i'll sing about DAYS LIKE THESE

ぷにぷにきどり Vol.3 /  

毎日想ふことをあとで思い出すための雑感帖、みたいな。


テーマ:

「映画観に行かん?」


とカジュアルなお誘いをもらって、土曜日仕事後に珍しい種類の映画を観てきました。


小林茂監督のドキュメンタリー作品、『チョコラ!』です。


http://www.chokora.jp/


i’ll sing about DAYS LIKE THESE


東アフリカ、ケニア共和国、首都ナイロビから車で1時間。標高1500mにある人口10万人の地方都市・ティカ。この街のストリートで暮らす子どもたちは、鉄くずやプラスチックを拾い集めて生計を立て、夜の厳しい寒さや空腹を忘れるためにシンナーを吸う。そんな中でも彼らは仲間と出会い、助け合いながら生きていく。それぞれ人には言えない事情を抱えながら…。


ドキュメンタリー映画って滅多に観なくて。誘われていなければ観てないだろうなあ。久しぶりのドキュメンタリー映画鑑賞ってことで、まず最初に痛いミスをしました。基本的に映画館で映画を観るとき、前の方の席に座るんですが、始まってすぐ、「しまった、これドキュメンタリーや!油断した!」って思った。画面がね、動くんですよね。手持ちカメラだからさ。前の席だとちょっと酔ってしまうんやね。おかげで映画の前半はちょっとぐわんぐわんした意識の中で観てました。


タイトルにある「チョコラ」っていうのは、鉄くずやプラスチックを集めたり、物乞いや小間使いなどで生計を立てている子どもたちのこと。スワヒリ語で「拾う」を意味する蔑視的な呼称のようです。


90分ぐらいの上映時間のうち、最初の60分ぐらいは、ストリートで生きる何人かの「チョコラ」たちの様子が描かれます。彼らは一様に学校に行っていません。現地NGOの松下照美さんが、彼らを家族のところに連れて行きそれぞれに合った形でなんとか学校に行けるように努力する。どうして学校に行かなくなったのか、そしてどうして学校に行きたいのか。子供たちの意思を親など大人たちがどう受止めるか。このあたりまでは、例えばテルミさんの活動の意義なんかは伝わってくるし、過酷な環境の子供たちがみせる健気さなんかも十分に描かれています。が、ドキュメンタリーはやはり一面しか切取れない限界もあるなあと、少し注意深さとか用心深さをもって観てました。ドキュメンタリーはフィクション以上に主観的である以上、被写体に選ばれたものが絶対的な価値観だって容易に思えてしまうところがあることは経験的に知ってるので。


が、1時間を過ぎたあたりで、HIVに感染している26歳の女性の様子が描かれます。それまではずっと10歳前後の男の子たちのエピソードだけだったところに、突然、2人の子供を持つ成人女性が描かれていく。このエピソードがほんとに素晴らしかった。映画全体としてもここがターニングポイント、ここを境目に一気に面白くなったし引き締まったなあ。この映画が伝えようとすることが見えたんですね。そして、それまでの子供たちの各エピソードの中に盛り込まれていたいくつかの記号が、実はすごく大きな意味を持っていることが浮かびあがってくる。


“チョコラ”たちが不登校になった理由は個々に様々あるのですが、複数の子供たちが「クラスの女の子にいじめられるからだ」と言うんですね。男の子が、です。そして学校に行かないこと、学校に本当は行きたいことを家族と話すとき、全員ではないにせよ、母親たちが何かをグチグチと言い、あるいは家出して戻ってきたことをしかりつける。“女性性”が畏怖されていることが印象付けられるんですね。母性のひとつの側面ですね。唯一、彼らに対して感情的にならず手を差延べる存在が、テルミさんです。だから「チョコラ」たちは、彼女の言うことや提案することに耳を傾ける。現地語もしゃべれない、英語だって決して上手いわけではない、肌の色だってまったく違うのに。これは直接性を超えた、別の母性でもある。ただ在るがままの母性を、どちらを否定肯定することもなく、在るがままに観客は意識することになります。


一方で、彼らは全員共通で、自分の仲間と兄弟姉妹を大切にします。特に自分たちよりも年齢の下の子たちのことを。生まれてまだ間もない赤ちゃんの名前を呼んだり、小さい弟の手をとったり一緒にカメラに収まってみたり(あのシーン素晴らしかった!。ああいう幸運の瞬間が舞い込む映画って、ほぼ確実にいい作品になりなすよね)、仲間たちの一緒にいるときにはケンカもするけれど、またすぐに屈託のない笑顔を見せる。


私たちが何となく気がついているように、登場する家族はみんな子供が多い。多産です。それは、人間の根源的な“営み”の存在を直接描かずとも否応なく感じるわけですね。だからこの映画には、ほんのりとしたエロスとタナトスが感じられます。途中カメラマンに密造酒を勧めるある母親の姿が描かれますが、あれはそういったものの典型。わりとそういうセクシーさが全編にあるんだな。そして小林監督は“営み”の存在を肯定的に描いているのですね。人はこうやって“繋がり”を覚えていく。子供たちは自分より後に次々に誕生する兄弟姉妹たちを自然と慈しみ、敬い、愛情を注ぐことの大切さを知ることになる。そこにはある種の救いや希望があるわけです。感動的ですらあるんです。


ところが。


i’ll sing about DAYS LIKE THESE


その後に、2人の子供を持つHIV感染者の女性ルーシーのエピソードが語られるのです。


このたったひとりの女性のエピソードによって、それまでとはまったく異なるフェーズが浮かび上がってくる。それは大地震のように、観客の意識を大きく揺さぶり倒壊させる。彼女を通して、私たちは恐ろしい否定の可能性をイメージさせられるのですね。母性の否定。“営み”の否定。子供たちが別の子供たちに見せる慈愛の存在の否定。【HIV】がそういう決定的な否定をもたらしてしまうのではないか、そのとき、私たちは一体どうしたらいいのか?


ルーシーの2人の子供は、みてても本当に愛おしいんですね。不用意に「かわいい~♪」とか言えてしまう。でも、当然ながら私たちは、同時に、この2人の子供たちにHIVが感染してる極めて高い可能性のことを考えなければいけない。この子たちは、生まれながらにして死に直面している。この愛おしい存在が、子孫を残すこともなく、人間の“営み”の喜びを知ることなく、この世から消滅されてしまうことを想う。


「チョコラ」たちの生命力も、女性たちの母性も、完膚なきままに否定される将来を想う。


映画の最後で、血の繋がりを超えたストリートの「チョコラ」たちは、自分たちで質素な“ご馳走”をつくり、食べ、ケンカをし、笑いあい、そしてこれもまたとてつもなく根源的なリズム感で踊り、唄うのです。シンプルな歌を。自分たちだけのアレンジを加えながら。


オフィシャルサイトから歌詞を引用。


 今は昔 99年も前のこと
 僕はまだ小さな子どもだった
 その頃 町をぶらつくことを覚えたんだ
 貧乏は本当にいやだ
 僕の家はビニールシートで出来ていて
 役所の人間に取り壊されたんだ
 今やもう僕には寝る場所もない
 だからトラックの下で寝るようになったのさ


 寒さが僕らの体に襲いかかる
 警察は皆ぼくらを泥棒と呼ぶ
 人々からは「チョコラ」と罵られ
 本当に貧乏はいやなもんだ
 そんなある日ある人と出会い
 僕をセンターに連れてきてくれた
 世の中には善い人たちも
 いるんだって分かったんだ
 センターは僕らの家になったのさ


この歌と踊りに、ものすごく感動しました。


彼らは、私たちは、99年経ってもずっと変わらなかったのです。

同じことで悩み、苦しみ、誰かに助けられ、誰かを助け、営みを続け、生き抜いてきた。


人間は「美しい」存在なんだ。


じゃあ、次の100年はどうだろう?


ここでもルーシーのエピソードが、私たちに「どうするか?」を問うてきます。


答えは映画の中ではなく、私たちの中にあるはず。あなたがそれを望むならば。


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