今から3年ほど前、私はこのままイタリアに残るのだろうか、それとも・・・などと悶々としていた時、せめてイタリアにいるあいだに、取れる資格を取ったり、出来ることをしておこうと思い立った。私は日本でも運転免許を持っていなかったので、こちらで取得することに決めた。



 早速、自動車学校に登録。週に1回の学科の授業に通い始める。先生方の説明は丁寧で分かりやすいのだが、車や運転への基礎知識があまりにもないので、頭に有機的な情報として入ってこない。

思春期の地元の男女でぎゅうぎゅうの教室に、アジア人の女が右往左往で五里霧中。軽く四面楚歌な状態でもありつつ、七転八倒!!思い返すに、その時点で若干(むしろかなり)やばい気配はあった。

 さて、筆記試験は、PCを使ってのチェックシート方式。クイズ形式の問題に慣れる必要があるので、授業に通い勉強を進めつつも、あまり深く考えずに、がんがん模擬テストを行うのみ・・・と言うことに気付いたのは半年以上経ってからだった。それでも何とか筆記試験に合格した頃、すでに普通の人の倍くらいの時間が経過していた。



 学科の試験に受かると、ピンクの紙(foglio rosa)という、仮免のような紙切れをもらえる。その紙をもらって半年以内に実技の試験に合格しなくてはいけない。

 さて、運転のレッスン初日。路肩に止まっている教習所の車に、教官に促されて乗り込み、少し車の動かし方の説明を受けた。そしておもむろに、「じゃ、行こうか。」。


― っえ。いいいいいいいい、今ッスか?


「おー。今だよ。」さくっと返答されて、よろよろと発進。イタリアには道路を模した練習場など、ない。いきなり天下の公道で運転開始だ。車はマニュアル。通行人、犬、果ては路傍の草までが恐ろしい。いや、一番恐ろしいのは走る凶器と化している己であった。出発数分後にして、すでに「無理」は飽和状態。

 ペルージャは坂が多いので有名な町だ。そんなわけで、初日の授業のピークは、何度目かの坂道発進中に起こった。急な坂の途中で、鈍重さのなかにも焦りと恐怖を含んだじりじりしたクラッチさばき。そしてまだクラッチの準備ができぬうちから激しくアクセルを踏み込んだため、車は轟音とともにものすごい黒煙を撒き散らし、後続の車からは野次まで飛ぶ始末であった。自らの運転する車の吐き出した黒い煙に包まれながら、「免許、一生無理?」と絶望的な気分になった。

それから、長い、長ーーーーーーーーい、免許取得への道のりが始まったのであった。


 初日を生きた心地のしないまま終え、冷や汗ぐっしょりの運転の練習を数回した後、大学の試験や里帰りなどが重なって、しばらくブランクが空いてしまった。日本から戻り、また気を取り直して練習を始めてみたものの、一向に上達しない。車を運転している、というよりは運転されているような、何と言うか、散歩させるはずが、巨大な土佐犬に引きずられて前のめりで躓きそうになりながら走る飼い主、のような感じなのであった。しかし、そろそろ仮免の期間が切れてしまうので、その前に試してみよう、という教官の勧めで試験に登録した。


 当日。実力不足と緊張のため、結果は惨憺たるものであった。

 試験の流れとしては、教習所の車で教官とともに試験場に赴き、自分の番を待って、教習所の車で助手席に教官、後部座席に試験官を乗せ、試験官の指示に従って運転。試験場に無事戻ってこられたら合格、途中で止められたら不合格、だ。途中で止められると教官が運転席に移り、受験者は助手席に座る。合格の場合は試験場の車の中で、すぐに免許を渡される。

 当日までには自分の前に何人の受験者がいるのか分かっているが、一人当たりの試験時間は試験官によるので、待ち時間が良く分からない。車に乗り込む前に口頭で車のことや免許証、自動車保険に関しての質問を受けるケースもある。

 当日私の試験を担当してくださった試験官は、こわもてだが、とても優しい人であった。不合格、と判断して試験を中断したときも、教官と私を慰めるように「努力は感じる、でも、もっと自信を持って運転できるように、もう少し練習したら良いよ。仕方が無いよ、緊張していて上手くいかなかった部分もあったんだから。」と労わってくれながら、「そもそも、」と口を開きながら、こう言葉をつないだのであった。


Da quando siamo partiti dal parcheggio della motorizzazione, non era più lei.



直訳すると、


― 試験場の駐車場を出たときから、もう彼女は彼女じゃなかった。



もしくは

― 試験場の駐車場を出たときから、彼女は正気を失っていた。



どんなフォローやねん!関西出身じゃなくても、関西弁の突込みをしたくなるだろう。


 その後、教習所の計らいでこまごました支払いや手続き料などを免除してもらって、また学科の試験のやり直し。仮免をもらい、今度こそ!と鼻息を荒くしたものの、焦れば焦るほど契約が取れない保険外交のような状況になってしまった。取れない病だ。

・・・思い返して書いているだけで疲れてきました。またひどく長くなりましたので、次回に。


































 思い返すと、イタリア生活を始めた頃はわりと頻繁に、


― 無理。


という状況に陥ったものである。


 ペルージャで留学生活を始めるとき、ペルージャへの移動は、慣れない電車などには乗らずに、当時運行していたミラノ→ペルージャ便で、と決めた。


 アリタアリアの東京→ミラノ間ですでに遅れが出て、マルペンサ空港に到着後、あわててペルージャ便の出発ゲートまで走ったが、飛行機が出そうな気配がない。そう、いきなりストライキに遭遇してしまったのであった。

ストライキ。イタリア語で、ショーペロ( scopero )。

多くの外国人が泣き、イタリア到着後、すぐに覚える言葉、ショーペロ。ショペラーレ、と言う動詞まであるのが憎い。

当時はショーペロ、の意味も分からなかったので、何が起こってるのかマッタク理解できないけど飛行機が、何か知らないけど3時間以上も遅れてる、と言う認識しかなかった。夜の便だったので、ホテルに締め出されるかも、という不安もあり、いやー、無理。と思った。


 数時間遅れて、やっと機体の準備が出来たとのことで、飛行機まで徒歩で移動。大雑把に言ってバスくらいの、小さな機体が鎮座している。まさかこれじゃないよな、と思ったらその機体でペルージャまで飛ぶとのことだった。その時点で、もう一日の「無理。」容量を超えていたので、おとなしく飛行機に乗りこむ。

 小さい機体だけに、気流に木の葉のように翻弄され、揺れに揺れたものの、無事にペルージャに到着。着いた空港が異常に小さい。機体から降ろされる自分の荷物を横目に飛行機から降り、空港内に入ると、荷物受け取り用のベルトコンベアーがある。

短い。スイスとかの仕掛け時計で、時間になると飛び出してきて音楽隊がくるくる回るやつか?

 そのうち荷物が出て来て回りはじめたが、短すぎてなにか回転寿司、もしくは流しそうめんの風情だ。実用性があまり感じられない。

短いので、すばやく荷物を取らないとまたすぐ裏に隠れてしまう。ああ、無理。さっき手渡ししてくれれば良かったのに、荷物。旅の疲労で朦朧としながら、柔道の構えのようなポーズで流れてくる荷物を待ち構える。回す意味があるのか。そんなにくるくる回ってほしいのか、荷物に。ほとんど、何かのプレイだ。


 いろいろ驚きの瞬間に見舞われつつ、ホテルの手配してくれたタクシーに、なぜかポーランド人の青年と相乗りして無事に到着。翌日は、アパートの大家さんにも無事に会えた。夕食までご馳走になり、アパートまで送っていただいて、さて、寝ようと玄関の扉を開けようをしたら、開かない。

これもイタリア生活を始める上で、多くの外国人、特に非ヨーロッパ圏の人たちが泣くところ。鍵のあけ方に、コツがいる。扉の中央部分にドアノブらしい突起はあるのに、回らない構造になっている。はじめは落ち着いて鍵を反対に回してみたり、いろいろ試してみたが、くすりとも、開きそうな兆しが見えない。10月だと言うのに、そのうち汗が噴出してきた。ヒステリックな気持ちにさえなってくる。




― 回らないドアノブって、何のためについてるの。鳩でも止まらしとくんかい、ええ?クルッポー?


焦り焦り1時間格闘し、どうにもならなくなり、しかもこれ以上遅くなったら時間的にも大家さんに電話できないと言うところまで来て、着いたばかりで携帯電話もないので公衆電話へ走り「すすす、す、すみません、ドア、開けてください・・・。」と懇願した。大家さんはすぐ来てくれ、何度か鍵開けの練習に付き合ってくれたのであった。その時も思った。いやぁ、無理・・・って。イタリアのドアは、その後もちょっとした試練となった。



 それから数日は、ペルージャ外国人大学に入学の手続きに行った際に出会った人が皆冷たかったり(まあ、今思えばそれほどでもなかったのかもしれないけれど)、アパートにも、大家さんとその彼女が入居するっぽいことを言っていたような気がするのに、2日経っても来なかったりで、誰とも話さない日が続いた。
暗い部屋でぽつねんと座っていると、私の留学生活、友達ひとりも出来ないで終わるんだろうか、私のペルージャ生活は、孤独で始まり孤独で終わるのでは無いだろうか、ああ、私、もう一生誰とも口を利かずに、こ、孤独死・・・と言ったネガティブな妄想がふくらみ、「無理。」、すでに飽和状態。


 幸い、イタリア(と言うか、母国以外全般)生活も長くなると、コミュニケーションも取れるようになり、だいぶ色々なことの事情も分かり、住んでいる国のペースにも慣れて、日々の生活でそれほど困ることも無くなってくる。毎日の暮らしのなかで、プライベート、勉強、その後は仕事ともに、時折無理な瞬間は訪れたが、おおむね無事に暮らしてきた。



 それでも近年、かなり高い濃度の「無理。」がインフレ状態になって訪れてきた時期があった。
免許取得を目指した日々である。


 異常に長くなりましたので、免許のことはまた今度!















 前回の記述では、学生の日本語面白間違い!の危険性について書いたけれど、イタリアで暮らす外国人の私の間違いは、面白いか面白くないかを別にして、学生のそれを遥かに上回る頻度だ。人から指摘されるケース、自分で気付いて慌てて直すケース、後で気付いて唖然とするケースなどまちまちで、中には当然、自分自身もマッタク気付かず、相手も気まずさのあまりスルーしているケースもあるだろう。イタリア生活13年の今は、イタリアに来た当初よりはマシになったけど、いまだに恥ずかしくて忘れられない間違いもある。



 いろいろある間違いのなかで、やっぱり一番気まずいのはシモネタ系。

 イタリア語を知る人たちの中ではあまりにベタ過ぎる間違い。それは、動詞scopare(スコパーレ)の用法間違いである。いや、正確には間違えではない。実際scopareを辞書で引くと、第一義に「掃く」とある。しかし現代イタリア語では、scopareと言うと、相当下品に表現した「性行為を行うこと」の意味で使われている。

 まだ来たばかりの頃の、イタリア語の授業。週末何をしましたか、と言う問いに、クラスみんながひとりひとり答える場面で、週末は掃除、洗濯に勤しんだ私は、自分の番をどきどきしながら下書きの紙を眺めつつ、言い放った。



Ho scopato.



まだ初級クラスなのに、その手のことには詳しい男子学生のニヤリ笑い。先生の微妙な表情・・・。

 「え、週末?ヤリましたけど?」ぐらいのインパクトだったのだろうか。あれから何年も経った今、この意に染まぬエロ発言の状況は風化されちゃって、もはや幻想のようでもある。ちなみにその場では気付かず、後でイタリア人の同居人に教えてもらったように思う。



 仕事を始めてからの間違いで一番気まずかったのは、留学オフィスのスタッフたちと、交換留学生のことを真面目に話している時のだ。

「・・・で、日本から来る交換留学生が、」と言いかけ、交換を表す言葉scambio(スカンビオ)から派生する名詞、つまり交換する人くらいの意味にあたるであろう scambista(スカンビスタ)という言葉を使った(まあ、交換留学生は交換される人なわけだから、そもそも間違ってはいたのだが・・・。)。

 一瞬場の空気が静止した。あれ?とは思ったが、そのまま会話を続ける。後でイタリア語堪能なギリシャ人の同居人と今日の出来事について話しているとき、「え、その言葉、言っちゃたんだ?」と含み笑いを湛えた顔で言われた。

 scambista、すなわち交換する人。現代イタリア語では、交換するものは特定されている。お互いのパートナーだ。カップル交換。つまり、日本語で言うところのスワッピング的な。



― 新しい性の可能性を求めて、日本から続々カップル参加。そして本学からも続々日本へ出発。



いや、本学で、そんな淫らな国際間交流は行っておりません。ちなみにイタリア語でswappingといえば、古着なんかを交換し合うこと。





 残念ながら私めの間違い、もしくは言い間違いは、シモネタ以外にもいろいろありますが、最近仕出かしちゃったな、と感じたのはこれ。

 

 授業で鯉のぼりについて説明していた。イタリア語で鯉は、carpa(カルパ)と言う。

ホワイトボードに鯉のぼりのイラストを描き、鯉のぼりとはどんなものか、その由来などについて話す。



― 日本ではね、鯉の形をしたのぼりを家に立てて・・・(中略)お父さんの鯉と、お母さん鯉、子供の鯉とあってね・・・(中略)ほら、伝説でもね、鯉が滝の流れを逆行して上って、最後には龍になるというのがあって・・・(中略)



学生一同、ポッカーン。



相槌もない。・・・え、何で?そんな変な風習かな、これ。え、何、みんな、何その表情。先生分からないわー。と心の中でひとり焦燥感に駆られていると、学生の一人が腑に落ちた、と言う顔で言った。



Ahhhhh, carpa! ( ああ、鯉ね!)



私は説明の間、carpaと言っているつもりが、capra(カプラ)と言っていたのであった。capraは、日本語で山羊、だ。



 上記の説明の、鯉のところを山羊にして読んでみてください。こどもの日、日本全国山羊祭り。それぞれの家の、屋根より高いところに、山羊。黒、赤、青の三色山羊。子供の健康を願って、山羊。

いやー、そもそも山羊って日本にそんなにいないわ。日本人はそんなに山羊と密接な関係にないわ。私の書いたイラストは当然鯉のぼりだったので、え、日本の山羊ってあんなに長細いの、と言った衝撃もあっただろう。そりゃ、ポッカーン、ですな。



 人は過ちから学ぶ。今は、言うとき気を付けてます、carpa capra。鯉の乳で作ったチーズ、なんて言わないように。