2008-12-19 00:05:00

利根川

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やっぱり、関東地方の川といえべ利根川でしょう!


日本「三大暴れ川」のひとつです!


利根川は、近世以降に大規模な瀬替えが人工的に行われたことで知られている(歴史の項目を参照)。現在は、群馬県 最北端にある越後山脈 にある大水上山 を最深部の水源 とし、吾妻川 (あがつまがわ)、烏川渡良瀬川鬼怒川 など多数の を合わせ、千葉県銚子市と茨城県神栖市の境で太平洋鹿島灘 )へと、また、流れの一部は江戸川 (旧渡良瀬川下流流路)として東京湾 へと注いでいる。

水系の本川全長は約322kmで、信濃川 に次いで日本第二位の長さを誇る。そのため、流域は長野県群馬県栃木県茨城県埼玉県千葉県東京都 に跨がる[1] 流域面積 は関東平野に全体に広がっていて、約16,840km²となり日本で最大である。その大半は、江戸時代の瀬替えによって生じたものである。

また、河川法に基づく政令 によって一級水系 としての指定を受け、「利根川水系」の名称が用いられる。また、本川は国土交通省令(旧建設省)によって「一級河川 」として指定(明治32年3月27日告示74号)され、法的には「一級河川利根川」の名称が用いられる。一級河川としての指定範囲は、群馬県利根郡みなかみ町藤原地先の大水上山山麓水源から河口までであるが、利根川を実際に管理する国土交通省関東地方整備局 の管轄範囲(指定外区域)は、左岸が群馬県伊勢崎市柴町、右岸が群馬県佐波郡玉村町大字小泉の地点から河口までとなっている。参考:wikipedia


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2008-06-07 12:33:17

十勝川

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十勝川とかちがわ)は、北海道 東部の十勝地方を流れる川。一級水系 十勝川水系の本流。

名前の由来は浦幌十勝川 河口にあった十勝太(とかちぶと)集落より。

十勝岳 近くに源を発し豊頃町太平洋 へ注ぐまでの間に多くの支流を集め、流域面積十勝支庁 の約9割にあたる9,010km²にのぼる(全国6位、北海道2位)。長さは156km。

上流より十勝ダム岩松ダム屈足ダム の3つのダムがある。

参考:wikipedia

2008-03-15 21:26:56

留萌川

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天塩山地 の南端・ポロシリ山 に発し、留萌市 内を流れて日本海 へ注ぐ一級河川 である。流域面積は、留萌市の市域から海岸沿いの小河川の流域を除いた範囲で、270km²になる。

留萌川はたびたび氾濫を繰り返し、特に1988年 8月25日 の洪水では浸水3,376戸という被害を出した。また、飲用水 に適した取水場所がなく、留萌市の水道水は隣接する増毛町 の新信砂川から取水しているのが現状である。これらの問題を解決するため、最大支流のチバベリ川に留萌ダムを建設中である(2009年 完成予定)。

主な支川

  • マサリベツ川
  • カモイワ川
  • バンゴベ川
  • 十二線川
  • 十五線川
  • 桜庭川
  • 中幌糠川
  • タルマップ川
  • チバベリ川
  • ポンルルモッペ川

留萌川に架かる橋梁

  • 留萌橋
  • ルルモッペ大橋
  • 大通橋
  • 栄萌橋
  • 南九条橋
  • 東橋
  • ユードロ橋
  • 大和田橋
  • 塩州橋
  • 紅葉橋
  • 16線橋
  • 桜橋
  • 真栄橋
  • 御料橋
  • 幌糠大橋
  • 明治橋
  • 幌糠橋
  • チバベリ大橋
  • 南幌橋
  • 西幌橋
  • 東幌橋
  • 橘橋
  • 峠下橋

参考:wikipedia

2008-02-16 07:35:22

柿田川

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静岡を流れる河川、日本三大清流のひとつです。


柿田川(かきたがわ)は、静岡県駿東郡清水町を流れる、全長約1.2km、狩野川水系の一級河川。

ほぼ全量が富士山に降った雨が由来の湧き水である。他にも富士山の湧水は、忍野八海や白糸の滝、湧玉池が有名である。また、長良川・四万十川とともに日本三大清流にも数えられる。


地理

静岡県駿東郡清水町伏見にある柿田川公園の「わき間」から湧き出る湧き水に源を発し清水町役場付近で狩野川に合流する。清流で知られ、水温は季節を問わず17度前後。水中の植物としてミシマバイカモが有名である。

豊富な水を求めて工場が進出、排水のたれ流しにより水質は悪化し、魚も住めない状態になる。1970年代には護岸のため、部分的に川縁がコンクリートに覆われるなどしたが、1980年代には地元有志によるナショナルトラスト運動(工場の移転運動や清掃活動)が開始され、カワセミ等も生息する環境が残された。現在もトラスト地の買い上げを行っており、まだ一部未取得の部分がある。

参考:wikipedia

2008-02-08 07:26:51

長良川

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岐阜から伊勢湾に流れます。

ここも日本三大清流のひとつです。


長良川(ながらがわ)は、岐阜県 郡上市 大日ヶ岳 に源を発し、三重県 を経て揖斐川 と合流し、伊勢湾 に注ぐ木曽川水系の一級河川 である。濃尾平野 を流れる木曽三川 木曽川 、揖斐川)のひとつ。なお、下流の一部では愛知県 にも面し、岐阜県との県境を成している。

清流として有名であり、柿田川 四万十川 とともに日本三大清流 のひとつと言われ、中流域が1985年 (昭和60年)に「名水百選 」に、また岐阜市の長良橋 から上流約1kmまでの水浴場が1998年 に環境省認定「日本の水浴場55選 」に、2001年 に「日本の水浴場88選 」に全国で唯一河川の水浴場で選定される。年間総流量は約40億m³である。「長良川鵜飼 」で有名。

かつては河口附近で木曽川・揖斐川と合流・分流を繰り返していたため、木曽川の「支流」という扱いになっていたが、現在は堤防によって河口まで流路が分けられている。また中流域の岐阜市長良福光で長良古川と長良古々川が分派していたが、昭和初期に行われた工事によって締め切られ現在の姿となった。締め切りによって生まれた広大な土地には岐阜メモリアルセンター 県立岐阜商業高校 岐阜北高校 など文化施設や教育機関が多数建てられ、現在の岐阜市 の発展の一助となったほかに、近隣市町村の小中学校や公私立高等学校の校歌にも名前が入っている。

参考:wikipedia

2008-02-06 07:24:08

四万十川

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四国を流れる代表河川で日本三大清流のひとつ!


四万十川(しまんとがわ)は、高知県 の西部を流れる渡川水系の本川で、一級河川 。全長196km、流域面積2270km²。吉野川 に次ぐ四国 第2位の流域面積を持ち、高知県内では最も長い川である。本流に大規模なダムが建設されていないことから「日本最後の清流 」、あるいは柿田川長良川 とともに「日本三大清流 の一」と呼ばれることがある。日本の秘境100選 のひとつ。

四万十川には支流も含めて47の沈下橋 があり、高知県では生活文化遺産として保存する方針を1993年 に決定している。


地理

高知県 高岡郡 津野町不入山(いらずやま)を源流とし、高知県中西部を逆S字を描くように蛇行しながら多くの支流を集め、四万十市太平洋 に注ぎこむ。河口附近では「渡川」という名前であるため、水系名は「渡川水系」となっている。

清流2つの名前

「日本最後の清流 」といえば、「四万十川」を想起するほどに有名になっているが、河川法上においては、過去65年間、「渡川」が正式名称であった。明治29年の旧河川法 により昭和3年11月1日には「渡川」が法律上の公式名称であった。昭和39年の新河川法 でも、そのままであった。ところが、平成6年7月25日に河川法上、公式名として、「四万十川」と改名された。一級河川 の名称変更は初めてのことであった。このことについては、この川が「日本最後の清流 」として、全国的に有名となり認知されているという実情を鑑み容認され決定されたもの思われる。

流域解説

不入山から流れ出た川は、山間を縫いながら周辺の小川を集めてだんだん太く大きな流れになってゆく。山清水を集めた川は清流の名にふさわしい透明な水をたたえて窪川盆地に入る。窪川盆地では周辺の田圃を潤すが、窪川駅 近くでは四万十町 内の下水道が流れ込み、清流とは言いがたい。四万十川は四万十町家地川の通称家地川ダムと呼ばれる発電用ダム で一旦殆どの水を抜かれてしまう。特に上流の水量が少ない時期はダム直下の川底から水が消えてしまい、川が無くなる事がある。→ダムの水は黒潮町 へ流れる伊与木川(伊与喜川)へ放流されている。


一旦細くなった四万十川は、四万十町田野々で梼原川と合流する。梼原川は水量が豊富な支流であり、四万十川本流を清流の様相に戻す。合流点の少し下流には轟の瀬と呼ばれる落差の大きい急流がある。続く、四万十町昭和には最大の中州の三島があり、キャンプ場が整備されているほか、夏から秋にはアユ漁にいそしむ人々の姿が見られる。四万十町十川では、4月下旬から5月上旬にかけては鯉のぼり の川渡しが行われている(昭和49年から始められ、鯉のぼりの川渡し発祥の地である)。四万十市西土佐江川崎で愛媛県に端を発する広見川と合流し更に川幅を広げ、ゆったりとした雰囲気をかもしだす。江川崎には温泉カヌー の施設があり、ここから下流はカヌーが行き交い、あちこちにキャンプ場が見られる。四万十川は流域に湧き水が多く、支流以外の随所から常時きれいな水が供給されている。下流は四万十市街の端を流れる。

参考:wikipedia

2008-02-04 07:21:18

石狩川

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北海道の代表河川!


源流は大雪山 系の石狩岳 西斜面で、ここから上川盆地 石狩平野 を経て石狩市 石狩湾 へと注ぐ。この間に上川支庁 塩狩峠 以南)・空知支庁 石狩支庁 の22の市町村を通過する。空知川 千歳川 などの支流を含む流域内市町村数は48、流域内市町村人口は約308万8千人(平成12年国勢調査)。


石狩川開発史

近代以前の石狩川は非常に蛇行 を繰り返す河川であり、現代でもその片鱗は残っている。語源とされる説の一つ、アイヌ語 の『イ・シカラ・ベツ』i-sikar-a-pet(それを・回流する・(過去形語尾)・川)はその姿を表現したものとされるが、諸説ある語源はどれも決定打に欠け、不明となっている。大昔は現在の苫小牧市 付近で太平洋 に注ぐ河川であったが、約30,000年前に支笏火山 群の噴火に伴う火山灰 溶岩 などの堆積物によって流路が北西に変更され、現在の様に石狩湾 に注ぐ様態となった。石狩川の河川開発は1869年 (明治2年)の開拓使 設置より始まる。


開発黎明期~自然主義と捷水路主義~

1898年 (明治31年)9月、石狩川流域は開拓事業着手後としては最悪の洪水 を惹き起こした。この時の浸水面積は上流部では空知川 合流点より、下流では石狩湾までの平地、およそ150,000haが浸水し112名が死亡した。事態を重く見た当時の河川管理者である内務省 は翌月には北海道治水調査会を設けて石狩川の治水 の方向性を探り、治水計画を策定した後翌1899年 (明治32年)より『第一期北海道拓殖計画』に基づいた石狩川の治水事業に着手した。

この石狩川治水事業の中心的役割を果たしたのが岡崎文吉である。岡崎は石狩川の水位調査を行う一方で欧米諸国の河川工事・管理状況を視察。その中でアメリカ 方式の自然を生かした治水方法を石狩川に採用する事とした。これは岡崎の「自然主義」と呼ばれ、現在千歳川 で見られるヨーロッパ型の河川整備に通ずるものがある。大規模な人為的改変を加えず、水防林 堤防 整備・護岸補強を行う事で自然を最大限残しながら治水事業を行う事を理想とした。また、洪水時の水位を下げるために放水路 を建設し、洪水調節 を図ろうとした。

1910年 (明治43年)石狩川治水事務所が設置され、『石狩川第一期治水工事事業』がスタートした。岡崎は事務所長として自身の理念に沿った形で河川改修を始めた。最初に取り掛かったのは生振と篠路を結ぶ放水路事業であった。この際も石狩川本川には可能な限り手を触れず、放水路による洪水調節を目指したが予想を超える泥炭地 が工事の行く手を遮り、難工事と財政難に悩まされるようになった。内務省は1917年 (大正6年)に内務技官を派遣して石狩川の治水事業を促進させようとしたが、これが岡崎の「自然主義」治水事業を転換させる契機となった。

派遣されたのは内務技官・沖野忠雄である。沖野は1897年 (明治30年)より実施された『淀川 修築工事』の総指揮を執った人物で、新淀川 開鑿や大阪港 築港などのプロジェクトを手掛けた当時河川工学分野での第一人者であった。だが沖野の治水思想は河川に対し大規模な改修を加え、治水に供するフランス 流河川工学であり、その根幹となるのは新淀川開鑿でもみられた河川ショートカット工法(捷水路)であった。この沖野の「捷水路主義」は当然岡崎の「自然主義」とは相容れず、両者は真っ向から対立する事となる。だが実績に勝る沖野の手法が採用される事になり、1918年 (大正7年)岡崎は石狩川治水事務所長の職を退任。沖野が所長職に就任する事で石狩川の治水は「捷水路主義」に基づく河川改修にシフトして行った。

1922年 (大正11年)従前は千歳川に合流していた夕張川 を石狩川に直接合流させる「夕張川新水路工事」が始まり、1936年 (昭和11年)に完成した。これにより蛇行していた夕張川は直線化され、従来の河道は旧夕張川 となった。石狩川本川では石狩川河口から江別 までの区間における捷水路工事を実施し、下流部の直線化を図った。また札幌市 内を細かく蛇行しながら貫流していた豊平川 も捷水路を設置して直線化した。続いて1934年 (昭和9年)より実施された『石狩川第二期治水工事事業』においては幌向川 に合流していた幾春別川 を、夕張川と同様に直接石狩川に合流させる「幾春別川新水路工事」を開始。1921年 (大正10年)より実施した「美唄川 新水路工事」と共に三笠市 岩見沢市 の治水を図った。石狩川本川の捷水路工事は江別から月形 、更に上流へ向けて堤防整備と共に実施されたが太平洋戦争 によって中断された。

この沖野忠雄による捷水路工事主体の河川改修により、石狩川本川は改修前には364km(信濃川 とほぼ同延長)あった流路延長が100kmも短くなり、蛇行部分は大幅に減少した。これによって洪水の流下が促進され洪水による湛水被害は大幅に軽減。泥炭地の湛水が解消された事でその後の大規模開拓に繋がる農地開発が次第に手掛けられていった。


参考:wikipedia

2008-02-02 07:13:56

信濃川

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日本で一番長い川はここです!


信濃川(しなのがわ)は、新潟県 および長野県 を流れる一級河川 。信濃川水系 の本流である。このうち信濃川と呼ばれているのは新潟県域のみで、長野県に遡ると千曲川(ちくまがわ)と呼称が変わる。全長367キロメートルのうち、信濃川と呼ばれている部分が153キロメートルなのに対し、千曲川と呼ばれている部分は214キロメートルと千曲川の方が長い。ただし、河川法 上では千曲川を含めた信濃川水系の本流を信濃川と規定しているため、信濃川は日本で一番 長い川となっている。

流域面積 11,900km²は日本第3位。新潟、長野両県内でほとんどを占めるが、一次支川中津川の源流部が群馬県 野反湖 付近にあり、水系流域としては群馬を含む3県に及ぶ。

千曲川(信濃川)は古くは万葉の頃から多くの詩歌に歌われ、近代になっても流域の佐久市 小諸市 周辺を島崎藤村 千曲川旅情のうた 小諸なる古城のほとり )が、長野市 周辺から新潟県境付近の豊田村 (現:中野市 )周辺を高野辰之 朧月夜 故郷 )が歌にし、日本人の郷愁を誘う原風景を伴う川としても知られている。 また、長野市(旧川中島村 から旧篠ノ井市 にかけて)に川中島古戦場 などを有し、歴史的な名所も多い。


地理


千曲川埼玉県 山梨県 長野県 の県境に位置する甲武信ヶ岳 の長野県側斜面(南佐久郡 川上村 )を源流とし、八ヶ岳 関東山地 などを源流とする諸河川と合流しつつ佐久盆地 (佐久平)、上田盆地 (上田平)を北流する。長野盆地 (善光寺平)の川中島 で、飛騨山脈 を源流とし松本盆地 (松本平)から北流してきた犀川 と合流した後北東に流れ、新潟県に入って信濃川と名前を変える。信濃川は、十日町盆地 を通って越後平野 (新潟平野)に出て群馬・新潟県境の谷川岳 から流れてきた魚野川 に合流、新潟市 日本海 に注ぐ。河口は阿賀野川 の河口に近く、時代によっては新潟の地で合流して河口を共有していたこともあった。


信濃川開発史


為政者達の治水

縄文時代、新潟市 を中心とした越後平野 日本海 であった。その後、徐々に信濃川や阿賀野川 が運搬してきた土砂と、対馬海流 が運んできた土砂が越後砂丘を形成し堆積、現在の越後平野を形成したが低湿地で方々に潟が存在し、水捌けの悪い地域であった。又、洪水によって幾度も流路を変えた。1597年 慶長 2年)、越後 春日山城主上杉景勝 の執政で名将と謳われた直江兼続 は燕・三条付近の洪水調節を図る為中ノ口川 を開削。これが近世信濃川治水史の端緒となる。上杉氏転封後の江戸時代 新発田藩 主となった溝口氏 は中ノ口付近も領していた為に代々の藩主は河川改修を実施していた。長岡藩 第9代藩主の牧野忠精 は信濃川の河川改修に特に力を入れた。新川 開削の大事業を行い蒲原平野に存在していた3つの潟の悪水を日本海に排水し、蒲原平野の新田開発を成功させた。信濃国・千曲川でも福島正則 松代藩 主・真田氏 が築堤や掘割を度々行った。


大河津分水計画

だが、度重なる治水事業を行っているにも拘らず、信濃川は度々氾濫を繰り返し為政者の頭を悩ませた。こうした中で浮上して来たのが大河津分水路 計画である。そもそもの発端は享保年間に寺泊 の豪商・本間屋数右衛門らが幕府に上奏したのが始まりである。1842年 天保 13年)に江戸幕府は大河津分水計画を本格的に検討しだしたが、その後は北越戦争 等で越後は混乱を来たし分水計画は宙に浮いた。

明治時代 に入ると本格的な分水計画に着手。1870年 明治 3年)には第1期大河津分水路工事が開始された。然し反対運動も多く、結局外国人技術者の意見を容れ1875年 (明治8年)に第1期工事は中止の止む無きに至った。翌1876年 (明治9年)、内務省 による「信濃川河身改修事業」が着手された。この事業が近代信濃川治水史の原点とも言われている。これは堤防の築堤と河川敷整備を中心としたものであった。だが、河川敷整備は川原に棲息するツツガムシ による古典型恙虫病 の蔓延によって多くの工事従事者が病に倒れた。更に1896年 (明治29年)7月、信濃川を有史以来の記録的な洪水「横田切れ 」が流域に甚大な被害を与え、堤防整備の有効性に疑念が噴出した。こうした中で原田貞介が大河津分水工事改良案を提出。これを元に1909年 (明治42年)、原田案をベースに第2期大河津分水路工事が着手された。難工事による100名以上の殉職者を出しながらも1922年 大正 11年)、大河津分水路は通水に成功し2年後の1924年 (大正13年)に悲願の完成を果たした。実に、発案から完成まで200年近くを費やしている。1918年 (大正7年)~1941年 昭和 16年)には、千曲川第1期補修事業が内務省 の手によって進められたが、洪水は容赦なく発生し根本的な解決には至らなかった。


参考:wikipedia