上杉三郎の軍装

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上杉三郎。

 

 

北条氏康の子ながら上杉謙信の養子となりその初名景虎を与えられた人物。謙信死後は跡を継いだ景勝の前に立ち塞がりました。 地域の巨大な戦国大名の思惑で数奇な人生を歩んだ彼の生涯を追いつつ、今回は上杉北条両氏、そして武田氏を支えた武者たちを通して、 彼らが生存競争を賭けた戦いで纏った甲冑を描いてみたいと思います。

 

 

これまでにも述べたが戦国期であっても恐らく武田信玄の様な階層は手の込んだ本小札製 毛引威の腹巻か、或いは胴丸を着用し続けただろう。( 但し本小札でも金交ぜの部位は増加していたと思われる)

装飾にも手の込んだ重武装の甲冑をわざわざ着用するのは身分格差を絶対視させる意味がある。甲陽軍鑑に合戦の度に甲冑を新調して参加する侍、一条某の心意気を皆が感心する描写があるが、これは甲胄を新調する事がやはり経済的に簡単では無いという事で有る。着用機会が増えれば傷みもする。 古い甲冑は段々消費されてゆく中、小札に代わって登場した板札製の甲冑を採用すれば、実戦も恐れぬという武士の面目も立つ。 そしてその簡易な甲冑は経済的な面からも侍たちを救ったかも知れない。 板物の甲胄の登場と同時期に陣羽織が流行したのは当初は甲胄を新調する暇が無くとも見劣りもせず効果的だったから、というのは穿った見方だろうか。

 

一方で。 侍を招集する側の彼ら東国大名たちは頻りに軍令を出してその人数から武器、 着用すべき防具など細かく装備内容にまで口出しして統一を図っている。原則として動員装備は召集される侍の自費負担である以上、 度々更新される軍役の負荷は軽くは無かっただろう。

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これは三郎が越後入国前には跡を継ぐ予定であった、北条玄庵宗哲次男 北条氏信が武田信玄の侵攻の折、駿河蒲原城で討死の際着用と伝わる甲胄。 一見して全体的なフォルムに関東具足の特徴が見られず、 以外な印象を受けるが、その伝来が確かなら北条氏の遺品としては珍しい古頭形兜ながら並角元や出眉庇を備え、部分的には関東系武士の遺品に共通する特徴が見られる。逆に胸板の形状は当世具足として一般に目にする近世のそれに近いが、未だ左右の山がさほど高くも無い。また高紐を通す穴は既に四孔式ながら鞐の上下(笠鞐、責鞐) がまだ近世とは異なる。

 

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その形状で似た、以前にも触れた真田信綱着用の鎧( 胴の手前の板札は兜の錣〈しころ〉と思われる)を見てみる。

 

 

このなだらかな丸みと山を帯びた胸板は既に近世的である。 この信綱鎧など武田氏や徳川氏の家中由来の遺品に類似の胸板が多く、同じく東海の織田系諸将の遺品とはまた異なる。 ひょっとするとこの形状の胸板は東海地方、 それも駿河遠江辺りでいち早く登場した可能性は無いだろうか。 それは需要が逼迫しただろう軍役定書が頻出される時期とも重なり 、当然新たな発注の際には改良要望が含まれると思われ、 それ故急速な発展を即したのではと想像が膨らむ。 やや飛躍し過ぎの感は有るがこの胸板の具足を着用した武田、 徳川と接した織田を始め上方に、 やがて豊臣政権の元でメジャーと成った形状なのでは。 

その勃興期、 箱根を越えて関東より対武田の最前線へ赴いた氏信が現地で拵えた一領、なのかも知れない。( 三郎とは時期は異なり後の事になるが上杉家中に武田所縁、 勝頼滅亡後に身を寄せた末弟 信清所用と想定される具足にも同様の胸板が見られる。)

この氏信甲胄を取り上げた理由は、 現場を担う指揮官である彼らは主君が求める軍役に対し、納品される具足の性能や納期を吟味して発注先を選択しているのが自然と思われ、それ故に複数の発注先を確保する事を当然考慮しただろう。 

 

大きな合戦が続くと供給がパンクし、 軍役の求める命令に不足の軍勢を連れる指揮官があふれ、 それを見た大名が改めて軍役を発しというのが実態だったか。 こうして次第に品質改良が進みながら供給体制が整えられていった 。後の近世に見られる御家流の統一した具足の軍勢とは、 戦国期にはむしろ難しい理想論だったろう。 しかしこの頻発された軍役定令にこそ端緒が有り、 それが需要と供給というシステムを鍛えたのだと思われる。

 

 

永禄十二(1569年の越相同盟により上杉謙信の養子となった三郎景虎。

この時代は婚姻、 養子の姻戚関係を築く事が一般的な関係改善の手段として広く行われており、その両者間のパイプ役が期待された。 三郎も活発に活動していた様子がその発給文書から伺われる。 

 

同盟そのものが、 当初は上杉北条両者に取ってそれまでの抗争からのギャップが大きく、それ故謙信は敢えて我が名を与える政治的なアピールを必要としたのだろう。もし両者の関係が良好に推移していたなら、 三郎はその象徴として益々存在感を増したのは間違い無い。 しかし抗争の長い歴史と複雑な利害関係者が多過ぎた。

 

当時上杉謙信は関東に置ける勢力を退潮させており越相同盟は武田氏の駿河侵攻が無ければ無かっただろう。 三郎の奔走も虚しくやがて両者は再び抗争を始め、 三郎は活動場所を失った。しかしながら謙信が三郎を返さなかったのは特に珍しい事では無く 、またそれは将来の選択肢を残す判断によるものだろう。 また一旦は後継者としての処遇を得ていた事も関係していると考えられる。すでに姪との間に子、 道満丸も居た三郎を情義的にも断ち難い心情は自然な感情ではないだろうか。

 

尚、 乃至政彦氏は著書でこの点について謙信後継者を道満丸とし景勝をその後見人と推測する見解を述べておられ、説得力有るご意見と思えます。

天正六年三月、 義父謙信の急死が政治的には死んでいた三郎に再び活動の場を与えた。

 

上杉の家政を争う二人だが、その立場は全く違っていた。 国内に地盤を持つ景勝に対し三郎にそれを与えたのはその景勝に反発する勢力による御輿としてだった。 三郎は当然にそれをに乗った。それが当時の武家の価値感である。 実家北条氏と姻戚を持つ武田勝頼もその要請により介入に乗り出した。

 

景勝が勝頼との接触を試みるのに対して、三郎は交渉を持った気配が無い。血縁者間の争いの経験の無い北条氏出身故に、勝頼を無条件に信頼したのだろうか。

抗争はその後も一進一退を繰り返したが、最も大きな転換点は勝頼の動向だったと思う。

振り返れば、玄庵娘との婚姻は玄庵嫡子氏信の武田氏との合戦討死、その後の越相同盟も含め、彼の人生を決定的な場面で翻弄したのは実は武田氏であった。

 

 

 

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小田原鉢。 北条氏の本拠小田原で製作された手の込んだこの鉢を三郎が兜に使用したという確証は無い。されども既に元服済みで上杉氏の元に入った三郎は武家の嗜みとして自身の具足を持参して居たと考える方が自然である。人質とはいえ外交官、大使というべき役割。氏康、氏政が北条氏の面目と力を誇示する為技術的工芸的にも最も優れた 一品を持たせたというのは十分考えられる。 同時に上杉氏の後継候補となり景虎を名乗った三郎は上杉当主足る謙信や親族と同等の具足を着用すべき存在となった。

 

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兜鉢には件の小田原鉢に上杉氏特有の二重錣を重ねた。 立物は謙信、景勝二代も例の有る「日輪と月」 でこのどちらか片方を前立に用いるのは定番でもあり無難で、両方を重ねるデザインの採用で陰陽の意味を込めた。喉元全体を覆う曲輪式の垂。 胴は上杉特有の大きな太刀掛韋付を付し、当然素賭縅とした。 太刀を履き打刀拵の差し添えも反り深い上杉拵を参考にした。 手には軍配。 上杉 北条両氏は軍配遺品多く反対に武田氏は当主が朱采配を持ったという。

 

 

考えてみれば彼こそは対立する両氏の甲冑を最もよく目にし良く知る存在だっただろう。

三郎の思いも実らず上杉北条が共に関東統治を実現する事は無かった。その三郎の思いを汲み、せめて両氏の融合を形の上でも踏まえた姿として描いた。

 

 

天正七年三月二十四日。 三郎は御館より逃れ籠城していた鮫ケ尾城で最期を終えた。御館では無く此処に逃れたのは何故か。 実家北条氏の元で起死回生を想定していたからではなかろうか。それを諦めたのは逃れた筈の我が子の死を知ったのが、 此処だったのかも知れない。

 

 

最後に(景勝所有の可能性も高いが) 有名なヤクの毛を植えた陣羽織着用の姿も描いたので御覧頂きたい 。私自身は陣羽織を着用しない姿の方が好みです。

 

 

 

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