メルメ・カション、「詳細 日本史研究」(山川出版)にも出てこないほど些末な歴史上の人物。

でも、歴史マニアなら知っている。

メルメ・カションに関する資料、書物は少ない。

現在、フランスでも販売されているのは、アイヌに関する研究書と、仏英日辞書である。

メルメ・カション神父は、そもそもキリスト教の布教のためにアジアへ派遣された。

 

ここで、そもそもキリスト教の布教のために、なんでアジアまで来たのかは、教科書に書かれていない(と思う)。

ことの発端は16世紀に起きた「宗教革命」にあるという。

ローマ・カソリックと、プロテスタントに分離したルターとかが出てくるあれだ。

この分離によって、いわば陣取り合戦が始まった。

しかしながら、ヨーロッパの勢力図を塗り替えるのは困難でありカソリックは世界布教に打って出た。

当時カソリックの覇者はスペインとポルトガルであり、バチカン市国が布教許可を出したが条件があった。

スペインは西回りに布教を広げよ、ポルトガルは東回りに布教を広げよ、と。

この結果、スペインは、南米に向かう。

また、当時の思想として、ヨーロッパ人以外は野蛮人であり、野蛮人はキリスト教徒になることで文明人になれると思っていた。

 

じゃあ、おとなしく布教したかと言えば、そうは行かない。

ヨーロッパには「十字軍」(1096(1回目)〜1272(9回目))のビジネスモデルがあった。

後半になればなるほど、異端討伐や略奪が行われる。

スペインは、武力で制圧、インカ文明を滅ぼし、南米大陸を植民地化していく。

 

一方、ポルトガルは素直に東に向かえない。

東にはイスラム圏があるので、ポルトガルは、一度東に抜けブラジルに寄ったのち、喜望峰を回ってインドへ向かった。

ついでに寄ったブラジルは、結果、ポルトガルに征服され、公用語がポルトガル語となった。

このポルトガルルートには、例のフランシスコ・ザビエルが乗っていた。

船は、インドのゴアに到着し、そこに日本から逃れてきていた日本人の「ヤジロウ」と出会う。

弥次郎は、日本初のキリスト教徒と言われている。

弥次郎とザビエルは出会いキリスト教徒となり、ザビエルに日本のことを話す。

ザビエルらは、中国を目指していたと思われるが、弥次郎との出会いによって、ついでに日本へ行くことにした。

時は1549年4月、彼らはインドを離れ8月に鹿児島に上陸した。

おのずと、宣教師達には商人が同行し、織田信長らは彼らから鉄砲を入手する。

 

日本は、布教者からしたら「ちょろかった」。

大名が入信しキリシタン大名が生まれたし、ザビエルが中国に渡った1552年後、日本で入信していた人の数は40万人とも60万人とも言われている。

1562年の日本の人口は約500万人なので、わずか数年で10%以上がキリシタンに入信したことになる。

これは、布教側から見て異常なことだったに違いない。

 

しかしこの世の春は長く続かなかった。

キリシタンが広がるとともに海外との貿易が活発化し、その大名が豊かになってしまった。

これは中央政権にとっては好ましくない。オランダの入れ知恵もあって、秀吉は1587年にバテレン追放令、江戸時代になるとキリシタン禁教令が発布され、隠れキリシタンの時代に突入する。

参考

学校よりわかる!ザビエルが日本に来た理由と隠れキリシタンの歴史

https://www.e-aidem.com/ch/jimocoro/entry/mutsuochan06

 

時がたち、1828年9月、Eugène-Emmanuel Mermet-Cachonは、フランス東部に生まれた。

1952年にパリ外国宣教会神学校に入学し1954年に司祭に任命された。カション27歳だった。

ここからが、日本のWikiとフランスのWikiの記載が若干違うので混ぜます。+「スランス人の幕末維新」

 

1954年に司祭に任命された後、カションらは香港へ送られた(仏Wiki)。

そして、1955年、カジョン神父らは琉球へ向かった。

琉球での布教の許可は得られなかったが、乗せてきた船は、カションらを那覇に置き去りにして去って行った。

琉球王国は、置き去りにされたカションらを殺害せずに仕方なく上陸させたが監視をした。

そして布教活動は認められず、結局、琉球の滞在時にカソリック(フランスはカソリックです)に改宗できたのは、わずかに1人だったという。

そんなカションは、琉球で日本語を学んでいた。

鎖国中の琉球は、表向き中国に従っていたが、裏では島津に制圧されていた。

そのため、琉球で日本語を学べたことは不思議では無い。

 

1856年、体調を崩して香港へ戻った(日Wiki)。

1858年、日仏修好通商条約の通訳として、グロ男爵に採用され日本へ向かう。

彼らは、まず下田に行きもてなしを受ける。その際、本物のカステラを食し、おどろいたという。

その後、一行は江戸に向かう。江戸の町をカションも散歩している。

外交団は、通訳として中国人を雇って連れてきていたが、当時の日本では中国人は馬鹿にされていて、上陸させることができなかった。

そんなこんなもあって、カションの通訳としての役割が重要なものとなった。

もちろんカションは江戸での外交交渉(条約締結)に立ち会っている。

 

さて、その後のカションは。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

万年筆のプレゼント

 今日の東京はピーカンで暑かった。

 

そんな中、某文房具屋さんで万年筆を見ていたときのお話です。

女性(20代)が、店員さんと相談しながら万年筆を選んでいた。

状況からすると就職祝いか。

選んでいる姿がかわいく、ある意味、選んでいる自分(その人)に酔っている感が感じられもしました

(個人の感想です)。

 

最後に、名前入れを店員さんが紹介したときの女性の質問

「一般の男性は(ペンに)名前入れるのでしょうか?」

 

個人の感想ですが、コートやスーツなど会社や居酒屋で間違われないようにしたい物にはイニシャルか名前を入れますが、ペンには名前入れません。

と言うか、万年筆を仕事で使う人はめったにいないと思います。

営業、デスクワーク含めて、見たことが殆ど無いです。

 

パソコン社会なので報告書はパソコンで作成、プリント。

経費の精算とかで書くときはボールペン。

プレゼントするなら、実用的なボールペンの方がいいと思う。

が、店的には価格が高い万年筆売りたいんだろうな。。。

 

蛇足

パイロットのカクノ(中字)を買ってみました。

???

思ったよりペン先が細い、固い。フランス語には向かない。

特に青インク入れたら、細い。

パイロットのEliteの中字より細い、固い。

こうして見ると、同じ1000円でも、無印良品のアルミ丸棒の万年筆はMよりは細いけど、なめらかに書けてお買い得でした。

 

下関事件

 今日のお題は「下関事件」です。

(1)1863年5月、長州藩は、下関海峡を通過する外国船に対して砲撃を行った。

まず、アメリカ商船に砲撃。その後、フランス艦、オランダ艦にも砲撃。これに対して、アメリカ海軍、フランス海軍が砲撃。

 

(2)1864年8月、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの四カ国連合が下関を攻撃。

イギリス艦が9隻、オランダ艦が4隻、フランス艦が3隻、アメリカ艦が1隻だった。

アメリカ艦が少ないのは、南北戦争で手一杯だったため。

やられていないイギリスがボスだったのは、日本に対する利権目的。

長州藩は完敗。

 

(3)講和

監督不届きとし、幕府へ賠償請求が行われた。

・四カ国への賠償金は300万ドル

・50万ドルずつ三ヶ月毎に6回払い

・賠償金の代わりに下関か瀬戸内海の一港を開港

幕府は、開港を拒否して賠償金を選んだ。

 

この賠償金は、ぼったくりで、そもそもがフランスの被害額が14万ドル、砲撃された3国に14x3=42万ドル。

あとは、参戦した艦の費用等と詳細不明。

長州藩は、幕府に押しつけ、幕府は半分

・1865年7月に1回目の50万ドル

・1865年11月に2回目の50万ドル

・1866年4月に3回目の50万ドル

を支払った。

ここで、幕府は力尽き、支払い延期して、残り150万ドルは明治政府が払った。

そもそも幕府は長州藩や薩摩に払わせていれば。。。

 

(4)アメリカの対応

アメリカ、フランス、オランダは、砲撃を受けていたため賠償金として78万5000ドルを受け取った。

一方、砲撃を受けていないイギリスは64万5000ドルを受け取った。

下関事件は、リンカーン大統領時代に発生。

アメリカは、賠償金ではなく、新しい港の開港を望んだが、フランスとオランダは賠償金を望んでいた。

 

このリンカーン暗殺の生き残り2人は、シュワードとグラントだった。

シュワードは、日本から受け取った賠償金を「強い物が弱い物をいじめて奪い取った卑怯なお金なので、アメリカの精神にあわないため国庫に入れない」という英断を下した。

この理由は、アメリカは参戦した船は1艘であり、実費で2万ドルしかかかってなかった。

もらいすぎではないか、と問題提起した。

 

その後、アメリカでは何度となく議会で日本へ返還しようとの話が持ち上がるが、上院は通過しても下院を通過しなかった。

8年が経過し、賠償金は公債で運営され、利息も付いてふくれあがっていた。

結局、最終決着として、利息分は返却せず、賠償金78万5000ドル87セントを日本へ返却することが1883年2月に可決された。

 

この間、グラントは、大統領に就任し、引退後、世界旅行の最後に日本に二ヶ月滞在し、明治天皇とも話した。

さらに明治政府のロビー活動があった。

なお、イギリス、フランス、オランダは賠償金を返却していない。

☆戦争をふっかけて、なんくせつけてぼったくる、払えなければ次の条件を突きつける=ビジネスモデル

 

(5)横浜の埠頭

横浜は早々と開港していたが埠頭がなく、船を直接接岸できなかった。

このため、船は沖に停泊し、そこから艀に乗り換えて移動していた。

埠頭の計画は当初からあったが、明治政府は金欠であり見送られていた。

1889年、すったもんだした末、返還された賠償金もあてられ、ようやく第三橋の工事が始められた。

まっすぐ伸びているのが完成した大桟橋。

この大桟橋は、その後、メリケン波止場と呼ばれることになる。

 

この話を読んで思ったこと

「トランプ、建国の精神はどこへ行った?」

「アベ、あんたの祖先がアメリカに砲撃したツケが、その後の日本を苦しめた呪縛を忘れるな」

 

参考文献

「横浜港の七不思議」田中祥夫 有隣新書