僕は10代のころからずっと音楽に関わってきていて、
今は、さまざまな仕事と並行しながら、
「子どもたちに世界の音楽を紹介する」という仕事をしています。
そこでは、ジャマイカ・アフリカ・ブラジル・ハワイなど
本当にさまざまな音楽をあつかう。
世界の音楽をこんなにもたくさん聴くのは、この仕事を始めるまで
なかったことなので、単純に僕自身にとって大変刺激的です。
こんなにも、多種多様なアプローチが、音楽には存在するのか!
その可能性の大きさには唖然とするばかりです。そして興奮する。
ビートルズがインド音楽をとりいれた60年代が象徴的ですが、
ロックは、さまざまな音楽と融合し、発展してきました。
ワールド・ミュージック・ムーヴメント以降は、
世界の音楽が、ロックの手法をとりいれて発展したともいえます。
現在は、「ロック」という音楽が「英語」のように世界共通語化
しているので、人々がすんなり入り込めて楽しめるのは、
ロックのテイストをとり入れたものであることが多い。
僕にとってもそうです。
どちらかというと、ロックという「巨大経済的な音楽」が
世界中の音楽を取り込んできたともいえるかもしれない。
とにかく、異なるスタイルの音楽というのは、混ぜ合わせると
とんでもない化学反応を起こし、刺激的な表現が生まれる。
このこと自体は本当に素晴らしいと思うのですが、
ここで僕が思い当るのは、これらが「混ざり合う化学反応」
である、ということです。
現在のように、人の移動が盛んでない時代、
情報通信も発達していない時代には、
音楽は、各地で土着化し、独自性を発展させました。
ある程度「隔離」されていたから、自然と
独自性を熟成させたのです。
それが世界各地に多様な音楽を生み出した。
動物の世界でも、例えば地殻変動で山ができた場合、
山のあちらとこちらのグループは「隔離」されて、
別々の種に進化することがある。
例えばたまたま「葉っぱの上に交尾・産卵する」グループと、
「地面で交尾・産卵するグループ」が同じ昆虫のなかに生じた場合、
2つのグループは「生殖的に隔離」されて、やがて別種に分岐する。
音楽と、生物の、「多様性・独自性」の発展にかかわる、
「隔離」という一見ネガティブなキーワード。
「ミックスされて、生み出される巨大なエネルギー」
というのは、言い換えてみれば「消費」のエネルギーです。
極端な言い方をすれば、長い年月で生まれた石油を燃やして
生み出しているエネルギーに似ている。
情報化、ボーダレス化、大規模移動化が進む現代では、
様々な人に、音楽表現や発表の可能性が開かれ、
盛んな化学反応も生じるし、音楽をやる側にとって、
素晴らしいこともたくさんあります。
また、例えばYoutubeやUstreamによって、
瞬時に人々と音楽が共有できるというのも、
少し前の時代から考えれば、夢の様な世界です。
「隔離」「閉鎖」というのは非常にネガティブなニュアンスだし、
John Lennonが“IMAGINE”で歌ったような、ボーダレスな
開けた世界は、その当時に比べれば、かなり実現されて
きたともいえるかもしれない。それは皆が望んだ世界でもあります。
反面、新たな「民族音楽」が生まれていくのは難しい、と
いう側面もあるかもしれない。「民族」とういう言葉自体が、
将来消えていくのだとしたら、「ローカライズ音楽」とでもいうか。
隔離されて、熟成されていくプロセスをとりにくいのだから。
だとすると、これまで、様々な独自な民族音楽のスタイルが
「ロック」と融合し、化学反応を起こして、歴史的な事件ともいえる
表現を生み出してきたけれど、今後、そのような
「歴史的な事件」もまた、起こりにくくなっていくのでしょうか。
「未開の部族」が発見されるワクワクが減ってきたように。
「開かれていく」「自由化」という言葉は、すごく理想的な
響きを持っています。そして、多くの場合、実際に理想的です。
ただ、「多様性」「独自性」の発展という価値の側面からみれば、
また違う景色も見えてきます。
音楽の例えからは少し離れますが、日本が、
世界中から評価されてる、独自で特殊な文化を育んだのも
「隔離」「閉鎖」と関係しています。
「源氏物語」は、遣唐使廃止後の「国風文化」」中で生まれました。
「浮世絵」に代表される江戸文化は、鎖国時代のものです。
世界に知れわたる前の、マンガやアニメも同じくでしょう。
まさに、ガラパゴス的な風土の中で、濃縮され、熟成された
独自の文化が栄えた。
単純に、産業としての成功を目指した製品、例えば
携帯電話などは、日本で独自な発展をしすぎて、
他国で相手にされず、国際的なシェアを獲得できない、
というのは、閉ざされたシェアのネガティブな側面なのかもしれません。
世界各地の音楽も、産業といえば小さな産業です。
「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ
」も、ライ・クーダーによって
紹介され、世界中を席巻する前は、その地域特有の、小さな
産業だった。(音楽だけで皆が十分に食べられていたかは別として)
「産業」と「文化」の両方の側面を持つ、非常にさまざまなものが
(携帯電話が「文化的でない」と言い切れるのか!とも言えますが)
貨幣経済の、シンプルな、自由競争の波にさらされていくのが、
果たしてよいことばかりなのか。と、思うのです。
(続く)