人が機械で、人生が遊びであるならば

人生を本気で楽しむため、自分という機械のことを知り上手に使う。
本気で考え、模索し、試行錯誤を繰り返している方ために。

(「コーチングスペース Nメディア」のクライアントさんもしくはそれに準じる方向けに書いています。)


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「失敗の経験が無力感を植え付け、それが興味を失わせる」ということが、「やりたいことが見つからない」を生み出す原因だというようなことを以前書きましたが、他にも要因として考えられるものがあります。今回はそれについて書きます。

 

前回の記事で、報酬が与える影響として四点をあげました。今回はそれに続く五つ目です。そして、これがおそらくもっともネガティブな側面ではないかと思っています。それは、

 

報酬を与えられることで、もともと持っていた興味を失ってしまう。

 

というものです。ロチェスター大学のエドワード・デシがカーネギーメロンの大学院生の時(1969年)に行った研究です(最新の研究でも何でもなく、もう半世紀も前の実験です)。

 

『人を伸ばす力』pp.30-33 (文中の「内発的動機づけ」というのはデシによれば「人が生まれつき持っている、活力、自発性、純粋さ、好奇心」ということですが、単純に「やりたくてやっている」を引き起こす心の状態というふうに考えるといいと思います。)

 研究をするのに、まず、大学生が確実に内発的に動機づけられる実験課題が必要だった。ある日、私は同僚の大学院生の部屋でパーカー・ブラザーズから発売されたばかりのソマ・パズルという奇妙な形をしたブロックを偶然見つけた。説明書に「世界一のキューブ・パズル・ゲーム」と銘打たれたそのパズルは、異なる七つのブロックからなり、特定のやり方で組み立てると三インチ四方の立方体になる。さらに何千ものやり方でいろいろな形に組み立てることができた。(中略)

 

このパズルについてはWikipedia(ソーマキューブ)を見てください。

 

(写真左が犬、右が椅子です)

 

 ソマ・パズルには柔軟性があるので、実験の課題として完璧だった。同じブロックの組み合わせから多様な形を作り出すことができるし、課題の難しさも調節可能で、絶対に組み立てることが不可能な課題でも一見やさしい課題のように見せかけることができる。もちろん、実験として最も重要なソマ・パズルの特徴は、やりがいがあっておもしろいということである。実際に予備調査を行った結果、ソマ・パズルをすることはおもしろいし、好きだと学生たちは答えた。実験では紙に書かれた形を被験者に見せ、パズルを実際に使ってその形を作ってもらうことにした。

 

被験者がおもしろいと思って始めた行為が、その後、報酬を与えられることで、どのように変化していくかを追った実験です。

 

 被験者たちは二つのグループに分けられた。一つはパズルを解くと外的な報酬(一つのパズルにつき一ドル--- 一九六九年当時は一ドルでもそこそこ価値があった)を受け取る条件で、もう一つは報酬を受け取らない条件である。報酬を受け取る被験者の内発的動機づけは報酬のない被験者に比べて、いったいどうなるのだろうか、報酬目当てでパズルを解いていく最中には内発的動機づけが高まるのだろうか、変わらないのだろうか、それとも低まるのだろうか、という点が関心事であった。

 

 被験者の内発的動機づけはやや手の込んだ方法で測定した。具体的には次のようなやり方であった。まず、被験者はテーブルについて座り、三〇分ほどソマ・パズルに真剣に取り組む。それから、実験者はパズルを解く時間が終わったことを告げ、自分はデータを入力し、書き込んでもらう質問紙を印刷するために二、三分中座しなければならないという。そして実際に実験者は部屋を出ていき、ちょうど八分間中座する。(中略)

 

 この実験の最も重要な部分は、実験者が実験室にいるときではなく、いないときである。つまり、被験者が自由に過ごすことのできる、実験者を待っている八分間が重要なのである。実はその八分間のうちのどのくらいの時間、被験者がソマ・パズルを解くことに費やしたかを測定するために、彼らは密かに観察されていた。報酬をもらえるわけでもなく他のおもしろい活動をする余地があるにもかかわらず、自由時間をソマ・パズルに費やしたとしたならば、その人は明らかに内発的に動機づけられていたことになる。

 

 実験の結果、パズルを解くことに対して金銭的報酬を支払われた学生は、「楽しむことだけ」を目的として自由時間をパズルに費やすことはずっと少なかった。つまり、報酬の支払いがなければ、パズル解きという活動もなくなってしまったのである。彼らは最初、報酬なしでも喜んでパズルに取り組んでいたのに、いったん報酬が支払われると、あたかも彼らはお金のためにパズルをやっているかのようにみえた。金銭という報酬が導入されたとたんに学生たちは報酬に依存するようになったのである。これまではパズルを解くこと自体が楽しいと感じていたにもかかわらず、パズルを解くことは報酬を得るための手段にすぎないと考えるように変わってしまったのである。報酬が内発的動機づけを低下させるというこの結果は、常識を揺さぶる、しかも科学的な見地からは大変刺激的な結果であった。

 

(引用文の最後に『常識を揺さぶる、しかも科学的な見地からは大変刺激的な結果であった。』とありましたが、文中でデシの言う常識というのは1969年当時の常識のことです。しかし現在の社会においても、多くの人は、その(ほぼ半世紀前の)常識をいまだに引きずっています。)

 

実験の結果は「報酬が内発的動機づけを低下させる」というものでした。

 

このような現象を我々はどう理解すればいいのでしょうか。なぜ、内発的動機づけ(人が生まれつき持っている、活力、自発性、純粋さ、好奇心)が外的な報酬によって低下させられてしまうのでしょうか。デシによると、

 

自立性の感覚が低まると----統制されているという感覚に陥ると----内発的動機づけが低まり、他のマイナスの結果が大変生じやすくなる。

 

ということのようです。報酬や罰が引き起こすというよりは、そこにある「状況」がマイナスの結果を引き起こすという考えです。

 

そして、そういった「統制されている感覚」を生み出すものはどのようなものがあるかという研究も、デシやその他の研究者によってされています。では報酬や罰のほかにどのようなものが「統制されている感覚」を生み出すのでしょうか。

(アルフィ・コーン「報酬主義をこえて」pp.116-119)

・脅迫  あることをうまくやらないとどういう結果になるかという警告を受けると、その活動の魅力はガタッと低下する。(以下略)

 

・監視  おとなを使った研究でも子供を対象にした研究でも、仕事中に注意深くモニターされていると仕事に対する興味を失いやすいという結果が出されている。その後の研究によれば、こうした影響が出るのは、監視が制御的だと受け取られる----例えば観察の目的が我々の仕事ぶりや指示の順守ぶりをチェックすることにある(単なる好奇心などからではなく)と考えられる----場合に限られるという結果が出ている。(以下略)

 

・評価の期待  監視と密接に関連しているのが評価である。監視の目的は結局、大体の場合、ある人間の仕事ぶりを見ることにあるからである。(中略) 評価されると考えると、内発的動機づけが損なわれる。好成績に対して報酬が出ると知らされるわけでもなく、与えられた評価は結局プラスのものだったということが分かってもそうなのである。仕事ぶりも低下する。特に創造性が必要とされる仕事の場合そうである。実際、何かをどのくらいよくやっているかに注意を集中する(実際にそれをやっていく過程に集中するのに対して)ように促されると必ず、自分の意思で選べるようになったとき、その仕事を好み、し続ける可能性は低くなるのである。(以下略)

 

・締め切りの強制  ある種の仕事については報酬を約束することで遂行レベルを人為的に押し上げる(短期的に)ことができるように、締め切りの設定も時にはわれわれの足もとに火をつけ、仕事を終わらせる働きをする。いろいろな理由で、外から押しつけられた型に依存するようになり、ギリギリ最後の瞬間にならなければ仕事をはじめられなくなっている人もいる。しかし締切りというものは仕事に対する長期的な興味----そして広げて考えれば、遂行状態----にどんな影響を及ぼすものなのか。この問題についての研究で私が知っているものは二つしかない。偶然、両方とも男子大学生を対象とした研究だが、いずれも、時間のプレッシャーをかければ興味が減退するという結論を出している。

 

・命令の押し付け  親が子供に制御的な印象を与えるしゃべり方をしたり、何か決まったことをさせようとプレッシャーをかけるつもりでしゃべったりすれば、子供たちにとって自分の活動の魅力は薄れる結果になる。おとなの場合でも、まずまず面白い仕事に成績目標が設定されると、自分のペースで働くことが許される場合よりも仕事に対する興味が減退する傾向がある。

 

・他人との競争  内発的動機づけを重視する場合、仕事ぶりを検査したり評価したり、締切りを苦にさせたりする以上に悪い唯一のことは、結果如何によって賞罰を与えるようにすることである。そしてそれより悪い唯一のことは、ある人間が成功できるのはだれか他人が成功できないときに限るというふうに仕事を設定しておくことである。報酬を人為的に少なくする----成功を勝利(それは定義上、一人あるいは一チームだけが享受できるものだが)に変えてしまう----と、極端な興味の減退が見られることになる。(以下略)

 

これらを見てみるとすべて、われわれの日常生活においてよく起こっていることです。動物システムがよく働く環境という風に見ればわかりやすいかもしれません。

 

我々は、社会とは切っても切り離せない存在です。自給自足をするのではなく、専門化し交換をすることで人類は繁栄してきましたから(それが人類が選んだサバイバルの方法でした)。

 

しかし、そうやって社会に関わることによって、自らの自発的な「やりたくてやっている」活動なり「大好きなこと」を毒されることも同時に起こります。僕たちはサバイバルを越えた遊びの生き方を求めている以上、それを犠牲にするわけにはいきません。

 

「好きなこと」を仕事にして、報酬を受け取ったり、締め切りがあったり、同業者との競争にさらされたとき、好きなことのはずなのにいつの間にか義務感だけでやっている状態になり、そこに意義や喜びを見出せなる・・・みたいなことになってしまうことを我々は望んでいるわけではありませんから(実際にそうなってしまっている人は確実にいます。夢がかなったはずなのに・・・、です)。

 

ですから、我々は、この「統制される感覚」をクリアする必要があります。それは「他者からの評価」から自由になることと同じことです。環境への適応的な自動調整システムである動物システムを抱える我々は、そのシステムに統制されるのではなく、そのシステムを統制することが必要になります。

 

また、自分のやりたいことが、これまでにたくさんこの手のことで下げられ、埋められてきたことを知れば、「自分にやりたいことなんてあるのだろうか?」「見つかるのだろうか?」といったような心配はしなくていいこともわかります。

 

デシが「内発的動機づけ」と呼ぶ「人が生まれつき持っている、活力、自発性、純粋さ、好奇心」は、誰しもが持っているものです。しかし、サバイバルに過剰に適応していく(させられていく)なかで、そういったものを損なってきました。しかし、この流れは決して不可逆なものではありません。失った活力や好奇心は再び取り戻すことができます。

埋められたものは掘り起こせます。もちろん「過去に大好きだったもの」そのものが、今後の人生をずっと支えるようなものになるかは分かりませんが、それを見つけてみることで、サバイバルに適応させられた心の縛りを緩め、今までは見えなかった違うものを認識することもできます。

 

 

 

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