今は無き「前進友の会」のHPの掲示板より
テーマ:文章大阪池田小事件が起きた直後、僕たちの患者会である前進友の会のHPの掲示板がすごく荒らされました。
そのときに僕が掲示板に書き込んだ文章をここに再掲しておきます。日付は2001年6月12日です。
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生き抜いていきましょう 投稿者:さらさわつよし 投稿日: 6月12日(火)21時22分34秒
被害に遭われた大阪の小学生の方々は本当に可哀想です。亡くなられた方、怪我をした方、本当に酷いです。本当にそう思います。
しかし、この連日の報道やその内容には悲しくなります。本当に泣きたくなるぐらい悲しいです。皆さんは本当に「精神病者」は危険な人間だと思いますか。そう思う人は「精神病者」の何を知っているのですか。
この日本では「精神病者」は本当にひどい状況におかれています。本当に差別されています。本当に殺されています。本当に孤立しています。「精神病院」に何人の人達が収容されているのか知っていますか。そこでどのような「処遇」をされているのか知っていますか。皆さんは簡単に「処遇」という言葉を使いますが、いったい「処遇」とは何ですか。どんな気持ちでその言葉を使いますか。「精神病者」にとって「処遇」とはまさに<生死>にかかわる言葉です。「精神病院」の中では<絶対服従>を強いられます。そして、ほとんどの「精神病院」が、閉鎖されたなかでの<人間の捨て場所>となっています。また、「地域」の隣人から、「家族」から、「親族」から、そして「社会」から、どのように差別され、排除され、孤立し、<生きる場>を奪われていくか知っていますか。そのような状況のなかで<生きる>ことが、まさに、ただそのことがいかに大変なことか判りますか。
私達「精神病者」は<生きて>いるのです。「病気」をかかえて必死に生き抜いているのです。地を這いながら、「血を吐き」ながら、生きているのです。日本中のどこでも、「地域」のなかでも、「病院」のなかでも、たった一人でも、多くのなかまとともにでも、必死に生きています。私は、その≪なかま≫を信じています。
「精神医療」はそのような私達を一貫して、ひとりの<生きて>いる人間としてではなく、ひとつの「もの」として扱ってきました。私達「精神病者」が「病気」という「苦」をかかえて必死に生きようとしているとき、救いを求め、一緒に生きていくことにとことんまで付き合ってくれることを「医療」に求めているときに、「精神病者」を信用せず、「社会」の安全と「市民」の健康な生活を脅かす「もの」として「精神病者」を取り扱い、「治療」と称して隔離し、拘禁し、投薬し、そして管理し、「精神病者」を出来る限り「社会」にとって無害化することに専念してきました。「精神医療」と呼ばれるものは今まで一貫して私達の側を向いた事は無く、常に「社会」の側を向いてきました。それでも飽き足らず、法務省と厚労省は「合同検討会」をつくって「精神病者」をより強く社会的に管理する仕組みを探ろうとしていたのです。今、この酷い事件によって、それを後押しする大きな世論がつくられようとしています。それは、私達「精神病者」にとって酷いことです。私達が求めていることは、いつか Yさん が書かれていたように『たった一人の声を、たった一人の存在を認め合う』ことです。それが『本当の強さ』だと私も思います。私は「司法精神医学」の存在を認めることはできません。それは、上に書いてきたような論理の延長上の産物であり、「医療」などであるはずもなく、私達「精神病者」の存在を押しつぶすもの、社会的な文脈の中で「異常者」をつくりだす事にしか奉仕しないものだからです。人間の「危険性」を予測することなど絶対にできません。「司法精神医学」によってもたらされる「社会の安全」と、それによって犠牲になる(不必要な適用をされる)多くの人々の<人生>が釣り合わないばかりでなく、つまり「司法精神医学」があってもこのような事件は必ず起こるというだけではなく、私達「精神病者」すべてを社会的な文脈の中で潜在的な「異常者」としておとしめるものです。
それでも保安処分は完成するでしょう。このような矛盾は放置されたまま、「社会」の悪意に曝され私達は生きていかなければならないのです。でも絶望はしたくないです。とにかく<生きて>いくことです。それが私達の仕事です。私は≪なかま≫を信じています。<ここにわたしがいる>と日本全国で叫んでいる声が私には聞こえるようです。≪なかま≫の皆さん、どうか、生き抜いていきましょう。






