記事を書いているうちに、凡作に思えることはないか。書き始めたときは、傑作の幻影を見ていたのに、書いているうちに雲行きが怪しくなる。このまま書き上げて良いものか、とためらう。こんな経験は誰でもあるだろう。


書いているうちに傑作が駄作に思えてきて、うんざりするのはなぜか。僕は、奥様が天ぷらを揚げているのを見て、この理由がわかった気がした。


天ぷらを揚げているうちに、お腹がいっぱいになるひとは多い。味見と天ぷら油の熱気であぐむのだ。いざ、食べるときは、もういらない感じ。しかし、揚げ立てを食べるだけの人には評判がいい。


記事を書くのもまったく同じではないか。推敲するうちに、書き手は内容に飽くのだろう。けれども書き手の思いと読み手の評価は別である。天ぷらのように、読者はその記事を、ご馳走と思うかもしれない。


だから、気乗りしない記事も最後まで書き上げて、とにかく投稿してみよう。自信のない記事が意外に評判の良いことは多い。



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雨の日は何げない写真もクールに見える

電卓で遊んでみましょう。スマホで代用してもOK。まず、あなたの誕生「月」に4を掛けてから9を足します。たとえば、きょう6月24日生まれなら、「6×4+9=」と押します。この場合の答えは33になります。


次にこの数字に25を掛けてから、生まれた日を足します。「33×25+24=」と押します。この答えは849。最後に、225を引きます。「849-225=」と押します。すると電卓の画面には、624と誕生日が表示されます。


手順をまとめると
①【生まれた月】×4+9
②【①の答え】×25+【うまれた日】
③【②の答え】-225


これは今月の「子供の科学」に掲載されていた遊び。誕生月を100倍して、9×25で生じた225を最後に引いているだけなのですが、電卓を使い、子どもに実演すると不思議がります。ご自分の誕生日で試してみてくださいね。



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女の子に手順①②の計算をしてもらい、あなたは225を引いて誕生日を当てよう。

文は人なりといいます。書き手の姿勢や心根が正しければ、よい文章を書ける、ということ。しかし、これは本当でしょうか。よい文章を書くために、わたしたちは、よい人にならなればならないのでしょうか。甚だ疑問です。


文章を書くとき、平気で嘘を書くことができます。模範的な発言も書けるし、ものすごいモラリストにもなれます。冷酷無比な悪人を装うこともあります。人間は社会的動物ですから、状況で何にでも、化けられます。


ただし「化ける」には、観察が欠かせません。いい子ちゃんぶるには、こうする。悪人を装うならこうだ、と手本を探して真似られるのが大切。よい書き手は「何がよい文章か」を理解していて、再現できるひとといえます。


料理人は腕を磨きながら「一流の味」を食べ歩くそうです。そうした味覚の経験と蓄積があって、自分の作ったものが、旨いかどうか、判断する基準が育まれます。腕のいい料理人は、同時に味のわかるグルメでもあるのです。


よい書き手はよい読み手

同様に、よい文章の書き手は、よい読み手です。面白いもの、感動するもの、ひとを魅了するもの、それが何かを明確にわかっていて、はじめて再現できるからです。他人の文章を読み「よいもの」がわからなければ、よい文章は書けません。


よい文章を書こうと志すなら「よい文章を見つける」目を養うことです。読者数が多いとか、SNSで大勢にシェアされている、という他人の評価ではなく、まだ誰も注目していないエントリをネットで探してシェアしてみましょう。


あなたの目が確かなら、シェアは果てしなく広がっていきます。また、確かな目があれば、自分の文章も、自分の眼鏡に適うように書けばよい、といえます。よい文章の書き手を志すなら、まずは、よい読み手を目指しましょう。



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よいシェアをする目利きは、自分の書いた文章もハズレが少ない

アメブロは読者数が表示されるから素晴らしい。


読者数がわかると、3つのメリットがあります。①「キリ番」や「ゾロ目」でお祭り騒ぎができます。他人の喜びは自分の喜び。記念の瞬間を「寝ずの番」でスクショする醍醐味。読者数の増減に、苛立つ快感も味わえます。


1000とか1万の大台を超えると、賞賛されます。気前の良いひとは、記念イベントを催し、プレゼントを振る舞ってくれます。このネタだけでしばらく、ブログをひっぱることができます。


②読者数はブログの価値を判断する目安になります。読んでも、どのコンテンツが面白いのか、わからないひとは、とても助かります。また書き手は、つまらない投稿でも読者数が多ければ、いい記事だと思ってもらえます。


③読者登録すべきブログが一目瞭然。読者数の多いブログに登録しておけば、間違って自分のブログに訪れるひとがいるかもしれません。たくさん読者登録すれば、サイドバーも雑然。本文も読まれないので粗が目立ちません。


こんなに良いことだらけの読者数の表示機能。なぜ他社のブログが、採用しないのか、さっぱりわかりません。みなさんもそう思いませんか。



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世間は偉さそのものよりも偉さの見掛けに報いることが多い

馬鹿の使い方

テーマ:

誰彼なしに「馬鹿」といえば喧嘩になります。SNSでは、相手を叱咤激励する意図で馬鹿を使うひともいます。蔑視のニュアンスがある言葉なので、使い方が難しい。よほど注意しても誤解を招きかねません。


わたしのブログでは、ほとんど「馬鹿」という言葉を使いません。先述のように使い方が難しいのと、理由はどうあれ、こうした言葉を使うことを「いけないこと」と考えるひとが多いからです。ほかの表現に変えます。


しかし、日常では低能以外の意味で「馬鹿(バカ)」は結構使います。


たとえば、「通信費がバカにならない」。これは「無視できない」という意味で使います。ほかにも、工作でネジ山がつぶれたとき「ネジ山がバカになった」といいます。使いものにならないほど緩んだ、という意味でしょうか。


ほかにも「空手バカ」「仕事バカ」という使い方もあります。これは馬鹿という字をあてていますが「特定の分野に突出している」という意味。空手や仕事は秀でているが、それ以外は疎いということ。


また意味を強めるときにも使います。馬鹿騒ぎ、バカ売れ、馬鹿でかい、などは「度を超えて」というニュアンス。馬鹿の語源は、中国の王様が「馬と鹿を間違えた」説と仏教用語の「莫迦」説がありますね。



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誰も彼も自分はほかの人より抜け目ないと思っている

世間には、因果関係を逆にした方法論が広まっています。たとえば「成功者には、共通して観察される行動がある」とします。これを逆説的に捉えて「成功者に共通する行動を身につければ、成功できる」と考えるのが、それです。


なぜ、こんな荒唐無稽な方法論を信じるのでしょう? この理屈でいえば、お年寄りは腰が曲がっている人が多いから「腰を曲げて歩けば、お年寄りになれる」というのと同じです。極端な例をあげると、矛盾がわかります。


逆は、必ずしも真ならず。「女性ならば人間だ」という命題は正しい。しかし「人間ならば女性だ」というのは、必ずしも正しくありません。男性もいるからです。成功者に共通する行動をする成功者以外の人は、恐らく大勢いるでしょう。


お金持ちのお金の使い方をマネて、金回りを良くする。モテる女性の仕草をマスターして彼氏をゲットする。因果を逆にした方法論は、ネットを徘徊すれば、頻繁に目にします。こうした誘い文句には、十分注意してください。



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最初に進路を誤ると、軌道修正は困難を極める

ブログは「体験」を書くといいといわれます。けれど、ほとんどのひとが、体験の書き方を誤っています。たとえば、セミナーに参加したレポを読むと勘違いが、すぐにわかります。いったいどこがいけないのでしょうか。


勘違いしているひとは「何があったか」を書きます。「講師の誰々が○○の話をされた。学びの多い有益な時間を過ごせた。きょう習ったことを活かしていきたい」のような文章です。これは体験というより記録です。


体験は「自分の目で見たもの」を

一方、体験を書く意味がわかっているひとは「自分の目で見たもの」を書きます。言い換えれば「自分しか見なかったもの」を書きます。同じ場にいる他の参加者の視点とは異なる独自の視点を表現する。これが体験を書くということ。


違いが一読でわかる例文を挙げます。運動会の場面を書いた同じテーマの例文です。最初が「何があったか」を書いているだけのもの、ふたつめが「自分の目で見たもの」を書いた正真正銘の体験文です。


運動会
学校で運動会がありました。ぼくは徒競走に出場しました。一生懸命走りました。一等になりました。うれしかったです。



徒競走
パンとピストルの音がしたとたん、夢中でかけた。第2コーナーをまわるころ、ぼくの目の前に白いシャツがはためくのが見えた。鈴木くんだ。ぼくは鈴木くんの白いせなかを見つめて走った。


シャツの背中に黒ペンで書かれた「鈴木」の名前が、ぐいぐいと目前にせまってくる。もう少しだ、もう少しでぬかせる。「鈴木」の名前が見えなくなったと同時に、ぼくのむねがゴールのテープを切った。



いかがでしょうか。どちらも同じ話ですが、違いは一目瞭然です。


どこかに参加した、何かに挑戦した。そんな事実の記録は面白くありません。「自分が見た何か」を書く。読み手の心は、そこに感動します。体験を書くことは「自分の目で見たもの」を意識することです。あなたは、そこで何を見ましたか。


※例文は「子どもの頭は作文力で決まる!」宮川俊彦著 知的生き方文庫第1刷 p92・96から引用

じゃんけんは強いですか。わたしは、どちらかというと弱いほう。じゃんけんには、必勝法はないけれど正攻法があります。勝負のポイントは2つ。はじめに何を出すか、あいこの後に何を出すか。


みなさん、グー、チョキ、パーが出る確率を知っていますか?


どれも同じではありません。出しやすい、出しにくい手の形があるのです。出しやすい順にグー、パー、チョキです。いきなり「じゃんけん、ぽい!」をすると、この順で出ます。


確率でいえば、グーが約35%、パーが約33%、チョキが約31%。差はわずかですが、はじめは出やすいグーに対抗して「パー」を出すのが効果的といえます。


「最初はグー」と、全員で揃えてから勝負する方法は、掛け声を合わせるだけでなく、この「パー」で勝とうとする戦略を封じるものかも知れませんね。


では、次のコツ。あいこの次は何を出しますか?


あいこの後に何を出すか、には癖が出ます。同じものを続けて出す人と、違うものを出す人がいます。同じものを出す相手には、当然、あいこに勝つ手を出します。パーであいこになったら、相手に対抗してチョキを出すのです。


でも、なかなか実戦では、相手があいこの後に何を出すかは読めませんよね。こんなときは、相手は違う手を出す、と考えましょう。あいこの後に、同じ手を出す人は少ないのです。


心理的な影響があるのでしょうか。あいこの後、同じ手を出さない人は、前のあいこに勝つ手を出す人が多いです。たとえば、パーであいこになったら、多くの人が次の手であいこに勝つチョキを出すのです。とじゃあ、自分は何を出したらよいか――。


こちらは、あいこの後は、それに「負ける手」を出します。


特に、チョキであいこになった場合、相手は次にグーを出しやすいので、「パー」で迎え撃つのが正攻法です。これを知っていても勝負は時の運、でも長期的には報われるかもしれませんよ。



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じゃんけんの掛け声は方言も多彩 。「いん・ちゃん・ほい!」という子もいた

広告に載せる体験談やお客様の声は、ニックネームよりも本名が推奨されます。信憑性が高いと感じるからです。そのため「ヨーコ(43歳)」より「高橋洋子(43歳)」の方が広告の反応率は上がります。


しかし、高橋洋子さんって本名でしょうか。写真も本物かどうか怪しい。フリーの人物写真に架空の名前を組み合わせただけでは? 嘘かどうかを見抜くには、写真の本人を知っている必要があります。


日本人の苗字は、多いものから佐藤、鈴木、高橋、田中、伊藤、渡辺、山本、中村、小林、加藤の順。名前は多いものから、男性が、ひろし、たかし、あきら、女性が、けいこ、ようこ、よしこの順。組み合わせて、それらしい名前は簡単に作れます。


仮に高橋洋子(43)さんが本名でも、広告でそれを証明するのは難しい。本人を呼んで身分証明を見せてもらう必要があります。ならば、高橋洋子(43)でもY・T(43)でもたいして違いはない感じもします。


広告では芸能人を体験談に起用する場合があります。芸能人は、芸名で本名ではありません。それでも、顔と芸名が視聴者に認知されているから効果があります。これに対して、一般人は、顔も名前も知られていないから信用度も効果も落ちます。


体験談を作る側としては「本名」の掲載を望みます。「実名に見える」だけで反応率が上がるからです。けれども、体験談に取り上げられる当人は、本名の掲載に、ためらいがある場合も多いようです。


嘘の広告はいけません。架空の名前も厳禁。これは道義の問題。しかし本名を載せても、本当かどうかは、消費者にはわからないのも現実です。だとしたら、本名の掲載に抵抗がある人は、イニシャルで構わないのではないでしょうか。

文章は見せるもの、という発信を頻繁に目にします。長文よりも簡潔な方が伝わるという意見です。たしかに、最近は長文より短文が好まれる傾向があります。Twitterもこうした流れで支持されてきたのでしょう。


SNSも種類が増えました。TwitterだけでなくインスタグラムやYoutubeを活用する人もいます。写真や動画が簡単に投稿できるので、文章に頼らず伝えられます。具象を見せるには、とても便利だと思います。


私も「文章は見せるもの」という意見に賛成です。しかし、彼らの言う「簡潔、キャッチ―に見せる」、つまり字面を視覚化する考えとは異なります。文章は、見えない世界を読者の心に映し出す、という意味で見せるものです。


文章は描写することで、実際には存在しないもの、抽象的なものを読み手の心に映し出すことができます。現代の私たちに、戦国武将の悲哀を感じさせ、未来世界を想像させるのも文章の見せる力です。


字面だけの視覚化が進むと、文章本来の「幻想を見せる」という機能が損なわれていきます。もちろん短歌や俳句など、簡潔に世界観を伝える芸術もあります。しかし、これらは作り手と読み手が、深い知識を共有しているから成立するのです。


ただ「文章を短く」「見せる」と言う人は「文章の面白さがわかっていない」と思います。Webは言葉が基本です。 文章には、写真や動画では見せられないものを見せる力があります。この楽しさを一人でも多くの人に伝えられたら良いのですが。



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見えないもの、存在しないものを見せるのが芸術