赤備えとは甲冑や刀剣外装や指物などの軍装を朱塗りに揃えて統一した兵の集団。

朱塗りの軍装、武具を持つ事は戦場で大変目立ちました。それ故に個人の意志のみで行えるものでは無く主人や家中の公認を前提とし、命知らずの働きを行う武辺者にこそ相応しいと認識されていた様です。それを一団総てに認めるという事は、ここに所属する武者たちが自らを奮い立たせて他隊の耳目に耐え得る差別化された働きを行い、それを全軍に伝播させるという異常な集団心理を課せられていたと言えるでしょう。

 

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赤備えで有名な部隊といえば真田信繁や井伊直政の両名。

彼らに共通するのは戦国大名 甲斐武田氏の所縁である事。武田氏は滅亡後もその武名は広く知られていたでしょうが真田の赤備えは武田健在の折には記録は見られず、井伊も滅亡した武田遺臣と彼らを取りまとめた徳川家の直臣達を直政旗下に与した際に創出された赤備えであり、取り立てられた武田遺臣たちも決して旧赤備えだった者達に限りません。

 

 

 

 

いつものことくあか武者たるへく、指物はあかね、ほろたしハきんたるへく、其外道具之事ハ任心たるべく也、五月時分たるへく候間、其内無油断支度専一たるへく候。

 

昨年、信繁の兄、真田信幸の軍装指示に赤備えを示す初見資料が紹介されました(黒田基樹氏著 豊臣大名真田一族、平山優氏著 真田信之)。豊臣秀吉による朝鮮出兵の折、名護屋に置いて武者揃えが挙行され、これはその時信幸が家臣に宛てた指示で、この推定時期(文禄二年 1593年)には既に真田に赤備えが居た事は間違い無い様です。

 

 

 
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昌幸の甲冑として有名なこの具足ですが、元は朱具足であったとの伝来があり、今回はこの具足と信幸を主人公に赤備えを再考します。

 

 

 

 

 

信之の遺品甲冑とされるものに朱具足は見当たりません。最も有名な遺品は真田宝物館所蔵の「唐冠形兜萌黄威し二枚胴」ですが、没後の江戸中期に修理を施されており信之着用時の原型を留めているのは恐らく兜鉢のみでしょう。甲冑は戦国の実用の時代から、為政者としての権威のシンボルとして工芸的な装飾が重視される様になっていきます。いわゆる復古調を中心とした表道具としての甲冑です。身を護る実用品から、先祖を敬い遺徳を奉るという大切な依代としてこれら遺品甲冑は、加飾をされ新たな役目を担いました。しかし同時に形見でもある為、まったく手を加えない部位が見受けられます。それが兜鉢です。

 

この戦国の末期は、中世以来の甲冑に改良が施され多種多様な形状が次々登場し、中でも頭部を護る兜は立物や張懸、動物の体毛を植え付けた付物などの加飾も様々に、自己の集団や個人的顕示の象徴の意味合いとして発展していました。

 

不幸にも討ち死して首となった際の「首兜」となる兜こそがその着用者の特定を可能とした現実が在りました。討ち取った側の武家の子孫の家にその戦死者の着用兜が代々伝えられる事例が有ります。先祖の武功とその子孫繁栄の元となった敵死者の慰霊を行い伝えられてきた話も珍しく有りません。

 

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胴は打ち捨てられても兜が大切に保管される理由は特別な認識、すなわち兜こそその着用者の精神や思想を現し、そこから連想して魂をも宿すと考えられていたからではないか。

 

新たに自らの甲冑を拵えた祭に父祖伝来の兜鉢を採り入れている事例も、自身の氏族のアイデンティティを示し先祖の加護を得んとする同様の発想によるものなのでしょう。

 

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いくつかの兜にまつわる伝承もその様な視点から見るとまた違った感想を抱きます。

大坂の陣で散った木村重成はその最後の出陣を前に、自身の兜に香を焚き込めた逸話が有ります。現代人は美男と伝わる彼が討死の後も汚れや血と汗の臭を嫌ったからではとの感覚を抱きがちですが、実際のところは覚悟の出陣に際して自らの首を護る兜鉢そのものを穢れ払いし清め、軍神の加護を求めるという行為だったのかも知れません。

 

武田信玄はその遺言で勝頼に武田家累代の旗、孫子の旗を含む武田家当主を象徴する一切の事物の使用を許さず、これまで同様に勝頼自身の「大」の字の旗のみを掲げよと命じました。但し自らの兜である諏訪法性兜の着用は認めています。

何故兜のみは認めたのか。深読みするなら陣代が国内向けの対策であり当主としての象徴の一切と信玄一代着用の兜は別物と考え、信玄は我が兜を許す事で、家中に後継者として勝頼が承認される事を望んだからではないか。兜鉢が着用者を特定するとの意味を考えるならば、自身が死した後も重臣たちに自らが生きていた時の様に勝頼を支えよという意を含んだ。また一方で勇猛な勝頼自身に対し常に冷静な判断を忘れるなというメッセージを込めていたとも思えます。

 

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前掲平山氏著真田信之 によると信幸の初陣がいつだったのかは不明ながら天正十年加沢記の記述の武装は「卯の花威の鎧に星兜を身に纏い海野重代の備前長光の太刀と十文字鑓引っ提げ」。

卯の花威しとは白糸毛引威しの美称です。星兜とは関東で隆盛した新形式の堅固な小星兜であろうと思われ、日本甲冑の基礎知識によれば六十二間が多い。信玄勝頼も用いた遺品とされる六十二間兜も伝存します。天正壬午の乱を戦うこの時期、当主昌幸は自らの真田家を滅亡した武田氏の後継として位置付けていた事が窺われ、上記の発想に寄るならば真田氏の次期当主のこの兜は六十二間小星兜鉢に、武田当主を彷彿とさせる特徴を持った兜でこれを自身の嫡男に着用させる事で印象付けようと考えたのだと思えます。

 

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合戦での活躍こそが武士の存在意義でした。武田軍は戦場で敵との距離を徐々に詰めて行きやがて一~二町(百~二百m)程に近付くとここから鉄砲を撃ち始め、三十間(五十m)で弓も射撃を加える。そのまま進むと倒れる者も現れる銃弾飛び交う至近距離。これを場中と呼び、矢玉に臆せず突っ込み或いは踏み止まる行為こそ勇敢な武者と賞揚しました。武田軍に限らず当時の合戦はこの打物武者による隊形の一部を突き崩す事が勝敗を作る要素であった様です。弾幕の中を打物による敵軍突破の成否。武者たちの恐怖心と名誉欲の葛藤。武勇を誇り名を上げる為、単騎で無理をしがちな武辺者たちのそれを克服するのに「赤備え」は非常に効果的で、信玄はこれを腹心山形昌景を介して活用し集団としての精神掌握に長けた知将だったのでしょう。

井伊直政は生涯に渡り合戦で手傷を負う事が多く、最期は関ヶ原での鉄砲傷が原因でこの世を去りました。直政の合戦に望む姿は形だけでは無い武田武士の合戦観をも受け継ぐものと思えます。武骨な関ヶ原着用と伝わる甲冑は様々な事を考えさせてくれます。

 

 

 


敵陣に我が身を顧みず突っ込み、場中に踏み止まる侍たち。これが武田武士の真髄、恐ろしさ。長篠合戦は天下の帰趨を位置付けた合戦であり、これを目の当たりにし対戦勝利した織豊系、そして徳川氏が天下を統べる事に成った為にこの時の記憶が、武田の武威を格上げする理由になったと思います。

 

 

 

 

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やがて赤備えは滅亡した武田そのものを表す事に成ったと想像します。これは武田と争う者に限らず武田家の内側でも同様であったと思われ、それと窺われる甲冑が米沢上杉家中の所縁として伝わっています。これまでも度々触れてきた武田信清所要とされるこの具足は明らかに上杉家の特徴とは異なり、信清の境遇こそが創らせた「武田ブランド甲冑」だろうと想像します。

 

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今年の三月、真田の赤備えと見られる甲冑が「真田家につながる海野一族の真田右馬允の子孫とされる深井家宅」で発見される報道が有りました。実際の真田家中の赤備え甲冑はこれまで知られず文献以外の貴重な発見でした。深井家は小県郡で帰農した系統だそうで、それが赤備え甲冑を伝えてきた理由であると考えます。真田の赤備えがどれ程の規模でいつからだったかは不明ですが恐らく真田氏は武田滅亡と続く本能寺の変に始まる動乱以後、昌幸が武田所縁の家として赤備えを採用し、それは信幸も同様であったでしょう。冒頭の軍令は豊臣臣下の時期にはある程度の赤備えを保持していた事を示します。しかし秀吉没後の関ヶ原に纏わる争乱で父と弟が西軍に付いた事、大坂の陣で弟信繁の伝説的活躍を機に、信幸は麾下の赤備えを次第に薄めていったのではないか。

 

 

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荒廃した領内の復興を優先させる必要もあった信幸は家中への改まった軍令による一斉改変を避け、修繕や必要に応じて拵えさせる際に改変を進めたのかも知れません。それ故に早くに帰農した深井家にはその朱具足が伝存した可能性を思うのです。

昌幸の具足と伝えられる今回の甲冑ですが、昌幸が改易された際、所領受け取りは徳川氏の命により大井 諏訪 依田ら徳川家臣が担当し、所領に限らず武具なども没収されています。その居城上田城も完全な破壊を施した後に信幸に下されました。

 

この具足は江戸期、焼失した残欠より復元された謂れを持ち、それも被災したのが江戸屋敷である事などを鑑みても幕府にとって「公儀は丶かり之仁」だった昌幸の具足とは考え難い。

 

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兜は突灰形と呼ぶ天辺の尖った鉢で、関東で発生した鍛えの良い一連の筋兜の派生であると思われる。腰巻きも高い。胴は馬革包みの仏胴で袖も付されず籠手を直接肩上に取付ける形式である。草擦も四段なのは跳ね上げを考慮したものと考えられ、槍や鉄砲などへの対応や動き易さは当世具足の特徴ですが、ここ迄徹底的に拘った造りはやはり激しい「場中の功名」を最大の誉れとした武田武士としての誇りならではと。

家を守り絶やさぬ為に表立ってそれを誇示せず心中に収めたこの信幸も、弟 信繁や井伊に劣らぬ真の赤備えと呼べましょう。

 

 

 

 

 

 

 

笹間氏は著書で氏の調査当時は兜鉢の正面にあたる前正中も銀塗で頬当の垂は三段であった事を記されています。脛当の立挙も無かった模様。江戸期には黒塗具足として復元され、昌幸の所要と伝わるました。所有者が誰であれ故人を偲びその遺徳を讃える依代として、この具足は役割を担い続けるのです。

 

 

 

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