東京近郊を中心に、たまに遠方にも脚を運んで、遊里跡やらシブい商店街などぶらりと歩いてはデジカメで撮った下手な写真を織り交ぜながら綴っています。
「●っぷる」と違って、観光案内にはなっていませんので、悪しからず。

【佐々張ケン太のセカンドブログ】

★KENTAの写真倉庫★
過去に歩いた街並みの写真の忘備録的サイトとして、Ownsにても公開中なので、そちらも併せてどうぞ。
不定期更新中です。

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試験的に、Instagramを始めてみました。
ここでは定期的に【日刊佐々張】を更新中。
忘備録的に出かけた純喫茶の記録も併せて更新していきます。

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以前は"amebaなう"とかにもつぶやいていたが、現在はtwitterのみ。
ブログの更新情報だけでなく、外に出歩いている際には実況していたり、何らかの毒を吐いていたり(⁉)していますw
なお、前述のように"なう"は開店休業状態なので、そっちにフォロー申請しても無駄です(ほとんど削除してますんで)。

※コメントは承認制です。記事内容に関係のないものなどは掲載しませんので悪しからず。

※同様に、読者申請も承認制です。承認は申請者のブログを見て判断していますので、それも悪しからず。
  • 17 Dec
    • 【東京都・千代田区】天皇陛下お住まいの場「皇居」一般参観に参加

      御譲位が再来年に控えている天皇陛下のお住まい、皇居。実は一般に広く公開されていて、事前に宮内庁に申し込むことで見学が可能。人気の観光コースになっているので、なかなか希望通りに実現できないのが難点ですが。そんな訳で、今回うまい具合に予定が入ることができ、念願の皇居一般参観に参加しました。もとは徳川将軍の居城「江戸城」で、総面積115万㎡。見学コースはそのうちの一部分のみで、天皇の居城である「吹上御所」などは含まれない。まあ、あちらはプライベートの場ですからね。流石に、それをさらけ出すのを宮内庁もお許ししないでしょうが。しっかし、陛下が食事したり風呂入ったり日常生活する場ってどんな所なんだろう気にはなりますがね( ̄ー ̄;東京駅から真っ直ぐ皇居に向かうと、最初に目にする「二重櫓(やぐら)」。奥に見えるのが「桔梗門」。皇居参観で最初にくぐる「桔梗門」、参観者はここで申し込みの際に発行される参加許可通知を提出し、プラスチックの名札のようなプレートをもらい入城します。堀を横切る門に入るまでの松の小路を通る間に、心の準備をするわけです。「桔梗門」を内側から撮る。参加者はここ「窓明館」で宮内庁職員の説明を受けます。なお、見学中はおトイレがないので、出発前にここで済ませた方が無難。また、売店もあり、ここで記念にお土産を買うこともできます。こういうレプリカも見れますよ......正門から皇居に入城する馬車、外国からの来賓を乗せているんでしょう。現在は皇宮警察庁舎として利用されている「旧枢密院庁舎」(大正11年築)。皇居参観コースに含まれていないが、参観者控室となっている「窓明館」の前から見えます。「窓明館」で説明を受けた後、係員の誘導で決められたコースを歩きます。最初に見ることになるのが「富士見櫓」。因みに、ここでは皇居内で勤労奉仕活動している人たちの姿を目にすることもあります。今回もその場面に遭遇しましたが、皇居内をきれいに清掃しています。なお、この勤労奉仕活動も団体で事前に申し込みすることで参加できるそうで。「富士見櫓」の石垣は加藤清正が構築しました、いわゆる手伝い普請ですね。築城の名人である清正の手で造ったこの石垣、あの関東大震災でも崩壊しなかったそうで。現存の櫓は、明暦の大火で一度焼けた後、万治二年(1659)に再建したもの。実は江戸城、その大火で天守閣も焼失し、それ以降は一度も再建されませんでした。そんな訳で、この富士見櫓が天守閣の替わりとなったと言われてます。富士見櫓を後にして、次に目にする「宮内庁庁舎」(昭和10年築)。若干の装飾は見られるものの、全体的に素っ気ない感じですが、風格は感じられますね。皇室を陰から支える官庁故に、決して華美にならず簡素な造りでおさめるという考えだろうけど、それはそれで間違いがない。そして、いよいよメインディッシュの「宮殿」。建物は昭和43年竣工。ここが所謂、一般参賀の会場でもあるわけですね。手前に見える松の木のような塔は、照明塔。その一般参賀の会場となっている「宮殿東庭」と「長和殿(宮殿)」。正月2日となると、「東庭」には大勢の参賀者で埋め尽くされるが、実際に立ってみると結構広い。そして、「長和殿」は単純に長~いガラス張りの建物。この長和殿のベランダは、一般参賀で両陛下が手を振る場所。テレビでは高い所から両陛下が手を振っている風に見えるが、実際にはさほど高くはない。宮内庁職員の説明では3メートルちょっとだとか。この長和殿ですが、ベランダの奥には大臣の認証式などが行われる正殿松の間などがあるそうです。一旦宮殿から離れ、「正門鉄橋」(昭和39年築)へ。歩道があるが、一般参観ではその上を歩くことができない(宮内庁職員からその旨説明を受ける)。「正門鉄橋」上から、あの「正門石橋」(明治20年築)を眺めます。この風景、一般参観でないと見ることができません、貴重ですよ。奥には丸の内の街並みも臨めます、「明治生命館」(昭和9年築)も見えますね。これが通常目にする「正門石橋」、左側に「正門」がありますね、奥にあるのが「正門鉄橋」。で、よくこの眼鏡橋(正門石橋の事ですね)を二重橋と勘違いされるのですが、正しくは手前の「正門鉄橋」の方を指して「二重橋」なんですね。もっとも、この2つの橋を総称して「二重橋」と呼ぶのが一般的になっていますが。「正門鉄橋」から臨む「伏見櫓」。かつての江戸城の面影を残す数少ない遺構の一つですが、寛永5年に京都の伏見城から移築したものなので、この名前なんですね。それにしても、見ていて美しい......で、一般参観はこの正門鉄橋で折り返して、スタート地点へ戻ります......先程の「宮殿」に戻り、宮中晩餐や勲章・褒章受章者拝謁などの場である「豊明殿(宮殿)」。かつてはここで新内閣の記念撮影も行われました。奥に見えるのがクリスタルグラスのシャンデリア。で、我々が見ることできるのは外側からだけ、中の様子は入ることができないので想像で。宮殿から最初の場所に戻る際に通るのが、この「山下通り」。「山下」とは「紅葉山」(写真右手側)の下だから。紅葉山には皇室で養蚕を行う「御養蚕所」というのがあるそうです。先代の昭和天皇がそうだったように、現天皇陛下は生物学者でもあるんですね。実際に「生物学研究所」なんてのもあるわけですし。「蓮池濠」向こうに見える「富士見多聞」。「多聞」とは長屋状の櫓で、かつては15棟あったが、現在残るのはここだけ。「蓮見池」はその名の通り、夏なら大輪の蓮の花を見ることができますが、今の季節はご覧の通り......という感じで、皇居の一般参観のコースはここまで。プレートを返却して、桔梗門を出ます。皇居「正門」と「正門石橋」。皇居正門の手前に建つ「祝田町見張所」、云わば交番のようなものですか建築年度は不明ながら、終戦時の皇居前広場を撮った写真にも出てくることから戦前建築だでしょう。「皇居前広場」から先程の正門石橋を眺めます。観光客の姿が多いですが、特に外国人が多い。「皇居前広場」といえば昭和27年に起きた「血のメーデー事件」の舞台として知られますが、あの当時と比べたら本当に平穏そのもの......「皇居外苑」の中心に建つ、「楠木正成像」(明治33年完成)。皇居外苑と云ったらこの銅像ですね。完成まで10年かかったという力作で、高村光雲をはじめとする東京美術学校の手によるもの。銅像もさることながら、この台座も素晴らしい。今回は立ち寄りませんでしたが、大手門の近くには「和気清麻呂像」なんてのもあり、尊皇の志高き偉人への敬意の高さが伺えられます。何せ、その楠木正成を打ち破った足利尊氏は逆賊扱いなのですから。最後に、歴史的にも有名になった門を二つ立ち寄って、〆ることにしましょう。まずは「坂下門」、宮内庁の正面にあって、皇居に出入りする際に頻繁に使われるらしい。しかし、歴史的には老中安藤信正が水戸浪士らに襲撃された「坂下門外の変」でお馴染みか。そして、警視庁の前にある「桜田門」。井伊直弼が水戸浪士に暗殺された「桜田門外の変」で有名ですな。これが内側から見た桜田門。事件が起きたのはこの門の外側でした。という訳で、皇居編はここまで。もし余裕があれば事前申し込みが不要な「東御苑」も併せて回るといいでしょう。今回は休園だったので入れませんでしたが......皇居一般参観についてはこちら。訪問 2017年12月via★KENTAの写真倉庫★ Your own website, Ameba Ownd

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  • 14 Dec
    • 【東京都・杉並区】戦前と戦後が同居する昭和レトロの街並み「西荻窪」(その4)

      ここまで23区の西の端っこ「西荻窪」をじっくり散策してきたのですが、今回遠路はるばる足を運んだ最大の理由は、最近まで現役だった市場の建物がどうなっているか気になっていたから。「西荻窪」編のラストは、その物件を目当てに歩きます。西荻窪駅南口を出て東側に伸びる「西荻東銀座会」(神明通り)を進みます。東銀座会の街並み。ここもまた、昭和を色濃く残しています。長屋のように、同じような看板建築がずらりと並んでいます。ここにも。で、件の物件はあっけなく見つけることができました。こちらの建物、「西荻デパート」。よかったぁ、まだ壊されていませんでした......どうでしょう、このかっこいいファサード。建物も創業当時のものと思われます。「デパート」という名前ですが、その実態は地元民の生活を支えてきた市場(マーケット)だったのでしょう。以前取り上げた横浜磯子の「浜マーケット」を思い出していただけたらおわかりかと。私が小さい頃、まだ昭和だった頃ですが、こうした市場がまだ多く残っていました。看板には「鮮魚」「青果」「精肉」「生花」「洋品」「タバコ」とあるように、全盛時には多くの業種が入っていたことと想像できます。恐らく店名が書かれたテントが張られていたんでしょう、その骨組みが痛々しく残っています。実はこの建物、裏側に廻ってみるとこちらにも看板建築のファサードが。入口は2箇所あったんですね。古い看板が残っていて、うっすらと文字が残っています......入口には手書きで「閉店のお知らせ」が書かれています。今年の3月31日で閉店してしまったわけで、現役当時の様子を見ておきかった......「諸般の事情」とありますが、老朽化に勝てなかったのかも知れません。閉店当時は3店舗が営業していたようです。それにしても、七十有余年とあるので、昭和初期から営業していたのでしょう......閉店から半年過ぎ、後は取り壊されるのを待つ身の建物。早いうちに見ておいた方がいいでしょう。今回は南口メインでしたが、昭和の雰囲気が色濃く残る「西荻窪」は散策して損はないですよ。

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  • 05 Dec
    • 【東京都・杉並区】戦前と戦後が同居する昭和レトロの街並み「西荻窪」(その3)

      西荻窪には、駅を中心に商店街が放射状に伸びていて、しかもどれもがレトロっぽさを残しているので、歩くだけでも面白い街といえます。前にも書きましたが、西荻窪駅ができたのが大正11年で、中央線の前身であった甲武鉄道開業(明治22年)から遅れること32年のこと。すでに当時は国有化され鉄道省の管轄になっている駅ですが、街として本格的に発展するようになったのは翌年に発生した関東大震災の後でした。震災による被害が甚大だった下町から人が西に移動し、替わって山の手側の新宿や渋谷、池袋が新たなターミナル駅に成長。中でも新宿から西に直進する中央線沿線の中野や高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪を中心に人口が集中して市街地が形成されるといった塩梅でした。西荻窪も例外でなく、震災後の大正14年に区画整理が始まり、昭和10年には現在の街割りが完成、その間に当時「豊多摩郡井荻村」と呼ばれたこの界隈が東京市に編入され、杉並区の一員の街になります。井荻村と呼ばれていた大正4年の人口が3,980人だったのに対し、震災後の同14年には1万3,000余人に急増、更に昭和5年には2万2,000余人と倍増ですから、如何に西荻窪の発達がすさまじかたかが分かります......*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆さて、西荻窪駅の東側、駅を挟んで南北に伸びている通り「西荻窪中央通り」もまた商店街が形成されていますが、今回は南口に絞って歩いていきます。この通りの商店街は「西荻窪銀座会」と呼ばれ、歩道アーケードが伸びていますが、見ての通り年季が入りまくっています......アーケードを歩いていると気づかないものですが、反対側から見ると時代がかった看板建築だったとわかる店舗もちらほら出てきます。やがて歩道アーケードが途切れますが、この辺りから戦前築と思われる看板建築が点在し始めます。モダンな装飾が三軒続いている「カメラの春光」さん。往年は同じような看板建築がもっと連ねていたんでしょう......こちらのブロックタイル貼りも、上部の装飾からみて戦前の建物でしょう。で、上2枚の写真の建物群を振り返って臨む。間にある眼鏡屋さんは比較的新しめの建物ですが、それ以前は両側と同様の看板建築だったのかも知れません。この通りの商店街も、街が急成長した震災後から昭和初期にかけて造り上げられたものと思われます。パラペット形状の看板建築も見られます。戦前や戦後が混在した看板建築の宝庫と言えます......五日市街道にぶつかり、ここで駅方向に引き返します。反対側にも戦前戦後の看板建築が続いていきます。昭和の雰囲気そのまま残る「三仁堂薬局」さん。洋風建築を思わせるアーチ形の装飾が続く上階部。こういうのも嫌いではありませんさて、この通りを歩いてみて、個人的に"優良物件(笑)"と認定したいのがあります。どう見ても街並みから浮いていますね......「おいしいお茶 きらく園」と書かれたデカい看板。シャッターが閉まっていますが、休みなのか営業をやめてしまったのか判別付きません(笑)それ以上にインパクトが強いのが周りに散りばめられている看板やら飾りやらの数々。何故か、ピカ〇ュウも見えますw色々と主張が手書きで散りばめられています。それはともかく、建物は昭和4年に建てられたものだそう。看板のデカさでわかりにくいですが、確かに戦前によく見かけた出桁造りの店舗造りであります。あの「散歩の達人」にも出てきたようですが、いつ頃のことなんでしょうね。この後も看板建築が所々に出てきますが、先ほどの妖しい(⁉)お茶屋さんのインパクトが強すぎましたね......西荻窪駅が見えてきました。この先、駅を抜けて北口へと伸びていきますが、またの機会にします。そんな感じで今回の西荻窪編はここまで。次回はもう一軒、見ておきたかった物件に遭遇します。恐らく無くなるのも遠くはない建物、ホントに見ることができてよかった......

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  • 04 Dec
    • 西荻窪(東京都杉並区)

      西荻南口仲通街巨大なピンクの象さんのハリボテが目立つ。 西荻南口仲通街象さんのハリボテがある辺りの建物は恐らく戦前からのものか。 西荻南口仲通街上記写真の建物。洋風の装飾が施されているのが分かる。 西荻南口仲通街2枚ともアーケードの出口側。擬石仕上げの看板建築が両側に控えている。 西荻南口仲通街アーケード入口から西荻窪駅を臨む。 サカエ通り飲食店が建ち並ぶ。右手に「純喫茶ダンテ」が見える。 柳小路この辺りの街並みは戦後の闇市から派生したものと思われる。 柳小路現在はお洒落な外国料理の店が目立ち、街並みを生かしたリノベーションがなされているようだ。 柳小路もっとも闇市の名残を感じさせる通り。「やきとり戎」は日中から開店して盛況ぶりを見せる。 柳小路増改築の積み重ねを垣間見ることができる一軒。 西荻窪中央通り戦前築の看板建築が軒並み並んで残っている。この辺りは戦災の被害が微小だったようだ。 西荻窪中央通りモダンなファサードの看板建築。 西荻窪中央通り異様な雰囲気が漂うが、建物自体は昭和4年築の出桁造。 西荻窪中央通り看板建築が濃密に残っており、関東大震災後に急速に発達した街だというのがうかがえる。 西荻デパート平成29年3月に閉店され、まさに解体を待つ身の様相。 西荻デパート裏手側の外観。 西荻デパート閉店のお知らせの張り紙。70余年の歴史ということから終戦直後からあったのではないか。年代的に闇市から派生したマーケットかと思われるが......閉店当時は3店舗営業していたようだ。 西荻東銀座会こちらは戦後の看板建築が多く残っている。 西荻東銀座会長屋状に並ぶ戦後看板建築(2枚とも)。 神明通り共栄会道路に対して2階の向きが曲がっている店舗が多い。元々短冊状に区画された街に、後から通りが斜めに造られたのではないか。 神明通り共栄会この通りの店舗は戦後の看板建築が多い。 西荻窪南本町会前述の西荻南口仲通街の延長上の通り。 西荻窪南本町会この辺りも戦後看板建築が多い。西荻窪を本格的に歩き回ったの初めて。今回は南口がメインだが、戦前と戦後が交差する昭和が色濃い街並みに思わぬ収穫。純喫茶と渋い飲み屋も少なくなく、散策が楽しい町である。訪問 2017年11月 via★KENTAの写真倉庫★ Your own website, Ameba Ownd

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  • 18 Nov
    • 【東京都・杉並区】戦前と戦後が同居する昭和レトロの街並み「西荻窪」(その2)

      中央線最西端(23区内で)の「西荻窪」。そこは、戦前と戦後が入り交じる昭和レトロの趣を残している街。前回は駅から南に伸びる商店街を取り上げたのですが、これはまだ軽いジャブ程度。今回はいきなり真打ち登場......*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆西荻窪駅南口を出てすぐのアーケード街「西荻南口仲通街」の西側にある、平行した通りへ。ここはサカエ通りと呼ばれていますが、前回と打って変わってこの通りには飲食店がずらりと並び、一気に場末的な風景に。この通りに店を構える喫茶店のDANTE(ダンテ)。半世紀近くの歴史を持つ店で、純喫茶ファンなら恐らく知れた存在でしょう。 【なるべく(笑)日刊佐々張212】 西荻窪「DANTE」 前回書いた「戎」の裏手、サカエ通りに佇む渋い喫茶店☕🏠。 この店の良さは、中に入って分かるというもの。 どこか山小屋を想わせる内装、クラシックのBGM、そしてカウンター席とテーブル席との間の段差、ダンディーで温和そうなマスター、等々。 こうした空間で頂くコーヒー☕とバームクーヘンの旨いこと。 店内に客が多いのも頷ける。 西荻窪には喫茶店☕🏠が多くあるそうで、この街だけで喫茶巡りができそうだが、ここは先ず訪れたい一軒だろう。 #純喫茶 #西荻窪 #dante #ダンテ #バームクーヘン #サカエ通り 佐々張ケン太さん(@sasabarikenta)がシェアした投稿 - 2017 11月 14 7:27午前 PSTこの店の良さは中に入ってこそ分かるもので、山小屋を思わせる内装にクラシックがBGMとして流れる。もっとも、どこか縛りがありそうな音楽喫茶とは違い、珈琲を飲みながら談笑する客も多い。身構えることなく肩の力を落として寛げる店で、つい時間を忘れそう。珈琲以外にフードメニューはケーキぐらい、しかし定番のバームクーヘンはあれば注文したい。このDANTEに限らず、西荻窪には喫茶店が多い。中央線沿線は総じて似た感じだが、この界隈に関しては喫茶店巡りするだけでも一日楽しめそうだ。DANTEの裏手にある細い路地へ。柳小路と呼ばれるこの通りは、どこか闇市の残滓を思わせる街並み。この界隈は戦前、商店がずらりと並んでいたのだが、戦時中の建物疎開で壊され、空き地になっている所に終戦後に闇市が出来たそうで。当時は〈協栄会マーケット〉と呼ばれ、飲み屋だけでなく物販の店も少なくなかったみたいです。中でも柳小路はかつて小料理屋が並び、袖を引いて連れてきた男を女性店主がもてなす、艶めいた飲み屋街だったそうで。もしかすると青線の要素も含まれていたのでしょうか。ほとんど同じ高さの古い二階建てが肩を並べ、さながら外観は昭和2~30年代のまま。もっとも、最近はご覧のようにお洒落な海外料理の店が入り、リノベーションが進んでいる様子。もう一本、並行して伸びる細い路地もまた、闇市の名残を色濃く見せています。入口の建物は複雑な造作で、建て増しを重ねているのがくっきり。日中はかように静寂で、本当の姿は夜にならないと分からない。年季入った看板の台湾料理の「珍味亭」はまだ暖簾を出してない様子で、こちらも夜にならないと中を垣間見ることは出来なさそう。しかし、出される料理は美味そうだ......どうでしょう、この色の褪せ具合。豚足とビーフンがこの店のウリのようですね......しかし、この店だけは昼間から酔客の姿が見られるわけで。この界隈の呑兵衛なら知らぬものはモグリであろう、「やきとり戎」。この界隈だけでも複数の店舗を構えているが、最も雰囲気が出ているのが南口のこの店。 【ほぼ(笑)日刊佐々張211】 西荻窪「戎」 西荻窪駅南口を出てすぐに見える細い路地。 飲食店が建ち並ぶ、どこか戦後の残滓を想わせるこの通りは終戦後、「協栄会マーケット」と呼ばれた闇市だった。 西荻では知らぬ者がいない焼き鳥の「戎」は、この通りにある。 どのつまみも我々の懐に優しく、そして旨い。 8人入れば満杯の狭いカウンター席は、みな一人酒。 「戎」の燗酒をやりながら、昭和の余韻に浸る。 #西荻窪 #東京ヤミ市酒場 #闇市 #戎 #焼き鳥 佐々張ケン太さん(@sasabarikenta)がシェアした投稿 - 2017 11月 13 8:58午前 PSTこの地に店を構えたのが昭和48年なので、45年近い歴史を持っているが、建物はそれよりも古く昭和20年代からあったそう。駅に近く、どのつまみも安く、そして旨い、それ故に夕方ともなれば小ぶりの店内も満杯になるのが当たり前。昼間から開いていることも呑兵衛の心をグッと掴んでいる要素なのでしょう。夕方の風景。この時間になると灯りをともす店もボチボチ見られるように。この通りの本番はこれからです...... 東京ヤミ市酒場 飲んで・歩いて・聴いてきた。 [ フリート横田 ] 1,728円 楽天 東京ヤミ市酒場 飲んで・歩いて・聴いてきた。 Amazon

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  • 14 Nov
    • 【東京都・杉並区】戦前と戦後が同居する昭和レトロの街並み「西荻窪」(その1)

      およそ1か月のご無沙汰でした(T置宏)wこの間、職場で一人が病気退職したこともあり、人手が埋まるまでの間ぶらりと街を歩く機会がほとんどなかった程に休みなし出勤という多忙ぶり。しかし、そっちも目途がついてきたうえ、そんな時間ができたこともあり久しぶりに遠出を敢行......と言っても都内なんですけどね(苦笑)とはいえ、今回行ったところは中央線で23区の西の端っこ、自宅から電車に乗り継いで4~50分という場所。本格的に歩き回るのは初めてなのですが、これがまた昭和レトロ好きには睡涎の的ではと思うほどの街並み。想定以上の収穫と相成りました。*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆という訳で、中央線で23区の最西端の西荻窪駅に降りました。この辺りは東京女子大や立教女学院が近いということもあって、最近は文化系女子が好みそうなアンティークショップが多く集まっているのですが、それとは別に戦前や戦後が同居する昭和が色濃く残る街並みが見られます。南口を出てすぐ正面に「西荻南口仲通街」と書かれたアーケード街が見えます。この古めかしい看板からして、入る前からもう"当たり"感ありまくり......この西荻南口仲通街、全長はわずか50メートル足らずと歩くと1~2分で端っこまで行ってしまうという短さ。それでいて幅が狭く、まず車が通れない、完全に歩行者専用のアーケード街。カラフルなアーケードの屋根ですが、どこか古めかしさを感じさせます。そして、この商店街といえば、いましたね、謎の巨大なピンクの象さん西荻窪といえばこの象さん。この象さん、もともとは商店街の神輿として作られたものだそうで、発案がこの商店街にあった「西荻餃子」の店主らしい。それにしても何故に象さん、それもピンク色なんでしょうかね因みにこの象さん、実は3代目だとか。今年の3月に2代目と変わったそうですが、この2代目というのが15年間ここにぶら下がっていたということなので、実はかなり歴史があるんですね。そんな象さんがある辺りのこの建物、見るからして戦前のものかと思われます......外壁は洋風の装飾が施された擬石仕上げ、2階は豆タイルなのでしょうか。そして、あっという間にアーケード街の出口。本当に駅から歩いてすぐに出ちゃいます。その出口の両側の建物もまた、年季が入っています。左側のクリーニング屋さんの建物も戦前からのものでしょうか。やはり上部に洋風の装飾が見られます。一方の右側はお休みなのか、それとも閉店してしまったのか......「すーぱーでりかいとう」の昭和チックな看板。「西荻名物たい焼コーナー」なんてのもありますが、どんなもんだったんでしょうアーケードの向かいにも戦前か戦後かという建物。アーケード過ぎれば住宅も多くなっていくのですが、この辺りが住宅地化したのは関東大震災以降。アーケードを抜けた先にも看板建築が建ち並ぶ場所が顕在。古めかしい「サントリースナック」の看板。薄っすらと「スナック純」とありますが、建物を見るとどこにもスナックは見当たらない。所謂トマソン看板といったところか。それにしても、「スナック純」はいつまでやっていたんだろうか。この辺りになると戦後のものが多い。といっても、昭和2、3~40年代なのだろうが。この辺りは戦前建築も残っているから、戦前と戦後の見境が付かない。こちらも戦後の看板建築。その裏側には、御神楽づくりを思わせる巨大な物干し台を構えた民家。今では下町にありがちな風景だが、ここ城西の地でも見るとは思わなかった。もっとも、昭和4~50年代まではこういった住居も珍しくなかったのかも知れない。とはいえ、ここら辺を下町と呼んでいいかどうかは議論が分かれそうだが。通りには「西荻 FC東京」と書かれた旗が所々に見かけます。名前の通り、東京がホームグラウンドなので間違いではないんですが、ここ西荻窪が力を入れて応援しているのは所縁の選手がいるからなのだろうか。或いは選手の練習所が近くにあるからなのか。サッカーに疎いので、そこら辺は深く追求しないことにするが(苦笑)この通り、「西荻窪南本町会」という名前の商店街だそうで。前述の「西荻南口仲通街」の延長線上で、五日市街道にぶつかるまでなので、少々長い。もう一度引き返して、「仲通街」の入口へ西荻窪駅を望む。駅前といっても、いわゆる駅前広場がないせいか結構間近に見える。この西荻窪駅が開業したのが大正11年で、震災の前年。中央線は当初、「甲武鉄道」と呼ばれた民間会社の鉄道で明治22年開業、国有化されたのが同39年。甲武鉄道開通から遅れること33年後の駅開業で、この時点で既に国鉄の駅(当時は鉄道省の管轄だったので「省線」と呼ばれていた)だったわけか。そんな感じで、今回の散策は南口のみだったのですが、じつに濃い街並み。もっとも、これはほんの軽いジャブ程度に過ぎない......(次回に続く)

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  • 11 Oct
    • 【愛知県・碧南市】三河遊里探訪その3・碧南「衣浦温泉」

      今回の舞台は愛知県碧南市。豊橋からは名鉄本線で知立まで乗り、そこから三河線に乗り換えます。この三河線、知立を境に運行ルートがぶった切られていて、豊田に向かう列車ではなく、刈谷に向かう列車に乗ります。終点の碧南駅から2つ手前の新川町駅に降ります。駅に降り立って、海側へ歩いたところにあったのが「衣浦温泉」と呼ばれた温泉街でした。赤線マニアの間では知る人ぞ知るスポットで、遊里探索サイトなどでお馴染みの遺構もまだ健在。*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆知立からは30分程の新川町駅。ここを降りる人は私以外にほんの数人程度。周辺は普通の住宅街の小さな駅です。しかし、改札を出るとどこか戦前の建築を思わせる意匠が。見るからにどうやらこれ、かつてのホームだったようです。そして、これが駅舎。後でググってみたら昭和19年竣工というレトロ駅舎だったことが判明。この昭和19年という年代、後で重要になってくるので覚えておいてくださいね。件の遊里跡があるのは、現在の地番で言うと「碧南市山海町」。駅を出て西側、海に向かって歩くのですが、途中でこんないい感じの銭湯に出くわします。遊里の近くに銭湯ありとは、ここも例外でないようです。営業時間は午後4時からということで開店前なのですが、どうやらこの銭湯、「新川温泉」という名前みたいです。とはいえ、ホンモノの温泉が湧き出るような感じはしないんですけどねw関東では稀ですが、愛知県から西、特に関西辺りでは「温泉」と名の付く銭湯は決して珍しくないんですね。名前だけでも温泉に入っている雰囲気にしたいからなんでしょうか。歩くこと10分程でしょうか。さっそく古い旅館らしき建物を見ることができます。どうやらこの辺りのようです。玄関先のタイル貼り。正方形状がビッシリというのでなく、グニャグニャ曲がっているタイプですか。こういうのは珍しいのですが、実にカラフル。思わず箒で掃きたくなってしまいますw奥の路地には「衣浦温泉組合」「寸楽」と書かれた雪塔が残っています。かつて賑わっていたころにはこうした雪塔が立ち並んで、夜ともなれば赤々と灯されていたんだろうな......さらに路地を奥に進んでいくと、冒頭の写真の建物に出くわします。鱗のような外壁のアールが特徴のこの建物、かつては「吉文」という名の旅館だったそうです。この建物、何と崖っぷちに建っているんですね。建物がある辺りから先は石段なのですが、「通行禁止」の看板が。そして、この高低差。実はもともと、この先が海だった名残りなのです。崖から降りると、道路の脇に続いている塀。これはもしかすると防波堤だったんでしょうか。ということは塀の向こう側は海だった......そんな訳で、ここで地図を見ると、色が塗られた辺りが衣浦温泉街。その左側の道路が先ほどの写真で、塀より向こう側は埋立地、つまりもともと海だったのですね。場所的に、海を眺めることができる風光明媚な温泉街という触れ込みだったことがわかります。旧「吉文」の裏側。お、奥に何かあるぞ......そこには豆タイルで敷き詰められた円柱。まさしく赤線遺構そのもの。これは思わぬ収穫でした。近年は数を減らしているみたいですが、この辺りは遺構がまだまだ健在。例えば、こうしたベンガラ色の壁をした建物も旧旅館のようです。ところで、この衣浦温泉、元々は近くにあった海軍の明治航空基地の将校たちのために設けられた、「衣浦荘」という慰安地でした。戦争末期、この明治航空基地では所謂"特攻隊"の飛行士を養成したわけで、多くの若者が死地に向かう前にここでひと時の逢瀬を楽しんだというのが、この場所でした。悲しくも艶のある物語が多く繰り広げられた場所だと知ると、何だか切ない思いがします。この慰安地ができたのが昭和19年、そう、先ほど出てきた新川町駅の竣工年ですね。恐らくはこの「衣浦荘」に合わせて新しい駅舎が建てられたのではないかと思われますが、どうなんでしょうね。当時、15もの業者が集まり特殊飲食店を営業していたそうで。終戦後はGHQの慰安施設を経て赤線となったようです。転換期となったのが昭和29年。売春防止法施行が目前に迫り、特殊飲食店が旅館に転業。その際、歓楽街を永らえるために行ったのが温泉採掘のためのボーリングでした。昭和31年に「衣浦温泉」として認可を受け、「衣浦荘」は歓楽温泉街になります。最盛期には温泉旅館が10軒ほど、芸妓置屋に劇場、パチンコ店などが並び、碧南きっての歓楽街だったそうで。しかし、昭和40年代半ばの高度成長期に海が埋め立てられて工業地ができると、風光明媚を謳った衣浦温泉街も次第に寂れてしまいます。それ以前に、湧いていたのが本当の温泉ではなかったのではという説も......今回の訪問で見た印象は、既に温泉街としてはオワコンだったということ。残された数少ない遺構のみが静かに余生を過ごしている感。最近まで営業を続けたであろう「翠扇」という名の旅館。恐らくは二度と往年の賑わいを戻すことなく、朽ちるだけなんでしょうか。前述「吉文」の眼下に建つラブホテルが色街の地霊を引き継いでいる感じです。因みに、ここもかつては「湯元」と呼ばれる旅館がありました。いつ消えるか予想がつかない場所の故、早いうちに訪問しておいた方がいいでしょう。そんな「衣浦温泉」の散策でした。

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  • 02 Oct
    • 【愛知県・豊橋市】豊橋の純喫茶でモーニング・その2 遊里散策の帰りに「サンマロ―」

      豊橋鉄道渥美線「小池駅」を降り、遊里跡「有楽園」の散策に向かう途中に、外観がいかにも昭和のパン屋さんを見かけ気になっていたが、帰りに再び寄ってみて益々ハマってしまった店の話。「有楽町」の交差点からもはっきりと見えるこの店。車の通行量が多い通りにあって、そのせいか広い駐車場も。車で来るお客さんが多いのだろうとは容易に察しがつきます(そりゃそうだもん、トヨタ王国の愛知県ですから)。まあ、小池駅からも歩いて5分位と車なしでも行けますが。何よりもこの看板のフォント。昭和レトロなタイポ好きなら引き込まれるのは間違いないでしょう、磁石に引き込まれる砂鉄のように......店名は「サンマロ」ではなく「サンマロ―」と伸ばすんですね。あの棒っこは長音だったというのを後で知ってしまうんですがwそれにしても上2枚の写真を見ても、フォントの形が全く違うぞ。まあ、どれも昭和臭漂う文字ですが(褒め言葉)。「手造りパン・ケーキ」「欧風パン・洋菓子・喫茶」「欧風パン」なんて言葉なんて今どき使う人はちょっと年齢層がお高いかも。それはそうと、「喫茶」とあるようにパンとケーキの売り場だけでなく喫茶コーナーもあるみたい。外から中を見ると明かりがついていて営業中だと確認できたので、さっそく中へ。売り場。レジの上にぶら下がっているこれもいいなぁ......「デニッシュ・洋菓子」「スナック・パーラー」そして、喫茶コーナーへ。天井の灯りがこれまたいい感じです。懐い(ナツイ)とはこのことか、そう思わせる空間。壁といい椅子といいテーブルといい、その上にある真っ赤っかなシュガーポットといい(笑)で、ここでは飲み物を注文して軽く休憩のつもりだったので、ミルクセーキを頼むと、「モーニングいかがいたしますか」と店員さんが尋ねるのではありませんか。「モーニングやってるんですか」「11時まで、パンかおにぎりかいずれかを選べます」おお、本当だ。「モーニングサービス」としっかりあるんでないの。8時半から11時までで、パンかおにぎりをチョイスできるそうです。あと、ケーキタイムというのもあるみたいですね。結局、今回2度目のモーニングはおにぎりをチョイス。いつもモーニングといえばパンだったのですが、お米もたまにはいいモンだwドリンクの値段でミニサラダ付きですから、これは悪くありません。流石は豊橋、モーニング発祥地だけありますな。しっかし、この組み合わせはちょっとヘンかしらん豊橋の中心街からは外れた場所ながら、電車で行ける場所なので、一度は行ってみてくださいね。ついでにセットで、近くにある「有楽町」の妓楼建築群も見て回るといいですよ。余談ながら、このお店について、いつも立ち寄るこちらのブログで紹介していたんですね。しかも私、この記事にしっかりとコメント残していたし(爆)これを思い出したのは豊橋から帰った後だった訳ですが(^_^;)そこで当のブログ主さん、"有楽町の遊廓建築を見学に行く前に発見し、「あとで絶対に寄る!」と決めていたのです"とおっしゃてましたが、そのだいぶ後で私も実際に同じインスピレーションになるのですから、この店の惹きつける外観は凄いものがありますね( ̄ー ̄

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  • 18 Sep
    • ミニチュアは面白いぞ「田中達也 見立ての世界」観覧記

      豊橋ネタを書き続けていますが、ここらで小休止して、今回はついこないだまで開催された展覧会の観覧ネタをば。新宿高島屋で開催されたミニチュア写真家・田中達也氏の作品展「見立ての世界」。日常のものを何かに見立てて、ジオラマで使われるミニチュア模型と合体させて、いろんな世界を魅せてくれます。作者は、NHKの朝ドラのOPシーンも手掛けた御仁。そのせいもあってか、入口前は行列という盛況ぶり。そう、これですよ、これ。このシーンを見て思い出した人多いんではないかと。会場にはミニチュア写真とジオラマ作品を合わせて100点以上。これをすべて紹介すると長くなってしまうので、今回はほんの一部だけ。中でも楽しませてくれたのが、ミニチュア模型と日常の素材を組み合わせて作ったジオラマの数々。どれもしっくりと来ていて、流石だと思ってしまいます。ブロッコリーを木に見立てると、こういう世界ができるかぁ......収穫の秋、苗を刈り取る農夫の姿......しかし、遠くから見るとこういう形なんですね。これぞ「田舎暮らし」ならぬ、「田舎ぶらし」。ガガーリンは云った?「地球🌍は甘かった🍧」「死んでもプラス思考」だった故人の葬式......「今夜はここに泊めてくりップ」「夏の"メモ"リアル」stapler の library ってことで、「ステイプライブラリー」。「ホッチキス」って英語ではないんですねぇ(英語で"stapler")。「アボガ島」......って駄洒落が続いてますが、これは私が思いついたのでなく、実際に作品のギャプションとなっているんですね(マジ)作品そのものだけでなく、作品名にもユーモアを織り交ぜるセンスが流石ですwテニスボールの道はなかなか目的地にたどり着けません......こちらもテニス🎾ネタ。今回は、作品の中でもスポーツネタがとりわけ多かった気がしました。かの国のミサイルはマジで嗤えませんが、こういうロケット🚀はあってもいいwそして、今回最大の目玉が何と言ってもこちら。その名も「新幹線🚅」ならぬ、新"パン"線🍞(笑)駅や街の様子もここまでピッタリと来ます。しかし、見所はやはり新"パン"線の車両、何とこれ、マジで動きますΣ(・□・;) 【日刊佐々張187】 新宿高島屋「田中達也 見立ての世界」 新幹線🚄ならぬ“新パン線”が発車。 #田中達也 #見立ての世界 #ミニチュア #新宿高島屋 #新幹線 #新パン線 #ひよっこ 佐々張ケン太さん(@sasabarikenta)がシェアした投稿 - 2017 Sep 14 1:15am PDTただでさえ観客が多かったこの展覧会、とりわけ多かったのがこのブーズでした。そんな感じで、今回はほんの一部でしたが、ジオラマの面白さをここまで堪能できた一日でした。新宿高島屋の方は終わってしまいましたが、大阪でも開催されるそうで、西日本の方は是非足を運んでみてはいかがかと。「MINIATURE LIFE 田中達也 見立ての世界」2017年9月20日(水)~10月2日(月)大丸ミュージアム(大丸梅田店15階)会場は写真📷撮影がOK。詳細はこちらのサイトにて。

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  • 14 Sep
    • 【愛知県・豊橋市】三河遊里探訪その2・豊橋「有楽園」

      豊橋には、前回取り上げた「東田園」の他にもう一つの赤線エリアが存在しました。それが、今回取り上げる「有楽園」。前回の冒頭でもちらっと触れたのですが、「東田園」の前身だった「吾妻遊廓」が昭和19年に閉鎖に追い込まれ、一部の業者が移転先として選んだのが豊橋市有楽町です。上の地図を見ると、色が塗られたエリアだけが周囲と異なる区画のし方に。明らかに、遊郭特有の区画ですね。で、成立の経緯からして形を成したのは終戦前後あたりではないかと。そして、赤線に指定され、昭和33年の売防法施行によって廃止......とはいかなかったのが「東田園」と異なるところ。何と、巷の話では今なお現役で春をひさいでいるとか、何ともアレな情報がでてくるわけwそんな感じなので、午前の速い時間帯に訪れ、風のように通り過ぎながらの探索となります。そんな訳で、ブログの順番としては「東田園」を先に取り上げていますが、実際には時系列が逆で、この「有楽園」が最初の探索であることを予めお断りします。*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆最寄りは、豊橋駅から「豊橋鉄道渥美線」というローカル路線に乗って2つ目の駅「小池」。都民ファウスト、もとい都民ファースト(笑)な名前のこの駅、駅舎がない無人駅なんですね。周囲は閑静な住宅街、この近くに現役と噂される遊里が存在していたとは......小池駅から西の方に進んでいくと、「有楽町」という交差点があります。有楽町と言っても、"イ〇シア"も"マ〇オン"もありませんw周囲はなんも変哲もない住宅街、実は信号から西に進んでいくと件の「有楽園」があるのですが。ほほぅ、見えてきました。こりゃぁデカいですなあ、東田園のそれと同等、いやそれ以上かも。のっけから出くわしたこの物件、どう見ても妓楼建築です、本当にありがとうございました。入口上部には「秀の家」という屋号が書かれています。そして、「料理店」と書かれた鑑札も見えます。床に目をやると、3Dのだまし絵みたいな模様のタイル貼り。I〇AXさんでもT〇TOさんあたりでもいいですから、こういうのまた出してくれないですかね。そのお隣もまた凄い。東田園も確かに立派な妓楼建築が並んでいましたが、これより立派なのは見なかった気がします。何気に奥行きがデカい......こちらの屋号は「富久有」さん。そういや、先ほどのもそうでしたが、小さい縄が掛かっていますね。これってどういう意味を込めているんでしょうか。勝手口には屋号が書かれたかわいい照明が。あ、ここにも「料理店」の鑑札が見えます。もしかするとこの「有楽園」、もともとは娼妓一本やりでなく、芸娼の二枚鑑札だったのかも知れません。そして、こんな注意書きが。「十八歳未満の方はお客さんとして立ち入りをお断りします」的なものでしょうか。これがあるということは、やはりその手の営業をしている、あるいはしていたとかなんでしょう。はす向かいにもあります。「富久有」さんと比べればやや小ぶりですが、外見は立派。原付みたいなのがカバー掛けて停められてますが、この建物の持ち主かしら。こちらにも屋号が書かれていて、「杜月」さん。しかし、注目なのは引き戸の方で、「とげつ」と透かし彫りが施されています。波打ったデザインが面白い。そして、うっすらと「旅館」という文字が見えますが、表向きはそうしなければならなかったんでしょうかね。塗装が剥げかけているものの、こちらは淫靡な赤い建物の「浜長」さん。ベンガラ色という言葉が似合う「赤」です。そして、意味深な注意書きのプレート。「お客さんとして」ダメなら、それ以外ならOKなんでしょうか、って勝手に突っ込んでみたりする。こちらも小ぶりな一軒ですが、見越しの松が斜め掛かって立っています。こちらは現役なんでしょうか、「寿司割烹新々」さんです。こちらの玄関には「三楽」という屋号が。もしかすると、前の屋号なのかもしれません。横のタヌキが「これからエエことやるんちゃう?」的に話しかけてきそうですwかように遺構が次々と出てくるわけですが、それにしては人っ気が全く感じられない気が。朝早い時間帯のせいなのかも知れませんが、どうにも生活感が感じられない。こちらに至ってはどう見ても廃墟だろうという感じの遺構。トタンのさび錆具合が妙にこれから消えゆく運命を物語っているみたいです。何しろここ数年で遺構の数は減らしているようで、こうして空き地も見られるのですが、その広さからかつては大きい規模の妓楼が建っていたんではとの想像もしてしまいます。それでもこちらはまだ数を残している方でしょうかね。この「有楽園」、近年は地元の常連客を相手に細々と営業を続けていたみたいですが。因みに、入口の引き戸がほんの少し開いていれば営業中の証とか。最後、駅に戻る前にこれまた既に"ご臨終"の一軒。入口には「小料理」「千尋」という文字が。恐らく夜に再び訪れても、二度と開くことはなさそう......結局のところ、果たして今も現役の遊里なのかどうか判然としなかった「有楽園」。こういうのは夜にもう一度訪れた方がいいのでしょうが。何れにせよこういう商売は当代限りのもので、いずれは「跡」の形で残される運命かも。そう、京都の五条楽園みたいに。そんな感じの「有楽園」散策でした。

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  • 12 Sep
    • 【愛知県・豊橋市】三河遊里探訪その1・豊橋「東田園」

      前回は豊橋の純喫茶「フォルム」でのモーニングで開幕した、今回の三河日帰り遠征。目的はズバリ、遊里探索。流石に日帰りで数多くこなすのは酷で、敢え無く行けなかった場所もありますが、それについてはまたの機会ということにして、まずは豊橋を代表する旧遊里をば。今回取り上げる表題の「東田園」、赤線マニアの間ではすっかりお馴染みで、木村聡氏の『赤線跡を歩く』シリーズでも取り上げられています(近著『色街百景』にもちゃんと出てます)。現在の地番で言うと、豊橋市東田仲ノ町。しかし、その前身にあたるのがその「東田園」に隣接する場所に存在していた「吾妻遊廓」というものでした。上の地図をご覧いただくと、まず今回のメイン「東田園」が緑色でマークしたエリア。そのお隣の吾妻町(赤くマークしたエリア)を見ると、きちんとした正方形状で区画されているのがお分かりかと。しかも、斜めになっているのは恐らくあの吉原を模した形で、北枕を嫌ったためと解釈できますね。以下、昭和5年発行の『全国遊郭案内』から引用。豊橋市吾妻遊廓愛知県豊橋市東川町に在つて、東海道線豊橋駅で下車すれば東へ約二十丁、駅から乗合自動車で「東田」へ下車すると直ぐである賃十銭。(中略)豊橋は中古には今橋と云ひ、徳川時代には吉田と云つた。豊橋に成つたのは明治に成つてからの事である。「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振袖が」と云ふ唄が土地で昔から唄はれて居る様に、豊橋は昔から遊女町として名高い所丈けに今も仲々盛んである。宿場から遊廓に成つたのは明治四十三年十月一日であるが、現在は貸座敷が五十六軒あつて娼妓は四百九十五人居る。宿場時代からからお盛んな土地柄で、かように大規模だったこの吾妻遊廓。それほどまで盛況だったのは、近くの吉田城址に陸軍歩兵第18連隊が置かれていたから。男社会の軍隊にいて、そのはけ口として吾妻遊廓があったという訳ですね。しかし、そんな遊郭地も、昭和19年に幕を閉じられたそうで、その理由が兵舎の資材に転用のため徴用されたから。軍の人達に利用された遊廓が、戦時を理由に軍の都合で閉鎖という皮肉な終焉です。それに伴い、一部の業者さんが東海道線を挟んで反対側の有楽町に移転します。こうしてできたのが、次回触れる「有楽園」という訳ですね。軍都としての側面を持った豊橋らしいといえばそれまでですが、やはり敵軍に目をつけられたように昭和20年6月19日の豊橋空襲で市街地が被災します。兵舎の資材に転用されたことで空き地化してしまった吾妻遊郭跡には焼け出された住民が逃れついて、戦後バラック住宅が密集することに。しかし、過去の地霊が呼んだのか、私娼を置いた飲食店ができたことで、お上の取り締まりを受けるも、これを機に遊郭復活の声も上がります。そうしてできたのが、今回の「東田園」という訳です......*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆今回の目的地は豊橋駅から路面電車に乗って20分程、「競輪場前」電停で下車して南に歩いた場所に。程なくして左に緩いカーブ、そして公園。件の目的地はすぐそこです。公園の南には妓楼から転用されたと思われる旅館が並ぶ光景。「東田園」は公園を中心に"U"の字型に妓楼が並ぶ形で存在していたようです。その「新宝光」という旅館、2つ棟続きになっていて、こちらはカフェー建築風なファサード。その並びも旅館だったんでしょうか、看板らしきものが見えます。ちなみに、こちらのレポートによれば「旅館金海」と書かれた看板だったようです。屋号が書かれた屋根瓦に手摺の透かし彫り。これを造った人の匠の技に思わず感服しました。そして、「料理店」と書かれた鑑札。要するに、旅館の前はそんな店だったということなんですね。先程の「新宝光」さんの向かいの建物。よ~く見ると......パステルピンクを基調とした豆タイル装飾がかわいい。所々に赤いアクセントも見られるのもポイント高し。この通りに並ぶ妓楼の間口は同じぐらいの広さ。恐らく外装は綺麗に改装したんだろうけど、往年の雰囲気は感じられます。反対側の通りもこんな感じ。そして、どれも住宅として大事に使われているので、保存状態が素晴らしい。真ん中の植物がうっそうとしていてわかりにくいが、実は円窓が隠れています。2階の手摺に屋号らしきものが彫られていて、「いなをか」とあります。漢字で「稲岡」というんでしょうかね。松の形がくり抜かれた塀、更に玄関脇に見越しの松の木。ちょうど住人が出てきて、ちょっと気まずい感じになりましたが、散策は中断せずに続きます。何しろお隣もまた凄いですからね。1階も2階が全面ガラス戸の下見板張り。こちらも見越しの松の木が。こちらは和洋折衷の趣でしょうか。玄関回りがカフェー建築風のファサードになってます。手摺に屋号らしきものが見えますが、こちらは「此の花」とあります。一方、その向かいは廃墟になっている模様。止まっている車が邪魔ですが、玄関をよく見ていただきたい。家紋のような彫り物が飾られています。鷹と松の懸魚も見事。「新井吹」という屋号が見えますね。その「新井吹」さんの裏手の通り。遊廓の中心の通りに当たりますが、狭い復員でどうやら通用口か勝手口みたいな役割なんでしょうね。こちらの玄関は裏口なんでしょうか。「旅荘新井吹」と書かれた年季の入った看板が残ってます。もしや連れ込み宿だったんでしょうか。そうすると、裏口の存在も納得でしょう。その細い路地の出口はこんな感じ。この小さいエリア、ざっくり歩いても5分はかからないと思いますが、そんな中で妓楼建築が密度高く残っているのは珍しい。因みに、この東田園ができたのが昭和27年で、昭和33年の売春防止法施行を境にスパッと廃止し、そのほとんどが旅館に転業したんではないかと思われます。そうなると、赤線としての営業期間は僅か7年ほど。新興の赤線だったこともあり、しかも赤線廃止と同時に営業を止めたことで住居として大事に使われていることもあって保存状態が良好なのかも知れません。最後に、「東田園」から南に外れた場所に出ると、こうした飲み屋の残滓が見られるのがわかります。恐らくはここまで嬌客が及んでいたんでしょうかね。そういえば、最寄りの停留所名となっている豊橋競輪場ですが、開業したのが昭和24年。私娼街だった旧吾妻遊廓も含めると、ギャンブルで儲けたお金はこの「東田園」でパーっと遊ぶなんてのも当時からあったんではないかと。これほどまでに「呑む・打つ・買う」が嵌るスポットだったは、市内では他になかったということでしょうか。ということで、「東田園」散策はここまで。次回は豊橋に存在したもう一つの遊里「有楽園」の散策に入ります。 色街百景: 定本・赤線跡を歩く Amazon

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  • 10 Sep
    • 【愛知県・豊橋市】豊橋の純喫茶でモーニング・その1「松葉」に振られて「フォルム」

      公休を利用して、今回は三河日帰り旅を敢行。JR東海ツアーズさんが出している愛知ツアーのパンフ。宿泊のコースもあることはあるのですが、申し込みは2名様から( ´(ェ)`)しかし、日帰りコースというのもあって、そっちは1名様もOK、ということで当然こっちをチョイス。そして、行先はかねてから訪問しようと思っていた豊橋に決定。のぞみ停車駅の名古屋と対照的に、基本的にはこだまのみだが、本数は多くないもののひかりも停車。豊橋停車便は新横浜からノンストップなのでぶっちゃけありがたく、東京から1時間半強で行けます。それにしても、巷で観光魅力度が低い(主要8都市の中で名古屋はなんと最下位!)と言われていたせいなのか、JRさんが今年に入って愛知に力入れるようになりましたね。Japan Highilights Trabelの一環として4月から売り出しているこのパンフ、何と秋も続行の由。こりゃぁ、近いうちにまた行くかも知れません。*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆豊橋駅に着いて、かねてより現地でモーニングを摂ると決めていたのですが、今回は候補に上げていたこの一軒に。カレーうどんで有名な「勢川本店」さんの隣にある喫茶「松葉」さん。昭和36年開店と豊橋では最古参といわれるこの店で......何だか様子がおかしい......シャッターが下りている、アチャー(ノo`;)ちょうどお隣の「勢川本店」さんから出てきたご主人と思われる方と話しをする機会がありました。聞くと、2年前に閉店したそうで。50年近くやっていたそうですが、一緒に入っていた煙草屋さんともども店を畳まれたと。更に、その娘さんがアルバイトで「勢川本店」で働いているというお話も。どうやら行くのが2年遅かった訳で、やっちゃいましたね......「もし良かったら、ぜひ立ち寄ってね」といって別れたわけですが、申し訳ありません、立ち寄れなくて<(_ _)>折角いい趣きの店舗に巡り合えたのにねぇ。またの機会に寄りますから......それにしても昭和で止まったようなこの外観。まさかの閉店で出鼻くじかれたと思っていたのですが、実はもう一軒、候補に考えていた店があったので、そっちへ。閉店してませんように......よかった、やってますよε-(´∀`*)ホッ喫茶「フォルム」さん。豊橋駅からトキワ通りというアーケード街を越えた先にある一軒。2階に酒房「かるとん」というのが入っているのですが、恐らく兄弟店でしょう。夜に時間あったら行ってみたかった。それにしても、石材でモザイク模様に装飾で施された玄関がシブいただでさえ黒に近い茶色いコンクリート壁の内装に、照明を控えめに照らしただけの店内は暗め。雰囲気的に、これは大人の喫茶店。壁には等間隔に写真が飾られています。一宮とともにモーニング発祥説がある豊橋。この店では珈琲(400円)にトーストとゆで卵が付くパターン。これは名古屋で多く見られる形で、豊橋のモーニングとしては控えめな印象かも。因みに、店内の先客はみな男、それも一人客ばかりで、女性は一人としていませんでした。年齢層も若干高め。こういう雰囲気の店内では、静かに一人で時間を過ごすのにはいい空間。若者がキャッキャウフフと奇声あげながら楽しむのとは対極です。昭和41年開店なので、もう半世紀の歴史。しかも、内装も外観も開業以来そのまんま。豊橋最古参だった「松葉」が閉店したいま、「フォルム」が老舗として健在であってほしいですね。

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  • 02 Sep
    • 【東京都・江東区】下町のパナマ運河「扇橋閘門」

      そういえば、当ブログで江東区を取り挙げるのは初めてだったかと。個人的には下町のイメージが先行していたこの一帯、実は江戸時代に運河が縦横無尽に走っていたそうで、現在もその名残りがしっかりと見られるんですね。論より証拠、下の航空写真を見ていただきたい。By Copyright © 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省, Attribution, Link東の荒川と西の隅田川に挟まれたエリアが江東区ですが、その間にまっすぐな川が縦と横に流れているのがわかります。いずれも江戸時代に造られた運河、かつてはもっとたくさんあったのですが大部分が埋め立てられたんですね。この一帯は東京大空襲で甚大な被害を受け、膨大な瓦礫を生んだわけで、それを処理するために江戸時代から脈々受け継がれた運河を埋め立ててしまいます。それでも、すべて消えたわけでなく、こうして何本か残っている訳で、中でも荒川と隅田川を東西につなぐ小名木川(おなぎがわ)が残ったのは大きい。そもそもこの小名木川を造ったのは、かの徳川家康。江戸入府の際、行徳(千葉県市川市)の塩に目をつけた家康がその運搬ルートを確保するために開削したのが小名木川でした。浅瀬が多く海岸伝いに航海するたびに座礁が繰り返されたので、船で沖合を迂回して運んでいたのですが、天候に左右され航行が不安定なのが難点でした。この荒川と隅田川を運河でつないた意味は大きく、川を経由することで天候に左右されることなくスムーズに塩を江戸に送り込むことが可能になったのです。そんな訳で、この小名木川の別名が"塩の道"。江戸の人口が急増したことで、生活に欠かせない塩をもたらせてくれる小名木川は重要だったわけですね。この小名木川を中心に運河が次々と開削され、網目状に運河網が築き上げられます。こうした運河の交差点も当然のように見られるわけですが、小名木川と横十間川の交差点には、X字型に架けられた橋が見えますね。この小名木川クローバー橋は歩行者と自転車専用。対岸がそれぞれ猿江、大島、北砂、扇橋と町名が異なっているのがミソなんですね。特に対角の町を行き来する住民にとっては迂回せずに済むから非常にありがたいわけで、いわば川のスクランブル交差点といえます。特に通勤や通学の時間帯は自転車の行き交いがすさまじくなりそうで、真ん中を立つと「ここは北京かよ!」とツッコミたくなること請け合いwかつてこの一帯は生活用水や工業用水の汲み上げによって土地が沈下し、いわば海抜ゼロメートル地帯。雨による川の増水での水害も多かったことで、人の背より高いカミソリ堤防が続いて運河と町が分断された状態でした。現在は運河のすぐ側に遊歩道が整備され、間近に水に親しみながら散歩できるように。時折、釣りをしている人も見かけるのですが、何が釣れるんでしょうね。小名木川に架かるレトロな風情の「小松橋」。それもその筈で、竣工が昭和5年、関東大震災の復興事業で架けられたトラス鉄橋。その奥にちらっと赤いのが見えるのが今回の主役。その名も扇橋閘門(こうもん)。昭和52年、30億円かけて5年がかりで建造されたとあって、そこら中にある水門とはわけが違います。そもそもこれが築かれたきっかけが、先に触れた水害が多発していたゼロメートル地帯だったからに他なりません。一言でその仕組みを説明すると、前扉と後扉、2つの水門から成り、船舶が航行するごとに水位を調節してゆっくりと扉が開閉される、という感じ。これは、かのパナマ運河と同じ原理だそうで。で、東西にまっすぐ伸びている小名木川ですが、実はこの閘門を境に水位が違っているんです。特に水害が多かった荒川側はわざと水位を1メートルほど低くしているんです。こないだ小名木川クルーズでこの扇橋閘門を通過する機会があったので、その様子を動画で。荒川側から隅田川側に向かう場面で、荒川側の後扉を船舶が潜り、閘門に入ります。船舶が入った段階で後扉が閉じられ、次に前扉が開くまで時間を要するのですが、ここで水位を調節するんですね。動画を見ると、水位が上昇しているのがわかります。そして、水位の調整を終えて前扉が開き、船舶が進みます。開いたばかりの扉の下を通過するので、水滴がかなり落ちることに。そんな訳で、ここでは傘が必需品です。船上から閘門の扉を見上げる機会はなかなかありませんぜ。ところでこの扇橋閘門、耐震補強工事が行われる事になり、9月をもって一旦休止になってしまいます。船舶が通るたびに扉が開閉するシーンが見られるのもあと僅か。下町の生活を水害から守ってきた扇橋閘門が再び稼働するのは2年後になりそうです。で、そんな扇橋閘門体験クルーズですが、9月にあと4回予定されています。9日(土) 14:30~16:1018日(月) 11:10~12:50 13:15~14:5524日(日) 14:00~15:4010月に入ると2年先までないので、もし体験したいのでしたら今のうちですぞい。詳細は日本橋クルーズまで。

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  • 21 Aug
    • 【神奈川県・鎌倉市】「鎌倉大仏」周辺を歩く

      鎌倉に足を運んだなら、ここだけは見ておかねばならない場所へ。前回の御霊神社から歩いて数分でしょうか、高徳院にやって来ました。世間的には鎌倉大仏でお馴染みの寺院です。山門に当たる「仁王門」。扁額の「大異山」は高徳院の山号で、正式名は大異山高徳院清浄泉寺。その名の通り、一対の仁王像が待ち構えています。門をくぐり、しばらく歩くとお馴染みのこの姿が見えます。「鎌倉大仏」と一口で言われてますが、実は高徳院の御本尊の「阿弥陀如来像」にあたるのがこれ。実は鎌倉では唯一の国宝指定。奈良と並ぶこの大仏、実はいつ、誰の手で建立されたのかはっきりしていません。そもそも、高徳院自体の創建についても謎なんですね。そして、奈良と違って野ざらしにされていますが、もともとはちゃんと大仏殿をこしらえてもらっていたみたいです。大仏様の後ろ姿。ここから見ると、哀愁が漂っている風に見えます。穴まで開いちゃってるしw大仏像の後ろには、4枚の青銅製の蓮弁が。奈良に倣って蓮の花の台座をこしらえる予定だったのですが、4枚作ったところで中断されたまま。平日でも人出は絶えることのない有名スポット。しかし、ここも多いのは外人。飛び交っている言語は日本語ではなく外国語ばっかwOh!とか、Beautiful!とか甲高い声が飛び交って、大仏さんもさぞ困惑してることでしょうな(笑)さて、高徳院を出て、江ノ電長谷駅へ向かいます。昔ながらの古い佇まいを持つ土産屋さん。モルタル造の看板建築が建ち並ぶこの通り。車の通りも多い。長谷寺への参道に目を向けると、古い佇まいの旅館が一軒。対僊閣と呼ばれるこの旅館は昭和2年竣工。しかも、今でも現役ときました。俳人の高浜虚子がホトトギス会をここで開催したり、与謝野晶子が宿泊したりと由緒あるこの旅館ですが、素泊まりで6800円とか。この御値段なら我々庶民でも気軽に利用できそう。寺院のような外観をしていますが、鎌倉彫の店舗の白日堂さんで昭和15年築。しかし、店舗そのもの以上にこの木の塀に惚れこんでしまう訳で。古い住居表示板がいい味を出しています。それにしてもいつの住居表示板でしょうかね。電話番号が三ケタとは、昭和初期かも知れません。そんな感じで、江の島~鎌倉編はここまで。鎌倉についてはまだまだ回り切れていないところが多いので、いつか再訪したいと思ってます。

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  • 17 Aug
    • 【神奈川県・藤沢市~鎌倉市】もはやそれ自体が観光スポット「江ノ電」に乗ろう(その2)

      鎌倉から江ノ島まで、古くからの江ノ島詣でのコースをそのまま走る江ノ電。すっかりメジャーな鉄道路線とは言え、そこはわずか10キロの地方ローカル線、レトロでフォトジェニックな風景を楽しめる訳で......併用軌道から腰越駅に入り、再び専用のレールに入る江ノ電の電車。この先は住宅地を縫うように壁や植栽ギリギリを走っていきます。鎌倉高校前までは幅も狭いうえにカーブが続くので、速度が遅いとはいえスリルがあります。因みに、江ノ電は電車交換の場所を除くと全線が単線。やがて、住宅街を抜けると、眼の前は七里ガ浜の海。道路を挟んで海岸線と並行して走る区間が稲村ケ崎まで続いていきます。鎌倉高校前のホームは、「関東の駅百選」にも選ばれている絶好の撮影スポット。ホームの眼の前が海岸だもの、そりゃぁ眺めがいいに決まっています。もっとも、毎日通学している人にとっては当たり前のように見ているので、何とも思わないかも知れませんがwホームからは海越しに江ノ島が見えます。運良く雲がなければ富士山も見られるんですけどね。そして、何気にベンチが年季の入った木製だったりします。そういえば、ホームが全体的にノスタルジックな気がします。もしかすると、開業当時からずっとこのままの佇まいかも知れません。それにしてもこの駅にはどういう訳か観光客が多い。しかも、どう見ても日本人がほとんどいません。この近くに観光スポットがあるわけではないのですが......そのわけは、駅から歩いてすぐのこの踏切。ここから駅名になっている鎌倉高校への上り坂になっていて、「日坂」と呼ばれているのですが、ここが絶好の撮影スポットになっているのです。某バスケットアニメのオープニングに使われているらしく、ここは"聖地巡礼"の場所といえるわけ。それにしても人が多すぎ、それも外国人ばっかwそのOPがこちら。該当のシーンは0:57辺り。そして、電車が通り過ぎると一斉にパシャパシャ写真を撮りまくるわけで。こういう風景は人がいない静かな時に撮った方が絵になるのだが、これでは台無しだ罠wしかも、喋っている言語がほとんど日本語でないんだもの。特に多いのが台湾人だそうだが、どうやら向こうでもあの某アニメが人気らしい。 【ほぼ(笑)日刊佐々張150】 江ノ電がある風景③「鎌倉高校前駅附近」 鎌倉高校前」から鎌倉の方向に歩いた場所にある坂道。 ここは、とあるバスケアニメのオープニングに印象的に使われた場所。 海をバックに電車🚃が走る風景は確かに絵になるし、カメラ📷におさめたくなる。 しかし、ここまで人が集まるのには閉口してしまう。 特に外人が多いのは、アニメが向こうでも人気だったからなのだろう。 人がいない時間を選んで撮りたいが、そうなると早朝しかないだろうか。 流石に夜はないだろうが。 #鎌倉高校前 #鎌倉 #江ノ電 #日坂 #スラムダンク A post shared by 佐々張ケン太 (@sasabarikenta) on Jul 21, 2017 at 3:18pm PDTさて、鎌倉高校前から再び電車に乗ります。全線が単線の江ノ電でここは数少ない複線の場所(峰が原信号場)で、電車の行き違いが行われます。電車のすれ違いを終えると、再び単線に戻ります。この辺りは道路とほぼ一体。電車のすぐ横に車や自転車が行き交います。で、途中の極楽寺駅で下車。こじんまりとした木造の駅舎で、恐らくは開業当時のままの外観でしょう。ここも「関東の駅百選」に選ばれてます。駅の前の赤ポストは、恐らく狙って置いたんでしょう。まあ、絵にはなりますがね。この辺りは『俺たちの朝』というドラマの舞台にもなっていて、当時廃止寸前に追い込まれた江ノ電が再び人気を盛り返したきっかけにもなりました。次の長谷までは極楽寺坂と呼ばれるくねくねした曲がり坂を降りていきます。三方を山に囲まれた鎌倉への入口(鎌倉七口)の一つでもあります。坂を下り切ったところに古い佇まいの家屋が。戦災に遭わなかった街なので、こうした戦前の木造家屋が結構残っていたりします。それにしても結構デカい......そして、坂の下に佇む御霊神社へ。何と、鳥居の真ん前に江ノ電の踏切境内からは鳥居の真ん前を江ノ電が通り過ぎるシーンを拝めるわけで。神社のすぐそばの線路脇には紫陽花が咲いており、電車が通り過ぎるシーンと一緒に撮れる、格好のスポットに。紫陽花が咲き誇る5月から6月ならもっと絵になりますかな。この神社の祭神は、源頼朝よりも前にこの地を支配していた鎌倉権五郎景政という武将。石段には寄進者と思われる玉垣が並んでいますが......その中には、何と遊廓関係のものも。色街と無関係と思っていた鎌倉の地でまさか出くわすとは思いませんでした。「真金町」「廓」という文字が見られるように、横浜の永真遊郭の関係者が寄進していたみたいです。それにしても、なんでここに玉垣全体を見ても、どういう訳か横浜の寄進者が多いのがわかります。長谷寺や鎌倉大仏からも近い場所ですが、ここは穴場スポットかも知れません。立ち寄って損はないですね。で、次回はその鎌倉大仏へ向かいます。

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  • 14 Aug
    • 【神奈川県・藤沢市~鎌倉市】もはやそれ自体が観光スポット「江ノ電」に乗ろう(その1)

      鎌倉や江の島観光の脚としてもはや説明不要の電車、「江ノ島電鉄」(以下、通称の「江ノ電」)。開通が明治35年、鎌倉から江ノ島への参詣ルートそのまま電車が走っています。藤沢から鎌倉までわずか10キロというローカル鉄道ながら、年間1700万人の利用客を誇るのだから、鎌倉や江の島といった観光地の恩恵がいかに大きいか。それどころか、江ノ電に乗ること自体が観光になっている感があります。10キロの行程のうち、江ノ島駅から腰越駅の間が車とともに道路の上を走る「併用軌道」の形。関東では数少ない「路面電車」と言えるのですが、実は江ノ電自体、法律上"軌道"としてでなく鉄道事業法による"鉄道"扱いなので、厳密には「路面電車」ではないんですけどね。 【ほぼ(笑)日刊佐々張144】 藤沢・江ノ電江ノ島駅附近 藤沢と鎌倉を結ぶ全長僅か10km程のローカル鉄道、江ノ電。 途中の江ノ島駅から腰越駅までは車と一緒に道路上を走る“路面電車”になる。 「電車接近!」という電光表示とともに警報音が鳴り、江ノ島駅から鎌倉に向かう電車が道路に入っていく。 その光景はあたかも、「ちょっと失礼します」と云いながらお邪魔するかのようだ。 #江ノ電 #路面電車 A post shared by 佐々張ケン太 (@sasabarikenta) on Jul 16, 2017 at 5:06pm PDT「電車接近」という電光表示とともに警報機がカンカン鳴り、鎌倉に向かう電車が江ノ島駅を出て、路面に入っていく光景。その入り方が、あたかも「ちょっと失礼します」という顔で他所のうちにお邪魔するかのようで、全然威張る風ではないんですね。そのせいか、鎌倉近辺では「江ノ電がいる」という風に親しみが込められています。その江ノ島駅付近の併用軌道の入口ですが、見所も少なくない。前回の龍口寺もその一つだったりします。こちらの店舗、上にある看板には右からの横書きで「角半商店」とあります(「商」という字が大部分欠けていますが)。戦前の建物と思われますが、2階の窓枠は建てられた当時のままなのでしょう。それにしても、商売の気配が感じられません。そのお隣も古い佇まいの出し桁造ですが、よ~く見ると庇の上にパンダグラフが。この界隈では有名な「江ノ電もなか」を扱う和菓子屋さん、「扇屋」さんです。何よりも最大の見どころが、店舗の中に丸ごと収まっている江ノ電の600型車両。しかも、平成2年まで実際に走っていたホンモノの車両。遠目からはパンタグラフと電車が一体になっている風に見えます。これだけでインパクト抜群この車両が店の作業場で、ここで「江ノ電もなか」をはじめとする和菓子が造られています。店舗の中も"鉄分"が豊富w如何にこの店が江ノ電を愛しているかがわかります。何しろ、ホンモノのマスターコントローラーまであるんですから。もしかして、先程の車両から持って来たもの 【ほぼ(笑)日刊佐々張142】 藤沢・江ノ島「江ノ電もなか」 藤沢と鎌倉を結ぶ「江ノ電」こと江ノ島電鉄。 江戸時代から続く江ノ島詣での参詣道にほぼ沿う形で走っている。 現在、年間1700万人が利用するこの電車。 それをモチーフにしたお菓子が、途中の江ノ島駅前にある和菓子屋さんで作られている。 包み紙には、江ノ電の路線図を描いたイラスト。 そして、もなかが入った一個一個の箱には電車🚃が描かれている。 変な添加物は一切使わない、素朴な甘味のもなかだ。 #おみや #江ノ電 #江ノ電もなか #江ノ島 A post shared by 佐々張ケン太 (@sasabarikenta) on Jul 14, 2017 at 9:25pm PDTお土産に買った江ノ電もなかの包み紙がこれまた秀逸。路線図がイラスト風に描かれています。そして、箱にも路線図のイラスト。箱には電車をモチーフにしたパッケージに入ったもなかが10個。変な添加物を極力使わない素朴な味のもなかで、しかも店で手作り。一人で店を切り盛りしている婆ちゃんもいい人で、江の島観光のついでにぜひ立ち寄りたい。で、江ノ島駅から電車に乗ってもいいんですが、今回は併用軌道に沿って腰越駅まで歩いていきます。併用軌道では車が我が物顔で走っているのが普通ですが、ここでは電車が優先。何はともあれ、江ノ電が中心なんです、ここは。併用軌道沿いに建つ、レトロな外観の写真屋さん。昭和10年築の「星野写真館」さんで、しかも現役。1階がスクラッチタイル貼りで洒落た丸窓をこしらえています。2階部分にも丸窓が2つ、ステンドグラス装飾がモダンです。そのお隣は自転車屋さんでしょうか。こちらは昭和20~30年代から変わっていない風貌です。江ノ島駅からはわずか600メートルほど、腰越駅まであっという間です。併用軌道はこの駅手前までで、ここから再び専用のルートに入ります。そんな訳で、次回は腰越駅でようやく電車に乗り、鎌倉へ向かいます。

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  • 03 Aug
    • 【神奈川県・藤沢市】ささっぷる的「江ノ島」おさんぽ(その6)

      前回まで取り上げてきた「江ノ島詣で」編、行きは小田急の片瀬江ノ島駅からのルートでしたが、帰りはもう一つのルートを辿ります。江ノ島への参詣ルートは、小田急からのルートの他にもう一つ、江ノ電からのルートがあります。そのルートは「洲鼻通り」と呼ばれていて、「江ノ島詣で」のメインルートだけあってお土産屋さんなどが並ぶ通りです。勿論、人通りも多いわけで、お土産屋さんに混じってマンションも建っているように、典型的な湘南のリゾート地の風景ではあります。しかし、街並みをつついて見ると、昭和レトロな建物が所々に残っているわけで。江ノ島の観光客はお土産買いに必死で、そんなもんに目もくれませんがね。ってか、普通の観光客はそんなもんですが、斜に構える当方としてはそういう訳に行きませんw「旅館 貸席」と書かれた看板。「貸席」という文字を見て、つい遊廓を連想してしまいますが......「スマートボール」「射的」と書かれた看板を発見。歓楽的な温泉街ではありがちなこの看板、まさか江の島で見るとは思いませんでした。そして、古い佇まいを残している旅館も。もっとも、本業のほうは既にやめてしまっている風ですが......今は床屋さんになっていますが、その前は旅館だったんでしょうかね。洲鼻通りを歩いていると、古い道標が建っています。しかし、私以外に誰も気にかける人はいません......上の方が少し欠けていますが、古い文字で「ゑのしま道」と書かれているのがわかります。片方の面には「一切衆生」とあります。これはどういう意味で書かれているんでしょう。もう片方には「二世安楽」という文字。これは何を意味しているかということですが、すぐそばの案内板にこう書かれています。この文言は、江の島弁財天への道をたどるすべての人の現世・来世での安穏・極楽への願いが込められています。参拝する人すべてに弁財天のご加護があるように、この世でも、そしてあの世へ旅立ったあとも穏やかに暮らせるように、そんな願いを込めてこの道標に刻んだものですな。出し桁造の立派な和菓子屋さんもあります。築年数は相当ありそうです。これも昭和レトロな造りの看板が目立つ一軒。手づくりのパンがウリのこの店、後で調べたら昭和12年創業だそう。ということは戦前からずっとこの佇まいかしら。何だかんだ街をウォッチングしてるうちに江ノ電の江ノ島駅に到着。レトロな駅舎に目を惹かれます。しかし、ここではまだ電車に乗りませんw実は一か所立ち寄りたい場所があるからです。駅からほど近い場所にある龍口寺。実はこの寺、香ばしい場所に建っているんです。山門の脇に建っているこの石碑がそれを物語っています。龍口刑場趾今やサーファーとかリア充カップルが集まる江ノ島に近いここ、鎌倉時代は処刑場だったのです観光地の近くがかつての悪所とは、香ばしすぎる......平安時代こそ貴族の世で血なまぐさいものを嫌悪していたこともあって死刑は長らく行われてきませんでしたが、鎌倉時代は武士の時代、当然ながら死刑も復活します。鎌倉周辺には刑場が何カ所も存在していたようで、この龍口もその一つで、多くの首が斬られてきました。モンゴル(元)の使者もここで斬られ、あの元寇の火種となっています。しかし、特に有名なのがあの日蓮上人の処刑未遂。日蓮宗では「龍口法難」と称されたこの事件、斬首寸前まで追い込まれた日蓮でしたが、直前になって処刑が中止され、佐渡へ遠島となったというもの。一説には、火の玉のようなものが落ちて首を斬ろうとする刀に直撃、刃が折れたというのがありますが、流石にこれはリアルでないですね。こんな因縁のある場所に寺を構えるわけですが、この本尊こそが日蓮上人。そう、龍口寺は日蓮宗の寺院なんです。観光客が集まる江ノ島に近いにもかかわらず、ここは至って閑静な佇まい。訪れる人もあまりいません。しかし、この寺、見どころはもう一つあって、本堂からさらに奥まった場所に五重塔があるのです。寺が多い鎌倉とその周辺ですが、実は五重塔があるのはここだけ。しかも、神奈川県内で最も古い五重塔らしい。周りがだだっ広い広場なら全体像が撮れるのですが、生憎ここは山の中。周りは気が生い茂っていて、こういう形でしか撮れませんさて、龍口寺にお参りしたからにはもう一つ、この鐘楼も見ておかねば。「延寿の鐘」と呼ばれるこの鐘楼、何とお賽銭を納めれば突くことができるのです。お寺の者でなければ鳴らせないと思っていた鐘楼、ならばということでお賽銭を納めて突くことに。これで我が煩悩が払われたかしら。鐘には「南無妙法蓮華経」というお題目の文字が。因みにこの鐘、龍口法難から700年を迎えた年に千葉県の中山法華経寺から移築されたものだそうで。ヨットだサーフィンだとうつつを抜かし、しらすで舌鼓で満足、ってのも悪くありませんが、江の島の近くにはこういう場所もあるというのも知っておきたいですね。観光客の導線はすっかり江の島の方に向かいがちなので、観光地の近くにありながらここは穴場。鎌倉の他の寺院と違って拝観料も取られないし、ぜひ一度は立ち寄りたい。鎌倉暗黒史に触れるもう一つの機会だし。では、次回はいよいよあの電車に乗ることにしましょうか......

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  • 01 Aug
    • 【神奈川県・藤沢市】ささっぷる的「江ノ島」おさんぽ(その5)

      前回に引き続いて、「江ノ島」おさんぽです。ここまで、辺津宮、中津宮、奥津宮と一通り見て回ってきましたが、江島神社を語るうえでどうしても立ち寄らねばならない場所があります。今回は奥津宮からさらに御岩屋道を進んでいきます。御岩屋道を進んでいくと、眼前に海が開けてきます。ここまでくればもう島の反対側、目的地までもう少しです......階段を降りると開けてくるテーブル状の岩盤。大地が隆起してこのような岩盤ができたそうです。その名も稚児が淵。この地名の由来、古くから伝えられる悲恋の伝説から来ています。詳細はこちらでググってもらうことにして、鎌倉総承院の稚児白菊がこの淵に投身したという言い伝えから"稚児ヶ淵"と呼ばれるようになったそうで......岩盤の上では釣りをしている人、日向ぼっこをしている人と様々......その稚児ヶ淵から見える断崖絶壁の中に、今回の目的地、江ノ島岩屋があります。この先は入場料(500円)を払って入ることに。中は、申し訳程度の灯りしかない暗い洞窟。もともとは波による浸食でできた洞窟で、いかにも荒々しい海の自然の中の地形といったところ。もっとも、しっかりとバリアフリーな遊歩道が整備されていて、ハイヒール履きでも余裕に入れます。しばらく歩くと突き当りの通路が見えます。ここから第一岩屋と第二岩屋に分かれる訳で、まずは左の第一岩屋へ。第一岩屋は全長152メートル。暑い夏の外気と打って変わって、こちらはひんやりとして気持ちがいい。途中、洞穴内に水が溜まっている池で無駄にライトアップされている場所があります。これは与謝野晶子の歌碑だそうで。沖つ風 吹けばまたゝく 蝋の灯に志づく散るなり 江の島の洞昔の人はろうそくの灯りを頼りにこの洞窟にお参りしたことを物語っています。そこでろうそくに波のしずくが散ったんでしょう、そんなことを詠ったものと思われます。ここから先は、火の灯されたろうそくを手渡されて、先人と同様に奥へ進むことに......とはいえ、適度に中はライトアップされているので、ろうそくは要らない気がしますが(^_^;)......恐らくは雰囲気を演出する目的なんでしょうね。途中、天井が低いところがあって、屈んで進まねばならないので油断がなりません。ドラクエに出てくる洞窟とかダンションのような光景。もっとも、歩いたところでモンスターとか現れることはありません(笑)ここが聖なる場所であるかを示すかのように、途中には石仏が並んでいます。う〇こ......もとい、どくろを撒いた蛇の像もあります。昔から蛇は神聖な動物だったからでしょう。そして、ようやく洞窟の奥に。柵の向こうにあるものは......石の祠が鎮座しておりました。そして、案内板に書かれているのが「江島神社の発祥の場所」。この岩屋の祠こそ、江島神社の原点に他なりません。欽明天皇の時代(西暦552年)に、この岩屋の奥に鎮座されたというのが正式な社史で出ています。以来、ここは宗教的な修行の場として多くの僧が訪れ、その中にはあの空海や円仁、一遍上人の名も。そういや、途中の石仏が並んでいる中に、空海上人の座像もありました。一方で、源頼朝が源平合戦の前に、戦勝祈願にこの岩屋に籠ったという話もあります。奥津宮の石鳥居はその際の寄進と思われますね。祠の手前には、日蓮上人の寝姿を表した石像らしきものも。あの日蓮もこの岩屋に籠っていたということか。一旦、第一岩屋を出て、次の第二岩屋に向かいます。途中、眼の前には荒々しい岩場が広がっています。そんな岩場の中に、何やらデカい亀が拡大してみました。沖に向かって進んでいる亀のような岩ですが、それにしても自然にできたものにしては出来過ぎ、それぐらいにそっくりです。続く第二岩屋は112メートル。こちらも中は第一岩屋と同様に暗くひんやりとしていますが、先ほどと違ってろうそくを手渡されるというのがありません。もっとも、奥にあるのがハリボテの龍神の像ということで、こちらはイマイチ感たっぷり( ̄ー ̄;何だかドラクエみたいなオチですが、生憎ロトの剣を持ち合わせていませんのでwそんな訳で、とっとと出ることにしましょう......帰りはすぐ近くの稚児ヶ淵から船で一気に江ノ島港に出ることができます......il|li _| ̄|○ il|li生憎、ルーラの呪文もキメラの翼も持ち合わせてないので、炎天下の下ひたすら同じ道を歩く羽目に・°・(ノД`)・°・どうやら、夏に江ノ島詣でするのもちょっと考えモノかも知れませんそんな訳で江ノ島編、今回はここまでで、次回に続きます。

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  • 28 Jul
    • 【神奈川県・藤沢市】ささっぷる的「江ノ島」おさんぽ(その4)

      前回に続いて江ノ島編、続いてます。江ノ島詣で、辺津宮、中津宮と続いて最後のお宮へ向かいます......サムエル・コッキング苑を出た後は、起伏の激しい参道を歩いていきます。この参道は通称"御岩屋道"と呼ばれていて、後で触れる江ノ島岩屋まで続きます。その途中でこうした眺望を拝める場所も。断崖絶壁の自然のままの姿が見えます。この"御岩屋道"には民宿やらお土産屋さんやらが軒を連ねています。この辺りが昔ながらの佇まいを色濃く残してます。この先、上がったり下がったりという階段道が続いていきます......途中、食べ物屋さんも多く並びますが、そのほとんどで扱っているのがしらす。相模湾で獲れ、近くの腰越で水揚げされる生しらすは足が早く(痛みがはやく)、東京まで出回ることができません。新鮮な生しらすをいただくならここまで足を運ぶしかないということです。もっとも、いつでも食べられるわけでなく、不漁ならまず食べられない。保存がきかないので、その獲れたうちに食べなければならないので、それは仕方がないこと。で、歩き疲れたのでこの店で休憩。この先もまた起伏が激しい道を歩かねばなりませんので、燃料補給せねば......この日は運よく出ていたので、ありつくことができました、生しらす丼。ごはんの上に海苔を載せて生しらす、さらに上におろし生姜と小葱と、至ってシンプル。しかし、これがまたいいんです。新鮮なしらすは目が白く輝いていて、しらす全体が透き通っています。海が臨めるここが特等席。これでとりあえずは燃料補給が出来ました。腹ごしらえを済ませて、散策を再開。結構、階段が多いこと......途中で出くわした"江ノ島うどん"の店。小ぶりながら出し桁造のいい感じの店構えですが、店を畳んでかなり経ってそうです......それにしても、"江ノ島うどん"ってどんなうどんだったんだろう......長い参道を経て、ようやく最後のお宮の鳥居に辿り着きました。この鳥居は、あの源頼朝が寄進したと言われています。そして、鳥居をくぐって、最後のお宮である奥津宮(おくつみや)へ。祭神は多紀理比賣命、これまで取り上げてきた三姉妹の女神様で一番の姉にあたります。一度は火災で焼失した社殿を天保13年に入母屋造で再建し、現在に至っています。辺津宮や中津宮がそれぞれ"下之宮""上之宮"と呼ばれていたのに対し、こちらは"本宮"と呼ばれていました。もともとは岩屋にあった本宮の御本尊をここに遷座したためです。拝殿の天井に描かれているのが、"八方睨みの亀"と呼ばれる亀の絵。どこから見てもこちらを睨んでいる風に見えるという不思議な亀の絵です。という訳で、3つのお宮を回って江島神社を一通り参拝したことになりますが、最後に脚を伸ばして立ち寄りたい場所があります。そこは江島神社の原点ともいえる場所ですが、それについては次回。

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  • 25 Jul
    • 【神奈川県・藤沢市】ささっぷる的「江ノ島」おさんぽ(その3)

      前回に続いて、江ノ島おさんぽ編。江島神社の最初のお宮である辺津宮をお参りした後、次のお宮へ向かいます(勿論、エスカーで)......真っ赤な社殿が目を引く、中津宮(なかつのみや)。祭神は市寸島比賣命で、前回の辺津宮が「下之宮」と呼ばれていたのに対し、こちらは「上之宮」と呼ばれていました。もっとも、これは中津宮が辺津宮より格が上、とかいう意味ではないんですね。地形的な位置関係から辺津宮より上の位置にあるから「上之宮」と呼ばれていただけの話。で、一番下というか低い位置にある辺津宮が「下之宮」。社殿は元禄2年に改築した当時のもので、東照宮と同じ権現造。社殿の前に「江の島歌舞伎」の碑があり、歌舞伎役者の手形が出ています。音曲芸事の神様ということもあって、歌舞伎関係の寄進も多いのですが、この「江の島歌舞伎」の演目が「弁天娘女男白波」、ここに出てくる盗賊の弁天小僧というのが江の島の出自として登場します。ちょうど社殿の中では結婚式の真っ最中のようです。文金高島田の新婦姿もいいものですが、紋付き袴の新郎が外国人w江島神社はまた、縁結びの神様としても知られるように、リア充カップルの絵馬がピンク色で目立つのなんの。もしかすると、先ほどの新郎新婦もこの神社で縁結びの願い事をしたんでしょうか。お二人には大いに爆発してお幸せになって欲しいもんです(棒)さて、最後のお宮に向かう途中、こちらのサムエル・コッキング苑に立ち寄ることにしましょうか。この園内には江ノ島の観光名所としてお馴染みのシーキャンドルという展望台もあるので、できれば両方のチケットを購入したい。2つ合わせて500円なり。ところで、サムエル・コッキングって何だってことですが、これはイギリス人の貿易商の名前。明治時代、このコッキングという人がここ江の島に西洋風の庭園を整備し、現在もその遺跡という形で公開されているのです。庭園の遺構といっても、残っているのは煉瓦造りの基礎部分だけなのですが、西洋の回遊式でありながら東洋趣味も取り入れていたそうで。中でも温室は当時としては東洋一の規模だったと言われてます。これが煉瓦造りの温室施設。残念ながら、普段は中まで入ることができません......パネルで案内とともに内部の写真がありますが、石炭による蒸気スチームで温める仕組みで、水道設備がなかった当時は雨水を貯めて循環しながら利用していたそうで。そんな最先端の温室ですが、実は遺構として現存しているのはここ江ノ島だけ。園内には熱帯植物が生い茂っていて、ここが日本ではないような錯覚に陥られそう。この園内の植物もほとんどがコッキングが持ち込んだものと言われているらしい。園内にあるこちら、何かと思われますが、これは日時計。日時計を見ると、つい文字盤を見てしまう癖があるんですが、これを見るといつの年代にどこのメーカーが造ったものかわかるわけで。昭和48年6月10日に寄進されたもののようで、シチズン製ですね。さて、こちらの江ノ島シーキャンドル、弁天橋からもよく見えるのでお馴染みですね。実はここはかつて江ノ島灯台だった場所でした。展望室は360度ガラス張りで、相模湾が広々と目前に広がってい見えます。同じ海の眺めでも、高さが増した分、その広さは半端ではありません。弁天橋。ヨットハーバー。先程のコッキング苑も、展望台からはこのような眺め。裏に回ると、断崖絶壁。そして、次回向かう最後のお宮、奥津宮が先の方に見えます。さて、シーキャンドルで一番の穴場がここ。一階にある郷土資料室には、江ノ島の歴史にまつわる簡単な展示があります。これが江の島灯台の模型。シーキャンドルが建つ前はこのような形の灯台でした。この灯台が建ったのが昭和26年。現在のシーキャンドルは、江ノ電開業100周年の記念事業として平成14年に着工され、翌年に完成。そう、江の島灯台を管理していたのは江ノ電だったわけで、現在のシーキャンドルも江ノ電の持ち物なんですね。これが実際に灯台で使われたライト。で、デカい......夜ともなればライトアップされ、綺麗な姿になるわけで、リア充にとって格好のデートスポットともなるわけですねぇ(棒読み)そんな訳で江ノ島おさんぽ、次回に続きます。

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