メドックの変遷9 買収劇の上演 | ろくでなしチャンのブログ

メドックの変遷9 買収劇の上演

           メドックの変遷9 買収劇の上演

 

 

メドックの変遷

 

第1話  オランダ人の干拓による葡萄畑の生成 こちらへ

第2話  シャトー取得者、法服貴族について  こちらへ

第3話  1級シャトー所有者の変遷 こちらへ

第4話  1級シャトー所有者の変遷 こちらへ

第5話  2級3級シャトーの現行オーナーの取得年一覧 こちらへ

第6話  4級5級シャトーの現行オーナーの取得年一覧 こちらへ

第7話  ナポレオン法典(民法)による所有権の影響 こちらへ
第8話  相続税法改正による所有権の影響 こちらへ

第9話  1級シャトーに於ける買収劇 こちらへ

第10話  完結 近年のシャトー買収 こちらへ

 

 

第9話 1級シャトーにおける買収劇


 17世紀初頭、オランダ人の力によってメドックの森と沼地は、土地と呼べる広がりを見せ始めます。

 同じ頃、僅かにマルゴー、オー・ブリオン、ラトゥールらのシャトーが、1級シャトーの葡萄畑として、ほんの小さな輝きの炎を灯し始めたばかりでした。メドックが5代シャトー揃ってオープニング・パーティにて市場からの祝福を受けるには、さらに70年以上の年月を要したのです。

 これらの時代、メドックには貴族や政治家、ネゴシアン、銀行家が繁栄と言う名の月桂樹を頂くことが出来たのです。

 繁栄の背中には没落が張り付いています。やがて、繁栄は大きく向きを変え、没落と言う名の使者が現れることとなります。


 

シャトー・マルゴー

 

 所有者ジョセフ・ド・フュメルは1789年のフランス革命において人民の敵とされ、敢え無くギロチンの露と消えた後、シャトーは公売に付せられます。 

 購入者はジョセフ・ド・フュメルの義理の娘、ローラ・フュメルでした。95万フランの大金をかき集め購入します。しかし、彼女にマルゴーを維持するだけの経済的基盤はなく、僅か2年後の1801年に売りに出しますが、買いたたかれ、わずか65万フランでスペイン出身の富豪ド・ラ・コロニラ侯爵が取得します。

 次に、ベルトラン・ドゥアが1802年に取得します。1836 年には銀行家アギュアド侯爵が取得しますが、購入価格は130万フランに跳ね上がっていました。

 次に記録が出てくるのは、1879年で500万フランで銀行家ピレ・ウィルが購入。1921年実業者達による企業連合が買収し、会社組織として運営されていきます。

 メンバーの一員だったネゴシアン、フェルナンド・ジネステ(コス・ディストゥルネルやクロ・フルテを当時所有)及び彼の息子ピェールが長年にわたり株を買い続け1949年に筆頭株主となります。

 

 1973年から1975年のワイン市場崩壊により、1977年にギリシャ人のアンドレ・メンツェロプロス氏に7200万フランに売却(5,500万フラン説あり。)されました。因みにアンドレ氏はパリのワイン販売チェーン店のオーナーでした。 この1977年の売却劇には、アメリカの酒販業者が8,200万フランで名乗りを上げたそうですが、「シャトー・マルゴーをアメリカ人に売ることは、彼等にエッフェル塔やモナリザを渡せと言うことと同じだ。」ということでフランス政府の許可が下りなかったそうです

 シャトー・マルゴーは今もアンドレ氏の手で運営されています。

 

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シャトー・ラフイット・ロートシルト

 

 イニャス・ジョセフ・ヴァンレルベルグの遺産として1868年に競売に付されたシャトー・ラフィットの買収劇は非常に興味深いものがあります。

 既に1853年に、イギリス・ロスチャイルド家のナサニエル・ロートシルト男爵がシャトー・ムートンを取得しておりました。

 フランス・ロスチャイド家のジェイムズ・ロートシルト男爵は、最高のワインであるシャトー・ラフィットをこよなく愛しており、1830年において所有者とされるサミュエル・スコット(実はマダム・ヴァンレルベルグの所有)に対し買収交渉を行い、断られた経緯があります。

 1868年シャトー・ラフイット売却話が持ち上がりました。ジャームズ・ロートシルトは、そりゃー喜んだことでしょう。

 

 しかし、ジェームズ・ロートシルトの前に強敵2人が立ち上がることが予想されました。1人はなんと、ジェームズの甥であり娘婿のイギリス・ロスチャイルド家のナサニエル・ロートシルト男爵。

 世間の噂はこうです。ナサニエルはシャトー・ムートンを15年前に手に入れていたが、1855年格付けでは2級でしかない。   

 ナサニエルがシャトー・ラフィットを手に入れれば、隣どおしの畑だから1つの畑にすれば良い。当然シャトーは全てが1級のシャトー・ラフィツトとなる。と言ったものでした。

 しかし、ナサニエルは競売会場に姿を現すことはなく、シャトー・ムートン・ロートシルトの消滅は実現しませんでした。

 

 もう1人の強敵は、ボルドーのネゴシアン達でした。シャトーの買収劇が繰り広げられている時代にあって、メドック、いやボルドー最高のシャトーが貴族の手に落ちれば、自分たちが築き上げてきた優位性が崩れ去ることになります。

 有名なユダヤ商人であり、資金力豊かなジェイムス・ロートシルト男爵を相手にワインの価格や納入条件の交渉を行う事を考えると、これ以上貴族達のシャトー買収が進む事を食い止めなければなりません。

 ネゴシアン、ムッシュ・ド・グルノンが中心となって共同入札者同盟を結成します。同盟が買収の為にかき集めた金額は600万フランと言われています。

 

 競売方式で行われるシャトー売却、1868年7月20日、その日の朝がおとずれました。会場は黒山の人だかり。ネゴシアン、ムッシュ・ド・グルノンとそのグループも、黒革の鞄を携えたジェイムス・ロートシルト男爵の代理人の姿も見られます。

 会場で、おもむろに最低落札価格が示されました。最低入札価格450万フラン、併せてカリュアドの葡萄畑25万フラン。計470万フランの最低入札価格提示です。

 

 ここでネゴシアン達が声をひそめ、頭を付け合わせ初めます。470万フランには同年収穫されるべき葡萄が競売対象物件に入っていないのです。いまだ収穫されていない葡萄ですので対象に入らない。と言うより、ヴァンレルベルグ家がそのような条件での競売にかけたと見るべきでしょう。さらに、落札価格に対し税金、競売経費が発生します。

 

 対するジェイムス・ロートシルト男爵の代理人は、リミット1,000万フランの権限を有して、競売会場に臨んだと言われています。

 しかし、ジェイムス・ロートシルト男爵の代理人の黒革の鞄は開けられることも無く、入札箱には1枚の入札札も入ることはありませんでした。

 

 1868年8月8日、2回目の競売会場はパリでした。前回、470万フランの最低入札価格提示で応募者がいなかったため、当然最低入札価格は下がります。

 第1回競売の時、ジェイムス・ロートシルト男爵の代理人は共同入札者同盟が入札に応じれないと見てとって、落札せずに、次回最低入札価格が下がるとの強い確信があったものと思われます。

 この嗅覚は代理人が有していたのか、ジェイムス・ロートシルト男爵の入念なる事前指示によるものかは明らかではありません。

 

 最低入札価格は、ラフィットは300万フラン、カリアド・ラフィットは25万フラン。価格がそれぞれ提示されたと言いますから一括競売では無かったようです。シャトー・ラフィットは150万フラン減額での提示です。

 競売は多くの競合者が現れましたが、最後に黒革の鞄から取り出された入札札で落札されました。

 

 シャトー・ラフィット414万フラン、カリュアド・ラフィット30万フラン。税金と手数料(競売経費)40万フランの合計484万フランを支払い≪ボルドーの無冠の帝王≫シャトー・ラフィットを手にしたのは、重症の身でベッドに横たわるジェイムス・ロートシルト男爵でした。

  カリュアド・ラフィットは、秀逸な畑であり現在シャトー・ラフイットの一部となっており、セカンド・ラベル名にもなっています。

 

注 落札価格については、444万フランと450万フラン説があります。


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閑 話 

 

 1800年初頭のフランス革命 1830年以降の大不況、1851年から1853年までのウドンコ病発生といった時代、メドックのブドウ栽培農家達の所有関係は大きく揺らいだ時代でした。

 不況によるワインの販売不振による経済的ダメージの蓄積、決定的要因はウドンコ病の発生でした。

 収穫量の激減、病気駆除に支払った農薬代の支払いに窮した古くからの農場主たちは、葡萄畑を手放さなくてはならなくなりました。

 新たな所有者となったのは、ボルドーには縁もゆかりもない銀行家や金持ち貴族たちでした。

 1853年には41万3千フラン(42万5千フラン説もあり)でシャトー・パルメはイザー・ペレール兄弟(鉄道所有)が取得しています。シャトー・ムートンを後に取得するナサニエル・ロートシルトのライバルです。


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シャトー・ムートン・ロートシルト

 

 セギュール家が所有していた広大な畑が分割され、その中の1つクリュ・ムートンの畑をジョゼフ・ド・ブラーヌ男爵が取得していた様で、少なくとも1725年以前だと言われています。畑名はブラーヌ男爵がブラーム・ムートンと改名したようです。

 1830年パリの銀行家イサク・トゥレに120万フランで売却されます。しかし、イサク氏はこの畑の経営には熱心ではなく、葡萄畑も荒れ果て、1851年ウドン病の発生により大打撃を受けたため、ついに手放すこととしました。

 

 購入したのは、ナサニエル・ロートシルトです。イギリス国籍のナサニエルは、後にシャトー・ラフィットを取得する叔父ジェームズ経営銀行の手伝いをしていた時期があり、かつ、ジェームズの娘シャルロットと結婚していました。

 叔父ジェームズが大のワイン好きであり、シャトー・ラフイット購入を切望していたことを熟知していたにも拘らず、隣のシャトー・ムートンを秘密裏に1853年取得しました。買収価格は112万フランと言われています。

 購入の動機は、叔父を出し抜くといった感情と鉄道経営でライバルだったペレール兄弟が同年シャトー・パルメを購入していたことも要因と言われています。

 以後、御存知のとおりイギリス・ロートシルト家が所有しています。

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シャトー・ラトゥール

 1595年アルノー・ド・ミュレが葡萄畑を取得しラトゥールのスタートが切られたと言われています。

 アレキサンドル・ド・セギュール候が(妻の婚資として)葡萄畑を取得して後、1695年頃にワインの名声を勝ち得始めたようです。

 アレキサンドル・ド・セギュール候は、1716年にはシャトー・ラフイットも取得します。アレキサンドルの息子マルキ・ニコラ・アレキサンドル・セギュール公爵は、1718年にはシャトー・ムートンとシャトー・カロン・セギュールも取得します。

 

 つまり、ラフイット、ラトゥール、ムートン、カロン・セギュールを所有する一大帝国を築いていたのです。

 

 この時代、シャトー・ラフイットとシャトー・ラトゥールは明確に区分けされていなかった様です。この点については少し説明が必要でしょう。シャトー・ラフイットはポイヤック村のサンテステフ寄り、つまり北端に位置し、シャトー・ラトゥールはポイヤック村の南端、サンジュリアン村近くに所在します。

 位置的には離れた地所ですが、ラトゥールという畑もシャトー・ラフイットの一部という認識であったものと思われます。

 

 シャトー・ラトゥールが、シャトーラフィットから完全に分割され、独立したシャトーとしてシャトー・ラトゥールを名乗るのはマルキ・ニコラ・アレキサンドル・セギュール公爵(別名葡萄の王子とか)が死亡した1755年とされています。

 「我、ラフィットとラトゥールを有せしが、心カロンにあり」の名文句からすると、それぞれ独立したシャトーとの認識でしたが、マルキ・ニコラ・アレキサンドル・セギュール公爵が述べた 我、ラフィットとラトゥールとは 畑名としてのものだったのでしょう。

 セギュール家は、シャトー・ラトゥールを永きに渡り守り抜き、1842年にフランス最初の農業民事会社へと法人成を果たします。

 

 しかし、時代の波は伝統あるラトゥールにも襲いかかります。ついに1963年(62年?)にはイギリスのファイナンシャル・グループであるピアソン・グループ(ド・ボーモン家)が53%の株を取得し筆頭株主に躍り出ます。当時の買収価格は300万ドルと言われております。

 また、同じくイギリスのアライド・ライオンズ・グループ(リヨン同盟)が25%の株式を所有していましたが、1989年ピアソン・グループが有する53%の株式はアライド・ライオンズ・グループ(酒類企業)によって約11億ポンドで買収されます。同社はセギュール家の相続人の元に残る7%を除いた93%の株式を所有し筆頭株主となります。

 

 1993年6フランソワ・ピノーが自身の会社グループ・アルテミスを通して推定8億6千ポンド(1億2600万ドル~1ドル80円として100億8千万円)でアライド・ライオンズ・グループの持ち株を買収しました。

 

 このフランソワ・ピノー氏の買収劇には、シャネルも参加したそうですが、フランソワ氏が一気に買収額を引き上げたようで、シャネル提示額より200万ドル上回っていたと言われています。

 シャネルでは「戦っている価格帯が違う。」と述べたそうです。

対して、新オーナー、フランソワ・ピノー氏は

 

 「ラトゥールは楽しみのため買った。世界に一つしかない芸術品。価格は付けられない。」

 

と述べられたそうです。ちなみにピノー一族の資産は76億ドル(1ドル80円として6,080億円!!)

 

 30年にわたるイギリス資本による経営を終えたシャトー・ラトゥールは、再びフランス資本となり現在に至ります

 

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シャトー・オーブリオン

 

 畑は1509年、かのジャン・ド・セギュール~Jean de Ségur が購入したとされていますが詳細は不明です。ボルドー市長であったペロン氏の所有となり、娘の婚資(持参金)としてジャン・ポンタックにもたらされます。以後ポンタック家の時代が長く続きます。

 1801年フランス革命により、外相タレーランに売却され、1804年から1836年はオー・ブリオンの所有者が次々と代わり、1836年銀行家ジョゼフ・ウージェーヌ・ラリューが競売で取得します。

 

 1935年5月13日、ニューヨーク最大の財閥クラレンス・デュロンが230万フランでシャトーを買収しました。この買収に関して様々な逸話が残されており、シャトー・マルゴーの大部分や、35㎞先のシャトー・オーゾンヌ、シュヴァル・ブランを買いに行ったつもりが、当日は霧の深い寒い日だったので、リムジンから降りるのが面倒で、たまたま通りすがりのオー・ブリオンを買ったと言われています。金持ちの話の誇張として作られたものと思いますが、オー・ゾンヌはボルドー市街に隣接しており、交通の便や乗馬施設の充実した地区であり、狩猟も楽しめるといった点が選定の理由のようです。

 

 シャトー・オーブリオンは今もドメーヌ・クラランス・ディロンSAの所有となっています。
 

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