蛮勇将軍・白石葭江

テーマ:

旅順閉塞作戦の第三小隊を乗せた佐倉丸は、ロシア海軍による万雷の砲撃を受け、旅順港口においてあえなく自沈した。海の藻屑と化した部隊の中に、指揮官である白石葭江(よしえ)大佐もいた。

 

白石の戦死は、海外の従軍記者によって世界中に伝えられた。なぜ、日本の一士官にすぎないこの男の死が、世界に衝撃を与えたか。それは、4年前に起きた北清事変におけるとある事件が、彼の名を一躍有名にしたからに他ならない。

 

「扶清滅洋」をスローガンに、清国内の反乱暴徒が在外公館や居留民を襲撃、日英米などの連合軍との武力衝突を引き起こした北清事変。日本からは、約2万の兵と軍艦が派遣され、清国駐在武官だった柴五郎中佐を司令官とする一軍が鎮圧に乗り出した。その前哨戦として惹起したのが、天津地区の塘沽砲台周辺での連合軍と清国軍との軍事衝突である。

 

天津居留民を脅かす暴徒集団を威嚇すべく、佐世保では服部雄吉中佐率いる陸戦隊330名が編成された。その中の一部隊を任された白石は、軍艦豊橋に乗り込んだときから、燃えるような闘争心を胸中にたぎらせていた。この男は、軍人としての野性的な攻撃精神が生まれたときから備わっていたといっていい。

 

そのことを示すこんなエピソードがる。白石は幼いころ、神官を務めていた養父に引き取られたが、養父は最初、葭江を軍人にするつもりはなかった。そのため、将来は海軍の将校になりたいと願い出た息子を激しくしかり飛ばした。葭江少年はひるむどころか血相を変えて父と向き合い、「俺を軍人にしてくれなければ、金毘羅様の御札を蹴とばしてやるぞ」と脅したのである。これにはさすがの養父もあきれるしかなかったという。

 

そんな豪胆で勝気に富んだ青年士官を乗せた軍艦が6月13日、佐世保港を出港し、その二日後に塘沽港に到着した。

 

白石ら陸戦隊を待ち受けていたのは、砲台に張り巡らされた百を超える砲門と、三千の警固兵、そして虎狼のような集団である匪賊・馬賊のゲリラ部隊であった。

 

排外主義とナショナリズムに燃えた暴徒集団を鎮圧するのは、組織化された軍隊といえど容易ではない。彼らに加え、北京から派遣された清国の正規軍も参戦しているのである。実際のところ、付け焼刃的に編成された連合軍の士気は決して高くなく、清国兵・暴徒・馬賊の混成軍団の勢威の前に委縮し、戦闘に消極的な部隊も少なくなかった。

 

そんな腰抜けとも言える諸外国の部隊を、白石は鼻白む思いで見つめていた。それと同時に、胸中では、「これは俺たち日本の軍隊がしっかりしなければ、居留民保護は叶わない」という強い決意もにじませた。

 

清国兵と連合軍の戦いは、夜のとばりが深く降ろされた未明の時間帯に、清国兵による砲撃によって戦端が開かれた。服部陸戦隊はそれと同時に既定の配置につき、進軍を開始した。

 

敵の陣地からは、おびただしい数の砲弾が撃ち込まれ、その圧倒的火力で白石部隊の攻撃を阻んだ。苛烈を極める清国軍の攻撃に、二の足を踏む連合国兵士が多い中、菊の御紋を身につけた日本兵だけは、士気も旺盛、猛火にひるむことなく、敵中突破を試みる。とりわけ、先頭に立つ白石指揮官の勇猛な戦いぶりはことのほか凄まじかった。覆いかぶさるように群がる清軍兵士を、日本刀で次から次へとなぎ倒していく。鬼神の如く突っ走る白石大尉を止めることはもはや不可能とさえ思われた。

 

そして、白石は清国兵を薙ぎ払いつつ砲台によじ登り、頂上に立って勝ち名乗りを挙げた。この勇ましき青年士官の表情は、一番乗りを果たした恍惚感より、やって当然ともいうべき武人としての堂々とした凛々しさに満ちていた。

 

連合軍の第一目標であった塘沽砲台の占領を果たし、日本軍の精強さを示した白石の背後を、大柄な人物の影がかすめた。それは連合軍として参加していたイギリス軍の一将官の姿であった。彼は戦闘を終えて安堵する白石たちの隙を突き、頂上付近の旗竿に英国軍旗を掲げたのである。

 

イタチの如く抜け目のない所業に、虚を突かれた白石はしばし茫然とするしかなかったが、すぐに「しまった」と心の中でつぶやいた。敵陣地の占領は、自国の軍旗を掲げてはじめてその意味が成立するというのが戦時国際法の習いであった。

 

とはいえ、実際に清国軍を追い払い、この会戦に勝利を呼び込んだのは我ら日本の陸戦隊の活躍によるものである。国際法に無頓着であった点は否めないが、このイギリス士官の行いは軍人としてとても誉められたものではない。白石は卑怯な真似をするなとかの士官を面罵したが、当の本人は素知らぬ顔で受け流し、さらには無知を憐れむような蔑みの視線を白石に投げつけた。

 

こんな侮辱を受けて大人しく引き下がるほど、明治の軍人は甘くない。こと、蛮勇将軍と恐れられた白石に至っては、言わずもがなである。

 

彼は、イギリス将官の目の前で、英国軍旗をはぎ取った。そして、懐から白地のハンカチを取り出し、切りつけた小指の鮮血でもってお手製の日の丸を作り出したのである。ハンカチの旗は、英国軍旗の威容をあざ笑うかのように、悠々と風を受けてはためいた。

 

「そんな子供だましが通用するか」と将官は鼻で笑ったが、自国の軍旗を侮辱されてはそのまま黙って引き下がるわけにはいかない。力ずくで日の丸を奪おうと白石ともみ合いになった。

 

力と力の勝負なら、小柄とはいえ、白石のほうに分がある。白石は相手の体を引き付けると、豪快な腰払いで体格のあるイギリス軍人を投げ飛ばした。

 

イギリス士官はバツの悪そうな顔をして立ち上がり、いそいそと引き上げていった。これ以上、無駄なあがきは恥の上塗りになるだけ、と悟ったのだろう。それは賢明な判断といえた。

 

やがて、軍旗を準備した白石の部下が姿を見せ、正式に旭日旗を砲台頂上の旗竿に掲げた。白石は目を細め、風にゆらめく軍旗をいつまでも見つめていた。

 

これが、白石という男の名を世界に知らしめた事件の顛末である。北清事変における日本兵の規律のとれた行動と意気軒高な戦いぶりは国際的に高い評価を得たが、白石の豪傑ぶりは勇猛果敢な日本兵を象徴するエピソードとして世界の人々の記憶に強く刻まれた。そして、その白石の死を伝えるニュースは、大きな衝撃をもって世界に喧伝されたことは言うまでもない。

 

旅順閉塞作戦にて、日本軍随一の蛮勇将軍は勇壮に散った。日本は確かに白石という優秀な士官を失ったが、その揺るぎない敢闘精神は全軍に脈々と引き継がれていった。そののことは、日本がロシアを打ち負かしたという歴史的事実が何より雄弁に物語っている。

 

AD

9月26日の歴史

テーマ:

 

 

AD

9月25日の歴史

テーマ:

 

 

AD