ラケットちゃんさんのつぶやき

ブルセラコスチュームで、あちらこちらに出かけてます。
最近は、主に富士山麓の山に登ったときの、雄大な富士山と、自身の写真をつけてます。
ブルセラアイドルの夢を見ながら、日常の現実に対するいろんな思いを綴ります。


テーマ:

 

いつもお越しいただいてありがとうございます。
今年に入っても、毎日毎日ぺたやいいね!やメッセージで多大なるお力をいただきました。
ほんとにありがとうございます。

 

私の法華経の勉強はついに、仏法の中で最重要の法華経、法華経の中でも、最重要な本門の中の文底=如来寿(命無)量品、ここに来ました。
その前の宝塔品からは、虚空会の儀式という、七宝で飾られた巨大な宝塔(小さく見積もっても幅が地球の直径の約4分の1、高さはその約2分の1)が空中に出現し、そこに釈尊と多宝如来が並んで座り、大勢の聴衆も宇宙空間に浮かびあがって、教えを聞くことになります。
まさに、今風に言えば、巨大な人工衛星から無重力空間に向かって宇宙講演会が開かれるんです。

従地涌出品第十五、明けまして、ホー法華経ゥ~、大地の下に潜む菩薩や無明、壮大なドラマ

http://ameblo.jp/raketto-chan/entry-12234083467.html
 

比喩品以後、今まで成仏できないとされてきた地獄から餓鬼、畜生、修羅界の衆生や、女性の成仏、人界・天界(神々)、声聞・縁覚界、菩薩界の衆生まで、すべてが成仏するという予言を与えられて、歓喜・讃嘆され、種々の摂理を説かれ、末法への予言もされました。
そして、難多い末法で、いったい誰が法華経の教えを説いていくのか。
その場にいた菩薩たちは、すぐに我こそはと手をあげました。
その請願を、釈尊は、君たちではない、と振り切りました。
すると、大地が裂けて、おびただしい数の菩薩たちが現れ、釈尊は、彼らこそ、末法において、この法華経を護持し読誦し書写し広く説いていく人たちであると紹介しました。
その場にいた菩薩たちは、自分たちに比べて彼ら地涌の菩薩たちが、はるかに無限の数で、すべて釈尊のように威徳と智慧に優れていることに驚き、そして、これはおかしいと疑惑をいだきました。
釈尊は、この世に生まれて仏になってからたった40年余りしか経過してないのに、こんな威徳と智慧に優れた無限の数の菩薩たちを、いったいどんな方法で導いたのだろうか。
例えば青い若者が優れた老人を指さして我が子であると言い、その老人もその若者を我が父であると言うようなものだ。
こんなことは科学的には絶対にありえない。
時間的にも空間的にも矛盾する・・・

そして、この、前章の最後の詩の部分にある、空中にいる聴衆の切なる願いは、とっても胸を打ちます。
矛盾があっても真実として、仏の言葉を受け入れると誓いながら、訳のわからない末法の衆生のために、どうか・・・と願っている部分です。
”自分たちは釈尊と共にいるので、お言葉は矛盾があっても信じることができますが、事情をよく知らない末法の衆生がこれを聞いたなら、絶対に疑いを起こして法を誹謗し、駄地獄の業を積むことになります。
そいつらのために、末法でも分かるように、どうか今、解説なさってください。
いったい、どのようにして、この無量の菩薩を、短期間のうちに教化し発心させて、不退転の境地まで導きなさったのでしょうか・・・”

時空を超えた、ビッグバン宇宙さながらの壮大なスケールの説法が、更に広がってくるステージとなっています。
釈尊の説いた仏法の中で、最大のクライマックスの部分です。

 

一緒に、私がみた鬼ヶ岳・雪頭ヶ岳から望む富士山の、春夏秋冬・思いのあるものを挿画像として抜き出してみました。

 

 

妙法蓮華経如来寿量品第十六


その時、釈尊は、その場の諸々の菩薩たちや一切の大衆におっしゃいました。
「諸々の善男子よ。今こそ、如来の真実の言葉を理解し信じて受けいれなさい。」
再び、おっしゃった。
「諸々の善男子よ。今こそ、如来の真実の言葉を理解し信じて受けいれなさい。」
更に再び、おっしゃった。
「諸々の善男子よ。今こそ、如来の真実の言葉を理解し信じて受けいれなさい。」

すると、諸々の菩薩たちや一切の大衆は、弥勒菩薩をはじめとして、両手を合わせて仏を仰いで言いました。
「世尊よ、お願いです。このことを説いてください。私たちは、仏のお言葉を固く信じてまいります。」
このように、お願いが三回、繰り返され、さらにもう一回、誓いました。
「世尊よ、お願いです。このことを説いてください。私たちは、仏のお言葉を固く信じてまいります。」

そして、世尊は、菩薩たちが、三回請い、更に教えを求める姿を見て、おっしゃいました。

 


 

「君たちよ、諦観して聴きなさい。如来の秘密と神通力を。
ここにいる人は皆、一切世間の神々および阿修羅などの鬼神にいたるまで、この釈迦牟尼仏は、釈迦族の王宮を離れ、伽耶城を去って、そんなに遠くない道場に坐り、仏の完全な智慧や悟りを得たと思っているだろう。

しかし、諸々の善男子よ。
”私が成仏してから今まで、実に、無量無辺である、百千万億那由侘という劫が過ぎているのである。”

譬えば、五百千万億那由侘阿僧祇の大宇宙の物質を、すべて原子核(微塵)にすりつぶして、東方へ運び、五百千万億那由他阿僧祇の宇宙を過ぎるたびに、その原子核を一粒ずつ落としていき、すべての原子核を落としつくした時に、通り過ぎてきた宇宙の数々を考えてみよ。
諸々の善男子よ。その宇宙の数々のすべてを思惟し、その数を計算できるだろうか。」

弥勒菩薩などは、そろって仏に申し上げました。
「世尊よ。その宇宙の数々は無限であり、数を数えて知ることは不可能です。
到底、私たちの頭脳の及ぶところではございません。
一切の声聞や縁覚たちの得た「完全な智慧」でもってしても、思惟・計算すらできません。
わたし達の、不退転の境地にいる菩薩であっても、思いが到達することはできません。
世尊よ。
このような宇宙の数々は、無量無辺でございます。」

 


 

その時、世尊は、諸々の菩薩たち、大衆におっしゃりました。
「諸々の善男子よ。今まさに、はっきりと説明しよう。
その宇宙の数々を、原子を落とした宇宙も、その周りに合って落とさずに過ぎていった宇宙もふくめて、すべてをまた、原子の粒にすりつぶして、その一つを一劫とする。
そうしたとき、存在するすべての原子の数ほどの劫数よりも多くの劫が、私が成仏してから今まで、過ぎ去っているのである。
つまり、百千万億那由侘阿僧祇の劫なのである。
この悠遠の間、私は常にこの娑婆世界にいて、妙法蓮華経を説法し、衆生を教化してきたのである。
また、ほかにも、百千万億那由他阿僧祇の宇宙においても、衆生を導いてきたのである。

諸々の善男子よ。
私は、ある期間は、然燈仏という名で、仏に習って仏となったのであるなどと説き、また仏も涅槃に入ると説いたのである。
これらはすべて、方便の教えであり、その人一人ひとりの状態に合わせて説いた(限られた範囲にのみ通用する)教えなのである。

 

 

諸々の善男子よ。
縁あって、私の所に衆生が来た時、私は仏眼をもって、その信仰の程度などを見透かして、気根の利鈍に応じて説いていく。
だから、説く内容は、その人の状態によって、自らの名前が異なったこともあり、年齢や期間も大小さまざまであったし、そして、肉体として生まれてきては、まさに涅槃に入るとも説いた。
また、いろんな方便を使って、不可思議の妙法を説きながら、衆生の心に歓喜をおこしてきたのだ。

 

諸々の善男子よ。
如来は、徳の薄く垢が重なった(六道輪廻にいる)者のためには、”私は、若くして出家し、仏の無上悟りを得た”と、説いた。
しかし、私が現実に仏となった過去が久遠の昔であったことは、たった今、明らかにした通りである。
衆生を教化し仏の道に導くために、この様な方便を用いて説いてきたのだ。

 

 

諸々の善男子よ。
如来が演べた経典はすべて、衆生を成仏させるためなのだ。
あるときは私自身のことを説き、
あるときは他の仏のことを説き、
あるときは私自身の分身を現し、
あるときは他の仏の分身を現し、
あるときは私自身の振舞いを示し、
あるときは他の仏の振舞いを示した。
諸々の語ったこと、説いたことは、皆、真実であって、うそではない。
なぜかというと、如来は、如実に、過去・現在・未来の世界を見通しているからだ。
生死流転に見える世界であるが、真実には、生も死もなく、この世には、常に変化なく存在する者も、消滅する者もない。

 


 

あらゆるものの実体はなく、また実体がないものもない(実に非ず虚に非ず)。
同じものはひとつとして無く、また異なるものも無い(如に非ず異に非ず)。
過去・現在・未来の世界は、これがそのような固定された世界だと見るようなものではない。
これらのことを、如来は明らかに透徹しているので、間違えることはない。
諸々の衆生には、諸々の性質があり、諸々の欲があり、諸々の想い・憶測があって、誤った諸々の行動をする。
これらはそれぞれすべて異なっているものであるから、一人ひとり、どうしたら良い果報が生じる立派な行いになるのだろうかと、若干の因縁や、比喩や言辞を駆使して種々の説法を行う。


これら、仏のなすべき事は、いまだかつて、少しも休んだことなどないのである。

このように、私は、仏となった昔は、はなはだ大いに久遠であり、寿命は無量阿僧祇劫であり、常にあって滅びることはない。

 

 

諸々の善男子よ。
私は始めて菩薩道を行じてから、今なお寿命は尽きていない。そして、今後の寿命も、その数の倍あるのである。
だから、今まで、実際に滅度はしないが、「これで滅度を取る」と言ったのである。
如来は、こうして方便を用いて衆生を教化する。
どうしてかというと、仏の姿がこの世に長い期間見えていると、その間、徳の薄い人は、いつまでたっても善根を積むことをしないで、
貧弱で低級なレベルの考えに流され、愛欲を貪り、盲目で曲がった思い込みの網に囚われてしまう。
仏が、常にこの世にいると分かれば、祈り頼めば常に救いがあると思い込み、おごりたかぶり、怠け放題になってしまう。
そこには、仏には本来会い難いというありがたみを感じることは無く、恭敬する心も起きない。

だから私は、方便を使って説く。
比丘たちよ。諸仏が世に出現されることはめったにない、会い難いものなのである。
つまり、こういう意味である。
諸々の徳の薄い人は、無量な百千万億劫を過ぎてやっとの思いで、運よく仏を見る人もいれば、やはり会えない人もいる。
だから私はあえて言う。
諸々の比丘たちよ。仏にはめったに会えないのだと。
このような言葉を聞けば、必ず会い難いと言う想いが生まれ、心は仏へ恋慕を懐き、渇仰する。
つまり、良い果報が生じる立派な行いをすることとなる。

だから、如来は、真実は不滅であるが、あえて滅度すると言う。

 

 

善男子よ。
諸の仏・如来の説く法は皆、こうである。
すべて衆生を導く目的のもので、皆、真実であり虚ではない。

 

譬えば、智慧がすべてにわたって通達した良医がいて、うまく薬を調合し、種々の病を治すようなものである。
その良医は、子供たちが多数いた。十人、二十人、もしくは百数人いた。
ある時、所用があって、遠い他国へ行った。
その後、子供たちは誤って毒薬を飲み、毒が現れて悶え乱れ、地に転げまわって苦しんでいた。
そこへ、父である良医が、遠くから帰ってきて、家に入った。
子供たちは、毒を飲んで本心を失った者や、まだ、本心を失わなかった者もいた。
皆、遥かに父を見て大いに歓喜し、ひざまずいて拝み、このように言った。
「よく安穏にお戻りになられました。自分達は愚かで道理に暗く、誤って毒薬を飲んでしまって死にそうです。お願いです。助けてください。もっと命を延ばしてください。」
父は、このように苦悩する子供達をみて、あらゆる教えにある薬を根拠にして、子供たちそれぞれに合うように、色や香りが良く皆悉く効果がそなわった薬に調合して、子供たちに与えた。
「この大いなる特効薬こそ、色や香りが良く、完璧な効果がそなわっている。すぐに服用しなさい。すると速やかに苦悩は除かれ、二度とこんな諸々の病で苦しむことはなくなるだろう。」
その子供たちのなかで、まだ本心を失っていない者は、この特効薬は色も香りも良いと分かり、すぐに服用したので、病はことごとく治癒した。
ところが本心を失ってしまった者たちは、父の帰りを見て大いに歓喜し救いを求めて病を治そうとはしたが、あえてその特効薬を服用することはなかった。
毒が深く入り、本心を失ってしまっていたので、この色も香りも良い薬を、まずいとしか言わなかったのである。

 

 

すると父は思った。
”・・・この子たちは、なんてかわいそうなことか。毒がまわって心が狂ってしまっている。
私を見て喜び、救いを求めるが、この特効薬を与えてもあえて服用しようとしない。
私は、まさに方便を使って、この薬を服用させよう。・・・”

そして、さらに言った。
「君達はよく聞きなさい。私は、もう年をとって衰弱し、臨終がもうすぐ迫っている。今、この特効薬をここにおいておく。これを服用しなさい。すると、治らないと憂うことはなくなるだろう。」
こう教えてから、さっさと他国に行ってしまった。
そして、使いを遣わして伝えた。
「お父様は、すでにお亡くなりになられました。」・・・・・

その時、子供達は、父が死んでしまったと聞いて、大いに嘆き悲しんだ。
「もし父が生きておられるなら、自分達を慈しみあわれんで、よく救い護ってくださるのに、もう今は、自分達から離れて、遠い他国で亡くなってしまった。
自分達は、もう、みなし子であり、だれも頼りにするものがいなくなってしまった。」
こうして子供達は悲しみのどん底に沈んだため、ついに心が目覚めた。
ついに、この特効薬が色も香りもおいしいと分かって、すぐに取って服用したところ、たちまち病が治癒したのである。

その後、父は、子供達がすべて治癒したことを伝え聞いてから、すぐさま帰ってきて、子供たちの前に姿を現したのである。

諸々の善男子よ。
どう思いますか。
この良医は虚偽の罪を犯したと言う人がいるだろうか。」

「いるわけがございません。世尊よ。」

そこで、仏は言った。
「私もまた同様である。
私が成仏してから今まで、無限の、百千万億那由侘阿僧祇の劫が過ぎているのである。
ただ、迷える衆生を導く目的で、方便の力を使い、滅度すると説くのである。
私がウソをついたといって、罪を犯したと言う人はいないだろう。」

 


 

その時、世尊は、再度この意義を、詩を詠んで繰り返した。


自我得仏来:私が、昔、成仏してから今まで、
所経諸劫数:過ぎ去った劫の数は、
無量百千万:無量であり、例えば百千万
億載阿僧祇:億阿僧祇である。

 

常説法教化:私は、常に法華経を説き、
無数億衆生:無数の衆生を教化して、
令入於仏道:仏道に入らせるのである。
爾来無量劫:ず~とこれを続けてきて、無量の劫が過ぎてきた。

 

為度衆生故:衆生を迷いから救う目的だけで、
方便現涅槃:方便として涅槃を演じるのである。
而実不滅度:しかし、実際は滅度などすることはなくて
常住此説法:常に、ここに存在して法を説いている。

 

我常住於此:私は、常にここに存在しているが、
以諸神通力:あらゆる神通力を駆使して、
令顚倒衆生:顚倒している衆生には、
雖近而不見:近くにいても姿を見せないことにしている。

 

 

衆見我滅度:例えば、人々は、私が死ぬ姿を見たら、
広供養舎利:遺骨を供養し、広めて、
咸皆懐恋慕:すべて皆、
而生渇仰心:恋慕をいだき、心から仏を仰ぎ慕うようになる。

 

衆生既信伏:つまり、すでに、衆生が信じ伏し、
質直意柔軟:正直に素直に、ありのままの心で
一心欲見仏:一心に仏を仰ぎみようと、
不自惜身命:自らの命さえ惜しまないで懸命になっていること、


時我及衆僧:その状況がそろってこそ、私及び私の教団が、
倶出霊鷲山:そろって、ここ、霊鷲山に出現するのである。

我時語衆生:私は、その時に、衆生に語る。
常在此不滅:実は、常にここに存在していて、消滅することは無い。


以方便力故:これらは私の方便の力を使って、あえて、
現有滅不滅:消滅と出現を繰り返す姿を演じているのである。

 

余国有衆生:ここ以外の世界の衆生で 
恭敬信楽者:私を恭敬し信じ求める者がいれば、
我復於彼中:私は、等しく彼の世界の中で
為説無上法:彼を導くために無上の法を説く。

 

汝等不聞此:君たちは、これを聞かなかったから、
但謂我滅度:単に、私も実際に死ぬと思っているだけである。

 


 

我見諸衆生:いつも私が、諸の衆生を見たら、みんな、
没在於苦海:(仏が実際に死んだと思って)苦しみの海に沈んだままである。

故不為現身:だから、この衆生のために姿を現さず、
令其生渇仰:こうして心から仰ぎ慕うようにしむける。


因其心恋慕:その心の恋慕を前提として、
乃出為説法:初めて出現して、教化の為の法を説く。

神通力如是:私の神通力を、このように述べた。
於阿僧祇劫:私は、悠遠の阿僧祇劫の間
常在霊鷲山:常に、この霊鷲山、
及余諸住処:及びそれ以外の諸の宇宙に存在している。

 

衆生見劫尽:衆生が、自分たちのこの世界の終わりがきて
大火所焼時:大いなる炎に焼かれ苦しむ時も、
我此土安穏:私もいる、この世界は安穏であり、
天人常充満:ひかえている神々で、常に満ち足りている。

 

園林諸堂閣:そこにある、園林やいろんな堂閣は、
種種宝荘厳:種種の宝で荘厳され、
宝樹多華果:宝の樹には、花や木の実が多くて、
衆生所遊楽:衆生が遊び戯れる場所なのである。

 

 

諸天撃天鼓:神々は、天鼓を撃ち奏でて、
常作衆伎楽:常にいろんな曲を演奏し、
雨曼侘羅華:曼侘羅の華を降らせて、
散仏及大衆:仏や大衆の、頭上一面に散らせている。

 

我浄土不毀:このように、私のいるこの世界は壊れることなく存在する。
而衆見焼尽:それなのに、私と同じ世界にいるくせに、衆生は、焼け尽きる恐怖で、
憂怖諸苦悩:憂い怖れ・諸の苦悩が、
如是悉充満:このようにことごとく充満すると悶えている。

 

是諸罪衆生:この諸の罪深い衆生は、
以悪業因縁:悪業の因縁のゆえに、
過阿僧祇劫:阿僧祇劫を過ぎても、
不聞三宝名:三宝(仏の姿、仏の説く法則、仏の法を広める人)の名前を聞かないでいる。

 

諸有修功徳:諸のあらゆる功徳を修(おさ)め、
柔和質直者:心が正直で素直で柔軟な者は、
即皆見我身:すべて皆、私の姿が
在此而説法:ここに存在して、法を説くと分かる。

 

或時為此衆:私は、この人たちのために、ある時は
説仏寿無量:仏の寿命は永遠であると説く。
久乃見仏者:久しくして、やっとの思いで仏にたどり着いた者には、
為説仏難値:そもそも仏には遭遇し難いと説く。

 

 

我智力如是:私の智力はこのように、
慧光照無量:智慧の光が照らす範囲は無限であり、
寿命無数劫:寿命は無限である。
久修業所得:これは、ずっと昔に修行して得たのである。

 

汝等有智者:君たち、智慧がある者たちよ。
勿於此生疑:このことについて疑いをもってはならない。
当断令永尽:絶対に疑いを断じて、永く進んでいきなさい。
仏語実不虚:仏の言葉は真実であって、決して虚妄ではない。

 

 

如医善方便:父である医師が、適切な方便を使って、
為治狂子故:狂った子を治すために、
実在而言死:生きている自分が死んだと伝えたことを、
無能説虚妄:よくもまあウソをついたと咎める人はいないように、

 

我亦為世父:私も同様に、世界の父であり、
救諸苦患者:諸の苦しみ患いを救う者である。
為凡夫顚倒:凡夫が顚倒しているのを知っているからこそ、
実在而言滅:真実は、存在するけれども、死ぬと言う。

 

以常見我故:常に私の姿が、衆生に見られていたなら、
而生憍恣心:その状況では、衆生は憍りたかぶり、ほしいままに行動し、
放逸著五欲:精進を怠って五欲に執着し、
堕於悪道中:結局、悪道の中に堕ちてしまう。

 

我常知衆生:私は、常に衆生が、
行道不行道:修行をどの程度行うかを知って、
随応所可度:理解可能な能力に応じて、
為説種種法:役立つ様々な法を説く。

 

毎自作是念:常に自らこのように念じている。
以何令衆生:どのようにして衆生を、
得入無上道:無上道に入りさせ
速成就仏身:速やかに仏の悟りを成就させようかと。

 

(* 偈の書き下し文は、あえて、現代風仮名遣いにしました。)


 

釈尊の答えは、
1:自身の成仏は悠遠の過去であり、同様に永遠の未来にわたって、人々を教化すること、だから、地涌の菩薩たちも長期にわたって自ら導いたこと
2:仏の生命は、このように永遠であること。ただ、人々を導く目的のためだけに、適切に方便をつかって、生死があるように見せかけていること。
3:因果の理法(=業)により、仏には同じ世界が安穏と見え、衆生には焼け尽きる苦悩の世界と見えるが、実は、仏の住む世界も衆生が住む世界(つまり物理的な数々の大宇宙)も同一の娑婆世界で、かつ永遠(不生不滅)であること。
4:以上の3点と、すでに法華経で説いてきた、地獄・餓鬼・畜生から二乗や菩薩の境涯の成仏が可能であることから、一切の生きとし生けるものの生命は、仏の生命を元々そなえていて、それを開くこと(=成仏)が可能なこと。
5:仏(の境涯)は、常に一切衆生(地獄~菩薩の境涯)を仏と同じ境涯へと導こうとしていること


 

この部分は、生命の因果と本質を明解に示しています。
肉体的な生死から、万物の生々流転にわたって因果の法則が貫かれ、一瞬一瞬が諸行無常で輪廻転生し、善業楽果・悪業苦果を見事に矛盾なく理論的説明し、しかも、すべての生きとし生けるもの(一切衆生)に仏の境涯がそなわっているとのことです。
つまり、人間としてだけでなく生物として、すべてに仏が存在する事実が、すべての生きとし生けるものが仏と同等に尊厳であり、だからすべての生命が平等であることを示しています。
究極の、生命尊厳の思想です。
一切の差別を許さない平等の原点が、ここに示されています。
個数が無量無辺の数だから科学的数量的に因果関係を個別に一つ一つ証明することは不可能ですが、どんなに科学が進歩しても、すべての事象に対し矛盾なく理論的に説明できる法理となっています。
だからこそ、この事実を信じて受け入れる(信を以って智慧に代える=以信代慧)ことが、大切となってきます。

法華経法師品にも「難信難解」と説かれています。

 


 

この教えの真の意味は、差別を好み、他を押しのけ支配しようとする生命境涯にとっては、絶対に受け入れ不可能です。
だから、末法において広めることが困難であると、釈尊があらかじめ説かれているのでしょう。
こうした仏法の真の意味が歪曲されながら、時代の支配者や欲のある者などに利用され、今日に至っても、様々な曲解が流布され、民衆を惑わせています。


日蓮大聖人は、末法の世・鎌倉時代に出現され、、この法華経において釈尊が修行した「久修業所得:これは、ずっと昔に修行して得たのである」ところの、修行の方法を、「南無妙法蓮華経」という文字に込めて、はじめて顕されたのです。
同時に、この大宇宙を永遠に貫く法則をも「南無妙法蓮華経」とし、その仏の境涯も「南無妙法蓮華経」として顕されたのです。
つまり、三大秘法の「南無妙法蓮華経」といいます。

 


 

 『開目抄』には、
「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」
(この法華経の大事たる一念三千の法門は、ただ法華経の本門・寿量品の文の底にのみ しずめられている。)


観心本尊抄には、
「文の心は釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す 我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う、」
(その文意を簡単にいうならば、先に論難したところの権教・迹門・本門の釈尊の因行と果徳の二法は、ことごとく妙法蓮華経の五字に具足している。私たちがこの五字を受持すれば自然に釈尊の因果の功徳が譲り与えられるのである。)

「在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」
(さて釈尊在世の本門と末法の始めの本門は、いずれも一切衆生がことごとく即身成仏する純円の教である。なに一つとして闕くところがない。ただし在世の本門と末法の本門の相違をいうならば、在世は脱であり末法は下種であり、在世は一品二半、末法はただ題目の五字である)

「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」
(一念三千を理解しない末法の衆生に対して、久遠元初の御本仏は、大慈悲を起こされ、「妙法蓮華経」という五つの文字の中に、一念三千という宝石をつつんで、独一本門の大御本尊として、末法万代の幼稚な衆生の首に、かけなさるのである。)

 

 

そして、日蓮大聖人の仏の魂(境涯)=「南無妙法蓮華経」を、科学技術が未発達の時代に、和紙に墨という、容易に誰でも作成可能な曼荼羅として、具体的に自らお書きになられ、末法の衆生のために、与えられました。
この仏の魂を込められたのは、例えば特別な権威権力金力などによって特殊な技能を要する”仏像”や”高価な何か”などではありませんでした。
逆に、旃陀羅(せんだら=被差別民)であっても、一般庶民にでも、大聖人が御魂を、容易に”誰でも作成可能な、作成してもよい、文字で意味された曼荼羅”に顕されたことが、大変に重要な点で、ここにこそ、末法の万人の救済を願う、大聖人の大慈悲があらわされているのです。

科学技術が発達した末法においても、この日蓮大聖人の御魂「南無妙法蓮華経」という”誰でも作成可能な文字で意味された曼荼羅”に、迷っている輩・惑わしている輩が、いかに多いことか。
自身や団体の欲・権威に、この御本尊が利用されていることを、前記事でも述べました。

御本尊一般化論 IT・AI時代の広宣流布、日蓮大聖人の趣意に迫って・

http://ameblo.jp/raketto-chan/entry-12236576139.html

 

「南無妙法蓮華経」は、万人に開かれた、成仏への法であり、仏の姿であり、修行法であります。
究極の生命尊厳の哲理であり、平等思想です。
これを広く述べ流布することが、自身の絶対的幸福の実現とともに、全世界の平和と共存を可能ならしめることと考えます。
決して、ある特定の集団でのみ、独占されるべきものではありません。

 

日蓮大聖人の御金言通り、一刻も早く、「自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を」

(自分とか誰かとか、所属組織がどうかなどという区別は一切なく、魚と水の関係のように、決して切ることができない関係でもって、身体や立場は異なっても、目指す心は同じくして、南無妙法蓮華経と唱えられるところ)

実現できるよう、願って止みません。

 

以上、私は、この記事を書きながら、とっても歓喜しております。\(o⌒∇⌒o)/

なぜなら全てを、法華経により、讃嘆しているからです。

大いなる法悦であり功徳です。O(≧∇≦)O

ありがとうございます。

 

乃至法界平等利益、自他俱安同帰寂光
世界の平和と一切衆生の幸福のために
南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経・・・

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