東北の若者 奮闘記(前半) | touhokuteamのブログ

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東日本大震災から2年が経過しました。ピースウィンズ・ジャパン(PWJ)は震災直後より、宮城県と岩手県にて緊急支援を開始し、今日まで復旧・復興支援を継続しています。現在、PWJ東北チームを支えているのは、東北出身のスタッフたち。そんな若手スタッフたちに、震災から今日までを振り返って、東北復興に込める想いを語ってもらいました。

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鈴木 豪
南三陸町 事業調整員


震災当時のようす
「震災が起きた日は、仙台市内のアパートにいました。当時は大学四年生で、卒業式を控えていた矢先でした。」
地震の直後に停電した仙台市内で、情報は錯乱し、状況を把握するまでに数日かかりました。外に出て、たまたま道を歩いていた方に話を聞き、津波の規模、震災の大きさを耳にしました。
「地震が起きた後は建物の倒壊も少なかったので、正直なところ“別に大したことはないだろう”と思っていました。2、3日後に電気が復旧して、TVで津波の映像を観たときは、ものすごくショックでした。」
実家は岩手県一関市。家族の安否を確認した後、実家に戻ることにしました。

「4月の上旬になってから、親戚がPWJで働いていたので、“地元の地理に詳しい人を探しているから手伝ってくれないか”と言われました。そのときは、“何か人の助けになりたい” ぼんやりとですが、ただそう思いました。」
PWJの活動に参加して最初に訪れた気仙沼市内の光景は、昔からなじみのある町とは違う、非現実的なものでした。当初アルバイトとして参加した鈴木は、日々移り変わる現地のニーズに対応しながら、さまざまな支援活動に携わりました。そして、岩手県大船渡市の避難所から、みなし仮設・応急仮設住宅に移住する被災者に、地元のショッピングモールで使える商品券を配布した同年5月までには、現地では欠かせないスタッフにまで成長しました。
大学を卒業して、初めて社会に出て就いた仕事が東北の復興支援だったので、何をどう対応したらよいのか分からず、とても戸惑いました。当時は、PWJのプロジェクトについていくことに必死でした。あの時、仕事を教えてくれた先輩スタッフには、今でもとても感謝しています。」

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南三陸町民との出会い
2012年の1月からは、宮城県南三陸町での活動を主に担当し、わかめの養殖再開支援や仮設商店街のための備品支援などに携わりました。
地元の方々と仲よくならなきゃ、と思って、方言で話すように心がけました。心がけたというか、地元の方々が方言で話しかけてくれると、自然とこちらも方言で返していました。その方が、相手も心地よかったかな。わかめの養殖が再開した時は、震災後初めて、浜にまた人が集まることができたと感じ、とてもうれしかったです。」

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現在の活動について
現在鈴木が担当するプロジェクトの一つに、「南三陸町ふるさと学習会」(通称:ふる学)があります。(ふる学の詳細についてはこちら:http://www.facebook.com/minamisanriku.furugaku )
南三陸町の地元の団体と連携しながら、子どもたちを中心に、同町の伝統、歴史、文化について町民の方々に講座を開いてもらい、また、全国の企業のご協力を得ながら、企業のノウハウや強みを生かした講座を提供しています。
「ふる学を運営していて、予定通りに事が進まず、悩むことも多々ありますが、準備している大人も、講座を受けている子どもたちも、なんか楽しいんです。“うちの子がいつもすごく楽しみにしているから”と親御さんに言ってもらえるときや、子供たちが笑顔で元気な姿をみるときが、一番うれしいですね。」

震災から2年間、様々な想いを抱えながら、日々奮闘してきました。
「2年経った今でも、最初の動機は変わらないと思います。感情の変化はあるけど、東北の復興に対して“こんな自分でよかったら”という気持ちは、今でも同じです。」

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最後に伝えたいこと
「被災地に対する想いは、ひとそれぞれだと思います。現地に来てボランティアに励むひと、遠くから寄付をして支えるひと、ただ復興を願うひと、支援活動を行うひと。色んなカタチがあると思いますが、それが被災地を想ってのことだったら、正しいことなんてない、というか、どんなカタチでもいいんじゃないかな、と思います。」

東北事業広報担当:佐藤