特許翻訳 A to Z

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特許明細書では昔から、「当接」「嵌合」「回動」など、漢字2文字の用語がよく使われます。
明細書に多いため、俗に「特許用語」とも呼ばれます。
 

このような漢字2文字の特許用語には、権利範囲をできるだけ広く取るなどの目的で生まれた造語が多く、ときに争いになることも。

 

たとえば、『パテント』誌に、「クレームに記載された国語辞典に登載されていない造語「掛合」,「当接」の解釈が争点になった判決」という記事が出ています。
この記事から、一部を抜粋します。
 

弁理士が考案した造語は,その意味が国語辞典において定義されていないから,日本語として意味不明である。そのような意味不明の造語を使用することは,特許請求の範囲に記載された発明を不明確にするものであり,特許庁の審査に支障をきたし,特許後は紛争の原因となり,好ましくない。また,国語辞典に登載されていない造語は,外国語への翻訳が困難である。 
  『パテント』 Vol. 65 No. 10 (2012年10月) p. 59


記事中「外国語への翻訳が困難である」とありますが、実際、この類の特許用語は、資料によって訳語がかなりばらついています。
そして同様の問題は、国語辞典に載っていない語だけではなく、「一部の」国語辞典には掲載のある語でも起こり得ます。

たとえば、「摺動」。
現在では、特許明細書以外の技術文書でも、相当数で使われるようになっています。

この「摺動」は、手元の『広辞苑』には掲載がないのですが、三省堂『大辞林』に「機械の装置などをすべらせながら動かすこと」とあります。

国語辞典以外の資料はどうかというと、特許技術用語委員会編の『特許技術用語集』 第3版に、「接触してすり動くこと」と説明され、「to slide」と「to move slidingly」の英訳語が載っています(p.83)。

『大辞林』が「動かす」としているのに対し、こちらは「動く」つまり自動詞です。
この特許技術用語集は、裁判でもときどき使われるようで、裁判所の判例検索で「特許技術用語集」と検索すると、現時点で40件ヒットします。
摺動も、たとえば平成21(ワ)1193で同書が解釈に使われています。

また、同じ特許技術用語委員会が編集した『特許技術用語類語集』 第2版には、摺動に「摺り動くこと」として「slide」と「sliding」が併記されています(p.120)。

かたや経済産業調査会の『日中英特許技術用語辞典』には、「接触状態で摺り動かすこと」として、「to slide while in contact to abrade」とあります(p.196)。

1番目と3番目は意味に「接触」の語があるのに対し、2番目は「摺り動くこと」というだけで、接触の文言はありません。

ここで、日本語の「摺る」の意味を考えると、たとえば『大辞林』に、次のように説明されています。

 

す・る [1] 【刷る・摺▼る】
( 動ラ五[四] )
〔「する(擦・摩)」と同源〕
①印刷する。 《刷》 「新聞を-・る」 「輪転機で-・る」
②版木などに墨や絵の具などをつけ,紙などに当て,こすって写し取る。 「版画を-・る」
③植物や染料を布にこすり付けて模様を染め出す。 《摺》 「月草に衣は-・らむ/古今 秋上」


「当て、こする」ですので、そこには接触の概念が存在すると言って差し支えないでしょう。
これは印刷や染色の話であって意味が違うではないかと思うかもしれませんが、たとえば次のような判例があります。

 

「摺動」という語は,国語辞典中には存在しない。角川書店発行の「大字源」では,「摺」という言葉は,動詞の「する」に当たるとされ,用語例としては,「版木で摺る」,「絵柄を摺る」等が挙げられる。また,特許庁編「技術用語による特許分類索引」には,「摺動環」,「摺動子」,「摺動自在ないす」,「摺動ファスナー」,「摺動変圧器」,「摺動面」の6項目があり,いずれも「する」動きという意味で使用されている。
  平成12(ワ)11906 特許権 民事訴訟


他にも、平成19(行ケ)10315で「「摺動」とは接触した状態で摺り動くことであり」、平成15(ワ)17475では「「摺動」とは,接触状態ですり動かすことを意味する用語(弁理士会研修所・基本テキスト・乙22の3)であり」とされています。


ここにも「摺り動く」が出てきますが、「摺る」の意味が「当て、こする」だとすると、「摺り動く」は「当て、こすって動く」という、他動詞なのか自動詞なのかわからない状態になってしまいますね。

さらにいえば、空気層上の非接触摺動、油膜を介した非接触摺動(流体潤滑)など、明示的に「非接触」という修飾語を伴う「摺動」もあります。
こちらは非接触ですので、「当て、こする」とは意味が違うはず。

おそらくこれは、「摺動」という語を漠然と「滑らせる動き」のようにとらえて出てきた言い回しでしょう。
『大辞林』にある「すべらせながら動かすこと」に、近いとも言えます。



それでは英語のslideはどうかというと、たとえば、Merriam-Websterのオンライン版でslideを引くと、最初に記載された定義は「to move smoothly along a surface」です。
定義上、接触は条件になっていません

そもそもslideは日本語の何に近いかというと、「当て、こする」というよりは、「滑る」「滑らせる」です。
いわゆる「計算尺」をslide rulerと呼ぶように、「滑る」動きがslideでしょう。

「滑る」ですから多くは接触が前提にありますが、リニアモーターカー(maglev train)さながら、微妙に浮いた状態で滑る場合もslideで表現できる場合はあるだろうと思います。

逆に、「版画を摺る」などの「摺る」を英語で表現するとどうなるかというと、すぐに思いつくのはprint
printの定義を引いてみると、「to impress something in or on」や「to stamp (as a mark) in or on something」で、国語辞典上の「摺る」の意味に近いですね。

・・・とすると、「摺動」とは?

以上、摺動を例にとりあげましたが、漢字2文字の特許用語はどれも多かれ少なかれ、突き詰めていくと曖昧な要素を持っています。
だから、「外国語への翻訳が困難である」ということにも、なってしまうわけですね。

翻訳者としては、外国語から日本語への翻訳時には安易に特許用語を使わない、日本語の特許用語を外国語に翻訳しなければならない時は、辞書や用語集を頼らず、常に原文が何を意味しているかを考える必要がある、ということです。

中途半端に使う・訳すと、不明瞭あるいは新規事項になるなど、何も良いことはないと思います。

 

 


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