自分を見失う、とはどういうことだろうか。寝てしまったり、気絶したりすれば、意識がなくなるから自分を見失ったといえる。死も同様だろう。ただ意識を失えば、自覚がないから自分を見失ったことすら気づかない。


酒を飲んで、あるいはカッとなって自分を見失ったという話を訊く。しかし酔っていようが、感情的になっていようが、その人はその人である。誰か他の人が憑依するわけではない。普段と違うときの方が、その人の本質かもしれない。


見失った自分とは、他者に対して演じていた自分ではないか。こう見て欲しいという見せかけの自分ともいえる。そういう意味では、自分を制御できなくなって、こう見て欲しいという計画が破綻した状態ともいえる。


身も蓋もなく言えば、自分を見失うどころか、ありのままの自分が野放しになり前面に出てしまった状態とも解釈できる。自分を見失うというのは、理性を失ったことと同義なのだ。


ここで考えたいのが「自分らしさ」とは何か。自分らしい、自分らしくない、の違いは何なのだろうか。本来、「らしい」というのは、他者があなたに対して持つ印象である。あなた自身が「自分らしさ」を追究すると話が複雑になる。


他者から見た「あなたらしさ」とは、「彼(女)はこういう人だ」という単純化された印象に過ぎない。それに合致する行動をあなたがしたとき、他者は「あなたらしい」と評価する。しかしそれは当事者、つまりあなたにとって「自分らしい」かどうかとは無関係だ。


自分らしくない、なんて思うことがあったら、それは他者の目を意識しているのだ。これまで自分がやってきたことの傾向、他者が想定する行動と少しずれているだけの話。人は変化するもの。いつもと違う行動をしても不思議ではない。


問題は、自分らしさの正体を探すことではない。「何故、自分らしくなければならないのか」そう思ってしまう理由を見つけることにある。本来、何をしようが自分は自分だ。酒に酔って醜態を晒しても、すべてが自分らしい行動といえる。



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他人に対して賢明であることは、自分自身に対して賢明であるよりもたやすい

不完全な美しさ

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人間の顔は左右対称ではない。顔写真の真ん中に鏡を立てて、片方の顔を複写する遊びをしたことがあるだろう。こうしてできた左右対称の顔は違和感がある。人間の顔は左右が対称ではないことで、全体の印象、バランスを取っている。


左右非対称は、アンシンメトリーという。最近は、オシャレな髪形にも取り入れられている。この左右非対称が格好いいというのは、日本の代表的な美的感覚である。


茶室は左右非対称、アンシンメトリーな空間。意図的に均衡を崩している。そうすることで単調ではない面白さ、ひろがりを演出している。ただし左右非対称といっても、まったくバラバラではない。左右対称に近いが、わずかに崩している。


漢字をイメージしてもらえばわかりやすいかも知れない。月、火、水、木、金、土、日。これらの漢字も、トメ、ハネ、払いの変化で左右をわずかに崩し、全体のバランスを取っていることがわかる。


広告やブログのレイアウトにも、アンシンメトリーを採り入れると良い。最初は、左右対称に設計し、少し崩してみる。大小をつけたり、アクセントを加えたりする。単調ではない変化、ひろがり、動きを演出できるだろう。



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点前には強みばかりを思ふなよ 強きは弱く軽く重かれ<利休百首>

あなたは不愉快なとき、納得できないとき、怒るタイプだろうか、我慢するタイプだろうか。僕の観察では多くの人が我慢する、と言いながら怒っている。恐らく相手に何も「言わない」というのが、我慢しているということなのだろう。


しかし、何も言わないために腹に据えかねて、たとえば顔や態度に表れていないか。これは言葉で伝えないだけで、体全体で怒りを伝えているのだ。相手やまわりを威嚇している。我慢しているとはいえない。


僕はどちらかといえば、言いたいことがあれば相手に率直に言う。ただ怒っているときは、少し落ち着いてからクレームや意見を伝える。言葉で伝えるのを我慢しない。やめてほしいことは、はっきりとそう伝える。


我慢していると言いながら、不機嫌を体全体で表すのは、北の隣国がミサイルを我が国の領海に向かって打ち込んでくるのと同じだ。一方で、我慢しないで紳士的にクレームを言うのは、国連に訴えるようなものか。どちらが良いかはわからない。


本当に我慢しているのなら不機嫌な表情を見せるものではない。笑顔のまま、まわりにそれと気づかれない状態が、我慢しているといえるだろう。「我慢している」「我慢してきた」という人に、怒っていない人はいない。



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掃除機を壁にガンガンぶつける音、奥様は誰かを威嚇しているのだ。

たくさんの「いいね!」をもらっても満たされない人がいる。これは自分の存在価値を他人の賞賛や評価でしか感じられないからではないか。自分の存在価値は、自分で決める、これが原則。自己承認欲求は、他者に満たしてもらうものではない。


他者からの賞賛を確認して安心するという人は、賞讃がなくなれば、不安に苛まれる。だから常に数多くの賞賛を得るよう努めるだろう。存在価値をはかる基準が、自分自身にない、というのは、常に「恐れ」を抱いた状態に近い。


何がウケるか、何が喜ばれるか、常に他者の顔色を伺って発信をする。これはとても苦しいことだと思う。無限に賞賛を得ることはできない。本人も薄々、気づいている。しかし、やめることに恐ろしさを感じるのだろう。


僕は、人間に「存在価値」なんていう固有の価値があるとは考えていない。ただ「生きている」という事実があるだけだと思っている。「あんたなんか生きる価値がないわ!」というセリフをドラマなどで目にする。だけど生きる価値って、そもそも何?


価値というのは「無駄ではない」と感じるための意味づけのようなものではないか。しかし、無駄に価値がないとも言い切れない。何が無駄で何が無駄ではないのか、それは、人によって違うし、時代でも変わる。価値は曖昧で相対的なものなのだ。


たとえば受験で不合格になる。結果、別の誰かが合格する。あなたからすれば、不合格は価値のないこと。しかし、あなたの不合格のおかげで合格できた人もいる。その人から見れば、あなたの不合格は無駄ではない。価値も意味もある。


僕が言いたいのは、曖昧で相対的な他者の賞賛、つまり絶対的でないものに翻弄されることのナンセンス。また何事にも価値がなければならない、という思い込み。こうしたことに気づくだけでも、ずいぶん気楽に生きられるのではないだろうか。



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警察から見て犯罪者に価値はあるか。病気やケガのない世界に医師は存在するか。

響くブログが、一時更新を休まれていました。再開時に事情を説明されていましたが、そこに書かれている疑念の人物と私は一切関係がありません。当然、誰であるかも知りません。


何人かの方に「私のことではないか」と尋ねられ困惑していました。この場で、あらためて「無関係」であることを宣言させていただきます。また当ブログから響くブログを紹介、リンクしたことが過去にありましたが、運営者の私の判断で、関連記事は現在すべて削除していることも付け加えさせていただきます。


稀にテーマの重複が見られることがありますが偶然です。当ブログはこのような号外記事を除き、通常2-3記事を予約投稿しています。誰かの記事を読み、呼応して書く、ということも原則ありません。


原則と書いたのは、さまざまなブログを訪問するので、着想を無意識のうちに得ることは否定できないからです。しかし「響く」ブログからの影響はないです。


過去に「響き」に関する記事も投稿していますが、これは私が趣味でDTM(パソコンを使った楽曲制作)をしていた頃の知識をもとに着想したものです。個人に宛てて書いたものではありません。いつも私は不特定多数、メジャーに向けて書いています。また「響く」という言葉は、一般的な意味で使用しています。


ブックマークは、こちらが望まない場合でも、設定すれば誰でもできます。ブログの世界は基本リンクフリーなので、その点は相手側の自由となります。こちら側が個別に拒否できない点をご了承ください。


繰り返しになりますが、当ブログは、響くブログ及び運営者とは一切関係がなく、今後も関係を構築することはありません。その点、誤解のないようお願いいたします。


明日は通常通り朝7時30分の更新です。

新入社員が入ってきた。研修では自分の好きなように広告を作ってもらう。だいたいが、格好いい広告を作ろうとする。目を引く、斬新なもの、そういう広告の反応が良いと考えているのだ。僕も入社したばかりの頃はそうだった。


経験を積むと広告の作り方が変わってくる。奇をてらうことがなくなる。大当たりする広告ではなくハズレのない広告を目指す。求められる水準に確実に到達する、それがプロの仕事だと思っている。


プロは平凡なことを安全確実にやる。いつも正攻法でやるにはどうすれば良いか、を意識している。逆に、素人は、曲芸的なやり方で大当たりを狙う。リスクをいとわない。力量を過信しているのかもしれない。


デザインされている広告は見た瞬間にわかる。目的に対して最適化されている。無駄がない。また、どこかひとつだけが尖っている、という作りにはなっていない。常に全体の調和を意識しているのだ。


広告というのは電子回路に似ている。ある部品を強化しても全体の出力は、もっとも弱い、貧弱な部品に制約される。どんなに良い部品をふんだんに使っていても、どこかひとつでも断線していたら、まったく機能しない。


Ring of weakness.鎖はもっとも弱いところで切れる。



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今でも広告の下書き(ラフ)は、えんぴつ愛用者が多い

ブログを書くのにまとまった時間をかけようとしていないだろうか。僕は、こうした作業というのは、細切れの時間を使うことでずいぶん労力が減らせると考える。ひと時に全部を仕上げてしまう必要はない。


5分単位の時間を活用する。取りあえず写真を選ぶ、タイトルを決める、書き出しを1行だけ考える、ポイントを箇条書きにしておく。事前の仕込みを、隙間時間に進めておくことで、大きな仕事もあまり労力を感じることなく完遂できる。


ほとんどの人が、何かに取り組むときは、まとまった時間を確保しなければならないと考える。しかしこれは錯覚である。膨大に思える仕事も細かな作業の組み合わせでしかない。一挙に仕上げようとするからウンザリする。


英単語を2000個覚えようとする。これを10日でやろう、と思うと挫折する。そこで毎日5個ずつ覚える。すると400日、1年と35日で終わる。長期プロジェクトだが、1日にかける時間はわずか5分程度である。この5分というのは意外に楽なのだ。


ブログも同じだと思う。記事を1本書くのに30分かかるのだったら、5分でできる作業に分けて隙間時間に進めれば良い。僕は、ちょっとした隙間時間に、本文をメールに下書きしている。


料理を作る、人と話をする、これらは隙間の分断された時間ではできない。生ものを扱う仕事というのは、長期プロジェクトには向かない。しかしそうしたものでも、下ごしらえや準備はできる。


今自分の取り組んでいる仕事は、細かく分割して進めた方がラクなのではないか。こうした発想を持つことは成果物を作る上で重要な視点だと思う。毎晩、遅い時間に0からブログを書くのは大変だろう。


ちょっとした隙間時間に作業を進めて、夜は推敲だけする、こうした工程を組むこともできるのではないか。



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巨大な建築物も段階的に積み上げることで完成する

SNS消費という言葉がある。ブログやフェイスブックに投稿するための消費だ。他人の目を意識した消費と言い換えても良い。ブログに書く、インスタグラムに投稿する、そうした目的で、選ぶものが変わる人は少なくない。


人間は社会的な動物だから、他人の目を気にして、こうした選択をするのは仕方がない。しかしこれが過剰になると、生きづらさ、不自由さを感じるようになる。他人の目による支配を自ら生み出してしまう。


自ら支配を生むと書いたのは、「人の目を気にする」人間のほとんどが、自分の周囲の少数の人の目を気にしているだけだからだ。他人の目を気にするとき、人は実際の誰かを想定する。その人の反応を想像して不自由になっているに過ぎない。


つまり想像できる少数の目だけを意識するから苦しくなるのだ。


世の中には、人の目をあまり気にしない人もいる。こういう人は、自分ひとりの判断で何かを決めているのではない。もっと確かな目、あるいはもっとたくさんの人の目による評価を意識している。


確かな目というのは、揺るがない基準、つまり信念と言っても良い。また自分の想像が及ばない大勢の目を想定すること、これが客観である。身近な少数の他人の目を気にするあまり、知らず知らずに流されていないだろうか。



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江南市 音楽寺のあじさい。6月10日前後が見ごろ。円空佛も見られる

面白いブログを書きたい、という人は多い。でも、どのようなブログが面白いかといえば、明確な定義はない。だから、わたしの個人的な考えになるが、面白いブログは、読み手にとって、次の2つの条件を兼ね備えたものだと思う。


1)最後まで読んでしまうもの
2)次の更新が楽しみなもの


視点の目新しさ、文章の表現力、あるいはブログ全体のデザイン。こうした要素は、先に挙げた2つの条件を満たすものでしかない。


極論すれば、写真と1行だけの文章で構成されたブログでも良い。これなら最後まで読まれるはずだ。問題は、次の更新が楽しみになるかどうか。ただし技量がないと、次回も読みたい、と思ってもらうのは難しいと思う。


細々としたノウハウに制約されるとブログは書けなくなる。まずは読者視点で「最後まで読んでもらえるか」「次も読みたくなるか」この2つを意識するだけで良い。



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一宮市の街路灯。有事の際はモビルスーツになる

何かの仕事をして「早く終わらないかな」と思う、あるいは仕事のメドがついて「終わった」と感じる。このような仕事は、他者から課せられたノルマ的なものだから、区切りがつくと解放感がある。


一方、好きで取り組む仕事もある。こちらは、周りから「もう十分」と言われても、ずっと続けたい。終わりとか完成という概念がない。ダ・ヴィンチは「モナリザ」の絵を終生手放さず、筆を入れ続けた。描きながら自分も変化するので完成がない。


僕の場合は、ブログを書いたり文章を書いたりというのは好きな仕事だ。誰かに「やめろ」と言われても暇を見つけて続けたいし、何か新しいことができないか、と考えるのも楽しい。本業も嫌いではないが、ここまで好きではない。


考えてみると、効率を求めるのはノルマ的な仕事が多い。他者が求める水準まで、やらなければならない仕事といえる。逆に好きな仕事は、完成の意識がないから効率とは無縁だ。独自性を損なうノウハウにも興味がない。


ブログの書き方、集客の仕方など「効率的なノウハウ」を求める人がいる。僕の理屈で言えば、こうした人たちは、ノルマをこなしているといえる。きっと早く終わって解放されたいのだろう。



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狼の作者はカップを割って口を開けた表現に挑戦している