嗚呼

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前々回のアップデートで昔の恋人を思い出してしまうと書きました。

何か最近たまらなくやり直したい衝動に駆られています。

といっても、後の祭りですが。

なんだかなー
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仮説1

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おそらく、○○体質の人が多い系統の顔ってあると思う。

といっても、僕のつたない経験で言ってるだけなので、信憑性は無いんですけどね。

あなたの「何様だ!」ていうご意見はもっともだと思います。すみません。
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遠い記憶が顔を出す時

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新しいパートナーとベッドにいると、前のパートナーが不意に脳内に顔を出す事ってありませんか?


触った感触とか、キスをする時の癖とか、相手が出す声とか、前のパートナーとどこがどう違うかってことを心の隅っこで思考し続けながら、この人とはこうすれば良いのかって事を学習しているあの時、前の人がどれだけ素晴らしかったかって事を何故か今頃になって実感してしまう。

うーん・・・少し空しいですね。

とはいえ、抽象度を少し上げて考えてみると、これって肉体的に刷り込まれた記憶とも言うべきものが確かにあるって事を示していると思うんです。
気持ちの上で引きずっているわけでは全くないのに、愛情とは全く切り離されたところで、僕は前のパートナーを思い出しながら、至極客観的にその子の身体を思い出しつつ、今のパートナーと愛し合っている。

特に興味深いのは、今の子とセックスをするまで前の子を思い出す事は全くなかったはずなのに、相手の身体を相対化してしまった瞬間から、前の子の幻がちょくちょく僕の前に現れるようになったという事。


おそらく、「常識」的なステップを踏んで人と人とが愛し合う時、恋人という範疇の外で相手を相対化するという段階を抜けて、肉体的な、恋人というカテゴリーの中での相対化というプロセスを否応なしに通過する必要があるのでしょう。

そんな2段階の「相対→絶対」の「手続」を抜けた時に、初めて本当に相手を愛せるのかもしれませんね。

このステップが2段階かどうかは人によりけりだとは思うのですが、最終的に「ポニョ、宗助、好き!」的なイノセンス(と表現していいのかはわかりませんが)に帰着するまで時間がかかるのが僕ら汚れた大人なんでしょう。


ちなみに僕の勝手な想像ですが、この「手続」に関しては女性の方が強く自覚されるのではないでしょうか。
だって入ってくるわけだし。


そうだとしたら、僕らは常に、オンリーワンである(はずの)自分が外の世界では相対化されているという事を自覚すべきなんじゃないかと思います。


それを自覚して人と接した方が、きっと僕らは努力できるし、人を「思いやれる」と思うんです。


それに何よりも、異なる個体同士が本質的に「愛し合う」ってことが如何に奇跡的なことなのかを、いつも新鮮な心持で感じることが出来るのではないでしょうか。
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フィエスタ

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辞書によれば、ロンド形式とは「決まった主題が異った楽想の挿入部を挟んで何度か繰り返される形式の楽曲」であるという。

僕はおそらく今主題Aにはさまれた挿入部BまたはCくらいの位置にいるはずだ。


とは言ってもまず僕にとっての主題とは何かを考えなければならないのだが、人の一生において、ある決まったラベルを貼付けられる行いと言えば、Y.M.氏が歌うように多分恋愛くらいのもんだろうと思う。


だがおそらく僕にとっての主題とは全く異なるものなのではないかと思うのだ。


『告白』でいう下村君のように卑小でコンプレックスの塊のような人間のまま、渡辺君のような人を見下す人間として生きてきてしまった僕にとって、その主題はとてつもなく矮小で猥雑で品の無いものであって、自分の親の立場で考えるとなんて親不孝な人間なのだろう、存在している事自体が不幸なのではないかという心持ちになる。


それもきっと、嫌悪と自己愛が表裏一体となった自分中心の身勝手な性格が生じさせているのだろうけど。


ともかく、そろそろまた主題部の足音が聴こえてきたので、延々と繰り返される大ロンド形式を螺旋階段のように上昇していく事を望みつつ、今夜も就寝する事に致します。