自分はなぜ生きてしまっているのか。
言い換えれば、無根拠な生誕に対してなぜ惰性的に肯定し続けているのか。
目の前の快楽、刺激、充足に引きずられて生きているのが実際のところだろう。
感傷ではなく普通に考えてみての感想、もしくは疑問である。
だから自分の死に対して湧き上がる感情は「惜しさ」でしかない。
もっと欲しい、という惜しさ。それ以外に死の意味はない。
これを裏返せば、肉体的な肯定感を失った途端に生は肯定すべき根拠を失くす。
社会的な意味合いでの「生」、いわゆる「zoe」には目指すべき目的が無い。
「俺は、俺だ」という空虚な同語反復を繰り返しながら時間が経過する。
何かの集団への盲目的な同化を拒否し、強烈な個別性にしがみつくも、足元は虚無である。
何かの大きな力に同化するか、もしくはすべてを際限なく受け入れる無私となるか。
そのどちらもが僕にとってはリアリティのない話だ。
しかし自分がとんでもなく幼稚な子どもに見えることがある。
象徴的な意味での「父」を模倣したくなる。
そうすることによって自分は何者かになれると、社会的な生の目的が見つかると、そう思いそうになる。
これほどに、苛烈なまでに歴史的に構築されてきた「社会」を自分の内に感じることはない。
再保守化していく時代において、僕と周囲との距離は広がっていく。
何でもなく、どうでもよいもの、そうしたジャンクな存在になっていく。
言い換えれば「立場なき欠如態」による自己同定に立ち止まることのマゾ的な肯定感。
その場凌ぎのポジショニング。それはひどく脆弱である。
アンダークラス、ルンペン的な存在、それが今の僕には眼下に広がっている。
どうしようもなくアッパーミドル特有の不安感が押し寄せる。
切断に次ぐ切断の果て、しかしギリギリでの接続を、階級の保持を、望んでしまう。
自由が憂鬱な時代だ。シリアスな世間を笑い飛ばせない社会だ。
闘争ではなく逃走でもない。あるのは、孤独な焦燥だ。
正面から直視することがとてつもなく苦痛になる、全ての所属や経歴を差し引いた時の、自分自身の弱さ。
弱い自分自身を自分という個に拠って立たせるのだから、ひどく脆い。

ここから先に、乗り越え可能な答えが見つからない。