えぇーっ、何?この小説は~

少しずつ長い時間かかってやっと読み終えたフランス作家、エミール・ゾラの「ナナ」。ですが…。感想というか…。面白くないのなら最後まで読みはしないのです。次はどうなる、次はどうなるという期待感・ゾクゾク感が常に湧いてくるエキサイティングなお話しではあるのですが…。ヒロインはナナという稀代の悪女、いわゆるファムファタール。その波瀾に満ちた短い生涯は、激烈というか男女間の事件続発の人生。生まれ持った美貌と肉感的な体、醸し出す官能的な雰囲気でパリ中の男たちを次々と誘惑し身も心もボロボロにさせてゆく高級娼婦。それこそ男と見ると名士であろうが極道者であろうが、美男であろうが醜男であろうが、金持ちであろうがプータローであろうが若者だろうが年寄りだろうがインテリであろうがバクチ打ちであろうが全く見境なし!大金持ちからも小金持ちからも財産のありったけを吸い取って自分は衣食住にわたって贅沢三昧、おもしろおかしいパーティ三昧の日々。不思議なのはこれだけのご乱行に呆れて去ったり復讐をしようとする男が一人もおらず、結婚を切望したり、捨てられて自殺を図ったりするという体たらく。うそでしょ~。あり得ない。これはもう絵空事ですな。このヒロインには女として人生に対する何の思想もないし、かといって壮大な野心も感じられない。この人は若いうちに生涯を閉じることができて良かった。こんな女性が年老いて若さも美しさも性的魅力も失くしてしまったらただ醜悪なだけだし、本人も生きている意義は見つけられず生きる屍に成り果てただろう。私としては、見た目はちょっと残念汗という感じでも年齢を重ねるごとにますます個性的に楽しく生きている田辺聖子さんとか林真理子さんとかイッコーさん(女?)とかの方が素敵だと思うなぁ。ちなみにこのヒロインの最期は、若くして天然痘に罹かり醜い容貌になって亡くなります。え~っ、これが作者のヒロインに対する仕返し~!?そうではなくもっと女としての何らかの挫折感を味わって欲しかったなぁ。女(人間)なんて挫折を乗り越えてなんぼじゃん!結局、挫折のひとつも味わわず女の魔性を武器に好きなだけ派手に生きてあっさり死んだ女の話です。…
ということで刺激的な長編サスペンスドラマを楽しんだな 得意げというだけで、これといった感銘は受けなかった作品でした。

ナナ (ルーゴン=マッカール叢書)/エミール ゾラ

¥5,040
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「銀の匙」中 勘助

テーマ:
純粋無垢な心と、いとおしい日々

産まれながらに虚弱体質だった主人公は、小さい頃から母親代わりの伯母に溺愛されて育つ。その伯母が始終薬を口へ含ませてくれる時に使っていたのが題名になっている「銀の匙」。伯母の限りない愛情に包まれて育ってゆく少年はひ弱で我儘だが、非常に感性が豊かで、小さい頃の思い出の1つ1つは宝石のようにキラキラ煌めいている。夏になると色々な形をした雲の塊が青空にあふれるのを、あれは文珠様、あれは普賢菩薩様とまことしやかに教えてくれる伯母。あかあかと照らす夕ばえの美しさは子供心にも日が暮れるのを名残惜しく想う。菊が咲く頃には伯母がさまざまな菊の花びらを集めてアラビア模様に圧しをかけて、いい匂いの菊毛氈を作ってくれる。夕べの空にひとつふたつまたたきはじめる星にみとれ「お星様がきれいです」と兄に言うと「ばか。星って言え」と怒鳴られ、兄をあわれな人と思う。「兄さん」と呼ぶように、子供の憧憬が天をめぐる夜空の海星(ひとで)を「お星さん」と呼ぶのがそんなに悪いことなのか。蚕の飼育は、まるで謎の国のお姫様が繭の几帳に隠れて女王様に変貌してゆく神秘で摩訶不思議な世界を見せてくれるよう。純粋無垢な心さえあれば日々の何気ないことがなんと美しく目に、心に、映るのであろうか。幼い頃のたくさんの出来事が章ごとに美しく描かれて、物語の1章1章はちいさな小箱に入れられリボンをかけられた読者への贈り物です。ページをめくるごとに綺麗なリボンをほどくようなワクワクした気持ちになってきます。どんなに平凡と思われる毎日でも、本当はきっと奇跡みたいに素敵なことがいっぱい詰まっていて、現代人はそれをキャッチする感受性や無垢な心が鈍っているだけなのかもしれません。「生きている」ということは、本当は、死ぬほど幸せなことなのではないでしょうか。
銀の匙 (岩波文庫)/中 勘助

¥525
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テーマは美しい散りぎわ。

前回の「利休」では、はかなくも潔い一輪の花のような、前々回の「車輪」では妖精がひっそりと森へ帰るような、それぞれに「美しい死」が描かれていました。「美しい死」はおのずから「美しい生」を浮かび上がらせます。今回の作品の時代は再び戦国。自身、難病を患いながらも生涯を通して信仰を貫いた不屈の女流作家・三浦綾子による「細川ガラシャ夫人」。このヒロインの死にざまが、また凄い。炎上し轟音とともに崩れ落ちてゆく名城のような烈しくも気高い最期です。ガラシャとは洗礼名(漢字で書くと伽羅奢、何とも優美)で、明智光秀の娘として生まれ育ち、主君・織田信長の命により細川忠興と政略結婚。そののち、実父・光秀が信長に反逆し本能寺の変にて三日天下となるも、刻を置かず秀吉に討たれ明智一族は滅亡、実父母兄弟すべてを失い絶望の淵に立つガラシャを待ち受けていたのはますます悲劇的で数奇な運命だった。この世のすべてのものは移ろい、確かなものは何も無い。今日の幸せな時も、明日には打ち砕かれる乱世という不穏で空虚な日々の中、信仰という一点の心のともしびに出会う。尊崇するキリシタン大名・高山右近の「神を信ずる者は、世に起こる何事も神の御心のままになさしめ給えと祈るのである」という言葉。同じくキリシタンの侍女・佳代の「苦難の解決は苦難から逃れることではなく、苦難を天主のご恩寵として喜べるようになること。お方さまがもろもろの苦難を恩寵と思えるようお祈りします」という言葉が胸に響き、次第にキリストの教えにのめり込み、やがて厳しいキリシタン弾圧の中、洗礼を受ける。信仰により初めて真の魂の平安に至るガラシャであったが、いままた歴史は大きく揺れ動き、彼女はその渦のなかにのみ込まれてゆく。夫君・忠興と息子たちが天下分け目の決戦へ出陣する際、ガラシャは数人の家臣とともに城に残り、命をもって家を守る決意をする。「散りぬべき、時知りてこそ、花も花なれ、人も人なれ」という美しい辞世を残し。やがて来たった敵方・石田三成の「人質となって城を明け渡すように」との要求を毅然とはねのけ、とうとう細川家の城はガラシャと数名の家臣もろとも烈しい火炎に包まれる。「天主よ、わたくしの心の中より石田どのに対する恨みがましき思いをことごとく除いて下さり、清き、砕かれたる魂となって御元へ召されますよう…」最期に神へ捧げるガラシャの一連の祈りの言葉がつづられたクライマックスの数ページは涙なくしては読み通せません。祈り終え静かに瞑目する彼女は神々しいばかりに美しい。細川ガラシャ、享年三十八。数々の苦難や死さえも神の恩寵だと思えるほどの強く純粋な信仰を持てたということは、逆にそう信じなければ生きてゆけないほど過酷な人生だったといえる。過酷な人生だからこそ与えられた崇高な信仰とは人として果たして幸せなことなのだろうか…。
細川ガラシャ夫人〈上巻〉 (新潮文庫)/三浦 綾子

¥540
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戦国武将ブームですが…
「美を追求する読書」を標榜する私が気になる戦国時代の人物は、才気溢れる伝説の美女・細川ガラシャと、大茶人・千利休。おのれの美学だけで晩年、天下人である秀吉と対峙し凄絶な死を遂げた男・千利休が主人公の直木賞受賞作・山本兼一「利休にたずねよ」。戦乱の世にあって美しいものだけに額ずき、美のためなら死をもいとわなかった利休が若き頃に体験し、生涯忘れ得なかった、たった一日だけの鮮烈な恋の物語。千家のぼんぼんとして育ち10代から茶の湯にのめり込み、美しい道具を見れば金に糸目をつけず手に入れ、親の財産を女遊びや高価な茶道具に使い果たしかねない放蕩者であった若き利休。いくつもの恋をし、散財した。そして出た結論は「女は美しい、が、下らない」そして「茶道具のほうがよほど優美で崇高である」とすっかり女を極めたつもりで、真の美への執着と審美眼をますます高めていった。そんなある日、とある将軍へ妾として差し出すために異国から連れて来られた高麗の貴人の姫を垣間見、その鳥肌が立つほどの美しさと気高さに心を奪われる。「女より茶の道」という人生哲学を一瞬で覆された。侘び寂びというくすんだ美学で道具を揃えて悦に入っていたが本当に心は浮き立っていたのだろうか?「人として大事なのは命の輝きだ」その高貴な女を一目見てそう思った。「恋が生まれれば命が輝く」と。心を決め、女を連れて逃走する。しかし将軍が差し向けた追っ手の包囲網でたちまち二人は追い詰められる。手に手を取って逃亡した、たった一日で終わった激しくも清らかな恋愛。しかも言葉が通じないため、交わされるのはたどたどしい漢文での筆談のみ。その中で二人がともに知っていた漢語が「槿花一日(きんかいちじつ)」木槿(むくげ)の花は一日しか咲かないが、それでもすばらしい栄華だと詠じている、 唐の詩人・白居易の詩の一節。生と死はすべて幻。幻の中の哀楽をどうして心にかけるのか…と詩は結ばれている。いよいよ追い詰められた時、利休は女に尋ねた「捕らえられて野蛮な男の妾となって生きるか、このまま二人で死を選ぶか」女が書いた答えは「槿花一日」…この一日を最高の栄華として花のように潔く散るというのだ。利休が毒を入れて点てた茶を飲んで女は死に、彼も続こうとしたが果たせず生き残る。そののち美を追求する天下の大茶人としての生涯を全うした利休だが、花のように舞い散ったその一日ほど強烈に美しい日を過ごしたことはあったであろうか。どんな美の哲学も、恋のときめきほどに命を輝かせるものではない。だが恋とは幻のようなもの。恋を極めようとすれば一日で終わってしまうことも覚悟しなければならない。しかし幻だけでは満足できない、どうしてもこの手につかみたい…そう願ってしまう現代人に恋を極めることは永遠に無理なのかもしれない。
利休にたずねよ/山本 兼一

¥1,890
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本が好きで好きで好きで、ひたすら沢山読むことだけで自己満足している嫌いがあり、読んでも読んでも作品が素通りするばかりで自分の中に何も残っていない虚しさを感じる今日この頃。「感動した」とか「よかった」とかいう単純な感想以上に、的確な表現をしようとすれば必然的に読書の質は上がるだろうし、人に伝えられるくらい精読してこそ本の意義があると思うので日々の読書を人生の無駄にしないよう精々頑張ろうと思います!

さて、今回の本はヘルマン・ヘッセ「車輪の下」。中学時代の課題図書的作品で、私にとっては10代~20代の頃に読んで以来、多分人生で2~3度目の「車輪」との再会ですが、この異様に胸にしみる感傷は10~20代の頃には味わい得なかったものでした。同じ作品も読む年代によって味わいは激変するのだ!年月の積み重ねが読書の深みを増す一助になるのなら歳をとるのもそう悪くない。閑話休題。この小説はドイツの片田舎で一番の秀才と評判の少年ハンスの栄光と挫折の短い生涯の物語。州の有名学校に2番で合格し、優等生として入学するも学校の人間関係や過度の勉強、まわりの大人たちのプレッシャーなどから、繊細な神経を持つ彼はやがてノイローゼになり自主退学を余儀なくされ田舎に戻って見習い工になる。が、そんなエリートコースを外れた生活は、もはや夢も希望もなく、やがて彼は自殺とも事故とも判別しない死を迎えることになる。…というあらすじ。特に心に残る“美しい”シーンは3つ。ひとつは彼の故郷のまばゆいばかりに美しい自然。ふたつ目は、ある学友に対する美しき憧憬。そして最後のひとつは彼の小さな命のともしびがそっと消えゆく美しさ。「故郷」「学友」「死」この3つの美しさについて綴りたいと思います。試験を終えたハンスが、草いきれのする夏の野原で上気しながらバッタを捕まえる時、無心に釣り糸を垂れる時、なんと子どもらしく生き生きとしていることか。故郷の大自然の中で大好きな魚釣りや水浴びをして過ごす輝かしい夏休みは、勉強計画に阻まれ結局たった1日で終わってしまうのだが、この「人生最期の美しい夏の一日」の描写が素晴らしく、ハンスの溢れんばかりの幸福感が伝わってきます。そして学校では、文学の美しい熱狂にとりつかれたひとりの学友に崇拝に近い感情を抱き、親友とも言える仲になるが、やがてその友とも「感化され過ぎている」との理由で強制的に離され、やがてふたりとも退校する事となり二度と会えなくなる。心の拠り所であった唯一の友を失い、退校により将来の夢も潰えた。何もかも無くした少年に生きていく気力なんてこれっぽっちも残っていなかった。日々の楽しみもなく目標も見失い脱け殻の様になった彼は子どもの頃の想い出を辿って懐かしい故郷の町をふらつく。その姿が哀れで胸が締めつけられます。大人たちや社会という車輪の下じきになって、押しつぶされたひとつの小さな人生。彼のひっそりとした人生の終わり方がいつまでも胸のどこかに染み込んで忘れられないのです。物語が静かに終わった時、寂しさとともに「これでよかったんじゃないか…」という微かな安堵感もありました。地上の天使が綺麗な水面の煌めきに戻ったような、妖精が青い森に帰ったような、人間界ではいたたまれなかった純粋なものが本来の居場所である自然界に落ち着いたのだという安堵感。読後この慰めにより、私はやっと救われた気持ちになれたのでした。
車輪の下 (新潮文庫)/ヘッセ

¥340
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谷崎文学の真骨頂とも言える浮き世離れした、閉じられた、暗く狭く、しかし限りなく蠱惑的な物語。その狭苦しい空間に世にも高雅な春琴という女の濃厚な存在感が充満しています。春琴は類い稀な美貌と才能を天から与えられた若き琴曲の師匠。ただし盲目。裕福な両親は不憫な娘を、掌中の珠のごとく大事にしすぎたため、我儘放題に育ち、鼻持ちならないほど驕慢な少女に。そして琴の才能で十代の若さで師匠になり、数人の奉公人や弟子にかしづかせる。ただし、ごくごく身の回りのことは付き添い夫であり弟子でもあり、彼女を神のごとく崇拝している佐助にすべてやらせる。起居・着替え・食事・風呂などの世話等々・・なにせ廁へ行っても自分の手は洗わなくても済ませられるほど、何もかも佐助にやらせる。生来の贅沢好きでかなりの浪費癖だが、使用人や弟子に対しては吝嗇でがめつい。自分勝手で意地悪。自分のことを丁重に扱わないと激しく機嫌を害ねておいて、他人には極めて厳しく、バイオレンスチック。稽古中も出来の悪い弟子をなぐり、気の利かない奉公人を容赦なく打ちすえる・・と、これでもかこれでもかとヒロイン春琴をひどい女に描いて悦に入っている嗜虐的な谷崎。“人でなし”であっても美と才能さえあれば許される。春琴のような女は高慢で冷酷であればあるほどその美しさが際立つ。そういう倒錯した美への傾倒が谷崎文学の真髄。

谷崎 潤一郎
春琴抄

大正初期の貴族社会、若く誇り高き侯爵家の美貌の御曹司と、彼の年上の幼なじみで美しく品位あふれる伯爵令嬢との、悲劇的な恋の物語。この二人は恋をする天才だなと思いました。悲劇でなければ、決して成就しないものでなければ、永遠に不可能だという障害がなければ、至上の恋は成り立たないと生まれながらにして知っている恋人たち。かれらは地上の安易な恋などしようとは思っていない。命を賭してでも手に入れなければ・・、そのくらい高貴な恋をしたいなら幻を見続けなくてはならないのです。恋の天才は死ぬまで幻影を見続けれる天才です。恋する相手の現実は決して見てはならないのです。至上の恋とは、夢のなかで味わう清らかで冷たくて甘い水・・朝になって目が覚め、あけぼのの光が水のありかを照らし出し、それが髑髏の中にたまった水だったとわかった時、恋する者は吐き気を催してもどしてしまう。しかし心を滅していれば髑髏の腐水も甘露の水となるのです。この物語の恋人たちそんな現世を超えた恋を貫き、青年は若くして命を落とし、令嬢はこれもまた若>い身空で尼僧になり世を捨ててしまいます。でも・・それほど激しく人を恋して想いを遂げられたのだから二人とも幸せだったのではないでしょうか。

三島 由紀夫
春の雪

浮き世の常識よりも何よりも、美しきもの、官能的なものに最上の価値を認めるという谷崎独特の倒錯の世界が遺憾なく顕わされた作品。時は江戸時代。殿様や若旦那のご機嫌を保つためや、華魁(おいらん)を笑わせるためにだけ、饒舌を売るということが立派な職業として成り立っていた時代。すべて美しいものは強者で、醜い者は弱者であったというこの時代、美しい入れ墨を体に彫っていることもその要素のひとつであったゆえ、腕利きの彫りもの師は当時、憧れの花形職業。そんな時分、若き天才彫りもの師として市井の人々から讃えられていた青年と、その理想高き彼が恋焦がれた美女の物語。美女は美女であるがゆえに、その美しい肌に堪え難い苦痛に堪えぬいてでも絢爛な刺青をほどこし、より美しい女へと完結したいと願う。「美しくさえなるのなら、どんな辛抱でもして見せますよ。」青年によって背中に蜘蛛の画を彫られ、芳烈に美しくなった女はより強く、ふてぶてしく、いっそう妖艶になり、そして男という男を肥やしにして生きてゆくのです。そんな魔性の>女に狂わされたいという谷崎の抑えきれない煩悩の疼きがきこえてくるような妖しく悩ましい一篇です。


谷崎 潤一郎
刺青・秘密

大の美食家として知られる慶応大学教授で文芸評論家でもある著者。毎日いいもの食べてるから、その文章たるや、まぁエネルギッシュ!おいしいものを食べてそれをネタにどんどん文章化してゆき、その本が売れガンガン儲けて、またまたより高級なごちそうにありつける・・というパワフルな循環型食文化をまのあたりにさせられます。最近「人は食べなくても生きてゆける」という仙人修業的な本を読み、その俗を脱した崇高で清らかな境地に憧れを抱いたばかり。で、その対極にあるような最高にギラギラ脂ギッシュな食遊生活とその精神を描いたこの本。あまりにも生命力に溢れ気力充満し生きる歓びを謳歌している内容に圧倒され「生きてるうちに仙人なんてバカバカしい!人生楽しんだ方が勝者。思いっきり俗っぽく食べて楽しんだって全然いいじゃん」とあっと言う間に趣旨変えさせられます。高級レストランなどでサーブされたワインや料理の表現の流麗なことといったら・・「シャンパンの白い泡がバカラのグラスを静かに駆け上がり、その喉越しはこれから享受する快楽の約>束のように官能的」「コンソメと肉の旨味が渾然一体となって口腔にひろがり、もうそれだけで悦楽の果てまで走ってしまいそう」もう料理評論ではない。ポエムです。食べるためだけにパリや香港へ行くことなんてざらだという福田先生は「こんな私はバカでしょうか。でも、愚かであることも幸福の、余人の知らない幸福を味わう要件だと思います」とおっしゃいます。


福田 和也
悪女の美食術
著者が嫌っている10の人びととは…「笑顔の絶えない人」「常に感謝の気持ちを忘れない人」「いつも前向きに生きている人」「けじめを大切にする人」等々…。一般的に「いい人」と言われる人たち。彼はそんな「いい人」たちの鈍感さが我慢できない。今の世の中で、ただ漠然と「いい」と思われて当然のような事や人が不愉快でならない。なぜそれが「いい」のか突き詰めて考えもせず、言語表現化しようともせず、世間の考え方に無批判に従って「いい人」を演じている人というのは、結局物事に対する感受性や思考に怠惰な人、自分の信念を正確に表現する労力を払わない人である、と。そういう労力に手を抜いている人というのは、大多数と同じ常識を持ち、世間からずれないように気を配る、いわゆる「いい人」。この複雑怪奇な人間という存在者にまつわる物事を、正確に厳密に言語を駆使して表現するという理性的な態度とは対極的の位置にいる「いい」人たち。世間の慣習に無自覚にどっぷり漬かってないで、もっと自分自身の理性や言葉を持て!概念を積み上げ議論を重ね、真実に至る努力をしろ!と哲学者である筆者は訴えます。「私は本質的に他人に興味がない」が「言葉には誠実でありたい」と願っており「自分の信念と美学を貫くために、日々軟弱な自分を鞭打っている」という中島先生。いちいちグサグサと胸に突き刺さる厳しいお言葉は、のほほんと生きている身にたいそうこたえます。
中島 義道
私の嫌いな10の人びと