東京近郊を中心に、たまに遠方にも脚を運んで、遊里跡やらシブい商店街などぶらりと歩いてはデジカメで撮った下手な写真を織り交ぜながら綴っています。
「●っぷる」と違って、観光案内にはなっていませんので、悪しからず。

【佐々張ケン太のセカンドブログ】

★KENTAの写真倉庫★
過去に歩いた街並みの写真の忘備録的サイトとして、Ownsにても公開中なので、そちらも併せてどうぞ。
不定期更新中です。

渋で純な喫茶店
過去に訪問した純喫茶の忘備録サイト。
時々当ブログと同時に連携して記事を掲載している場合あり。
不定期更新中ですが、更新頻度は亀のごとく遅いですw

@sasabarikenta twitter
以前は"amebaなう"とかにもつぶやいていたが、現在はtwitterのみ。
ブログの更新情報だけでなく、外に出歩いている際には実況していたり、何らかの毒を吐いていたり(⁉)していますw
なお、前述のように"なう"は開店休業状態なので、そっちにフォロー申請しても無駄です(ほとんど削除してますんで)。

※コメントは承認制です。記事内容に関係のないものなどは掲載しませんので悪しからず。

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  • 27 Feb
    • 【京都府・京都市】日帰りで京都をトコトコ(その9)…西陣の老舗純喫茶で軽~くランチ「静香」

      午前中は先斗町~宮川町~五条楽園と、鴨川沿いの遊里をひたすら歩いて回りましたが、ここにきて雨が強まり、たまらずバスへ。 このあと、地下鉄、さらにバスと乗り継いで、次の目的地の西陣へ向かいました。 千本今出川で降りて、次の散策地に向かう途中にまず軽~く腹ごしらえ。 かねてより行こうと思っていたこちらの喫茶店です。       はい、こちらの静香さん。 と言っても、店前に立っている女性ではありませんw (本当にその名前なのかどうかは知りませんが) 店にShizukaと看板が掛かっていますね、そちらのお店です。       カーブを描いたカウンターがありますが、タバコ屋さんも兼ねていたようですね。       どうでしょう、このタイル貼りの綺麗なこと       ガラス戸に描かれている大きな木に小鳥の絵も素敵ではありませんか それでは、中へ......       どうでしょう、実にシブいこと。 ソファーの深緑色が長年使いこまれたような感じの色。 実際にかなりの年代ものなので、座り心地は硬め。       カウンターに使われているのは泰山タイルでしょうか。 床のタイルもいい感じです。       そんな訳でズームして撮りました。       京都の冬は寒いので、ストーブは欠かせません。 特に手前のストーブはシブすぎる......       実にレトロな雰囲気の店内なのですが、それもそのはず、創業が昭和12年、何と80年の歴史を持っています。       御手洗の横の中庭もいい感じのシブさ。 レンガ塀にアーチ状の意匠、そして、なぜか小便小僧       先程ちらっと触れましたが、タバコ屋さんも兼ねていたということで、たばこの看板付きのレジスター。 それもかなりの年代もの。 何年製なのか店員さんに聞くのを忘れてしまった罠。 そして、下には古い「たばこ」の看板。 「こばた」と読みませんよ、右から読むんですね、これ。       これは何でしょう? 古いラジオかしらん?       どれもこれも、店内は骨董品に飾られ、歴史の長さを物語っています。       何せこのしつらえですから、店内の写真を撮る人も多いんではないかと。 そんな感じなので、こうして店内を撮りまくっていますが、向こうも心得たもので、快く許しを頂けました。       そして、注文したものが出てまいりました。 今回はミルクコーヒーと卵サンドのセット。       挟んでいるのは出汁巻き卵。 しかも、この厚さですゾ。 実は当初、ホットケーキを頼むつもりでいたのですが、メニューに「出汁巻き」という文字を見てこっちを選択。 果たして、これが正解で、優しい味わいに満足。       そしてミルクコーヒー。 関西の喫茶店に行くとよくメニューで目にしますね。 砂糖もあらかじめ入っている、京都ではお約束のスタイル。 イノダのイメージが強いんですが、どうもこの店から始まったのではないかとも。   ちなみに、店名は次に向かう花街「上七軒」の「静香」という名の芸妓さんが始めた店だから。 芸妓さんと旦那衆の待ち合わせ場所にも使われていたそうで、ガッタンゴットンと西陣織の音が盛んだったころからこの街を見守り続けてきた喫茶店。 京都の中心街からは離れていますが、それでも足を運んでおきたい一軒、お薦めです。         静香 京都市上京区今出川通千本西入ル       京都レトロ散歩 [ ナカムラユキ ] 1,620円 楽天  

      NEW!

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  • 26 Feb
    • 【京都府・京都市】日帰りで京都をトコトコ(その8)…京都遊里探訪「五条楽園」後篇

      最近まで現役色街だった「五条楽園」編も3回にわたってしまいましたw   「五条楽園」篇前篇 中編   7年前の摘発を受けて、色街としては完全に息の根が止まった形ですが、ココにきて新たな動きも見られます。       最近は旧色街に残る妓楼建築やカフェー建築をリノベーションして、若者向きのカフェや雑貨屋さんなどを開業する動きが所々で見られますが、ここ五条楽園も例外ではありません。 こちらの「五条モール」さんもその一つで、建物はお茶屋さんだった一軒。       かなり剥がれてしまって痛々しい形ですが、タイル装飾の玄関は健在。 平成15年にオープンしたばっかりで、6つの部屋には飲食店や雑貨屋、古本屋、工房などが入り、文字通り"ショッピングモール"となっているのが特徴。 外国人観光客に対応できるように案内所も入っているようで。 ウェブサイトもあるので、詳細はソッチをご覧いただければ。       五条モールの近くにある「サウナの梅湯」さん。 前篇でも取り上げた「弁天湯」さんと合わせて、五条楽園には2軒の銭湯が現役として健在。 もっともこちらの銭湯、一度は休業し、廃業寸前でしたが、銭湯をこよなく愛する一人の若い人が受け継いで、平成27年に再開します。       カラフルな窓と手摺が旧花街の風情を醸し出しています。 それにしても、銭湯を愛する若手が廃業寸前の銭湯を経営という動きは注目でしょう。 全国的に銭湯の数は減少の一途、その存在価値を見直す一助となるんでしょうか。   ところで、その裏手にちらっと見えるビルですが、何を隠そう、おっかない"おアニさん"がわんさかいる某事務所なんですね。 五条モールからこの銭湯に向かう途中に、そのビルの前を通ったら警察がいるわいるわw それ程までの物騒さですが、何せ当局に"指定"を受けた団体なんで、名前を書かなくても分かるぐらい有名でしょう え、ビルの写真 怖くて撮れないっつーの       まあ、かように色街にアウトローの存在は付き物なんですが、もともとは高瀬川の水運の要所でもあった場所で、それを示す記念碑もあるぐらい由緒ある地なんです。       案内板には「高瀬川船廻し場跡」とあります。 豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた後、天下泰平を願うために方広寺を建立しますが、その資材を瀬戸内の島から京へ運ぶために角倉了以らにより造られた水路が高瀬川だったんです。 やがて米や木材など生活に必要な物資を運ぶ船の水路となり、この辺りにはそんな高瀬舟が多く繋がれていたんですね。 ところで、高瀬舟といえば、森鴎外の小説の題で有名ですが、あちらは咎人を島送りするために運ぶ船の話。 もしかすると、この川は実際にそんな役割も併せていたのかも知れませんな。       さて、「五条楽園」にはまだ真打ちが残っています。 まずはこちら、全体が市松模様のタイルで装飾されたこの建物。       「新みかさ」という看板が掲げられているこの建物、赤線フリークの間ではお馴染みの物件です。       モダンな手摺にステンドグラスで彩られた円窓が2つ。 これを建てた職人さんの腕の凄さが伺えられます。       そして、この飾り窓もいい感じに凝っていますね。 こちらは住人さんも健在なんで、風のように訪れて風のように去った方がよさそうです......       そして、いよいよ大詰め。 手前のお茶屋さんもすごい建物ですが、注目はやはりその奥に見える建物......       先程の「新みかさ」とはいい勝負の美しい遺構。 これも赤線マニアの間ではお馴染みの一軒でしょう。       マジョリカタイルで装飾された2階部分。       そして、これまたステンドグラスで彩られた円窓。 しかし、見逃せないのがその下の蛇口。 滴る水滴もうまい具合に装飾されているではないか。       実はこの建物、お茶屋としての使命を終えた後は長らく放置プレイをかまされていたのですが、最近になって店舗として再利用されるように。       たまたま戸が開いていたので撮っていると、中まで鮮やかな豆タイル敷き。 こりゃすげぇ―罠Σ(゚д゚;) 入りたかったのも山々でしたが、その後の予定もあったので泣く泣くパスすることに。       ここでは「モミポン」というポン酢を扱っていて、これを使った料理も頂けるスペースも。 後で知ったんですが、太田和彦氏のBS11での番組でもこの店が出てきたそうで。 あちゃぁ、これ見逃してたよ(・・;)       先程の五条モールや梅湯と同様、こうしたスペースが放置したまま朽ちるのがもったいないということで再活用し、観光客を呼び込もうという試みが見られるのが、最近の「五条楽園」。 人がいなくなったお茶屋が消えゆくよりはいいわけですが、赤線フリークの間には朽ちゆく姿に哀愁を感じる向きもあって、どっちがいいのやら。 いずれにしても、今後のこのエリアは要注目でしょうね。   そんな感じで、「五条楽園」編はここまで。 雨が強くなる中、バスや地下鉄を乗り継いで、次の遊里へ向かいます。     ※追伸 実は5年前にも京都を訪問していて、その際に五条楽園も散策しています。 その時の写真をこちらで載せておきます。 今回は急ぎ足の散策でしたので、前回見つけた物件を見落としている可能性があるかも     五条モール 京都市下京区早尾町313-3   サウナの梅湯 京都市下京区岩滝町175   モミポン 京都市下京区西木屋町通五条下ル平居町19

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  • 25 Feb
    • 【京都府・京都市】日帰りで京都をトコトコ(その7)…京都遊里探訪「五条楽園」中編

      前回に続いて、「五条楽園」編。       高瀬川の東側を歩いていると、あるわあるわ。 どう見てもカフェー建築ですね、本当にありがとうございます。       戦後も赤線として紅燈を灯した「七条新地」ですが、昭和33年の売春防止法施行とともに現在の「五条楽園」に名を変え、旅館やお茶屋が建ち並ぶ"純然たる花街"として再スタートします、表向きは......       しかし、実際にはあの「飛田新地」や「松島新地」、「今里新地」などと同様の商売を行い、「祇園」などのような「一見さんお断り」とは対極的の、「一見さん御歓迎」の色街として現役でした、最近までは。       現役当時のシステムなどについては、好事家どもが様々なサイトで書いているので詳細は各自検索していただくとして、ここで言えるのは表向きは「花街」として営業しているので、同様にお茶屋に上がって置屋から女中が派遣される型式だったということ。 これは大阪の「今里新地」と同じパターン。       その後は"自由恋愛"ということで、お客と女中の間に行われたことは店には関係ありませんよ、ってことですが、この"自由恋愛"というのは現在の特殊浴場などと同じ建前なのは言うまでもありません。       唐破風屋根をしつらえた京町家が建ち並ぶところがあり、風情ありそうに思えるこの街が、まさか現役の色街だったとは思いもしないでしょうね。       赤線廃止後の昭和40年頃も、お茶屋84軒、置屋16軒、旅館15軒、バーやスタンド19軒で、芸妓100人程度を擁していたそうなので、たいそうな色街だったと伺わせます。       今も現役の旅館である「平岩」さん。 遊郭特有の妓楼建築のしつらいをそのままに、現在も宿泊を受け付けています。 何とウェブサイトがあり、これを見ると宿泊料金も4000円からとリースナブル。 どうも最近は外国人観光客も多いみたいです。       さて、そんな「五条楽園」ですが、その終焉は突如訪れてしまいます。 今から7年前の平成22年、10月28日と11月18日の2回にわたり京都府警の手入れが行われます。       これによりお茶屋と置屋の統括責任者や経営者らが売春防止法違反でパクられ、五条楽園は一斉に"休業"を余儀なくされます。 そして、再開の見通しが立たないまま、50年以上も続いた色街は終焉を迎えます。       最晩年の「五条楽園」は、お茶屋が20軒、置屋が4、5軒ほどと全盛期と比べると明らかに衰えが見られたわけですが、この摘発で完全に息の根が止められた格好に。       現在もこうしてお茶屋やカフェー建築が多く残っていますが、往年と比べるとその数も減らしており、空き地も目立っています。       豆タイルの円柱に謎のペインティングがされた置石の玄関。 円柱を挟んで2つも玄関があり、普通の家屋ではないことが伺えます。       現役時には所々にお茶屋の看板が掲げられ、燈を灯していたのも、今ではそのほとんどは取り外されてしまい、人っ気のないところも。 そして、空き家も目立ち、荒み具合も尋常ではありません。       そんな感じで、いま残っているカフェー建築もいつ空き地になってしまうか予断が許されないところ。 散策するなら早いうちでしょう。   さて、そんな終えた色街「五条楽園」ですが、最近は変化も見られ、街並みをいろんな形で残そうという動きも。 それについては、次の後篇へ。

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  • 24 Feb
    • 【京都府・京都市】日帰りで京都をトコトコ(その6)…京都遊里探訪「五条楽園」前篇

      前回の「宮川町」は祇園の......ではなく、「五条新地」の流れを汲む花街でした。 その「五条新地」、一般には「五条楽園」と言った方が通りがいいかと思いますが、今回はその街並み。 あまりにも濃ゆ~い遊里なんで、3回に分けて取り上げますよん。   *:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆       牛若丸と弁慶の対峙で有名な五条大橋。 この橋を間に挟んで、「宮川町」と「五条楽園」がお互い、対角に位置していました。 距離的にも近く、2つの花街が結びついていたと云われるのも妙に納得がいきます。       五条大橋の南、河原町通りに奥まった場所に高瀬川を挟んで、七条通まで南北に伸びていました。 そんな訳で「七条新地」、また「橋下」という通称がありました。       現在もこの辺りにお茶屋の建物が多く残っている訳ですが、前回の「宮川町」や「先斗町」、あるいは「祇園」とは異なり、観光地ライズされておらず、それどころか妙によどんだ空気を醸し出しているわけで。 それは後で述べる経緯も絡んできますが......       お茶屋の屋根に乗っかっている小さい像、実はお茶屋に限らず京都の町家には多く見られる、「鍾馗(しょうき)様」と呼ばれるもの。 京都三条の薬屋が立派な鬼瓦を葺いたところ向かいの家の住人が突如原因不明の病に倒れ、これを鬼瓦に跳ね返って悪いものが向かいにとりついてしまったのが原因と考え、鬼より強い鍾馗を魔除けに据えたところ、病気が治ったというのが始まりだそうで。 現在も京都をはじめ、中部から関西の至る所で鍾馗様を目にすることができます。       雨の「五条楽園」。 ここに遊里に付き物の銭湯があります。 よく見ると、2階がお茶屋風で周りに合わせているかのようにも。       「弁天湯」さんの向かいのお茶屋さんの玄関。 両脇や床に張り詰められた鮮やかな豆タイルに目が行ってしまいます。       ここに至って、「五条楽園」が娼妓主体の色街だったことを認識するわけです。 そして、戦後も赤線として存続。       ここで『全国女性街ガイド』から「七条新地」の項を抜粋。   通称を橋下といい、五条大橋から七條までの西側の川沿い。百六十八軒に七百五十名の女たちがいる。京都的というより全国赤線的なシマで粒は不揃いだが、遊ぶには活気があっていい。疎水をはさみ西と東に分かれているが平均して安く、遊び三百円、泊り千円。   「疎水」というのは恐らく高瀬川のことでしょう。 それにしても、さほど広くないエリアにこの規模は凄い......       そして、この「七条新地」、お茶屋だけではなく洋風のカフェー建築が多く残っているのが特徴。 純然たる赤線だったことをうかがわせます。       以前取り上げた大阪の「飛田新地」に残っている洋風妓楼を彷彿させる外観にモダンな窓。       そして、アーチ形が続く装飾。 周りに植木鉢が並べられているように、現在も住人が健在の様子。       前述の『全国女性街ガイド』でさらに続きが......   昨年までは写真をショーウィンドのように飾っていたが、現在は、"照らし"といって、蛍光灯のスポットを当てた陳列棚に女が並んでいて、のれん越しに顔が見える。検診は東側が火曜、西側が月曜。   当初は写真制だったのが、後に仲見世制、現在の「飛田新地」や「松島新地」と同様のスタイルに変わったようです。 そして、最後の検診、これも実は重要なポイントで、当局から赤線として営業を許可されたエリアだったという証ですね。 赤線イコール風俗営業ということで、性病の検診を義務付けられていたことを示しています。       突如として現れるごつい和風建築。 「五條會館」という看板がありますが、これはかつての歌舞練場。 世間体を考えて対外的には「祇園」などと同様の「花街」ということにし(それ以前に「赤線」であるということを絶対に認めたがらない)、同じように歌舞練場を置いたという風ですね。 とはいえ、実際に娼妓にも踊りや音曲を習わせ、花街で働くための芸事をきちんと身に付けさせていたそうです。       そんな遊里の真ん中を流れるのが高瀬川。 ここまでは西側を歩いて行きましたが、今度は東側に廻ってみます。       そして、川の対岸にもお茶屋が残っています。 屋号が書かれた看板も残っていますね。       この界隈では大店の部類と思われる「三友楼」。 しかし、よく見ると静寂に包まれていて、生活感も見られません......       そして、所々で目にする空き地。 恐らく、もともとはお茶屋があったんでしょう。       その空き地の向こうにかつてのお茶屋が見られますが、玄関がバイクで塞がれています。 もっとも、人っ気が全く感じられませんが。 どこか荒んだ感じに見えるのは気のせいではないかも......   で、この「五条楽園」、まだまだ長くなりそうなので、次回へと続きます。  

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  • 23 Feb
    • 【京都府・京都市】日帰りで京都をトコトコ(その5)…京都遊里探訪「宮川町」

        前回の四条大橋からそのまままっすぐ進めば、先には八坂神社。 その門前に広がっているのが、言わずと知れた一大花街「祇園」です。 そんな訳で、これから「祇園」へ向かい......   ......ませんw 只でさえ観光客が多く、しかもエリアが馬鹿みたいに広い「祇園」。 日帰りという制約から考えると、どうしても時間を取られるのが必定、という訳で今回はスルー。       人が多い祇園をスルーして、その手前の宮川町へ。 南座からさらに南、鴨川に沿って五条大橋の袂まで一直線上にお茶屋が並んでいます。 前に取り上げた先斗町と同じような形ですね。       こうした立派な3階建てのお茶屋も残っていて、流石だなっと。       祇園と違い、この宮川町はあまり観光地ずれしていない分、人通りがほとんどなく、花街風情を堪能するには持って来いで、散策しやすい。     (『全国花街めぐり』より抜粋)   上の図を見ると、先斗町と祇園、そして宮川町とお互いに隣接しているのがわかります。 そうなると、宮川町は祇園の親戚のようなもん......と言いたいところですが、実は事情が違うようで。       ここで例の『全国花街めぐり』を見ると、「宮川町」についてこんな記述が。   橋向ふにわたりて其処此処まごつく内、往来の賑やかなるに浮かれて、思はずも橋の袂を左の方へうかれ行くと、何かはしらず、両側に掛行燈、軒毎に照らし、三味線の音にぎはしく、ぞめき唄に、頬かむりせる男女のちらつくに紛れてのぞき歩く。こゝは「五条新地」とて少しのながれを汲む遊所なり。   え五条新地       ずっと古い頃五条橋の下あたりに在った岡場所がだんだん宮川町へ発展して行ったもので......   ともあるように、もともとは遊女屋が集まった遊里だったんですね。 あの祇園の系列ではなく、「五条新地」、次回に触れる「七条新地(五条楽園)」と言えばわかり易いでしょうか、ソッチの系列だったのです。          そして、戦前の規模についてこう記されています。   芸娼妓置屋 約七十軒。 芸妓 四百五十名。 娼妓 ?名 揚屋 約三百軒。   娼妓の数が?というのもアレですが、花街ができた経緯から芸娼両本位の遊里だったという点は否定できません。 ちなみに、江戸時代には陰間茶屋があって有名だったとも。       一方、同時期に発行された『全国遊郭案内』にも宮川町について書かれていて、   目下貸座敷は百五十一軒あつて、娼妓は三百三十人居る。   とあります。  娼妓が330人とは、前述の芸妓よりも少し多い程度だったという感じのようです。        そして、戦後については『全国女性街ガイド』から。   戦前は芸妓五百、酌婦二百七十名だったのが、現在はお茶屋二百七十軒に芸妓九十、女中が三百名〈休むもの多く実働は二百六十名くらい〉と主客顚倒した。   戦後になると芸妓より娼妓(酌婦、女中)の数が多かったということを踏まえると、ほとんど赤線に近い花街だったということでしょう。        もっとも、現在は完全な芸妓オンリーの花街で、昭和33年の赤線廃止を境に娼妓の方は近くの七条新地(五条楽園)という風に棲み分けられた形。 まあ、あの七条新地の方は思いがけない形で遊里としての使命を終えてしまったんですが、それについては後述。       宮川町の提灯は「三ツ輪」の文様。       宮川筋から外れた細い路地にもお茶屋が向かい合っています。 こっちの方が風情ありそう......       突き当りには使命を終えたと思しきお茶屋。 ってか、政党のポスターで風情台無し       宮川町歌舞練場は至って近代的なコンクリート造りの建物。       しかし、裏通りに出れば、威風堂々の木造建築なわけで...... 実はこれこそが元からあった歌舞練場で、大正5年築。       こちらでは4月に「京おどり」が披露されるそうで(今年は1日から16日まで)。       濡れた石畳の上を和装の芸妓さんが傘を差して闊歩する光景。 これぞ京の花街の風景。 これから京おどりの稽古に出向くんでしょうか。   そんな訳で、宮川町からさらに次の遊里へ向かいます。    

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  • 22 Feb
    • 【京都府・京都市】日帰りで京都をトコトコ(その4)…歌舞伎発祥の地「四条大橋」周辺

      前回の先斗町に続いて、今回も花街。 そんな訳で、祇園......   ......と行かないのが当ブログの天邪鬼たる所以w 何しろ、祇園と一口で言ってもそのエリアは馬鹿みたいに広い。 そして、何よりも人が多い(これが最大の理由なんですが)。 京都を代表する観光名所で、やれリア充だの、やれ意識高い系のキャピキャピ女子だの、やれガイジンだのって、観光客が多いってありゃしないってぐらいの場所なんです。       祇園の入口でもある四条大橋。 雨の平日だというのに、人も車も多いこと...... やはり知らない人がいない観光地だけに、半端ではありません。 これで休日だったら......と思うだけでぞっとします(ll゚Д゚)       その四条大橋からは前回歩いた先斗町のお茶屋街が望めます。   お茶屋はのれんの古い家が多く、通りの東側は加茂川に望んでいるので、月の光もさし込み、その加茂情緒を好んでくる嫖客に賑わってくる。雨の朝に、月の夕べによく、夏の宵は水音によく、冬の夜の千鳥によいと、その客たちは推賞する。 (『全国女性街ガイド』より)   風光明媚な場所にある花街、それが先斗町であったわけです。       さて、次の花街に入る前に、四条大橋に面している近代建築を軽~く巡りましょうか。 まず、河原町側の東華菜館から。 大正15年竣工で、現在は北京料理を扱う店ですが、もともとは西洋料理店だったとか。       設計はヴォーリズ建築事務所。 建築に詳しい方なら、恐らくヴォーリズを知らない人はいないでしょう。 プロテスタントの伝道者ながら日本に数多くの建築を手がけ、しかもメンソレータムを広めた近江兄弟社の創業者。 アメリカ人ながら日本をこよなく愛し、ついにはに日本人女性と結婚して日本に帰化し、最期も近江八幡の自邸でした。 彼の設計した建築物は何と一千軒以上で、その多くが現存しているのですから、日本の近代建築史では欠かせない人物です。       ヴォーリズにしては珍しく、スペイン・バロック式で、所々にレリーフが飾られているのが特徴。 特にエントランスのレリーフが見事。       羊頭に魚貝のテラコッタ。 中華料理ではお馴染みの食材をレリーフに象っているのが面白い。       玄関の上にも注目。 両側にタコ、真ん中の貝を食おうとしている図なんでしょうか。 しっかし、こういう店で食べる中華料理、美味しいんでしょうが、やはりお高いんでしょうかね 中もなかなか見どころあるそうなので、客として入りたいもんですが......       その対角にも近代建築が一軒。 レストラン菊水も東華菜館と同じ年に竣工。 設計は山田守で、東京では聖橋や永代橋をデザインした人物。 逓信省営繕課に所属していた経緯から、NTT千住(旧千住郵便局電話事務室)など逓信建築も多く残しています。 実は、京都タワーの設計も彼で、施工当時は景観を損ねると反対意見も根強かったといいます。       角が三角形平面の出窓というのがユニーク。       先程の東華菜館とは対照的に簡素な外観ですが、壁にある顔の装飾が不気味ですw       正面はアーチ形の塔屋に縦長の窓。 よく見ると、その窓が左右ずれているのがお分かりかと。 恐らく、内部は階段があって、段差に合わせているんだと思われます。       こっちは我々庶民でも気軽に利用できそうです。 ショーケースを見た限り、喫茶店代わりにもなるんではないかと。       入りたいのも山々なんですが、今回は別に行きたい店があるので敢えてパス。       向かいに建つのが南座。 昭和4年竣工なので、近代建築の範疇でしょうが、和風の帝冠様式で桃山風の意匠が特徴。 一度は解体の話もあったそうなんですが、やはり存続要望の声が高かったんでしょうね、改修しつつ外観を中心に保存。 歌舞伎を中心に上演されるんですが、保存工事の真っ最中で休館みたいですね。 ちなみに、この南座と向かいのレストラン菊水、いずれも登録有形文化財に指定されています。       そういえば、京都は歌舞伎発祥の地。 四条大橋のたもとに立っているのが、歌舞伎の創始者とされる出雲阿国像。 出雲大社の巫女だった彼女が諸国を回るうち、京都でかぶき踊りを始めたのが歌舞伎の起源だそうで。       で、先ほどの角座の脇には、阿国歌舞伎発祥地を示す碑がひっそりと立っています。 ちなみに、阿国のかぶき踊りは遊女屋で広められ、全国に広がっていくんですが、何しろその踊りがエロチックだったんでしょうね、当局に風紀を乱すものとされたことで禁止されます。 その結果、女性が舞台に立つことはできなくなり、代わりに男性役者が女形を演じる、現在の歌舞伎につながるわけです。   そんな訳で、四条大橋から次の花街へ向かいます。     東華菜館 京都市下京区四条大橋西詰   レストラン菊水 京都市東山区四条大橋東詰   南座 京都市南区四条通大和大路西入ル中之町198

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  • 21 Feb
    • 【京都府・京都市】日帰りで京都をトコトコ(その3)…京都遊里探訪「先斗町」

      前回、純喫茶「六曜社」さんでモーニングを摂った後、ここから本格的に散策開始。   勿論、メインは遊里散策なんですが、京都には所々に花街が存在し、その規模から "五花街" と呼ばれます。   "五花街"とは、祇園甲部・祇園乙部(祇園東)・宮川町・先斗町・上七軒の5つ。 (これに島原を入れて"六花街"と呼ぶ人もいます)   それ以外にも娼妓主体の七条新地や五番町、中書島、橦木町といった遊廓もあるわけですが、それらを含めて京都の遊里はすべて洛外なんですね。 まあ、いわゆる悪所を中心部から外れた場所に追いやるというのはどこも変わらないということですが、旦那衆が遊びに行く洛中の日常とは違う世界というのが、前述の花街ということでしょうか。 まずは京都六花街の一角、先斗町からスタート。       実は三条大橋の上から先斗町の全景を眺めることができます。 鴨川沿いにお茶屋が建ち並ぶ光景を目にすることができますが、あれが先斗町花街です。       鴨川と木屋町通りに挟まれた先斗町通りを中心にし狭いエリアで、北は三条通から、南は四条通までほぼ一本に伸びている花街が先斗町。 なお、これは勘違いしやすいんですが、京都市の地番に先斗町の名前は存在していないんですね。       その花街の先頭に立つ大きい洋風建築が先斗町歌舞練場。 芸妓さんが踊りや鳴り物、歌などを練習する場ですが、東京でいうところの芸妓見番にあたる場所でもあります。 竣工が昭和2年、設計は木村得三郎ですが、実はバックに武田五一の指導がありました。 こないだ取り上げた佐久間象山先生遭難之碑や高山彦九郎先生皇居望拝之趾(台座)の作者でしたね。 木村得三郎も劇場建築の名手と謳われた人物で、現存しているものとして大阪松竹座があります。 今はなき日劇を手掛けたのも木村でした。       下部には六角形、上部には八角形の幾何学模様の窓。 外壁がスクラッチタイルで、テラコッタ装飾を施されていて、和のイメージがある花街の建物とは対照的にモダンで洋風な外観です。       屋根に何か像みたいなのが見えますが、これは中国の蘭陵王の舞楽面を型取ったもので、守り神のようなものでしょうか。 この建物には「鴨川をどり」を披露する舞台も入っていますが、先斗町の通り側にあるそうで。 そうするとこちら側がいわば"ホワイエ"なのでしょうか。 "ホワイエ"とはいわば休憩室のことで、エントランスからホールまで続く大きな空間があるんでしょう。       建物は先斗町通りからも見られるんですが、むしろ鴨川の向こう側から見た外観の方が断然いい。 というより、恐らくは鴨川に向かって見せているのだろうね。 もしかするとヴェネツィアを意識した建て方なのでしょうか。     こちらが昭和初期の歌舞練場(『全国花街めぐり』より引用)。 現在も当時と変わっていないのがわかります。       では、先斗町通りに入ります。 歌舞練場が見えますが、近くから見ると改めてデカさを感じます。 通りが狭いので、全景が撮りづらいってありゃしない( ̄_ ̄ i)       恐らくこちらが大道具とかの搬入口でしょうか。 こちら側は、腰の部分に和風の装飾も見て取れます。       こちらが正面口、立派な卯達も見えます。 ここで上演される「鴨川をどり」は明治5年に創演、平成27年まで178回公演され、これは五花街の中でも最多なのだそうで(鴨川をどり公式ウェブサイトを参照)。 今年は180回目という記念の年で、5月1日から24日まで上演されます。       歌舞練場の入り口に掲げられた看板には、「先斗町お茶屋営業組合」「先斗町芸妓組合」「先斗町歌舞会」「鴨川学園」と名が並んでいます。 先程書いたように検番と同じようなものですが、下の「鴨川学園」って何でしょうね 踊りとか鳴り物とかを学ぶとこなんでしょうか       先斗町通りは人がすれ違うだけの幅で、本当に狭い。 基本的に夜の町なので、午前中は人っ気が全く感じられません。 散策するならこの時間帯でしょう。       そして、所々にこれまたさらに狭い路地。 京都では「ろーじ」と呼びます。       路地の入口の住居表示板がいい感じに年季入っています。 「アケゴコロ」とは清酒の銘柄でしょうか、今でもあるんでしょうかね。       路地の奥にもお茶屋が見えます。       もともとは鴨川の洲だったのを、江戸時代に護岸工事で埋め立てて造られたのが先斗町で、 その頃からお茶屋が建ち並んだといわれます。 名前の由来にポルトガル語〈ponta(先)とかponte(橋)、ponto(点)など〉から来た説というのがありますが、太鼓の音から来た説もあって様々。 当方としては、後者の説の方が花街の名前の由来としてはシックリとくるんですが。       ここで昭和4年発行の『全国花街めぐり』から抜粋。   こゝには娼妓は居ない、純然たる町芸妓風で、踊りも祇園とはちがって此処は若柳である。それに又花街そのものが小さく、小ぢんまりとして居ることなども、遊びよい一つの原因ではないかと考へる。 現在芸妓 二百五十三名(内舞妓約二十名、義太夫二十名)。 貸座敷 百七十四軒。       当の著者、松川二郎はまた、 「わたしは実は祇園の方は深く知らない、京都で遊んだといふは主に先斗町だったからである」 と正直に白状していて、しかも、祇園と比べて 「少し浮ッ調子で安直な代り、それだけで現代的といふか、兎に角東京者には最初はこゝが遊びいゝ」 と評しています。 祇園は遊び慣れた人向きで、まだ京都で遊び慣れていない人は先斗町、とでも言いたげなのでしょう。       戦後の様子については、『全国女性街ガイド』の記述から。   昭和初期まではお茶屋二百軒、芸妓三百名と祇園に対峙して全盛を誇ったこの里も、現在はお茶屋七十七軒、芸妓百四十一軒に縮まった。       京都には花街ごとに掲げられる提灯も決まっていて、先斗町は千鳥の文様。 かわい~いw       この頃から雨模様になり、散策には困った天候になるんですが、こうして見ると、しっとりと濡れた花街の通りも風情があって、悪くもありません。       こんな狭い通りですから、車はまずダメでしょうね。 完全に歩行者のための通り。 「自転車、バイクは押して通っておくれやす」       この辺りから古いお茶屋の建物が多くなってきます。       細格子に犬矢来と、やはり京都らしい光景。       先斗町の花街はこの細い通りに一直線に続いているので、実にわかり易い。       そして、あっという間に四条通です。 ここから先が人通りが多い祇園ってなるわけですね。   という訳で、先斗町はひとまずここまで。 次回も花街の街並み、ここまでくれば次は......分かるね(大橋巨泉風)   最後に、戦前の先斗町の芸妓さんをば。 (いずれも『全国花街めぐり』より)   いずれも綺麗どころどすぇw     先斗町歌舞練場 京都市中京区先斗町通三条下ル

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  • 19 Feb
    • 【京都府・京都市】日帰りで京都をトコトコ(その2)…名物純喫茶でモーニング「六曜社」

      前回から始まった京都散策編。 京都駅に到着していきなり三条大橋界隈に飛んだのは、この近くでモーニングを摂るため。 いつも長旅では車内で駅弁って感じなのですが、今回は現地で朝食を摂るためにそれも敢えてパスしました。 それも、今回の京都訪問で是が非でも行きたいと思っていた喫茶店です。         恐らく純喫茶フリークなら知らぬものはモグリといわれるこの店、六曜社さん。 京都で喫茶店というと、純喫茶に詳しくない人でもイノダコーヒとかスマート珈琲店が真っ先に出てくるはず。 実は過去に数回京都を訪れていますが、あの当時は純喫茶というものについて全くのシロウトで、京都といえば必ずイノダかスマートで朝食というパターンでした。 もっとも、イノダもスマートもいい佇まいで、そこで毎日のように一服できる京都の人達は羨ましいとさえ思っています。 あの池波正太郎が何度もエッセイで取り上げているイノダ本店はいわば別格で、もし京都に初めて訪れたのなら一度は行ってほしい店だと断言します。   しかし、京都の喫茶店は何もイノダやスマートだけではないんですね。       それどころか、京都は東京や大阪、名古屋に並ぶほどの純喫茶王国。 「喫茶店の多い町は文化のある町」とは、居酒屋評論家の太田和彦氏の言。 京都大学を筆頭にアカデミックな文化施設も多い京都は、当然ながら喫茶店も宝庫。 しかもその質は、前述の三大都市と並ぶどころか、その上を行っているほど。 特にクラシックな純喫茶が多いのが特徴で、さすがは歴史の長い京都、京都民から見ればあの東京や大阪はいわば新興都市、"ひよっこ"と言ったところでしょう。   話を六曜社に戻すと、創業は昭和25年で、戦前からあるイノダやスマートと比べるとまだ新しい方。 しかし、その佇まいは戦後にできた店とは思えないほどクラシカルなのです。       ここで六曜社と一括りで書いていますが、実は店は1階と地下の2つ。 地下店のオーナーの息子さんが1階店を切り盛りしている、と書けば以前取り上げた熱海の「くろんぼ」さんに似ていますね。 あちらも入口が2つあって、それぞれ店舗が違う、しかも切り盛りしているのが姉妹という点では同類ではないでしょうか。       六曜社の2つある店舗のうち、地下店は難波里奈氏が『純喫茶コレクション』で取り上げたこともあって最近は知名度が高くなっています。 レトロブームの中にあって純喫茶もブームになってきていますが、その火付け役の一つが六曜社ではないかと。 京都を扱うメジャーな旅行ガイドでも、近年はクラシック喫茶を紹介し、必ずと言っていいほど「六曜社地下店」は取り上げられています。       もっとも、朝行ってもこの地下店はやっていません。 開店は昼の12時で、夜はバーも兼ねているので、夜更けの利用も充分。 そして、名代が自家製のドーナツ。       もう入る前からそそられますね。 外壁に張り巡らされているタイルは何と清水焼。 これがシブさを演出しているんですね。 件の難波氏も京都に来た際には必ず訪れるほどで、「行かないと、新幹線に乗ってから落ち着かないほど好きな空間」と言っているぐらいですから、これは入らねばと思いますね、開いていれば(笑)       で、今回入る1階店は朝からの営業。 勿論、モーニングサービスをありつけることができるのは1階店のみ。 さっそく入ります。           うっわー、しぶっ       これぞ純喫茶という佇まい。 説明はいらねぇな、これ。       琥珀色の照明に清水焼のタイルがシブさを演出。       カウンター。 何より新聞📰も一通り揃っていて、朝はコーヒーを片手に新聞をしばし眺めてから一日が始まるという京都の旦那衆の日課に合わせているかのよう。       テーブルには店名入りの灰皿。 そしてマッチ(これが一番重要)。 最近はタバコ吸わない人が減ったのもあってか、マッチを作る店も少なくなっていますが、ここはしっかりと置いてあります。 しかも、デザインもいい。 タバコを吸わない人でもこれは欲しくなります。       そうこうしているうちに、モーニングが到着。 珈琲とトースト、20円プラスでゆで卵も付けてもらいました。 ちなみに、あと20円で野菜ジュースも付けることが可能。 そして、ウェットティッシュをボトルごと、ドンw 今はなき兜町のMayだけと思ったらそうではないんですね、これって。       あ、やっぱりスプーンに角砂糖なんですね、ここも。 イノダのこのパターンだったし、京都ではこのようなスタイルが多いんでしょうかね。 それにしても、カップもソーサもいいのを使っていますね。       このレジスター、使っている店は今や少ないんではないでしょうか。 この機種、"レジ"ではなく、"レジスター"の方が合いますな。 しかもデジタルではなく、パタパタのやつ。 店員さんによると30年も前から使っているというそうですが、いや、それ以上でしょうというぐらいの代物でしょう。       初めて訪れましたが、佇まいこの上なし。 名の知られた店の割には立て込んでいるわけでなく、至ってゆったりと寛げました。 恐らく、1階店のモーニングはあまり地元民以外には知られていないのでしょうかね。 そういう点からすると穴場かも知れません。   そんな感じで燃料を補給した後、京都遊里散策スタートです。         いえいえ、どういたしまして           六曜社珈琲店 京都市中京区河原町三条下ル大黒町36       純喫茶コレクション   Amazon   純喫茶へ、1000軒   Amazon   純喫茶、あの味   Amazon   京都・大阪・神戸の喫茶店   Amazon  

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  • 18 Feb
    • 【京都府・京都市】日帰りで京都をトコトコ(その1)…東海道・西の起点「三条大橋」周辺

      国際的にも有名な観光都市「京都」。 世界遺産を多く抱え、平日・休日問わず内外から観光客が押し寄せる街なので、今更当ブログで取り上げんでもと言いたいわけですが......   ぶっちゃけ、"る〇ぶ"とか"まっ〇る"等でも取り上げられないようなディープポットを歩き回るのが今回の目的。 まあ、そのほとんどが遊里跡だったりするんですけど   朝イチの新幹線に乗り、目いっぱい京都を歩き倒そうという訳ですが、なにしろそれでも10時間余りの滞在なので、廻る場所を厳選しました。 そんな京都散策編を数回にわたってお届けしますが、まずは京都駅に到着して一日観光券(1200円でバス・地下鉄を一日乗り倒し可能)を購入。 地下鉄を乗り継いで三条京阪駅に降りますが、最初に取り上げるのが駅前の意外なものから......       駅を降りて目の前に現れるこの"土下座"している銅像。 台座には右から「高山彦九郎正之」と書かれています。       その横の石碑には 「高山彦九郎先生皇居望拝之趾」 と刻まれています。 先程"土下座"と書いたのは実は間違いで、京都御所に向かって拝礼している姿の像だったんです。   高山彦九郎って誰っていう人が多いかと思いますが、一言で説明すれば、諸国を行脚して尊王思想を説いた人物。 詳しくはこちらでウィキってもらうことにしますが、当時はまだ江戸幕府の力が大きかった頃で、「寛政の三奇人」(他は林子平、蒲生君平)ということで変わり者扱いされ、最期はお上の弾圧を受けて自害します。 彼の思想があまりにも時代を先取り過ぎたということですが、それが幕末の志士たちに与えた影響は大きく、戦前の修身の教科書にも取り上げられた程。       銅像自体は戦後に再現されたものですが、台座はオリジナル。 この台座をデザインしたのが戦前の建築家であった武田五一。 近くにある京都市役所をはじめ、京都を中心とする関西で多くの建築を設計した人物です。 戦前の建築家は、橋梁や公園、街頭、記念碑などといった都市整備のデザインにも携わっており、件の武田も、他に淀屋橋や肥後橋、渡辺橋(いずれも大阪市)といった橋梁や円山公園(京都市)などの整備も手掛けています。       三条大橋の傍らに立っているのが弥次喜多の像。 東の日本橋に対し、ここは西の東海道の出発点なんです。       三条大橋が最初に架けられたのがいつなのかははっきりしませんが、豊臣秀吉の命により石柱の橋梁に架け替えられます。 それを示す石柱が西詰に残っていて、「天正十七年津国御影」という文字が見えます。 「津国」とは摂津国のことで、「御影」とあるように神戸の御影で採れた御影石が使われています。       高覧の擬宝珠には何やら文字が刻まれています。 いったいどんなことが書かれているんでしょうねえ(詳しくはこちらで書かれているので参照をば)。 なお、この三条大橋には18の擬宝珠がありますが、その中には池田屋事件で付いたとされる刀の傷が残っているそうで。       "千年の都"と謳われた京都ですが、件の池田屋事件の例があるように実は血なまぐさい歴史が繰り返された都市なんですね。 戦乱に疫病、陰謀に暗殺、挙句の果てには勤王の志士が御所に大砲を撃ち込んだり...... 三条小橋のたもとにもそれらしき石碑が立っています。 ちなみに、京都で"遭難"といえば"暗殺"のこと。 となると、マレーシアのあの空港は京都風に言えば「正〇遭難之地」ということになるわけだが。       そんな黒い冗談はさておき、高瀬川沿いの木屋町通りを北上すると、2体の石碑が並んで立っているのが見えます。       左側が大村益次郎卿遭難之碑。 明治2年に関西の軍事施設視察を終えての帰り、木屋町の宿所で反対派の浪士に襲われ、亡くなります。 時代は明治に変わったとはいえ、まだ京都が政情不安の地だったことを象徴する事件であったわけですね。 ちなみに、この石碑は昭和9年の建立。       一方、そのお隣が佐久間象山遭難之碑。 元治元年、京都に赴いた佐久間象山が白昼に木屋町で馬にまたがっていたところ、攘夷派の浪士達に惨殺されます。 当時の京都は尊皇攘夷の嵐が吹き荒れていていて、"天誅"と称する暗殺事件が絶えずに起きていました。 とりわけ象山は開国派の頭目だったことで、尊皇攘夷派の憎悪を一手に受けた格好だったわけです。   ちなみに、この石碑は大正4年建立で、デザインしたのが先程出てきた武田五一。 よく見るとこの碑は「山」の字に見えますな。 「山」を「象る」ということで「象山」ですかぁ、やるなぁ武田五一。       佐久間象山に大村益次郎、同じ場所に並んで遭難の石碑が立っているわけですが、襲われた年代は違っているんですね。 しかし、襲われた場所が偶然にも同じ木屋町だったのには注目せざるを得ません。 当時、この地に建ち並んでいたのが土佐藩や長州藩の藩邸、いずれも尊皇攘夷では中心だった藩ですね。 そして、尊皇攘夷を叫ぶ志士たちの寓居も多く、そのために"天誅"を称する事件もこの木屋町を中心に起きたといった塩梅でしょう。       歴史的に有名な池田屋も近いし、他にも血なまぐさい事件の現場も多く残っているのが三条大橋周辺。 何しろ、古くは処刑場だったわけですから、その地霊は変わらなかったということなんでしょうね。   そんな訳で京都編は血みどろなスポットからスタートです。 次回は早くもお口直し。

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  • 17 Feb
    • 今回の純喫茶。

      今回の純喫茶。今回は京都日帰り散策。合間に純喫茶を三軒寄りました。いずれアメブロで詳しく書きますが、取り敢えずはそのうちの一軒を紹介。店名は伏せときますが、この内観で恐らくはピーンと来るかもと。それにしても、京都の喫茶店はどこも歴史があるせいか、東京よりノスタルジック。まだまだ行きたい店多いので、ちょくちょく訪れたいモンです。ブログをまとめてみる >

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  • 15 Feb
    • 【東京都・中央区】かつて”新島原遊廓”だった花街「新富町」

      東京はもとより、日本を代表する大繁華街「銀座」。本願寺の門前町で日本最大級の卸売市場を抱える「築地」。これらの街に隣接しているのが中央区新富町。しかし、「銀座」「築地」と比べるといささか地味~な存在だったりします(失礼)。そんな街ですが、実はかつて"新島原"と称した遊郭で、のちに三業地に変貌した歓楽街でした。明治元年に築地居留地が現在の明石町に設置されますが、そこに住む外国人を相手にした遊廓として開設したのが"新島原遊廓"でした。その名の通り、京都の"島原遊廓"に倣ったものですね。折しも当時の明治政府は旧徳川幕府や東北諸藩の軍との戦争が長引いており、軍資金も逼迫していました。その資金調達も目論んだうえで、政府も遊郭設置を許可しました。上の地図で色が付いているエリア、つまり新富町全域がその範囲でしたが、よく見ると島原はもちろん、吉原と同様にキチンと区画されていて、東西そして南北の中央に幅が広い道路が見られます。ちなみに、明治2年当時、遊女屋は130軒あり、この他引手茶屋84軒、諸上人56軒あって、娼妓は1724人。他にも遊女屋抱えの芸妓も92人、検番芸妓も109人(そのうちの22人が男芸者=幇間)と、あの島原や吉原にも匹敵する規模だったようです。(『花街 粋な街』より抜粋)しかし、そんな"新島原遊廓"も明治4年に廃止されます。築地居留地にはキリスト教の教会や学校が多く、そちら側から見れば遊郭に働く娼妓が人身売買にあたり、人道的に宜しくないものでした。こうして外国人客も遠のき、さらに不景気も重なったことで、廓内には閑古鳥が鳴く有様。結局、短期間で"新島原遊廓"は終焉、遊女たち新吉原や根津に移っていきます。一方で新富町に留まる芸妓や置屋もおり、"新島原遊廓"廃止直後は芸妓置屋5~6軒、芸妓15~6人でした。しかし、明治5年に最大規模の劇場「新富座」が完成するや、旧遊郭だった新富町界隈が花街として息を吹き返します。新富町の芸妓は「櫓下芸妓」の名で東京中に広められます。新富座は関東大震災で焼失してしまいますが、新富町花街は戦前から戦後にかけて存続。その新富座があった場所に案内板が立っています。さて、現在の新富町の街並みですが、新島原遊廓の名残こそは一つも見られませんが、今なお花街の名残りがわずかながら残っていて、料亭や待合だっ建物も見られます。ちなみに戦前の規模について、『全国花街めぐり』ではこう記述されています。芸妓屋 八十軒。芸妓 二百一名。料亭 六軒。待合 七十軒。戦後も花街は存続し、昭和50年ごろまで検番があったようです。現在もこの界隈で唯一、料亭として営業しているのがこちらの「躍金楼」さん。『全国花街めぐり』でも「躍金」の名が見られるように、戦前からの老舗です。狭い敷地ながらも塀を張り巡らせている一軒。やはり料亭だったんでしょうか。そして、新富橋交差点に建つ出桁造りの「大野屋」さんは、安永年間の創業で、嘉永2年からこの地にて足袋を扱ってきた老舗。入口脇には「舞踊足袋処」という看板が掲げられていいます。芸妓さんも足袋を履くわけで、新富町花街を支えた一軒です。かつては新富座、そして現在も歌舞伎座などがあり、現在は歌舞伎や能の役者さんも御用達。「舞踊 能楽 演劇 御用承り処」と掲げられているのが何よりの証拠。ところで、新富町はあの東京大空襲でも戦火を免れていて、いわば"戦災のない東京"の風景を残しているエリア。件の「大野屋」さんの建物もその一つ。こちらの建物も、もしかしたら戦前の待合ではと思わせる一軒です。しかし、現在の新富町は、花街の名残りとしてよりも戦災を免れた戦前建築が多く残るエリアと表現したほうがいい感じの街並み。現在は事務所として使われているこちらの建物も、スクラッチタイルで装飾した戦前の建築。こちらもスクラッチタイル張りの看板建築ですが、崩落の危険性があるのか全体がネットで覆われています。下見板張りの町家に看板建築と、戦前から残る建物が所々に残っています。そして銅板葺きの看板建築。シチュー屋さんが入っていますが、看板に文字の跡が見られます。こちらは銅板にマンサート屋根という合わせ技。「銀座」「築地」と比べて地味~な存在と冒頭で書いてしまいましたが、いざ散策してみるとレトロな建物が意外なほど多いのがわかります。蔦に覆われているこちらの一軒、2階の窓にアーチの装飾が施されています。こうしたモダンなデザインの建物も戦前から存在していたんですね。路地裏に入ると、町工場もあったりして、遊里跡というよりは下町情緒が色濃い風景が。あの銀座の近くとは思えない風景ですね。東京駅からも近い場所ですし。極め付けがこちら。全体トタンで覆われている一軒がビルに囲まれていて、あたかもエアポケットかのようです。これで「築地」「銀座」といったメジャーな観光地からも至近距離なのですから、いやぁ東京ってホントに面白い街ですね(水野晴郎風)。東京 花街・粋な街/街と暮らし社¥価格不明Amazon.co.jp

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  • 13 Feb
    • 【東京都・中央区】戦災のない東京の風景「勝どき」・その2

      築地方面から勝鬨橋を渡った先が、今回のメイン「勝どき」。 町名が「勝鬨」と漢字ではなく平仮名混じりになっているのは、「鬨」という字が当用漢字ではなかったためなんですね。 近年までずっと交通空白地区だったのが、都営大江戸線が通るようになって、「勝どき駅」が最寄り駅として存在しています。       そして、佃島や月島と同様、この界隈は戦災に遭っておらず、戦前から続く町家長屋の路地裏がまだ健在。       同じ高さの2階建て町家が綺麗に揃っていて壮観。 しかも、2階に木の欄干。 これぞ、昭和30~40年代に普通に見られた光景そのものです。       勝鬨橋を出て右手の勝どき三丁目界隈は、こうした路地裏が並行して存在しています。       とはいうものの、主のいない空き家は瞬くの間に空き地化される運命。 ここも例外ではないようです。       空き地になってかなりの年月が経っているせいか、草ボーボーw まあ、そのお陰といったら何ですが、その向こうの家屋の裏側も見られるわけで。 トタンの継ぎ接ぎで、如何にもドサクサで建てた感じです。       そして、こちらは風化が激しくボロボロの空き家。       天井が崩壊寸前で危険な状態に。       まるで、家事の焼け跡みたいです......       これは酷いですねぇ......       ところで、「勝どき」の街は、明治から大正にかけてできたもの。 もともとは「東京湾澪浚(みおさらい)工事」で造成された「月島2号埋立地」「月島3号埋立地」でした。 そんな歴史から、「勝どき」はいわば「月島」の弟分みたいなもので、街並みもそっくり。       付近には石川島造船所(石川島播磨重工業を経て、現・IHI)をはじめとする重工業が建ち、月島から勝どきに至るこの場所はいわば"工業城下町"。 当然ながら人が集まり、こうした住宅も戦前に次々と造成されました。 そして、ここ「勝どき」もまた、水に囲まれた立地ゆえなのか東京大空襲の被害から外れているんですね。       戦後から現在に至るまで、こうした下見板張りの木造町家が多く残っている訳なんですが、やはりというかこの界隈にも開発の魔の手が押しよせています。       下町の風情?知ったこたぁないぜ? あたかも大手デベロッパーがこうあざ笑うかのようにして、大規模な再開発が進められています。       昔ながらの町家の背後には、デビルの塔のごとく、大型マンションが威圧しているかのように建っています。       そんな中でも、しぶとく残っている昭和の遺物。       路地裏風景の傍にも大型マンションやらビルが。       お隣さんやお向かいさんどうし、味噌やら塩やら醤油やらお互い貸し借りしあい、災難時には助け合い、冠婚葬祭でも支えあってきた日本の庶民生活の原型が残っています。 細い路地の中央に走る水路、かつては木のどぶ板だったんでしょう。       しかし、そんな懐かしき昭和の風景も、大型デベロッパーという"妖怪"に抗う術がないようです。       その証拠に、路地裏にも魔の手が伸びているようで、空き地が所々にできています。       そして、空き地ができたことで晒される路地裏長屋の後ろ姿。       この地域の住人も高齢化が進み、主がいなくなればこうして空き家も増える。 そしてあざとくそれを見つけたデベロッパーがあの手この手で"地上げ"。 そして、ついには空き地化され、跡地に大型マンションやらビルに変わるというパターン。 このアウトローの構図が、古き良き風景が残る東京の下町で繰り広げられる......       そんな街のすぐ横に流れるのが新月島川。 といっても川というよりは運河なんですが、こうした水路が網の目のように作られ、まさしく"水の街" 最近まで地下鉄が走っていなかったこともあって、いまだに古い町並みを残している「勝どき」。 築地に観光のついでに勝鬨橋を渡って散策してみるのもお勧めです。    

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  • 12 Feb
    • 【東京都・中央区】戦災のない東京の風景「勝どき」・その1

      佃島、月島と"陸続き"で存在しているのが、今回取り上げる「勝どき」。 しかし、その前にやはり、この橋に触れておかねばならないでしょう。       もうお分かりですね、隅田川で築地と勝どきを結ぶ勝鬨橋。 平成19年に清洲橋、永代橋とともに国の重要文化財に指定されていますが、都道府県の道路橋としては初めての快挙でした。       現在の橋は昭和15年に架けられた鋼材製アーチ橋。 中央部を境に築地側、勝どき側と2つアーチを持っています。       この橋ができる前は築地と対岸の月島を結ぶ"勝鬨の渡し"と呼ばれる渡船でつながっていました。 "勝鬨"は戦で勝利した際に挙げる雄叫びのことで、現存する「中央区勝どき」という地番の由来もソレ。 そもそもこの名前がついたのは、日露戦争で旅順が陥落した際、その祝勝記念によって有志の手で設置したから。 やはり、「勝鬨」の名は戦争絡みでつけられた名前なんです。 やがて、月島には石川島造船所など重工場が増え、交通の需要が渡船だけでは間に合わなくなり、改めて架橋の計画が持ち上がります。       しかし、当時から隅田川は船舶の航行も多く、陸運よりも水運を優先する形で大型船舶の航行も想定した可動橋として設計されます。 折しも昭和15年には"皇紀2600年"を記念し、月島をメイン会場とした「日本万国博覧会」が計画されていました。 橋のデザインはもちろん、当時の日本の技術力を世界にアピールする絶好の機会で、外国の技術者の手を一切借りず、すべて日本人の手で設計施工。 現在の架橋は、まさしく国策の一環としてできたものなんですね。       こうして当時「東洋一の可動橋」と称された勝鬨橋が完成。 開通当初から路面電車のレールも敷かれていて、昭和22年から43年まで都電も通っていました。 ちなみに、前述の「日本万博博覧会」は日中戦争の激化により中止されます。 で、こちらが勝鬨橋の中心で、ここを境にパカッと開くんですね。       当時は1日に5回、1回につき20分ほどこんな形で跳開していました。 しかし、高度経済成長で車の通行量が増え、同時に船舶の通行も減少したことで開閉回数も減少。 昭和45年11月29日を最後に開閉が停止、昭和55年にはそのための電力も供給がストップしてしまいます。 ちなみに、やろうと思えば現在でも開閉は技術的には可能だそうです。 ハイ、こんな感じで......     0:14で勝鬨橋が開きます。 な~るほど~、こうやって開けるんだぁ(違)       それはさておき、あれから47年、勝鬨橋はいまも開閉しないまま。 可動橋の名残りは中央部に設置されたこちらの監視所と信号機ぐらいか。 当時を知らない人には、"何で信号機が?"って思うでしょうね。       勝どき側から築地方面に臨みます。 向こうには移転問題で揉めにもめ、現在もとどまり続けている築地市場が見えます。 なお、築地側には「橋の資料館」というのもあるそうなので、機会あれば立ち寄ってみたいスポットです。   そんな感じで、次回は勝どきの街並み散策編。        

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  • 10 Feb
    • 【東京都・千代田区】名古屋名物のアレがいただける神田の老舗喫茶「ショパン」

      先日、テレ朝の深夜番組「はくがある」で純喫茶をテーマに取り上げていた。 ゲストのお二方、能町みね子と難波里奈ともに日本各地の純喫茶を巡り、純喫茶に関する著書がある(そして、私はその著書をいずれも持っている)。 その中から個性的なマスターやママが切り盛りする4店を取り上げていたが、やはり人あっての純喫茶なのだなあと実感。 取り上げた4店舗のうち、行ったことがあるのは金沢の「ローレンス」だけだが、ママさんの人柄や店内の装飾、外観といずれもインパクトが強烈だったのを覚えている。 どれぐらいインパクトがあるのか、説明ベタな私よりも能町さんの話を聞いた方が説得力ある(もちろん、実際に行ってみた方がいいのだが、如何せん東京と金沢は距離が遠い)。 もし金沢を再訪するなら、恐らくこの店も再訪するだろう。   さて、表題の「ショパン」は、番組の最後に難波さんが取り上げていた店。 鮟鱇の「いせ源」や鳥すきの「ぼたん」、甘味の「竹むら」、そばの「まつや」と戦前からの建物が多く残る神田連雀町、やはり老舗「やぶそば」の向かいにその店がある。 折しも年の瀬、向かいの「やぶそば」が目を疑うような行列ぶりに溜息しながらも、行列とは無縁の店に入る。 やはり喫茶店はこうでなくちゃ、そう思わせるぐらいに落ち着く空間にいることへの幸福感。 今回座った席の横には、「CHOPIN」という文字が書かれた美しいステンドグラス。 巨大な鏡にもステンドグラスが装飾され、前にはショパンの像が置いてある。 そして、流れる曲もショパンだったりする。   この店の名代は「アンプレス」、いつもこの店でホットサンドをいただいていた常連さんがたまには変わったものをという一言がきっかけで生まれたものだそうだ。 ホットサンド用の機械に表裏3回ほどバターを溶かし、それをたっぷり染み込ませたパンには甘さ控えめの餡子が挟んである。 バターの塩味と餡子の甘味が程よくマッチし、酸味がかった珈琲とは相性がいい。 小倉トーストといえば名古屋メシの代名詞だが、何も名古屋に赴かなくても東京にいながら食べられる、そんな店が「ショパン」だ。 ちなみに、作る人によってバターの量が違うそうで、豪快にバターを使うマスターに対し、ママさんは控えめだそうだ。 この日頂いたときは、確かにバターの塩気が強調していた気もしたので、マスターだったと思う。 カロリーを気にしつつも食べたいときは、ママさんが作っている日に伺うのがいいだろう。           創業が昭和8年と、実は喫茶店としては老舗だったりする     入口の上のステンドグラスが綺麗だ     店名が書かれた壁面のステンドグラス     大きな鏡の周りにもステンドグラスの装飾     座面が低い赤いベロアの椅子 座り心地がいい     アンプレスと珈琲     食べる前からバターの香りが心地よく漂う     ほのかな照明にショパンの曲、この空間が落ち着く     店名ロゴ入りの伝票     ソーサにもロゴが     壁にショパンの肖像     店を出ると、向かいの「やぶそば」はまだ長蛇の列 長い時間待たされ、本当にご苦労なことだw     ショパン 千代田区神田須田町1-19-9     訪問 2016年12月    via 渋で純な喫茶店 Your own website, Ameba Ownd         純喫茶へ、1000軒 [ 難波里奈 ] 1,814円 楽天   純喫茶、あの味 [ 難波里奈 ] 1,728円 楽天  

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  • 09 Feb
    • 【東京都・中央区】戦災のない東京の風景「月島西仲通り商店街」

      前回まで歩いた佃島と陸続きのような形で存在しているのが「月島」("つきじま"と濁らずに"つきしま"と読むんですね)。 地名を見てもわかるように、「月のような形をした島」......と思っていたら違うんですねw 中央区のウェブサイトには、 明治20年から行われていた埋立てによりできた地域です。東京湾内に月の岬という観月の名所があったことにちなんで、当時の東京市参事会の決議により命名されました。 とありますが、もともとは「築島」という名前だったという説もあって、これがなかなか判然としないんですね。 それはともかく、「月島」というと真っ先に想い起されるのが「もんじゃ焼き」なんですが、今回の散策では一切口にしておりません(笑)       佃島から歩いてやってきたのが「月島西仲通り商店街」。 地下鉄有楽町線(都営大江戸線でも可)「月島駅」がある清澄通りの西側に伸びるこの通りですが、対外的には「もんじゃストリート」で通じるんではないでしょうか。       何しろ、ご覧のようにもんじゃ焼きの店ばっか。 やっぱり月島が発祥だけあるんですね......と思っていたら、実はそうではないんですね。 もともとは浅草近辺が発祥で、そこから東武伊勢崎線沿線に広がっていったというのが実情のようで、その証拠に東京以外では埼玉・栃木・群馬に店が多かったりします。 そして、月島におけるもんじゃ焼の歴史は意外に浅く、現在のように店が多くなったのはごく最近の話。       現在、月島にあるもんじゃ焼きの店は75軒ほどですが、古くから店を構えているのはごくわずかで、ほとんどが1980年代に降ってわいた「もんじゃ焼きブーム」に乗っかってできたもの。 そして、そのほとんどが観光客向けという感じで、要はブーム乗っかって町ぐるみでもんじゃ焼き推しをしようって形でできたのが「もんじゃストリート」。 月島で古くからあると思い込んで食べている観光客はいわばカモいいお客さんですが、こちらからすれば食指が動かない代物w       月島仲通り二番街の入口に建っているのも、あからさまにもんじゃ焼きを謳っていますが、注目したいのは建物の外観。 モダンなファサードの看板建築であるのがお分かりかと。       実は佃島と同様、この月島も戦災を免れており、戦前からと思われる看板建築が多く残っているんです。       ぶっちゃけ、もんじゃ焼きなどどうでもよく(爆)、看板建築をウォッチングするためにここにやって来たという塩梅。 あ、結構もんじゃディスってますが悪気はありませんよ。 もんじゃはオイシイですからね、外見はげ●ですが(あっ)       よく見るといろんな職種があるわけですが、下の店舗を見るとほとんどがもんじゃ焼き屋というのが、この通りではテンプレ。 「オモチャ」と書かれている店も、いまはおもちゃを扱わずにもんじゃ焼き屋になっている、って感じで、ここでは珍しくない。       逆を言えば、看板建築に掲げているもともとの業種がバラエティ豊富で、戦前からこの商店街は地元民によって賑わいを見せてきたというのが想像できます。       しかし、気になってしょうがないのが歩道アーケードに続く三角のアレ。 看板建築の街並みが台無しに。       え~い、邪魔だ!邪魔! って感じで上の方ばっか撮っているのは、一部のもの好きだったりします。 はい、私のことですねw 観光客や通行人に変な顔されること必定です。       そして、銅板葺きの看板建築を発見。 この辺りが戦災を免れたという証です。       看板は八百屋さんですが、実は中華屋さんという店も。 まあ、もんじゃ焼き屋だけではないってことで(苦笑)       生憎この日はお休みでしたが、東京の呑兵衛では知らぬ者はいない「岸田屋」さんもここ。 "東京三大煮込み"の一角で有名ですが(残りは森下の「山利喜」と千住の「大はし」)、店内が昔ながらのコの字カウンターという真っ当な酒場です。 もんじゃ焼きを差し置いて(他意はありません、言葉のあやです)、月島に来たならまずはここでしょう。       西仲通り三番街の入り口に立つかわいい建物は、現在は地域安全センターですが、もとは交番。       大正10年築の「月島警察署西仲通交番」で、平成19年まで日本最古の現役交番でした。 それにしても、当時の交番がいかにこじんまりしていたか......       アーケードから外れた通りにも看板建築が並んでいて、見逃せません。       「肉の米久」さんは、レトロ感たっぷりのスクラッチタイル貼り。 「米久」というと浅草にある老舗の牛すき焼屋さんがありますが、関係あるんでしょうかね?       こちらの花屋さんもいい感じのファサードですが、庇がボロボロで商売っ気が感じられません。     観光客向けにバリバリ営業しているもんじゃ焼き屋とは対照的に、店じまいをしてしまいシャッターが閉じられている店舗も。       こちらの店もシャッターが閉まっていますが、何か貼ってあります......       やはり...... 再開発に伴い、どうやら解体の運命にあるみたいです......         こうした昭和の香りが残る店もなくなってしまうんでしょうか......       多くの店が他の場所に移転を余儀なくされているようです。       な、懐かしい...... これって売り物だったやつですかね。       古いものがどんどん新しいものに塗り替わる。 こうして街が移り変わっていくものなんですが、いざ消えゆくとなると寂しいものがあります。 少なくとも看板建築の街並みだけはそのまま残してほしいものです。   月島は他にも古い町並みが残っていて見どころありそうですが、またの機会にでもじっくり散策していきたいものです。 勿論、〆はもんじゃ焼き......ではなく「岸田屋」さんか「魚仁」あたりでw あと、佃島とともにあの将棋マンガの舞台らしいので、聖地巡礼がてらに散策もいいかもですよ。     3月のライオン 1【Blu-ray】 [ 河西健吾 ] 9,979円 楽天  

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  • 08 Feb
    • 【東京都・中央区】戦災のない東京の風景「佃島」(その3)

      前2回にわたって取り上げた「佃島」ですが、実は江戸時代からの「佃島」は下の地図でいう薄い色で塗られた場所でした。その後、埋め立てが進み、現在は周辺と陸続きのような形になっています。現在、「中央区佃」は一丁目から三丁目までありますが、そのうち一丁目がかつての「佃島」のエリア。そして、今回歩く二~三丁目は明治期に新たに埋め立てられてできた場所で、旧地番は「新佃島東」「新佃島西」と呼ばれていました。そんな訳で、引き続き「佃島」編ですが、今回は「新佃島」と呼ばれていたエリアを中心に散策します。かつて「新佃島西」だった佃二丁目の街並み。この一帯は水に囲まれていたことで、関東大震災では被害が最小限にとどめられ、東京大空襲からも免れます。そんな訳で、こうした古い町並みが残っているんですね。いい感じの床屋さんも残っていますね。この一帯は地図を見るとお分かりのように、表通りと裏路地の組み合わせが短冊状になって並んでいます。こうした町家が並ぶ下町の風景がどの裏路地でも見られます。ここにも古い防火用水槽があります。これ、セピア色にして「昭和30年代の風景です」と説明しても、思わず納得してしまいそうですね。どうです、違和感ないでしょ?古い住居表示板も残っています。表通りには出桁造の町家だけでなく、看板建築も多く残っています。モダンなファサードの銅板建築も目にします。「新佃島東」だった佃三丁目にやって来ました。こちらも昔ながらの町家が多く残っています。最近知ったんですが、実はあの将棋マンガの舞台にもなっているそうですね(月島という説もあり)。もっとも、私的には小さい頃に何度も再放送された"あのドラマ"でしょうか。「おい、チー坊」(柳〇慎吾ではありませんよw)で有名なあれですね。主人公が佃島の米屋に下宿しているという設定でしたっけ。こんな形で長屋が残っているとは......いやはや、かっこいい。佃界隈を歩いてきた中で、ここが最も下町の雰囲気が色濃く思えますが、いかがでしょうか。こちらの細路地は高低差がはっきりしていますね。この辺りが海岸線だったということなんでしょうか。どうでしょう、意外なほどに高さがあると思いませんか?背後にはマンションが建ち並んでいて、新旧の対比が面白いことに。時代を超えてここまでよく残っています。いつまでこの風景が見られることか......ここも御多分に漏れず、住民の高齢化も進んでいるわけで、空き家化が進んでしまうといつ消えてしまうことになるか......いつまでも、こうした下町の原風景が残ってほしいもんです。今回は載せていませんが、所々に空き地も目にしていて、街並みがジワリと変わりつつあるようで。昔ながらの街並みがいまだ残っていることにホッとしつつも、今後の先行きに心配が隠せない佃島の散策でした。3月のライオン 1-12巻セット¥6,278楽天《送料無料》パパと呼ばないで DVD-BOXI(DVD)¥25,213楽天

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  • 07 Feb
    • 【東京都・中央区】戦災のない東京の風景「佃島」(その2)

      前回に引き続き、戦災とは縁がない下町「佃島」を散策。       やはり下町にはこれがなくちゃ。       銭湯の「日の出湯」さんがあります。 漁師さんの仕事はハードですから、やはり汗を流す場がないとね。       その先には昔ながらの釣り船屋さんが残っています。       「つり船折本」さんの前から大川端リバーシティ21の方を臨みます。 昭和の風景と平成の風景の落差が凄いことに。       堀には今でも昔ながらに漁船が繋がれています。 東京駅から近い場所に、いまだこういう風景が見られるのですからね。 向こうに見える赤い橋が佃小橋。       ところで佃小橋の下には、6本の大幟の柱や抱が埋められていて、住吉神社例大祭の際、3年に1度だけ掘り起こされます。 徳川幕府から建立を許されたという由緒あるもので、佃島の成り立ちに関わるぐらいに町の宝でもあります。 この例大祭を運営するのが「佃住吉講」と呼ばれる人たち。   そんな貴重な場面を撮った動画がありました、さすがようつべ。         佃小橋の上から船溜まり場を臨みます。 大川端リバーサイド21が背後から迫っています。 あの高層マンションの上階に住んでいる人は、どんな思いでこの風景を見下ろしてるんでしょうね。       東京の都心近くにこういう風景が見られるんですからね。       於咲波除稲荷神社です。 「波除稲荷神社」というと築地にあるのを真っ先に思い出しますが、関連性はあるんでしょうか。       その玉垣を見ても、水産関係の名が目立ちます。 「波除」という名があるように、海に携わる人たちの信仰が厚いのがわかります。       近くには「佃天台地蔵尊」なんてのもあります。       この狭い路地を通らなければなりません。 人一人分の幅ですから、おデブには厳しいかもw       こんな奥まった場所に地蔵尊が鎮座してあります。 狭い場所でさぞ息苦しそう......って思うのは余計なお世話か。 脇に見えるのは何と木の幹、太い       異例のお願いが書かれています。 法善寺の水かけ不動と違い、水をかけないでください。       この辺りは佃島の外側で、こうした狭い路地裏の風景が多く見られます。       佃堀から佃島を眺めます。 住吉神社の本殿と船溜まり、その背後に巨大な建物。 2つの時代が合わさった風景がここにあります。   ひとまず「佃島」はここまでですが、その周囲にもまた戦災のない東京の風景が残っています。 次回はそんな街並みを歩いていきます。    

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  • 06 Feb
    • 【東京都・中央区】戦災のない東京の風景「佃島」(その1)

      東京駅からも程近い下町「佃島」。 そこには、戦災から免れた戦前のままの姿と平成の姿が同居しています。 今回は数回にわたって、そんな佃島の街並みを取り上げます。       佃島の入口、佃大橋を渡る前に、まずは対岸からその風景を臨みます。 赤い鳥居は佃島の守り神「住吉神社」のもの。 そして、いくつもの超高層マンションが建っているのが再開発区域「大川端リバーシティ21」。       巨大なマンションに囲まれるような形に、佃島の古い町並みが残っています。 そして、佃島といえば佃煮、対岸には佃煮屋さんの看板も見えます。       佃大橋を渡ってすぐの「佃一丁目」に上陸。 古い木造町家がさっそく見えます。 向こうには平成、こっちには戦前、そのギャップが凄いことに。       典型的な木造の出桁造り町家が向かい合いつつ建っています。       戦前から残る防火用水、「飯田用水」と書かれています。 飯田さんちの防火用水ってことでしょうかね。       そして、古い琺瑯製のプレートがどこかしこに残っています。 こちらは「防犯灯協力の家」だそうです。       そして、「家庭衛生婦人会員」のプレート。 旧字体で書かれているように、これは戦前のものでしょう。       こちらにも「防犯灯協力の家」のプレート。 そしてもう一つプレートが付いています。 「押売り」なんて今のご時世にまだ残っているんでしょうか。       昭和20年3月10日の東京大空襲で下町一帯が焼く尽くされたわけですが、この佃島は奇跡的に戦災から免れ、こうした戦前からと思われる木造の町家が残っています。       こちらも出桁造りの一軒は佃煮屋さん。 「天安」さんは1837年創業で、当時からずっとこの地で佃煮を作り続けてきた老舗。       2階の小さい手摺には透かし彫りが見えます。       いまでこそ佃島は佃大橋で都心と結ばれていますが、その佃大橋がかけられたのは昭和39年。 竣工年代を見てお分かりのように、東京五輪に合わせて架けられた橋なんですね。 その佃大橋ができる前、都心と結ぶ交通手段はこの佃島渡船(佃の渡し)でした。 こちらと対岸、渡船所があった場所にこうした石碑が残っています。       石碑のそばの案内板に載っていた写真は恐らく渡船廃止直前のものでしょう。 向こうに見える塔らしきものは東京タワーですかね。 昭和2年に無料の曳舟渡船となってからは1日に70往復と、まさしく地元民にとって生活の脚でした。       佃島の守り神「住吉神社」にやって来ました。 その名の通り、大阪の住吉大社の分社です。 鳥居の扁額は有栖川宮幟仁親王の筆によるもの。       そもそも佃島は、徳川家康が江戸に入った折に作られたもの。 その際に携わっていたのが家康が摂津国佃村(現在の大阪市西淀川区佃)から呼び寄せた34人の漁民でした。 家康と摂津国佃村の漁民とのかかわりについては話が長くなりそうなので、興味ある人は各自検索していただくとして......       家康は彼らを移住させて、この島を開拓させます。 現在のような街並みができたのは1644年。 同時に大阪の住吉大社からの勧請で作られたのが住吉神社でした。 要するに、佃島は江戸時代に大阪人が作った東京の下町だったわけです。       本堂の裏に赤煉瓦製の古い建物が残っています。 神社の境内には場違いな気もしますが(失礼)、実はもともと神輿庫だった建物。 明治43年に建てられたと案内板に書かれています。       江戸時代から佃島は漁業の島でした。 境内社の玉垣には「佃島漁業協同組合」の名が書かれています。       そして、「鰹塚」と刻まれた立派な塚。 東京の鰹節業界の組合が昭和28年に建立したもので、鰹の霊を慰め感謝し、豊漁を願う意味を込めているそうで。 そもそも、住吉大社は航海安全の神様として漁民や船乗りの信仰を一身に受けている神社。 ここ佃島の住吉神社もまた、地元の漁民の信仰を創建当初から受けてきた神社で、こうした鰹塚もその一環といえるでしょう。   という訳で、今回はまずここまで。 佃島の古い町並み、次回も続きますよ。     住吉神社 中央区佃一丁目1-14       3月のライオン 2【Blu-ray】 [ 羽海野チカ ] 9,979円 楽天   《送料無料》パパと呼ばないで DVD-BOXII(DVD) 25,213円 楽天  

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  • 03 Feb
    • 【神奈川県・横浜市】3月に閉店、六角橋の貴重な純喫茶「ルアーブル」

      純喫茶につきまとう”閉店”という宿命。 理由が後継者不在だったり、店舗の老朽化だったり様々だが、ここ最近、知っているだけでも兜町のMay(2016年11月)、北千住のサンローゼ(2017年3月)と閉店の知らせが相次いでいる。 そして、今回取り上げる六角橋のルアーブルもまた、3月に閉店が予定されている一軒。 たまたま、闇市の名残を残す六角橋商店街を散策した折に立ち寄り、その報せを知ってしまった。 一歩遅れたら入ることができなかったという安堵感とともに、また一軒、昭和の雰囲気を残す店がまた気ゆく寂しさを覚える。 奥行きがある店内は飴色あるいは琥珀色の落ち着いた空間で、大人の喫茶店たるもの。 写真には撮らなかったのだが、入口に入ってすぐの大きな楕円形の席にはおばさま方が談笑しながらティータイムを堪能していた。 全体的に客層の年齢は高めで、やはり地元民が多いのだろう。 そんな地元密着の喫茶店が一軒消えゆく、これまで長年利用して来た人たちは果たしてこれからどこの店に移るのだろうか、余計なお世話ながらそう思ってしまう。             充実したラインアップのショーケース     あべ川餅、磯辺餅もある                       電話ボックス?             奥行きのある店内は琥珀色の落ち着いた空間           注文したのはストロベリーパフェ     テーブルには2種類のシュガーポット     閉店のお知らせ     ルアーブル 横浜市神奈川区西神奈川3-7-9   2017年1月 訪問  via 渋で純な喫茶店 Your own website, Ameba Ownd

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  • 01 Feb
    • 【神奈川県・横浜市】これぞ”リアル昭和”の商店街「六角橋ふれあい通り」後篇

      前回に続いて、"かくばし"こと「六角橋商店街」。       両側にサビサビのバラック建て店舗を抱え、その先に伸びている細いアーケード商店街。 「六角橋ふれあい通り」というネーミングが付いているこの通りが、今回のメインディッシュ。 さっそく入っていきましょう......       それにしても細い通りだこと。 これすれ違うときに肩が触れ合うぐらいの細さなんですね。 だから「ふれあい通り」なんか、と冗談っぽく言ってしまいそうなのですが、実はネーミングの由来がマジでこれだというw       そして、何よりもすごいのが店舗の掲げられている看板の数々。 何と、ガチ昭和のまんま残っているという。 絶滅危惧種の手書き看板が、この商店街では高密度で見つけることができるんですね。   まずは「八百み商店」さん。       「毛糸・ぬい糸・ボタン」と赤字で書かれている「裁縫用具専門店 萩野屋」さん。       「スキー毛糸」の看板も見つけちゃいました。       「足立屋商店」さん。       「柳屋青果店」さん。       「マルコシ」さん。 「ニューフラワースタンプ加盟店」だそうです。 「グリーンスタンプ」とか「ブルーチップ」みたいなもんでしょうか、昔はスタンプやシールを集めると品物がもらえるなんてのがありましたな。 今でもやってるんでしょうか。       そして、圧巻なのが「池上商店」さん。 セピア色にしても似合いそうな店構えです。       「青物果実」の「実」が旧字体の「實」に。 「大勉強の店」と銘打っているので、大安売りに定評あるんでしょうね。   こうした木造建ての店舗が多いから、一たび大地震やら火事に遭うとひとたまりもなさそう。 実際、2005年には放火による火災が2度も起きていて、10分の1の店が被害に遭っています。       そもそもこの商店街、やはりというべきか闇市が由来だそうで。 この一帯は戦災に遭っているので、復興後の昭和20~30年代に建てられたバラックがそのまま現在まで残っているという感じです。       所々でシャッターが閉まっている店があるにはありますが、シャッター街という訳でなさそう。       しかも、神奈川大学が近いこともあって、学生の通学路としても使われていて、買い物客に混じって学生の通行も多い。       当然ながら、こうした商店街ってシャッター街になりやすく、実際にその危機があったそうです。 しかし、実際にはそうなってはいないのですが、その背景にはあるのが近所の神奈川大学の存在。 商店街と神奈川大学の学生が協力して様々なイベントを開催し、むしろ活況だったりします。       最近では4月から10月までの毎月第三土曜日に「ドッキリヤミ市」なるイベントなんてのも開催されています。 見た目そのまんま闇市やんけ!と突っ込みたくなりますがw       あれこれ冷やかしながら歩いてみるのもいいですが、ここでお金を落としていくのも悪くありません。 店頭にはネコをデザインしたグッズが勢揃い。       ふしぎなネコが立っているこの店に入ります。       シックな店内にもネコがいっぱい......       どこかノスラルジックな感じがしません? そんな感じの店で購入したのが......     こちらのトートバック。 「カ〇ピス」ではなく、「キャトピス」です。 しかし、「初恋の味」は同じなんですねw 店員曰く、「売れ筋商品で、すぐに売り切れるんです」って、そりゃこのデザインは欲しくなりますよ。       こういった商店街、日が暮れるとより一層のディープさが増しそうですね。 時間ずらしてまた歩いてみるのも悪くありません。   そんな訳で、六角橋ふれあい通りはここまで。 闇市上がりの市場って人が少なく寂しい雰囲気というのが魅力だったりするものですが、ここみたく学生と協力して色々取り組み、活気が失われていないというのも珍しい。 マジで一度足を運んで行ってほしい、お勧めですぞい。     今回立ち寄った店 ムーンキャット 横浜市神奈川区六角橋1-10-12 六角橋ふれあい通り内  

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      テーマ:

プロフィール

佐々張ケン太

性別:
男性
お住まいの地域:
東京都

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