だいぶ以前に録画していた宮沢賢治の童話を観ました。

 

一度、観ていたのですが、ふと見返したくなったのです。

 

 

賢治の童話から選択されたものがアニメーションや演劇として表現されているものです。

 

 

その中に「十力の金剛石」がありました。

 

アニメ化されているその物語に接し、急遽、家にあった原作も探し出しました。

 

 

ある王子は、大臣の子を連れて素晴らしい宝石を探しに出かけます。

 

彼は王子ですから、もともと素敵な宝飾品などを持っているのです。

 

けれども、もっと素敵な、素晴らしい宝石を欲して出かけるのです。

 

 

虹の脚もとにはルビーの絵の具皿があるといいます。

 

また山の頂上には金剛石があるといいます。

 

 

彼らは虹を見つけ、それを追いますが、虹はさらに遠くへと逃げていくのです。

 

彼らは虹はその際に、ルビーの絵の具皿もひきずっていったのだと解釈します。

 

 

虹はどこへ?と探すと真っ暗な森の向こう側からかかっていました。

 

 

そこで、彼らは森の中へと進みます。

 

森の中で陽の光はなくなり、霧が立ち込め、やがてそれは雨の雫と変わります。

 

彼らの青い帽子についていた蜂雀が、歌を歌うのですが、その歌に沿う形で

霧は雨となり、やがてザーザーと降り注ぐのでした。

 

 

ふと気が付くと、その雨は、雫の一つ一つがダイヤモンド、トパーズ、サファイヤでした。

 

降り注ぐ先の草花もみな、様々な宝石でできているのです。

 

 

宝石の雨を浴びる宝石の草花は、しかし、「かなしい」と歌います。

 

 

それは、なぜなのか?

 

 

「十力の金剛石がまだ来ないから」と答えます。

 

 

では、十力の金剛石とはどのようなものであるのか?

 

 

 

 

十力の金剛石は「ただの金剛石」のようにチカチカ光るものではなく、春の風よりやわらかくあるときは円くあるときは卵がたであり、霧より小さなつぶにもなれば、そらとつちとをうづめもする・・・。

 

また、木や草のからだの中で月光いろにふるい、青白いかすかな脈をうち、人の子供のりんごの頬を輝かせるものでもある・・・。

 

十力の金剛石は露であり、また碧いそら、輝く太陽であり、丘をかけていく風であり、花の花びらやしべ、草のしなやかなからだ、すべてこれをのせになう丘や野原、王子たちの上着や涙に輝く瞳・・・。

 

要はすべてのものは十力の金剛石(の作用)であるという内容でした。

 

 

 

宝石の草花たちは、待ちに待った十力の金剛石がやってきて、鉱石ではない「本物の」草花となるのです。

 

 

この十力の金剛石とは、生命エネルギーであり、足立育朗さんの言うところの

フゲーエキンであると思われます。

 

 

そして、そのエネルギーは愛のエネルギー。すべてを生かし育てるもの。

 

 

宮沢賢治という人は、捉えていた宇宙のありかたを物語のなかに織り込んでいたのだと改めて思います。

 

 

十力の金剛石の作用を知った王子は、帰り道で足にひっかかったサルトリイバラに対して、剣を使うことなく、静かにはずしてやるのです。

 

以前ならば容易に剣で切ってしまっていたものを!

 

王子の意識変換が伝わります。

 

 

さて、物語の中で気になるところがあります。十力の金剛石が来た場面で木や草、花、青ぞらが一緒に歌うところです。

 

ここは、ほぼ原文ママです。

 

 

 

『ほろびのほのほ湧きいでて

 

つちとひととを  つつめども

 

こはやすらけきくににして

 

ひかりのひとらみちみてり

 

ひかりにみてるあめつちは

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。』

 

 

こはやすらけきくに・・・にするということは

 

空海のいうところの

 

 

現世荘厳

 

 

ひかりのひと・・・とは

 

 

即身成仏

 

 

ではないでしょうか?

 

 

ひかりのひとが満ちるならば

 

 

自ずとそこは素敵な世界、素晴らしい世界となる

 

 

 

即身成仏とは、もともと内在する「仏」の部分を生きながら顕現すること。

 

 

「仏」=「神意識」=「真我」=エクサピーコ

 

 

十力の金剛石のすべての作用に感謝しながら、自らの本質に近づいていけるよう、実践あるのみ・・・。