教授 田中誠一の実学道

内閣官房公認のブログ。


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前回は個人的無意識が個性化に及ぼす影響を見ていくことが重要であるとの見解を示しました。これには異論が多く集まるかと思います。意識、個人的無意識、集合的無意識のうち、どれが一番重要なのかなど、ユング心理学においてはナンセンスであり、全てのバランスが重要であると考えるのが一般的です。しかしながら、個性、いわゆる集団の中でなじみながらも光る何かが見える人という、このような表現しがたい自己実現した人を分析していくときの尺度として、その人の過去を知ることは非常に重要であり、ここを手掛かりに探っていくのが存外に近道だったりしますから、その意味で個人的無意識の影響を見ていくのが良しとしました。そこで、個人的無意識とは何かを軽く復習したのちに、個人的無意識が他の意識とミックスされたときにどのようになるのかを考えてみようと思います。

 

個人的無意識は個人が経験し体験したことを通じて蓄積された意識であります。ですから、私は42年に渡り生きていますが、42年分の全ての行動が無意識として蓄積されております。ではなぜ無意識なのかというと、42年分の全ての行動を全て記憶し、鮮明に記憶として蘇ることがあれば、人間は生きていけないからです。例えば、大学受験の辛さを死ぬまで鮮明に覚えていては、試験=辛いになってしまい、試験恐怖症となってしまいます。また、足の小指を柱で打ち付けた時の痛みが永久に続けばそれだけでも生きるのが辛くなってしまいます。ですから、意識化せずして意識として残るようになっておりまして、このような現象を一般的には「忘れる」といっております。この忘れるという行動があるからこそ人間は生きてゆけます。

 

個人的無意識は何も嫌なことだけを蓄積していく場所ではなく、良いことやうれしいことも蓄積します。これも考えてみてください。常にうれしいことだけが心の底から湧いて出てくるような生活は一見すると幸せそうに見えますが、例えば、満腹感が永久に続いた場合、食欲が減退し、体力が弱りますし、うれしい状態が続きすぎて笑いっぱなしになると、逆に苦しくなってしまいます。このように、個人的無意識にはいいことも悪いことも全て組み込ますが、それらが簡単に意識化できないようになっており、そのことが逆に心のバランスをとるようになっております。個人的無意識というのは簡単に説明しますとこのようになります。

 

前述のように、個人的無意識は個人の経験や体験から醸成される無意識であり、しかも過去の出来事の集合体ですから、主体の個性を導いていくことに関して大きく影響を及ぼします。個人的無意識がなければ、太古の意識と今現在の最新の情報しか持ち合わせることしかできず、判断ができなくなってしまいます。なにより、自分の考えを作り出すことができず、個性とは程遠い存在となってしまいます。では、個人的無意識はそれほど優れたものかといえば、弱点もありまして、歴史があるがゆえに閉鎖的になる場合などがこれにあたります。生きているうちにいろいろな知識や経験を積むことは大変すばらしいでことですが、自我が何か新しいことを見つけようとしたとき、個人的無意識はこれまでの経験則に従い、ストップをかける場合があります。こうなると行動を起こしたい自我と行動を止めたい個人的無意識が同時に作用し、ここで「退行」という現象が起こります。退行とは行動がストップしてしまう現象のことですが、こうなるというまでもなく大変なことになってしまいます。これとは逆の現象もあります。自我は現状ではストップを指令していても、個人的無意識は「Go」サインを出している場合です。この時も退行が起こります。しかもこの場合は無意識は先に進もうとしておりますので、ものすごく精神的に不安的になるのは言うまでもありません。以上は個人的無意識が自我を呑み込もうとした例ですが、今度は、集合的無意識が個人的無意識を呑み込み、その無意識が自我をさらに呑み込もうとした場合はどうなるかを考えてみましょう。

 

元型というのは太古の心のありかたであり、未分化な心の状態のことを指します。例えば、ディアナ・コンプレックスをもった女性がアニムスと結合し、それが自我によって自覚されたとき、あまりにも強い男性性が表出化することになります。このような状況にまでその女性をさせてしまう社会にも問題があるのですが、それが自覚できないことや、周囲もそれに対する理解や知識の不足により当人は非常に苦しめられることになり、そして最後は事件を起こしてしまうようなこともあります。逆に、ディアナ・コンプレックスがなさすぎる女性は自立心が足りないために同性から相手にされないことが多く、よって個性、ここではその主体の「特徴」を見つけ出すことが困難であり、それゆえに現代社会では生きていきにくい個性を発揮することになります。

 

このように、集合的無意識は人間であればだれにでも備わっているものであるがゆえに変えることはできません。自我は過去から現在を含め、どのようにコントロールするかが主な機能ですから、そうなると主体の個性を大きく特徴づけるのはやはり個人的無意識ということになるのではないでしょうか。こうなってきますと、このシリーズのタイトルである魅力や差別化などは、やはり個人的無意識、要するに経験や体験を多く積み、そこから集合的無意識を組み合わせ、自我がそれをうまく統合することにより実現していくのではないでしょうか。大切なことはやはり自分らしくあることだと思います。なぜなら、生きてきた履歴を積み上げることはできますが、変更することは理論上不可能ですから、この部分を活かしながら個性化を目指すというのが妥当であると考えております。

 

このように考えますと、最近になってよく経営学において話題となるオープンイノベーションについても答えが見えてくるような気がします。オープンイノベーションは第三者がイノベーションにかかわる概念ですが、個性化という視座からするとオープンイノベーションは製品開発のプロセスを大幅に狂わせる危険性があり、破滅に向かわせる危険性が高くなるのではないかと思います。また、多くの知恵が集まった結果、開発者の意図が全く消え去ってしまい、換言すれば、個人的無意識の層が故意に操作され、それ故に、「故意に操作された無意識」という認識の下で自我が活動しだすと、大変な状況となるのは簡単に想像できます。みんながそういうから仕方なく・・・となると、その瞬間に個性は逃げて行ってしまいます。逆に、この危険性をあらかじめ理解しながらであれば、たくさんの知恵が詰まったという「個性」を発揮でき、素晴らしい製品が生れるかもしれません。

 

次回は個人的無意識という視座における魅力、個性化、差別化について議論を行おうと思います。ご高覧、ありがとうございました。

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前回は個人的無意識の重要性について論じました。しかしながら、前回、そして前々回にも既に申し上げておりますが、この部分だけを重視しても意味はなく、意識と無意識の全体の中庸が保たれることにより、その重要度が増すという議論であります。平均化されることにより各部分の重要度が増すというのは、数学的にはありえないことですが、心というのはそれほどに複雑であるとお考えいただければ幸いです。また、このような対立する考え方が基本となるのもユング心理学の特徴でありまして、これが中国哲学に似たことも多いので、ユング心理学を学ばれる方はぜひともその分野にも進出していただきたいです。できれば中国の古典を原文のまま読んでいくのが良いかと思われます。そうすると、例えば、春秋末期から戦国時代にかけての儒家と墨家との対立が中国の文化を形成するという、複雑な構造が楽しく理解できるようになり、また逆にユング心理学における「対立概念」なるものの形而上の意味を理解することができ、経験からユング心理学を理解することもできますが、中国哲学の文献からユング心理学を理解することも実のところは可能であります。しかしながら、中国哲学を理解することにそもそも時間を要しますので、経験をとるか、文献をとるか・・・いずれにせよいばらの道であることは確かです。

 

ここで本題ですが、魅力、個性化、差別化など、主体や個体の意味を限定するものは結局のところ何か?ということです。答えは簡単でありながら難解であります。対立してますね。その人の魅力や個性とは、やはりその個人や個体の経験や、またものであるならば作られた「意図」なるものが大きくかかわってくるはずです。では、魅力ある人間は経験だけを積んだ人のことか?ということです。経験させあれば必然的に差がつくのであれば、楽器をうまく演奏できる人は誰でもプロとしてご飯を食べていけるはずです。ところがそうはいかないところに人生の難しさがあります。では、楽器の演奏が下手なプロが存在するのかというと、存在します。なぜか?これも対立しておりますね。「上手い=売れる」ではなく、「下手=売れる」という公式が存在するならば、一体それはなんなのか?不思議ですね。ヒントは「対立」となりますが、ではなぜ対立が必要となるのかを考えねばなりません。

 

対立に関することは本シリーズが終わってから新たなシリーズとして論じていきますが、先んず、行動の主体の魅力はどこからくるのかについて吟味してみようと思います。まず、ある素晴らしい女優さんがいたとします。その女優さんこそ個性化されたいわゆる女優さんであるのですが、この方を女優と世間が認めるのは、顔とスタイルがよいからなのでしょうか?という問題です。顔とスタイルがよいだけで女優としてやっていけるのであるならば、これほどいい加減な職種はありません。ではなぜこの女優さんは女優として選ばれ、世間から認められたかというと、やはり、個人的な魅力である個人的無意識の発達させ、それを元型と同化さえ、その状況を自我が受け入れ、統合化されたからではないでしょうか。いわゆる個性化の過程を経て自己実現したからといえるでしょう。これが理論ですが、では、なぜこのような理論となるのかについてを今回の論点としましょう。

 

これは私自身も何度も繰り返しておりますし、また、ユング派の心理学者もしつこいくらいに繰り返して指摘しているにもかかわらず、いまだに理解されにくいことでありますが、人間には生まれ持っての過去の経験というものを持ち合わせており、これをユングは「元型」と名付けました。そして、人間は生きているうちに様々な経験や体験、さらには学習をし、たくさんのことを蓄積していきます。さらに、それらの行動を実行に移すことも同時に行っております。人間が何か行動するとき、これら3つの作用の中で行動しており、これらの判断の中で意思決定を行っているとなります。例えば、寒いから服を何枚か重ねて着てみようする行動は冬になるとほとんどの人が行う行動ですが、これは果たして経験からくる知恵のみでしょうか?というものです。経験則からすれば、寒くても肌に何らかの形で熱を加えることができれば、Tシャツ一枚でも過ごせるかと思います。そうならないのはなぜか?となると、ここに没個性というキーワードが入り、ここに「元型」の「影」をみることができます。マイナス10度の気温のなか、Tシャツ一枚で街中をうろうろしていれば目立ちます。そしてこれを個性的と表現しても良いのでしょうか?という素朴な疑問が出てきます。さて、皆様方はどのように判断しますか?やはり、この場合は没個性に「個性」を見出すほうが「個性的」であるように思えてなりません。では、個性とはなんでしょうか?難しいですね・・・しかし、この難しさが面白いのです。

 

これとは逆に、常に集団の中に適応する人がいます。お勤めの企業の中にこのような人は一人はいるはずです。常に集団の中に位置し、その人の意見は全て集団の中へ消えていきます。集団の中では重宝されますが、なぜか友達がなく、いつも独りぼっちな人を見かけませんか?このような人を一言で表現すると、「没個性な人」と言い換えることができるでしょう。あまりにも集団の中になじみすぎると、逆に窮屈になる現象ですが、これは先ほどの「没個性」とは逆をいきます。同じ没個性でも状況によってはこのように対立します。また、集団になじんでおけば組織の中で成功すると思っているとそうではなく、没個性の窮極は破滅を迎えます。これがゆえに自我が元型を同一視する「自我肥大」が起こると、大変な状況となるわけです。

 

ここで自己実現にはどうすればよいのか?となるのですが、要するにバランスの問題です。自我が意思決定の全てとなると、目の前の現実しか答えがなくなり、過去の経験や、また元型は全く無視され、客体の方向へ向かうしかなくなってしまいます。かといって、個人的無意識に従うとすれば、目の前の現実が否定され、独りよがりになってしまいます。また、集合的無意識のみに従うのであれば、それは窮極の没個性化であり、太古の生活へと逆戻りすることになります。

 

寒いという現実があり、では服を着用しようとする元型の働き、これはペルソナ(ここでは冬の日のコート)が働いているかともいますが・・・そこにどのくらいの服を重ねて着ようかという個人的な経験がミックスされることにより自己実現がなされるかと思います。このうちのどれか一つでも欠けているとその人はおかしな行動をとるようになりますし、その原理をお分かりいただけるかと思います。これを応用すると立派な作家になれるかと思います。例えば、老賢者元型をシャーマンに見立て、薬草使いのシャーマンが現代のSNSを利用して集客しているとか、現代の違法薬物を分解ではなく、集合させ、合法薬物に変えるシャーマンの話など、個人的経験がまったく飛んだ状態を想定して浮世離れした物語を作ることができるかもしれません。また、主体の中にあるアニマ・アニムスを現実世界から逃避させ、個人的無意識と対話させるなども面白いのではないでしょうか?

 

このような例からもご理解いただけると思いますが、人間が生きていくという現実世界において、意識と無意識とのバランスが崩れると一気に仮想の世界に突入します。そして、仮想の世界に入っていく人を見て「おかしい」と思うわけです。女優さんが女優さんとして一人前になるとき、それは意識と無意識とのバランスが絶妙にマッチしたからであります。ここで重要なのは、人間は生きているだけで意識と無意識の全ての作用が装備されます。しかしながら、それらの機能を使わないと大きくなれません。一人の女優さんが女優として成功するとき、それなりの経験を積み、その経験をうまく元型や自我に統合化したことに意味があります。その意味で、個性化の源泉とは何かと問われると、私は個人的無意識と答えるようにしております。基本的には自我、個人的無意識、集合的無意識の3つが統合された状態を源泉とするべきですが、何分、世知辛い世の中で、特効薬的な答えを求められる世の中となってしまいましたので、あえて答えを一つに絞るのであれば、個人的無意識が個性を決める重要なポイントではないかと読者の皆様方にお伝えしておきます。

 

次回は個人的無意識がその他の意識と無意識に作用した場合の作用について論じていきたいと思います。ご高覧、ありがとうございました。

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いよいよこのシリーズも終盤へさしかかりました。ようやくトンネルの向こうの光が見えてきたので、私の気も落ち着いてきました。このシリーズを最初から読んでくださっている方には心より御礼を申し上げます。

 

話を前回からの流れに戻しますと、前回の結論として、人生において、その人の個性化というものには個人的無意識が大きく関係する旨の文章をしたためました。このように書くと、では経験を積めば個性化へと導かれるのか?とか、経験だけを増やし、それ以外のことはなにも意識しないとか、極めつけは、できる人間の伝記を熟読すれば個性化できるようなるなどと勘違いする人を私は多く見てきているのですが、ユング派の心理学で大切なことは、意識と無意識との総合的な融合であり、そのどれか一部分だけを抜き出し、それを育てようとするようなことでは何も生まれないということをここで繰り返し述べておきます。ですから、最近はやりの農業体験なるものをいくら体験したところで、それは個人的無意識の層へ蓄積されるだけで、意識化し、さらにそれを普遍化する、要するに、無意識との融合を行わない限りにおいて、何も生まれることはありません。端的な例では、どこかの偉い人が農業について知らなければならないからといって、スーツを脱ぎ捨てて農業だけを行おうとする例です。農業は農業だけで成り立っているわけではなく、お隣さんの農家との付き合いから始まり、家族や親戚の手を借りながら地域の農家全体の知恵と経験を拝借し、最後には消費者とも直接的に接しながら営むものであり、簡単に言えば、「農業布置」なるものを理解しながら進めるものですが、それを一切無視し、ひたすら田を耕すとか、お茶の葉を刈るなどの行為に限定して活動する人がいらっしゃいますが、そのようなことでは経験の蓄積が蓄積を呼ぶだけのことであり、そこからは何も生まれないことを自覚せねばなりません。

 

では農業を個性的に自分のものにするにはどのようにすればよいかというと、まずは経験を積むことですが、農業の現状を観察し、意識化すること、ついで、農業の大変さ、まずは、非常に過酷な農作業や、あとはいくら努力しても自然災害には人間の手を加えられないなどの実体験を通じ、農業というものに心の底から「脱力感」を感じ取ることが必要かと思います。現実の現場では死にたいくらいの脱力感が発生しても、前を向けば畑があり、家族があり、お隣さんがあり、組合があるわけです。そうすると、生きていかざるをえなくなります。そうすると苦しさは倍増するわけですが、それを克服するのにどうすればよいかというと、実に個性化でありまして、ここにおいてはじめてこれまでの経験が活かされてくるわけです。都会に育った方には理解できないかと思いますが、農家の集落へ行きますと、一見するとよく似た家が立ち並んでおりますが、その家の中で生活をするご家族は非常に個性化されており、一軒一軒にそれぞれに違う主張があるにも関わらず、集落としての秩序が保たれているという、個性化の典型パターンが存在します。これが都会の集合住宅地に行きますと、家の形状はかなり異なりますが、お隣さんと同化するために皆が必死になっており、実は農家の集落の方々の方が「都会人間」の集まりなのではないかと思えるのも必然的であると思うのであります。

 

このように、意識(自我)、個人的無意識、集合的無意識の3つがバランスよく統合されたときに個性化が図られ、心が落ち着いていきます。ここで大切なのは、先ほど少しだけいいました、「布置」です。前述では「農業布置」と表現しましたが、これが工場の加工品で語るなら「工場加工品布置」となるでしょうし、営業の人が企業において伸びていこうとするときは、「営業布置」を見極めなければならないでしょう。この布置をその都度自分の立場に当てはめ、さらに瞬時にして見極められるようになれば、何処に行っても天才的な扱いを受けるようになります。要するに、「神的存在」と呼ばれる人はこの個別の布置を瞬時に読み取り、それを自分の立場に変換し、実行し、さらに発言することにより主体の個性を際立たせているわけです。このような人物は個性化を通り越して、「自己」の領域へと足を踏み入れており、この領域に入るとまさに「神」でありまして、これが前回に触れました部分を引用しておきますと、「この世の中には国を越えて素晴らしいとされ、世界中から愛される人物が存在することも事実です。」の部分です。ユング派においてはこのような人物をもって「神」と理解しております。厳密には心理学において「神」という表現は使用されませんが、通常の人間の力を超越した心を持つ人をわかりやすく比喩すると「神」ということになろうかと思い、いろいろとご批判があるかと思いますが、このように表現しております。

 

ここにきてようやく、「皆に愛されながらにして個別的」の意味を導き出すことができるようになったのですが、この非常にパラドックスな事項を実現するには、やはり相当な心の葛藤や肉体的な苦痛を味合わなければならないことも同時にお分かりになったかと思います。このような壮絶な経験をなしに学歴のみで「できる人」などと評価したり、その逆に、壮絶な経験のみをもって「できる人」と評価するは大きな過ちであることがお分かりいただけるかと思います。大切なのはバランスでありまして、よって、個性化や経営学における差別化なるものには想像を絶する「痛み」が生じます。ところが、経営学の教科書には差別化についてはいとも簡単に、それも他社製品との比較において完了すると書かれておりますが、そんなに簡単なことではなく、差別化はむしろ製品開発をする人の「個人との戦い」であり、他社製品との比較というのは市場に出回った後に顧客が判断することであります。ある製品を差別化することは「違える」ことではなく、「違っている」ことであり、ここを理解できていないと大きな間違いを犯してしまいます。このように考えると、自ずと販売目標の具体的な数値が出てくると思います。真に個性的な製品であれば、その布置に属する人のほとんどは購入するわけですら、あとは自社の規模にそった分相応な生産体制を整えればいいですし、布置の規模が小さく、自社の成長に見合わないと判断すれば、計画を中止すればいいだけの話であります。

 

個人的無意識の話から経営学の話へ発展いたしましたが、私が主張したかったのは、「中身がある」とはどのような状況のことなのかを伝えたいだけのことでした。「中身」というだけあり、心の構造から申し上げてもそれは「個人的無意識」のことでありまして、ここがしっかりとしたものでなければ中身のある人間や製品は生まれてこないという話でした。集合的無意識はア・プリオリなものであり、遺伝ではありません。そして、自我は今現在そのものです。太古の心と今現在とが結びつこうとするとき、やはり、その中間体の時間軸がどうしても必要となるかと思います。ですから、子供を教育するうえでもこの点に気を付けて指導していくことが今後の我が国の重要課題であるかと考えております。

 

次回は個人的無意識の蓄積のさせ方や布置と個性化との関わりを述べていきます。これらの解説を最後とし、その後に全体的なまとめを行い、このシリーズを終えようと思います。

 

ご高覧、ありがとうございました。

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前回は退行の件につきまして詳しく解説をいたしました。退行とはようするに、リビドーの働きが混沌とする状況のことで、わかりやすく表現しますと、真っ暗の道を進まなければいけない状況そのものといえるでしょう。真っ暗の道を進むのは非常に困難であります。しかも、道の両サイドに深い溝がある場合など、とんでもなく不安な状況となります。しかし、進まなければならない状況となれば、人間は進まないことを選び、例え進んだとしてもほふく前進しながらゆっくり進むしかなく、日が昇ることが保障されない場合であるならば、ほふく前進すらあきらめてしまうのが普通であります。このような状況から抜け出すにはどうすればよいのかということですが、ここで意識と無意識との「統合」という作用を狙うことになります。

 

このシリーズのタイトルになっている「魅力」についてですが、これについては既に何度も指摘しており、私の論文をよく読みこんでいる方はご理解いただいているかと思いますが、これは具体的には「元型」を意味します。人間はこの相手の元型を感じ取ることにより相手に感情移入、要するに、転移を起こすことにより様々な行動を起こすようになっております。転移が起こらない場合、もちろん何も起こりません。一般人であるならばこの状況が安全で、しかも安心できる状況であるかもしれませんが、芸能人がファンからの転移を受けない場合、それは芸能人としての死を意味するものとなり、生活と危険性とが表裏一体となるところに芸能人の特殊性を指摘することができます。ゆえに、見えない元型を探すために芸能人は集合的無意識を求めて大きな旅に出ることになるのですが、元型だけを求めても意味はなく、自我との統合が必要となってくることに気づいていくことになるでしょう。このことに気づかない場合、これは統合失調症やそのほかの病気にある危険性がかなり高くなります。

 

では、具体的にどのようにすればよいのかという話ですが、これは各個人の状態によって異なりますので、標準化された理論を述べることはできません。一つ言えることは、自我を元型と接触させつつ、意識をはっきりと持つことが成功へのカギとなるでしょう。男性がアニマを活用させようとするとき、手っ取り早いのは「女装」することですが、そこまでいってしまうとアニマを感じるというよりは、アニマそのもに接触していることになり、自我が完全にアニマに食われている状況と言わざるをえません。そこで、考え方を変え、「おしゃれ」という方向へ目を向けるとどうでしょうか。男性性を存分に表現できる服を身に着けるとか、服でなくともミュージシャンであるならばおしゃれな楽器を持ち、目を引くとか、いろいろやり様があるかと思います。しかし、いずれにせよファッションセンスを磨くことはアニマに接近することになり、男性の女性化を意味します。しかしながら、この現象が男性を男性としてのアイデンティティを確立するという現象となり、ここにペルソナの重要性を指摘することを可能とさせます。逆に、自分の気と合わない人と接触したくない場合、アニマを隠し、人の寄ってこないペルソナを駆使すれば、苦手な人をいとも簡単に排除することが可能となります。

 

こうすることにより、主体は個性化されてきます。個性化されるということは、主体が主体であることになり、主体は感情移入した客体とは切り離された、独自の個体となるわけです。これを国で表現すると、「日本は日本であり、アメリカではない」となります。主体がアメリカであると、この逆となります。この現象を経営学の用語で置き換えますと、「差別化」となり、Aという商品とBという商品との違いを分ける手段となります。ここで一つ重要な発見があるかと思います。日本はアメリカになることはできないという基本原則がこの地球上には存在するという事実であります。アメリカからするとこの逆です。したがって、ある特定の人物や国が全世界を支配することは不可能であり、ここに「違い」や「好み」、いわゆるコンプレックスを見出すことができるのです。

 

ところで、この世の中には国を越えて素晴らしいとされ、世界中から愛される人物が存在することも事実です。そのよう人物は一体、普通の人とは何が違うのかと不思議に思う人も多いかと思います。実のところ私もその疑問を持っておりまして、自分は自分であり、他人ではないとする個性化論からすると非常に謎の部分となります。ところが、そのような人物に限って個性的であり、その人にしか出せない独特の雰囲気がありまして、それを客体が感じ取り、そのような人物を「素晴らしい!!」と評価するに至るのです。これが不思議ですね。では個性化とは一体何なのかという根本的な問いに立ち返るようになりますが、じつのところ、このループする現象に深層心理学の難しさがあり、議論が永遠に続こうとするこの現象は、ユングという天才が我々に投げかけた課題であると思っております。

 

集合的無意識が自我と統合するとき、その間にある個人的無意識を両者が接触することになります。ここで自我と元型は主体の過去の履歴に触れ、心全体が立体的になります。ようは、主体をより主体らしくさせるのがこの「個人的無意識」であるといえます。ですから、個性化にはこの「個人的無意識」が欠かせないわけで、ゆえに「個性化」であるといっても過言ではありません。大きなパラドックスでありますが、個人的な履歴が普遍性を持つようになるわけですから、個性化で大切になるのはやはり「経験」であります。この経験がなければ個性化は困難であり、例えば、勉強がよくできたとしても人望に薄い人をよく見かけますが、それはやはり経験が不足しており、自我と元型とが主体の履歴を組み入れることができず、そのような人物が個性化を目指すことにより結果として、「おかしな人」か、どれほど頑張っても「普通の人のまま」にしかなれない原因となります。

 

次回にこの話をもう少し深く掘り下げていこうと思います。ご高覧、ありがとうございました。


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前回は元型の復習を兼ね、私なりの元型論を概論としてお伝えいたしました。個々の元型に関しての説明は当ブログにおいて既に行っておりますので、そちらを参照していだだくとして、元型なるものは個別に語ったところであまり意味がないことも前回の話でお分かりいただけたかと思います。元型そのものを、元型として理解するためには心理学よりも神話を勉強したほうが早いです。換言すると、ユング心理学をマスターするためには神話の勉強も欠かせないといえるわけですが、そこまでするのは面倒だという方は河合隼雄博士の著書に詳しいので、そちらを参照してください。

 

河合隼雄 『ユング心理学入門』 培風館

 

上記の書物にユング心理学の基礎が詰め込まれておりますので、興味のある方はお読みください。私は河合博士とは差別化するためにも、その著書には書いてないことを中心に解説を行っておりますので、上記の書物をお読みいただければ私の意見もより深く理解できるものと思われます。

 

本題にはいりますが、前述のようにユング心理学において元型は非常に重要な概念であるにもかかわらず、元型だけを研究したところであまり意味がないことにお気づきになるかと思います。元型そのものは古代の精神であり、単純であり、さらに没個性(集合的の逆)となりますから、これをそまま外部に向けて適応してもあまり意味がありません。それよりも、精神状態を疑われるでしょう。ではどのようにして活かせばよいのかというと、ここで「統合」というプロセスを見ていく必要が出てきます。自我というのは主体が生きている現実の世界であるのに対し、集合的無意識は非現実の世界となります。そこに自我の過去の経験となるコンプレックスが存在し、これら3つが組み合わせられることにより、心は100%の状態となります。しかしながら、この統合なるものがうまくいかないのが常です。では、統合という作用を感じていくにはどのようにすればよいのかを考えてみましょう。

 

まだ思春期の若い男性が高校へ新入生として入学した時、その担任が非常に美しく、自分のタイプの女性であったとしましょう。こうなると、この思春期を迎えたこの男子生徒はお付き合いしたい気分と、もう一方で、それを抑えようとする両方の思いを同時に感じるかと思います。これは女性の場合は男性の場合と全く逆となりますから、そのことを想像しながら読んでください。付き合いたい気分とそれを抑制しようとするリビドーが対決するとき、何事にも手が付けられない状態になります。これを心理学的には「退行」といいます。思春期の生徒が授業を上の空となる状況は主にこの退行が原因であると考えられます。思春期くらいになると親の管理から徐々に外れてまいりますので、外部からの刺激を直接的に受ける機会が増えます。そうなると、自我が強くなり、主観が生れてきます。例えば、何のために勉強するのかなど。

 

しかしながら、人間には太古の精神が備わっており、その本能的な衝動は本能的であるがゆえに自我を大きく揺さぶります。さらに、人間的には経験不足であるため、コンプレックスも成長しておらず、その意味で、過去の経験がないがゆえに元型と自我とが直接対決するようになります。そしてその自我と直接対決するのは言うまでもなく、この男子生徒にとっては「アニマ」ということになります。このアニマとの対決というのは非常に苦しいものであることは説明するまでもないかと思います。このように、元型は自我と結びつくことにより本領を発揮するのです。ここから考えると、元型がうまく作用しない場合はそのような感情が生れることもなく、心の苦しみは少ないでしょうけど、コンプレックスが育ちにくいため、失敗に弱くなるものと思われます。ちなみに、思春期の男性が女性を怖がる傾向にあるのは、この恐怖のためであります。既にあまりにも辛い体験をしているのに、告白をして断られるようなことがあれば、心の痛さは倍増するわけですから、女性を怖がるのであります。心理学的には女性に「呑まれる」ことを無意識的に拒否する行動として定義されております。

 

そこで今度は、中年の男性がある女性に恋心を寄せた場合にどうなるかですが、これはもちろん自我と元型とが絶妙な対立を見せ、心が苦しくなるのですが、一方で、中年ともなるとコンプレックスも成長しておりますので、元型のエネルギーが自我エネルギーへと流れていくとき、その成長したコンプレックスを通過してきますから、思春期の生徒とはまた違った感情になります。つまり、コンプレックスが元型の作用を変えてしまう可能性があります。具体的には、その男性のコンプレックスが「女々しい」ものであるとき、アニマとその女々しさが合体してとんでもなく陰湿になるかもしれませんし、逆に、その女々しさを克服したコンプレックスならば、そのアニマはよりたくましいアニマとなり、相手の女性をしっかりと受け止められる、たくましく、頼れる男性とみなされ、恋愛が成就する可能は高くなるものと思われます。このように、コンプレックスというのは世間一般のイメージとはかなり違ったものとなると思います。毒も使いようによって薬になりまして、コンプレックスも同じです。ただし、コンプレックスだけを勉強してもこのような回答を導くことはできません。あくまでも自我と元型との統合の作用を知ることによってコンプレックスの真の意味が見えてくるのです。

 

以上が統合を感じることのプロセスです。本来はこれらの一連の作業を無意識にやっているわけです。このように冷静になって考察すると、アニマ・アニムスとは何かをイメージできるようになるかと思います。これを「元型イメージ」といいます。この元型イメージからすると、元型なるものは非常に未分化で幼稚であることをご理解いただけるかと思います。そのアニマを直接口にすると、「おまえあほか!」となるわけです。そうならないようにするために、自我との統合が必要となり、結果として、「意識すること」というのが非常に大切なことであることに気づいてきます。

 

ところが、元型とコンプレックス、そして自我が統合した際に退行が起き、物事がスムースに進まないことから解放される必要もあるかと思います。ようは、進行を促すにはどうすればよいかについての議論を次回に行い、次いで統合の作用におけるコンプレックスの作用と人の好みについてを吟味しようと思います。ご高覧、ありがとうございました。

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