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2007年04月27日 05時00分43秒

祖母の手を握り

テーマ:家族のこと

父の一周忌法要を無事に済ませた事はこのあいだ 触れました。

それからひと月も経ってないんですが、今度は(母方の)祖母です。


入院していたんですが、病院から連絡が入りました。

心臓が危なくなったので主治医の判断で急遽「人工呼吸器」をつけたのだそうです。佐世保市にいる叔母と母がまず駆けつけ、今のうちにという事で、僕と、姉、妹も遅れて祖母に会いに行きました。

当然ながら、既に意識は戻らない状態。

「ご親族を呼んでください」と言われ、県外に住む娘たち(叔母さん)や息子たち(叔父さん)に連絡を取りました。

明日(27日の金曜日)、それぞれが来てくれる事と思います。

状況としては、現在手当てされている「人工呼吸器」を外したら、ほぼ逝ってしまうのだと皆が理解しております。


長男も県外におり、うちの母は長女で、ほぼ祖母の面倒を看ている恰好になっており、今回はうちうちで、我が家に連れ帰って、家族葬(または密葬)にて送り出すようです。僕は孫なので、父の時ほどの大変さは(今回は家族葬だし)ありませんが、ブログの方は落ち着くまでお休みになる可能性が高いと思います。

中心となって色々とやるのは子供たち(おじさん・おばさん)だから僕あたりは雑用係になるでしょうけど、今回はちょっと時期が時期です。早い話、ゴールデンウイークに差し掛かり、お店はきっちり営業しなければいけません。


普段は4人の家族が結構気ままに個々のペースで暮らしていますが、親戚が集まると総勢で12~3人という3倍に膨れ上がります。とにかく、何日かは大変だと思います。


また、祖母に関することをおいおい(書けたら)書くかもしれません。



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2007年04月05日 03時39分52秒

命日

テーマ:家族のこと

きのう、4月4日は父の命日でした。

忘れもしない去年の同じ日、それも清峰高校のセンバツ大会決勝戦の日です。父が息を引き取ってのは朝の8時8分でしたから、清峰の決勝とはたまたま重なったものですが。


この間の日曜日(4月1日)に一周忌法要は済ませました。ごく近しい方と身内だけで、佐世保の九十九島ホテルでやりました。3月の最終週あたりからお店はとみに忙しくなり、お昼も開けてるのでそれなりにかなりしんどくて、(ちなみに、昼はお客さんいないからやりたくなくて、「もう、昼はもうやめようかぁ」と母が言い出すのを待ってるのだがまだ粘っている)こぢんまりとごく簡単にすまそうという事で意見は一致していました。


今日は、やはり命日なのでお墓に行って父に会って来ました。

月命日にきっちり墓参する僕らではないから、やはりけじめでしょう。

父が好きだったお酒と、晩年よく口にしていた甘いものという事でまんじゅうですね。地元のふみきりまんじゅうをふたつ買い、地元の「花いく」でお花を買い。ふみきりまんじゅうというのは、その昔、ふみきりのそばにお店があって、それでそういう名前がついています。今は移転してるけど名前はそのまま。中にあんこが入った酒饅頭で、昔から変わらない素朴な味です。町立の総合診療所の前に店舗があった時代は、僕がよく風邪をひいて学校を休んでいたので、その病院に行って帰りのバスを待つときに、母がよく連れて行ってくれました。何せバス停の目の前にあって、まんじゅうの匂いがほわほわしてて、バスを2~3本遅らしてでも食べたいですわな。おでんとかも置いてあったから、まんじゅうとおでんと、その匂いがもう・・・。


お墓の前で、父にひとつあげて、僕がひとつ食べました。

昔よりもあんこが減ったかもなどと僕は感じました。父なら「こんくらいでちょうどよか」と言ったかもしれません。


あれから1年と思うと、早いようなもっと前だったような、両方の気持ちがあります。

早いという気持ちは、「まだいって欲しくはなかった。親孝行だってし足りないし、孫の顔も見せていないし。」というもの。もっと前という気持ちは、「もう父に頼る部分は少なくて、むしろ僕が食べさせていた面だってあるし、必要ないよ。俺はもう立派な大人だから。」という気持ちでしょう。しかし、精神的にきつい時にはやはり父の顔を思い出さずにはいられません。

父ならこういう時に何と言うだろうか?

これは、父が好きだったものだな。

あぁ、これは父がやってくれたものだな。

そんな風に、いつまでも父の叱責や、父のごつごつした太い指や、父の好きだった「水戸黄門」を思い出します。こないだ一周忌法要の時に、久しぶりに革靴を出そうとゲタ箱をあさっていたら、父の靴が出てきました。たわむれに履いてみたらかなり窮屈でした。戻しました。


父を必要ないと感じたり、逆に懐かしんだりというのはこれからもずっと続くと思います。そういうのを通り越した気持ちになれるのは、おそらく、僕が子供を持って、その子供が子供を持つ、つまり僕に孫が出来る頃かななどと思います。

それはずっと先のことでしょう。



墓参り

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2006年11月17日 06時51分26秒

母との会話

テーマ:家族のこと

松坂は60億ね?

うん、そうみたいねぇ。

そんだけあったら、もう「左うちわ」たいねぇ。野球選手やめてもよかたい?一生遊んで暮らせるよ。

・・・ちょっと待って。60億は移籍金で、年俸じゃなかけんね?

なんで?60億って言いよったよ?

だから、それは年俸じゃなかさ。年俸はこれから決まるったい。

・・・じゃぁ60億は何ね?誰かがもらうとやろも?誰が60億もらうと?

西武がもらうと!

西武ぅ?・・・西武ば辞めるとやろ?

テレビマスコミは、ひとまず最低限の知識を視聴者が持っているという前提で情報を伝える。母にはちとレベルの高い話だったようで。

あのね?松坂はたった今までは西武の選手。いわば西武球団が所有している商品。で、来季の契約を結ぶ独占交渉権をメジャーに売ったわけ。

ポスティングの話から始めると疲れるから、市場に出た段階から説明。

その交渉権をセリにかけて、競り落としたのがレッドソックスで、その金額が60億円。だから、60億円は西武に入る。松坂との独占交渉権を、西武が60億円で売った。わかった?

・・・ふぅん。

年俸はだいたい15億くらいって言われてるから、それをたぶん3年契約あたりに持っていくさ。すると15億かける3年で45億円。その60億と合わせて100億円くらいレッドソックスは必要になるさね。

・・・ふぅん。


母はそれで黙ってしまった。口を開いたと思ったら、きのうの「歩こう会」の話。100億と聞いて、もう全くついていけないと判断した模様。

「歩こう会」の仲間とグランドゴルフなる遊びをはじめてやったそうだ。ゲートボールみたいなやつ。それでスコアが29だったそうで、「え~。もっと多かったと思うよぉ?」

「数字は少なか方がよかとよ」

横の人がこそっと教えてくれたそうだ。

でも結構楽しんだとやろ?と聞いたら、「もう途中で疲れてねぇ。まだせんばとぉ?」って聞いたら「まだ終わらんと」と叱られたとか。

でも、おかげで晩はぐっすり眠れたそうです。

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2006年10月08日 04時55分51秒

犬と格闘

テーマ:家族のこと

うちでは犬を二匹飼っている。ハスキーの雑種(名前は「なな」という。これがうちにとって最初の犬)がまたまた雑種と絡んで生まれた子(名前は「うしこ」という)、それに「うしこ」と同様に「なな」から生まれた別の父を持つ子(名前を「みゅぅ」という)の二匹だ。整理すると、「なな」はハスキーの雑種で、うちで飼っている「うしこ」と「みゅぅ」はいずれも「なな」が産んだ子だが異父姉妹なのだ。ちなみにその母犬の「なな」は既にいない。


この二匹は他人が家の前を通るとわんわんと吠える。うちの前は生活用道路?になっていて、車も時折通るが、車の場合はそれほど吠えない。「すぐ行っちゃうからつきあワン」とでも思ってか、割合知らんぷりだ。その代わり、近所のばあちゃんとか子供だと「ほれ来た!」とばかりに吠えまくる。犬の本能なのだろうし、それでも小さい時にちゃんと躾けていれば吠えない犬になったのか知らないが、やっぱり普通はワンワン吠える。


今日、このうしことみゅうを連れて家の近くを散歩していたら、小学生くらいの女の子が3人歩いて来た。だいたいは吠えられても小屋の中から出られないから「きゃー」なんつって走って通り過ぎる彼女たちも、外に出ていたからややビビっていたようだ。だから僕がツナをきっちり握って離さないようにしていたし、「大丈夫だから通っていいよぉ」と促したが、最初の二人がさっと通ったあとで、3人目がなかなか通ってくれない。3人目のめがねッコは、もう足ががくがくと震えており、殆んど見ていて可哀想なくらい。うしこはワンと一応吠えはするが、それ以上行こうとはもちろんしなくて大丈夫だった。


ところが、そのめがねッコが通ろうとした瞬間、みゅうがいきなり活発になった。

首輪を握っているのだが、それを振りほどこうとするのだ、このみゅうは!

で、ばたばたと身体をばたつかせてとうとう首輪が抜けてしまったからもう大変だ。僕はあっわててみゅうの身体を抱きしめ首を羽交い絞めにして押さえるしかない。それを、更にみゅうは振りほどこうともがくもがく!

コノヤロー!ダメだっちゅうに!

僕はもう必死!みゅうの身体を押さえつけ、首をにじりつけ、くんずほぐれつの格闘劇とあいなった。当然うしこのツナも離せないからた~いへんなのである。完全に泥んこレスリングみたいになって、その草とか生えてる泥ばたでごろんごろんとすったもんだ。

「早く行って!」「今行って!」「とにかく行ってくれぇ~!!!!」

めがねッコが血相を変えて来た道をぴゅうと逆戻りして、それを先に通った二人の子が「○○ちゃ~ん、早く!」と取って返して呼び戻し・・・・。


いやいや。

すんでのところで、『めがねッコを襲う』という最悪の悲劇は免れたけども、冷や汗かいた。みゅうはうしこより1歳ほど年下で、ただ体はそんなに大きくはならずにどちらかと言えばうしこについて回る舎弟みたいな感じだ。やくざで言うところの鉄砲玉的存在。追いかけても、追い掛け回してワンワン吠えるだけで人に噛みつくような事は・・・恐らくないとは思うんだが、試した事がないから本当はわからない。弱い犬ほどよく吠えるってやつだ。しかし、本当に今度からは気をつけねばと思った次第。


ところで、うしこはなぜうしこなのか?生まれたときに毛並みを見ていたら、そのぶちのデザインがいかにもホルスタインみたいだったのだ。ほとんど牛っぽかった。それでメスだし、ウシ子にした。

みゅうはなぜみゅうなのか?身体が他の兄弟よりもすごく小さくって、こいつだけネコみたいだったのだ。それで、ネコならみゅうだろうと。鳴き声からの連想ですな。


あとで気づいたけど、おかげで右の肘に思いっきり擦り傷を作ってしまったぞ。こんな生傷を作るのはたぶん小学生の時以来で、かれこれ30年ぶりだ。

夜、風呂に入る時に完全に忘れていて「あちゃぁ!」と叫んだ。


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2006年08月11日 05時01分39秒

お墓参り

テーマ:家族のこと

率直に言って、眠いです。僕は明け方の5時過ぎに眠りにつきますが、母に起こされたのは朝の7時半。そりゃ眠いって。

涼しいうちに行くというのはごもっともな話なんで、それに疑義を差し挟むつもりはありません。墓に行く事はあらかじめ聞いてましたから、それに合わせて早く寝りゃいいんですけどね?身体のリズムがそうなってますので、なかなかいつもの時間にならないと身体は寝ちゃくれないもんで。


うちの墓は高台にあります。場所は相浦の漁港(魚市場)近くにあります。ここは階段が長々とあって、いつもこの段数を数えようと思いつつ忘れ、せっかく数えたのにその数を忘れなどしていましたが、今日始めてきっちり数えました。え~と、106段ありました。途中、2度ほど休んで息をつきます。母は5度くらい休む。登り終えたら、10分ほど休憩しないとなんにも手につきません。はぁはぁ・・・・・。既に汗だくだくです。


8月の13日は父の初盆だということで、この日はお店も休む事にしました。定休日の水曜日以外に休む事はまずめったに無いことですが、初盆は一度だけなので、休みます。お参りに来てくださる方もちらほらおいでのようで、ありがたいことです。で、うちの家族は従って盆前に墓参りをすませようと、こういうわけです。

セミが、みんみん鳴いていました。つかまえてやろうかと木にじっと目を凝らして探しておりましたが、そのうち殺気に気づいたのか鳴き止みました。そうなったら見つけてやるぞと構えてなお探しましたが、とうとう見つけられませんでした。ふっ、命拾いしやがったな。


墓の周囲には何かと色んな木が生い茂っています。もともとは山だったのを切り開いて、そこかしこに墓を建てて、そうやってこの墓地が出来ている模様です。父の墓の近くにも、最近栗の木がある事に気づきました。あれ?なんか見慣れたもの(イガグリ)があるなと上を見たら栗の木でした。また、サカキ?ってゆうの?榊?花を供えるときに一緒に添えるヤツ。あれもちらほら植わっています。母の言によれば、花と一緒に買ってこないといけないものらしく、うちの場合は現地調達できます。ラッキー。それに、近くにユリも首をもたげておりましたので、「おぉ丁度よいっ!」と頂きました。写真はちょっと失敗です。フレームの外側におるんですが。

四十九日の前に、一度姉と二人で草刈りを済ませています。「ぶい~ん」とうるさい草刈り機を肩からぶら下げてよっこらえっこら登ってきて、バケツに5分目程の汗をかきましたから、今回はそういった作業はなしです。

父が亡くなった4月の4日からまだ4ヶ月なわけです。もうずいぶん前という気がするんですが、「あぁまだ4ヶ月かぁ」


ここは山のいちばんてっぺんです。正面には海が見えます。九十九島の一部でしょうね。島の数は99じゃない事が最近わかったそうですが、あんまり正確に数を数えたところで、例えば『百二十六島』とかでは言いにくいし、研究者によっては「いや、私の見解では『百十四島』だ」とかいうことになり兼ねず、ややこしいですな。「九十九島」でいいんではないですか?そうでないと、銘菓「九十九島せんぺい」の立場はどうなる?

写真はその海ですが、何やら鳥居のようなものが見えます。写真のほぼ中央、島側に見える(わかりにくいかな?)あれは・・・やっぱり鳥居なんだろうな?あと20歳若かったら誰かと探検に行きたかった。

彼女が言います。「あそこまで泳いで、あの鳥居の前で手を振って帰ってきて。早く戻った方と私つきあってもいいよ」

なんてね。


♪恋かな~?イエスッ!恋じゃな~い、イエスッ!

♪愛かな~?イエスッ!愛じゃな~い、か~ぜ~が~吹くたび~気分も~ゆ~れ~る~

そ~ん~な~と・し・ご・ろネェ~♪

暑さのせいか、今日はずっと頭の中で早見優の「夏色のナンシー」が鳴っていました。

ここしか知らないんで、ずっとこのフレーズを繰り返してます。


お墓


九十九島

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2006年06月29日 02時46分51秒

永遠に届くまで 8(最終)

テーマ:家族のこと

最後です。少し長くなりました。


4月4日の朝。

母にすっとんきょうな叫び声で叩き起こされたのが午前6時だったから、まずは本気でうんざりした。しかし、階下で動き回るその足音はかなり騒々しく、これはただごとではないという空気が二階の僕の部屋にも伝わって来た。「家族全員来て下さい」と言われたそうで、これまでのような「医師(せんせい)のお話」では済みそうになかった。母は僕らの準備を待ちきれずに自分の車で先に出て、いよいよその時なのかと心がまえをして、僕は病院へと急いだ。


まずは医師が状況を説明する。

先日から言われていたように、父の腎臓はまともに機能しておらず身体の中に排泄されない尿が溜まってきているとの話。今後は、心臓がどれだけ持つだろうかという事だった。昨夜から意識はなく昏睡状態だそうで、「本人はおそらく寝ている感覚」であるらしい。家族としては、(血圧を上げる)昇圧剤や人工心臓(レスピレータ)に関しては「もうやらなくっていいです」と伝えてあり、要は「父の心臓がギブアップするまでの命」という事になった。ここまで来ると、もうあとは「いつ亡くなってもおかしくはない」という状況。

家族が全員呼ばれた事を思えば、本当に今日亡くなるのだなと僕は考えていたのだが、それに反して、医師はいわばどっちつかずの言い方をした。

「予断を許さないという状況には違いないんですが、このまま・・・例えば一ヶ月・・・くらいは・・・長ければ頑張る・・・という事もあり得ます。・・・もちろん、明日、息を引き取られるかも・・・わかりません。正直、こればっかりは・・・その時になってみないとわからない事なんです。」

先日、僕は医師にひとつだけ訴えた事がある。4月6日の誕生日を乗り越えて、せめて73歳まで頑張ってもらいたいのだと。享年72だろうが73だろうが、大きな違いはないのだが、それはもう、慰めに近いものだった。医師の話だと、どうやら73歳の誕生日は迎えられるのかなという印象を、その時の僕は受けた。


病室に行ってみると、父はやはり相当苦しそうな様子だ。看護士さんがそばについていて、脈をとったりなどして状況を注視していた。すぐに気付いた事は、呼吸の間隔が長くなっていたことだ。通常、吸っては吐くというその呼吸が、吸うにしても吐くにしても、やたらに長いのだ。え?呼吸をしてない?と思って見ていたら、父は思い出したように身体を揺すって大きく息を吸い込んだ。そうして吸い込んだ息をとことん身体に溜めて、溜めたら今度は一気に吐き出す。吐き出し終えると父は微動だにせず、え?え?と思っていたら、また思い出したように息を大きく吸い込む。その繰り返しだった。


確かに、その呼吸の様子は難儀そうに見える。そうは見えるのだが、父の表情については、それに反して随分と穏やかだった。実際、口を半開きにして天井を望む顔は、疲れた仕事をした日の、熟睡している時の父の寝顔だ。ふと、僕は8年ほど前に亡くなった祖父の寝顔を思い浮かべた。寝たきりだった祖父は、見舞いに行ってもいつも口を半開きにして目を閉じていた。ずっと意識を失ったままそのまま亡くなっていった。父の顔がそれに重なっていた。

「意識はあるんですか?」と医師に尋ねると、「いや、ずっと寝てらっしゃいます。今朝は・・・たぶん目覚めてらっしゃいませんね」

「呼吸が苦しそうですけど、本人は自覚してないんですか?」

「尿が外に出ないせいで、状態としては溺れている感じのはずなんですけど、ただ本人さんはもう麻痺してますから、何も感じてないと思います。モルヒネも、今は打ってませんし。」


父はあと何日生きられるのだろうか?

こういう状態が続くという事は、しじゅう家族の誰かが病院に詰めていなければならない事になる。最低でも1週間くらいは必要なのかもしれない。僕は病室の外に母を呼び出し、親戚に連絡をした方がいいのではという話をした。既に、永くないという事は伝えてあるが、今日か明日かという危篤の状態だという事は改めて知らせた方がいいのではという話だ。


父の病室はナースステーションから最も近い位置にあり、その病室のドア越しに、ステーション内に置いてある心電図計が見えた。父の傍にいても、その数字が確認できるのだ。それを見て、姉が「数字が減ってる!」という事を僕らに知らせに来た。確かに最初に見たときは3桁だったのが、90いくつかの数字に減っているようだった。あれ?何らかの処置をしてくれないのかなと僕は感じた。はて?その処置は昇圧剤の投与という事になり、それは「しなくていいです」と言ってあるから、しないという事なのだろうか?見守るだけなのかな?

そんな事を考えていたら、本当にその数字はみるみる減っていくではないか!?90が80に落ち、70、60とどんどん下がっていった。父の様子は見た目には変わらないし、腹水によって膨らんだ大きなお腹は何とか、やっとこさっとこ上下していた。姉が慌てて父を起こしにかかった。

「お父さん!ちょっと起きて!お父さん!このままじゃ死んでしまう!」

僕も慌てて父の腕を取ってそれを握り締め、手の平を叩いてふと心電図を見ると、そのモニターには数字ではなく1本の線だけが表示されていた。かすかにピーという音が聞こえるのと同時に、父は「はい、ここまで」とでもいうようにぴたりと動かなくなった。肩をぐらぐら揺り動かしても、父はもう微動だにしなかった。

4月4日、午前8時8分。享年72歳。


人の命はそれが続く限り「生」であり、途絶えた時に「死」がおとずれる。「有限」のものが「無限」に変わる瞬間だ。無論、「生」は限りあるもので、それを「無限」と言うのは生者の理屈。

父の遺伝子の、いったい何を受け継いだのかと訝るほど、僕自身は父の得意なことがひとつもできない。例えば大工仕事であったり、機械をいじったりモノを作ったりという仕事は、四六時中父がやっていた事で、しかし僕は何ひとつそういう事が出来ない。苦手だし、やってもほとんど出来ない。父がその人生においてやって来た仕事と、僕のこれまでの仕事は何ひとつ重ならないのだ。不思議だがそうなのだ。父に似ているのはむしろ姉の方で、魚類やアルコールが好きだし、家の周りの草刈りなんて、やっていてむしろ楽しいのだという。激昂しやすい性格だとか、よく似ている。でも、僕も父の子なんだなと思う瞬間がないではない。ここでは書かないが、ひとつ挙げるとすれば理屈っぽいところだろうか?


父は僕や家族の中に永遠のものとして残っている。

父にほめられたことや叱られた事。笑った顔や困った顔。父の匂い。父と過ごした多くの時間は僕の記憶の中に生き続け、これからの僕の人生にも多くの示唆を与えてくれる事だろう。


おとうさん、ありがとう。

僕のようなバカ息子を見ていて随分と気苦労が絶えなかった筈だから、今はゆっくり休んでください。あとは何とかします。
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2006年06月15日 02時45分36秒

永遠に届くまで 7

テーマ:家族のこと

前回の記事はこれです。


土曜日はそこそこ忙しかったせいもあって、日曜の朝八時から電話で呼び出されたのには少々弱った。けれども、「先生がお話があるそうなので至急いらして下さい」と言われたら、駆けつけないわけにはいかなかった。家には誰もいなくて、やはり僕一人で出かけた。


まず、モルヒネを打ちますと言う事を医師は言った。前回、尿の量が減っているという話をされたが、いわゆる「ショック尿量」という状態になっているという事だった。人は1時間に20ccの小便をするらしい。1日で約480だから、まぁ5リットルだ。その量が生命が危機にさらされる場合の目安になるそうで、普通の人がその量しか出ないという事はまずない。つまり、もうこの人は長くないなという状態になると尿の量が極端に減って行って、その500を切ると危ない、と。父が入院してからというもの、その尿量は減り続けており、既に500を切ってなお減少傾向が消えないと言う。

「その・・・排出されない尿はどこに行ってるんですか?」

「えぇ。それなんです。減少傾向が見られて以降、点滴を減らしたりとか、水分が身体に入らないよう出来るだけ気をつけてるんですが・・・。身体から出ない尿はですね・・・結局はお腹に溜まっていってるんですよ。これがどんどん進んで行くと、要は溺れているような状況になります。」

その尿を外科的に「抜く」事が可能かを聞くと、それは「ショック死」を招く危険が伴い、今の弱った父の身体を見ると、それも難しいと言う。従って、今後は出来る限り(つまり死なない程度に)水分の摂取量を減らしていき、注意深く観察を続ける以外にない。患者本人は溺れている状況に近い苦しみを感じているはずで、それを和らげる為にモルヒネを投与すると言う。

父の腎臓はほとんどまともに機能しておらず、その尿は身体から出ていかなくなっていた。いよいよだ。


病室に行くと、父はぼうっと天井を見上げていた。あぁ起きてるなと思ったのも束の間で、その目の焦点が定まっていない事に気付く。どうやら目が覚めはしたものの、おそらくモルヒネのせいか頭がぼうっとするらしい。

枕もとまで歩み寄って「・・・おはよう。・・・どがんね?」と声をかけると、父は「・・・あぁ、来たか」と答えた。

やや間があり、「・・・おまえひとりか?」

「うん、ひとりで来たよ」

「どうも・・・ぽわんとするとは薬のせいじゃろか?・・・く・・・薬ば替えるごと・・・先生に言うとけ」

言いながら、父の目はゆっくりと閉じたり開いたりを緩慢に繰り返していて、やはり薬の影響が全身に及んでいるように見えた。

「痛みはなかね?」

「・・・うん、なか」

「ご飯は食べたね?」

「・・・いらん」

父の手を握ってみた。温かみのある、しかしごつごつとしわだらけの手。子供の頃には、確かたくましさと大きな包容力を感じた筈だが、今は小さく感じた。

「店は行かんとか?」

朝っぱらから店の心配をする父には、僕が出かけていて留守の方がむしろ安心できると見える。「俺の心配をするヒマがあったら店で仕事をしろ」という事のようだ。

「たぶん、明日はお母さんも一緒に来るけん」

「・・・うん、そうか」

父はうんうんとうなづき、安堵したかのようにゆっくりと目を閉じた。

それが、父との最期のやりとりになった。


たぶん、次回が最後です。

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2006年06月08日 03時01分59秒

永遠に届くまで 6

テーマ:家族のこと

前回のお話はここです


父の容態が、想定していたよりもずっとよくないのだという事を医師は言った。ちょうどどこかの病院で安楽死の問題が事件になっており、病院の倫理委に諮らずに医師が独断で判断したのが殺人に問われるとか問われないとかの話題がマスコミを賑わしていて、そのせいもあったのだと思う。家族の承諾なしにはやりづらいのだという風に僕には感じた。「何度も時間を割いて貰ってすみません」と。

割合に細かい(と僕には思えた)事を医師はひとつひとつ聞いて来た。例えば、今後心臓が停止した場合には人工心臓(レスピレータ)を使うのかどうかとか、血圧の低下に際して昇圧剤を用いるのかどうかとか、痛みに対してモルヒネを使ってよいかどうかなどだ。父の最期がもうすぐそこにあることは家族がみんな理解していた。最期は、みんなで見守ってあげたい一心しかなかったから、そりゃもちろん、1日でも長く生き長らえて欲しいが、できれば、すんなり安らかにいってもらいたいし、とりわけ、いたずらに生と死の狭間で葛藤する姿は見たくなかった。レスピレータを使えば、心臓が停止しても生命を維持する事は可能で、しかし、自らの心臓が停止した状態では自発呼吸がなく、覚醒は望めない。それでは会話は出来ない。昇圧剤にしたって、それは血圧低下、つまり生命の営みが限りなく終息に向かっている状態で身体機能を薬で持ち上げる行為になるだろう。このふたつに関して言えば、少なくとも父の意識は完全に失われている状況で、肉体の身体機能だけを人工的に生かしている時に用いるモノのはずだ。

僕は、そのふたつとも、「やらなくていいです」と答えた。意見がわかれる部分だろうとは思うが、延命治療を施してもらったところで、よくなる見込みのない治療なんて、望んではいない。もう家族はその覚悟が出来ているはずだからだ。


ただ、モルヒネに関しては、やってもらう事にした。苦しんで欲しくなかったからだ。よくなる見込みがあるのなら、苦しむ甲斐のある痛みなら頑張って欲しいが、もうそうではなかった。痛みは出来る限り和らげて欲しかった。モルヒネを打つ打たないが身体にどう影響するのかはよく知らなくて、それについてはもう聞かなかったが、ひとまずそれはお願いしますと答えた。


医師は、水分を摂っているのに小便が出ていないのだということを心配していた。既に腎臓の機能が著しく低下していて、排泄そのものがまともに行なわれていないという事だった。


病室に行くと、父は気持ち良さそうに眠っていた。既に身体には、排泄物に関するチューブが取り付けられていて、身体を起こされたりする事も少ないらしく、何の心配もないという様子ですやすやと眠っていた。飯は食ったのかなと思ったが、それも点滴が流し込まれているようだったから本人に確かめる必要もなく、もうそのまま起こさずに帰った。


僕はこの日、医師にひとつだけ具体的なお願いをした。父の誕生日が近付いていて、それは4月の6日だった。この日は3月の31日だったが、あと6日で父は誕生日を迎え、73歳になる予定だったのだ。「あと1週間という事はないでしょう」と医師は請合ってくれた。もう特に何を期待するという事はなかったけれど、せめて73歳の誕生日を迎えて欲しいという、そういう気持ちだったのだ。1日でも長くと考えれば、1週間後の誕生日なんて低いハードルは考えないが、もうおおむね気持ちの整理も出来ているはずだから、せめて、まぁひとつの慰めかなと、その程度の願いだった。


続く

このシリーズ、もう少しで終わります。

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2006年05月31日 02時51分23秒

永遠に届くまで 5

テーマ:家族のこと

前回のお話はここです。


そのH中央病院の医師は、50歳には届いたかなという、キャリア的には心配なさそうな方だった。ま、この期に及んでは治療らしい治療など出来うるべくもなく、息子としては厄介な患者でどうもすみませんという気持ちの方が強かった。ヒゲの剃り跡が青々しくって、それに対するネクタイの晴れがましさに落差を感じた。

医師は、付き添ってきた母と僕、それに姉を、「帰る前にちょっとお時間を」と別室に呼んだ。まず、父の状況についての家族の現状認識を尋ねてきた。「もうあとは死を待つばかり」という、「家族は覚悟が出来ています」という旨の答えを返す。医師は言葉を選びながら、前の病院から届いている父の病状に関する資料を示し、レントゲンを見せ、(家族はそれらの内容についてはひと通り聞いていたから正直繰り返しだった)「もって半年だろう」という話をした。この病院に入る時も、合わせて1時間くらいかけていくつかの検査をしていて、ぶっちゃけた話、僕は「検査そのものが父の死期を早めてないか?」とさえ感じた。そうして、全部おしなべて悪くなっているのだという事実を僕らは確認し、ただうなずき、ただよろしくお願いしますを繰り返すしかなかった。


帰る時がちょうどお昼で、既に父の昼食も用意されていて、父は母にうどんを食べさせて貰っていた。病院の食事だから無理もないが、見たところ何の変哲もない、醤油でだしをとってあるらしい白いうどん。父は、そのうどんをもぞもぞと、しかしとてもおいしそうに食べるのだった。いや、他人がそれを見れば、おいしそうにとは見えないかもしれない。でも僕にはわかった。父がおかゆ以外のものを食べるのを本当に久しぶりに見た。あとで粗相をするんじゃないかと内心思いはしたが、今の父はたぶんほとんど何を食べてもそうだし、だったら食べるときにおいしかったらそれだけで得ではないかなどと思った。


翌日、午前中から着替えをたずさえて病院に行っていた母からその夕方話を聞くと、父は相部屋ではなく個室に移されていたという。

「え?」という感じ。「昨日の今日で?」

やっぱり車に乗って病院までドライブしたり、いくつかの検査を受けたりしたのが負担になったんではないかという思いを強くする。母が行った時もほとんど寝たままで、いくつか言葉は交わしたらしいが鎮静剤のせいで反応は鈍かったらしい。


更にその翌日。入院した日から2日目の午前中。10時頃だったろうか?病院から連絡が入って、「先生(医師)から話がありますので来て貰えますか?」と言う。母は仕入れに出かけていて不在で、僕は一緒に聞いた方がいいと思ったから携帯に連絡をしてみたが、案の定電話には出なかった。それで僕は一人で出かけて話を聞いた。


続く

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2006年05月25日 04時58分00秒

永遠に届くまで 4

テーマ:家族のこと

前回の記事はこちらです。


父が下痢をやらかしていた当初は、「あぁ、食べ過ぎたんだ」とか「あれとあれがたぶんいけなかったんだ」とか、何かしら結果が出たあとでの原因に思い当たるふしが見つかっていた。おかゆならまず失敗がなかったから、毎度毎度の食事はおかゆに落ち着くのだったが、それでは当然父も飽きる。で、体調のいい時は図に乗って色んなものに手を出すのだが、結果、やらかしてしまうのだ。そうなると、父も家族に迷惑をかけると思ってかおかゆを我慢して食べることが多くなった。父の世話を主にしていた姉は「気にせんで食べてよかって。骨は拾ってやるけん!」などとエールを送っていたのだが、時間の経過と共に、本人にも食欲が次第になくなってきていた。それどころか、何にも口にせずとも吐き気をもよおし、胃液を吐く状態になっていた。

父の肝臓はほとんどその機能を果たさなくなっていて、その臓器の周辺にある、例えば食道にしてからが炎症を起こしていて、顔には明らかな黄疸が出ていて、声はか細く、腹は腹水で今にも破裂せんばかりだった。母によると、夜寝床で苦しむようになったという。うんうん唸っていた。一日中寝ているようになり、起きたときは胃液をげえげえ吐くか、または下痢だった。3月に入り、そういう父の状態を見るにつけ、自宅療養が限界に来ているのではないかと家族は考え始めた。下痢をするなら好きなだけさせたらよい。しかし、苦悶の表情を浮かべて苦しむのを見ると、やはり病院にいるべきではないかと思うのだ。ひとしきり苦しんで、それを耐えぬいたらあとは楽になるらしく本人は「ほっとけ」と言うのだが、家族としてはそれにも限界があるのだった。やはり、痛みを緩和するような、何かしらの処置をしてもらいたいのだ。


しかし、年末に入っていた佐世保市のS病院には「絶対行かんっ!」と言う。大きな病院だし、敢えていうなら「病気は診るが患者は見ない」という印象を抱いているのだった。「あそこにまた入るくらいなら死んだ方がましだ」そうだ。かかりつけの地元の医院は看護体制が整っていなくて、目を離せない患者の受け入れは無理との事だった。その先生に相談した結果、郡部ではそこそこの規模を持つH中央病院ならどうかとなり、父もそれをとうとう受け入れた。3月の下旬の事だった。


入院する朝、助手席に乗る父に手を貸そうとすると、「心配ないない」と払いのけ、父はゆっくりゆっくり車に乗り込んだ。自分で外出着に着替え、帽子をかぶり、靴箱の奥から革靴を取り出して来て精一杯めかしこんで。

病院に向かう車中では、何も心配いらないのに道順についてあれこれうるさかった。ただ、あまりに声が小さくて聞き取れず、「心配ないから」と僕は繰り返した。もう我が家に帰ってくる事はないだろうなと、僕も母も、そして父自身も思っていた。


続く

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