「死の時期が来て、肉体を離れる時に、私だけを想っている者は誰でも、真直ぐに私の郷に到る。このことに疑いの余地はない。」

死の直前に主のクリシュナだけを想うという行為(供犠)は放棄の完成と云われ、すべての欲望から始まりすべての知識(智慧)までもを今世に於いて使い果たさなければ到達できない。主は行為の形や結果にはこだわらない、なのでクリシュナ意識で活動するもの達にはそれらにこだわる必要はないとおっしゃっておられる。
あの世に財産を持っていけない事と同じく、個々の犠牲(供犠)すら主の元には持ち込めないのである。
使い果たす事、コレが崇拝帰依の真髄ナリ。

 

 

 

 

 

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