寺町通りの中央に立地する普平山妙興寺。

 

 

開山の瑞応院日逞上人は、戦国・安土桃山時代に大坂堺を統治していた会合衆の一人で、豪商油屋伊逹常言の弟です。出家した日逞上人は、広普山妙國寺(堺市堺区)の日珖上人に師事しました。

 

同寺は油屋伊逹常言と兄常祐が土地を寄進し、大伽藍を建立寄進。織田信長伝説の国指定天然記念物「大蘇鉄」や、幕末に起こった堺事件ゆかりの寺としても知られる古刹で、本能寺の変が起きた当夜は徳川家康の公宿所でした。

 

広大な土地や大伽藍を建立寄進するほどの油屋は、妙國寺の管長さんの話しによると、三井財閥や三菱財閥ほどの豪商であったといいます。なお、屋号は油屋ですが、ガソリンスタンドではなく薬屋。薬といっても火薬商であったということです。

 

日逞上人は地方の布教を志し、油屋が南蛮交易に使う堺船で米子へと入り、当時は松林であった現在地に、堺から建築資材や人材を運び入れ諸堂を建立。1564(永禄七)年3月28日「普平山菩提樹院妙興寺」と称して創建しました。

 

 

妙興寺は開山より453年、現住職は二十七世。気が遠くなるほど長い歴史の古刹ですが、住職さんは気さくな性格で、語り口は軽妙洒脱。ただ、同寺にゆかりのある米子藩執政家老横田内膳公のことになると話が止まらなくなります。


横田内膳村詮は、1600(慶長五)年、徳川家康の命により、甥の中村忠一(一忠)の後見人執政家老として伯耆国米子に赴任。

 

戦国大名三好長慶の一族である内膳公は、高屋城主三好康長の嫡男徳太郎について妙國寺を参詣。そこで日珖上人から受法され日蓮宗の大篤信者になっています。米子入りした内膳公は、妙國寺の日珖上人の叔父である当山の日逞上人と出会い、その仏縁に驚喜し、親交を深めました。後に五三桐紋鳳凰絵杯を奉納。この杯は米子市文化財に指定されています。

 

内膳公は、近江国水口藩時代の近江八幡や駿河国駿府で得た都市計画の知識と経験を活かし、検地を実施。藩内各地から民衆を移住させ、職人・商人町の米子十八町を町割り。加茂川を外堀にするほか、運河として開削し職人・商人町と中海をつなげ大量の物資輸送の利便性を図るなどし、米子藩主忠一と藩繁栄のためにまちづくりを進め、現在の米子のまちの礎を築きました。

 

ところが、忠一側近の安井清一郎は、自らの出世の障害となる内膳の才覚を妬み嫉んでいたことから、もうひとりの側近であったと天野宗杷(あまのむねつか)組んで、当時十五歳の忠一に讒言し、内膳を殺害。これが1603(慶長八)年1月14日の「米子城騒動」。謀殺を端緒として、内膳の嫡男(弟という説もあり)主馬助、柳生宗章らが蜂起し飯山に立て篭もりましたが、忠一は己の兵力では鎮圧できないと判断。隣国の出雲藩主堀尾吉晴に援軍を依頼し鎮圧に成功。

 

しかし、この騒動を知った家康は激怒し、首謀者の安井、天野両名を何等吟味をすることなく即時切腹に処します。また事件を阻止できなかったことを咎められた側近の道上長衛門、道上長兵衛は江戸において切腹に処せられます。一方、忠一に対しては、江戸入りを許さず品川宿止めの謹慎に処しお構いなしとしましたが、1609(慶長一四)年、わずか20歳の若さで急逝します。叔父である内膳を殺害したことや、城内外からの妄言や陰口に苛まれノイローゼであったとも、毒殺であったとも云われています。これにより中村家は、無嗣断絶(むしだんぜつ)により改易となります(しかし側室が男子を産んでおり、中村家は現在も続いています)。

 

 

同寺にある内膳公の墓も市文化財に指定されています。

 

◆参考文献

『米子のふるさと散歩』 「米子ふるさと散歩」編さん委員会 著 米子錦ライオンズクラブ・米子市 発行

『市民が選んだ米子の宝八十八』 よなごの宝88選実行委員会 編集・発行

「米子加茂川地蔵めぐりガイドマップ」 加茂川まつり35周年記念誌編集委員会 編集 加茂川まつり実行委員会 発行
「なつかしの小路と町屋めぐり」 米子まちなか歩こう会 発行

「普平山妙興寺」 妙興寺 編・発行

 

 

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