いつからか僕は「天邪鬼」になることが好きになっていた。他人が「やめておけ」と言うことほど魅力的に僕の目には映った。反動的な逆走こそ僕にとって最も加速できるやり方だったし、思い起こせば無茶な挑戦だった大学受験、震災直後のボランティア、休学からの旅そして西アフリカ、今は「食えない学問」と言われる哲学、そういった不安定な状況に心が惹かれるのは何故なのか?

それらの決断をする度に、真っ先に思い浮かぶのは他人の困惑した顔であり、不可解な存在として他人に現前する自分である。今までは全く気づかなかった、それが一種の歪んだ承認欲求だったことを。つまりどうしたって自分が“理解されない者”であるなら、最初から徹底的に「理解できない域」に飛び込んでやろうという倒錯した欲望である。

しかしどこまで行っても僕は普通の人であって、どこにでもいる優れた人たちによって挫かれて然るべき凡人でしかないことをこの一年間でよく理解したつもりだ。どこにいても僕は“半端な”変人であり、それは往生際の悪い、凡人をより深く凡人たらしめる状態である。なんら特長のない自分から目を背けて、あり合わせの何かを継ぎ接ぎして誇張しようと思ってしまう。

キルケゴールに言わせれば、それが絶望の一形態であることは明らかだった。絶望は死すらをも死なせる死病、肉体的な死には至らないような死に至る病だ。燃えても死なない虫が燃やされ続けているようなものだ。

半端な変人は本当に変人に、いや狂人になるか、凡人である事を受け入れるか、二つに一つを選ばざるえない。これまでの行動によって半端な変人を演じてきたからこそ、その訣別も行動によって示さなければならない。もちろんそこには社会的な要請も含まれる。この時期の20代はそういった意味で「最後の獲得・決定」を迫られている。便宜上の使いやすい言葉で書くなら、それは「こども」と「大人」の境界線だ。そして遠いその先の未来で何を喪うのかを、獲得と同時に決定することになる。

天邪鬼の論理、それは結局のところ他人に相対しているだけの(文字通りなのだが)寂しい理屈でしかない。しかしそれがもし僕の根底になかったら、最初に書いた全ての出来事や経験は無かったのかもしれない。そう思うと天邪鬼の論理は確かに稚拙なものであるが、しかし無駄と言い切るには違うような気もする。

ただしもう僕の前には既にある一つの時間が始まっている事も事実だ。つまり16卒予定の大学生にとって、経団連の取り決めによって採用解禁が翌年の4月に伸びたところで、三年生は就活の時期であることに変わりない。

なんだ、また就活の話かよ。

お前はもうフランスに行くって決めたんじゃなかったの?揺らいでんの?やめれば?


そんな声が浴びせられるのを承知で書いている。しかし僕にとっての就活とは、今あなたがイメージしている就活とはかけ離れているのだ。言わば「社会的な要請」が僕の内的な状況に大きな影響を及ぼしていて、その社会的な要請はこれからも様々な場面で僕の内側にある扉を無遠慮にノックするだろうが、つまりその最初の呼び出しが就活なのだ。これに応じるのか応じないのか、それは表面的な生活の変化よりも精神性の問題として、どちらにせよ深刻な獲得と喪失を同時に招く。そしてこれは何も就活に限ったことではなく、人間関係の問題にも普及することを書き加えておこう。

どちらにせよ天邪鬼を脱ぎ捨てる必要があった。二項対立的なモノの見方は視野狭窄と言われそうなものだが、こればかりは「譲れないモノ」もしくはアキラさんの言葉を借りるなら「決め打ち」するべき事だ。

分かりにくい、見えづらい話だが、外に向かって怯えているのではなく、その決定それ自体が精神に及ぼす影響に怯えているのである。半端な変人は半端な事を思い、半端な事しかできなかったのである。だからこそ怖いのだ。これからの有りすぎる可能性が閉ざされてしまうことも、むしろ誰かによって限定してほしくなってしまう弱さも、両方にビビっている。

遊びとしての天邪鬼は気楽だった。一度だけ命を賭けたことはあったが、今思えばそれは死という永遠に対する瞬間的な賭け事であり、よくもまぁあんなに安易な事を僕はできたもんだと思う。

どちらにせよ不確かで可変的な永遠は、今目の前で賭けられようとしている。

一切の可能性と多くの関係を、その天秤に乗せてしまっている。

無限に複数の力が今後の僕に作用するとしても、その帰結が何パターン用意されているにしても、精神的な軸をどこに置くのかは自分次第なのであって、さらにそれは今後の自分を支える強度が必要なのである。

天邪鬼の論理に強度はない。浮遊する自由や無責任な逃避によってその態度は担保されていたのだから。要は天邪鬼の論理が僕にとっていかに過去にとっては有益であって、いかにこれからは不必要なのか、ということだ。

相対する事をやめるべきなのは自明である。全ての可能性や関係に対して、都合よく何かを期待して、都合が悪くなれば「やっぱ要らない」という態度になる事をやめなければならない。僕の場合にフットワークが“軽い”のは、石の上に三年も“座れない”ことの裏返しでしかないように思える。

一切を捨てること、そして一切を引き受けること、それが天邪鬼の論理を脱ぎ捨てる為に必要なことだと思っている。

そういった論理を打ち立ててしまうことから、つくづく僕は極端な人間だと思う。曖昧さを良しとすることがなかなかできない、不器用な人間だと思う。

しかし不器用な人間であることを僕は引き受ける気でいる。つまり本当に大事なことはそんな些末なことではないのだ。器用になろうと足掻いてる暇なんて僕には無い。

もう大学4年生、21歳だ。
そろそろ腹を据えてもいい頃だと思う。
天邪鬼になって場所から場所へ逃げ回るのも、何かの関係に媚びへつらうのも、やめたらどうか。正真正銘の真っ当な自分はいつもここにいるのだから。

さぁ石の上に座れ。一人で。