2005-08-03 22:07:47

シェイクスピアの女性観メモ(1)

テーマ:シェイクスピア

僕もきちんと理解はしていないが、

正統にフェミニズムを研究をしていない人が、

シェイクスピアは女性蔑視をしていると言うことがある。


その根拠にハムレットの有名な第一独白における

Frailty thy name is woman  「弱きもの、汝の名は女」

があると言う。


シェイクスピアを批判するフェミニストの特徴として、

劇中のラインを部分的に取り出しそこだけを言及することが挙げられる。

前後関係や劇全体から見たラインを無視する傾向がある。


例えば先の例を取り上げて見ると、

ハムレットは第一独白で長々と母の早すぎる再婚について不平を述べている。

その事からfrailty thy name is の後ろには母ガートルードの名前が来る予定であった。

が、ここでハムレット一流の思考の転換が起こりwomanとなる。


ハムレットの思考の転換とは、特殊から一般へと拡散していく考えにある。

母親やオフィーリアという特定の人物から、女性という一般の性へと考えがスライドする。

それが何を示すかについて議論がいくつかあるが、

つまりは女性一般を卑しめるのみのラインではなかったということだ。


当時の時代背景から、女性が抑圧されていた時代であったことは誰でも認めることだ。

そのような時代において、シェイクスピアはむしろ女性に好意的であったといえる。


シェイクスピアに出てくる女性たちは皆活き活きとしており、

時には男役よりも自由闊達に舞台を動き回る。


あらゆる社会規範の範疇から逸脱し、動き回る女性たちの姿は、

もしかしたら当時の観客の目に滑稽と映っていたかもしれない。


しかし当時の観客がどう反応したかはどうであれ、

表舞台に出されなかった女性たちが活き活きと描かれている事実が重要だ。

それはシェイクスピアの功績の一つと言える。


『じゃじゃ馬慣らし』や『ロミオとジュリエット』、『ヴェニスの商人』に出てくる女性を見ていると、

喜劇的要素として機能している面もあるが、

シェイクスピアが彼女たちを否定的に捕らえてはいなかったことがよくわかる。


シェイクスピア劇に出てくる男尊女卑的な表現について、

当時の社会状況や、そのセリフの裏に流れる意味を考えてみると、

少しシェイクスピアの劇がおもしろくなるかもしれない。

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2005-07-04 15:21:47

シェイクスピア悲劇 『ロミオとジュリエット』メモ(2): 恋の宗教

テーマ:シェイクスピア

前回に引き続き、『ロミジュリ』。

今回はさらにメインのプロットである二人の愛とその解決について考える。


周知の事実の通り、ロミオは開幕早々恋の病に取り付かれている。

適わぬ恋の相手はキャプレット家のロザラインだ。

ロミオのロザラインに対する愛には特徴がある。以下ロミオ


 Why then, O brawling love, O loving hate,  ああ、喧しい恋、恋の憎しみ

 O any thing of nothing first create!       ああ、無から作られた最初のもの

 O heavy lightness serious vanity,        ずしりと重い浮遊感、重大な無価値

 Misshapen chaos of well-seeming forms,   形の整ったはっきりしない混沌

 Feather of lead, bright smoke, cold fire, sick health, 鉛の羽、輝く煙、冷たい炎、健やかな病

 Still waking sleep, that is not what it is!    起きながらにして寝ている、それだけじゃない!

 This love feel I, that feel no love in this.    そんな愛を僕は感じている。でもその中に愛は無い。

 Dost thou not laugh?                なんだ笑わないのか?

               (1.1.167-74)

笑わないわけがない。

「鉛の羽」や「冷たい炎」など相反するイメージを形容詞で飾ることを撞着語法(oxymoron)という。

ロミオの心理状態を的確に表しているといえる。

一見ロザラインという女性に恋しているようで、実際は恋に恋しているという状態だ。

このセリフはロミオがジュリエットの前に恋を経験している、ということを作者が観客に説明しているにすぎない。

そうすることで、ジュリエットへの愛がいかにロザラインへの愛と違うかが浮き彫りになる


一方ジュリエットはというと、社交界デビューの14歳の乙女。

まだ恋はおろか、世間の男性というもの自体にあまり知らないと仮定できる。

親の決めた婚約者パリスと仮面舞踏会で初めて出会うようセッティングされている。

幸いパリスは若者だ。(若い娘の求婚者は50目前のおじさんが多かった。c.f. じゃじゃ馬ならし)

当然のことながらジュリエットは期待と不安の入り混じった心持で舞踏会を待っている。

ジュリエットにとっては自分の将来を決定する舞踏会なのだ。

悲恋を紛らわすためのロミオの舞踏会参加とは意味合いが根本的に違う。


ここまででロミオの恋愛感、ジュリエットの恋愛感をまとめてみる。

ロミオの恋愛感は、この時点では、自己陶酔につきる。

恋に恋し、相手を熱烈に愛することで満足を得ているのだ。

現代の高校生の恋と差異はあまり無い。


それに対しジュリエットの恋は既に結婚の段階に置かれている。

処女性や貞淑さが女性の美徳であった時代のため、

高貴な女性が不特定多数の男性と触れ合うことはできないのだ。

(一般においてはその限りではなく、異例はあったようだ。)

つまり恋愛ゲームに興じている暇は無く、一目で相手の本質を探り

一矢で決断を下さなければならない真剣勝負なのだ。

そのことについてはレイディキャプレットが本のイメージを使いソネット形式で述べている。(1.3.80-95)


少し余談として当時の結婚について述べる。

ジュリエットのような上流階級にある女性にとって結婚とはビジネスでしかない。

本人の恋心とは別の次元で結婚の段取りが進められていくからだ。

家の都合、とくに父親の都合、により、金持ちで地位もあり自由に財産を使える男と結婚させられる。

そのような好都合な男とは、大抵の場合は老人だ。(c.f.じゃじゃ馬ならし)


さて本題Loveについて戻る。

Love storyにはpaganなイメージが付きまとう。(pagan=異教徒的)

つまり不倫ものが多い。

アラブや東洋の価値観がキリスト教の価値観に流入しているのだ。

つまりトルコのアナトリア高原で興ったメヴラーナ教、バルカン半島でパウロ派の影響のもと興ったボゴミル派(異端キリスト教)、古代ギリシャのオルフェウス教、ゾロアスター教(イラン)、景教(異端キリスト教:イラン―中国)これら二元宗教の根本的な思想、「二元論」に近いものがある


二元論とは、大雑把に言えば、世の中のものは「善と悪」「光と闇」や「完全と不完全」など対立しあう関係でなりたっているというものだ。

そしてその二元宗教の説くところをつきつめれば、決して現世において救われることは無いということだ。

Love story には常にそのような観念が付きまとっている。

ロミオとジュリエットに関してもChristismではなく異教徒的なイメージがある


二人は仮面舞踏会で出会い、お互いに強く惹かれあうようになる。以下その部分


Romeo: [to Juliet] If I profane with my unworthiest hand A

       (ジュリエットに向かって) 僕の卑しい手が

This holy shrine, the gentle sin is this,  B

       聖なる堂をけがすなら、優しい罪はこれ。

My lips, two blushing pilgrims, ready stand  A

       僕の唇は赤面した二人の巡礼、こうして立ち

To smooth that rough touch with a tender kiss.  B

       手荒に触れたところを優しいキスでそっと。

Juliet: Good pilgrim, you do wrong your hand too much, C

       巡礼さん、あなたの手をそんなに悪く言わないで

Which mannerly devotion shows in this,   D

       礼儀正しく信仰を示していらっしゃるわ。

For saints have hands that pilgrims' hands do touch,  C

       聖者の手は巡礼の手が触れるためにあるの。

And palm to palm is holy palmers' kiss,  D

       だから手のひらを重ねることは、巡礼の口付けよ。

Romeo: Have not saints lips, and holy palmers too?  E

       聖者も巡礼も唇を持っているのでは?

Juliet: Ay, pilgrim, lips that they must use in prayer. F

       ええ、巡礼さん、お祈りを唱えるためにね。

Romeo: O then, dear saint, let lips do what hands do. E

       それなら、いとしい聖者様、唇にも手のひらがすることをさせてください。

They pray, grant thou, lest faith turn to despair. F

       お祈りします、お聞き入れください。信仰が絶望に変わらぬよう。

Juliet: Saints do not move, though grant for prayers' sake. G

       聖者は動じません。お祈りを聞き入れても。

Romeo: Then move not while my prayer's effect I take. G

       では動きませんよう。お祈りの験を受け取るまで。

Thus from my lips, by thine, my sin is purged. A [ kissing her ]

       こうして僕の唇から、あなたの唇によって、罪が清められた。 (彼女にキスする)

Juliet: Then have my lips the sin that they have took. B

       では、私の唇が罪を受け取ってしまったのね。

Romeo: Sin from my lips? O trespass sweetly urged! A

       僕の唇から罪が?ああ、なんと素晴らしい罪の咎め

Give me my sin again. [ kissing her again ]

       もう一度罪をお返しください。

Juliet: You kiss by th' book. B

       お手本通りにキスなさるのね。

(1.5.92-109)

長くなってしまったが、以上が有名な舞踏会でのソネットの場面だ。

セリフ横に置いた大文字のアルファベットは韻の踏み方を示している。

ABABと韻を踏み、最後にGGといったカプレットという形で14行を〆るのがソネットだ。

お互いが互いにセリフを言い合い、相手のことを品定めしている

高次元な wit combat といったところかもしれない。

このGGのカプレットが終了した瞬間、二人の恋は約束されたものとなる

ロミオは真実の恋とその対象を手に入れ、

ジュリエットは未来を賭ける相手を見つける。


このソネットから宗教的なイメージを抜きにしたら何も残らない

ロミオもジュリエットも唇や手を巡礼者と例え、

愛を信仰になぞらえている。

男女の下世話な情事になりかねないシーンを、

聖性を帯びた愛へと飛翔せしめ、聞くものの耳に心地よく響く。

ロミオもジュリエットもキリスト教から一時脱却し、愛の宗教へと改宗したのだ。


このChritisismからの脱却により、終幕における教会内での自殺が正当性を帯びる。

キリスト教、カトリックにおいて、自殺は禁忌とされる。

しかし、先に述べたように、二元宗教的な観念を持つ恋の宗教を信仰する彼らには、

死こそ愛の成就であり、生きているうちは達成され得ない愛の合一なのだ。

悲劇的だ。しかしそこには救いがある。

四大悲劇といわれる『オセロー』『マクベス』『リア王』『ハムレット』とは決定的に違う、

ある種の解決があるのだ。


ロミオはジュリエットとであったことで、急速に成長を始める。

時間の経過の遅さについて、ロミオはこう述べている。


Not having that, which, having, makes them short.

手にしていないからね、あれを手にしたら短くなるのに。

(1.1.155)

本人が言っているように、ジュリエットとの両想いの恋を手に入れた瞬間から、

ロミオの時間の経過は加速度的に速まる。

まるで流れ星が引力に引かれ地球に落ちるかのように、

ロミオとジュリエットは破滅へと急進していく。


前回にも述べたが、シェイクスピアが五日間に凝縮させた意味が伺い知れる考えだ。

ロミオとジュリエットは五日間にして全人生を経験し、

恋の宗教という解決の下、短い人生を終えるのだ。


『ロミオとジュリエット』を観る機会がありましたら、

彼らがいかにして燃え尽きたかをcompassionを持って観ていただきたいです。

そうすればメロドラマではない深い人間愛を垣間見ることができると思います。


以上をもってロミジュリのメモは一度止めておきます。


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2005-07-03 16:47:13

シェイクスピア悲劇 『ロミオとジュリエット』 メモ: 縮められた時間

テーマ:シェイクスピア

『ロミオとジュリエット』は恋の悲劇だ。

と、一言で説明できないところにシェイクスピアらしさを感じる。

主なプロットは二人の若者の恋にあるが、その根幹、悲劇の大元となるところには、

「対立し合う貴族たちをコントロールできなくなったとき、どのような事態になるか」

という大きな政治的なテーマが大前提としてある。


この劇が風俗を乱すものとして検閲に引っかからなかった理由はそこにある。

親や一門に歯向かう若者達を描く一方で、国(大公)の意向を無視して行動すると大変な事になるという二つのメッセージを発信している。

ただのメロドラマでは無いのだ。


ここらで少し『ロミオとジュリエット』(以下ロミジュリ)に関連したことについて述べる。

シェイクスピアを非難する人たちの中に「彼の作品はオリジナリティが無い」と言う人がいる。

それは非難になりえないことを理解していただきたい。

本に関しては引用が多ければ多いほど、また皆の知っているタネ本を元にしている方が素晴らしい作品とみなされていた時代だったようだ。

『ロミジュリ』にも当然のようにタネ本がある

根気良く遡ればさらに言及できるようだが、ここではアーサーブルックの『ロウミアスとジューリエット』 がもっとも近いタネ本だということにしておく。

もう少し遡るとWilliam Painter Palace of Pleasure ( de novelle di Bandello )や、 Pierre Boaisteau HIstoire Tragiqoue などなど。


ちなみに、『ロミジュリ』は海を渡り、日本へも来ていたようだ。

鶴屋南北(四世)が作った『心謎解色糸』(こころのなぞとけたいろいと)と共通点が多い。
もしかしたら鶴屋南北が『ロミジュリ』の話を聞いたのではないかと言われる。
事実はわからないが、この系統の話は日本人にとって受け入れやすいものだったのだろう。


話を戻し、アーサーブルックの『ロウミアスとジューリエット』(以下ロウミアス)と『ロミジュリ』について。


『ロウミアスとジューリエット』は演劇というよりは詩と言ったほうが近いかもしれない。

それは『ロミジュリ』は多くの点で似ているも、細部、しかも重要な点において異なる。

最大の点は ロウミアスが 「九ヶ月」 の出来事であるに対し、ロミジュリは 「五日間」 であることだ。

ロウミアスではジューリエットと出合っても半年生き、さらに結婚生活も三ヶ月続く。

それをロミジュリではたったの五日間に縮めてしまっている。

この大胆な圧縮にも関わらず、シェイクスピアのロミジュリは、大味になるどころか、より旨みが引き出されているのだ。


他に旨みが出ているところとして、年齢の引き下げがある。

『ロウミアス』ではジューリエットが16才と、結婚適齢期後半といったところだが、

『ロミジュリ』ではロミオおよそ15歳、ジュリエット13歳社交界デビューの年と引き下げられている。

初めての社交界の場で、親の決めた結婚相手パリスと対面する予定になっているのだ。

劇的といわずになんと言えば良いのか。


さらに、『ロウミアス』においてパリスは婚約候補に留まるに対し、

『ロミジュリ』では婚約者として確定させている。

これは悲劇性を高める効果がある。

恋愛と結婚の問題を浮き彫りにさせる効果だ。


付け加えると、マキューシオの役割も違う。

シェイクスピアの『ロミジュリ』ではマキューシオの役割がより明確になっている。

彼の自己破滅的とも情熱的とも言える性格が『ロウミアス』には無い。人格すら無い。

当然「マブの女王」に関する言及もない。


以上が『ロウミアス』と『ロミジュリ』の大まかな相違点だ。

様々な点を箇条書きに示して見たが、なかでも時間の短縮は大きな効果がある。


何故時間を短縮したか、 three unities の法則に少しでも則ったのだろうか。

それもありえる。ちなみに three unitiesの法則とは、日本語では「三一致の法則」と言うもので、

 1. 舞台は時間を長くしない。24時間以内とし、数ヶ月の内容はおかしい。

 2. 場所は一箇所。

 3. 状況は矛盾してはいけない。

見ればわかるがシェイクスピアはほとんどの作品においてこの法則を守っていない。

( Comedy of Error 『間違いの喜劇』 はエフェソスでの24時間、守っている場合もある )

『ロミジュリ』は五日間のうえ、ロミオがヴェロナからマンチュアへ追放される。(舞台が二箇所になる)

よって、短縮した理由は芝居の環境、さらに悲劇性の追求にある。


時間の短縮と悲劇性の追求

シェイクスピア劇の恋愛は(言い換えればキリスト教は昔から)一目見たときから始まる

Burton Anatomy of Melancholy では、愛は病気、恋愛病、死ななきゃ治らないと言っている。

つまり、「目」から入った恋愛の病血は、肝臓で浄化されず心臓へ行き、全身に回る

当時の人々はblood-letting 瀉血で対処したという。

『ロミジュリ』の二人も、仮面舞踏会で一目あった瞬間に病血が回る


普通ならば、一目あった瞬間にお互い強く引き付けられ、恋の情事にいたるところだが、

シェイクスピアのジュリエットは13歳にして既に将来を見つめている。

言い換えれば、ジュリエットの方が真剣に恋をしたのかもしれない。

14行詩、いわゆるソネットで相手を試している。

ロミオの返答に全てをかけ、ジュリエットは結婚を決意するのだ。


後に炎や火薬のイメージを伴う、瞬間爆発的な愛へと発展していく。

この刹那的な愛を表現するために五日間という時間の短縮は効果的だ。


次回、ロミジュリにおける愛と結婚の悲劇についてメモを残します。


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2005-06-23 22:08:11

シェイクスピア劇情報

テーマ:シェイクスピア

(1)RSCがやってくる!『夏の夜の夢』
12月9日から17日にかけて、東京芸術劇場中ホールで、
ロイヤルシェイクスピアカンパニが『夏の夜の夢』を演じるようです。
演出はグレゴリードーランによるものです。
先の『オセロー』のように、明確に現代性を打ち出すかどうか、
または『終わりよければ全て良し』のように戯曲そのままの姿をさらけ出すか、
非常に興味深いものであります。
『オセロー』ではアントニーシャーという稀代のイアーゴ役が出演しており、
『終わりよければ』ではあの魅力的なジュディデンチが舞台に返り咲いたこともあり、
今回のドーランによる『夏の夜の夢』には期待が高まります。
予約は9月10日からということで忘れずにチェックしたいと思います。


(2)歌舞伎『十二夜』蜷川演出  
『十二夜』が歌舞伎で演じられます。
シェイクスピアといえば、ブランクヴァース(無韻詩)でテンポ良いセリフが気持ち良いのですが、
歌舞伎のセリフ回しとどのように合わせたのか興味深いです。
また歌舞伎特有の早変わりや回転舞台など、この劇の可能性が広がる期待もあります。
蜷川さんは前回シアタコクーンで『メディア』を演出しましたが、
そのときは例のダイナミズムで驚かされたものです。
やや、構成美の追求のためにセリフ回し等が犠牲にされた感もありましたが、
それでもあのダイナミズムには期待を持たされるものです。


(3)オックスフォード大学演劇協会(OUDS)「間違いの喜劇」
8月13日から14日の二日間、計三回公演だそうです。
場所は東京芸術劇場小ホール2です。
詳細知っておられる方いらっしゃいましたら是非教えていただきたいです。


(4)円『マクベス』
7月22日から31日にかけて、紀伊国屋ホールで『マクベス』が行われます。
有名なので割愛。


(5)東京シェイクスピア・カンパニー設立15周年記念公演『ペリクリーズ』
シェイクスピアカンパニが、9月15日から18日にかけて、シアターXで『ペリクリーズ』を上演します。
あまり有名な作品では無く、公演回数もそれほど多くはない作品なので注目しています。
ロンドンで見た子供向けの劇でも「ペリクリーズ見た人!」と役者さんが言ったとき、
誰も手を上げなかったことから、本国でもあまり上演されていないのかもしれませんね。
7月1日より予約受付のようです。


他にも天保十二年のシェイクスピア などがありますが、僕が見たいと思うのは以上です。
中でもロイヤルシェイクスピアカンパニの来日には心躍らされるものがあります。
他にもおすすめがありましたらご一報ください。

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2005-06-22 22:45:37

シェイクスピア ロマンス劇 『テンペスト』 メモ : 寛容の愛

テーマ:シェイクスピア

『テンペスト』はプロットのほとんどがシェイクスピアの創作によるものだそうです。
そのプロットの構造は、ロマンス劇の特徴であるように、悲劇と喜劇を兼ね備えたものです。
しかし同じロマンス劇の『冬物語』は決定的違う点があります。

『冬物語』では前半が悲劇であり、後半が喜劇といったものでした。
この『テンペスト』では前半の悲劇が回想という形でしか出てきません。
よって観客は不可解な感覚に捕らわれることとなります。
悲劇ではないけれど、喜劇ともいえない、何か閉塞感を感じるのです。


この閉塞感は無人島という設定にも表れています。
プロスペロとミランダはミラノを追放された後、海で嵐にあい、この無人島へ流れつきます。
無人島には元々シコラコスという魔女と、その息子キャリバンが住んでいました。
プロスペロはミラノから持ち出した魔術の書を用いてシコラコスを倒します。
そして情けをかけ、キャリバンを愛娘ミランダと共に育てることにします。
その後10数年に渡り、この無人島へ他の船が流れ着いたという事件はありません。
没交渉という閉塞感が劇全体を支配しています。


そのような閉ざされた世界の中で、プロスペロは二人の宿敵に対して復讐を計画します。
一人は自分を追放し王位簒奪をした弟アントーニオであり、
もう一人はそれに協力したナポリ王アロンゾーです。
時節到来を待ち、プロスペロは10数年復讐の機会を待つこととなります。


10数年という時間の使い方も特殊です。
『冬物語』では、各々の登場人物たちは贖罪、奉公、秘密の保持に時間を使います。
罪無きものが二人も死んだというのに、誰一人として復讐の念に駆られることはありません。
一方『テンペスト』では、復讐に時間が使われてきました。
10数年間ナポリ王と弟が船で近くを通りかかるのを待っていたのです。

しかし、実際に二人の宿敵が島に着いてみると、どうでしょう。
プロスペロは復讐を実行するわけでもなく、二人を館へと導き入れます。
その後、宿敵二人と和解し、ナポリ王の息子とミランダを結婚させます。
10数年の月日の間にプロスペロの心の中では寛容の精神が育まれていたのです。


僕がこの劇を好きな理由はそこにあります。
どのような人間でも怒りや哀しみ憎しみといった負の感情に捕らわれることがあります。
憎しみによって復讐の炎に身を焦がされる思いは地獄の苦しみでもあります。
そのような苦しみがいつかは終わるということをこの劇は示しています。


復讐という点で有名な劇は『ハムレット』です。
『ハムレット』では復讐の地獄が描かれています。
復讐が復讐を生み、最後には全てが滅んでしまいます。
それに対して『テンペスト』は復讐の輪がプロスペロの寛容によって断ち切られます
それにより、どれだけの命が助かったのか想像すると、
とても尊敬に値できる行為だったと感じられます。


この劇の後、彼らがどのような生き方をするのかわかりません。
魔法の杖も衣も脱ぎ去り、エアリアルも開放し、
過去を全て捨て去ったプロスペロの心に残されたものは、
「神の慈悲に訴えかけることで、全ての罪は赦される」という寛容の精神だけです。


激しく燃え盛るようなクライマックスも、豪華絢爛な踊りも無く、
幻想によって全てが霧の中といった内容の劇だと思いますが、
シェイクスピアが全作品を通して描いてきた愛情というものは
もしかしたらこのような「寛容の愛」なのかもしれないと感じました。

著者: ウィリアム シェイクスピア, William Shakespeare, 松岡 和子
タイトル: テンペスト―シェイクスピア全集〈8〉
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2005-06-19 20:02:35

シェイクスピアにおける海(1) メモ: 大自然としての海

テーマ:シェイクスピア

シェイクスピア劇において海は重要な役割を担います。
当時の劇事情として、海上で嵐にあい難破する、ということは受けが良かったようです。
しかし、シェイクスピアが海を扱う場合、それは「観客の受け」を越えた意味合いを持ちます。


「母なる海」と言われるように海にはものを生み出す力があり、その波音や香りに親しみを覚えます。
一方で海の中で生きていくことのできない僕たち人間は、その破壊の力に恐れを覚えます。
生と破壊のイメージの混交、それが海なのです。


それはシェイクスピア独自の思想というわけではありません。
インドでは三柱神のシヴァはまさに生と破壊をつかさどる神として崇められています。
生きると死ぬ、生産と破壊、これらは対立事項ではなく、ある種同一視されていた感があります。
このような混交性を芝居で表現したことがシェイクスピアの特質です。
混交性については機会を改め書いてみます。


彼にとっての海は非常に深く広く色合いの豊かなものでした。
例えば『十二夜』(1599-1602)の海は双子を離れ離れにし、喜劇性に薄く影を落とす役割を持っています。
船上で同じ運命を進むと信じていた双子の兄妹が、予期せぬ嵐によって海に放り出されます。
海は二人を引き裂きます。二人の旧世界を自然が破壊するのです。
しかし、海は二人を新世界イリリアへと運びます。

二人だけで充足していた世界が、嵐による別離によって、他者へと開かれるのだと思います。
そこで二人は各々夫と妻という新しい家族を得ることになります。


悲劇では『ハムレット』(1600-01)の海が記憶に残るでしょう。
『ハムレット』では主人公であるハムレットが四幕五場から七場まで舞台上から、デンマークから去ります。
この劇は王子ハムレットの独白の多さからわかるように、彼の内面劇でもあります。
つまり『ハムレット』の題名が表すように、この芝居自体がハムレット王子でもあるのです。
その彼が舞台から物理的にいなくなるということは、通常の思考ではありえない状態です。
彼がどこに行っていたかというと、王クローディアスの奸計に乗りイギリスへ向けて死出の船旅に出ているのです。
彼が海でどのような精神活動をしてきたのか、観客の僕たちにはわかりません。
しかし、その後の彼は、選択を保留しながらも、ある方向へと吸い込まれるように直進するのです。

海が彼にとってどのような意味合いを持ったのか、興味をそそられます。


後期のロマンス四作では海の役割の重要性が増しています。
特に『テンペスト』(1611-12)は題名から既に嵐が発生しています。
『テンペスト』では劇が始まる前に一度嵐が起こっています。
ミラノ大公プロスペロは、弟アントーニオに追放され、数冊の本とまだ赤子の娘と共に小船で海に流されます。
そして海上で嵐に遭い、舞台となる魔女シコラコスの支配している無人島へと流れ着くのです。
プロスペロは、政治とお金と秩序の世界から、野生と生命と混沌の世界へと導かれるのです。
また場面と時を変え、今度はプロスペロが魔術を用いて弟を嵐にあわせるのです。
そして嵐は彼の支配する無人島へと弟を連れてきます。
その結果、嵐という破壊の力によって、娘ミランダは他の人間と出会い、


                                                  oh wonder          まあ、不思議
How many goodly creatures are there here!     こんなに素晴らしい生き物がここにもそこにも!
How beautious mankind is! O brave new world   何て美しいのでしょう人間は!ああ素晴らしい新世界
That has such people in't!               そんな人たちがいるのですもの!
(5. 1. 181-4  Cambridge版)


と歓喜の叫びを上げることとなる。
一方でプロスペロは弟との再会する。
人間の行う最も気高い行為、憎んでいた弟を許すのです。

復讐のために計画されていた嵐が、寛容と許しに繋がります。

『テンペスト』の構造はまさに嵐です。

過ぎ去ったあとに広がる雲ひとつ無い空の美しさを終幕に感じます。

大自然とそれに歯向かうことのできない人間達。

自然によってうちのめされるが、時という自然でもって傷を癒す。

強大なものを認めることにより、初めて個からの脱却を感じることができるのでしょう。

シェイクスピアの海はそのような感を観客に与えてくれます。


破壊そして再生、生命と死、秩序の異なる別世界、これらが海には溢れています。
『老人と海』『白鯨』などもこれと同じイメージに満ちています。
シェイクスピアに限らず、文学全体を通して、海というイメージは広大深淵な意味を飲み込んでいるのでしょう。

まだまだ研究不足なので、取りとめの無いメモですが、皆さんのコメント等を参考にして、回数を重ねて海に対する理解度を深めていきたいと思います。


著者: ウィリアム シェイクスピア, William Shakespeare, 松岡 和子

タイトル: テンペスト―シェイクスピア全集〈8〉

著者: W. シェイクスピア, William Shakespeare, 松岡 和子
タイトル: シェイクスピア全集 (1) ハムレット
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2005-06-19 00:40:20

シェイクスピア喜劇 『十二夜』 におけるサーアンドリューの役割: 純粋さと滑稽

テーマ:シェイクスピア

シェイクスピアの『十二夜』という喜劇をご存知でしょうか。

オーシーノ公爵の治めるイリリアを舞台に、三組の男女による結婚を巡る喜劇です。

その他にも、海と難破、異装 (男装や変装)、時、といった重要な要素もありますが、

ここでは純粋さと滑稽について扱います。


『十二夜』では様々な道化や道化役が出てきます。

Feste (道化フェステ)、Fabian (道化ファビアン)、Sir Toby (飲んだくれ騎士サートウビー)などなど。

彼らの中で最も 'おいしい役' と言われているのがサートウビーです

彼は、Henry IV の騎士Falstaff に似ており、俳優さんも演じたい役の一つと思っているようです。

サートウビーは自由闊達に動き回り、秩序も何もなく、何でもかんでもお酒と一緒に飲み下す能力があります。

そのような彼の特質はまさにフォルスタッフと通じるものがあります。

彼とイリリアの貴婦人オリヴィアの侍女である Maria (マライア)とのwit combats(ユーモラスな言い合い:喜劇では結婚の決め手になることが多い c.f. Taming of the Shrew)は耳を楽しませてくれます。


しかし、彼がいかに自由に振舞おうと、この劇を喜劇または笑劇にすることは難しい。

というのは『十二夜』は悲劇的な調子が一幕にあるからだ。

報われない恋に悩むオーシーノ公爵、難破により双子の兄を失ったヴァイオラ、(双子の妹ヴァイオラを失ったセバスチャン)、父と兄を亡くしたオリヴィア、この三つ(四つ)の哀しみは喜劇にふさわしくないものです。

特にオリヴィアの父と兄の『死』は喜劇にふさわしくないのです(c.f. Much Ado about Nothing)。

サートウビーだけでは喜劇の方向へ進路を向けることは難しい。


そこで出てくるのがSir Andrew Aguecheek (サーアンドリューエイギュチーク)です。

見る人が見ると笑ってしまう名前だ。(Ague 悪寒でぶるぶる震える、cheeck は頬の意味)

(ちなみに Sir Toby Belch の Belch は 'おこり' の意味)

その名前が示すとおり、サーアンドリューは情けない姿、一種の道化として描かれている。

 ・彼は父の遺産を若くして相続し、年収3000ダカットという莫大な収入を持っている。だけど飲んでしまい、次の年までお金が持たない。

 ・けんか早いが臆病で、「臆病だから命が持っている (けんかできないから) 」とマライアに言われる始末。

 ・ほとんど何も知らず、ウィットも無く、とんちんかんなことばかり言ってしまう。

 ・ものを知らないため、人に言われたことを疑わずに信じてしまう。

このように立派とはかけ離れた騎士がサーアンドリューです。

彼が出てくると、サートウビーのからかいもあって、喜劇または笑劇的な雰囲気が漂いはじめる。


サーアンドリューの役割は軽いものかというと、実はそうではないようです。

確かに彼の舞台上での機能はある種の道化です。

しかし彼の本来の役割は 「オリヴィアに対する求婚者でオーシーノ公爵のライヴァル」 なのです。

オーシーノ公爵のライヴァルとして全く機能していないが、それでも二人は並列に見ることができる。

サーアンドリューとオーシーノ公爵を並ばせるものは純粋さです。


純粋さというものは滑稽にみえる。

サートウビーの言うことを全て信じてしまうサーアンドリューは滑稽と映る。

つまり彼のおもしろさは純粋なところにあると言えます。

一方オーシーノ公爵はどうかというと、やはり彼も純粋なところがおかしい。

オーシーノ公爵は、何度つっかえされても、オリヴィアに愛の使者を送り続けます。

彼の時代遅れな (Oliviaの感性から行けば時代遅れ) 形式に捕らわれた愛情表現とそれに対するオリヴィアの態度は観客の笑いを引き起こす。

二人の純粋さというのは当人には悪いがとても喜劇的要素に富んでいる。

したがってサーアンドリューの存在は喜劇を支える一つの柱と言える。


サートウビーの味に隠れ気味なサーアンドリューの純粋さ。

公演されたら、おしみなく、愛情をこめ、温かな笑いを彼に送ってあげてみてください。


W. シェイクスピア, William Shakcpeare, 松岡 和子
シェイクスピア全集 (6) 十二夜
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