の居酒屋探訪家、おそらく最期までライフワークは続くのではないでしょうか。そんな日本全国、訪ねた酒場から厳選した204軒、新旧交えて紹介されているのが件の書。「味酒覧」とはもちろんあの「ミシュラン」をもじったものだが、迷走に迷走を重ねてもはや見向きもされなくなった本家本元とは違い、こちらは酒場ファン必見の書ですぞい。  これで終わると「宣伝か」(タカ&トシ風)と袋叩きにされかねないので、話に戻ると、この著書に取り上げられている一軒が今回の本題。  日ノ出町駅から長者橋を渡ってすぐの場所に佇む一軒の酒場。ブレまくりの写真で恐縮ながら、外見からして戦後まもなくと思われる佇まい。黒地に白文字で「栄屋酒場」と書かれた暖簾が下がっているのが店を開けている証拠。  創業が昭和23年、米軍が伊勢佐木町界隈を接収し、その周辺の野毛や桜木町が一大闇市でなおかつ街娼が多く屯していた時代です。恐らく開業当時からのまんまかと。  決して大きくない店内にはすでに会社帰りの集団が鍋を囲んで一杯やっていたのですが、70年以上もこの地で商売を続けてきたのは地元民のみならず酒場ファンの根強い人気に支えられたからこそかと。  黒板で手書きされたお品書き。魚介ものが特に多い。  この店は特に日本酒に力を入れていて、「地酒めぐり」なんてのも。件の「味酒覧」によれば、"「地酒巡り」のビラは千回をとうに超えた"とも。季節に合わせた銘酒も出てくることもあり、早いうちに注文せねば手遅れってオチもありそう。  地元のサラリーマンのみならず、こうした方にも愛された店。このサイン、「鉄腕一代」と大きく書かれています。そう、稲尾和久氏のもの。  アンクルトリスの柳原良平氏のサインも。   寒い季節、ストーブが店内を温めてくれます。2つのやかんが年季入りまくりですw  そして、古い箱マッチ。一本擦れば昭和の匂いがしてきそう(どんな匂いやねん)  こういう店ではとりあえずビール......ではなく、いきなりお銚子一本からスタートしたい。  お品書きに「シャコ」とあったので、これは注文せねば。大ぶりのシャコのまず舌鼓。  お銚子が空いたらにごり酒に移る。いいですね、この白濁のとろりとした液体は特に女性好みでしょうか、こういうのに恍惚ならない人はいないのでは(これ読んでる女性は恐らく叫ぶだろう、「ヘンタイ」って)  これまた大ぶりに切られた、クジラの刺身。この店では刺身は厚切りかつ大盛りで出されるのが嬉しい。これで1人前なのですぞ。  そして、〆にはこの店お薦めの一品「アナゴ天」を頼まねば。量も天つゆもタップリ、これじゃぁ下手な天ぷら屋さんなど行けません。  店を出て少し歩けば、"夜の街"野毛はすぐそこ。ハマの夜はまだまだ終わりそうにもありません。 そんなわけで横浜編はここまで。何しろ広い大都市なので何度も訪れなければ。次回は残った遊里、昭和なマーケット散策をできればと思っています。  栄屋酒場横浜市中区長者町9-17517:00~23:00 日・月・火・祝日定休   太田和彦の居酒屋味酒覧〈決定版〉精選204 [ 太田 和彦 ]1,080円楽天   佐々張写真館浜マーケットの時に載せた磯子界隈の写真の続き。 下見板張りにトタンの看板が素敵な一軒。  横からも撮ってみました。  この界隈にはお屋敷も多く建っているのですが、こちらもその一軒。  恐らくは大正から昭和初期に建てられたものでしょうか、モダンな外観なのですが、玄関回りやテラスが雑然としているのがもしかすると空き家  周囲が木塀に囲まれていますが、広大な敷地なので余程の富裕者が住んでいたんでしょうね。  裏通りに廻ると、こうしたしなびた店舗なんかも。  そして、こちらは既にご臨終状態の市場でしょうか。浜マーケットの賑わいぶりとは対照的な一面です。

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  • 28 Dec
    • 【神奈川県・横浜市】昭和の”ハマ”を駆け抜けた路面電車の数々「横浜市電保存館」

      昭和時代、主だった都市の大多数で駆け抜けていた路面電車。モータリゼーションの名のもと、渋滞の元凶とされると次々と姿を消し、現在も走っている都市はほんの僅か。過去に足を運んだことがある富山と松山、それに阪堺電車が通る大阪の住吉など、電車が路上をのんびり走る街はどこか親しみが湧いて好きだ。最近、札幌の市電が路線延長で循環して走るようになり、富山などでも路線延長の動きがあるように、交通機関として再び注目を浴びるようになっている。思えば、路面電車を追いやったのも自動車至上主義のようなところからなのだが、渋滞は減る処か却って酷くなるし、悲惨な事故も増えるし、排気ガスで空気も汚れる。そして、何よりも市民の足を奪った結果として、商店街など中心街の活気が奪われたのが由々しき問題。官民が寄ってたかって路面電車を取っ払ってしまった岐阜がその最たるもので、代表的な繁華街だった柳ケ瀬などはいまや閑古鳥だ。逆にその自動車を捨てれば事故や渋滞など減るし、排気ガスも減って環境にもやさしいし、車に頼らず駅や停留所まで少し歩けば健康的だし、何より市内の中心街などは一度離れた客足も戻すことも期待でき、一石二鳥どころではないメリットになる。いまでも遅くはない、路面電車復権を声高らかにして叫びたい......   ......と個人的な主張はここまでにして、前回まで歩いた横浜もかつては路面電車が市内を駆け回っていた。昭和47年に全廃されるのだが、そんなありき日の記憶を残そうと建てたのが、今回取り上げる横浜市電保存館。バスで市電保存館前あるいは滝頭で降りてすぐの場所にあるのですが、その滝頭はかつて市電の車庫があった場所。そんな立地を活用しているともいえます。  ゲートをくぐると、何やら高い棒のようなものが立っていますが、ただの棒ではありません。  そばの案内板に書いていますが、これは市電の架線用ポールで、最後の最後まで残っていた一本をここに展示しているんです。  市電を全廃こそしてしまった横浜だが、そこでハイおしまい、ってことにせず、市民の記憶に留めてほしいという気持ちで建てたのがこの市電保存館。開館が市電廃止の翌年、昭和48年。  入館料100円を払って中に入ると、エントランスには1000型車両の模型。  そして、市電と地下鉄ブルーラインの鉄道模型を擁したジオラマが。ボタンを押すと模型が動く仕組みなのですが、実際には市電と地下鉄が一緒に運行されていないんですね。市電廃止が昭和47年3月なのに対し、地下鉄開業が同年12月なのですから。  そして、この保存館のメインがかつて市内を走っていた車両の展示。  館内に展示されている車両は7台。一口に路面電車といっても、その車両の形やデザインは時代とともに異なっていて面白い。  変わったところでは、客車ではなく無蓋(むがい)貨車と呼ばれる車両も。路面電車に貨車というのは珍しいのではないか。  展示されている車両は、嬉しいことに中に入ることができます。  「ドアー」という表記が妙に懐かしく感じるのは年のせいでしょうか。  「乗り降り」ではなく「降り乗り」。やはり、時代?  恐らく当時のままであろう車内広告。  通常は見ることができない運転席も。  制御器は三菱製。  当時の運転路線図も見られます。市内をくまなく網羅していることがわかります。  こちらは昭和40年当時の始終発時刻表。意外にも朝早く、そして夜遅くまで運転していたことが分かります。  降車用のブザー。押すとどんな音が鳴るのだろう?「ワンマンの時」という表記は、恐らく車掌がいた時代のものか。  運賃箱。今では当たり前のICカードがない時代はこんな感じ。  車外の路線表示案内。  広告入りの系統番号票。  停留所の駅票。  お子さん向けに、運転台のシュミレーション体験も。  館内には横浜市電の歴史の年表が。1859年なんて江戸時代だろっていうツッコミはさておき、実は横浜開港の年なんですね。市電開通が明治37年、あれから70年近くもの間、関東大震災や横浜空襲を潜り抜けながら市内を走っていたんですね。 小さい博物館ではありますが、路面電車に特化したものは他に仙台ぐらいではないか(もし他にもあれば教えてください)。いかに路面電車をポイしてあとはほったらしという都市が多いことか、実に嘆かわしい。その点、市電を廃止しつつもこうした形で往時の記憶を後世に伝えんとする横浜の姿勢は評価したい。できれば路面電車の復活なんてのも......って無理な話でしょうかね?  横浜市電保存館横浜市磯子区滝頭3-1-539:30~17:00(入場は16:30まで) 月曜日・年末年始休館  お土産にミュージアムショップで購入した路線図入りのクリアファイル。 さて、次回は横浜編もラスト、あの居酒屋探訪家もご推挙の激渋酒場で締めます。

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  • 27 Dec
    • 【神奈川県・横浜市】闇市上がりの地元密着市場「浜マーケット」

      「黄金町」、「曙町」、そして「永真遊郭」と旧色街を散策してから、『濱マイク』の舞台にもなった喫茶「マツモト」で軽~くランチ。そして、次の目的地を向かうべく曙町バス停からバスに乗り込みました。そして、降り立った停留所というのが......   その名も「浜」という停留所。そして、写真にちらっと見えていますが、反対側にあるあの場所が今回の目的地......  浜マーケット 香ばしい町並みとか激渋マーケットとかを扱うサイトなどではよく出てくる市場。それにしても、川崎や横浜にはこうした激渋なマーケットが多いこと。  このマーケットの最寄り駅は一応「根岸駅」か「磯子駅」になるんでしょうか、いずれにせよ中途半端に遠いんですねまあ、もともとが遠方からの客などをあてにした市場ではないのでいいんですが、もし交通機関を使うならバスでしょう。かつては市電も通っていました。  ご覧の通り、香ばしい光景です(褒め言葉)しかし、ほとんどが廃店舗とかいう地方都市のアーケード市場とは対照的に元気に営業中。中途半端な立地でさほど交通の便が良くないのが幸いしてなのでしょうか、地元民の生活の胃袋を支える場として不可欠な存在になっているようで。  そして、中に進むにつれディープ度がUP察しの通り、もともとは闇市でした。昭和20年の暮れごろに、戦時中に造られた「疎開道路」の一部分、約11メートルに一間間口の店が片側5~5軒ずつ、計10軒ほど並んだのが始まり。当初はゴザを敷いた上に野菜や乾物を並べただけの簡素な露店でした。現在のようなアーケードになったのは昭和29年。  当時は市電が通っていて、停留所も近くにあったことで本牧や杉田などから電車に乗ってやってくる客も多く、賑やかだったそうで。転換期を迎えたのが、根岸線が開通した昭和45年で、根岸駅や磯子駅の周囲にスーパーや大型店ができ始め、さらに2年後に市電が廃止、かつての勢いを失い始めます。  それでも客足が途絶えることなく続いたのは、皮肉にもこの地が鉄道が通らない、所謂「陸の孤島」だからかも知れません。周辺住民がわざわざバスなどで最寄り駅まで足を運ばずとも、このマーケットで間に合わせることができるのですから。むしろ、最近はレトロな雰囲気が却ってよかったのか、わざわざ遠方から足を運ぶ人も増えてきているようです。  何だか、版権がうるさい看板もちらっと見えますが、気にしないw  昭和30年代を思わせる手書きの看板もあります。  昭和臭丸出しのキャッチフレーズですね。 ご家族そろってウキウキショッピング歩きやすい通路で 楽しいお買い物!  短いアーケードなので、あっという間に出口です。  もう一つの入口がこれまたいい感じです。特売日が毎月8日・18日・27日・28日、定休日が毎月9日・19日・29日です。  現在、これだけの店が営業しています。 そんなわけで、年内は休まず営業しているそうなので、暮れの準備にぜひ浜マーケットをば。次回は、この辺りも通った市電にまつわるスポットに行きます。電車マニアは特にお勧めですぞい。 浜マーケット横浜市磯子区久木町20-5  佐々張写真館浜マーケットの付近には、これまた香ばしい物件も多いのですね。そんな物件の数々を2回にわたって。 浜マーケットから磯子駅へ向かう途中の歩道アーケード。かなり年季が入っているのがお分かりかと。  コーセー化粧品の古いフォントですね。  3軒の看板建築、それぞれ違うファサードなのが面白い。しかし、特に注目なのが真ん中の店舗......  このタイル貼り、たまりません  薬屋ではお馴染みのサトちゃん、3体揃ってお出迎えです。しかし、右のケロちゃんは別の向きを見ています。  個人的にヒットなのがこの床屋さん。斜め真鍮のドアだけでもグッときますが......  実はよ~く見ると、外壁が豆タイルで敷き詰められているのですね。  そして、だまし絵のような床タイル。どういう訳かこのブログではよく出てくるんですね、まあ、好きで出しているだけなんですが  その建物全景がこんな感じ。磯子区は侮れません。 それにしてもこの界隈、歩いていて飽きないですわ。実はまだまだ好物件があるんですが、それは次回に取っておきます。

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  • 26 Dec
    • 【神奈川県・横浜市】横浜旧色街探訪(その5)旧「永真遊郭」(永楽町・真金町)・後篇

      前篇はこちら。後篇はいよいよ「永真遊郭」の本丸に入っていきます。(『遊郭をみる』より)永真遊郭ができたのが明治21年7月ですが、広さが約2万坪で前身の港崎遊郭(約1万5千坪)や吉原遊郭(約8千坪)、高島町遊郭(不明だが吉原遊郭より狭かったといわれる)と比べると圧倒的に広い遊郭でした。大正以降、この遊郭が急速に発展しますが、『全国遊郭案内』によれば昭和5年当時、「貸座敷が五十九軒あつて娼妓は約五百人」 でした。上の地図を見てわかるように、北から「黄金町」「曙町」そして「永真遊郭」と至近距離で色里が存在していました。そして、旧遊郭の特徴として正方形状に整然と区画されているのがわかります。前回の横浜橋市場を出て並びに鎮座しているのが金刀比羅大鳶神社。周囲には寄進者の名前が書かれた玉垣が並んでいます。前回の冒頭写真がそれで、あの桂歌丸師匠もちゃんと寄進者の名前に連ねています。その歌丸師匠の生家も永真遊郭の妓楼だった「富士楼」でした。ところで、玉垣の端に何やらどす黒い石のが見えます。明らかにこれだけ古そうです。そこに刻まれている文字、「遊廓」とはっきりと読み取れます。永真遊郭もこの神社に寄進していたことを示す証拠です。大鳶神社を背に撮る。植え込みがある広い通りがいわゆる「大門通り」です。大門は永楽町側にあったそうです。その大門通り沿い、神社からすぐの場所に妓楼っぽい建物が一軒。もしかすると、数少ない遺構かも。2階の戸袋に家紋のようなものが見えます。妓楼の家紋なのかどうか......ところで、永真遊郭は昭和20年5月の横浜空襲で全焼しますが、再び赤線として復活。『全国女性街ガイド』の記述で、「昔の永楽町と真金町を一つにした百九十軒の店に七百名の女がいる」 。先日カストリ出版にて入手した『新日本艶笑地図』には、『青春タイムズ』昭和26年7月号にあった『新日本艶笑案内 ヨコハマの巻』という記事があります。横浜の街娼についてふんだんに記載されていますが(巻末藤木TDCの解説文が特に横浜についての記述に多く割いています)、赤線だった「曙町」カフェー街や件の「永真遊郭」の記述も。以下、その記述から。かつての女郎衆の名で通った女たちは特殊カフェーの女給さん。それが店の中のホールから「ちょっとちょっと、お眼鏡さん……」と呼びかけているのだが、その脇にデンと腰を下ろしているのは、ギュウ太郎に取って代ったヤリて婆ァ。これを除いたら、昔の面影らしいところはミジンも見られない。ヤリテ婆こそ今日の女郎屋を象徴するものだ。女郎衆ならぬ女給さんは、洋装、和服いろとりどりで、どれも劣らぬ美人揃い。おまけにこゝは戦後復興が遅れており、最近になってポツリポツリと建ち始めた家ばかりだから、ホの香もかぐわしい本建築。設備も整っているし、間取りも良いから、ぐっしょり濡れるにはもってこいだ。マワシは取るには取るが、余程売れる女以外は殆どなく、客足の低調なところから、女は一人でも余計ひきつけようとサービス本位。これは店も同じである。赤線は昭和33年まで存続しますが、木村聡氏『赤線跡を歩く』が出た平成10年ごろには所々に残っていたカフェー建築も、現在はそのほとんどが現存せず。現在は住宅街に変貌し、古い建物もマンションに建て替わるなど、かつて遊郭だったと言われてもピンとこないほど。大門通りの植え込みに並ぶ柳の木が、何となく往時を想い起させるかのようです。永楽町には、戦後まで色街として生き長らえた土地柄を表しているのか、ラブホテルが並んでいます。それにしても、赤線の遺構がはっきり残る親不孝通りとは異なり、こちらの街は新陳代謝が激しいようです。そんな感じで、横浜旧色街散策はひとまずここまで。浅間町の「新天地」カフェー街や本牧の旧「チャブ街」も残っていますが、それらは次の機会に廻りたいと思います。次回は戦後の闇市から受け継いだあのマーケットへ足を運びます。色街百景 [ 木村聡 ]¥4,104楽天赤線跡を歩く [ 木村聡 ]¥1,080楽天

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プロフィール

佐々張ケン太

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東京都

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