座禅が続かない理由

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座禅を一回とかでやめてしまうのは、

ひとことで言えば「期待はずれ」なのだと思います。

そうでもなければ、やってみたかっただけ。

そのうち、なにかしらの「目的」をもって坐ったけれど

なにも期待どおりのものが得られなかったのはなぜでしょう?


一つの理由が、お寺や座禅道場の指導者が「不親切」。

ただ、「坐ってみてどうでした?」しか聞かない。

「コレコレを期待したのだけど、全く得られませんけど、

どうしてでしょう?」と聞くことができたにせよ、

「もっと坐ってみたらいかがでしょう。」みたいな会話になって

いない答えが返ってくる。

たいていは、その会話の双方向もあまりないうちに終わってします。

 

 

お寺や座禅道場ではこれを「親切」と理解しているのでしょうが、

「選ばれし者だけのものかよ。」といいたくなる気もする。

夏目漱石の「門」の時代から、伝統を守っている感じ。

 


せめて、「まぁ、いろいろ頭に浮かぶものを掃きだしてみる

のにもう少し坐ってみましょう。坐禅は自分自身で行う以外

なく、これが答えですというテキストがありません。モヤモヤは

正しい方法で坐り続けることにより、姿を変えたり、あっちこっち

心配する気持ちがあまり気にならなくなるはずですから。

その時に、そのモヤモヤの意味がわかってくるはずですよ」

位の、わかるような説明と希望を持たせてもらいたいもの。


「自得せよ、それが釈迦が歩んできた道だから。」ではなぁ。


そして、座禅のめざすものについては、しっかり説明しないと、これも

方向を誤ったどこかのミサイルみたいになる。

 

「坐禅儀」という坐禅の仕方を中国の宋の時代に

書いたものによると、冒頭に坐禅は私利私欲でやるな、

世のため人のためにするものだ、とあります。

 

なにかを拝んで自分の欲をかなえる、宗教みたいなのと坐禅を

する目的を同じように思っていると、まったく「期待はずれ」です。

 

少なくとも、私利私欲でいくら坐っても、モヤモヤは、解消しません。

どんどん膨らんで、間違っていることすら気づかずに、坐禅をし続ける

ことになります。これは、ある意味、無間地獄のようになってしまいます。

初めて足を組んで坐る以前に、はっきり説明しておくべき大事なことだと思います。

 

 

 

 

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