倉垣ノ記

舞台芸術創造機関SAIの代表、倉垣吉宏(くらがきよしひろ)の日記。


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神奈川公演の稽古も佳境。



栃木の俳優がカンパニーの70%を占めて、あとの30%が東京の俳優。

それで、公演するのは横浜は黄金町。


1月に入って個別に作ってきたものを、先週末の稽古ではじめて合わせた。

本番中の、小林夢二さん(少年王者舘)やぜんさんは、目の前の舞台があるのでひとまずとして、それ以外全員が揃い、あらためて作品の全貌がみえてきた。




栃木公演から東京を経て今回と、ツアー自体は稽古期間を含めると、約半年程ある。



さすがに、慣れや飽きが見えてくる箇所もあるが、芝居自体はそれぐらい馴染んで来てからの方が、上質な旨味が出て来る。

ここに加えて本番毎に違う客席の圧や、その日の天候、俳優のコンディションなんかも諸々ひっくるめて、いろんなことが違うからこそ、それを受けて芝居がうねる。



ふと、今の時代に演劇をすることって、なんだろうかなって考える。



これだけやってても明確な答えはどこにも見つからない。

形だけのことをひたすらやり続けられるならまた別かもしれないが、それでいいならもうとっくのとうに辞めていると思う。

「好きだから」「楽しいから」「仕事だから」と、どれも正解だが

それだけで片付けるのは少し違うなと思う。




ちょうど一年前。

都市部の俳優と地方の俳優の差について感じ、それぞれの良さや違いを踏まえて作品をつくることに熱を上げていた。

それが、結果的に双方に良い働きがあるだろうと信じて。




一年が経ち、今、その二つを隔てていたものについて、ひとつの仮説を立ててみた。

知識でも、技術でも、経験でもない。

熱意もみんなある。意識の差は、時間との関係だと思うので違う。では根本的に何か。

それは【場所】であった。

その場所を交換し作品に純化することで、何かさらに先の答えが見えるのではないかと思って、2017年は活動してきた。



たとえば昨年の「ランダム・ヘイト・ラヴ・ウォール」、そして「贋作マッチ 白夜/漆黒」

栃木の俳優たちが、生まれ育った場所、自分たちの立つ舞台を離れ東京に来て作品を上演/参加したことは、とても大きな意味があると思っているし、そこで交流が生まれたことも得難い経験であった。



東京の俳優が栃木に稽古に赴き本番を行う「贋作マッチ 栃木/神奈川」も同様である。

【東京の俳優】といっても、実際その多くは他府県出身であり、東京の人間ではあるが「東京人」ではない。

飛躍するがこれは【東京】が歴史的実体を持たない集合体、虚構そのものであるということを再確認させる。



東京は巨大な商業都市であり、出稼ぎのために出向する場所であり、多様な価値観が混在し相対化されために、リアリティーを欠いた世界であるように思う。ここでいうリアリティーは、生活や文化や歴史の継続性がなくなった場所のことだ。

勿論「東京の歴史」もあるし、東京という【地方】も存在する。

都市部としての東京、文字にするなら『トーキョー』や『TOKYO』といったイメージの話と思ってもらえるといい。街自体が虚構なのだ。



この虚構都市東京の【小劇場】という分野においてはその様相を【多様化/多様性】の一言で片付けている。

それは結局のところ、他者との関わりを絶った、ディスコミュニケーションとしての演劇のことを指すのだなと自分は感じている。


個人の時代、というと聞こえがいいが、消費の対象として自分自身とそのコミュニティを使い、すり減らしていく。

コミュニティの在り方は様々だが、共通しているのは隔たりが大きいこと。

そして一部は学校や劇場などを媒介としてコミュニティの大小があることが違いだ。

「あそこはああいうことをやってるんだよ。(そして見ている私はその事柄には関わりを持たない、までが一つのセンテンスになる。)」

これが、多様性という言葉に隠されているメッセージだと思う。

村社会に似ている。

世間話はあるだろう。だか対話しない。

深く関わらない。

私とは関係がない。それは満員電車の中にも似ている。お互いがお互いを、人として認識していないかのような、あの独特の距離感。

ゲームの中のモブのように、決まった行動しかしない。それで生きていけるルールがある世界。




栃木の演劇シーンは、多様性を獲得しながらも対話していた。

そこに希望を感じことはツイッターやブログでも度々書いてきた。

場所、環境の違いが産む差異なのだとやはり思う。




昨夏に上演した『シアトロン』という企画は『それぞれが背負う文化を摩擦させる』ことを目論んで企画した。

その中で対話・・・。交流や摩擦まで全てが発展しきれなかった事、その理由についても考えたが、つまりはそういう事だなと思うし、多様性の中に『関わらないでいることもひとつの正当性』であることが含まれていると、明確になったと思った。(とはいえ6割以上の対話が出来たから、試みとしては成功だったと思う)

満員電車で人を人と思わないでいる為の思考と同じなんだな、と。




今回の「贋作マッチ売りの少女」そしてそこに至るまでの2017年の活動を通じて「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」というメッセージを発信している。



僕自身、栃木で稽古するたびに、最初は栃木と東京の差分を感じるところからスタートしていたが、

一周回って「私は関西人であり、東京に住み、演劇をやっている」というところに着地した。

どちらが良い悪いの話ではなく、社会性や文化の異なる土地を横断する中で、自分のアイデンティティを再確認することになったのだ。


演劇が持つべき虚構性・・・ファンタジーについて、複合的なものが僕は今現在においては望ましいと思っている。


たとえば今作では

音楽が持つ虚構世界(永井幽蘭、Cuu-Jessica)

文学が持つ虚構世界(りくろあれ)

身体が持つ虚構(SAI=全ての俳優たち)

と、複数の虚構世界を横断し作り上げている作品が『贋作マッチ売りの少女』になっている。※あくまで僕の視点という注釈をつけておきます。



僕自身が感じている「現実を超えていくためのファンタジーの復権」に必要な要素であり、演劇でなければ出来ない作品になった。(もちろん逆説的に全ての要素を批判するようなクリエイションもあると思うが、それは今やりたい事ではない)



神奈川公演においては

皆が上演のその瞬間に、

自分が何者であるかを確認する時間を取り、虚構が視覚的に立ち上がっていくように演出をつけた。




劇場のひとつの姿。

僕たちが何者かを見つける場所であり

異なる社会性や文化を持つもの同士が集い

対話していく中から、一度社会から自分を切り離すこと・・・

たとえば生きていく中で社会の一部になる事で、蓋をしてしまった感情。

自分を変えていくこと。

それに伴った身体のクセ。

生きていく中で見えなくしていったものを、演劇の持つ虚構性を通じて取り返すこと。

大袈裟に言えば、人間としてのアイデンティティを模索したり回復したりする場所が、舞台の持つパワーなのではないかと思う。



生きるということは、何かの奴隷になることかもしれない。

そこから、離れる瞬間が芸術的な、創造的な時間なのではないかという、一つの考え。



公演詳細

http://stageguide.kuragaki-sai.com/guide/stage/fakematchgirl/kanagawa/

前売

http://sai20xxshop.cart.fc2.com/ca2/86/p-r-s/


予約

https://www.quartet-online.net/ticket/fakmatch03

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