山本清風のリハビログ

神様のエロ本


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 大山のぶ代のドキュメンタリーを少々暴力的に要約してみるならば「彼女は子供を持つことができなかった。そのため〝母親〟のような心情で、ドラえもんを演じた」というのを観てまあ、号泣したのだが、というのも自分は旧ドラえもんにやはり名状しがたい感情を抱いていたのであり、幼少期ことばにできなかったそれが母性だったのだと明示され思わず、フローリングに落ちたものが、涙であった。

 汚ねえ涙だ。この涙をあいつにくれてやればよかったのに。

 二歳を過ぎた辺りから子供、ドラえもんを視聴できるようになり私はこれを嬉しく感情、というのも、幼少期ドラえもんを全く接種しなかった細君はこれサイエンスフィクション、めっぽう暗く、パラレルワールドであるとかループ落ちに今更驚いて、『君の名は。』かなんかを誤って視聴して、絶賛してしまいそうな危うさがあるのである。ほっとけないよ…。

 

 パラレルワールドも鏡面世界もタイムリープも人工知能もミクロワールドも恐竜も自己犠牲もロボットのセンチメンタルもどれもドラえもんが既にやっているのだし、リインカーネーションだけはぼく球に任せるとして子供と大長編、世紀を跨いで再視聴してみると感心しきりで、評価に納得ゆかぬ気さえしてくるこれだから中年は嫌である。

 とまれ新作ドラえもん、十年を経過してがんばっているとは思うのだが、感動エピソードばかり紡いだ3D映画で電気ショック設定を追加したというのを聴き、おまえ全然わかってない、都合いい設定を勝手に足すな、おかまか、深い失望を覚えたのは記憶に新しく、同世代で当時ドラえもんを摂取していなかったであろう知人女性がその作品を大好きと宣言したので、確かに女性の好きそうなぱきりとした理由、ぱきりとしたプロットだろうけれど北九州の事件じゃあるまいし、電気ショックというのは無害なはずの人間が殺し合いを始める拷問なのであって、ドラえもんとのび太の関係に差し込んでいい電極などはない、そっちがその気ならこっちだって月の光に導かれたのではなく、ただ電気ショックが怖いからというだけの理由だけでセーラー戦士を全員集めるからな、ルナもアルテミスもだからな、程度のふつふつとした想いが、ないでもない。とそのような理由から、新作ドラえもんを信用することができないのだった。あとドラミの声優が千秋だから。

 千秋もココリコもどうでもよく、子供ができるとアニメ映画の声優を演じたがるのが芸人である。それは月の満ち欠けや潮の満ち引きと同じく、法則に過ぎない。新作ドラえもんで最高とは言わないまでも評価できる点としては、ドラえもんの母性の喪失がある。

 

 のび太は駄目な人間として描かれる。勉強ができず恋愛も上手くゆかず友人も親友と呼べる存在はなく果てには不細工な少女漫画家にして友人の妹と結婚してしまう、そればかりか駄目であることを証明するように二十二世紀からドラえもんがやってきて、歴史を書き換えようとするのだから存在を頭から否定されたも同じことである。しかも、それを享受してしまう駄目さがのび太にはある。例外として三秒で昼寝でき、射的の才能があって確か、あやとりも得意であったと記憶している。黄色いシャツと半ズボンを着用している。

 歴史を書き換えていいのか? 後に登場するタイムパトロールの概念にドラえもんやセワシの行動は抵触しないのか? 結ばれなかったジャイ子はいずこに? 明確な回答はないのだけれども、少なくともミニドラが登場する短編を観る限りジャイアンもスネ夫も経済的には成功したようだし、のび太は若干のキャラ変を経て、源しずかと結ばれたようである。その辺の補完が旧作末期の帰ってきた、だとか結婚前夜などで描かれていたような気もするが、子供と観ていないのでわからない。少なくとも私たちの二十一世紀はミニドラみたいではなかった。

 のび太はひとりっ子にありがちなことだが、甘やかされて育った。両親はそうでもないが、ひとりは祖母に、もうひとりはドラえもんに。後者のドラえもんはのび太に泣きつかれると、日常の不条理を解決する未来のひみつ道具を与えることによってその難を回避させるが、これは大抵の大人が感想するように、学ぶ機会をのび太は逸したとみていい。というのも、物語を一定程度観てゆけばのび太がまったく学習していないことがわかるからだ。ともあれいつしかドラえもんは未来に帰ってゆき(この、未来に帰ってゆくという矛盾形容がそもそもSFですばらしい)どうやらのび太も学んだらしく、キャラ変してずっとずっと好きだった意中の相手と結ばれるのである。
 

 ―――では、私たちは?

 どんなことからも学ぶことができる。同様に、どんな物語からでも、アニメだとしても。


 のび太は日々ありうべからざる設定によって受難を回避するが、その実、よく思い返してみれば毎度失敗するのであり、軽妙な音楽が流れエピソードは幕を閉じるのである。短期間暗記できる方法があっても一時凌ぎにしかならず、自分以外すべての存在を消すことができても問題は解決せず、実は都度都度教訓は語られているのだが、まずは視聴者とのび太との距離感、そしてドラえもんという存在によってそれらは婉曲に摂取されたり、時には、湾曲されてしまうこともある。

 先般申しあげた通りのび太は駄目な人間。感情移入し、自らと同化すると、どうにもやれない。というのも、自分は駄目な人間であると認めることになるから。ここだけ抽出してみればドラえもんは文学としか言いようがない。日常から乖離すべく摂取するはずの物語で感情移入すべき相手が駄目な人間であった場合、それは本当は駄目な人間ではない者が深窓の令嬢として醜悪下劣な悪漢に犯されるようなカタルシスか、或いは屑である自身を肯定するスタンス、いずれも文学作品としてこんにちまで読み継がれているスタイル。

 

 しかしながら私たちにはドラえもんがいない。とここで、のび太に対してあやかりたい感情を陽極に振るのかそれとも、負極に振るのか。後者であれば視聴はそこで終わりだ。他方前者であった場合、少なからず自らをのび太に重ねぬわけにはゆかず、よくあるのは「俺ならこうするね」式楽しみ方で、ひみつ道具を自分ならこう活用するねという二次創作だが、これは大概脳内でのみ執筆されビッグサイトなどには並ばず、空想力を育んだりしつつ己自身の欲求と、対峙することになる。

 どんなことでも「自分は違う」と発語した瞬間、容易に足許はすくわれる状態にある。つまり自分はのび太とは違う、だけれどもドラえもんがいる都合のいい設定だけは欲しい、あんな駄目なやつとは違うんだ、でもどこか似ているところもあるかも知れない、でも自分にはドラえもんがいないし確変も全くこない、自分は駄目な人間である、というように距離感を測り誤ることは緩慢に転げゆくことである。

 これは以前にどこかでも書いたことだが、「自分は特別」と思っている人間の凡庸は、特別がゆえ自らの評価が低いことを不満に思っているも、その理由となると「誰々がこうであるのに自分の待遇がこうなのは納得いかない」であったりして、その論拠は社会主義的なまずもって平等であることを前提としており、しかも、その上で自分だけは超法規的に優遇されたいということになるため、翻って「自分は特別」という大前提に自ら矛盾してしまっているのだが、都合のいい忖度とでも言っておこうか、私は、ドラえもんについて都合のいい忖度をした人間こそが、共依存カップルの道を一路駆け落ちてゆくのだと思う。

 共依存カップルは受動と能動を役割する二名から構成されており、よくあるパターンが「俺が守らなきゃ」の男と「あたしひとりじゃ何も考えられない」の女ではないかと思うが、ディティールこそ時代によって変遷もあろうけれど仕組みは皆一緒、という伝統様式であって、男が自己顕示欲であるとか野心プライドを注ぎ込むようにして女に向ける力学(自分に自信があるがその実、全方向的世界に対して自信があるわけではない)と、女は男のすべてが自分の方角に結集するよう時にはあえて困った行動をとるなどして(この場合こちらは受動であるから能動である男をきっかけにして、時には全世界に向かって自信を持つこともありうる)、双方に力学を駆動させ永久機関たらんとする試みである。

 

 ともあれ人間、色々と劣化するものだからどちらかの動力が不足することもあり、その場合は守られ設定のはずの女が気づけば男の思考行動の源泉となっており、いつしか手段が目的化しているかのような体位の入れ替えが起こる。このようにときどき体位を入れ替えることでやはり永久機関たらんとするのが共依存、お互いがなくてはならないスペシャルな関係になる、というか、怠惰に互いを落としこんでゆくというのが共依存カップルの典型とここに書いておきたい。旅の記念に。

 体位の入れ替えについて先程触れたが、広義に於ける共依存カップルとは男女の役割が逆転している場合もあるし、同性同士ということもあるだろう、時には親子なんてのもあるかも知れない、人間関係のひとつのパターンに過ぎない。だが、その多くがどれだけの配慮ともしかすると自分たちはふたりだけの世界にいるから、なんて思っているのかも知れないが、大抵が周囲に多大なる迷惑をかけているものだ。そこがいけない。たとえば不倫カップルは永久機関たらんため不貞の設定を導入しているが、その時点でまず家族に迷惑がかかっていると思って差し支えないし、更に両輪大旋回させるべく、上司と部下の設定が採用されていたなら仕事は本来の意味から離れ、ふたりがずっと一緒にいられるための刺戟物質に成り下がっており、だんだんと社会に迷惑をかけている度合が高まってくる。年輪を経るたび周囲の人間は増えてゆき、通常なら社会的地位も向上しているだろうからその深刻は、目も当てられなくなってくる。こうなると、共依存カップルと言って先刻提示したプロトタイプからはだいぶイメージが離れてきただろう。共依存カップルがなにも電車の中、衆人環視の場面で対面座位風キスをしているだけの存在なら、しかもそれが不細工同志であれば、わざわざ私はここに書かない。旅にも行っていない。

 そもそも旅に出ていない。ずいぶん前に新作ドラえもんから母性が喪失されている点を一応に評価したのはつまりそういうことで、私たちが旅に出る理由ではなくて親子の共依存を曲解した視聴者がやらかさないかどうか、たぶん旧作を観ていたであろう世代が新作で電気ショックなどやっていては心配でならないから。

 ドラえもんとのび太の関係は友情であり、先にも述べたようにのび太には友人はいるが、親友はいなかった。のび太は自身の孫の計らいによって親友を得たのであり、共依存カップルの問題を抱える人々に共通するのも、友人の少なさであると思う。同性の友人(正確に言えば〝性交渉不要で自分を理解してくれる他者〟だ)が少なく、或いはそれを看板に掲げている女性は一方ではビッチになるけれども、容姿や社交性の問題などもあり、近距離パワー型である場合は男の足を踏みつけて殴打するより選択肢がないこともある。殴れば嫌われるのはひとの道理で、次に殴る男を探し続けるか或いは、精神的に殴るかの二者択一となろう。世界には巨悪と戦うスタンド使いもいるというのに。

 友情の強度を高めているのは設定である。

 といっても電気ショックなどという陳腐で短絡的なご都合主義ではなく、ロボットという設定。しかも猫型ロボット。猫を飼ってみればわかるが、彼ら彼女らは実に適切な距離感で人間と接するばかりか、しかも野生の矜持を捨てはしない、虐待されることはあってもそれが性的であったという事件は、少なくとも自分は聴いたことがない。もし聴いたら、野良猫の群れに犯人を喰わせるのであるが、喰わせたくないものだ。で、理由や動機はどうあれドラえもんとのび太は心を通わせ、友情を育む。学校のことや恋愛のこと、親にはしない内容だってのび太は、ドラえもんに相談する。それは友達だから、親友だから。

 

 だからドラえもんに幾ら母性があったとしても、親と子がそれをしてはならないし、性交渉可能な相手とそれ行うことで、人間はおかしくなってゆく。親にすべき相談を上司にし、友人にすべき相談を恋人にすることで、愛情と義務とは履き違えられ、時に心の機微や学ぶべき問題は性交渉のスパイスにと悪用され、論点は転じ、周囲の視界が利かなくなる、おまえはいま緩やかに、不細工な漫画家と結婚する頭から否定された存在としての約束された未来を、享受したことになる。

 ドラえもんとはそれらバランスをひとつでも失えば消えてしまう、というか最初からわかっているはずの、夢の世界だ、だが私はそれを壊されたくないし、壊されたくないひとはまあ、ジブリよりは少ないかも知れないが多少、いるだろう。まだドラえもんは負けていない。のび太とドラえもんの友情に曲解の差し込む余地を与えてしまったら、ドラえもんのポケットにのび太がスカルをぶっこんではあはあする漫画が多数ビッグサイトに並ぶことになってしまい、それはドラえもんの敗北を意味している。夢の終わりだ。だが、まだがんばっている。

 藤子もまだがんばっている。星になってからもうだいぶ経つというのに、水木しげるが働き過ぎでみんな死んだとスピーチして、それからだってずいぶん経ってしげるも星になったというのにそれでもまだ、私は藤子・F・不二雄ミュージアムで子供とふたり、アンキパンかなんかを齧っている。そしてもしもボックスから電話して、ポコニャンの短編映画を観たり土管をくぐったりして、パーマンの主題歌流れる南武線をプラットフォームで待ったりなんかしている。ありがとうF、Fありがとう。はじめて購入した絵画は藤田嗣治なんて「めっちゃセンスいいじゃん、てゆうかマジで猫好きなんじゃん」なんてなんて、少々筆が乱れたが私だってかめはめ波を諦めない、まずは落ちている石を自らにぶつけてテレポートするところから始めたいと思う、あとお約束とはいえ三歳児には観せにくいほど劣情が多過ぎるぜ、不二雄。

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 これは私の気の所為かも知れないが昨今、いやに吉田沙保里がくきりとメイクしている雰囲気を感じるのであって、別段、殆どテレビジョンも観なければネットも制限しているのにぽこり挿入される事故的な出逢い、それがばちりメイクの吉田沙保里であるのかも知れない。
 知らない。知らないが、こんなことはないと思うしないと信じたいのだが、アスリートである彼女がしかりメイクをし、それをもしも可愛いと発言する風潮があるとして――。どうして彼女は美容室に通っていることや洋服が好きなこと、オフにはきかりメイクしていることを殊更に強調する節があるのだろうか。なんなんだろうか。
 テレビの演出なんだろうが。アスリートとしての彼女と妙齢の女性としての彼女、そのギャプおもしろいんすよ(まじ笑えんすよ)という演出なんだろうか、だとすれば死ねテレビ。もう死んでいるという声もあるから死体に蹴りを入れるニュアンスで、というよりは生ける屍に銀の弾と金の弾を撃ちこむ感覚で。ポケットモンスター いとし/こいし
 ただはきり明言するならば、動物的な危機回避能力も相俟ってそのような彼女、可愛いと言わざるを得ない雰囲気があることは否めない。だからある。強制力がある。だけど私は言わない。なんで? かわいいじゃんがんばってんじゃん化粧がんばってんじゃん努力を認めなよ? はい、認めよう。
 しかしながらそれはメダリストとしての努力であって、そんなもの私が認めなくとも世界中が認めているところの、努力である。それと比してメイクを努力という名の同じ地平に置くというのはこれ、金メダルも銀メダルもアルミホイルも光ってるよね式の暴力である。でも金メダルでも銀メダルでも六角電波の影響を斥けることはできないし、アルミホイルを持って行っても、質屋の反応はたぶんいまいちである。ポケットモンスター いくよ/くるよ
 そしてこんなことはないと思うしないと信じたいのだが、はきりメイクをしている吉田沙保里をして可愛いと発言する女性がいるとすれば、その前後の状況を慎重に精査した上でまず、「そうかなあ、おまえのほうが可愛いじゃん」を誘発する心理学であった場合の回答はこうである。
「そうだね。吉田沙保里は可愛いね。でもあなたは吉田沙保里よりも可愛くないのに金メダルでもなければ、目から光線も出ないんだね。かなしいね。ふびんだね」
 女は同性を褒めることで自らの優位を示そうとする。男は同性を褒めることによって優位にある同性に属性しようとする。女は異性を褒めることで属性化する。男は異性を褒めることによって性的に鷹揚さを示そうとする。というわけでおまえとおまえで四畳半に入って一生出てこなくてよろしい。子供できたらFBで連絡を。子供に、罪はない。
 

 

 

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 おまえに応対する私、つまり私が私と表記したとき無論私は私なのであるが、と同時に幾つかの私性的なものを想起していて、それはこと文章に限ったことで言えば文体を左右する、要するに口調であるとか人となりとなる私を指す存在たる存在が、何度でも言うが、幾つか存在する。翻っておまえを指す存在とはそう多くなく、多分男性で、多くても三人くらいだろう。どうでもいい。

 

 

 

 大局的見地という言葉は大して好きではなく、俯瞰であるとか鳥瞰と表記したいところだ、しかしそれも致し方がない。ひとにはそれぞれ事情というものがあり、情事に応じてそれぞれ事情は異なっているわけであるが、や、下ねたはやめておこう。私の文章というのは誰が読むというのを想定しない時ほど想像力の翼を羽ばたかせて、比喩は鳥よりも高く飛翔するわけであるが何度でもこれは言うけれども、ひとにはわけがある。事情があると二乗に言っておく。自浄作用も無論あるけれどもいまは自我よりも他我を意識すべきであって、この段落はそろそろ改行したほうがいい。しようよ。

 

 

 

 事なかれ主義もいいところだ。だがどうせ意味のないことを書くならば、徹底的やれというのが私の信念だ。文体は伸びやかに紙面を埋め尽くしているのに、読めば読むほど意味を喪失してゆく文章、このようなものが書きたいんだよと昔友人に言ったらば「はあ?」と言われた。事なかれ主義もいいところである。個人情報機密情報の類いは脳細胞に記憶したらただちにシュレッダーにかけるべきだ。シュレーディンガーの個人情報ではなくて、展開してみるまで個人情報が削除されているかどうかわからない圧縮ファイルではないのである。そこゆくと私などは住居情報のところのみすぐさま削除、然るのちスクリーンショットでも公開したいくらいなのだがインターネット、公開して後悔することのほうが多く、これはハービーハンコックも言っている。曰く処女航海とかなんとか。

 

 

 

 にべもないというのはまだましで、沈黙というのが一番堪えるという通説には、私も一応は賛成だ。というか追憶してみれば痛切に同意したいこころがある。まあこころなんてものはメルカリで売り飛ばしたが。とまれ沈黙というのは暗号ではなく、前述した圧縮ファイルではないわけである、まさか私も今回の文章が前段参考すべき構成を持つとは思ってもなかったが、沈黙というのはマックのぐるぐる虹色フリーズなのであり、これは十中八九、落ちる。作業中のデータは自動保存されていない。他方でにべもないというのは反応のひとつには過ぎないけれども、心理学精神分析メタファー認知行動学総動員して、どうにか妄想寸前のぎりぎりの解釈が余地されている。これをおまえは希望と呼んでみたい。パンドラの箱の底に残されていたひとひらの紙切れを、深読みしたり縦読みしたりシーザー暗号にかけてみたりスーパーコンピューターのワトソンで以て解析してみたり。しなくとも想いはきっと伝わっていると思うのが、それが妄想なのだと言っているだろうとは思うもののまあまあよくて、要は距離感を誤らないというのが肝要である。ひととひとの距離感こそがAbsolute Terror FIELD(絶対恐怖領域)であったりセンチメンタル(私はずいぶん以前からセンチメータルを提唱しているが一ミリも流行らない)であったり家族友人恋人インターネットメルマガメルカリ楽天トラベルなのだから―――。

 

 

 

 

 

 

 

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アパートのまえ
叢に朽ちている駆逐艦
私はあなたと一緒に眠ったこともある
股が破れてしかたがないので、来年
別離したばかりであるのだが。

因果律を冒涜するその目鼻だち、
手足口病、耳なし芳一
芳しい長男であるところのその
立居振舞、まいんちゃん。
大人にならなければよかったのに
とは、友人談

くちくちに朽ちた駆逐艦には
耳がない、鼻がない、口ばかりがある
一年経った来年にもきっと
私の悪者ばかりをいっているのである。
本気にしてはならない



春、駆逐艦を信用してはいけない。






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ビルが牛乳を飲んだコップにビールをついだ。



年下の知己がドイツで鬱屈し、またある知己が

ロンドンでややぼんやりしている頃、

私は私で今日もまた寝坊していた。



みな読まないのだが、読んでみるとじつは

よくわかるのだが、読まないだけなのだが

これらの文章は書き溜められており、

それは文章は降りてくる、降ってくるものだから

仕方がない。

降りてくるときに文章を書き溜めるのであるが、

降りてきた文章はいつ去るものとはわからない。



それが如何に愚かしい文言であったとも、

文章を受け容れた肉体というのはいつの日に

私という精神のもとに還ってくるかは

わからないのである。



しかるわけであるから、

目が醒めたとき、たとえそれが私の精神をたたえた

肉体であったとしても

過ぎ去った時というのだけはいかんせん戻せない。

自分はその一秒前までは洗剤をばらまいて

フェラーリに乗るのが夢のひとの夢をみていたのだから

ゆめゆめこの肉体が九時三〇分には半蔵門になくては

ならないことを知るよしがない。知らない。

げに想像力はかなしみをふかくする。



かくしてまたしても肉体に刻まれし社会の金言。

今回は「時は金なり」、「タイム・イズ・マネー」。

そういえば「タイム」も「マネー」も

ピンクフロイドの『狂気』に収録されていた。



『帽子が笑う……無気味に』のシド・バレット亡きあと、

ピンクフロイドは論理的思考とテクニックに基づいて

『狂気』を製作した。

そのアルバムには「タイム」も「マネー」も内在しており、

つまりそれ

『狂気』というのはすなわち『社会』であったのだ。

論理的思考に基づく『狂気』がじつは『社会』である、

というのは

これ以上にないアイロニーであろう。



定時より二時間遅れて到着した私のデスクには、

『二〇〇六年 トーハン新春の会 記念』と

刻印された目醒まし時計がひとつ置かれてあった。

これ以上にない副部長の大いなる慈悲に

陳謝。





(そして、合掌)






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 ぷりんたあ買ひたし、けふこのごろ。



 みなさまに於かれてはけんかう其のものと



 思えぞかし、けれ。











 而れど好機なからずんば、



 只よしな過ぎゆく日々のまにまに。



 ふと仰げば、ぱむちら。



 世のなか棄てたものぢゃなひ。











 翻ってきゃうだいよ。



 きゃうだいたちよ。



 ふうぞくにゆきなさひ。











 そろそろ電脳珈琲館にて更新するも



 嫌気ぞさすも在りぬれて、



 われ声を大にして云ふなり。



 不便ぞなもし。



 何処に好きぷろばいだあなど



 在りしもなん、と捜すれども



 彼方も此方も平日にしか工事を出来ぬと吐かす



 糞ぷろばいだあで在るに由つて



 わが電脳、



 如何ともし難きじゃうきゃうにぞ立たされりぬ。











 ちうやうな経緯も在ってからして此れからに、



 けふもわたしは電脳珈琲館にて独り。















 かたかたを云ふ。
















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 むかし松戸の国にちちを求めし男在りけり。











 西にちち豊かなる国あらば畑を為し



 東にちち乏しき国あれども赴きては



 ねんごろに掌を合わせ信心絶やさぬなり。











 或る時おどりばにて下着のごときいんなー



 いと流行り



 普くおのこのこころおどらすれども



 男ただ空し。



 また或る時さかみちにてぱむちら盛んになりて



 普くおのことびあがつて其の喜び表すれども



 男ただ無言。











 はて男



 其は何ぞ



 ちちに狂いて



 ちち狂いて詮なかるまひに



 何故空しくなりしや











 男曰く



 無言











 無言のままにそうがんきゃうを置き



 松戸の国へとかへつて往つたといふ。











 男はそうがんきゃうのむかうに



 何を求めたぞかしけれなむり。















 ぱむてえ。
















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 けふ、をんなになぐられた。












 をんなをなぐるることほど



 まこと許しがたきことはなかれども、



 をんなになぐらるることほど



 まこと甘ひ心地ぞするものはなし。












 をんなさうして蹴りにけれ。



 肩ぱむされるも悦ばしひことなれども、



 きつくされるもまた下のゆえ効くものぞかし。












 をんなにはもつと、



 きつくとぱむちをして欲しいものぞかし。
















 さもありなむる。













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 停留所わきのキャベツの花壇の土のなかに指輪を埋めた。自慢じゃないがそれは男のひとに貰ったものではなく、母がくれた祖母の形見の金の指輪だ。しかし埋めた。



 来たるべき出逢いがもしもあるとして、私はそれに怯えてしまったのだ。私の愛する私の時間のそのひとつびとつが、来たるべきそのいずれの可能性とも相容れないと思い描いてしまったのだった。だから埋めた。



 象徴として、墓標として、価値あるものをその決意にも似た諦観で以て埋めた。踏みかためてやった。ところで私は何様か。悲壮な決意でつきあうほど価値のある人間であるのかどうか。しかし私はどこにでもついてくる私に。



 父は不倫をしており、母は宗教に凝っていた。私はおちこぼれで、姉は天才小学生であった。社会範疇のなか規律正しく歪んでいる私の家族がそれでも嫌だった。いまになれば身ぎれいな人間などひとりもいないとわかるのにそれでも、なお嫌だ。



 社会的差異は否めない。私は二十五日締めのその日に山中へ遠足に行っていたのだし、いまもこうして指輪を区役所の花壇に埋めてさえいる。区役所前からバスがでるしかし私は乗らない、だって混んでいるから。面倒だから。



 ほとんどのひとが間違っていると言って、ひとにぎりのひとが悪くはないと言い、そして残りの私自身はというと決めかねるままに私を生きている。三十路手前の派遣社員として、時折の散歩など楽しみに。



 どうしようもない。どうしようかというか、どうなってるのか、といってもどうにもなっていない、ただ経年のみがあり私はどうにもこうにもなっていない。私が雑草であればその生き様は規範ともなるのに思考する草であったところでこの思考とはいったいぜんたいちんぷんかんぷんなのでなにぶんそうなのだそうであった。



「ごめんね」

「なにが」

「ちょうど人間に空きがでていてね」

「はあ」

「植物がいいって、履歴書にも書いてあったよねえ」

「はい」

「こういうのはさあ、タイミングだからさ」

「ええ」

「来期までどうにかそれでやってくれないかなあ」

「……」





神様のばか。






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 いぼ好きのする肉体。私の肉体。どうやら、好かれておる。手を焼いている。なぜならいぼというのは仔細に観察すればすぐにわかることだが、患部が柘榴よろしく粒々がひしめきあって構成されているのである。むぎぎ。



 皆様ご存知かどうか、私は存じあげないのであるが。いぼは疥癬同様ウイルス性の皮膚病である。というか病気は殆ど、ウイルス性か。言葉を選ばねばならぬ。そうしたウイルスというのは十把一絡げ、大気中に蔓延しているものであるが、ではなぜ人類みな顔といわず局部といわずいぼだらけにならないというと、いぼはひとを選ぶからである。



 自分は選民である。といった妄想では決してない。境界例めいた思想は持ちあわせていないつもりである。いぼにはいぼになる体質というのがあるわけである、勘違いしてもらっては困る。言葉を選ばねばならぬ。そのようにして、いぼになるひとはひとりで、かつ、ひとりでにいぼになってゆくのである。



 それでは、いぼができて困ることがあるかといえば、それが困ったことにさして、ない。一番の悩みというのが冒頭に陳述した柘榴よろしくの、根粒ひしめく生理的不快なのである。では見なければよい、という意見はあまりに賢すぎる。あなただって暇をすれば、授業中机に教材を用いて熱中している楽団の正式名称だとか、英語で言うべき言葉をあえて漢字で彫ったりもするでしょう。そういうことです。



 それでなくとも授業中は普段気にならない、耳垢の除去だとか著者近影の修正作業に追われること甚だ。そのようにして大人になった私にとっては、さして他人が気にしない自らのいぼを横に伸ばしてみたり、縦に伸ばしてみたり、校正用のルーペで拡大してみたりと気になって仕方がないわけである。



 いぼの悲哀というのはここにあって、さほど大きくなければ風体を気にかける必要もないわけである。その時点では悩みはほくろに酷似しているのだが、聞けばほくろは発癌性であるらしく、それではやはり除去せねばなるまいと、まあ上手いことレーザー治療に至るのであろうが、いっくらGoogle検索してみても「いぼをレーザー治療で一発」みたいな文言はどこにもみあたらないのであり、つぶつぶの密集が苦手な私としては非常に難儀している次第である。



 いぼの治療で最も有名なのは、はと麦である。はと麦、なぜ有効なのかは知らぬが、さしていぼ体質でもないひとのいぼは、はと麦エキスの錠剤というのがあってこれを服すうちにころりと取れてしまうそうである。また、サルチル酸も有効である。これは皮膚をぐずぐずにしてこそげ取る治療法で、同様に魚の目やたこにも効果がある。



 しかし私の肉体は、余程いぼ好きのする体つきをしているためか、それではいっこう埒が明かぬのである。それこそレーザー治療でもあれば一発なのだが、それは検索にひっかかってはこず、それでは逆に、はと麦を飲んでほくろが取れただとか、貧乳が直っただとか、二重まぶたになっただとか、或いは、サルチル酸で小顔になりました、とかそういう話があるでもなく、いっこう心が晴れぬのである。



 それでも他に頼るべき術があるわけでもないので、毎日欠かさず会社ではと麦を淹れ、指にはサルチル酸配合の絆創膏を巻き、データ入力業務を営む一方で、やがて患部がぐずぐずとし剥落するのだが、剥がした皮下よりまた新たなつぶつぶが台頭していたり、はと麦の効能で肌がつやつやになったり、思えばいぼも色艶がよくなっていたり、いっこうに心が晴れぬのである。



 水木しげるの漫画で、いぼを取ろうとしたらちょっとまて、ちょっとまってくれろと目鼻立ちもくっきりと、手足の生えたいぼとなって主人公に「カンニングを幇助してやるから見逃してくれ」と契約を申しこむいぼの話があるのだが、私のいぼ生誕十五周年ということもあり、どうせのことであれば、そこまでのものにしてゆきたい。






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