実は秋ぐらいからはてなブログを書いてる。
そこに今年一年の読書について書いたので、いるかいないかも分からない読者の方は読んでほしい。
『複線的な文脈の上で』   http://libre.hateblo.jp/
ちなみにブログの棲み分けとしては、こちらが日記代わりみたいなもので、向こうはお勉強ブログみたいなものだ。

さて、そろそろ朝の7時である。
今日は勉強会だ。今回は衆議院選挙をネタにした政治がテーマである。
なんでこんな朝っぱらからブログを書いているかというと、さっきまでレジュメを作っていたからだ。
つまりギリギリまで作業をしていたのである。相変わらず僕は仕事が遅い。
勉強会の参加者は僕を含めて6人。みんな大学の友達だ。
学部も学科もバラバラなので、話題が多岐に渡ることを予想している。
僕の大学には「学部横断ゼミ」というのがあるが、やっていることはサラリーマン育成講座みたいなものだ。
学部を横断して人を集めているのに、それがあまり有意義に機能しているとは思えない。
なんせ人文学部はサラリーマンになって使う能力や知識は勉強しないわけだし。
自画自賛っぽくなるけども、僕らの勉強会の方がよっぽど「横断的」な勉強をしていると思う。
人文学部の政治・経済思想、経済学部の経済政策や雇用問題、社会学部の政党別メディア戦略や新聞の比較。
どうだ。僕らの方がずっと良い勉強してるだろー。なんつって。

なんて言っておきながらも、実は横断ゼミには前から興味があった。
でも僕はひねくれものなので入らなかった。なんか違うって思ってたし。
僕は欲しいものがあっても、それを誰かから与えられるのが気に食わないようだ。
同じようにサークルだって羨ましかった。だから学祭で有志を募ってサークルっぽいことをやった。
なんでも自分が一から作らないと気が済まない、というかそうでないと絶対に既存の枠組みややり方に対してケチをつけてしまう。
まぁ要はめんどくさい厄介なヤツなのである。
だから最終的には自分で好き勝手に始めてしまうのだけども。
しかしそれができるのも、僕の提案に乗っかってくれる友達がいてこその話だ。
この大学四年間でつくづく思ったけども、本当に僕は一人では何もできないヤツだ。
エクセルもパワポも作れないし、プログラミングなんて全く知らないし、専門知識もマトモに持ってない。
お金があるわけでもなければ、何か特別なコネを持っているわけでもない。
絵とか音楽とかそーゆー芸術的なセンスもまったくない。
めっちゃ凡人で平均ちょい下ぐらいの人間なのだ。
できることを必死に探しても、「これやろうよ」と提案してみることぐらいしか思いつかない。
あとは誰でもできるめんどくさい事をひたすら裏方でやることだろうか。
それも別に効率が良いとか気が利くとかでもない。常にアワアワしながらやってるのだ。

アワアワして、バタバタして、アタフタして、そんなことばっかりだ。
でも、そんな僕だけども、一緒になって何かをやってくれる友達はいる。
しかもいつだってそーゆー友達や先輩や後輩が近くにいる。いつだっている。いつだっている。
これだけでも素晴らしいことだ。これだけでも恵まれたことだ。
僕はそうした何かをまた別の誰かに贈ることができるだろうか。
少なくとも今はほとんどできていないと思う。
僕が誰かに贈れるものなんて今は何もないのだから。
だからせめて言葉だけでもと、近くにいてくれる友達には真摯に言葉を手渡してるつもりだ。
言葉だけでも、せめて言葉だけでも、何もないから、言葉だけは、自分のなかで一番のものを。
最近そう思うようになった。

言葉の真意が伝わらないこと、言葉への不信感を覚えてから一年が経った。
相変わらずコミュニケーションというのは難しい。
喋りすぎてしまうクセも相変わらずだ。
しかし言葉の数が多ければいいというものでもない。
適切な分量、タイミング、抑揚、表情、言葉の間、そういった感性的な問題がある。
絶対にマニュアル化できない、一番の属人的な技。
僕にとってそれは全生涯的な課題だ。
べつにプレゼンが上手くなりたいとかTEDに出たいとかではない。
天才的な詩人になりたいわけではないし、万人受けする名言を吐きたいわけでもない。
そうではなくて、日常によくある平凡で切実な悩みを持つ目の前の人に、その人の心に届く言葉が欲しいのだ。
傲慢にも思ってしまうのだ。僕の言葉でこの人が救えたらと。
伝われと、伝わってくれと、願うことがあるのだ。