詩人河津聖恵さんのこと

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どんよりとした、梅雨空のもと、今日は、もう、ブログも休もうと思っていたのだけれど、昨日、読めなかった新聞の夕刊を読んで、思わず、ブログにむかってしまいました。

それは、高校無償化を巡り、朝鮮高校だけが、支給対象を見送られたことに関連しての記事でした。

現代詩手帖賞、H氏賞なども、受賞されている、詩人の河津聖恵さんの書かれた「ハッキョへの坂」という詩に触れてました。

詩人本人が、その新聞記事に触れたブログが公開されていたのと、詩全文が掲載されたサイトがあったので、失礼をして、転記させていただきます。「詩空間」 「ハッキョへの坂」


私のこの問題に対する態度は、ブログふざけんじゃないよ! のとおりです。

(このことについて、与党の私がメールで出した質問には、全ての党から、完全無視をされました)。


私、実は、昔、小さな出版社に勤めておりました。

編集の真似事で、詩集の出版にも関わっていたんですが、途中から、現代詩と言われるものが、自己満足も含め、どんどん袋小路に落ち込んでいっているような気がしてなりませんでした。

社会や世界が、どんどん、混迷し、希望が見えない方向にむいていく中で、他人との関わりの中で、己を見つめていくという選択ではなく、タコつぼ的に閉鎖された世界の中に、自己満足的に己の辛さや痛みを語っているような気がして、なんだか、つまらなくなってしまって、いつか、詩の世界からは足を遠ざけておりました。

そこに、この方の詩でした。

この方の、ブログ、拝見させていただいて、ただ今、私、深く恥じております。

改めて、自分で勝手に、作ってしまった矮小な殻、閉じこもり方に嫌気さしています。

つまらなくなってたのは、現代詩の方ではなく、実は、私の感性の方だったんですね・・・

河津さんの「灰色の領域」から「詩人とはマイノリティである」の一連の文章。

この中で、繰り返し触れられている徐京植のお兄さんたちの救援活動には、若いころ、私も、少し、関わらせていただいたし、母も、田舎のクリスチャンとして、軍事政権だった韓国政府に囚われた政治犯の人達の救援活動に関わっていた。そんな思いもあって、色んな思いで、読ませていただきました。

けして、声高ではなく、しかし、人間としての己の弱さと強さを見定めようとする、その言葉は、聖らかだし、まさに詩でした。

私の中でも、常に、自問自答してきた、被害者、加害者と言う立場を一元的にとらえるのではなく、被害者が同時に加害者になるということの恐ろしさの中で、更に、それを越えてゆく立場を模索するという生き方は、本当に考えさせられました。

私の、クダラナイ解釈より、河津さん自身の文章の一部を転記させてください。


「・・・

つまり言い換えれば、
私たちが被害者における加害性の浸透、
つまり被害者もまた加害者であるという部分にも眼を向けて考察するのは、
ただ人間の複雑さとか、人間の闇をいうためのみであってはならないのです。

けっして、人間の闇という内部にだけとどまるだけは十分ではないのです。
みずからにある人間の闇を、恐れず、罪を認識しつつ、繊細に見つめながら
そこからこそ、被害者をも加害者に仕立てるシステムの責任を訴えていくことが大切なのです。

被害者がみずからの加害性を深く、繊細に、痛々しく見つめることで、
そこまで被害者を追いつめたシステムの悪の真の姿はおのずと顕わになっていくはず。
加害性の認識とシステムに対する告発は、その深さにおいて、連動するのです。

そしてその連動のために、文学や詩こそが中心的な歯車となるでしょう。

・・・」


ぜひ、河津さんのブログの全文を読んでみてください。

まずは、私も、そこから始めます。

そして、彼女の詩集を読ませていただくことから、もう一度、詩との出会いを初めていきたいと思います・・・・

そして、差別と言うことが、己自身につきつけていることの意味が、何かについても考えていきます・・・


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