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2006年01月13日 04時01分16秒

秋葉原の記憶 4(完結版)

テーマ:昔のはなし

前回の続きで 、これが最後になります。


「こんな時間に何をしてるんだ、んん?」

「いや、この子を会社まで連れて行こうとしてただけで・・・」

「君はこの子の何かね?」

「えっと・・・保護者・・・ではないんですが・・まぁ責任者というか・・・」

「この自転車は誰の?」

「あ・・・これは・・・たぶん会社の・・・」

「会社って、君はそこに勤めてるのか?」

「えぇ、そうです。社員です」

「社員証、見せて」

「社員証?・・うちはそういうのはないんで」

「じゃぁ免許証」

「免許証ですか?・・・はい」

「ピー・・・ガガガ。『え~日本橋○△×■より・・・免許証○×・・・照会・・どうぞぉ~え~名前が・・・○○□□ですぅ、どうぞ』・・ピーヒョロガガガ。『はいぃ・・・犯歴・・・はいぃ・・・照合願います』」

あぁ。完全に不審者扱いだぁ。


まぁ、実際「自転車を二人乗りしていた」という以外には何もやましい事はなかったんで、20分程度かな?足止めをくらったのは。

東京の警官というのを初めて目の当たりにしたわけだが、淡々と職務を進めながらも「有無を言わせぬ」その一段高い姿勢には、やはり何がしかの緊張を固めないではいられなかった。彼ら(二人いた)からの疑いが「ふむ」「あぁそう」とひとつずつ解かれつつ、厄介だったのは自転車の所有者だったと見えた。その自転車には名前など一切書かれていなかったからだ。普段から社員が回し乗りしていたものらしく、しかし防犯登録もなければそもそもどういう経緯で使わるようになったものなのかが不明だったのだ。迎えに来た彼も「前からみんなで使ってるんで・・・」と歯切れが悪い。

「会社の電話番号は?」

最後は、電話口で応対した誰かの説明、つまり名前や「彼が何故そこを自転車で走っていたのか」がきちんと符合させて警官に伝えられた事で、どうやら納得したようだった。

ただ、「神田にいた少年がなんで日本橋にいるんだね?」と警官が言った言葉を僕ははっきりと覚えている。


ようやく開放されて、僕らはとぼとぼと自転車を引き摺りながら派出所を離れた。

「すいません・・・なんか・・・」

「な~に、俺もちょっとビビったけどさ、気にすんなよ。大体、二人乗りしたまま警官の前を颯爽と通る方が悪いんだよ、あははは。」

彼が明るく笑い飛ばした事で、僕もホッと救われた。

派出所から見えないところまで来ると、彼は「よし、乗れ!」と言うと、またぞろ二人乗りで風を切って走った。「いいんですかぁ?」「構わないって!」

もともと、「自分が迷子になっていることを自覚していながら」生まれて初めて歩く東京の街にキラキラと目を輝かせてふ~らふ~らと解決を先延ばしにしたまま『冒険』していた僕が悪いんだが。そう。僕の中には明らかに『そうだ。これは冒険で探検なのさ』というノリがあったことは事実だ。


会社に着いたのは9時を回っていたと思う。もう僕を連れて行ってくれるBさんしか残っていなくて、警官にうまいこと説明をしてくれた人が誰だったかも聞かなかった。Bさんは「お前はよぅまぁ、どこをどう迷ったら日本橋まで行くンか?はははは」と高らかに笑顔で迎えてくれた。それきりもう何も触れず、福岡出身のBさんは「よし、ほんなら行くか!」とジャケットを翻すと、僕の肩をぽんと叩いた。


そして、僕はBさんと一緒に自分のこれからの職場に向かい、その時に生まれて初めて地下鉄というものに乗った。したがって、この日(初めての東京の夜)の話は実はまだある。


「お前よりひと足早く来ている奴がいてな。今日はお前らの歓迎会やっとるからよぉ」

「俺がまだそこにいないのにかい?」と内心思った。


秋葉原の記憶と合わせて、この初めての東京の夜の体験は、僕には非常に濃いものとなって残っている。実に濃かった。

ま、機会があれば続きを書きますが、舞台も移るし、今回はここまでにしときます。
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2006年01月12日 04時24分06秒

秋葉原の記憶 3

テーマ:昔のはなし

またまた昨日の続き です。


もう自分の意地を通している場合ではなくなり、とうとう電話をかけることにした。

「もしもし・・・迷ったとです

向こうもどうやら心配していたらしく、「今どこにいるの?・・・って・・説明できないか」

「周りにある建物とか、ちょっと言ってくれる?」

僕には、その「言ってくれる?」という言い方が『嬉しいけどムカツク響き』として耳に残った。この言葉を耳にすると、未だに条件反射的に口の端が引きつる。

僕は日本橋という知名を伝える以外に手段がなく、その公衆電話から見えるありとあらゆる建物や看板の文字や広告の言葉を伝えた。電話口の向こうでは、やいのやいのと話す声が洩れ聞こえ、どうやら揉めた末に僕のいる場所が特定できたようだ。

「迎えに行くから。そこで待っててね!動かないでよ!」


そう言われて、もちろんもう動く元気は僕にもなかった。

ぽやんと、その場所の、もうシャッターの閉まった何かのビルの前で座り込み、じっと迎えを待つ。30分くらい待ったかな。

なんで来るんだろ?地下鉄?バス?タクシー?走ってくる?いや、それは・・・わからん。


突如現れたサラリーマン男性に僕は声を掛けられ、それがお迎えの人だった。

彼は自転車に乗ってやってきた。月光仮面みたいだった。もう名前は忘れたが、ひとつだけ覚えているのは東村山から会社に通勤しているんだということ。東村山といえば、志村けんの「東村山音頭」ですね。それが実際にある知名だと初めて知りました。それだけ覚えてる。


僕は彼の漕ぐ自転車の荷台にまたがり、ようやく(一時的に)帰路に着く事が出来たのです。で、エピソードはまだ終わりません。

どこをどう通ってきたのか僕にはもう全くわからず、ただ後ろで風に吹かれながら身を任せていたが、急ブレーキを踏んで自転車が止まった。「おおぉぅ!」


「はい、止まって!ちょっとこっち来て!」

それは制服を着たおまわりさん。

な、何で警官に咎められるのかが僕には最初理解できずにいたのだが、どうやら「自転車の二人乗り」を言ってる様子。そんなの、中学生じゃぁあるまいし。彼はドギマギしながらも、僕の事はすぐさま守ってくれた。「この子は今日、長崎から出てきたばっかりで・・・」

彼は警官に連れられて派出所の中に『連行』された。僕は「そこに座ってなさい」と傍らの椅子に促され、わけわからんと思いながらたたずんでた。狭い場所なんで、彼がどういう扱いを受けているのかは察しがついた。

自転車の二人乗りそれ自体は、軽いながらも「いけない事」で、それはしかし注意すれば済む程度?の話。問題は、確か8時はゆうに回っていたその時間に日本橋を自転車で駆け抜けるサラリーマンなど滅多にいない事。しかも、所在なげな子供?を連れて。まぁ「極めて」かどうかは知らないが、「とりあえず」怪しいと考えたようだ。


つづく。

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2006年01月11日 05時39分56秒

秋葉原の記憶 2

テーマ:昔のはなし

昨日の続き です。


さて、秋葉原からどうやって岩本町に行けばいいのか?方法は歩くしかない。事ここに及んでも、電話をして助けを求めるというのは僕の選択肢になかった。なんでかというと、東京に出てきた直後の僕には「人との会話が恐怖」だったのです。だって方言丸出しでしょ?自分では標準語を話しているつもりでも、電話口で「えぇ、それで・・・くくっ・・今どこに・・・むふっ」などと笑いをこらえつつ応対する誰かの姿が想像されたのです。話すとすれば、今日の午前中に東京駅に迎えに来てくれたBさん以外に考えられなかった。携帯なんて存在しない時代。電話をかけてもBさんが出るとは限らず、僕にはBさん以外と喋る勇気が持てなかった。

同様の理由で街行く人を捕まえて道を尋ねる事もできませんでした。そりゃ全然思わなかったわけでもありません。「すいません、このあたりに交番はありますか?」くらいは聞けます。しかし、いったい誰を掴まえればいいのか?行き交う人々は皆「今、忙しいから」「ちょっと急いでるから」「何だよ?」って顔に書いて歩いてます。どの人もすたすたすたすた走るように歩いてる。全くスピードが違うんで、ぼ、僕にはとても怖くてできなかった。


そういう状況でも、そんなに不安ではなかったんですね、不思議と。

「道はつながってるわい」

「歩いて来たんだから、歩いて帰れない道理がない」と思ってた。どちらかと言えば、不安よりもそこ(東京の街のど真ん中!)にいる事自体が嬉しかったんだが。

で、再び僕はもと来た(と自分では思ってる)道を逆戻りし始め、歩きながら、あ、ここはどっちから来たんだっけ?などといぶかりつつ「たぶんこっちだろ?」と自分に言い聞かせながらふらふら歩きました。そして、「おぉ、何となく岩本町っぽいんじゃないか?」と思われる町並みに出ました。岩本町の何を記憶しているわけでもないくせにね。

時間的には6時半辺りで、既に暗くなっています。周囲が暗い為、知名を探すのにもちょっと困りました。ここはどこじゃ?なんか地下鉄の入り口っぽいものも見えるぞ。きっと岩本町だろ?


日本橋でした。

・・・日本橋。日本橋ねぇ。『お江戸日本橋』とか言うんだよな。たぶん江戸の始まりが日本橋?

岩本町に果たして近づいているんだろうか?「ここを過ぎたら岩本町」ならいいんだが、もうそういう希望も次第に持てなくなってきた。

周りが暗いせいもあって、次第に不安になってきました。

このまま意地になって「道はつながってる」理論で歩いて行ったら、ひょっとしたら静岡あたりまで行ってしまうかもしれないぞ?と思いました。それはちょっとどうかと思う。僕が東京に出てきた日なんで、このまま連絡もしないでさ迷い歩いたらたぶんBさんあたりが真っ先に心配しだして、警察に捜索願でも出すやも知れない。それで途中で警察のお世話にでもなった日にゃぁ、周りからなんて言われるかわかったもんじゃないから。


ひょっとしたら、「出てきたその日にホームシック?」「夜を徹して徒歩!で帰省強行?」な~んてスポーツ新聞の片隅にでも取り上げられる可能性もある。


岩本町⇒内神田⇒岩本町のルートを辿りたかったのに、

実際は岩本町⇒内神田⇒・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

秋葉原⇒・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・⇒日本橋と来てしまった僕。


その日のうちに、僕は別の場所に移動する予定がありました。Bさんに連れられて、僕が働く場所まで案内してもらう手筈だったのだ。Bさんはそこの責任者で直接の上司になる人。暗くなっちゃったよ。もうバスはないんじゃないかなぁ、とそっちの方が心配です。タクシーで行ったら相当料金もかかるぞ!


もう自分の意地を通している場合ではなくなり、


ちょっと、疲れました。

続きはまた、明日にでも。
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2006年01月10日 05時41分11秒

秋葉原の記憶 1

テーマ:昔のはなし

近頃は「萌え」市場だとかで、秋葉原がとっても注目を集めています。つくばエクスプレス?なんぞも通ったそうで。僕はたぶん、東京の町に住む予定も秋葉原に行く用事もない(恐らく死ぬまでないと思う)からよく知らないけど。これはフジの「スタメン?」で取り上げられていました。爆笑問題と阿川佐和子アナがやってる番組です。ドラマ「電車男」のヒットも棹差したようです。僕は、このドラマは原作漫画の方を読んでるせいもあって、見ませんでした。イメージが壊れるのを怖れた。わりかしTBSのバラエティに登場しますが、メイド喫茶もそこで紹介された範囲しか知りません。


この、今の『萌えブーム』とやらについては、まぁ今度機会があったらちょっと書いてみないでもないですが、今日はほぼ20年前の僕にとっての秋葉原を書くことにします。


それは、僕が東京の地に降り立ったその日の出来事です。だから19歳でした。右も左も大都会!あぁ、そこは東京です。長崎の清峰高校(当時は北松南高校)のある町、人口約3000人の「郡部」から出てきた僕にとっては、目前の風景、耳に入る雑音、通りに流れるコーヒーの香り(スターバックスもドトールもまだない)と自動車の排気ガスがたまらなく新鮮でした。


その日、僕はある会社(岩本町)で用事を済ませてから内神田のとある場所に行って、そしてまた帰ってくる予定がありました。最初は、国鉄(当時ね)神田駅から人が案内してくれて岩本町のビルに歩いて行きました。で、岩本町からその神田まで戻って、その先の内神田の場所はわかりやすかったんで、一人で行きました。まぁ昼過ぎに行って、夕方4時過ぎ?にまた戻ればすむものでした。

その岩本町に向かう帰り道、僕は方向だけは間違えてない意識がありましたので、ちょっと1本違うルートを通って歩いたのです。見るもの全て珍しく、ふらふらうきうきそぞろ歩きです。

ところが、どうも目的の場所に行ってはいない気がしてきた。時間にして15分程度だった筈なのに、まだつかない。そして、次第に「この道で合ってるのか?」と疑問を持ち始めました。ここに来て僕は記憶を辿り直し、その結果「間違えたぞ!?」と思った。で、間違えないようにと来た道を戻り始めたんだが、その道に全く覚えが無いと来たもんだ。

ん・・・?・・・あ~れぇ?

「俺は今、迷子になった」と自覚しました。


でも、まぁ、4時半頃でしたが、おおむね7時頃に戻れば問題ないような時間の余裕はあったんで、ちゃんと合ってる道を見つけたら15分の距離の事、心配ないよと気楽に考えました。うぇぇぇ!このビルでけぇ!俺の卒業した中学校より高いかも?どんな名所なんだ?なんて驚きつつ。ただのテナントビルなのに。

ふら~りふら~り、わくわくきょろきょろ歩いているうちに、どこか見たような場所に着いた。あぁ、ここじゃん?と思ってその知名を見たらば、「あき・・は・・秋葉原!」と書いてある。それはどうも聞いた地名だ!確か電気街とか何かにあったぞ!「そうか~!ここがその、秋葉原かぁ」と思いましたね。電気はどこに売ってるんだ?いや、でも俺が行きたいのは岩本町だろ?違うなぁと思い、人がわさわさ吸い込まれるその方向に流されてみたら、秋葉原の駅に辿り着いた。

「あ、な~んだ!もう歩くのやめて電車で行った方が早いって」

切符を買おうと路線図を眺めながらはたと思った。「そこに岩本町はない」

俺が見つけらんないだけかとも考えたけど、やっぱりない。

う~む。待てよ?岩本町は・・・確か人が階段を降りていったような・・・じゃぁ地下鉄かぁ。ここからは乗ったところで行けなさそうだな。


結局、電車で帰る方法はあきらめました。

仕方なく、また歩いて岩本町を探すんだが、どうにもこうにもどう行ったらいいのかがわからない。完全なる迷子。前後不覚。


続きは明日。



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2006年01月01日 05時03分28秒

初日の出

テーマ:昔のはなし

高校三年生でした。だから昔の話です。

もう3ヶ月で卒業するという、だるいながらも未来への希望も少しは抱いている微妙な時期。「みんなで(ジュースを)飲もう!」ということになり、大晦日の12月31日、友達の家に10人くらい集まりました。場所は世知原町(せちばるちょう)という、我が佐々町からはふたつ隣りの町。平成の大合併で、今は隣りの吉井町ともども佐世保市に吸収?されてしまいました。車で行けば、おおむね30分弱の距離です。当時は車なんて乗れませんから、僕はチャリで行きました。

手に手に買い出した食い物を持って、わりわり集まり、語り合う若者!たち(もちろん、野郎ばっかりで、女の子なんていません)。何をしゃべったんだかもう忘れましたが。大晦日ですから、紅白を見たり、漫才を見たりして時間はあっという間に経ちます。その友人の家は確か農家だったと記憶していますが、だから家が広いしでみんな寝っ転がったり四の字固めをかけたり袈裟固めにきめたりで勝手なもんです。


宴もたけなわになった頃、誰が言い出したのか、「初日の出を見に行こうっ!」という提案がなされました。「おおぉっ!いいねぇー!」

今考えるとかなり無謀なんですが、その時は誰もが賛成しました。何せ、かなりジュースを飲みすぎてて思考能力が低下していて、そのくせテンションだけは高かったのです


さて、どこに行くのか?

目指すは国見山です。えっと、高校サッカーで有名な国見高校は島原半島にありますが、世知原町の隣りにも国見山があるのです。ここは国見高校とは何の関係も(たぶん)ありません。高校生の僕らがどうやってその山に登るのか?

「ほら、あれだよ!」と指差す先にその山はあるらしい。夜なんで見えないんだが、「昼間なら見えるさ」と言われれば、「そうか。夜だから見えないだけで、昼なら見える。つまりそこに山はある!」「よし!じゃぁ行こうっ!」

・・・と、今なら「おいおい」と突っ込むところですが、その日の僕らには何の迷いもありません。早速、(夜だから)足元ふらつきながら僕らは肩なんか組んで、歌なんぞを歌いつつ賑やかに国見山へ向かいました。


最初は楽しく遠足気分の僕らですが、なかなかそこには着けません。次第に勢いもなくなり、重い足と荒ぶる胃袋を引き摺りながら、よたよたとただ惰性でうつむき加減に歩を進めます。1時間くらいは歩いたのかなぁ。ようやくそこに辿り着きました。


そこには展望台らしきものがあり、そこからならいい角度で初日が拝めそうでした。そう。それはいい。ただ、問題は寒さです。そろそろジュースが冷めた僕らに、今度は強烈な寒さが襲っていました。単に友人の家に集まっただけの僕らは、いちおう冬の格好をしてはいるものの、こういう山の気候に全く配慮していませんでした。寒いのです。強烈に。

う~う~とかいいながら、足踏みしたり両手をさすったり、5人くらいで輪になって背中をこすり合ったりしました。僕らの他にも、当然初日の出を見に来た人たちは結構いましたが、たいがいはクルマで来てる。みんな寒くなったら車の中に入ってるんだもんなぁ。いいなぁ。

で、「焚き火しよう!」というわけで、周辺の草むらやらに入って行って、焚き木になりそうな木切れをめいめい拾ってきます。どれもこれも霜が降りてて、両手がかじかむのなんのって。

ようし、集まった。火を点けやがれぇ!

高校生なのに、みんなどういうわけだかライターだけは持ってるという偶然があったんだが、「霜が降りてて100円ライターでは火なんかつきゃしネェ」

「これじゃつか~んっ!!!!う~~~さむ~!!」かちゃかちゃと火を点けても、木切れにだけはどうしても着火しないのでした。


寒い。気持ち悪い。凍える。疲れた。いらつく。凍死する。もう帰ろう。

このままでは初日の出まで待てなさそうで、もう途方に暮れていたその時、「灯油、あるけど、使うか?」と声をかけてくれた方がいたのです。それは、少し離れているところでめらめらと焚き火を燃していた人。僕らが困り果てているさまを見て、助け舟を出してくれたのです。ありがとうございます。ありがとうございます。僕らは本当に涙声でお礼を言いました。

ほっ。燃えたよ、おいぃ。

火の暖かさと、人の温かさとに感謝感激しました。


そろそろ出るぞぉとみんな展望台に集まり始め、僕らもそこに登る事にしました。その展望台は、ん~と、確か最上部が4畳半程度のスペースだったかと記憶していますが、そこにみんな集まるわけですね。はっきり言って混んでます。わさわさと人が4畳半に群がり、もう立ってはいますが身じろぎも出来ないスシ詰め状態です。人の波の中に埋もれて、あっちだという初日の拝めるであろう方向をじっと見ていたら、今度は眠くなってきました。「もう1人入れてぇ」みたいにして、少しずつ見物客が増えてきて、どんどん押されてしまい、もう友達がどこにいるのかもわからなくなって、ただそこにじっと立ち尽くしたままになりました。体温が伝わってきます。あぁ、温ったかいなぁ。新しい年を迎えるんだという、「人々の期待」と「『今よりもっといい未来』を願う情熱」が防寒具の中で擦れ合い、増幅され、4畳半はまさにヒートアップしていたのです。

立ったまま、結局うとうとと眠りこけてしまった僕は、例えば写真にあるような鮮やかな初日の出を見てはいません。しかし、ほんわかと心地いい夢の中に、ぼんやりと、包み込むような優しい光があった事だけは何となく覚えています。


ぐったりとくたびれて、とぼとぼと友人の家まで歩いて山を降りました。家に着くなり、みんなほわ~っと眠りこけてしまったのは言うまでもありません。

でも、僕だけは1時間程度で叩き起こされました。

家から電話が来たのです。

「早よぉ、帰って来(こ)んねっ!ジイちゃんとこに年始にいくよっ!20分で帰っておいで!」

僕はチャリをすたこら飛ばして家に向かいましたが、もう眠くて眠くて、かなりふらふらと居眠り運転をしながら帰ったのを覚えています。あの頃、僕も若かった。


あけましておめでとうございます。

旧年中、僕のつたない文章にお付き合い頂いた方々に感謝致します。

今年もよろしくお願いします。

七福いぬ


いい年になりますように。

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2005年12月06日 05時40分44秒

ただちに退会なさって下さい

テーマ:昔のはなし

たぶん10年くらい前。携帯電話でインターネットにつなぐ事をおもしろがっていた頃。あるサイトを見つけた。

そこに登録すると、登録したもの同士でのメールのやりとりができた。仲間同士だけにしか公開しないものだ。閲覧するにも送信するにも結構面倒な手順があった。そのサイトの「親?」にあたる人を介して、いちいち自分のパスワードとサイト共通のパスワードを入れて、行なう。


そのサイトの運営者(仮にYさんとしようか)は、要は会話が盛り上がるように常に話題を提供する責務があったみたいな感じで、Yさんからよく話し掛けられた。Yさんが語りかけると、仲間には平等にメールの着信が伝えられる。答える人も答えない人もいる。タイムラグがあるのでチャットのようにはいかない。まぁ、かなりルーズな会話が成り立ちはするんだが。仲間内での言葉のやり取りは、従って横で聞いている(閲覧している)だけの人にもわかるシステム。

このサイトにはルールがあった。僕は会話を楽しみつつも、いくぶん解せない気分をずっと抱いてはいたんだが。そのルールはこうだ。必ず共通のゲートをくぐる、つまり仲間全員への送信形式で送れというもの。実は個別に送信する事も可能だったわけです。しかし、ログを見たらそれは追跡が可能であるらしくそれをやる人は退会を申し付けるとの警告があり、自粛していた。


ある時、Yさんから着信があって、こんなような内容だった。

「へこんでいます。かなり落ち込んで仕事が手につきません。」

「いったいどうしたんですか?風邪でもひきましたか?」と僕は問いました。答えが来ました。

「休みを代わってあげると承諾していた同僚(B)が、代わってあげられなくなったと同僚(A)に言って来て、なんだかんだで結局自分が休みを変更してあげる意外に方法がなくなってしまった。おかげで自分の予定を変更せざるを得なくなってしまった。かなり憂鬱です」と。Yさんは看護士で、休日はシフトを組んでの交代制を取っているわけです。僕は思いました。そんなの、「私は変更できない!」と強く主張すればいいだけの話だ。AさんやBさんのとばっちりを受けたくないなら、はっきりそう言えばいい。逆に変更してあげたという事は、AなりBなりに恩を売りたいのか単に職場での立場が弱いのか、いずれにしろ決めたのはYさん自身であって、その結果による責任はYさん意外誰にも負えない。伝わっている内容以外に特筆すべき事情があるのかなと考え、もう少し情報が来るかなと思いつつ、体調を壊したのではなかったからほっとしましたという思いもあって「なぁんだ、そんな事か」とひとまず返しました。返信がやけに来なかったんで、あぁもうやりとりができない状況かなと放っておいたら遅れて来ました。

正直、凍りつきました。

「こちらが苦しんでいるのを心配するでもなく、「なんだ、そんな事か」のひと言ですか。このサイトは互いのコミュニケーションを第一に考えており、相互に役立つ情報の提供・交換を旨として運営しています。そのような発言しかできない方とは良好な交流は出来兼ねます。直ちに退会なさって下さい。」と来た。

はぁ?だよ。はぁ?だ!

そのサイトに登録してメール交換を続けて2ヶ月くらいは経っていた。初めてのやりとりではない。多少のジョークじみた言い回しも、くだけた話し言葉での応答もいくらでもあった。ちょっと聞いてよ的な、こんな事情もあるんですよ風な訴え言葉があるかと思いきや、「出て行け」だと。そんなもの、自分の責任でしょうが!

それ以前にも、このサイト内では「果たして意味がありや?なしや?」と感じる会話は少なからずあった。つまり傷を舐め合っているのだ。冷静に大人が判断すれば常識的な解決が出来そうな事を、「それは大変でしたねぇ。でも○○さんならきっとうまくやれますよ」とか「うんうん、すごくわかる。でも挫けないで頑張って」みたいな女子高生が延々と続ける(これはいくぶん偏見?)おしゃべりに似た光景が拡がっていたのだ。こういう会話が展開されている時は、僕はまず話に加わらなかった。だってくだらないから。○○さんはどう思う?とか・・・ならどうする?ってこちらに振られる可能性もあって一応会話を横で閲覧はしていたが。そういう時に、なぐさめに回らない僕をどうやら心よく思ってなかったのだなと察した。そうして、「おっしゃっている意味がよくわかりませんが」と返したら、今度は運営者自らが「このメールは個別にお願いします」と断って(ルールを破って)「あなたはふさわしくない」という意味の文章を送りつけてきた。ま、色々と考えたうえで、僕も返信したね。「社会人として、自分の責任においてやるべき事は厳然としてあるはずです。こういったコミュニティサイト上でのやりとりは、あくまでも助言やアドバイスを与えて解決を助けるに過ぎず、決断するのは常に自分自身であるはず。単なる慰め合いやいたわりごっこをしたいのなら、僕こそ時間の無駄であって何のメリットもありません」という内容(細部は忘れたが、おおむねこうだった)を送り返しました。もちろん個別にではなく、全員が閲覧できるようにして。ま、他の仲間がどう受け取ったかわからないし、当然Yさんが一方的に僕を非難する内容でもって自分の正当性を主張したでしょうけど。

おまえ、慰めて欲しいだけなんだろ?です。

当時の僕は保険の代理店で、それだけでは食えないからアルバイトなどもやっていた。仕事・時間・お金のやりくりは全て自分の判断における裁量。日々追われて、完全なる休養日なんて全くない。そういう僕にとっては、「休みを代わってあげざるを得なかった」なんて、悩みの範疇になどない。断じてない。休めるんだろ?だ。ちゃんちゃらおかしい。もともと顔の見えない相手と交流するのだから、一定の限界と節度があるはずだ。自分の事情を包み隠さず仲間に公開した上でも尚、そうなのだ。気持ちを汲んで欲しければ、それ相当の客観的な材料を提供した上で自分の在り様を吐露して同意を求めるというのが筋だろう。それで「うん、それは大変だ」と言ってくれる人がいたらOKだし、たとえいなくても非難するのは筋違いだ。


もともと、「仲間内だけでの公開」というのが僕にはひっかかっていた。しかも常にYさん経由で、これは検閲と同様のこと。一定のモラルを守ったその範囲でなら自己責任で自由に発言できるかたちがやはり望ましいと言える。

その後は、携帯を使ったコミュニティには全く参加しなかった。今はもっと進んでいて、あの頃とは違ったチャット的なものもあるとは思うが、どうしても携帯では会話に終始してしまうのがネック。それに、怪しい輩の侵入も嫌だし、もう携帯ではそういうのをやる気は全くない。

一対一のやりとりならしたくてしょうがないけど、残念ながら相手がいない。


やはり、この、ブログでの発信というのが、僕には数段居心地がよさそうだ。

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2005年11月10日 06時09分50秒

大雪に大当たり

テーマ:昔のはなし

「その子はたち櫛に流るる黒髪のおごりの春の美しきかな」と詠んだのは与謝野晶子ですね。僕ははたちでした。20年前ですよ。

彼女と行く初めてのお泊り旅行で、伊豆に出かけました。天気は良かったけど、3月は冬の初旬でグレーのコートを着ていた事を覚えています。伊豆は西伊豆。戸田と書いて「へた」だったと記憶しています。雑誌を見て問い合わせて、確か蟹とか魚とか、とにかく新鮮な海の幸を堪能できるという宿泊プランを丸々申し込んで・・・金額としては二人合わせて4万円台じゃなかったかなぁ。

宿に着く前に、箱根登山鉄道に乗りました。途中下車して韮山(にらやま)のイチゴ狩りを楽しんだり・・・あとは覚えてないけど。修善寺(しゅぜんじ)まで行くと、迎えの方が待っていてくれました。そうしてクルマで山越えをして宿までご案内です。宿ではうまいもん食って温泉に入って、まぁあとはいろいろと。彼女とのお泊りはそれが初めてではないものの、何せ全く知らない土地で蟹やら何やらですから、そりゃもう、○×▼◎♪△※□ごにょごにょ・・・自粛。


強い印象を残したのは、翌日の帰りでの話なのです。行きと同様に修善寺まで送ってくれるという事で、他の泊り客の方とご一緒に小型のマイクロバスで宿を出発いたしました。総勢10名くらいだったかな?山越えの途中で雪が降り始めたのです。

「おうっ!雪だ雪っ!」

僕は長崎生まれですが、雪がそれほど珍しいわけではありません。小学生くらいの時には毎年きっちり降っていたし、雪合戦やら雪だるまやらで遊んだ経験は何度となくあります。ただ僕の経験では「朝起きたら積もっていた」というレベルで、真っ白な雪面に誰よりも先に足跡を付けるのがめっぽう楽しかった。夜の間に雪を確認した時は「積もるかな?大雪で学校閉鎖になってしまわない程度に積もれ!」と願っていました。


ところがその伊豆の雪は、僕のちゃちな経験とは比べられない凄まじいものでした。

吹きすさぶ風に舞うその雪を眺めながら「すごいねぇ。積もるかな?」「積もりそうだね」などと会話しているうちに、その会話の舌の根も乾かないうちに、「あちょぉ~!!」「びゅを~っ!!」「あたたたたた!」「びゅわ~っ!!」ってな具合に北斗の拳よろしく白いカケラがバスの窓を叩き、みるみるうちに辺りはシロ一色に塗られていったのです。

ほぇ~!!凄い!すごすぎるぅ!!大自然の猛威の前に、僕らはただ口をあんぐり開けたままその銀世界に圧倒されたものです。


バスが途中で停車して、運転手さんが対向車のドライバーと何やら言葉を交わしているようでした。かなりの積雪なのでしょう。ずいぶん話し込んでるなと思っていたら、運転手さんがこちらを向いてこう言ったのです。

「申し訳ありませんが、積雪がひどくて進めなくなりました。この先は道が見えないんだそうです。」

え?何それ?どういう事?

バスはそこで『立ち往生』してしまいました。間抜けな事に、そのバスはチェーンさえしてなかったのですよ。なんでも、チェーンをしていても進めなかったらしいですが、とりあえず、その場所から山を降りる事も叶わなくなってしまったのです。僕らはそこで待つしかありませんでした。迎えの車(4駆車)が来るまで、バスの中に閉じ込められたまま2時間くらい待っていました。文句を言ったところで状況は何も変わりません。もともと、宿から最も近い鉄道の駅が修善寺だったはずで、そこを車で行き来するのが最短ルートだったと記憶しています。そのルートが使えない今、ひとまずは宿に戻るしかなく僕らはじっとひたすら耐えて待つ以外にありませんでした。


宿にようやくたどり着き、さてどうするのか?もう一泊する程度の金はありました(ただし素泊まり)が、彼女は「都内の友達の家にお泊り」の筈!ですから、なんとしてでも帰らねばならんのですよ。海岸線は降雪が少ないので三島までお送りしますというお話だったので、僕らは言われるままにまた別の車に乗りこみました。これも2時間くらいかかったんじゃなかろうかと思います。今度は(山に乗り捨ててあるので)バスではなく、ワンボックス車でした。狭い車内に6人くらい乗って、半ば居眠りしながら三島まで耐えました。


三島駅は超混雑していました。人でまさにごった返す状態。何じゃ?

新幹線がストップして、JRは山手線も確かダウンしていました。東京へ向かう普通列車もダメで、僕らはとりあえず三島の駅で「何か食べようか・・へろへろ」と食事をとりました。


電車が動いたのは夜の7時あたりだった気がします。その普通列車はまさに通勤ラッシュの山手線状態で、座る席なんてありゃしません。座席にしがみついて網棚をつかんで、三島から東京まで立ったまま凌ぎました。ぐったりぐたぐた。その頃は京浜東北線や山手線もようやく復旧していて、あとはどうにか彼女を送り届けて、僕が家に帰り着いたのは深夜12時を回ってましたね。もう細かい事は知りませんが、東京も大雪で大変な事になっていたわけです。1985年の冬の話です。

「今まで一番印象に残った旅行体験は?」というTBステーションのお題だったんですが、いい印象ではないですな。


ちなみに、その彼女はのちに僕の苗字を名乗りました。

でも今は違います。


ふむふむと感じたら、⇒右の赤いの(ブログランキング)を、どうかひとつ。

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2005年11月01日 05時11分25秒

いなかもの

テーマ:昔のはなし

ところで、お仲間のブログを見ると清峰高校のある佐々町に関して、「良い所なんでしょうね」というコメントをちらほら見かけます。そりゃ、もちろんです。地元の長崎新聞には、既に佐々町という町がどういうところなのか紹介されていますが、今回は僕自身がどんな少年時代を過ごしたのかをちょっぴりご紹介します。町の一端がお解かり頂けるかもしれません。


銭湯はパラダイス?

たぶん園児だったから、4~5才くらいだと思います。家から歩いて行ける所に銭湯がありました。残ってました。都会と違って、風呂なしアパートに住む人たちが行くところではありません。そんなアパートなんて皆無だったから、どちらかと言えば「内風呂を持たない人たち」が行くものだったと思います。もともと炭鉱町だったので、そういう時代は大賑わいだったのでしょう。僕んちは、当時「薪や石炭で」風呂を沸かしていました。で、うっかり管理が悪くて薪を濡らしてしまったりだとか、焚くのが面倒という時に、親子で連れだって銭湯に出かけました。僕は実は楽しみでもありました。何故かって?母と一緒に女湯に入れるのです。それが何故楽しいのか、当の本人はよくわかりませんでした。でも、母とは違う女の人のハダカがたくさん「ある」そのお風呂は、理由はわからないけど「きれいなものが見れる」くらいの気持ちだったと思います。繰り返しますが4~5才です。で、帰りに幹線道路の傍を通ると、車なんて一台も通ってません。中央線の辺りまで走って、「わぁ~!クルマのおらんば~い!」なんて叫びながら道路の真ん中に寝転んでみたりした覚えがあります。


佐世保は都会?

中学生当時、僕たちにとって佐世保はまさに都会でした。だってデパートがあるのですよ。屋上に乗り物空間を備えたデパートが、でんとそびえているわけです。都会でなくてなんですか?僕らは、佐世保に行く時には制服で行く事が義務付けられていました。もし私服で行ったら「不良呼ばわり」されます。そんなんバカじゃん?って言いつけに背いて私服で連れ立って行く人なんていやしなかった。可愛いでしょ?小学生の時は私服なわけですが、父兄に連れられて行く以外に考えられないので、それは問題ナシです。で、僕らの町は幹線道路からすると佐世保の隣りに当たります。佐々の隣りに小佐々町(こさざちょう)があって、県道伝いでは佐世保から小佐々に入れはしますが、小佐々は佐世保の隣りというよりは佐々の隣りに当たります。小佐々中学校では、「佐々に行く時は制服で行くように」と先生が言ってるともっぱらの噂でした。僕らにとっての「佐世保」が、「小佐々にとっての佐々」という事です。優越感に浸りましたね。「小佐々は佐々より田舎だ」と。恐ろしくレベルが低いけど。ちなみに、平成の大合併で小佐々は佐世保に編入されてしまいました。


民放チャンネルはふたつ。

ほぼ20年前に僕は東京に出て行ったわけですが、「笑っていいとも」がお昼に放送されている事に驚きました。僕らにとっての「いいとも」は、夕方5時からの放送だったからです。あれ?なんて。テレビのチャンネルは「10」と「U」です。あと、NHKが総合と教育のふたつ。全部で4つでした。10とUは、それぞれTBSとフジにあたります。テレビ朝日と日本テレビで人気のある番組は、このふたつの局がチョイスしてやっていたと思われます。当時の僕が悔しかったのは「仮面ライダー・アマゾン」が放送されなかったこと。確か、テレビ朝日の放送だったはずです。見たかったのに見れませんでした。友達がアマゾンの主題歌のソノシート(声入りのレコードで、ドーナツ盤の小さいやつ)を持っていて、羨ましかったのを覚えています。でも、TBSでやっていた人気番組、ベストテンとかウルトラマンはちゃんと見れました。ご心配なく。(笑)


電車って?

僕らにとっての移動の手段はほとんどバスです。国鉄(JR)はもちろんありますが、それを電車とは呼ばなかった。「汽車」でした。いや、蒸気で走る訳ではないものの、おそらく昔からの名残でそう呼び習わしていたんではないかと推察します。そして、テレビで時折見かける通勤電車のラッシュは、僕らには全く別世界の光景でした。あのような人の洪水なんて、お正月の初売りの福袋セールコーナー以外に考えられないのです。正直な話、僕が最初に通勤ラッシュのありさまを目にした時は、「ぞぞぞぞ」とした眩暈と恐怖を覚えました。


ま、長くなりますのでこの辺にしときますが、また「昔のはなし」あたりで書くやもしれません。平成の今、もちろんテレビは東京12チャンネル以外全部で民放4つを鑑賞できます。「いいとも」もお昼にやってます。


うちの田舎は田舎とはいえ、住所に「字」はつきません。また「村」でもないのです。従って、もっとひなびたところはいっぱいあるんでしょうけどね。
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2005年10月28日 04時11分08秒

あの日のボート

テーマ:昔のはなし

ボートを漕いだ事がある。

もう15年くらい前の話だ。思いっきり郊外に遠出のドライブに出かけて、確か河口湖だった気がする。いや、でももともとは「富士急ハイランド」に行くつもりだったかな?

途中で雨が降り出したのだ。そこそこ降ってたし、これじゃぁ遊園地はちょっと・・・ってな気分になり予定を変更して、適当にクルマを転がした。

「あっ!これって河口湖?」

「・・・なんかそうみたい・・・おっ・・・ボートだ!ちょっと行ってみようか」

売店があって、フランクフルトやらタコ焼きやら、なんか売っていた。

「タコ焼き食べる?」

「うん食べる・・・青のりはパスでよろしく」

「うん。俺もそれはパス」

運転していた時と違って雨はたいしたことなかった。当たりに行ってたという事か?

それとも小止みになったのか?それでもやっぱり雨はあったから、屋根つきのベンチに二人で座って水面を見てた。これが河口湖なのか?そんな風に思いながら、こりゃぁ河口湖近くの池かも?などと思った。遊具がちらほら見えて、公園があるようだ。売店には「釣りエサあります」と書かれていて、近くに釣堀がある様子。僕はボートを見つけた

「ボートに乗ろう!」

「いいけど・・・タコ焼きは?」

「俺、ネコ舌だから」


初めての経験。なんか曲がって進む。いつまでも岸の近くでおたおたしているのはみっともないから力まかせに漕いだ。お~!進んだ・・・って・・・あれ、戻ってるじゃん!ブーメランか?

そのうち慣れてきた。右と左のバランスをとって、コブシに力を込める。水面を渡ってくる風が頬をなで、パシャッという水音が耳に心地良かった。

彼女は遠くのどこかを見やったまま、頬張ったタコ焼きをせわしなく転がしてた。


あれが最初で、でもそれ以来僕がボートを漕ぐ機会はない。たぶん今後もないだろう。最初で最後。それなのに、僕は時々あの日の事を思い出す


ボートって、後ろ向きに進むのだ。それがちょっと気に入ってる。


背中を向けたまま、コブシをしっかり握り締めて腹に力を込める。推進の源は自分の中に漲っている。でも後ろ向き。左右のバランスに気を配りつつ、時折後ろ(進行方向)を確かめる。あるいは過ぎ行く風景を参考にする。「よし。ちゃんと行けてる!」

疲れた顔をすると、そこで彼女が応援してくれる。「頑張って!!」


白い歯がこぼれた。青のりは抜いてもらって正解だった。

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2005年08月16日 04時47分36秒

教習所の話 青春編 完結

テーマ:昔のはなし

この記事だけ見てもつまらないので、まだの方は教習所の話 青春編 1 から順にご覧下さい。


いつものように教習所の朝が始まります。僕は今日から2段階で、教習所を飛び出して路上教習に進む事が出来るわけです。幼稚な箱庭なんか、ちゃんちゃらおかしくて走ってられませんぜ!


車のドアを閉めて密室になった瞬間、山口先生が口を開きました。

「おまえ、きのうタバコ吸いよったろ?」

「・・・は?」

この人はいったい何を言い出すのかと思いました。・・・きのうのやりとりを見ていたのか?見ていたのなら、何でわざわざ今日になってそれを持ち出して・・・?

「きのう、お前たちに注意した人、誰か知っとるとか?・・・知らんでとぼけたっちゃろ?」

「・・・」

「ありゃぁ、うちの校長ぞ?仕事しよるとか、堂々ととぼけた子がおるっちゅうて・・・そがんとが校長に通るわけなかやろが・・・」

「・・・校長!・・・先生!?

僕は絶句したまま固まってしまいました。

あのじじいが校長先生だった!なんて・・・という事は、俺が置かれている状況はなに?山口先生は次に何を言う?やばいのか?

「こういう、未成年の非行を見つけた場合、速やかに警察に連絡する事になっとるとさ」

「・・・」

「まぁ、まだ高校卒業前やけんな。ひとまずは学校に連絡するっちゅうとが筋やろ」

「・・・」

「・・・お前に選ばせてもよかとぞ?警察がいいか?学校がいいか?」

「・・・」

(ミラーをちらと見て)「おう、うしろのつまりよるぞ。よかよか。今日から路上に出るぞ、行け行け。出発進行!」

失意のうちにクルマを出した僕ですが、頭の中はまさに「上の空」です。

警察と学校?どっちも困るに決まってる!!

もうじき卒業で、進路も決まってて内申書がどうだろうと構いませんが、この時期に停学をくらって頭を丸坊主にして・・・というのは、あまりにもせつないペナルティ・・・。僕はその春に東京に出ますが、出たら最後、タバコは実質的に解禁(あくまでも未成年ですが)されたも同然。反省文を書かされるんかなぁ?いったい何を書く?

「堂々としててすいませんでした」

「勝手にただのじじいと思い込んだのはうかつでした」

そんなの書けんって!

それに、なんで俺だけがこがん(こんな)ペナルティを喰らうとや?あいつらも絶対ちくってやる!

S本君とK柳君、それに○○君と△△君も一緒に喫ってました」って書いてやるっ!

そんな事を思いながら、「いや、それは男がすたる」ぞと。ここは一切を黙って皆の罪もかぶるのが男ぢゃないか!などという考えも湧いてきます。でもそんなの、実際には「あはは、1人だけ捕まってやんの。ばかじゃーん?」って誰か言う。絶対誰か言う!


山口先生は車中でいっさい喋りませんでした。路上教習なんて上の空の僕は、「スピードはオーバーする」は、結構自分で「強くブレーキ踏んでる」は、信号待ちからの発車で「セコ発進(マニュアル車で、セカンドギアでの発進。教習中なんだからご法度)」しちまうは、散々な内容です。もう、がっくんがっくんとノッキング!


というわけで、とうとうあれよあれよと既定のコースを走りきり、教習所に戻って来ました。わきの下に冷たい汗が伝うのをはっきり感じました。

山口先生いはく、「お~い・・・よう無事に帰ってきたぞぉ?俺は生きた心地せんかったぞぉ」予定より15分も早い到着。

だって先生が威かすから。


「ま、よか薬にはなったやろ?今回の件は俺がとりなしてやるけん。」

「・・・へ?」

「見逃してやるって言いよるとやっか(言ってるんじゃないか)」

「・・・よかとですか?」

「おう。俺に任しとけ。お前のオヤジさんには俺は世話になっとるけんな」

「・・・そうですか・・・あ、ありがとうございます」

「よかかぁ?堂々と喫うなよ。未成年なら未成年らしく・・・隠れて喫え」


キツネにつままれた感が残りはしましたが、実際お咎めなしで、本当に先生がとりなしてくれたらしく、結局僕の身にはその後も何もなかったのです。「オヤジさんには世話になっとる」という言葉については、この件をオヤジに話す事はできませんでした。だって未成年でしたからね?親にも隠れて喫ってたわけだし。

先生とオヤジとの間にどんなつきあいがあったのかは、その後、10年くらい経ってから「あぁ、そういえば、あの時」とオヤジに聞いて初めてわかったのです。


先生は心の中で「借りは少しだけ返した」と思ったに違いありません。
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