2016年日本平和大会in三沢 その1 三沢基地見学 | 労働組合ってなにするところ?

労働組合ってなにするところ?

2008年3月から2011年3月まで、労働組合専従として活動しました。
現在は現場に戻って医療労働者の端くれとして働きつつ、労働組合の活動も行なっています。

あまり知られていない労働組合の真の姿(!?)を伝えていきたいと思います。

まず、熊本、大分を中心とした地震の被害に遭われた皆さまにお見舞い申し上げます。

合わせて、避難不可能な状況下での原発災害を防ぐために、川内原発の運転停止を求める署名への賛同を呼び掛けます。


 

https://www.change.org/p/%E5%B7%9D%E5%86%85%E5%8E%9F%E7%99%BA%E3%82%92%E6%AD%A2%E3%82%81%E3%81%A6%E3%81%8F%E3%81%A0%E3%81%95%E3%81%84?source_location=discover_feed
 

 

そして、戦争法廃止に向けてたゆまず行動し、憲法に違反する政治を推し進めようとする策動を許さず、医療・介護を国の責任で充実させることを求め、最低生活基準を切り下げようとする動きに抵抗し、労働者のいのちと健康と働く権利を守り、東日本大震災の被災地の復旧・復興が住民の立場に立った形で1日も早く実現することを目指して、声を上げていくことを提起します。

 

 

10月22日から23日にかけて、「2016年日本平和大会in三沢」に参加してきました。

本日から少しずつ、その概要をまとめていきます。

 

まず、八戸駅からバスで三沢空港に移動し、そこから基地見学が始まりました。

 

 

 

 

(パンフレットを写真撮影したものなので見にくくて申し訳ありませんが、三沢基地見学のコースです)

 

 

三沢空港は第3セクターで、自衛隊、米軍、民間航空会社が1つの滑走路を共同使用しているそうです。送迎デッキに上がり、地元の方に説明をしていただきました。

 

 

今年7月から8月にかけて、改修工事が行なわれ、民間機の使用ができなくなったそうです。お盆の時季で、帰省に影響してしまうので、来年は5月の連休明けに工事をする予定だそうです。

三沢基地にはF16が40機配備されていて、改修中は横田基地を一時利用していたそうです。当日、10月22日はイギリスの戦闘機4機が初めての日英共同訓練のために飛来する予定でしたが、私たちの見学中は民間機も含めて離発着はありませんでした。

三沢市は基地と共存共栄する立場で、騒音被害のあった地域の住民は多くが集団移転してしまっているそうです。

滑走路は3000メートル×45メートルで、三沢市はもう1本増設することを希望しているそうですが、そうなれば騒音がひどくなることが予想されているそうです。

正面の灰色の建物はスクランブルのために航空自衛隊機2機がエンジンをつけて待機しているアラートハンガーで、スクランブルの対象はロシア機が多かったのですが、最近では中国機が多いそうです。

かまぼこ型の建物には、CH47A輸送ヘリの格納庫だそうです。

写真にはありませんが、更に左手に方には米軍宿舎の高層住宅が見えていました。思いやり予算で建設されたものだそうです。

そのさらに左手にあるのはF16用のシェルターで、それも思いやり予算でつくられたそうですが、1機あたり4億円で、40機分がつくられているそうです。F16はイラクなどで使用されている機体だそうです。三沢基地は世界で4番目に高額な基地と言われているそうです。

管制塔は自衛隊が管理しているそうです。

毎年、10万人が航空祭で三沢空港に集まり、昨年はオーストラリア機が来たそうです。

騒音対策のため、市民は防音工事をしてもらうことができ、電波障害があるためにケーブルテレビとNHK受信料が割引されているそうです。

 

再びバスに乗り、海岸の方へ向かいました。

三沢基地の燃料は、海からパイプラインで引いているそうですが、それは地下に埋められているので見えないということでした。

途中、アメリカンハウスと呼ばれる米軍属の借家の横をいくつか通りました。家賃は月40万円くらいだそうです。

航空路沿いの住宅は移転し、小中学校も新築され、全ての建物が撤去され、神社だけが残っているそうです。

その神社でバスを降り、移転の記録のために建てられた碑を見ました。

この辺りは江戸時代はあまり人が住んでおらず、江戸末期から明治にかけて、イワシ漁で出稼ぎの人が来るようになり、集落が形成されたそうです。神社は明治12年に、金比羅宮からご神体をもらってきて建てたそうです。鉄道開通で駅周辺に人が住み始め、昭和6年にはアメリカ人青年がやって来て無着陸太平洋横断飛行に挑戦し、滑走路づくりに村人も協力したそうです。しかし、日米が開戦し、昭和17年には海軍の三沢飛行場の運用が開始されたそうです。敗戦後、昭和20年9月に米軍が飛行場を再建し、工事関係者が住むようになって人口が増加したそうです。町が反映する一方で、基地被害も拡大し、騒音、墜落、夜間飛行などの被害があり、基地から2キロメートルで飛行機が真上を通過する四川目地域は246戸が移転を決め、個人移転も含めて378戸、1617人が移転したそうです。他の地域も徐々に移転したそうです。地元紙のアンケートによると、47.5%が騒音に苦しんでいるそうです。

隣の五川目地域も集団移転し、その跡は原っぱ状態になり、税金で草刈りが行なわれているそうです。騒音の他、乳牛が乳を出さなくなったり、トラクターが急降下訓練の標的にされたりしたそうです。

車はYナンバー、米軍のものが多く、事故率も高いそうです。Yナンバーの車の事故はミリタリーポリスが事故処理を行ない、保険に入っていない人が多いそうです。

事件は比較的少ないのですが、数年に1度は大きな事件が起こっているそうです。

次に、バスの中から米軍北区住宅群を見学しました。空港から見えていた高層住宅と、その近くに平屋の住宅もありました。これらも思いやり予算でつくられており、光熱費もタダだそうです。小川原湖に沿って南へ向かう途中、市民用ビーチと、柵に囲まれた米軍専用ビーチが見えました。

その先の姉沼の向こう岸には米軍姉沼通信所があり、セキキュリティヒルと呼ばれるバラボラアンテナ群があるということでしたが、残念ながら見えませんでした。以前は象の檻と呼ばれるアンテナがあったそうですが、今はデジタル化したので撤去されているそうです。

東側に戻り、米軍南区住宅群の横を通りました。ここは低層住宅が多く、やはり光熱費はタダで、内部の町では消費税もかからないそうです。

その先に基地ゲートがありました。基地内から基地の外の学校に通う子どももいるそうですが、警戒レベルによってはゲートをなかなか通れず、学校に遅れてしまう時もあるそうです。

ゲートの向かい側が日本平和大会の会場となる三沢公会堂で、基地見学はここで終了となりました。

 

開会集会については、後日改めてお伝えします。