今
ブログ開始から3年と少し。
仕事を通して、色々な人に出会い経験してきました。
ひとそれぞれの意見に、あっちへいったりこっちへいったりの時期もありました。
で、結局。
心からぐっと感じていたことに間違いはなかったということ。
日本人でいられること、とても誇りに思えます。
感謝の気持ちでいっぱいです。
災害が、できるだけ少なくてすみますように。
またお会いできます日まで。
ブログ開始から3年と少し。
仕事を通して、色々な人に出会い経験してきました。
ひとそれぞれの意見に、あっちへいったりこっちへいったりの時期もありました。
で、結局。
心からぐっと感じていたことに間違いはなかったということ。
日本人でいられること、とても誇りに思えます。
感謝の気持ちでいっぱいです。
災害が、できるだけ少なくてすみますように。
またお会いできます日まで。
朝何気なくついていたテレビ番組は、
昭和時代の日本のエンジニア、実業家であり第4代経団連会長
土光敏夫さん
についてでした。
彼自身の話も興味深かったのですが、お母様の登美さんの事を今回は簡単に載せておきます。
昭和16年(1941年)、ほとんど独力で橘女学校(現在の橘学苑)を開校された方です。
登美さん、70歳のときの事です
その決意が打ち明けられた晩、家族は母の体を気遣い、思いとどまらせようと説得しました。
登美さんは譲らなかったといいいます。
「自分が亡くなった時に香典をくださるなら、学校の建設費用として、いま生きているうちにください」
そう言って、登美さんは、来る日も来る日も学校の建設資金の寄付を募ってまわったといいいます。
~息子である土光敏夫さんの回想より~
母が女学校の経営を思い始めたのは、昭和14~ 5年ごろからだったと思う。
世は全く戦時色一色に塗り込められていた。
そうした世相に母は危機感を覚えていたのであろう。
「国の滅びるは悪によらずしてその愚による。」
国を救うには、愚に走らせない国民作りが必要で、
そのためには
しっかりした女子を育てなければならない
と考えていたようだ。
それにしても、太平洋戦争の難局の中、わずか半年間で学校を作り上げたことは、驚嘆に値する。
橘女学校の創立のことばは、
一、心すなおに真実を求めよう。
二、生命の貴さを自覚し、明日の社会を築くよろこびを人々とともにしよう。
三、正しく強く生きよう。 というものである。
よく思います。
登美さんのような人達が、生きていた時代に行って直接話を聞かせていただきたいと。
今、日テレで【高校生レストラン】していますね。
このドラマは、三重県多気郡に実際に存在する高校生レストラン
「まごの店」をモデルにしています。
http://jr2uat.net/mago/mago.htm
8年ほど前にオープンしています。
その頃から何度か、食事に行っています![]()
といっても、当初はレストラン目的ではなく
【五桂池ふるさと村】内の池で遊んだり、小さな動物園へ遊びに行って食事はそこくらいしかなくて入った・・・
そんな感じです。
でも高校生たちが本格的なお料理を作ってだしてくれることに感動!
そしてとてもおいしかったことにさらに感動!しました。
何年か経つと、三重県でも有名になってきて少し遅れて到着してしまうと完売で食べられず・・・
ということを何度か経験し、ここしばらく御無沙汰でした。
ほとんどドラマを見る時間もなく、
たまたま今回の【高校生レストラン】の番宣でみんなで腕組みしているところをみて
【まごの店】みたいなユニフォームやなあ・・・
と呑気に感じたのが初、でした。
今はきっと想像もできないくらい賑わいなんでしょうね。
三重は関西弁とも違った方言です。
伊勢弁とも言いますね。
関西に住んでいた頃、関西弁とビミョーに違う自分の話し方がなんだかな・・・と思っていた頃もありました。
不思議なもので今は方言で話しているとほっとします。
そして、改めて三重県ていい。
そう思います。
もしお休みがとれてどこへ行こうかな、て思ったら三重へ是非お越しください。
台風がきていますね。
どうぞ気をつけて週末を過ごしてください。
久しぶりに、のんびりした内容にしてみました。
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