昨日は、凄い気付きがありました。

けれども、それを説明するには、

文章が膨大になりそうで…

どこから話せばいいのか…と、

ちょっと途方に暮れています。

 

最近は、数字での啓示が多くなったこともあり、

このことは非常にいいことだと思っています。

例えば、私は『日月神示』は、ほぼ読んでいないのですが、

その『日月神示』のウィキペディアに、以下のような文章があります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

(前略)

また、日月神示はそのほとんどが数字や記号で書記されているが、

その理由を神霊自らが神示の中で

「高度の霊人となれば文字はない。

ただ文字の元をなす「レ」と「〇」と「+」があるのみ。

また高度の霊人の文字として、

ほとんど数字のみが使用されている場合もある。

数字は、他の文字に比して多くの密意を蔵しているからである」

(二日んの巻第十三帖)

「天人同志の文字は数字が多いぞ。

天人の言葉はマコトであるから、ただ一言で万語を伝え得るぞ。」

と「星座之巻」第十八帖、第十九帖で述べている。

同様なことは18世紀の巨大な科学者にして政治家であり、

また、その後半生は霊能者として有名なスェーデンの貴族である

E.スウェデンボルグも天界探訪の事を記した自身の著作で(参3)

「天人の文字は数字が非常に多かった。」

と書いていて興味深いものが有る。

日月神示より以前に他で出された神示類ではこのようなことは見られず、

神霊が「今まで他に出て居たのは皆、神示先(ふでさき)ぢゃ。

ここは神示(ふで)ぢゃ。キの神示ぢゃ

(カゼの巻第六帖、第七帖)と書記させている。

 

(中略)

 

日月神示には霊界についての記述も多く見られるが、

特に「二日んの巻」(ジシンの巻)や「龍音之巻」は、

ほとんどがこれらについての記述である。

そのなかでも、我々が住んでいるこの現界と関係が深いと思われるもので

主なものを以下に箇条書きで記す。

  • 広く霊界といっても神界幽界に大別され、神界は天国霊国に分けられ、幽界はそれぞれ、陽界と陰界に分けられる。
  • 天国には天人が、霊国には天使が住み、幽界は陽界には陽霊人が、陰界には陰霊人が住んでいる[17]
  • 幽界は人間界(現界)と最も深い関係にあり、初期の神懸かりの殆んどはこの幽界からの感応によるものであるから注意が必要である。
  • 幽界は本来は無いものであるが、人間の地獄的想念が生み出したものである。
  • 高度の霊がただちに肉体人に感応することはなく、それぞれの段階を経て感応するものであることを忘れてはならない。
  •  目に見えぬ所からの通信は高度のものほど肉体的には感応が弱くなり、暗示的なものになる。下級霊は現実界と紙一重の所に住んでいるため、その感応は極めて強く人間の目にはいかにも、もっともらしく映るのでこれも注意が必要である。
  • 高度なものはその人間の心(精神)に応じてそれと同一波長の神霊に伝達され、その神霊の感応によって表現される。
  • 下級霊が懸かった霊媒の態度や所作、動作、言動は高ぶったり、威張ったり、命令したり、断言したり、高度の神名を名乗ったりするものであるがこれらは良く見極めれば判る。
  • 特別の使命を持つ天使は、最下級の霊界まで降って来て人間に特別な通信をしたり、指示したりすることがある。また天使の霊が母体(母胎)に宿り人間として生まれて来ることもある。末世にはこの種の降誕人が沢山ある。
  • 特別の使命を持つ天使は別として、人間霊以外の霊で人間に憑依するのは、日本を例にとれば天狗仙人などが大部分である。
  • 先祖霊に化けて何かを企てる動物霊が多いから注意を要する。動物霊が祖先のことを知っているのは、その憑依の対象となる人間の肉体霊(その人間の想念や考えていること)[18] の知っていることを、直ちに知り得るからである。
  • 動物霊が人間の言葉を使うのは不可解にも思えるが、それは例えれば、他人の家に入り込んでそこにある道具類をそのまま使うのと同じ道理である。動物霊でも他の霊でも人間に感応したならば、ある程度その人間の持つ言葉を使いこなせる。日本人に感応すれば日本語を、米国人ならば英語を語ることが出来る。
  • 基本的に下級霊や動物霊は人間に感応はするが肉体の内部までは入り込めない。しかし、感応の度が強ければ入ったと同様に見える場合がある。
  • 例外として人間の魂と動物の魂が入れ替わっていることもある。こうした場合は肉体に入り込んだと考えて良い。例えばそれが狐なら狐の様相を露呈するから、すぐ判るが悪行を積んだ霊などの場合は、その時代時代に合わせて化けているので見破ることがなかなか難しい。
  • 人間霊の場合でも或種の霊は、自分自身が高度な神界に住んでいると誤信しているものがいるが、こうした霊が感応した場合は自信をもって断言する場合が多い。人間の知らぬ世界のことを自信を以って強く告げてくるので、判別は困難で多くの場合、審神者は参ってしまう。
  • 仙人というのはどんなに高度に見えるものでも、幽界に属す。なぜなら、仙人界には戒律があるからである。神界には戒律はない。真の宗教に戒律はないのである。戒律がある宗教は亡びる。しかし、神界にも仙人的な存在はある。
  • 竜体(竜神と思われる)を持つ霊は神界にも幽界にもある。竜体だからといってそれらが全て神界に属すると思うのは誤りである。
  • 先祖霊が出る場合は、何か頼みたいことがある場合が多い。浄化した高級霊ともなれば、人間の肉体に判るような感応はほとんどない。
  • 先祖は現界に住んでいる肉体人を土台として修業するものである。また、同様に霊界に於ける自分は先祖との交流や交渉は深いものである。その先祖は神界に属する場合と幽界に属する場合とがある。神界に属するものは正流を通じて、幽界に属する場合は外流を通じて、肉体人の子孫にそれぞれ感応して来る。
  • 下級霊や動物霊の場合は「酔いどれ」のように箸にも棒にもかからないことを言ってくる。霊の要求だからといって、そのまま受け入れるのではなく、よく判断した上で処理しなければならない。
  • 霊眼で見たり霊耳で聞いたりすることは間違いが多い。霊耳は耳をふさいでも内から聞こえてくる。また、霊人と語るのは非常に危険である。
  • 物を見るのはで見ることが重要である。額の目に見の誤りはなく、額の判断に間違いはない。また、正神からの感応は額から入り、顔面全体に及び、やがては身体全身に及んでいくものである。逆に、悪の霊が懸かった場合は肉体の背後や首すじなどから感応し、肉体の「みぞおち」あたりに集まり、そこで頑張るものである。
  • 霊覚者や行者の中には奇跡的なことや非常識な行動をする者がよくいて、一般人はそれに騙されることがよくある。これらは、いずれも下級霊の仕業である。
  • 正神には奇跡はない。高級霊は態度が立派である。
  • どんな下級霊であっても、その霊を馬鹿にしてはならない。馬鹿にすると反射的に審神者を馬鹿にして始末に負えないことになるので思慮が必要である。特にその霊が病気に関連をもっている場合は微妙である。霊には常にを持って接し、柔らかく持ち掛け良い方向に導いて行こうとする努力が大切である。霊の邪道的要求を受けて一時的に病気を治すと、それに倍になってぶり返すものである。
  • 悪霊自身は自身を悪だとは思っていない。
  • 霊的良識は神示や神典類によって、また体験によって養われる。さらには高度の科学書も参考になる。
  • 人間界(現界)のことを良く知っている霊は人間界を去って間もない霊か地上世界に長く住んでいた動物霊か、人間に憑依していた霊である。
  • 神の守護というのは人間からは全然判らないものである。判る様な守護は低い神や悪神の守護である。悪神でも大将ともなればその守護は人間には判らない[22]
  • 日本には日本の守護の神、中国には中国の、外国には外国のそれぞれの守護の神がいる。
  • 今の人間は9分9厘は幽界との繋がりを持つから、よくよく自分自身を審神し反省する必要がある。
  • 霊媒を通じてこの世に呼びかける霊の9分9厘は邪霊である。今後は更に激しくなる。
  • 少しでも、怪しいと思った場合はそれが神の言葉でも裏表の見境もなく闇雲に信じてはならない。例え神の言葉でも自分で一応考えて、審神することが重要である。
  • 悪神が懸かった時は自分では偉い神様が乗り移ったと信じ込む場合が多い。それは自分の天狗のような高慢な心が原因である。
  • 我は「天照大御神」などと名乗る霊にろくなものはいない。こうした霊に憑かれた人間は例外なく大言壮語するものであり、眉唾ものである。
  • 幽界霊も時によっては正しく善なることを言うが、それはただ言うだけである。例えるなら悪人が口先だけで善を語るようなものである。
  • 良い言葉ならば、たとえ悪神が語ってもいいのでは?とも思えるが、それは理屈である。真の善言や真言は心、言葉、行ないが一致しているから直ちに力を持つが、それらが一致していないと力は出ないのである。言葉の上のみ同一であっても例えば、同じ「はい」という返事でも喜びの時と不満の時とでは違うように、偽りの言葉は落ち着いて聞けば判るものである。
  • その人間の心に相応した神しか拝めない。悪い心で拝めば、どんなに立派な神前でも悪神が感応する。逆に悪神を拝んでも正しい愛や喜びがあり、善い念が通じるならば悪神は引っ込んでそれぞれの善い神が現れる。
  • 2重3重人格というのは2重3重の憑き物の転換によるものであり、群衆心理とはその時の一時的な憑依霊達の仕業である。また、流行病のほとんどが邪霊集団の作用や仕業によるものである。
  • 霊人には何でも判っているとか神懸りで世界のことが何でも分かると思うのは大きな間違いである。
  • 人は死ぬ時の想念がそのまま続くので、その想念に応じた世界に住むことになるのである。この世を天国として暮らしていた人は天国へ、地獄と感じて生きていた人は自ら地獄的な想念を作り出してそのような世界に住むことになる。
  • 神界より真っ直ぐに感応する想念が正流である。幽界からや幽界を経て流れてくる想念が外流である。
  • 神的自分が本守護神であり、霊的自分が正守護神である。また、幽界的自分が副守護神である。本守護神は大神の歓喜である。
  • 偶然の真理を覚ることが大切である。この世に偶然というものは、ひとつも存在しない。高い所(神界、天界)から来るから人間には偶然や奇跡と見えるのである。神からの現われであり、その手順が現界の人間には全く分からないためにそう見えるだけである。これが判れば大安心、立命である
  • 人間の肉体は最底部をなすものであるから、肉体的動きの以前において必ず霊的動きが有る。また、肉体的には小さな行為であつても霊的には大きな意味や働きをしている場合が多い。
  • 天界で起こった出来事は必ず現界にも起こる。しかし、その時の現界の状況にもある程度左右され、早くなったり逆に遅くなったりする場合がある。また、時によっては順序が違う場合もある。
  • 天人や天使の行為が人間にうつるのであるが、逆に人間の自由や能力の如何によっての行為も天界や霊界に反映する。日本や外国では土地が違うように天界へのうつり方も違うのである。
  • 悪いこと(天災戦争や世の中の騒動や混乱など)を待つ心は魔の心である。いつどこにそれらが来たり、起ったりするのかと待ち望んでいるような心は悪魔に使われているのである。

(後略)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

上記の中で、

「高度の霊人の文字として、殆ど数字のみが使用されている場合もある。

数字は、他の文字に比して多くの密意を蔵しているからである」

「天人同志の文字は数字が多いぞ。

天人の言葉はマコトであるから、只一言で万語を伝え得るぞ。」

と、このように語られており、

また、

「霊眼で見たり霊耳で聞いたりすることは間違いが多い。

霊耳は耳をふさいでも内から聞こえてくる。」

 

「物を見るのは額で見ることが重要である。

額の目に見の誤りは無く、額の判断に間違いは無い。

また、悪の霊が懸かった場合は人間の“みぞおち”に集まり、

そこで頑張るものである。」

とも説いています。

 

よく、

「心の中(←みぞおち部分でもある)で声が聞こえる」

という場合、それは何となく霊験あらたかな感じがして、

神様からのメッセージだと思われがちなのですが、

上記にあるように、

「悪の霊が懸かった場合は人間の“みぞおち”に集ま」っているのです。

 

“みぞおち”や“ハート”あるいは“心”の中に居る存在全てが悪霊とは限りませんが、

ハイヤーセルフなどはそうしたみぞおち・ハート・心の中には居ません。

この教えは、覚醒している方から教えていただいた内容で、

覚醒している方曰く、ハートの部分だと、

それはまだ「低い霊」「低い存在」が見せたり、語っていたりしているのだそうで、

ハイヤーセルフなどの高次の存在は、身体でも別なところに居るのですが、

その場所をネットなどで公開しないように――と言われました。

 

そして、上記のウィキペディアの『日月神事』の中で、

「その人間の心に相応した神しか拝めない。

悪い心で拝めば、どんなに立派な神前でも悪神が感応する。

逆に悪神を拝んでも正しい愛や喜びがあり、

善い念が通じるならば悪神は引っ込んでそれぞれの善い神が現れる」

と、あります☆

 

ですから、どこかの神社へ行き、

そこが例えばスサノオノミコトを祀っている神社だとしまして、

そこの拝殿で拝んだ時に、目には見えないが語り掛けてきた存在がいるとします。

普通であれば、スサノオノミコトを祀る拝殿で拝んでいるのだから、

その語り掛けてきた目には見えない存在はスサノオノミコトである――と

早合点してしまいますが、

「拝んでいる人間の心に相応した神しか拝めない」

という法則があるので、

スサノオノミコトの神社で参拝したから、語り掛けてきた存在はスサノオノミコトである

という方程式にはならないということです×××

 

上記の内容で、いい例があります。

それは出口王仁三郎氏のお孫さんの出口和明(やすあき)氏が、

1968年から執筆を始めた『大地の母』というタイトルの歴史小説(つまり実録)の中の

「第7巻『火水の戦』 鞍馬山出修」というタイトルの中で、

以下のような記録があるのです。

 

大本教の教祖の出口なおのお筆先に、

「――ここまで世に落ちておりて、今度世の変わるについて、

もう一度出口にご苦労にならねばならぬぞよ。

……三人。も一人つれて行きたいなれど、

まず評議の上にいたさなならんぞよ。

誰でも行くということはできんぞよ。

来春と思えども、それでは神が現われるのがおそくなるから、

今年のうちにご苦労になろまいかも知れんぞよ。」

という内容が示され、続いて、

――こんどの実地の神の仕組てある所は、

変性男子と女子より行かれんぞよ。

澄子と春蔵と二人は修行のためじゃ。

皆々のために神が連れまいるのじゃ。

それを見て改心をなされよ。

世界のかがみの出る元であるから、

みなかがみに出さすのざぞよ。」

というお筆先が示されたことで、

出口なおは、出口王仁三郎と、その妻で教祖の三女でもある澄子と、

澄子と結婚を望んでいたが王仁三郎の出現によって、その願いが絶たれたことで、

王仁三郎を憎んでいる春蔵(19歳)という大本教の信者の合計4人で、

「八木の福島をさして行け、次に指図をいたす」との神示を受けて、

明治33年10月1日、修行の旅に出るのです。

 

旅の途中、王仁三郎氏が小川で口をそそぎ、手を洗い、

神前に祈願をすると、神がかりとなって以下の歌を詠みます。

 

 世の中の人の心のくらま山  神の霊光に開くこの道

 

という事で、旅の行き先は「鞍馬山」であることが示され、

一行は鞍馬山に向かい、幾つかの神社や寺を参拝した後に、

鞍馬寺に着きます。

 

そこで春蔵がおみくじを引き、それを見た春蔵は、

おみくじを引き裂いて捨ててしまうのですが、

旅の途中で同行者となった福林という男が、

春蔵の捨てたおみくじを拾って、裂け目を合わせると、

 

「大凶。命危うし。」

 

と、書かれていたのでした。

直、王仁三郎澄、福林が皆「大吉」であったのに対して、

春蔵だけが「大凶」が出たのでした。

(因みに現在?は、おみくじは12番までで大吉と吉しか無いと書かれています)

 

その後一行は、鞍馬寺の奥の院の魔王殿の裏の縁の下で野宿をするのですが、

そこで、春蔵に異変が起きます。

夜中に福林が目を覚めると、隣で寝ていたはずの春蔵の姿がなく、

春蔵を探しに魔王殿の前に出ると、

地底から湧き上がる夜霧の中を、音もなく大きな火の玉が行きつ戻りつし、

その火の玉の尾に巻きつかれた春蔵が、息絶え絶えにうめいていたのでした。

 
福林は、その異様な光景に恐怖のあまり、声も出ず立ちすくんでいると、
火の玉は左右に大きく揺れつつも、次第に杉林の中に消えていったのでした。
腰が抜けそうになりながらも福林は、その火の玉の後を追うと、
杉林の外れに火が燃えていて、
そこには春蔵が一人ぽつねんと焚き火にあたっていたのでした。

 

そこで、不思議に思った福林は、

「春蔵はん……どうしたのや、今のは」
震える声で言葉を掛けると、
春蔵は笑おうとするものの、醜く歪んだ顔を上げながら、
「見たかい、あれを……見たんやったら、何もいわんといとくれいな」
と語ると、まるで幽鬼のような顔をして春蔵は笑ったのでした。

 

そんな春蔵を心配した福林は、

「春蔵、教祖さまのところへ行こう」
と言い、満身の力をこめ、勇気をしぼって、
氷のように冷たく、石のように重かった春蔵を抱き上げると魔王殿の前を抜け、
直の傍に戻ったのでした。

 

*****

 

そんな鞍馬山の出来事があった翌月の11月のある日、

福林は王仁三郎氏の命を受けて、病に伏せている春蔵の所へ見舞に行き、

伏せている春蔵に、
「みんなひどう心配しとってやで……」
とやさしく声を掛けるものの、春蔵は頑なに背を向けて黙っていたので、
「それでは春蔵はん、お大事に……」
と、福林は声を掛けて立ち上がり、
敷居のところでふと、春蔵の方へ振り返った時、
病床から帰る福林を見つめている春蔵の姿があったのでした。
そんな春蔵の顔を見ると、頬はこけ、目はくぼんで、見る影もなく老け込んでおり、
力のなくなった目からは涙がこぼれ落ち、
 
「すまんかった。わしはもうあかん。教祖さま……先生にも……そう伝えとくれなはれ」
 
と、福林に声を掛けたのでした。
福林は枕元に戻って、震えている春蔵の細くなった手を握りしめ、
 
「何いうとるんや。これからが花のあんたや。まだ19歳の小僧っ子やないかいな。
なした年寄りみたいなことを……」

 

と言うと、春蔵はしゃがれた声で、

 

「恐かった、恐かった……年とってしもうた、一遍に……」

 
と、語り、
そこで福林は、
 
「鞍馬で何があったんや。あの火の玉は……」
 
と、語り掛けると、
春蔵は、鞍馬山に旅に出る前に起きた不思議な体験を福林に話し、
続いて、(王仁三郎氏の妻の)澄子が好きだったことを語り始めたのでした。
春蔵は、王仁三郎氏の出現以前に澄子のことに好意を持っており、
父親に連れられて大本教へ足を運ぶのも、
それは神様を拝むためではなく、澄子に会いたい一心であったと語ります。
 
しかしながら、王仁三郎氏が大本教に来てから、直のお筆先に、
「お澄が世継であるぞよ。上田(王仁三郎の旧姓)どのが大将になるぞよ」
という内容が次々に出て、
王仁三郎氏にお澄さんを奪られそうな気がして、
多大な霊能力を持つ王仁三郎氏に負けないように、幽斎修行に夢中になり、
王仁三郎氏に追いつき追い越せと努力するものの、
何をやっても能力が高い王仁三郎氏に嫉妬の感情が芽生え、
次第に憎さが増し、呪い殺したいほどになり、
実際に呪い釘も何度か実行し、
殺そうと計画を立てて実行に移したけれども、
その都度、王仁三郎氏には守護がつき、それが叶わないでいると、
春蔵には「盤古大神」の霊が憑いたのでした。
 
その事に対して春蔵は、
 
「盤古大神の霊がわしにかかってきた時は嬉しかったでよ。
『邪神でも何でもよい、わしに力を貸してくれい』と祈ったんや」

 

と、福林に語ると、

福林は春蔵を揺さぶりながら、
 
「お前は、阿呆な奴や。春蔵」
と、怒った声で叫ぶと、春蔵は、
 
「後悔なんかせんわいな。お澄さんを奪ったのはあいつや。あいつさえいなんだら……」

 

と、語ります。

そんな春蔵の言葉に、

 

「お前は何を信じとったんや、先生とお澄さんが結婚しちゃったんは、

艮の金神様の御命令やからや。お筆先にある通り、まちごうてへん。

お前は艮の金神様を信じていたんやないのか?え?!」

 

と、叱咤するものの、春蔵は、

 

「さあ…今となっては、わしにも分からん。

大本の世継ぎになりたい、お澄さんの婿になりたい。

なれさえすれば、どんな神さんでも良かった。

力が欲しいあいつを殺す力を、魔王さんにそう祈った。」

 

と、語ったのでした。

春蔵は鞍馬山の魔王殿で魔王に上記の祈りをしたわけですが、

春蔵の心に住み憑いたのは魔王ではなく、

春蔵自身も自覚しているように「盤古大神」だったわけで、

つまり、いくら素晴らしい神様仏様のところで拝んでも、

拝んでいる本人に感応する存在しか拝めない―――

ということです×××

 

春蔵の打ち明けた話に、福林は、改心を勧め、詫びるのは自分がする――と

語ります。

けれども、春蔵は、改心したくても出来ないことを打ち明けます。

それは、「心に食いついている何かが、今はもうわしを離さんのや」

という理由からです。

 

そんな春蔵の諦めの言葉に、さらに福林は、

「お前は若いのやさかい、神様は必ず許して下さるわな」

と、語るものの、春蔵は、

「もう遅いでよ。鞍馬の魔王さんがわしの魂を引き抜いて、連れて去んでしもたのや」

と語ったのでした。

 

その言葉通りに、

明治33年11月13日午前9時に

春蔵は自分の死の時間を紙に記した通りに亡くなったのでした。

 

春蔵は死んでもなお、王仁三郎氏を引きずりこもうと悪さをします。

続きの内容は、こちらで読むことができます。

http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138907c03

 

長々と綴ってまいりましたが、

春蔵は霊眼があり、つまり霊能力が備わっていましたが、

心の修行が足りなかったために邪神に憑依され、

そんな醜い心で、神様に祈ったとしても、

邪神に憑依されている心に感応するのは善なる神ではなく邪神である――

という事を書きたかったのです。

 

なので、神様からの言葉を受けて、

それを発信している人が数多くおりますが、

私は、そうした内容を一切見ないようにしています。

 

私が尊敬している人は、そうした神様の言葉などではなく、

神聖幾何学と呼ぶ図形を霊的な目で視て、

それを読み解いておられます。

 

私にはまだ、そうした聖なる図形を見るようなことはないので、

もっと先の高次の領域にあるものだと理解していますが、

今の段階では、数字から読み解く事が多くなってきたので、

今はもっぱら、数字を読み解く修行中――という感じです。

 

けれども、数字はとても面白いので、

読み解き甲斐があります。

 

毎日、出会う数字を見ては、

次に進むべきものを見付けています。

 

という事で…

神様の言葉として、それを発信している人は、

それは高次の神ではなく、

それに扮した低級霊や邪神・邪悪な存在であったりするので、

注意が必要です×××

 

 

 

 

 

 

 

 

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