日本シーレーン問題研究会

近い将来「日本の生命線(含むシーレーン)」となる南太平洋、特にパプアニューギニア(PNG:Papua New Guinea)周辺の情報を先取りして分析し公開しています。


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丸谷元人著「日本の南洋戦略」(ハート出版)より


昭和17年夏頃の段階では、開戦後の日本が破竹の勢いで攻略した地域のほとんどで、戦闘は一段落していた。

 

アッツ島の戦いなど一部を除けば、昭和19年6月のサイパンの戦いまでの約2年間、ほとんどの戦域は比較的平穏だった。

 

しかし、南太平洋(ソロモン・ニューギニア)に送られた部隊だけは違った。

 

ここだけは、ずっと戦い続けていたのだ。

 

南方での戦いなど想定外だった陸軍は、熱帯仕様の装備を欠いたまま、あのポートモレスビー作戦からガダルカナル作戦を戦うはめになっていた。

 

そんな陸軍は、この地域で「第18(安達二十三中将指揮)」を編成し、情勢に流されるまま、その後もニューギニア各地で死闘を演じることとなった。

 

一方、海軍では、航空隊がラバウル、ラエ、ブーゲンビルを基点とし、連日、優勢な連合軍航空隊に頑強に抵抗、この陸と空での抵抗は、連合軍をかなり苦しめ、その侵攻を一手に食い止め続けていた。

 

にもかかわらず、その間、海軍主力の「連合艦隊」が救援のためにこの戦場に現れることは、ついになかったのである。

 

その海軍司令部は、昭和19年2亜gつ、実に奇怪な決定を下す。

 

それまで米豪軍航空部隊と互角に戦っていたラバウルの航空隊を、突然トラックに移してしまったのだ。

 

おかげであれだけの「素晴らしい仕事」をしていたラバウルの航空隊は、突然に敵前から「消滅」し、直後にマッカーサー指揮の連合軍は一気にマヌス島まで抜けて行くことになる。

 

ここから、ニューギニア本島の陸軍は完全に「干上がって」いき、事実上、見捨てられてしまった。

 

田中宏己防大名誉教授によると、ニューギニア戦の転機となった昭和18年の「フィンシハーフェンの戦い」では、米軍はラバウル航空隊を恐れるあまり、上陸は絶対に夜間に実施するとして、豪州軍と深刻な対立さえ演じているのだ。

 

それほど敵に恐怖を与えていたラバウル航空隊の役割を、全く理解していなかった海軍司令部の思考経路は、いまだに「謎」であるが、マッカーサーの司令部も、本当にラバウル航空隊が目の前から消えてしまったので、何かの罠ではないかと疑い、ラバウル周辺の偵察飛行を何度も実施している。

 

海軍がマッカーサーにその背後を全て「無償で」明け渡した結果、ニューギニア本島の陸軍は敗戦まで、補給や救援をほとんど受けることなく、地獄のような環境で飢餓と病魔、そして敵の執拗な迫撃戦闘を受け続けることになったのだ。

 

しかし、ニューギニアの第18軍は決してあきらめなかった。

 

そしてニューギニアの原住民もまた、食料の生産と供給や、日本の傷病兵の介護、物資の輸送などで日本陸軍を支援し続け、多くの原住民が日本のために命を落とした。

 

もし、この第18軍の「死闘」と、現地人の「支援」がなければ、日本はもっと早く敗北していたに違いない。

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丸谷元人著「日本の南洋戦略」(ハート出版)より


パプアニューギニアは、極めて親日的な国である。

不幸なことに、その最初の関わりは「戦争」であった。

ここは、大東亜戦争で「最も過酷な戦域」と言われたニューギニア戦線の主戦場である。

東部ニューギニアだけでも16万の将兵が戦死しているが、その環境がどのくらい過酷であったかといえば、当時の日本兵が、「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と恐れたほどだったと言えば、だいたいお判りいただけるかと思う。

その「歴史」を知らない限り、日本人としてパプアニューギニアを本当に理解することにはならない。

このニューギニア戦線では、陸軍の損害が非常に大きかったが、実は陸軍は、南太平洋で戦争をする気は全くなかった。

この地域での作戦が必要だと考えたのは海軍であり、ニューギニア・ソロモン戦線の戦いは、海軍が最初に始めたものの、途中で気がつけば陸軍の戦場に「すり替わっていた」というのが実情である。

海軍の作戦と編成を担当するのは、「軍司部第一部第一課」であるが、戦前、そこの課長だったのは富岡定俊である。

富岡は海軍大学校を首席で卒業し、終戦直後、ミズーリ号での降伏調印式にも出席した人物だが、開戦前の段階で、「対米戦争を行えば、連合軍は必ず豪州本土から反抗してくる、だからグアム、ラバウルと進出し、そこからポートモレスビーを攻略して、豪本土に上陸したい」と考えていたのである。

一方、ソ連しか想定していなかった陸軍では、あの広大な太平洋の島嶼地域で戦うなど、まともに考えたことさえなかった。

しかし、一端開戦となった以上、陸軍は行けないとも言えないから、急遽、上陸専門の精鋭「南海支隊」を編成し、海軍に付いてグアム、ラバウルと進んで行くのだが、当の海軍は、昭和
178月にガダルカナルの戦いが始まって以降、ニューギニアとソロモンの二正面作戦ができなくなってしまった。

つまり、陸軍を南の戦場に引きずり込んだ海軍は、その後ニューギニアの陸軍部隊への支援をほとんど行わなくなってしまった。

そして気がつけば、ニューギニア本島は完全に陸軍の主戦場と化していたのである。

これが「死んでも帰れぬニューギニア」の原点である。

 

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丸谷元人著「日本の南洋戦略」(ハート出版)より

遅れてやってきた飛行機に乗り込み、急上昇した期待の窓から外を眺めると、かつて我々の祖父達が、病魔と敵が襲い来る飢餓地獄の中で、ある者は母を思い、あるいは愛する妻子の面影を目に浮かべながら死んでいったに違いない海岸線が見えた。

日本兵は、あの湾曲する海岸線に沿って日本の方向に向けて脱出していったが、ほとんどがその途中で人知れず消えてしまったのだった。

あの密林の土の下に、そしてあの海の水底に、今でもまだ何千ものご遺骨が眠っていると思った時、涙がボロボロ流れた。

そして、「自分は必ずまた帰ってきます」と心の中で誓った。

帰国後、内定していた商社に電話をし、入社を辞退する旨を伝えた。

身勝手きわまりないこの心境の「変化」によって、大変な迷惑をかけてしまうことに対し、本当に申し訳ないという気持ちもあったが、しかし日本には私の代わり以上に、もっと優秀な人間はいっぱいいる。

一方で、パプアニューギニアでのこんな現実を知ってしまった人間は、そんなにはいないはずだ。

だったら、祖父の世代が何十万と命を落とし、また何百何千もの現地人が、日本人を助けようとして死んだこの国と日本を再び繋ぐため、何かをしようと思った。

その孫の世代として、一人くらい自分のような「大馬鹿者」がいても良かろう。

「賢い」者は他にもたくさんいる。だったら自分はあえて「大馬鹿者」になろうと思った。

そしてそのためには、日本での地位や安定を自らの安心のために求めることは、いっさいやめようと心に誓ったのであった。

以来10年、パプアニューギニアでいろいろなことをやろうとし、多くの人々に会った。

失敗も多く、立ち直れないかと思ったこともあったが、しかし根本的な部分は全く変わらずにいられたことは幸いであった。

それは全て、日本の兵隊さんが向こうの人達と築いてくれた「信頼」のおかげであった。それで何度救われたか判らない。

その間、パプアニューギニアが、実は知られざる「巨大な資源埋蔵国」であり、地政学的にも日本の「生命線」であるということに気付くと共に、当の日本では官民ともにそのことに全く気付かずにいて、しかも近年の急激な進出によって、日本の安全が南太平洋から静かに、しかし大きく損なわれつつある現状を知るにつれ、大きな危機感を覚えもした。

今から書くことは、過去10年間パプアニューギニアに関わった30代の若者が、上は首相や大臣クラスの閣僚から、下は奥地の村に住む老若男女に至るまで、様々な階層の人々と出会って寝食を共にし、またいくつかの「周辺国」の軍幹部や情報関係者らとも接触し、自身も危ない目に遭い、また何度も苦しい風土病に冒されながら得たわずかな経験と、そこから導くに至ったいくつかの確信についてである。

この本を読んでくださる皆さんが、少しでもパプアニューギニアを含む南太平洋のことを知り、私達戦後日本人が無意識のうちにどれだけの「忘恩」を重ねてきたか、そして現地の人々が、今日でもなお、どれだけ私達日本の「力」に期待してくれているかを知ると同時に、この地域が我が国の「生命線」であり、その安全保障環境の維持が、私達一人ひとりにとってどれだけ重要な意味を持つのかを理解していただけるのであれば、これに勝る喜びはない。



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丸谷元人著「日本の南洋戦略」(ハート出版)より

豪州の大学の研究者たちは「日本の戦争」の歴史的意味合いについて、私のような一劣等生に対してでさえ、得意の「アカデミック」な土俵で対抗できなかったが、まさにこの部分に、あの戦争を語る上でいつも出現する根源的な「問題」が隠されている。

つまり戦後の国際的枠組みの中では、「日本=悪」が絶対的に正しく、有色人種たちはほとんど日本人を憎んでいる(憎まなければならない)という図式が、今日でも旧連合軍の基本的な了解事項であり、「常識」であるということである。

だから私がパプアニューギニア人ガイドと話していた時に抱いた「恐れ」なるものも、結局のところ、「どうせ最後は『お前達日本人は残虐だったし、悪かったのだから、謝罪すべきだ』と言われるに違いない」という「いつもの『お約束』的な結末」を意識したものだったのだ。

しかし、私が抱いていたのは全くの杞憂であった。彼らはむしろ、かつての日本人を賞賛し、今でもその帰りを待っている、と言うのだ。

「なぜ、負けると判っていた日本兵を助けたのですか?」不思議に思ってそう問うと、ガイドの男は、
「祖父達は、目の前で苦しんでいるあなた方の国の人達をとても放っておけなかったのだ」と答えた。

しかし、いくら哀れでも、命を賭けてまで見知らぬ外国人を救うものだろうか。我々へのリップサービスではないか。そう思ったので、
「でも、もし日本を助けたら、必ず後で連合軍にやられるのは判っていたでしょう?」と畳みかけると、相手はこう言った。

戦争が始まるまで、我々はずっと白人のマスター達に奴隷のように扱われていた。しかし、日本の兵隊は、白人とは違った。

日本軍は、同じ有色人種として一緒に白人を追い出そう、そして独立しよう、そのために我々はここまで来たのだ、と言ってくれた。

彼らは我々と同じものを食べ、同じ小屋に寝泊まりしてくれて、大変に子供達をかわいがってくれた。

真に人間扱いをしてくれたのは、ジャパンが初めてだったのだ。

私達はそのことが嬉しかった。だから、そんなジャパンの兵隊が死にかけているのを、我々は放っておくことはできなかった」

その話を聞いて、私は胸が締め付けられるような感覚に陥った。

瀕死の日本兵を助けたというような類似の話は、他の地域でその後何度も聞くこととなったし、凄惨な事実ではあるが、そんな人間としての情を我々の祖父達にかけてくれたせいで、何百人もの心優しき現地人が、
戦後、ほとんど裁判もなしに連合軍に処刑されたという話を各地で聞いた。

欧米人は、「未開の原住民」によるそのような行為を、許しがたい「裏切り」として捉えたのだ。

それなのに、パプアニューギニアの古戦場を歩いていて、明白な「敵愾心」や「反日」の感情には全く遭遇しなかったばかりか、
彼らは、日本人だというだけで我々の周りに集まり、時には踊り狂わんばかりに喜んでくれたのである。

東部ニューギニア戦線に投入された16万とも言われる日本兵のうち、最終的に8千人ほどが祖国日本に帰ったとされるが、
その中には、そんな現地民に命を救われたおかげで帰還できた人も多い。

今、日本の各地で普通に暮らし、町の中をスマートフォン片手に歩いている一般人の中にも、パプアニューギニア人によって命を救われた結果、生きながらえた人達の子や孫は何千人、何万人といるはずなのである。

しかし、我々はそのことを完全に忘れてしまっている。

我々日本人は、この国の人々に大変な「御恩」がある。

返しきれないくらいの御恩がある。

しかし、そのことをほとんど誰も知らないのだ。


<続く>


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丸谷元人著「日本の南洋戦略」(ハート出版)より

私はもう一つの衝撃的な事実を知らされた。
それは、多くのパプアニューギニア人が、日本軍を助けたという理由だけで、戦後、連合軍に処刑されてしまったことである。

この話は、日本軍が徹底抗戦した地域に住むガイドから聞いたのだが、日本軍が優勢な的にめちゃくちゃにやられ、三々五々退却していった時、村人たちはボロボロの日本兵の後る姿を泣きながら見送った、というのである。

それだけではない。

傷つき動けなくなった一人の日本の将校を、見るに見かねた酋長が奥にかくまったのである。

ジャングルという無慈悲な自然と敵の猛攻の前で、無力に倒れるしかない「文明国」から来た日本人将校を、教育する受けたこともなく、目の前で行われている戦争の意味すら理解していなかった未開の地の一老人が、
ただひたすら「人間として」、心底哀れに思って助けることにしたのだ。

しかし、それはやがて連合軍にバレてしまい、日本人将校と共に酋長も捕まってしまった。

そして二人は同時に処刑されてしまったという。

この話を聞いて再び頭を殴られるような感覚に陥った私は、しかしその次に、ある種の「恐れ」をも感じた。

もしかしたらこの国の人々は、そんな目に遭う原因を作った日本人を恨んでいるのではないか、と。

確かにこの地域に物理的な戦争を「持ち込んだ」のは日本であった。

私の世代が受けてきた教育によれば、アジア諸国は全て日本の「侵略」や「残虐行為」を忘れていないし、日本は未来永劫、そのことをアジア諸国に対して、そして世界に対して謝り続けねばならない、ということであった。

実は、私がこの時に抱いた「恐れ」には、それなりの根拠があった。

パプアニューギニアは、戦後もずっと豪州の植民地であり、教育もまた、全てが豪州主導であった。

私は豪州に留学していたことがあったが、そこでも「戦前の日本=悪」という歴史観が一般的で、それに疑義を呈することは、アカデミズムの世界でもほとんど許されなかった。

私はその状況に何度も立ち向かった。

大学院時代、『大東亜共栄圏は正しかったか否か』という題で論文を書かされた時には、他の学生たちが「あんなものは嘘だ、欺瞞だ、残虐な日本の行為を正当化する政治トリックだ」等と書いている間、私は多くの一次資料を使用して、
「もちろん、政治的には約束が果たされなかったことも多いし、その概念すら日本の国益を最優先するためのものであったが、しかしそれは、どの国家においても同じことである。

一方で、当時の指導層から末端の将兵に至るまでの多くの日本人が、本気で『欧米植民地主義からの有色人種の解放』を信じ、そのために戦い、命を落としたのは事実であるし、あの戦争があったからこそ、アジア・アフリカ諸国が、戦後、独立したことは歴史が証明している。

つまり、日本は戦争には負けたが、その理想においては勝利したとも言えるのではないか」というようなことを書いたのであった。

しかし採点をした講師は、「確かに論点は非常に明快でよく整理できている。ただ、あの戦争を単純化し、正当化しているのではないか?」というようなコメントをし、その成績も79点に留まったのであった。

別の教官は、朝鮮研究では世界的なニュージーランド人研究者で、「朝鮮半島の女性史」が専門であったが、彼はある日、私を部屋に呼び、「いくらいろいろな資料を集めても、君は日本人だ。つまり被害者ではなく、加害者の側にいるのだから、そんな主張をするべきではない」などと言い、最後には、「つまり君は、狂信的な超国家主義者なんだ」と言い放ったのであった。

この瞬間、私は「アカデミズム」なる名前に隠された悪質な欺瞞とその限界を感じ、大学院でそれ以上勉強を続けようとする熱意を一気に失った。

私が信じていた「アカデミズム」とは、うさん臭い政治とは違い、一切の妄信的なタブーを疑い、むしろ信頼できるデータや一次資料を小脇に携え、そんなタブーにこそ斬り込んでいくべき手段であるはずだった。

そして私はその論文で、あの戦争そのものが、正しいとか間違っているという「評価」をしたつもりはなく、
ただ、皆があえて見ようとしないあの戦争の重要な側面を事実に基づいて「指摘」しただけであった。

しかし、一流とされる彼ら学者がやったのは、そんな指摘をしただけの一学生を「狂信的」とした、「レッテル貼り」だけであったのだ。

<続く>




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