教授 田中誠一の実学道

内閣官房公認のブログ。Thanks for MI6, CIA, SVR、総務省


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それでは前回の続きから入っていきたいのですが、その前に、私が以前に書いたグレイナーモデルの注釈ですが、これが意外に好評な模様で、書いてよかったと思うとともに、閲覧してくださっている皆様方、本当にありがとうございます。グレイナーモデルは人それぞれに、とりわけ、経営学を専攻する人々にとっては様々な思い出や体験があるかと思います。私も正直なところグレイナーモデルにはいろいろと悩まされました。グレイナーモデルをいかに克服するかについては経営学の研究者としての登竜門ですから、皆様方もグレイナーモデルの「山と谷」の部分を理解できたら、後はご自分なりの体験などを付け加えてオリジナルのグレイナーモデルの構築をしていただけたらと思います。

 

話を戻しまして、コンプレックスのことにつてやっていきましょう。コンプレックスの件につきましては今回で最終回としようと思います。そこで、前回は私の金属コンプレックスのことを事例として布置を交えてその形成過程を見ていこうと予告しておきました。しかしながら、その前に別のブログにて夢分析を行ったときに布置の話を交えておりますので、そちらをご覧いただいてから、私の実際例をご覧いただければと思います。

 

14歳の少年の夢についての分析:

http://ameblo.jp/linqno1/entry-12244788196.html

 

ところで、私の金属コンプレックスですが、これはまず、何度も申しあえげておりますが、「冬季限定」であります。そしてこれは「痛み」に由来するものであると申し上げております。この痛みが原因となり金属コンプレックスを誘発させるわけですが、感の鋭い方はここでお分かりかと思いますが、冬季限定であるのは「静電気」が原因となり、体に蓄積された電気が金属に触れることにより放電され、あの鋭い痛みにコンプレックスを感じるわけです。しかしながら、静電気の放電だけで冬季限定の金属コンプレックスになることは考えにくく、当然、その他の理由があります。私は幼少期の頃に右手の骨を2度も骨折しております。一度目は幼稚園の年長くらいの時に右ひじを、小学校の2年の時に右手首を骨折しております。一度目の痛みなどはほとんど覚えておりません。しかも、骨折したことすら覚えてなかったのですが、私が35歳くらいの頃、それも真冬に金属製のドアのノブを利き手である右手で触った時に強烈な放電が起こりました。その時に不意に思い出したのが過去の二度の骨折の事でした。一度目の骨折の時の痛みはそれほど覚えていないのですが、二度目の骨折の時は医師の判断により手術による骨の修復ではなく、腕を引っ張ることによるいわゆる「骨接ぎ」を行うことにより骨の修復を行ったのです。その時の痛みたるや、まさに地獄でありまして、痛みの極みでありました。ところが、痛かったことは覚えているのですが、痛みそのもの、いわゆる「地獄」の部分は全く思い出すことはできません。それ以外にも小学校の4年生くらいの時に刃物で右手中指を大きく負傷し、切断に近い状態でしたが無事に完治し、人間の治癒力というものを子供ながらに驚いたのですが、その時も相当な痛みを伴ったことは鮮明に覚えておりますが、「地獄」の部分は思い出すことはできません。

 

以前に足の小指を家の柱にぶつけたときの痛みの例でお話したことがありますが、痛かったことは思いだせるのですが、痛みそのものを再現することはできません。これは何が作用しているかというと、痛みなどの辛いことはそれこそ個人的無意識に格納され、自我から「分離」させられます。しかしながら、これは分離したにすぎず、データとして残っているのが厄介なのです。このように考えますと、意識と無意識との分離というものが重要になるという論者もいるのですが、これがあるきっかけでよみがえることもあるわけです。そうです、それが冬季における静電気の放電によりその時の痛み(骨折時の痛み)が再現され、その痛みの原因が非常によく理解できるために、冬季に金属を見ると自我が拒絶反応を起こすのです。それにしても一旦は分離された痛みが再現されるのはなぜか?という方が私にとっては興味のあることで、深層心理学者の多くもこの点についての方に重点を置きます。というのも、それは何かの知らせかもしれないと考えるためです。

 

深層心理学の中でもとりわけ、ユング派においては人生というのは最初から決まっていると考えます。要するに、人間の能力には限界があると考えます。しかしながら、難しいのは、その限界の中での「無限」を知ることがユング派の考え方であり、それゆえに、冬季限定ではあるけれども、35歳にして痛みという苦痛を伴わなければならない理由があると診断します。なぜなら、意思そのものは自由であるだけに、間違った判断を犯し、自分の都合のいいように解釈するのもまた人間の性なのです。そうすると、見えてくることがあります。例えば、これは健康上の問題ですが、私は20代のころは低血圧で悩まされておりました。血圧が低すぎて生きているのが嫌になったこともありました。といいますか、低血圧の方ならご理解いただけるかと思いますが、血流が悪いと生きている心地がしないのです。それが年を重ねるにつれ、食生活が良くなってきます。外食も増え、お酒もたくさん飲めるようになり、自炊するにしてもたくさんの調味料を使うことができるようになります。そうすると、私の場合、血圧が上昇してまいりました。ちょうど35歳の時の血圧は140ありました。かなり危険な状況です。時期を同じく、その時に金属コンプレックスが発症したことを考えると、高血圧が理由で、「冬季」に心臓に異常をきたし、死ぬかもしれないよ、という警告だと感じ取り、まずは食生活を改め、お酒の量も減らし、そして運動することもし、今では健康体を取り戻しました。しかし、35歳にして血圧が140出たとき、その時に健康診断したときの医師は何と言ったかというと、「まだ若いから心が落ち着かず、血圧が不安定なだけ」と言っておりましたが、ユング派の考えでいう「共時性」という概念からしても、この時の医師の判断は間違っているのではないか?と私は診断しております。

 

このように、コンプレックスや布置の考え方を応用し、それを地域性というものを考えるための分析ツールとして考えた場合、北海道ではメタル、沖縄県ではハードロックというようなコンプレックスを誘発させる「核」が見えてくるという仮説を私は提示しております。これが最近になり注目されるようになってまいりました。これは非常にうれしいことです。しかしながら、コンプレックスや布置に関する正しい理解がなければ誤った結論が導き出されます。そのようなことがないように、コンプレックスと布置に関する正しい理解をしていただきたく、事例を変えながら何度も繰り返し説明を行ってきました。これで皆様はほとんど完璧な理解ができたものだと私は信じておりますが、以下の書物も参考にしていただき、理解をさらに深めていただきたいと思います。

 

C.G.ユング著 高尾浩幸訳 『診断学的連想研究』 人文書院

C.G.ユング著 林 道義訳 『連想実験』 みすず書房(内容は『診断学的連想研究』と重なる部分がありますが、翻訳者の立場の違いを知るには良いかと思います。)

※河合隼雄著 『こころの最終講義』 新潮文庫

 

これも先に解説書である河合隼雄博士の書物から読むのをお勧めします。とりわけ、『こころの最終講義』は河合先生が京都大学の最終講義にて「布置」を題材とし、講義したものを収めたものでありますから、深層心理学において布置の議論がいかに重要であるかということを知ることができます。

 

以上、長きにわたりコンプレックスについてお付き合いいただき、誠にありがとうございました。私のコンプレックス理論における地域創生理論が今後も世間様のお役に立つことを願いつつ、継続して研究に励んでまいります。ご高覧、ありがとうございました。

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お待たせしております。新年度より体制が変わりましてかなり忙しくなってきました。基本的に本ブログとLinQのブログに関しましては月に2報ずつ、合計で4報は入れる予定ですが、場合によってはこれを下回る月も出てくるかもしれません。ご了承のほど、よろしくお願いします。

 

ところで、これまで時間をかけてコンプレックスや布置に関することを説明してきましたが、今回で12回目ということで、進めば進むほどにわけが分からなくなってきているはずです。ユング心理学は実践を伴わなければ非常に理解に苦しむ心理学ですから、このブログを読んだ方はぜひとも実践をしていただきたいとともに、実践できる環境にある方、本ブログはいわゆる「芸能人」を対象としておりますので、それ以外の方が読んでも理論は理解できたとしても、実践することは非常に困難なことになりますから、読むなとは言いませんが、「芸能界ではこのように事が進められている」という、第三者的な目で、読み物程度にとどめておくことをお勧めします。そしてこのあたりで私が説明するコンプレックスの理論についてより深い理解をしていただくために、ぜひとも参考書として読んでおいていただきたい書物を下記にしたためておきます。

 

C.G.ユング著 小川捷之訳 『分析心理学』 みすず書房

※河合隼雄著 『コンプレックス』 岩波新書

※河合隼雄著 『ユング心理学入門』 培風館

※河合隼雄著 『無意識の構造』 中公新書

 

いきなりユングの全集などを読むのも方法の一つですが、やはり、注釈書から攻める方が時間がかかるようで、実は時間の短縮につながります。その意味で、先頭にユングの訳書を引いておりますが、実際には河合隼雄博士の『コンプレックス』から読み始めるのがよいかと思います。

 

これまでは決まったパターンのコンプレックスを見てきたわけですが、それまでの例でお分かりのように、いろんな感情が絡まりあった心理状況のことをコンプレックスということをご理解いただけたかと思います。また、私はそのことを伝えたかったわけです。しかもそれは非常に個人的なことであり、個人的な体験や歴史の中で蓄積された「いろんなこと」が個人的無意識という層に格納され、それがコンプレックスを形成します。ですから、コンプレックスは悪いことばかりではなく、良いこともあり、それらすべてを含めるがゆえに「コンプレックス」なのです。さらに、このコンプレックスは神話類型、いわゆる「元型」と結びつき、さらに複雑な「コンプレックス」を形成する場合もあり、このことがコンプレックスがコンプレックスと呼ばれる所以であると思うと同時に、自我まで含めてコンプレックスという場合もありまして、ではコンプレックスとは何か?という答えに関して、ユング心理学を学んだ人と同じ数だけの回答があるとしか言いようがなく、その意味でも文献による知識の習得とその後の実践が必要となるわけです。私は芸能界のための戦略論を展開することがその意図ですから心全体を本来ならば「自己」とするべきところを、「コンプレックス」と表現すこともありますが、これは芸術というものがいかに複雑な心理状況を必要とするのかを表現するためにこのようにしている場合もありまして、その意味でもやはりぜひとも実践を伴った学習というものをお願いしたいです。

 

ここで話を戻しまして、布置という視座からのコンプレックスですが、そもそもコンプレックスとは何か?という基本的なことを思い返していただきたいのです。本ブログの「ツボを知る」の最初の方だったと思いますが、コンプレックスの根本的な問題について触れております。そこまでさかのぼるのが面倒だという方のために一言でコンプレックスを表現しますと、「理由なくイライラする原因」のことをコンプレックスとしたはずです。男性ならマザーコンプレックスを思春期に経験しているはずです。思春期の男子が母親を見て「イラッ!」とこなかったら、えらいことになります。思春期の女性も同じことです。これがコンプレックスです。このように説明すると前回までに実際の事例として取り上げていた、私自身の「冬季限定の金属コンプレックス」というものが理解できるかと思います。要するに、冬場に「金属」という言葉を聴くだけでも体が拒否反応を起こすのです。こうなるともはや「イラッ!」ではなく、「恐怖」となるのですが、ではそのコンプレックスがなぜコンプレックスを形成するのかを見ていくのに「布置」を使ってみていくのです。ですから、金属というのはあくまでも「核」の部分であり、原発巣といわれるやつでして、この原発巣を構成する要因を紐解くとコンプレックスは解消されます。ですから、私は冬場でも金属弦のエレキギターを触ることができます。しかし、これはかなり意識しながら触っておりますので、感覚的にはものすごく変な感じです。大きなイベント会場において、ギターアンプとギターとをケーブルで直でつなぎますと、どうしても多少の感電を避けることはできず、もともと金属コンプレックスである私のその時の心の折れようは相当なものですが、電気的な痛みを感じながらのプレーが超越機能を引き起こし、それが自我肥大となり痛みの感覚を忘れる作用が働いたところで、観客が転移の作用を起こすという流れを作ってやろうという思いのみがコンプレックスの解消へとつながっております。これは私のコンプレックスの解消法でありますから、他の人にはまた別の方法があり、これを考えていくのが深層心理学の醍醐味であります。

 

では、私のコンプレックスの形成の概要を見ていきたいのですが、これはまず金属が核となっているからといって、金属が直接関係してくることではありません。何度もいっておりますように、コンプレックスは様々なことが絡み合っている状況ですから、金属というものはコンプレックスを引き起こすきっかけでしかありません。換言すれば、コンプレックスの核はコンプレックスを引き起こすきっかけであると定義できます。では、金属とコンプレックスつなぐものは何か?ということになるのですが、ここに「痛み」という大きなキーワードが入ってきます。もう少し深く説明しますと、私の個人的無意識の層には「痛み」という大きなキーワードがあります。そこに外的な要因である「金属」というものが加わります。そうすると発作が起こるわけです。その発作とは、すなわち金属コンプレックスであり、金属を見るだけで気分が悪くなるという現象です。それも冬季に限られるという不思議な現象であります。

 

私が今月にライブを行います沖縄県ですが、この地域はハードロックを核と考えると理解しやすいかと思われます。これが北海道になるとメタルが核となるかと思われます。これはこれらの地域の布置とコンプレックスとなっておりまして、ゆえに、例えば北海道ではメタルの対極になる「アコースティック」な曲も同時に人気が出るわけです。また、ゴシック様式のものが受け入れられやすいことも意味します。そしてこれが北海道の地域性となり個性化となり、経営学的には「差別化」や「強み」といえるでありましょう。

 

次回に私の痛みの歴史をたどり、布置の議論におけるコンプレックスの形成過程を見ていこうと思います。ご高覧、ありがとうございました。

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前回は布置に関する議論の前置きをお話しして、今回に引き継いでおります。この布置ですが、英語では「コンステレーション」と呼ばれておりまして、意味は星座です。星の一つ一つを線で結んでいくと一つの絵が浮かび上がるわけですが、それを人間の心に適応させた考え方です。これをユングという心理学者が言い出したのですが、この考え方は体得すると非常に便利な考えであります。ただし、一般的に「布置」という言葉からそう簡単にいろんなことが連想されることはないでしょうし、むしろ思考の停止につながると思います。しかしよく考えてみてください。何か事を起こそうとして前進しようとしているときになぜか前に進めないことがあるかと思いますが、それはいわゆる進行という現象の逆の「退行」という現象でありまして、まさに創造的過程に入ったことを意味します。しかし、その先があまりにも辛いので自我は動きを止めてしまうのです。ここでの例でいうと、布置という文字を見ただけで難しそうなので、知りたいけれども頭が動かないという状況です。これを動かすにはどうするか?教科書通りに考えると「耐える」しかないのですが、まあ、ここはひとつ事例をもとに、その事例に食いついてもらうという方法にて布置をお伝えしようとするものです。

 

布置はかつて日本におけるユング心理学において河合隼雄というものすごく偉い先生がおられたのですが、その河合先生が京都大学での最終講義の題材としたのがこの「布置」であります。そのくらいに大切な概念だと思うのですが、何分、わかりにくいと思います。そこで私はかつてどこかのブログで「プロファイリング」と翻訳したことがありますが、これは似て非なるものでありますが、イメージとして、プロファイリングを参考としていただければ入口に近づくと思います。というのも、なぜ布置が重要なのかというと、患者の見えない心の部分を見ていくのに、主に夢分析と共に使用するからです。夢の断片を聞き手が把握し、神話や昔話、さらには易経や中国哲学などを用いながら断片を「線で結ぶ」作業をし、それを患者の心に戻していくという一連の作業があるのですが、この一連の作業を河合先生は「物語化」と晩年に論じておられましたが、この物語化こそ「布置(コンステレーション)」といわれるものであります。

 

前述の議論からお分かりかと思いますが、この布置の議論は非常に無意識の深い層、いわゆる「集合的無意識」から意識の層を含め、自我との関連までにまで結びつけて考えるものですが、これのもう一段前の段階である「個人的無意識」を考えるときにもかなりの効力を発揮します。というのも、個人的無意識というのは非常に個人的な思いが詰め込まれた無意識の層でありますから、個人のとったこれまでの行動の履歴が非常に複雑に絡み合っており、それをどのように解釈するかについての客観的な指標として何を素材とするかとなった時にこの布置を使うのです。ここですこし主観と客観のお話をしておきますと、主観と客観そのものの意味についてはあまりにも基本的なことですからここで説明しませんが、ユング派では主観的であればあるほど「普遍性」がでてくると考えます。換言しますと、主観的であればあるほど、客観性が増すと考えます。というのも、ユング派での主観というのはすなわち「集合的無意識」の層から出てくる「元型イメージ」を指し、元型であるがゆえに普遍性があり、何よりも客観性に優れたものとなると解釈します。ですから、個人的に経験したことこそ、客観的であると考えまして、ゆえに、それがある個人の体験や経験に基づいている限り、そのことは「客観的」と判断します。例えば、私がこれまで研究してきた心理学や経営学の理論というのは実のところ一般的な表現では主観的でありまして、非常に個人的なものであります。ですから、私のこの研究者という肩書に惑わされて私の言っていることが客観的だと思い、そのまま鵜呑みにすると大変な間違いを犯すことにるわけです。ここに「パクリ」の落とし穴があるともいえまして、マネをするだけでは必ず行き詰まる、その原理がここにあります。

 

これで個人的無意識について概要的にお分かりいただけたかと思いますが、この個人的無意識というのもまた、集合的無意識と同じほどに面白いものでありまして、これはあくまでも個人的な経験や体験から「のみ」現れる無意識であるため、その人独特の症状を見るときに、当然のごとくその人の過去の経歴についてを空想するところから始まります。例えば、前回に私の「冬季限定の金属製品コンプレックス」などは、これは非常に私の個人的なものでありまして、全世界を探しても私と同じ体験をしない限りにおいてこのようにはならないと考えられます。似たようなものはあったとしても私と全く同じ体験を同じ年数をかけて体験することはほぼ不可能でありますから、その意味で非常に個人的であり、かつユング派の考え方でいえば、客観的であります。なぜ客観的であるかといえば、それは行動の基準は客観的に行っており、意思決定の段階では心の程度は非常に分化しているからです。一般的な解釈では私の行動は主観的であり、それ故につまづくのだとされるのですが、客観的であるがゆえにコンプレックスを形成すると考えるのがユング派の思考パターンです。そして私の体験や経験はそう簡単に納得できる人はなく、ようするに、詳しい説明が必要となるわけで、そこに主観的な要素を入れない限り永遠に理解不能となりますから、主体と客体とを接ぐもの、「布置」をここで導入し、物語化しようとするものであります。

 

ここで明らかとなりましたように、布置というのは行動の主体の内面と外界とをまずは結び、その後に主体と客体とをつなぐという二重の構造によってはじめて成り立つ考え方であります。ここにおいてはじめて「ツボ」という理解のありかたが布置の議論の難解さを和らげてくれるのではないかと思うのですが、人間の過去の経歴や、ましてや心のあり方というのは非常に複雑である反面、ある一点の「核」となる要素を持っており、したがって、この布置も中心に核を持ち合わせており、その中心を突くとコンプレックスの解消となったり、また、布置を構成する要素をパズルのように組み合わせていくとその核が判明し、それを製品開発やマーケティングなどに活用するなど、様々な利点を開発することができます。しかしながら、この布置の議論からすると無意識の主体と客体とのキャッチボールがそのまま創造的過程となるかについては疑問があり、布置の議論からすると主体の主観を大切にし、客体が主体の主観のありのままを見ていくことからくる創造的過程という心理学的プロセスからくる、経営学への疑問であり、この点に関してまた別のブログ(私が個人的に運営している内閣官房のブログ)にて書いておりますから、合わせてご覧ください。

 

次回より、具体事例をもとにして解説を展開していこうと思います。ご高覧、ありがとうございました。

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長らくのお付き合いありがとうございます。前回にて既によく議論されているコンプレックスについての話を終えました。元々は布置の議論をするために始めましたこの「ツボを知る」シリーズですが、いろいろと活動をするうちに結論が先に出てしまいまして、それゆえにプロセスを逆に時間をかけて行えるようになったと、積極的な解釈をさせてもらいました結果、このシリーズも10回を迎えることになりました。ひょっとすると無駄な作業かもしれないと思いつつも、現代に生きる人々にこそこのコンプレックスの問題は非常に大きな問題となってきているように思いますし、また、現実的な問題として、このコンプレックスが身体的な影響にまで及ぼし、ノイローゼになっている人が増加傾向にあることを踏まえると、ますますこの「個人的」な症状を、それもその症状を患っている人こそ知らなければならないと思うのですが、その予備軍的な人々はノイローゼを発症する前にぜひとも心が及ぼす身体的な影響について知り、健康な生活を送れるように予防の対策を講じていただきたいものであります。

 

コンプレックスというのはいわゆる個人的な体験からくる蓄積される記憶や体験が時系列的に何層もの、それも縦横無尽に絡み合っている状況のことをいいますが、これまでお話してきました、例えばカイン・コンプレックスなどはいろいろあるコンプレックスの中でも多く見るけられる症状としてのコンプレックスであり、例えば、マザー・コンプレックスについてもそうですが、一般的によく議論されるコンプレックス以外のものはコンプレックスではないというわけではなく、個人的な無意識の層にて蓄積、ないしは抑圧された体験や記憶のことを全て「コンプレックス」と呼ぶようになっております。といいますか、ユングがそのように定義しておりますので、ユング派においてはそう考えるのです。もう少し詳しくお話ししますと、人間生きていますと人生山あり谷ありです。そのすべてを含めて人生であり、その人の個人的な履歴となります。そしてそれは嫌でも心に蓄積されるものでありまして、その蓄積されていく心の場所が「個人的無意識」といわれる無意識の層であります。ですから、私などは41年生きておりましてその山も谷も全て個人的無意識に詰め込まれているわけです。思い返してみると面白いもので、本当に山もあり谷もあります。ところが、あまりにも辛かったことはこの個人的無意識に格納されて自我が認識できないことがあります。例えば、皆様方でも3歳くらいの時の出来事をいくつか思い出すことができるかと思います。しかし、1か月前の職場で起きた嫌なことは思い出せない人がいます。また、思春期の数年間の辛い時期をはっきりと言葉に表現でき、その時の苦しみをそのまま体験できる人はどのくらいいるでしょうか。もう少し卑近な例をいきますと、足の小指を柱に打ち付けたときの痛みを思い出せる事はできるでしょうか?これを日常的に思い出し、体験できる人は多くないと思います。なぜなら、そのような辛い思いは人間は忘れるようにできております。しかし、足の小指を打ち付けたときの痛みをそのまま心の中で体験できる人が少なからずいます。それがいわゆる「俳優」と呼ばれている人たちでありまして、あの方々は個人的無意識を意識の層にまで高め、それを自我と格闘させ同一視、ないし、自我肥大を起こさせることにより表現力を高めるわけです。

 

俳優はなぜカメラを前にしてすぐに泣けるのか、不思議に思う人も多いかと思います。これは実際の撮影に立ち会うとよくわかるのですが、涙を流すシーンを撮影するときのほとんどは、俳優の目の前にあるのはカメラでありまして、人間ではないことが常です。ですから、カメラを見つめながら「泣く」ことを要求されます。しかし、彼らは泣くことができるのです。不思議ではありますが、どのようにして感情を高めるのか聞いてみると、やはり嫌なことを思い出すことが一番重要なことだと、どの俳優も主張します。しかし、先ほども申しましたように、嫌なことは記憶から遠ざけられ、思い出すというのはほぼ不可能です。それを思い出すことができるというのは、やはり、個々の層には意識と無意識とが存在し、そして、あくまでも個人的な問題を取り扱う無意識の層である、「個人的無意識」が存在するといわざるをえません。ところで、カメラの前での具体的な泣き方ですが、これは先ほどから例にしております「足の小指を柱に打ち付けたとき」を思い出しますと、当然にそれだけでも心だけは痛いのですが、具体的に足の小指は痛くありません。これでは泣けないので、これをどうするかですが、先ほどの死ぬほどの痛みを思い出しつつ、体のどこかに少し痛みを与えてやるといとも簡単に足の小指を打ち付けたときの痛みに達することができ、涙が出てきます。その多少の痛みを与える方法は人により違いますが、例えば、手の甲をつねりながら思い出すなどもあるかと思います。ただし、これは個人的無意識が自我との対話がなされる必要がありますから、そのための訓練が必要となりますが、これから俳優を目指す方、ないしは既に俳優でありながら、急に泣くことができない方は参考にしていただけたらと思います。

 

これは俳優という、非常に意識的に無意識を操るプロの仕事の話でありますが、一般の人でもいとも簡単に泣いてしまうことが時にはあるかと思います。例えば、家の柱を見るとそれだけで恐怖心がでるとか、冬場になると、金属製品を見ただけで寒気がし、気分が悪くなる人などがいるかとお思います。例えば、上述の冬場の金属製品コンプレックスですが、実はこれは私のコンプレックスでありまして、冬場の金属製品はとんでもなく触れるのが嫌です。エレキギターなどは弦が既に金属ですから、普通の人ではありえないほどに触れるのが嫌になることが常です。あくまでもこれは「冬限定」のことで、それ以外の季節ではなんともないのですが、とにかく、12月から2月までの間で金属製品を触れるのはものすごく嫌なのです。なぜこうなるのでしょうか。ここに布置の議論が成り立ってくるのですが、この続きは次回にしようと思います。

 

ご高覧、ありがとうございました。


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前回はカイン・コンプレックスについてお話をしました。これは兄弟間の敵対心を意味するコンプレックスでありますが、問題はそれでだけでとどまることはなく、納豆コンプレックスやアニマの問題という、複数の心的問題が絡み合って病を引き起こしておりました。心の問題というのは何か一つだけのことが原因で問題となることはなく、複数のことが同時に絡み合うことにより起こるというのが一般的な理解であります。もう少し深く探りますと、ユングによれば心は3層構造となっております。ゆえに、「心全体」を意味するときに「コンプレックス」と言う場合がありました。とりわけ、ユングの中期以降、心理学的類型が発表された後にペルソナの議論がなされる頃になると心全体をコンプレックスとよんだりしております。なぜこのような曖昧ないい方になるかというと、時代により彼の考えは変わり、発表の内容も変化するからです。しかしながら、心理的問題としてのコンプレックスと心全体としてのコンプレックスが同一視されていることからしても、心というものは相当複雑であるとという共通認識を持つことを必要とすると考えております。

 

ところで、このような複雑な心を持つ人間ですが、心が複雑であるだけに生活の基盤となる「社会」という空間についてはせめて人々が生きていきやすいものを目指していきたいわけですけども、実際はそうはいかず、様々な問題を抱えるわけです。心自体が複雑で、考える主体の心が複雑であるがゆえに社会も複雑になるのは当然であると考える方法もありますが、そのことにより心身に支障をきたすのであれば、そのような社会はやはり見直すべき点があるのではないかと考えるのが私の立場でありまして、そこで今回はディアナ・コンプレックスというものをとりあげ、社会というものを考えるその視点に限り、お話をしてみようと思います。

 

ディアナ(英語読みではダイアナ)・コンプレックスというのは女性が男性的な立場を主張したい、ないし獲得したいとするコンプレックスであります。これもコンプレックスでありますから本人は気づかないのですが、周りにいる人は相当このコンプレックスを感じるのでありまして、また、感じている本人も実はそれを欲求している部分もあり、これからして心がいかに複雑であるかということがお分かりいただけるかと思います。

 

このディアナ・コンプレックスの特徴は何といっても女性が男性的な立場を獲得しようとする、ないし、獲得後に男性のように振る舞うコンプレックスであり、その行動はまさに女性でありながら「男性」そのものであります。職場という現場において例えますと、これはホワイトカラーやブルーカラーを問わずそのような女性はいらっしゃいます。ホワイトカラーの職場におきましては、とにかく多くの仕事を抱え込み、その割にはその抱え込んだ仕事を全て見事に処理する女性です。残業もいとわなく、トータルの仕事の量としては男性よりもはるかに多い割に、それを楽しんでいるかの如く行動する女性です。ブルーカラーでの現場におきましては、通常は男性が行うような仕事、例えば1トンを超えるプレス機の責任者となるとか、建設現場で断熱壁をいとも簡単に運び、またそれに生きがいを感じているなどです。すべての人に共通する具体例としては海外のテレビドラマや映画の「チャーリーズ・エンジェル」や「ニキータ」などを例にすると理解しやすいかもしれません。彼女たちの任務は古い考え方では男性が行う仕事でありますが、それを女性が行うわけです。それも男性よりも力が強く、そしてその任務に対して誇りを持っておりまして、ディアナ・コンプレックスというものを見事に描き出している作品であると感じております。このように、物語としてこのコンプレックスを見る場合、とても創造的な面があることも理解でき、その意味では悪いことばかりではないことを付け加えておきます。

 

女性の社会進出というものが議論され始めてかなりの年月が経っております。それは非常にいいことだと思います。心というものを通じて人間を見る場合、男性も女性も関係ないことに気づくわけですが、しかしながら、肉体的には非常に違うことが医学的に証明されており、女性の社会進出に関してその平等性というものの基準をどこに設けるかについてはさらなる議論が必要となると考えております。というのも、ディアナ・コンプレックスというコンプレックスが存在することからお分かりのように、基準を間違うと問題が起こるわけです。現代における男女平等社会というのは、その基準が男性側に設定される傾向が強く、それ故に女性が男性と同一の関係になろうと努力することに、このディアナ・コンプレックスの問題があるわけです。かといって、では男性が女性の基準に合わせればいいのかというと、そうなると今度はアニマの世界に突っ込むことになり、極度の男性の女性化が進行し、これまたバランスが悪くなります。また、コンプレックスで問題がとどまる間はまだ解決への方法も早期に見つけ出すこともできるかもしれませんが、ディアナ・コンプレックスがさらに進行してアニムスに結びつき、自我と結合を果たすとき、その女性は肉体的にも男性となってしまおうと努力するようになります。

 

このように書くと性同一障害は唯一、社会環境により起こりうるというように思われるかもしれませんが、私が言いたいのは、性同一障害に関しては先天的なものもあり、また、社会環境的な問題で後天的なことが原因で起こりうることもあるでしょうが、そのような病名に関する議論でなく、ある人間の人格を変えてしまうまでの社会環境をどうにかしない限り、心の病を持つ人が増加の一途をたどるということを言いたいのです。ディアナ・コンプレックスも考えようで、そのようなコンプレックスも創造的過程の一歩であるから発症したときに考えればいいというのではなく、発症する前に予防することを考えないと、個性化にまでは非常に時間を要し、さらに、すべての人が個性化に成功するわけではありません。ですから、真剣にこの問題を考えなくてはいけないと思うのです。

 

では逆にディアナ・コンプレックスを抑圧する女性がいたならどうしましょう。心理学的にこのような女性は女性的な一面しかありませんから、男性からはかなりの好待遇を受けます。要は男性のアニマ像を確立させやすいわけです。ところが、女性的な一面しかないがゆえに同性の女性からは相手にされにくくなります。というのも、何度も繰り返しておりますが、人間の心には男女両面の心のありようがあって初めて「心」であります。ですから、とりわけ、同性同士での付き合いとなると、女性なら男性的な面、男性なら女性的な面がなければ成立しないという基本的な心のあり様が存在します。ゆえにディアナ・コンプレックスを過度に抑圧している女性は女性から嫌われる傾向にあります。

 

今まで議論してきたように、コンプレックスというものは実に個人的な話でありつつも、女性が男性の方向へ向かうという点においては集合的無意識というものを意識せざるをえません。現代に生きる私たちは既に集合的無意識の存在を知っているがゆえに、前述の例などに触れると集合的無意識を自然と意識できるのですが、集合的無意識の存在がまだ概念として確立していない頃、ユングはこのコンプレックスの問題に取り組んでいるときにある特定の個人特有の問題を越えて、人類共通の型があると考えました。それが集合的無意識における「元型」であります。最近では元型だけを取り出してユングとは違う意味での「元型論」が発生したり、「元型論者」などと言ったりする場合があります。しかし私はそのような考え方には賛成できず、やはり元型は「自己」と共に考えるべきであると思っております。見えないものを見ようとする努力には感服いたしますが、見合ないものを見えないままそっとしておくのもユング派心理学の奥義であると思います。

 

ご高覧、ありがとうございました。

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