【播磨レポ】 歴ドル・小栗さくら、黒田官兵衛ゆかり旅!~英賀城編・その3~ | 小栗さくら公式ブログ「諸行無常の日々」

【播磨レポ】 歴ドル・小栗さくら、黒田官兵衛ゆかり旅!~英賀城編・その3~

前回までの播磨レポはこちらの→まとめページ←からご覧下さい^^

本丸跡へ向かうため、
英賀神社鳥居前の道を英賀保駅方面に進みます^^

しばらくすると大通りがあり、七叉路の交差点に出ます。
「カメラのキタムラ」に近いところにあるのが、
「河下口之跡」と、「大木之濠趾」です☆

英賀城の城門跡等の碑は少なくとも9つあるらしいですね^^
時間のある方は制覇してみてください(*´▽`*)

この碑の前を通りすぎ、しばらく歩いて
ようやく英賀城本丸跡の碑にたどり着きました☆彡


大分明るくして撮ったのですが、
16時くらいになっていたので撮影に厳しい時間になっていました^^;

さて、官兵衛さんが英賀合戦で勝利したことは前回お話しましたが、
その後の英賀はどうなったのかというと…。

天正8(1580)年に織田軍(秀吉公)により落城してしまいました><;


(※地図は北が下になっています)


三木氏は本願寺側であり、毛利氏とは同盟関係…つまり織田とは敵対していました。
そのため石山本願寺への支援をしていただけでなく、
天正6(1578)年に三木城主・別所長治公が織田方に反旗を翻した時も、
三木城に援軍や兵糧米を送っていたとされています。

織田軍にとっては厄介な存在だったでしょうね^^;

英賀は度重なる支援や織田軍への対処で、
天正7(1579)年に顕如さんから英賀衆へ檄文が届いた時には、
それに応える戦力はなかったと言われています。

そして天正8(1580)年1月、
別所氏の三木城が2年間の籠城の果てに落城すると、
織田軍の矛先は英賀城となりました。
猛攻を受けた英賀城側は奮戦したものの、
長きにわたる消耗も影響したのか、瞬く間に落城してしまいました。


英賀城主であった三木通秋公は、子や一族とともに九州へ落ち延びましたが、
2年後の天正10(1582)年には秀吉公によって許され、
英賀の郷士として居住することがかなったということです。

信長公が一向宗に対し徹底的に厳しい姿勢をとったのに比べ、
秀吉公が英賀に取った処置は緩和されたものでした。
→亀山本徳寺編←でも書いたように、
秀吉公は英賀城の戦い後すぐに英賀御堂に入り、
安堵の意志を伝えたのだそうです。
そして寺領寄進が出され、寺院は現在の亀山本徳寺に移されたのでした^^

ただ、秀吉公は英賀の自治都市の存続は許さなかったようです。
代わりに姫路に城下町を作ることにして、
残った門徒たちのほとんどを城下の龍野町へ移し、
厳格な検地を行ったのだとか。
一方で既得権益は認められ、楽市楽座も許されていたそうですよ☆彡

さて、長くなりましたがようやくこれで1日目の史跡巡りが終わりました!!

1日の終りは美味しいご飯!!
次はグルメレポですよ(*´▽`*)/

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