『ヘンリー&ジューン 私が愛した男と女』 | やりすぎ限界映画入門

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ダイナマイト・ボンバー・ギャル @ パスタ功次郎

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■「自称 “本物” のエド・ウッド」


■『ヘンリー&ジューン 私が愛した男と女』
やりすぎ限界映画:☆☆☆☆★★★[95]

1990年/アメリカ映画/136分
監督:フィリップ・カウフマン
出演:マリア・デ・メディロス/ユマ・サーマン/フレッド・ウォード/ケヴィン・スペイシー

1991年 第7回 やりすぎ限界映画祭
1991年 ベスト10 第5位:『ヘンリー&ジューン 私が愛した男と女』
やりすぎ限界女優賞/やりすぎ限界監督賞/やりすぎ限界脚本賞:『ヘンリー&ジューン 私が愛した男と女』

D.B.G.生涯の映画ベスト100
第41位:『ヘンリー&ジューン 私が愛した男と女』


[ネタバレ注意!]※見終わった人が読んで下さい。



やりすぎ限界女優賞:マリア・デ・メディロス


やりすぎ限界女優賞:ユマ・サーマン


[「パンスト」「ニーソックス」「ガーターベルト」]



俺は「パンスト」「ニーソックス」「ガーターベルト」がないと生きれない。俺の「生きるためのエネルギーの全て」かもしれない。なぜここまで自分が「パンスト」「ニーソックス」「ガーターベルト」に魅せられるのか? もはや自分自身で理解できない。俺が背負って生まれた「運命」。あるいは「本能」「業」か? 初めて「パンスト」を意識したのは高校生の頃だった。「好きな女の子」の「パンスト」を見て「欲情」した。

[「こういう映画」そんなの「関係ない」]



『ヘンリー&ジューン 私が愛した男と女』は、1934年に小説『北回帰線』を発表したヘンリー・ミラー(フレッド・ウォード)の「実話」を基にした映画。猥褻な「性」表現からアメリカで発禁となった『北回帰線』がどのようにして書かれたかを見せる。その時のヘンリー、妻のジューン・ミラー(ユマ・サーマン)、愛人のアナイス・ニン(マリア・デ・メディロス)の関わりを書いた、アナイスの「日記」が映画化された。



映画は「作家」という人間がどんな人間かを見せてる。これは「映画監督」も同じ。読者、観客を「共感」させるには「嘘」は書けない。「嘘」は絶対バレる。「共感」のために必要な極限のくそリアリズムの重要性。「嘘」を書かないための「一番確実な方法」は「自分が本当に体験」することだ。



「面白いことを書くため」なら何をしてもいいのか? アナイスとヘンリー達「作家」が自分の作品を書くため人間の道を踏み外す。「浮気」という自覚さえない「性」の開放。「欲望」剥き出しで「やりまくる」「官能の世界」を見せた。だがそれによって傷つく人間がいる。「酷ぇ話」だ。人間は人が傷つくことをしては絶対いけない…………。

本当は「こういう映画」なのかもしれないがそんなの「関係ない」。俺は今も『北回帰線』を読んでない。

[『北回帰線』なんか知らない]



『ヘンリー&ジューン 私が愛した男と女』を初めて映画館で観たのは21歳の時。以来この記事を書くまで約25年間「2回」見てない。わずか「1回」しか見てない映画を今まで忘れてない「衝撃」。1回しか見てないのに、冒頭でアナイスが初めて見せる「悩殺ストッキング」、そして「椅子の上の騎乗位」を「完全に覚えてた」。俺にとって『北回帰線』などもうどうでもいい。今でも『北回帰線』なんか知らない。



なぜ忘れられなかったのか? 『ヘンリー&ジューン 私が愛した男と女』こそ俺を「性」に目覚めさせた映画だ。高校生で「欲情」した「パンスト」。「パンスト」とは何か? アナイスとジューンの「悩殺ガーターベルト」を見て、自分が「どこに向かって生きたいか」を理解した。

[俺の「性」への目覚め「悩殺ガーターベルト」]



高校生の頃から「パンスト」への「欲情」を感じながらも、「生きるためのエネルギーの全て」までの自覚はなかった。だがアナイスとジューンの「悩殺ガーターベルト」を見て、自分自身が知らない自分を理解した。俺にとって「パンスト」「ガーターベルト」こそが、当時はなかった「ニーソックス」も合わせ、「女性」の「極限の美」を「限界まで表現」するため、絶対なくてはならない最も重要な存在であることを理解した。



「悩殺ガーターベルト」が高校生で「欲情」した「パンスト」を超えた。「圧倒的」だった。アナイスやジューンのような “極限ダイナマイト・ボンバー・ギャル” が身に着ける「パンスト」「ニーソックス」「ガーターベルト」ほど、俺にとって「この世にこれ以上美しいものがない」こと。「極限の美」が何かを「強烈」に「自覚」した。



そしてアナイスとヘンリーが到達する「椅子の上の騎乗位」。「悩殺ガーターベルト」を着けたままの「圧倒的なスローモーション」。俺はその「美しさ」に「雷」に撃たれるほどの「洗礼」を受けた。「俺もこうなりたい」……。自分が「どこに向かって生きたいか」。何が自分の「生きるためのエネルギーの全て」かを「決定的」に「自覚」した。

[マリア・デ・メディロス=ザ・ダイナマイト・“ど”・エロ]



「マリア・デ・メディロス=ザ・ダイナマイト・“ど”・エロ」。俺に「ガーターベルトが何かを教えた女性」。25年間の時を超えて見直しその “本物” の「衝撃」に震撼した。



「瞬殺」。冒頭のバレエスタジオで見せた「悩殺ストッキング」からもはや「限界」だった。「25年間忘れられなかった衝撃」。さらに「衝撃」の「全裸」「極限の美」は、もはや「マリア・デ・メディロス=ザ・ダイナマイト・“ど”・エロ」という言葉以外思いつけない。「パンスト」「ニーソックス」「ガーターベルト」がこの世に存在する「理由」「意味」を学ぶ以外もはやなす術はなかった。



だが『ヘンリー&ジューン 私が愛した男と女』の「衝撃」は、「マリア・デ・メディロス=ザ・ダイナマイト・“ど”・エロ」だけで済まなかった。

[激突「マリア・デ・メディロス」対「ユマ・サーマン」=「悩殺ガーターベルト」対決]



「マリア・デ・メディロス=ザ・ダイナマイト・“ど”・エロ」と「激突」するもう一人の “極限ダイナマイト・ボンバー・ギャル” 「ユマ・サーマン=ザ・ダイナマイト・“限界”・スレンダー」との「対決」。「官能の世界」の存在。「ガーターベルト」が何かを「これでもか」と叩きつける。



『やりすぎ限界映画』とは?[定義⑤]『恋愛映画における女優の私見』において、僕はマリア・デ・メディロス&ユマ・サーマンの二人と結婚したいと “本気” で思った。もはや「二人のどちらと結婚したいか決められない」ギリギリの精神状態まで追いつめられた。『ヘンリー&ジューン 私が愛した男と女』は「もうこれ以上美しくマリア・デ・メディロス&ユマ・サーマンを撮れない限界点に到達してる映画」。何と恐ろしい映画……。「パンスト」「ニーソックス」「ガーターベルト」がないと生きれない「性」への目覚めを「21歳」の時「自覚」した。




画像 2016年 12月