だれも書かない★ニューヨーク1%未満★

ちょっとした発想の転換で人生が加速度を増していい方向に向かうことがあります。
NYにきて初めて見えたり感じたりしたことをファッション、お金、ライフスタイルから書いていきます!


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コモンるみです。ニューヨークからこんばんは^^




五番街のプラザホテル




今日もたくさんの方にワクワクして
読んでいただいているこちらの続きです。

アメリカのソサエティが熱狂した146年前にアメリカに長期留学した日本女性

過去は振り返ってこそ。146年前アメリカに留学した3人のサムライの娘たちに学ぶ

1871年日本女子として
初めてアメリカの地を踏んだ3人
津田梅子、永井繁子、山川捨松の
大アドベンチャー。
それが、3人が遺した英文の手紙をベースに
著者でニューヨーカーでもある
ジャニスが上梓した
「Daughters of the Samurai」です。





前回は3人のリーダー的存在だった
山川捨松について、
なぜ、彼女がアメリカ人たちに
熱狂的に応援されたのかを書きました。

今日は、アメリカに渡る船の中で
7才のお誕生日を迎えた
最年少の津田梅子のエピソードです。

バイリンガルのみなさんに質問です。

みなさんは二カ国語を
まったく同じパーソナリティで
話せますか?

イエスとおっしゃる方は
実は少ないんじゃないかと思います。

いかがでしょうか。
今日はそんな内容でもあります。




渡米直後の梅子(1871年明治4年)
この年で海のものとも山のものとも
まったくわけが分からない
毛唐が住む鬼が島さながらの亜米利加へ
娘を留学させるなんて。。。
もう二度と会えないかもしれない。
親としてはどれほど辛い決断だったことでしょう。




みなさんも津田梅子の名前ぐらいなら
ご存知の方は多いと思います。

はい、あの英語教育で有名な
津田塾女子大学の創設者です。

7才から17才までを
アメリカで過ごした梅子は
帰国したときは
日本語の読み書きはもちろん
話すこともまったくといっていいほど
できない「アメリカ娘」になっていました。

日本のマナーも忘れてしまい
何より家の中で靴を脱ぐのが
面倒で難儀で仕方がなかったといいます。

粗相を恐れて出不精になり
日本語を理解できない梅子は
どんどん無口になっていきます。

せっかくアメリカで受けた教育も
猫に小判とはこのこと
日本ではなんの役にも立ちません。


教科書で知った梅子のイメージは
生涯独身を通した教師にふさわしい
堅物で無口なコンサバな女性というもの。






本の表紙左から梅子、捨松、繁子



ところが、ジャニスがこちらの本で描き出す
梅子はぜ~んぜん違うのよ。


アメリカに着くやいなや、
幼い梅子は、彼女を
実の子供同様にかわいがってくれた
日本弁務官書記でもあったランマン夫妻に
預けられます。

捨松と繁子は後にニューヘイブンに移動し
その地でそれぞれのホストファミリーに預けられます。

が、その地で二人は隣同士の町に住みます。
当時ニューヘイブンには
イエール大学に留学していた
美男で抜群に頭もいい
元白虎隊(ジャニーズじゃないっての)の
天がニ物も三物も与えた(くどいっ)
捨松の兄、健次郎もおり
3人は頻繁に会って
日本語を話すチャンスがあったのです。

つまり日本語をキャッチアップできる
機会があったのです。

が、梅子だけはジョージタウンに残り
ランマン家の一人娘として
10年以上を過ごします。

そのため最初1度だけ
日本語で両親に手紙を書いたものの
次からの手紙は英語になってしまいます。

梅子は帰国したあとも
ミセス・ランマンが90才で亡くなるまで
マメに手紙を書きます。

そこから知る梅子は、
ぺらぺらおしゃべり好きで
ちょっとスポイルされた
典型的なアメリカの
アッパーミドル階級の女子

という感じだったとジャニス。


捨松と繁子は、ランマン氏の家を訪ね
暖かい暖炉を囲み
梅子が意味もないことを
とめどなくおしゃべりをするのを聞くのが
何よりほっとする時間だったと
語っているほどです。

これなんですよね。

わたしも日本語でならかなりおしゃべりで辛口です。
だけど英語だとなかなかそうはいかない。

特にアメリカに来たばかりのころは
思ったことをさくっと伝えられず
どれだけ苦しい思いをしたことか。笑


でも今思うとそれがよかったんですよね。
夫と知り合った頃、わたしのイメージは
やさしくてニコニコしている控えめな女性
だっていうんだもの。笑

ふふ、今はそのイメージをキープするのが大変。笑


話しがそれました。

日本での梅子は無口で真面目、
ぼくとつな印象。

英語を話す梅子はおしゃべり好き。

これでは本人はどんだけ
ストレスがたまる毎日だったことか。笑

でも、日本語が得意ではないから
身近なところで
知りたくもない
政治の権謀術数が渦巻いていても
聡明で鋭い捨松のように
びんびん感じることがなかった。

それが最終的には
彼女を救ったんですね。



さて、今日は最後に
ジャニスのご著書から知った
教科書では知りえなかった偉人の
ほほえましいエピソードを。

はい、あの伊藤博文です。
大日本国憲法を起草し
内閣総理大臣も務めた偉人です。


梅子たちは1871年、
岩倉具視使節団といっしょに
アメリカにやってきました。
総勢46人平均年齢32才の使節団の中には
岩倉具視他、木戸孝允、福沢諭吉、
大久保利通、伊藤博文など
後の錚々たる偉人たちがいました。

日本のお札になった人が3人もいたのよ。
すごいでしょ。笑




伊藤博文





福沢諭吉




岩倉具視
もう見なくなっちゃったけど。





そんな大人物たちを
沈没するかもしれない
船にいっせいに乗せて
日本を留守にするなんて
今思えばすごいことですよね。

とにかくこうしてアメリカの船に乗って
船旅が始まりました。

女子たちはいきなり船酔いです。

続いて見たこともないものが
食卓に並びます。

これにはみんな辟易し
何も食べられなくなって
日に日に元気がなくなっていきます。

そんな女子たちを心配したのが伊藤博文です。
小さな体ででっかいパーソナリティのこの男は
(と、ジャニス)
部屋にこもりっきりになった
女子たちを訪ねます。

「みんな、大丈夫かぃ?」
「気持ち悪くて何も食べられない」
「そうだろう、そうだろう。辛いだろうとも」
伊藤博文はそういうと
「これを食べて元気になれや」
とみんなに味噌漬けを渡すのです。

「きゃ~味噌漬け!!!!」
と、女子たちは大騒ぎ。

これがきっかけになって
彼女たちは元気を取り戻すことになるのです。




長くなってしまいましたね^^

このお話、続いて
だれも書かなかった永井繁子のこと、
そしてもう一度捨松へと戻ります。

最後には5人の天才たちを育てた山川家のこと
著者ジャニスについても触れたいと思います。


永井繁子のエピソードは
こちらに続きます。
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それではみなさま、
今日もどうぞよい1日を♪



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