日本各地めぐり”ささっぷる”

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ア●街が放送しない街並み散歩

ア●街で放送されないような遊里跡(遊郭・花街・赤線・青線街)を中心に散策し、拙い写真を織り交ぜて綴る、観光案内になっていないサイト。


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前回に続いて、「飛田新地」の散策編。

その前に前回書き忘れていた「飛田新地」の歴史をさらりと。

 

『全国遊郭案内』の記述によれば、「飛田新地」(当時は「飛田遊郭」)は「元難波新地に在つた遊郭と新町遊郭の一部が、大正七年に茲へ移転して来たもの」 で、昭和5年当時「貸座敷は二百廿軒あつて、娼妓は弐千七百人」 と大規模な新興遊郭でした。

また、実は意外だったのですが、当時はいまのような顔見世の張店ではなく「店は兼業写真店」 だったそうで、女性の写真を店先に出して客に選ばせるものだったようです。

飛田へ遊びに行った人の多くは、恐らく昔からの伝統的なスタイルで営業をしているんだと錯覚しているかと思いますが、実際にはそうではなかったんですね。

 

写真は『遊郭をみる』(筑摩書房)より

 

その街並みですが、件の『全国遊郭案内』には、「大門を入ると中央の大通りを中心に、縦横街は幾筋と無く整然と別れて、和洋折衷の貸座敷がずらりと並んで」 いたとあります。

前回書いたように大阪大空襲の被害が微少で済んだせいもあって、戦前のものと思われる妓楼建築が所々に残っています。

それも、和風の妓楼だけではなく、洋風のモダンな妓楼建築も。

何しろ当時は大正ロマンの時代、近くには一大遊園地「ルナパーク」を擁したモダンな繁華街「新世界」が控えていたこともあり、時代に合わせるかのように妓楼もモダンさを取り入れていたのがうかがえます。

実際、遊郭でも珍しかったダブルベッドを導入したり、ダンスホールやカフェも併設したりなど、後発の遊郭だからこそ伝統にとらわれず他の遊郭との差別化を図ったことで、関西きっての一大遊郭に成長したともいえます。

 

『全国花街めぐり』より

 

戦後は赤線に移行、『全国女性街ガイド』によれば新旧2つの組合が存在していて、「合せて一八七軒に一六二八名の大所帯」 だったそうですが、全然と比べると店や女性の数が若干減っている気も。

しかし、空襲の被害が最小限だたことで、「廓としては若い方だが半分焼けなかったので廓情緒豊か」 だったとも。

昭和33年の売春防止法施行で赤線が廃止されますが、現在はご存知の通り、表向きは「料亭」として営業という形で現役の遊里として健在。

もっとも、当ブログは風俗サイトではないので、実際どんな内容の遊びなのかについてはよそのサイトに行ってもらうことにして、余談として、大阪は条例で特殊浴場の設置が禁止されており、その受け皿として「飛田新地」が(黙認」という形で)存在しているとだけ言っておきます。

 

さて、長い前置きはここまでにして、今回は戦前の名残りということで代表的な物件からスタート。

 

 

嘆きの壁を南にたどって進んでいくと、威風堂々という表現が当てはまる妓楼建築が見えます。

「飛田新地」が誕生した大正7年築、現在は国の登録有形文化財に指定された「鯛よし百番」です。

旧妓楼が国の有形文化財というのは、他に類を見ないのではないかと思われますが......

 

入口には右から「百番」と彫られた木製の看板が架かっています。

当時は大門近くに「一番」という名の店があり、以下、廓の奥に入っていくごとに番号と格式が上がる仕組みでした。

大門からかなり離れた場所に鎮座するこの「百番」こそ、「飛田新地」きっての最高級の格式をもった店だったのです。

 

前置きでも書きましたが、「飛田新地」ではほとんどが表向き「料亭」として営業していますが、この「百番」は名実ともに「料亭」として純粋に料理を提供する形で営業。

もっとも、赤線廃止までは他と同じように妓楼だったわけですが。

 

この百番、純粋な「料亭」と替わっても格式が高い店なのには変わりがなく、完全予約制、しかも「一見さんお断り」と利用するにはハードルが高い。

当然ながら、料金も一流。

とてもではありませんが、我々庶民の手が届くような店ではありません。

中の様子などは、実際に予約してレポートした人の記事があるので、そっちを参照のほどを。

 

その「鯛よし百番」の裏口も。

妓楼として使われた当時は、表から入るのをはばかる客がここから入ったのでしょうかね。

 

「鯛よし百番」に目が奪われがちですが、裏手にもモダンな建物と妓楼建築が残っています。

隅々まで探せばまだまだ出てきそうですが、場所が場所だけにそうはいかないところです。

 

さて、「鯛よし百番」の斜め向かいには、フェンスに囲まれた形で「飛田新地」の歴史を物語る重要なスポットが存在しています。

 

ひっそりと佇む形でぽつんと立っている石碑は、開廓から現在に至るまで、「飛田新地」で働いていた人たちを弔うための慰霊碑です。

石碑に刻まれている文字は「慈悲共生」。

 

碑の裏には「飛田遊郭発祥の地」という文字が刻まれています。

まさしく「飛田新地」の歴史の生き証人です。

 

脇にある碑文には、「安らかに来りて眠れ この飛田に 有縁無縁の 浄刹創らむ」 。

 

一般的に遊郭で働く遊女たちは亡くなってもまともに弔ってもらうことができず、殆どの遺骸が近くの寺に放り込まれる運命。

吉原で言うところの浄寛寺が「投げ込み寺」として有名ですが、ここ飛田では無縁仏としてこうした観音像を建てることで霊を弔っています。

 

その脇には「飛田新地」の歴史とともに、慰霊碑の由来が案内版として置かれています。

 

その案内板によれば、この慰霊碑は「いろいろ事情により飛田遊郭で働き、居住していた多くの男、女(遊女)の方々が様々な事情や世間の風評で遊郭外に移住することもままならなず亡くなられた霊が安らかなれと願い建てられていたもの」 だそうで。

 

遊郭における悲哀はどこも同じで、ここ飛田でも例外ではありません。

廓で働くことにはいろんな事情がありますが、どれだけの数が世間の目にはばかりながら廓の外を出ることもかなわず亡くなったことか。

そんな犠牲の積み重ねがあって、今の「飛田新地」があるといえるでしょう。

 

 

 

 

 

 

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