2012年8月16日

ゲーテ生誕の街・フランクフルト 


    昨年フランクフルトに来たとき、シュテーデル美術館が改修中で残念な思いをしたのだが、今回は大丈夫だった。



    驚いたことにこの美術館はフラッシュ無しなら写真が取り放題。
ラファエロ、ボッティチェリ、レンブラントなどが身近で見れる。

    ラファエロ



    ボッティチェリ



    ティッシュバインがイタリアで描いた「カンパーニアのゲーテ」の本物の絵画の隣でミーハ一よろしく記念撮影。



    この美術館には今日本で話題になっているフェルメールの「地理学者」も展示している。



    昼食の後、昨年に続いてゲーテハウスを訪れる。



    実はゲーテハウスには、ミュージアムが付属していて、ゲーテの時代の美術品が展示してある。中にカール・ベナート(1815ー1885)によるティッシュバイン(1751ー1829)の「カンパーニアのゲーテ」の模写が展示してある。素人にはどちらがどちらかわからない。



    ゲーテが成人になってから住んだ家は、昨年ワイマールで見てきたが、フランクフルトは少年時代に暮らした所。
    本人に関した部屋は勉強部屋などか。
    ゲーテは「立ち机」でよく執筆したそうだ。



    子供のころ遊んだ人形芝居の箱舞台が残っている。            この家は勿論第2次世界大戦で爆撃されたわけだが、家具調度は別の地下室に避難していて無事だったそうだ。



    これでしばらくゲーテともお別れ。
    フランクフルトの観光の中心地、レーマー広場では   旧市庁舎で2~3組の結婚式が行われていた。
    夜9時の飛行機で帰り、慌ただしい夏休みも終わる。




2012年8月15日

木組みの家々が連なるツェレという町


    ハンブルクからフランクフルトに向かう途中、ハノーファ一で乗り換え、近くのツェレという町に寄った。駅から15分位歩くと旧市街に出る。300m四方の中に500戸ほどの木組みの家が軒を運ねている。


    ホッペナーハウスは1532年の建造で、ツェレで最も美しい木組み家屋だそうだ。




    市教会は1308年の創建だ。


    この地に初めて城が築かれたのは1292年のことだそうだが、現在の城は17世紀にツェレ公爵がルネサンス様式で建てたもの。
城内を見学してきた。


    街の中を観光馬車が通っている。


ハノーファーを駆け足観光


    ツェレからフランクフルトに向かう途中ハノーファーで乗り換え時間が1時間半ほどあるので、予定外だが観光することにした。
    駅前の観光案内所の前から歩道に赤い線が引いてあり、全長4.2km、手早く見学できる仕組みになっている。
    ハノーファーはドイツの10大メッセ(見本市)のうち5つが開かれるメッセの町なので、慌ただしいビジネスマンにニーズがあるのだろうが、いかにもドイツ的だ。
    夏休みの観光に来て、1日2都市を見学する方がよっぽどドイツ的、いや日本的、あるいは私的かな?
まずはハノーファー中央駅。



    観光案内所と、赤い線の出発点。







    次はオペラ座。



    そして、1913年に完成した立派な市庁舎。



    旧市街の中心には旧市庁舎とマルクト教会がある。





    宗教改革の町らしく、マルチン・ルターの銅像があり、近くの本屋にはルターの本が沢山展示されている。





    手際よく1時間半の観光を終え、サンドイッチとビールを買って18時発の特急に乗り、21時にフランクフルトに着いた。
明日の夜帰国するが、1日くらいはゆっくりしなければ。










2012年8月14日
ハンザ同盟の盟主リューベック

   ハンブルクから列車で4~50分。中世ドイツ諸都市の経済共同体だった「ハンザ同盟」の盟主だったリューベックに着いた。
    運河に囲まれた川中島のような町で、まずは堅固なホルステン門が迎えてくれるが、実はこの門、西(左)側に傾いている。自重の為だそうだが、塩分25パーセントの地下水を汲み上げて製塩業を長い間していたので、地盤沈下もあるそうだ。


    少し歩くと市庁舎に出るが、建造開始は1226年、16世紀には増改築された。
左上に穴があるのは風よけの為だとか。


    市庁舎の隣に聖母マリア教会がある。リューベックには狭い町に大きい教会が5,6ヵ所あるがすべてレンガ造りだ。





    第2次世界大戦で破壊された鐘が展示されている。


    驚くべきは1280年にハンザ商人達がお金を出しあって建設した聖霊養老院が残っている。救貧院と病院を兼ねる福祉施設だったそうだ。
    現在は老人ホームとして利用されている。


    昼食は「船員組合の家」という、1535年に建てられた船員ギルドがそのままレストランになった所で魚料理を食べた。




グリム童話の町、ブレーメン 


    今日も強行軍。午後3時頃リューベックからハンブルクに帰り,30分後くらいの列車に乗り1時間ちょっとでブレーメンヘ。グリム童話の「ブレーメンの音楽隊」で有名な町だ。
  「音楽隊」の銅像のロバの足に触ると幸運があるという。


    中央駅から少し歩くと、ゼーゲ通りの入り口にやはり童話からとったようなモニュメントがあるのだが、不勉強で何の話しかわからない。知っている人は教えてください。


    マルクト(市場)広場にある市庁舎はなかなか立派だ。


    マルクト広場からすぐのところに100mほどのべットヒャー通りがあり、入り口に金のレリーフがある。


    はいってすぐ左に飴細工工房があり、


    工房の前の小さな4つの銅像をよく見ると、「ブレーメンの音楽隊」だ。






2012年8月13日
ハンブルク懐古散策

    40数年ぶりのハンブルクだが、さすがに殆ど記憶がない。スイスに来て最初の夏休みだったはずでまだ一人だった。
    今回は家内と一緒なのでまずは旧市街のファッション街へ。独日協会が入っているビルがあったが、丸紅ヨーロッパはまだはいっていたが一階は本屋が撤退して日本人が経営する美容院が唯一頑張っていた。


    港の方に歩くと、北ヨーロッパ2大悪所と言われるレーパーバーンにでた。
    40数年前ヨーロッパに来たばかりの私には驚きだったが今は観光地化して女性観光客も多い。しかし、この飾り窓街は今も18歳未満と女性は通行禁止だ。今は日中なので門が閉まっている。


    港に出て再開発された「フィッシュマルクト」の近くの「フィッシァーハウス」という老舗の魚料理屋に行った。


    カレイ料理が名物だそうなので注文した。美味しかった。

 
   その後、港の周辺を散策した。ハンブルグは港町だが、実は北海からエルベ川を100kmほど遡った所にある。
    しかし1万トンクラスの船が行き交う大きな港で、ドックもある。
photo:01



    昼食のあと、フィッシュマルクトを歩いたが、北ヨーロッパはさすがにしのぎやすい。
photo:02



    高架を走る電車で市庁舎に向かったが窓から停泊中の船が見える。
photo:03

photo:04



    市庁舎は1886年~97年に建造のネオルネサンス様式の建物で112mの塔を持つハンブルグのシンボルだ。
photo:05



    しかしハンブルグにも現代的な建物がある。つぎの建物は正面から観るとあたりまえだが、後ろから観ると不思議! 今、建築中だ。
photo:06

photo:07






2012年8月12日
ケルン大聖堂

    今日はケルンに日帰りで往復してきた。
    ケルンには、40年ほど前に行って大聖堂の尖塔に登った記憶がある。
    今回も533段97mに挑戦した。
    尖塔の先までは157m、ゴシックとしては世界最大の建築物で世界遺産でもある。


    こちらが正面だ。


     中では日曜日なのでミサの最中だった。


    97mからの眺めは絶景だった。




    右側の尖塔の97mのところから左側の尖塔を見上げる。


    フランクフルトに戻り、夕方ハンブルクに向かった。

2012年8月11日
 
   昨年の夏に続いて昨日からドイツに来ている。
    昨年はゲーテの足跡をたどり、彼の自伝「詩と真実」全4冊を携え、生誕の地フランクフルト、「若きウェルテルの悩み」の舞台ヴェッツラー、学びの地で「ファウスト」の地下酒場のモデルもあるライプツィヒ、大臣にもなった終焉の地ワイマール、彼も度々訪れているハイデルべルク等を訪ね歩いた。
    そして、今年のゴールデンウィークにゲーテの3回のスイスの旅の足跡をたどり、昨年5月の「イタリア紀行」をたどる旅をふくめた「ゲーテの足跡をたどる旅]に一区切りをつけた。
    しかし、涼しくしかも都会好きの私を満足させる国ということで、夏休みにまたドイツに来てしまった。
    今回は40数年前に経験したライン川クルーズと、北ドイツの「ハンザ同盟の諸都市」、グリム兄弟に因んだ「メルヘン街道」の都市を訪ね、これも40数年前に訪れたハンブルクに滞在するというごった煮の旅となる。
    何はともあれ、到着したのがフランクフルトなのだから、日本の2時を過ぎてはいるが、ゲーテの銅像に挨拶に行って来た。


    帰り道に欧州中央銀行の前を通った。ユーロのモニュメントもなぜか空しく大きい。


    フランクフルトでは昨年に続いて駅前のPUREというデザイン・ホテルに泊まった。朝食も魚介類等が充実し、パンも美味しい。



   ライン川クルーズに乗ろうとマインツまで列車で行くと、コブレンツ行きの船は出港した後。仕方がないので列車でザンクト・ゴア一まで行き、反対向きのクルーズに乗った。


    すぐローレライの岩山に差し掛かると、ローレライの音楽が掛かる。3,4力国語の放送があるが日本語がない代わりに中国語があった。


    しばらくして川の中洲にあるプファルツ城を通り過ぎた。


    リューデスハイムで下船し乗ってきた船を送る。


    ここはワインで有名な町で、「つぐみ通り」というワインケラーとお土産屋の通りがある。


    リフトが丘の上まで運転している。


    丘の上からのライン川の眺めは絶景だった。


またまたゲーテの旅 (9)

テーマ:
5月3日(木)

 旅行最終日、チューリッヒの街を散歩して、チューリッヒ湖近くのオペラ座の付近に来た。確か留学時まだ少なかった日本人の為に、この近くに小さな日本人クラブがあり、NHK紅白の白黒映画を観たなと思いだし、建物を探していると、ここはゲーテ通りだということに気が付いた。   


{9FCC0E5B-E824-4D53-AE53-F3F76EFE6B64}

 たぶんゲーテの友人が住んでいたところで、スイス旅行の時ゲーテが滞在したのだろう。オペラ座の隣にゲーテバーが付属したシラー食堂があった。留学時は気が付かなかった。   


{CCF2FB0D-4476-4639-B356-37CECFBAFD2E}

 チューリッヒ美術館に行った。ゴッホ、セザンヌ、シャガールなど有名な絵が部屋から部屋に展示してあるが監視人が殆どいない。監視カメラは有るが事故はないのだろうか? 写真はスイスの誇るセガンチーニの作品の絵葉書。サン・モリッツにセガンチーニの専用美術館があるがここもよい。   


{23062E36-A824-4F7E-AB96-F0BC56AA096A}

 再びチューリッヒ湖に行き、リマト川の橋を渡る。5日前に到着した時は夕暮れ時だったが、ここはチューリッヒで最もポピュラーな景色だ。   


{AFE8FEF2-81DD-4839-B995-B7EA40B775BF}

 フラウミュンスター(聖母教会)に寄る。853年に女子修道院として建てられたのが最初だが12世紀から15世紀にゴチック様式の教会に改造され、1967年シャガールの展覧会を機にステンドグラスの制作を依頼された。80数歳の作だ。   


{B04E6C87-4B21-4127-BAB4-B20FE37FDEC6}
 

 チューリッヒの街なかには中世からの狭い街並みがあり、結構風情があるが留学時にはあまり歩いた記憶がない。一応研究者だったわけだ。  


{7FDB9A29-B8D7-40A7-93B3-A4A790F1B51D}

 リマト川の対岸の菩提樹の丘という高台から連邦工業大学(左)とチューリッヒ大学(右)を望む。その後ろがチューリッヒ山(丘)でその中腹に学生の家が有った。   


{E114862C-692B-43F4-BFEC-9107AB4F380F}

 スイスでは以前と同様スマートな人が多く、肥満体の人は殆どいない。3年程前イギリスに行った時、肥った人が増えたのに驚いたがスイスはまだジャンクフードに毒されていないようだ。ただ路上でタバコを吸いながら歩く女性が多い。男性の数倍はいるようだ。   


{E8F16018-D369-42FC-B591-56DD9894A600}

 5泊7日のスイスの旅が終わり、チューリッヒ中央駅から列車で飛行場に向かう。写真はチューリッヒ中央駅。夜9時半の飛行機で発つ。 


{E905E2B1-FDF7-4376-B5F3-423B3531177B}


またまたゲーテの旅 (8)

テーマ:
5月2日(水)

 昨日のリギ山頂にて、昨年のゴールデンウィークから1年間3回に渡った私の「ゲーテ巡礼の旅」は一旦終わりにする。今日はのんびり起き、スイス東部のザンクト・ガレンに行くことにした。写真は、チューリッヒ駅前のスイス歴史博物館。   

{39AE40E8-675B-4344-B53A-C91B24F725D0}

 ザンクト・ガレンの最大の見所は8世紀に創建された修道院で18世紀に建て直された。そして1983年に世界文化遺産に登録された。大聖堂の天井は壮大なフレスコ画で埋め尽くされている。   

{5E046C85-61A4-4260-806E-0FA371852A44}

 大聖堂のツインタワーの左から修道院の建物が続いている。   

{EEC344DF-4F3B-4CA6-B3AC-DA4552D29DEB}

 修道院のもうひとつの見所は図書館で、14万冊の蔵書を持つ。一般公開している図書館ホールは写真禁止なので絵葉書を撮影。   

{08B5E96D-4D5E-47EA-9ACC-BE095DA20194}

 ザンクト・ガレンからアッペンツェール鉄道で田園の中を40分、牧草地に囲まれた小さな町・アッペンツェールに着いた。   

{9140D4FC-CE42-433D-BD6B-9D327F7CEE59}

 留学時から、「アッペンツェール」というハーブ酒でよく知っており、スイスに行くたびに買って来て今も家に有るが、その町に行くのは始めてだった。   


{90C7C178-221D-4EB7-B3AA-EF6255A54EDA}

 ここは州都であり、年に一度州の全住民が集まり議案を挙手による多数決で決める青空会議が行われる。実は女性に参政権が与えられたのは1991年だった。そのランツゲマインデ広場は普段は駐車場に使われている。今日は市がたっていた。  


{99D5F183-C528-431F-B4EF-2DCD79B7D851}

 町の中心に聖マウリティウス教会があり、その隣の市庁舎の一部が博物館になっている。今日は休みでレイアウトチェンジをしていたが、特別に見せてくれた。牧歌的な町だ。   


{82DAD70F-965E-414C-873F-D51D63A84E9E}

 チューリッヒまでの帰りの列車からの景色が美しい。遠くにスイス・アルプスが見える。   


{E3023823-4CF9-45D8-B738-378BE7F9FB9F}


またまたゲーテの旅 (7)

テーマ:


5月1日(火)

 今日はウィルヘルム・テルの伝説の地、四森州湖の付近に行こうと思っていたが、今日明日と天気が悪く、湖は景色が勝負なので、今日はまずイタリア国境近くの峠の街・アンデルマットに列車で直行することにした。ゲーテ投宿の宿もあるそうだ。なにせ、ゲーテとワイマール大公の雪中行軍(?)を思えば列車とバスのある現代は心強い。帰り道、天気次第で四森州湖に寄ろうという、行き当たりばったりの旅にした。
ここでスイスについて多少薀蓄を。正確にはスイス連邦と言い人口は770万人、チューリヒなどの...ドイツ語圏が64%、ジュネーブなどのフランス語圏が20%、ルガノなどのイタリア語圏が6%、山岳のケルト系ロマンシュ語圏が0.5%となっている。(その他外国系が9%)
従って、スイス人にはバイリンガルが多く、英語も含め、マルチリンガルも多い。
 建国は、1291年四森州湖畔のウーリ、シュビーツ、ウンターヴァルデンのいわゆる3原州の独立同盟を持って建国の年とされている。(現在は26州) この頃がウィルヘルム・テルの伝説の時代なのだが、リンゴの的を射る話しはデンマークの伝説という話しもあり、ウィルヘルム・テルは実在しなかったらしい。しかしスイスでは銅像もたくさんあり、親しまれているのだから目くじらを立てる必要はない。
 スイスは永世中立国だが、列強の中で小国が生き延びて行くための外交政策であり、単純に平和を願っての政策では無い。スイスは国民皆兵であり、男性は20歳になると15週間の軍事訓練を受ける。終了すると、各自武装具一式と自動小銃、弾薬を支給されその後2年毎に3週間の訓練を10回義務付けられている。
 スイスはEUにも加盟しておらず、通貨はスイスフランである。私が留学した40数年前、1スイスフラン83円で、いま100円程度なので、私の知っている限り、円より強くなった唯一の通貨だ。あの頃はアメリカドルは360円で現在80円程度だから推して知るべしである。
 失業率も極めて低く、国民一人当たりのGDPは世界で常に5本の指に入っている。しかし今回数年ぶりに訪れたのだが、物価が高くなっていた。大衆的なレストランでも一人飲み物(ビールいっぱい程度)付きで昼で3千円、夜は4千円はする。
 ただ、外国人労働者が20%くらい働いており、社会が二層構造になっているのは今も当時も変わらない。
 観光は重要な産業だが、製造拠点は海外だがネッスル(食品)やノバルティス(製薬)など世界的な製造業もあり、何よりも金融業は世界で抜きん出ている。今後の日本が良い意味でも悪い意味でも参考にすべき国と言える。
 今回の旅で、私はブルーガイドの「わがまま歩き・スイス」と、日経BP社旅名人ブックスの「スイスの田舎町」を携行した。 

{2F34E240-5414-4C56-B395-CA71E29F7C0E}

 アンデルマットについたが、フルカ峠にもサン・ゴッタルド峠にもバスは6月16日でないと通らないという。仕方がないのでフルカトンネルの手前のレアルプまで列車で行き、フルカ峠を望んで戻って来た。  

{0A38A251-192C-4E61-A780-DD80D09607C8}

レアルプとフルカ峠の位置関係だ。 

{C124FDDB-B98F-4F83-8582-57EC8338E5BE}

 
アンデルマットには1775年、第1次スイス旅行の時ゲーテが投宿した「3 KOENIGE & POST」(3人の王とポスト)というホテルがあるので隣のレストランで郷土料理を食べてひと休みした。 

{C53160D3-1445-4E7B-802F-3F23ED66B993}

 アンデルマットから列車でフリューレンまで50分、バス15分でアルトドルフに着く。ウィルヘルム・テルが高く掲げた代官ゲスナーの帽子にお辞儀をしなかったからと言って息子の頭上のリンゴを射るように命じられ、見事命中させた伝説の場所で銅像がある。  


{6609C89C-1FC7-4EE0-B015-0BA2D805C720}

 ゲーテは1797年、第3次スイス旅行でアルトドルフに寄り、「黒獅子亭」に投宿した。そのホテルがいまもある。  


{4E0639D9-372F-468D-915C-22E78269A995}

 峠には行けず、時間が余ったので、フリューレンに戻り、四森州湖で船に乗り、捕らえられたウィルヘルム・テルが嵐に乗じて飛びうつったと言うテルスプラッテ等を見ようかと思ったが、ルツェルンまで3時間の船旅だというので、諦めて、ゲーテも登ったリギ山に列車と登山鉄道で登った。写真は四森州湖。  


{5F85E270-BAC2-4C3B-9FBA-B2D642AE1BA5}

 リギ山は標高1798m、留学時もチューリッヒから見える山で親しみがあったが何せ有名な山に事欠かないスイスではマイナーにしか思えなかった。ヨーロッパ初という登山鉄道で登り、ツーク湖を見ると、その先にあるチューリッヒ湖はもやにかすんでいた。  


{DE09EABF-AC7D-489F-AF4C-F8C702323BF4}

 ゲーテは1775年6月18日午後2時15分リギ山の頂きに登った。『雲があちこちで千切れ、波打つ額縁にかこまれたように、雲間から太陽に照らされた明るい素晴らしい世界が変化する絵のように現れてきた。』と言うゲーテの描写と同じ現象が今起った。 


{0F2C92E2-B7CD-48AE-B82D-D409F9F648F7}


またまたゲーテの旅 (6)

テーマ:

4月30日(月)

 今日はゲーテの旅はお休みで、8時半の特急でバーゼルにウェルナー・コッホ(Werner Koch)博士夫妻を訪ねる。彼は私がチューリヒに留学するに至ったきっかけを作った恩人で奥さんは尚子さんという日本人だ。
 私は京都大学工学部合成化学科で学んだのだが、理系の学部では、当時4年生の1年間で講師・助手(今は助教)などの若い先生につき卒業研究をして論文を書くことになっていた。
 私が配属された第3講座の吉田善一教授は世界的にも顔の広い教授で、スイス連邦工業大学の工業化学科のツォリンガー教授とも親しく、そこで博士号をとったコッホ氏がアメリカ留学の帰途、吉田教授の所で2年間の予定で研究をしていた。
 滞在2年目で学生を指導しようということになり、希望する学生を募ることになった。コッホ博士は眼光鋭く、どうも助教授(今の准教授)と喧嘩して泣かせてしまったらしいとの噂もあり、誰も希望しない。日本人学生の名折れなので、私が「英語が片言でもいいですか?」聞いた所、吉田教授は謙遜だと思ったらしく、私がコッホ氏の下で研究することになってしまった。本当に片言しか話せなかったのだが後の祭り、身振り手振りの研究生活が始まった。
 当時では新しい、物質に熱の代わりに光を当てて光のエネルギーで化学合成するという「光化学」をテーマとした研究がなんとか完成した。4年生の半ばになった頃、コッホ氏は私に彼の母校のスイス連邦工業大学のツォリンガー教授の所に留学しないかという。彼が推薦すれば受け入れてくれるというのだ。合成化学科40人の中でさほど成績上位でもなく、修士課程にも行かないで就職しようと思っていたのだが、せっかくの話しなのでお受けすることにした。夏休みに彼と2人で北海道旅行をしたのが効いたのかもしれない。
 彼も私も言いたいことははっきり言う性格で、2,3度は意見が対立ししばらく口も効かないこともあったが、典型的なヨーロッパ人であるコッホ氏にそんな所が気に入られたのかもしれない。彼は日本滞在中、尚子さんという京都在住の女性と結婚し、尚子さんのグランドピアノとともにスイスに帰って行った。
 私は留学のことは伏せて大日本インキ化学工業株式会社(現DIC)を受験し合格してから、給料を貰って修士課程で勉強する当時のDICにあった国内留学制度を適用してくれないかと頼むと、直接面接してくれた当時の川村勝己社長は会社初の海外留学生として認めてくれた。
 そんな訳で私はスイス連邦工業大学のツォリンガー教室で研究生活を送ることになった。コッホ氏はバーゼルにある世界的な化学会社サンド社(今は合併を経てノバルティス社となっている)に就職し、10数年前、60歳で退職し、悠々自適の生活を送っている。
 30数年前コッホ氏一家(娘さんが2人)が来日したおり、我々家族と会った記憶があるがそれからはクリスマスカードの交換はしているがしばらく会っていない。バーゼルを訪ねたのは我々がスイスにいた時だから40数年ぶりだ。ここにコッホ氏と私が京都大学の研究室でとった写真を掲載する。40数年前の写真だが、今日の再開が楽しみだ。  


{CD083056-0C4F-44AE-93E1-3D196AC06DE8}

 9時半にバーゼル駅に着くと、コッホさん夫妻が迎えに来てくれていた。
朝9時半から18時に再びバーゼル駅に送ってもらうまでの8時間半、40数年前の英語日本語混合のテンポのよい会話が舞い戻ってきた。まずはコッホさんの家に行き近況を話し合う。彼は74歳、尚子さんは73歳になっていたが相変わらずパワフルだった。   

{ECACA509-C3D1-4B41-8430-8121EA9554AC}

 それは当たり前で我々も歳をとっている。彼のリタイアは60歳だったが、チェスの試合(彼はスイスでNo3に4回なっている)と週2回通っているシニア大学(法律や医学を学んでいる)と園芸で頭と身体の衰えは全く無い。今日は4人共1万8千歩は歩いた。  


{70C17248-79BB-4433-A3E6-C31F9881ACA5}

 彼の家はバーゼル駅から車で15分くらいだがすでに田園の近い落ち着いた住宅街だ。30年前に、近くに引っ越したそうだが、前の家同様核シェルターがある。ただ今度の家では東西間緊張が溶けたからか、核シェルターをワインケラーに使っていた。   


{64ADC889-0B30-4559-9C33-3F5B39AFEB0E}

 コッホさんには前もってどこか美術館を見たい旨頼んでいたが月曜日で休館が多く、バイエラー財団美術館でピエール・ボナールの特別展を観た。  


{B3DE05EC-427B-449C-9A99-68D44DD5C780}

 お昼は田園の中にあるユラ・ホテルのレストランで旬のホワイトアスパラ料理をご馳走になった。   


{92041B42-C797-4375-ADD6-1D131C28C3DE}

 6年前にツォリンガー教授が87歳で亡くなった事、染料関係の会社に就職した同僚に倒産の憂き目に会った人が複数いる事など、話題は尽きなかった。スイスの主要な会社の殆どがノバルティスになったのも研究者には激動だったのだろう。   


{226ADC30-B6E4-41A5-B116-FBA4635B6AD8}

 その後街の見学に出た。尚子さんによると、私達の訪問を喜んでくれ、コッホさんはルートまで計画してくれたようで無駄がなかった。大聖堂を見学したのちワイヤーロープ式の渡し船でライン川を渡る。   


{78976D9B-B9AB-4E80-97C2-478591388C82}

 河畔を散策したのち、別の渡し船でもどる。この渡し船は川を横断したロープからさらに可動式ロープを船まで張り、コッホさんによると、ピタゴラスの論理で動力無しで船の角度のみで渡る。それだけライン川の流れが急だということだ。   


{27B1006D-7597-4635-9C65-33001B6DD58E}

 最後はマルクト・プラッツ(市場広場)に行き、16世紀に建てられたラートハウス(市庁舎)を望みながらお茶を飲んだ。  


{B5649577-98BA-4F01-B5B5-7079DB87ECE6}

 ブランドショップの多いフライエ通りを歩き、駐車場まで戻り、再びコッホさんの家に行った。落ち着いて見ると、彼と北海道・東北を旅した時から収集を始めたこけしが飾ってあり、   


{B8B6D7CD-02C0-42EA-B944-8C7B65CD431E}

  本棚の一画はチェスの本で占められている。  

{21348D67-5C3F-46AA-A127-98511CF2AF74}

   見事な程自分を貫き通した生き方と言える。彼に言わせると、私も充分我が道を貫き通しているとの事だが。今年の10月、尚子さんの妹さんの息子さんの結婚式で東京に滞在するという。再会を約して、我々はチューリッヒに戻って来た。