村岡花子、賀川豊彦・・・なんかすばらしい人のように思われている

”キリスト教徒”も、実はとんでもない人物だったようなのです。

 マシュマロマンと卑下していらっしゃいますが・・・

https://blogs.yahoo.co.jp/chugamo2008/33758175.html

https://blogs.yahoo.co.jp/chugamo2008/33758550.html

 

 賀川豊彦についてはさてはてメモ帳さんが↓

 ご本人の文章と、鬼塚英昭さんの評を転載して

いらっしゃいます。

http://satehate.exblog.jp/17636090/


 賀川豊彦がこうした似非聖人だとすると、

生協の内部の醜悪さもさもありなんという気がする。

 賀川は日本の生協の父。 

 

 

そして、八月六日の朝、午前八時十五分がきた。一瞬にして広島が消しとび、十六万人の生命が蒸発してしまった。
 地面は美しく掃き清められたようになり、死骸はなにも残っていなかった。物質がすべて蒸発してしまったのだ。気化したのだ。いや、光化したと言った方が美しいだろう。

 

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(引用注:下三枚はナガサキのものです)


賀川は広島のあの惨禍に眼を向けない。私はあの人々の苦しみを書こうとしたが書けなかったのだ。なにが、気化なのだ、何が光化なのだ。

 [--汝、心鈍き者よ!汝、何で悟ること遅き?」
 ガラリアの湖辺を歩き給うキリストが弟子を叱るように、私達を叱っていられるように思った。--それは、黙示録の言葉がそのまま新しい時代の予言にあてはまるからであった。
 「--血の混ざりたる雹と火とありて、地にふり下り他の三分の一、焼け失せ、樹の三分の一焼け失せ、もろもろの青草、焼け失せたり--天は巻物の如く去り行き--地の王たち、大臣、将校、富める者、強き者、奴隷、地主の人々みな洞と、山の岩間にかくれたり・・・・・・」 (新約聖書黙示録六-八章)
 空想文学だとのみ思っていた黙示録が、私の眼の前の問題となった。
 私は、しかし、黙示録の本質をも考えた。結局真正なる社会の本質は創造のための犠牲、保存のための謙譲、再創造のための贖罪愛による外、道なく--それはキリストの教える民の罪を負う小羊の道であるということであった

 

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私は賀川豊彦のこの文章を読んで理解した。黙示録に登場する悪魔の正体を。悪魔は創造し破壊し、小羊たちを殺し、彼らの肉をも食らうことを。小羊たちは犠牲となり、謙譲を強制され、再び原爆が投下される日まで、贖罪愛に生きよ、と神が説いていることを。
 

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そして私はまた理解した。原爆を計画し、製造し、投下した人々はすべてキリスト教徒であったことを。

 この宇宙創造の愛の意識されるまで、黙示録の記述が、そのまま進行するのだということであった。
 それで、日本の滅亡を予覚しながら、頭は少しも混乱しなかった。世間がさわがしくなるに反し森の中の湖水の如く透徹して行くことを感じた。


私は賀川豊彦のこの文章を読み、賀川豊彦なる聖者の本質を知った、日本の滅亡を予感してきた私は、この本を書きつつ、眠れぬ夜をすごし、妄想が白日夢になる日々を生きた。賀川豊彦は「湖水の如く透徹して行くことを感じられる」とうそぶく。それは、黙示録を演出し続ける神の意志を、そう神の御摂理とやらを賀川豊彦が知っているからに他ならない。

--鬼塚英昭 『原爆の秘密』国内編 p279-281より

 

 


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