私たちの活動は価値観の押しつけなのでしょうか? | 井上政典のブログ

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 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
 ご意見は賛成反対を問わずどんどん書いてください。

 ただし、社会人としての基本的なマナーは守ってくださいね。

 ブログのコメントに冬木空さんから以下のようなコメントが寄せられました。

 とても鋭い指摘で、考えさせられました。まずはそのコメントをお読みください。

>>>引用はじめ

 やや9条の話とは趣旨とはずれますが、イスラム圏の国家において、女性の学ぶ権利というのは、そもそも歴史的、又は価値観的に薄く、また場合によっては否定されてきたわけで、そこを私たち日本人的価値観や西洋的価値観において、否定(この場合、マララさんを肯定)するのは、まさに、アメリカがイスラム圏の人々に価値観を押し付け、その結果に世界の混乱を招いたことと、何が違うのでしょうか?

 井上先生は常々、国家の価値観や歴史、伝統を重んじるべきだと(賛同です)おっしゃっているわけで、そこと今回の話は矛盾しないのですか?ぜひ意見をお聞きしたいです。

>>>引用終わり

 このご質問をいただき、自分たちが現在している活動は自分たちの価値観の押しつけなのだろうかと考えました。

 冬木空さんのいうように、アメリカが世界で紛争の種をまき、そして世界に争いを輸出しています。

 CHINAも自分たちの価値観を他国に押し付け、自分たちの権利を声高に主張しずけずけと侵略し、周辺諸国の独立性をないがしろにしています。

 これらは自己文化中心主義のなせる業だと言ってもいいでしょう。

 マララさんのパキスタンでは女性が教育を受けることは伝統的に受け入れられていません。

 それに対して彼女は命を懸けて戦っています。

 私がこれを支持することはパキスタンの伝統文化を否定することになるのでは?というご指摘です。

 当事国で受け入れられていない習慣を他の文化を持つ国がとやかく言うのは内政干渉ではないか、自分たちの価値観の押しつけではないかという考えもあります。

 これに対する私の答えは、「否」です。

 というのは、アメリカもCHINAも自国の利益、つまり私利私欲によって価値観を押し付けています。

 でも、私たちの活動は文化や伝統に関わらず人間として美しいことを推進するという日本的な価値観で動いています。

 たとえば、今週の土曜日に開催される福岡フォーラムに参加していただく私たちの仲間である井本勝幸氏は、青年海外協力隊の経験から、ミャンマーが政府勢力と反政府勢力に分かれてずっと内戦をしている。だからそれを何とかして止めたいという気持ちから徒手空拳で単身何のつてもなくミャンマーに乗り込みました。

 そしてほんの数年で各反政府武装勢力の首脳と仲良しになり、信頼され、日本人の井本が言うならばということでミャンマー政府と話し合いを持たせ、停戦合意にいたりました。

 でも、まだ現地では時々政府側と反政府側の武力衝突が起きています。
 
 しかし、そのなかで日本からわさびの苗を持ち込み栽培を始めています。こうぞなども栽培し、和紙の生産も始めています。

 貧困から芥子を栽培し、それが麻薬となり世界中に流通しています。彼らとしては生きるためにそれを清算せねばならないのです。でも、それが闇社会の収入源としてたくさんの人々を不幸にしています。

 これは白人がこの地に入ってからずっと伝統的に行われてきました。せっかく先人たちがこの地を白人から解放しても悪癖はのこり、それが伝統となり習慣として続けられてきたのです。
 
 物事を100年で区切ってしまえば、これが彼らの伝統となります。しかし、1000年で区切るとこれは最近の悪しき習慣だということがわかります。

 それを元に戻そうとすることは彼らの伝統文化習慣の破壊になるのでしょうか?

 答えは「否」ですね。

 ここで日本的な判断基準が生きてきます。

 それは人として「美しい生き方」なのだろうかという判断基準です。
 
 善か悪かという判断は、その基準やその時の状況・価値観によって左右されます。

 でも、一見「美しい生き方」という抽象的な判断基準だとそれを判断する人の民度の高さも問題になってきますが、とても便利なものです。

 人間が学び新しいものを知ることの喜びは、セックスして得られる快楽よりも崇高で素晴らしいものだと最近思えるようになってきました。
 
 それは男女の差は関係ありません。

 知らなかったことを知る喜び、知的な好奇心を満たすことがどれだけ人間の深い喜びに繋がることでしょう。

 だから、私はマララさんを支持するのです。児童労働の強制によって子供たちから学ぶ喜びを奪っていいのか?

 奪うことが人間として美しい生き方なのか?と考えれば答えはおのずと出てきます。

 さらに、私利私欲のために自分の価値観を押し付けることと、美しい生き方のために人間本来の喜びを取り戻すことは大きく違うと思っています。

 前述の井本勝幸氏の活動により、反政府勢力側にも平和な普通の生活がもたらされようとしています。

 その見返りに彼らが井本氏に協力を申し出たのが、先の大戦で尊い命を捧げられた英霊の方々のご遺骨の収集を手伝うということでした。

 もし、井本氏に私利私欲があり自分が有名になること、自分が豊かになるために活動をしたのなら、こういう見返りでは満足しないでしょう。

 でも、井本氏はその協力に感謝し、戦後日本人が足を踏み入れていない地域に入っていきながら、旧日本兵の方々のご遺骨の埋葬場所を確認する作業もされています。

 以下は井本勝幸氏のフェイスブックのタイムラインからの引用です。

 >>>引用はじめ


『元ビルマ軍兵士の娘』

 彼女の名前はヌアム・ザ・チン(80歳)。亡くなった父親は元ビルマ軍の兵士として日本軍と行軍を共にしていた。

 僕の前までヨボヨボと歩いてきて、僕にゆで卵をくれた。


 「私の父親はインパールから退却してきた時にここまで逃げ落ちて来て、日本の兵隊さんから『お前は軍服を脱げ。後のことは俺達に任せておけ。お前は、普通の人になって生き延びろ。』と言われ、言われたとおりに平民に成り済まし戦死を免れました。

 父からは『いつか日本の人が来たら、必ず御礼をするように。』と言われていました。父はその後、この地でゾーミの母親と結婚しました。

 日本の兵隊さんのお陰で今の私があります。本当にありがたいことです。しかし、私は貧しいので御礼を返すものといったらこのゆで卵が精一杯です。聞けばこの間、ゾー・カン・クワルという名の日本人がこの村にやって来たと言うではないですか。その方が今日ここにまた戻って来ると聞いて、今日はここまでやって来ました。

 プー・クワルさん、どうかこれを受け取って下さい。本当にありがとうございました。」

 この言葉は僕のような者が頂ける言葉ではない。このゆで玉を受け取るような資格は僕には無い。でも、彼女は父親の遺言通りにその約束を果たそうとしている。だから、僕はありがたく押し頂いてそのゆで卵を受け取った。

 ゆで卵はこの辺では高価なものだ。横にいるスワンに「僕はこれを受け取ったけど、これを僕が食べるわけにはいかない。栄養のある高価なものだから、後でこの村の病人や子供に食べさせるように。」と言って置いてきた。

 古老達への取材陣のインタビューが無事に終わり解散となった時、彼女の姿を探したが、もうその姿を見つけ出すことは出来なかった。もう家に帰って行ったのだとスワンに言われた。

 ヌアム・ザ・チンさん、今度僕が来た時に一緒にゆで卵を食べようね。

 >>>引用終わり

 いかがですか?

 私が日本でできること、それは井本氏の活動を一人でも多くの人に知らせ、物心両面で協力者を募ることだと思っております。
 
 今日もミャンマーのどこかを愛車「ゼロファイター」で疾走していると思いますが。

 今週の金曜日には帰国して土曜日に福岡市の都久志会館で13時から開催されるNPO法人夢・大アジア主催の「福岡フォーラム」に参加します。
 
 皆さんも会いに来ませんか?参加費は1000円。カンパは自由!でも、本物の男に会えます。

 こういう本物の男に会っていると口舌の徒はすぐに見抜けるようになります。そして自分が自分の利己心に走っていないかの戒めにもなります。

 当日は私が司会進行をさせていただきます。
 
 人間として美しい生き方を追い求める。

 私心なき善意により「敬天愛人」に徹す。

 この二つを追い求めている限り、自己文化の押しつけにはならないと思っております。

 パキスタンの人々も女性で賢い人は出ています。

 日本よりも早く女性首相のブットー氏がいました。彼女は伝統を重んじて教育を受けていないのでしょうか?

 彼女は女性だから首相になったのではなく、人間として優秀だから女性になったのです。

 イギリスのサッチャーさんもそうでした。いつも女性首相と男性首相の違いを質問され、毅然とした姿勢で次のように答えていました;

 「私は男性になったことがないから知りません」と。
 
 これには、『いつまで男性・女性と区別しているのよ、そんなことを気にするよりもイギリスが現在抱えている問題は皆さんの死活問題ですよ。』という意味が含まれていると思っています。

 伝統・文化は尊重すべきです。でもそれが人間として美しくなければ時代と共に変化しても何ら問題ないと考えます。

 翌19日福岡市谷の陸軍墓地で開催される福岡郷友連盟主催の慰霊祭では、日本の伝統芸能である詩吟や筑前琵琶を使った戯曲を現代人にもわかりやすい言葉で綴った「ペリリュー島の桜」を上演します。

 これも古典しか上演しないでは詩吟も筑前琵琶も廃れてしまうという危機感を持つ仲間を集めて、耳で聞いてわかる日本語で構成をした作品です。

 この原作構成を私がさせていただいております。

 ここにはその前日福岡フォーラムに出席されたペマ・ギャルポ先生をはじめとする東南アジア出身の方々も列席いただきます。
 
 英霊に感謝する気持ちを自分のできることで表す、日本人として美しい生き方だと思っていますが、いかがでしょうか?