東京ワークショップ四日目
おはようございます、おもさんです。
日野晃先生主催の東京ワークショップもいよいよ最終日。
一日目の様子は こちら
二日目の様子は こちら
三日目の様子は こちら
さて、四日目のレポートですが、何を書いたら良いのだろう。
というのも、完全に煮詰まってしまった。
レポートを読み返していくと、特に三日目には解釈が増えていることがよくわかる。
これは自分の言葉なのか。
もっともっと整理しないといけないのだろう。
「感じたもの」を言語化するための訓練として、このレポートを残している。
だから、読み返す事で情景がよみがえる。
「感じたもの」を明確に言葉で表すことなど出来ない。自分の感じたものを「言葉」に変換する過程で、何かが失われる。
だからこそ、言葉を丁寧に使う必要があるのではないか。
それは「何かを感じた自分」を大切にすることにつながるのではないかと思う。
もう一度、原点回帰しよう。
<表現塾①>
・全身のストレッチ
・脊柱を一つ一つ感じる (検証:立位で後ろから拘束される)
・肘の操作 (伸ばす、引く)
・ラインを感じる
四日目からは全てが表現塾。
表現塾①の内容は身体塾のようだが、結局表現のための道具は身体である。
『全身をストレッチしたり、感覚しといた方が、流れとかは感じやすいねん』
全ては一体なのだろう。
取り組むことや切り口が変わると、全く異なることに取り組んでいるように感じてしまうがおそらくそうではない。
全て要素なのだろう。
それが分からないと要素還元主義に陥り、方法にこだわってしまう。
要素の中にも「全体」が内包されるフラクタルなものでもある。
要素であり、全体でもある。
脊柱を感じるでは、仙骨から腰椎に移行していく際の感覚が曖昧だ。
大臀筋が下方に滑り込ませる操作すると腰椎が床にしっかりとつく。
自分の課題は首の緊張だろう。ここに非常にクセがある。
二人一組での検証では、立位で後ろから抱えられた状態から、脊柱を下から順番に一つ一つ感じていく事で、相手の腕から抜けるというような感じで行った。
首の緊張がとれていると、脊柱を感じることが出来る。
いや違う。脊柱を動かそうとすることで首が緊張していたのだろう。
もっともっと厳密に。 それほど身体は繊細なのだ。
肘の操作は、肘の一点を動かす。
「肘」という言葉で、肘を動かすことは出来ない。
というのも、一般的に我々が肘だと思って動かしているのは、漠然とした肘だからである。
肘を操作動かせているかどうかは、相手に前腕を押さえてもらうことで検証する。
肘が動かせていれば相手に伝わっていくが、それ以外は全て相手に衝突する。
肘の一点を、どの方向に動かすのか。
それは自分の肘の構造、相手との関係の中で決まる。すなわち、自由ではないのだ。
自由だと感じるのは、そう思っているだけだろう。
思うでは、身体は動かない。
先生が言うように、感じるに裏付けされた動きは高級品だ。
なかなか手に入れられるものではない。
しかし自分との違いを明確に示してくれるからこそ、取り組む意欲が引き出される。
なぜならそこにワクワクと同時に、落胆も混じっているからだ。
自分にとって自分の身体は一生遊ぶ事の出来る最高の道具なのかも知れない。
ただいつになったら自分のいうことを聞く身体になるのだろうか。
それは自分のいうことを聞く身体になった時に分かるのだろう。
<表現塾②>
・握手と正面向かい合い
・相手に歌を届ける。聞く。(ここはどこの細道じゃ/天神様の細道じゃ)
・相手の流れに乗る(腕をふってリズムをとっている相手の流れをつかむ)
・相手と歩調を合わせてからの「ストップ!」
今回の表現塾では、握手を行った。
手を握り合う。そこにも関係性は生まれる。
一般的に握手は前向きなイメージがある。しかしながら、その握手で相手に不快感を与えていたら・・・ そう思うとゾッとする。
しかしながら現実は厳しい物だった。
握手をすると、力が弱まるといった現象が生じるのだ。
なぜだろう。
入り方が悪かったのか? 触り方? 正面が取れていないから?
ここから煮詰まりに拍車がかかる。
どのワークに取り組んでも、方法ばかり考えている自分がいる。
そして、「場」もそのような感じになっている。
不思議なものだ。
こうやってレポートとしてまとめているから、その時のことを客観視できるが
取り組んでいる最中はもう何がなんだか分からない。
分からないから、色々と考える。
余計におかしくなる。
思考に完全に意識を奪われ、「感じる」がなくなる。
頭がパンパンになってくることだけは感じる。
「煮詰まる」は言葉では表現しがたい苦しさがある。
それは自分自身へのとらわれなのかも知れない。
自分一人で出来る事など何一つないのだ。
<表現塾③>
・正面向かい合い
・正面向かい合いから、リーダーの手の動きに反応し動く
・口パクでの「なまむぎ」
・円になって、皆に口パクで「なまむぎ」
・握手
さて、何を書いたら良いのだろう。
お分かりのように表現塾③も煮詰まり感満載のまま進んでいくことになる。
どのワークに取り組んでも、引っかかる点は同じだ。
「自分は一体何をしているのだろうか。」
今回は、医療従事者同士でワークに取り組んだのだが、皆同じような心境だったと思う。
なせならお互い使用する言葉が、「もっとこうしたら良い」「このやり方はいけない」など
完全に方法論にとらわれていたからだ。
こうなってくると何をどうしようにも進まない。
最後の握手のワーク。
二人が握手をしている姿を見て、「握手できているか」を皆がジャッジする。
こうすればいいのではないか。
ああすればいいのではないか。
ここがおかしいのではないか。
握手している様子をカメラに収めて、皆で検証する。
絵として美しくない。
なぜなのだろう。
それを突破するヒントは和子先生に頂いた。
『握手はなんでするのか。握手がしたいからでしょう。相手と関わりたいからでしょう。
握手をすることが目的になったらダメ。相手と関わることが目的ですよ』
そうか。
相手と握手をしたいと感じるから握手をするのだ。
今回のワークショップの初日に、医師の堀切さんと2年ぶりの再会をした時に
知らぬ間に手が出て握手を求めていたではないか。
その気持ちがお互いにあったからこそ、そこに関係が生まれ、ぬくもりが生まれ
感情の交流が生まれ、感動が生まれるのだ。
今、書いていて泣きそうだ。
あ、涙こぼれた。
最後に堀切さんと握手をしたとき、今まで無機的だったものが急に変わった。
たしかなつながりがそこに生まれた。
それはそれを見ていた皆も感じたようだった。
どうやって表現したらいいのだろう。
今は涙を流す以外にその表現方法が分からない。
後に堀切さんから最後の握手について、コメントをもらった。
「最後の握手は、空間から違ったよ。
パーッと開けたというか、一気に霧が腫れたような感じだった。
また、あれしよな。」
はい。絶対にしましょう!
お互いの成長を誓い、またそれぞれに頑張っていく事を宣言した。
最終日も頑張ってきます!
四日目の気づき。
煮詰まったときの突破口は、間違いなく原点回帰だ。
それは相手と関わりたいという、関係性の中に生きる人間の欲求だ。
そういったことに気づくためにも「煮詰まる」というのは大切なプロセスなのかもしれない。
最終日。
しっかり取り組んできます。
読んでいただきありがとうございます。
それでは。
日野晃先生主催の東京ワークショップもいよいよ最終日。
一日目の様子は こちら
二日目の様子は こちら
三日目の様子は こちら
さて、四日目のレポートですが、何を書いたら良いのだろう。
というのも、完全に煮詰まってしまった。
レポートを読み返していくと、特に三日目には解釈が増えていることがよくわかる。
これは自分の言葉なのか。
もっともっと整理しないといけないのだろう。
「感じたもの」を言語化するための訓練として、このレポートを残している。
だから、読み返す事で情景がよみがえる。
「感じたもの」を明確に言葉で表すことなど出来ない。自分の感じたものを「言葉」に変換する過程で、何かが失われる。
だからこそ、言葉を丁寧に使う必要があるのではないか。
それは「何かを感じた自分」を大切にすることにつながるのではないかと思う。
もう一度、原点回帰しよう。
<表現塾①>
・全身のストレッチ
・脊柱を一つ一つ感じる (検証:立位で後ろから拘束される)
・肘の操作 (伸ばす、引く)
・ラインを感じる
四日目からは全てが表現塾。
表現塾①の内容は身体塾のようだが、結局表現のための道具は身体である。
『全身をストレッチしたり、感覚しといた方が、流れとかは感じやすいねん』
全ては一体なのだろう。
取り組むことや切り口が変わると、全く異なることに取り組んでいるように感じてしまうがおそらくそうではない。
全て要素なのだろう。
それが分からないと要素還元主義に陥り、方法にこだわってしまう。
要素の中にも「全体」が内包されるフラクタルなものでもある。
要素であり、全体でもある。
脊柱を感じるでは、仙骨から腰椎に移行していく際の感覚が曖昧だ。
大臀筋が下方に滑り込ませる操作すると腰椎が床にしっかりとつく。
自分の課題は首の緊張だろう。ここに非常にクセがある。
二人一組での検証では、立位で後ろから抱えられた状態から、脊柱を下から順番に一つ一つ感じていく事で、相手の腕から抜けるというような感じで行った。
首の緊張がとれていると、脊柱を感じることが出来る。
いや違う。脊柱を動かそうとすることで首が緊張していたのだろう。
もっともっと厳密に。 それほど身体は繊細なのだ。
肘の操作は、肘の一点を動かす。
「肘」という言葉で、肘を動かすことは出来ない。
というのも、一般的に我々が肘だと思って動かしているのは、漠然とした肘だからである。
肘を操作動かせているかどうかは、相手に前腕を押さえてもらうことで検証する。
肘が動かせていれば相手に伝わっていくが、それ以外は全て相手に衝突する。
肘の一点を、どの方向に動かすのか。
それは自分の肘の構造、相手との関係の中で決まる。すなわち、自由ではないのだ。
自由だと感じるのは、そう思っているだけだろう。
思うでは、身体は動かない。
先生が言うように、感じるに裏付けされた動きは高級品だ。
なかなか手に入れられるものではない。
しかし自分との違いを明確に示してくれるからこそ、取り組む意欲が引き出される。
なぜならそこにワクワクと同時に、落胆も混じっているからだ。
自分にとって自分の身体は一生遊ぶ事の出来る最高の道具なのかも知れない。
ただいつになったら自分のいうことを聞く身体になるのだろうか。
それは自分のいうことを聞く身体になった時に分かるのだろう。
<表現塾②>
・握手と正面向かい合い
・相手に歌を届ける。聞く。(ここはどこの細道じゃ/天神様の細道じゃ)
・相手の流れに乗る(腕をふってリズムをとっている相手の流れをつかむ)
・相手と歩調を合わせてからの「ストップ!」
今回の表現塾では、握手を行った。
手を握り合う。そこにも関係性は生まれる。
一般的に握手は前向きなイメージがある。しかしながら、その握手で相手に不快感を与えていたら・・・ そう思うとゾッとする。
しかしながら現実は厳しい物だった。
握手をすると、力が弱まるといった現象が生じるのだ。
なぜだろう。
入り方が悪かったのか? 触り方? 正面が取れていないから?
ここから煮詰まりに拍車がかかる。
どのワークに取り組んでも、方法ばかり考えている自分がいる。
そして、「場」もそのような感じになっている。
不思議なものだ。
こうやってレポートとしてまとめているから、その時のことを客観視できるが
取り組んでいる最中はもう何がなんだか分からない。
分からないから、色々と考える。
余計におかしくなる。
思考に完全に意識を奪われ、「感じる」がなくなる。
頭がパンパンになってくることだけは感じる。
「煮詰まる」は言葉では表現しがたい苦しさがある。
それは自分自身へのとらわれなのかも知れない。
自分一人で出来る事など何一つないのだ。
<表現塾③>
・正面向かい合い
・正面向かい合いから、リーダーの手の動きに反応し動く
・口パクでの「なまむぎ」
・円になって、皆に口パクで「なまむぎ」
・握手
さて、何を書いたら良いのだろう。
お分かりのように表現塾③も煮詰まり感満載のまま進んでいくことになる。
どのワークに取り組んでも、引っかかる点は同じだ。
「自分は一体何をしているのだろうか。」
今回は、医療従事者同士でワークに取り組んだのだが、皆同じような心境だったと思う。
なせならお互い使用する言葉が、「もっとこうしたら良い」「このやり方はいけない」など
完全に方法論にとらわれていたからだ。
こうなってくると何をどうしようにも進まない。
最後の握手のワーク。
二人が握手をしている姿を見て、「握手できているか」を皆がジャッジする。
こうすればいいのではないか。
ああすればいいのではないか。
ここがおかしいのではないか。
握手している様子をカメラに収めて、皆で検証する。
絵として美しくない。
なぜなのだろう。
それを突破するヒントは和子先生に頂いた。
『握手はなんでするのか。握手がしたいからでしょう。相手と関わりたいからでしょう。
握手をすることが目的になったらダメ。相手と関わることが目的ですよ』
そうか。
相手と握手をしたいと感じるから握手をするのだ。
今回のワークショップの初日に、医師の堀切さんと2年ぶりの再会をした時に
知らぬ間に手が出て握手を求めていたではないか。
その気持ちがお互いにあったからこそ、そこに関係が生まれ、ぬくもりが生まれ
感情の交流が生まれ、感動が生まれるのだ。
今、書いていて泣きそうだ。
あ、涙こぼれた。
最後に堀切さんと握手をしたとき、今まで無機的だったものが急に変わった。
たしかなつながりがそこに生まれた。
それはそれを見ていた皆も感じたようだった。
どうやって表現したらいいのだろう。
今は涙を流す以外にその表現方法が分からない。
後に堀切さんから最後の握手について、コメントをもらった。
「最後の握手は、空間から違ったよ。
パーッと開けたというか、一気に霧が腫れたような感じだった。
また、あれしよな。」
はい。絶対にしましょう!
お互いの成長を誓い、またそれぞれに頑張っていく事を宣言した。
最終日も頑張ってきます!
四日目の気づき。
煮詰まったときの突破口は、間違いなく原点回帰だ。
それは相手と関わりたいという、関係性の中に生きる人間の欲求だ。
そういったことに気づくためにも「煮詰まる」というのは大切なプロセスなのかもしれない。
最終日。
しっかり取り組んできます。
読んでいただきありがとうございます。
それでは。