本仏教講義
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2.テーラワーダ仏教
(3)すべては自ら確かめよ

A・スマナサーラ長老

 テーラワーダ仏教はスリランカがイギリスの植民地であった時代に、イギリスの自国の宗教であるキリスト教を根づかせようという意図の下にイギリス人によって研究され、その欠点を指摘することによってテーラワーダ仏教に変わるキリスト教を伝播しようとしたのですが、どう考えてみてもテーラワーダ仏教の欠点を指摘することが出来ず、逆に自分たちもテーラワーダ仏教の教える真理に目覚めるものさえ出てきて、結局そうしたイギリス人の手によってヨーロッパに広がったという経緯があります。その最初がイギリスに設立されたパーリ語協会であったのです。その後、英訳された教典も作られ、それはヨーロッパ教典として日本にも入ってきました。日本では、お釈迦さまの直接の教えが書かれているということでこのヨーロッパ教典を研究してみようという何人かの学者が現われ、その結果南伝大蔵経として昭和の始めに70巻の本が出版されました。

 この南伝大蔵経が日本語で出版された唯一のテーラワーダの教典なのです。一部の教典は訳されたものがあるにはありますが一般的な解説書がありませんからどれも難解なものばかりです。このPATIPADAに連載されているものも初歩解説書といっていいかもしれません。初歩の解説書といっても、この世界の不変の真理を教えるものですから、初めての人にはちょっと難しく感じられるところがあるかもしれませんが、どうか途中で投げ出さずに最後まで挑戦してみてください。自分の心を成長させるための、お釈迦さまの真理を勉強し、実践するためにあなたが縁があって出会った最良の道と考えてください。

 お釈迦さまの教えと言われているものはいまでもたくさん(のこ)されています。しかし、前号までその歴史としてお話したとおり、どれがほんとうの教えなのか皆目(かいもく)分からなくなってきてしまったのが現状です。ここで、お釈迦さまの教えの真実を理解するために恰好(かっこう)の教科書『カーラーマ経』というお経がありますので、それをご紹介しましょう。このお経は「自ら確かめよ」という題です。

 「このように私は聞いた。あるとき、世尊(お釈迦さま)はカーラーマ族の町に入られた。そこでカーラーマ族の人々は、世尊にこのように訊ねた。

 『世尊よ、ある沙門、バラモンたちがやってきて、彼らは自分の説だけを正しいと言い、他の説を(ののし)り、(そし)り、けなし、無能よばわりいたします。さらにあるとき、またちがう他の沙門、バラモンたちがやってきて、彼らもまた、自分の説だけが正しいと言い、他の説を罵り、誹り、けなし、無能よばわりいたします。
 いったい、だれが誠を語り、だれが(いつわ)って語っているのか、という疑いがあります。どうぞ、私たちにだれが正しいのかを教えてください。』

 『カーラーマ族の人々よ、あなたがたが疑うのは当然のことである。そして、疑いのあるところに(まど)いは起こるものである。
あなたがたはある説かれたものを真理として受け取るときに、

  1. 人々の耳に伝えられるもの、例えば秘伝や呪文(じゅもん)、神の啓示などに頼ってはいけない、
  2. 世代から世代へと伝え承けたからといって頼ってはいけない、
  3. 古くからの言い伝え、伝説、風説などに頼ってはいけない、
  4. 自分たちの聖書や教典に書いてあるからといって頼ってはいけない、
  5. 経験によらず頭のなかの理性(思弁)だけで考えることに頼ってはいけない、
  6. 理屈や理論に合っているからといってそれに頼ってはいけない、
  7. 人間がもともと持っている見解等に合っているからというような考察に頼ってはいけない、
  8. 自分の見方に((けん))に合っているからというようなことだけで納得してはいけない、
  9. 説くものが立派な姿かたちをしているからといって頼ってはいけない、
  10. 説いた沙門が貴い師であるというような肩書などに誤魔化されてはいけない、

 カーラーマ族の人々よ、もしあなたがたが、これは不善である、これは(とが)を持っている、これは智者によって非難されている、これらの行為は不利益と苦を招くものであると、自分自身で知るならば、あなたがたはそれらのことを捨て去るべきである。』

 『カーラーマ族の人々よ、これをどう考えるか。人の心のうちに起こるむさぼりは、利益を起こすか、それとも不利益を起こすか』

 『世尊よ、不利益を起こします』

 『カーラーマ族の人々よ、そのむさぼりをもつ人は、むさぼりによって打ち負かされ、心を()められたものであって、そのむさぼりの心はやがては命あるものを害ない、与えられていないものを取り、他人の妻と通じ、偽って語り、他人にもそのように勧める。およそこのことが、その人に長いあいだの不利益と苦しみをもたらすものである』

 『世尊よ、その通りでございます』

 『カーラーマ族の人々よ、あなたがたはこれをどう考えるか。人の心のうちに起こる怒りは、利益を起こすか、それとも不利益を起こすか』

 『世尊よ、不利益を起こします』

 『カーラーマ族の人々よ、その怒りを持つ人は、怒りによって打ち負かされ、心を()められたものであって、その怒りの心はやがては命あるものを害ない、与えられていないものを取り、他人の妻と通じ、偽って語り、他人にもそのように勧める。およそこのことが、その人に長いあいだの不利益と苦しみをもたらすものである』

 『世尊よ、その通りでございます』

 『カーラーマ族の人々よ、あなたがたはこれをどう考えるか。正しいことを知らない愚かな心は、利益を起こすか、それとも不利益を起こすか』

 『世尊よ、不利益を起こします』

 『カーラーマ族の人々よ、正しいことを知らないその愚かな心を持つ人は、愚かさによって打ち負かされ、心を()められたものであって、その愚かな心はやがて命あるものを害ない、与えられていないものを取り、他人の妻と通じ、偽って語り、他人にもそのように勧める。およそこのことが、その人に長いあいだの不利益と苦しみをもたらすものである』

 『世尊よ、その通りでございます』

 『カーラーマ族の人々よ、あなたがたはこれをどう考えるか。これらのことは善か、それとも不善か』

 『世尊よ、不善です』

 『これらのことがらは、不善である。これらのことがらは、(とが)を持っている、これらのことがらは智者によって非難されている。これらのことがらを行うならば、自分自身に不利益と苦しみを招くと自分自身で知るならば、聞き知ったことや、伝え承けたことなどは、すべて捨て去るべきであろう』

 『また、カーラーマ族の人々よ、そのむさぼり、怒り、愚かさを持たない人は、むさぼりによって打ち負かされることなく、心()められることのないものであり、命あるものを害なうことなく、与えられていないものを取ることもなく、他人の妻と通じることなく、偽って語ることなく、他人にもそのように勧める。およそそのことが、長いあいだその人に、利益と幸福とをもたらすものである』 」

 このカーラーマ教はものを信じる根拠をすべて否定しているものである。
人は何かを信じる場合に権威あるものを根拠として、その証拠であるとするくせがある。例えば、この経典は歴史があり古いものだから正しいといった偏見や、この経典を持っているだけで功徳があるとまで信じている人などに対して、お釈迦さまは教典に書かれているからといって即正しいということはないと言っておられます。たしかに今ではお釈迦さまが遣したといわれる言葉はたくさんあり、どれが本当のものなのかまったく分からなくなっていて、まさに教典に頼るなと言われた言葉どおりになっているのです。また、もともと持っている見解(見)に頼るなとも言っておられます。日本には日本的な考え方がありアメリカにはアメリカ独自の風習や論理の組み立て方があるということです。ひとはとかくいままで経験したことや古くからある考え方やものの見方に捉われやすく、そのために真実というものが掴みにくくなっているのです。

 また偉い人や肩書の立派な人の言うことは何となく信じてしまうものですが、外見だけでものごとを判断するのは危険であるとも教えます。例えキリストであろうと、マホメットであろうと釈迦自身であろうと、自分たちの師に頼ってはいけないというのです。どうですか、私たちが日頃何気なく行っている行為に潜む過信という落とし穴を見事に言い当てられているのです。私たちは、大勢の人が信用しているからといって、教典に書かれてあるからとただそれだけのことで、すぐそういうものを信じ、頼ってしまいがちです。お釈迦さまは人間が欲望によって考えたことはいずれも間違って伝わっていくだろうことを看破され、あくまでも自分で確かめよ、と言っているのです。

 このように善、不善は自らが知るものであり、自らが確かめられるものであると、カーラーマ経で教えているのです。本に書かれているとか、伝統があるとか、偉い先生の教えといっても、それが真実であるとは限りません。あくまでも自分で確かめ、実証を得た上で行うべきであると、仏教は教えているのです。

 仏教には信仰はありません。信仰ではなく、聞いたこと、見たこと、学んだことは自らが自分でそれを実践し、それによって自分の心からの欲望のむさぼりや、怒りの心が消えてなくなっていくことを体験し、それを実証していくことこそが必要なのです。仏教には欲望を満足させるものは一切ありません。自分ですべてのことを実践することによってそのことを確かめてください。その結果、必ず信仰のような曖昧模糊(あいまいもこ)としたものではなく智慧による確信に変えていくのです。

 以上で歴史的な背景からの見解を終えます。

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