教授 田中誠一の実学道

内閣官房公認のブログ。Thanks for MI6, CIA, SVR、総務省


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前回におきましてコンプレックスの話は完結しましたが、そもそもなぜコンプレックスの話になったかについて思い出してみたのですが、地方の布置の発見について先に回答を示したがゆえに、逆に時間ができコンプレックスの話を時間をかけてゆっくりと解説をしていこうという趣旨であったと思います。それ故に集合的無意識による作用についての話が途中で途切れていたように思います。ところが、深層心理学の話を行っていく初期の段階においてある程度、集合的無意識について説明を行い、とりわけペルソナについてはかなり詳しく行ったような気がします。その続きから行っていきたいのですが、私自身がこのブログにおいてペルソナ以外にどのようなことを書いてきたのかについて忘れてしまっておりますので、話が重複するかもしれませんが、復習をかねてもう一度ペルソナの話から行っていこうと思います。

 

そもそも集合的無意識を芸能界に適応させようと考えついたのは、集合的無意識というものは非常に客観的なものであるがゆえに、人々にすぐに理解してもらえるという長所を活かそうではないかと思ったからです。これまで見てきたように、個人的無意識というのは非常に個人的なことであり、また、自我というものも個人的なことであり、例えば、水が飲みたいという自我からの要請は個人的なものであり、本を読んでそれが正しいか否かについて、それも自我における判断というものは個人的なものであります。主体の左右にいる人が自分と同じ意見を述べたとします。主体と客体とが同じ意見となったため、その意見は客観的かといえば、そうではなく、その両隣の人が非常に強い自我に作用されて意見を述べている場合、それは個人的な意見となり、したがって客観性のかけらもないとなります。では深層心理学、とりわけユング心理学における客観性とはなにかといえば、集合的無意識となります。ここが客観の塊とみなされておりまして、よって、この集合的無意識をうまく操作することにより人々をいとも簡単に引き付けることができ、芸能人として成功を収めることができるのではなかろうかという仮説を持つに至るわけであります。理論は簡単ですが、実行するとなると非常に困難でありまして、こんなことが簡単にできてしまうと、ステージに上がる人の全てが有名人となってしまい、そこには競争の原理が働かなくなるためにまったく意味をなさなくなるのですが、換言すれば難しい技術であるがこそ、習得すればスターへの道が開かれる可能性が高いといえ、これからスターを目指す皆様方のお役に立てればと思い、書くという行為に至っております。

 

ここで皆様方に事前に知識として知っておいてほしいのですが、無意識と意識とが分離された状態、それは統合失調症といいまして、それは病気であります。とりわけ、集合的無意識を自我が感知し、それを全面的に受け入れる、ないしは自我と同一視した場合、統合失調症という病になります。こうなると非常に大変なことになりまして、集合的無意識が自我を包み込んでしまった場合、前述の議論からすると、理論上は、その人は客観に非常に優れた超人的な人となるのですが、実際にはそのように認知してくれる人はなく、「病人」というように理解されます。これまで私は集合的無意識なるものを目に見える「モノ」のように解説し、その文章を読んできた人はいとも簡単に個性化でき、そして集合的無意識を感じることができると勘違いしている人も多いのですが、実際にはそうではなく、集合的無意識にアクセスするというのは死をも覚悟しなければならないくらいの大仕事であることを忘れてはなりません。例えば、自殺の原理を深層心理学的に考える場合、それは集合的無意識と自我とが同一視されるがゆえに起こる行動であり、このことからいえることは、個性化に失敗すると死に至る危険性もあるという覚悟をもって臨まないといけないということであります。このことからしますと、芸能界で成功をつかむことは至難であり、かなりのリスクを伴うものであることを念頭に入れて活動しなければなりません。そして、スターになるということは、主体が客体へと飛び込んでいくのとは違い、客体が主体に入ってくる状態のことを意味します。一般的には主体が客体へと移入していくことが大切だと信じられておりますが、ユング心理学からしますとその逆の現象が起きてこそスターであるとの見方をします。

 

ここに集合的無意識の考え方が入ってきます。人間には全人類に共通な意識というものが存在します。つまりそれが集合的無意識なのですが、これは遺伝ではなく、人間として生まれたからには必ず備わっている無意識であるとされています。ですから、女性を見て女性と感じるのは集合的無意識が作用しているからであり、うまいものを食べてうまいと感じるのは集合的無意識が作用しているからであります。ところが、集合的無意識というものは心の中の一番深い層に入っており、しかも、集合的無意識を自我が感知するには個人的無意識と意識の層を通過せねばならず、そこに個人的な「好み」という色が付けられて認識という行動へと発展するに至ります。ですから、ある女性を見て「美しい」と感じる全人類共通の思いがある中で、Aという美しい女性よりも、Bという美しい女性の方がアニマを刺激するという場合、これは個人的無意識などが大きく作用しており、ともに美しい女性でありながら、そこに「タイプ」が現れる現実を見る場合、人の心とは非常に難しく、かつ、集合的無意識だけを取り出して人間を操作するなど、神様でも不可能な話でありますが、しかし、心全体としての集合的無意識の作用というものを考える場合、非常に役に立つことになります。

 

このように、これ以降は心全体の作用を考慮しながら集合的無意識の解説と作用を検討し、とりわけ、集合的無意識がコンプレックスと相互に作用しあった場合、どのようなことが起きるのかについて注目をしながら話を進めていきたいと思います。

 

ご高覧、ありがとうございました。

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長らくお待たせしております。このブログもどれほどのお役に立っているのかわかりませんが、元々は私の自己満足で始めたブログでありましたが、時がたつにつれて公共性が帯びてきて多少の窮屈さを感じつつではありますが、今後もぼちぼちと続けてまいりたいと思います。前回にてコンプレックスの話は一応の終わりをみたのですが、あれで終わってもよかったのですが、締まりがないような気もしましたので、多少のまとめを行っておこうとおもいます。

 

まず、コンプレックスというものは人間の意識を三層に区分したときの真ん中の層、つまり、第2層目に該当するところです。人間の心というものはこれら三層の全てがまとまって心でありますので、コンプレックスの話では特別に第二層目だけを取り出して話を行ったことになります。ようは、心全体の話をしたわけではないということをしっかりと自覚をしていただくようにお願いします。実際の人の心は第3層目の集合的無意識が第2層目の個人的無意識を影響させながら、自我との統合をはかり、個性化へと導くものであり、個人的無意識のみで人間の心が成り立っているわけではありません。さらにこの個人的無意識というものは非常に個人的でありますから、一般的に言われている意味においての主観的な心のあり方であり、ここに「自我」という主観が加わることにより主観性が高まるという性質があります。ですから、一般的に客観的だと思われているものを主体の中に詰め込めば詰め込むほど、主観性は高くなり、客観性へのバランスを崩すことになります。ここに精神病の源泉を見ることができます。このバランスが崩れた時、第三層目の普遍的無意識が助け舟を出してくれるのですが、すなわち、客観性を与えてくれるのですが、これも度が過ぎると精神病に侵され、抜け出すことが大変になるのはこれまで何度も指摘してきました。したがって、コンプレックスの克服などはあり得るはずはなく、コンプレックスとは死ぬまで付き合っていかなければならない個人的な宝箱と表現したほうが良いかもしれません。宝箱というものは良い思い出も悪い思い出も一つとなった「良い思い出」であるはずです。コンプレックスというものはそのようなものであると私は考えております。

 

コンプレックスを考えるうでもう一つ重要なことは、その意味が非常に多義的であるということです。これまでも何度も説明しておりますが、コンプレックスはいかようにも作用します。要するに、プラスに作用する場合もあればマイナスに作用する場合もあります。これらすべてを含めてコンプレックスであります。例えばディアナコンプレックスを持っている女性はそれを自覚することにより、より女性らしい女性へと変化するでしょうし、場合によっては男性の部分が強化され、非常にたくましい姿となるかもしれませんが、それが一つの個性となり、人々から愛される女性になるかもしれません。問題は自分のコンプレックスを知らずに生きるとか、否定して生きることであります。つい先日もこのディアナコンプレックスの女性に出会いましたが、やはり本人は全くそのことに気づいておらず、自分の主張を力で押し通そうとする傾向にあり、論理的でありながら、弱いものを切って捨てる男性的な面が強く出ており、これはもはやコンプレックスではなく、アニムスが出てきているか?と一瞬思ったのですが、ある一言がきっかけで我に返った姿を見てディアナコンプレックスを確信したのでありました。そもそも人の心は不可視ですからコンプレックスを自分の目で確認することはできないので、感じるしかありません。ないしは人からのアドバイスを素直に受け入れることもコンプレックスの克服への第一歩となります。

 

コンプレックスというものは布置を構成していることからして、その布置による作用が大きいといえる。具体的には、サーロインステーキをみて毒と感じる人もいればご馳走と思う人もいます。またその中間体では何も感じない人もいます。これはどうしてかというと、個人的な経験からくる布置がそうさせることがユングによって証明されています。非常に個人的な経験や体験により辛い思いが個人的無意識の層に抑圧されていると、サーロインステーキをみて毒と感じる人がいるかもしれません。たいていの人はご馳走だと思うでしょうけど、ではなぜサーロインステーキをみてご馳走と感じるかを顧みた時、やはりご馳走としてサーロインステーキは布置されているといわざるをえません。ここからお分かりのように、布置というものは主体の内面と外面とを総合判断する素材となるものであり、布置を読むことによってその人の過去の履歴を概観することが可能となります。これを応用すると、布置を意識することにより自分の履歴を変えることもでき、これを良い方向でのコンプレックスとして仕立て上げ、様々なものを巻き込んでいくことも可能です。これを私はクラスター戦略と混ぜ合わせて地方の個性化へのプロセスへと組み込んでいるところであります。また、ミンツバーグという有名な経営学者がいますが、彼はコンフィギュレーションという概念を使い企業組織を7分類するという大仕事をやり遂げたのですが、これも要するに布置という視座においてあらゆる組織をじっと観察した結果、7つの組織に分類できたというストーリーであります。コンフィギュレーションは明確な日本語訳がなされておりませんが、私は「組織的布置」と勝手に翻訳しております。要は、それぞれの組織にそれぞれのストーリーがあるがゆえに、機械的に組織を細分化するようなことは企業の成長においては有害であるとの説明が加えられており、これを読んだ当時は驚いたものの、ここまで言っておいてなぜ深層心理学を援用しないのか?についての疑問が現在に至るまで残っており、そこを私が穴埋めしているような形で研究を進めているわけです。ミンツバーグの理論を詳しく知りたい方は下記の論文を参照してください。

 

Henry Mintzberg "Mintzberg on management : inside our strange world of organizations"New York : Free Press ; London : Collier Macmillan, 1989(北野利信 訳『人間感覚のマネジメント』1991年、ダイヤモンド社)

 

その論文の場合、日本語訳もなかなか詳細なのですが、やはり原文を読むことをお勧めします。原文で読んだほうが共感を得やすいかと思うからです。とりわけ、コンフィギュレーションについては難解がゆえに、原文に忠実に理解したほうが頭に入りやすいかと思います。

 

最後に、コンプレックスとはまさに東洋医学でいう「ツボ」を意味する考え方であります。コンプレックスを突くことによりいかようにもなります。しかしながら、それでも問題が解決しないとき、そこにはそれよりも深い層から出てくる無意識、すなわち、集合的無意識というものが関連していると診断するのが妥当であります。コンプレックスを突いて100%完結することは、それはまだ症状が軽いほうであり、また、それを応用して勝負に出るときはそれこそ「小手先の技術」を駆使することになりますが、世の中そんなに甘くありません。それでも問題が解決できない時がきます。その時にどのような態度をとれるかが重要であり、そこを考えていくのがユング心理学の一番の特徴であるといえましょう。

 

次回からは個人的無意識と集合的無意識との関連における、自我との作用についてこれまで以上に詳しく見ていこうと思います。ご高覧、ありがとうございました。

 

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それでは前回の続きから入っていきたいのですが、その前に、私が以前に書いたグレイナーモデルの注釈ですが、これが意外に好評な模様で、書いてよかったと思うとともに、閲覧してくださっている皆様方、本当にありがとうございます。グレイナーモデルは人それぞれに、とりわけ、経営学を専攻する人々にとっては様々な思い出や体験があるかと思います。私も正直なところグレイナーモデルにはいろいろと悩まされました。グレイナーモデルをいかに克服するかについては経営学の研究者としての登竜門ですから、皆様方もグレイナーモデルの「山と谷」の部分を理解できたら、後はご自分なりの体験などを付け加えてオリジナルのグレイナーモデルの構築をしていただけたらと思います。

 

話を戻しまして、コンプレックスのことにつてやっていきましょう。コンプレックスの件につきましては今回で最終回としようと思います。そこで、前回は私の金属コンプレックスのことを事例として布置を交えてその形成過程を見ていこうと予告しておきました。しかしながら、その前に別のブログにて夢分析を行ったときに布置の話を交えておりますので、そちらをご覧いただいてから、私の実際例をご覧いただければと思います。

 

14歳の少年の夢についての分析:

http://ameblo.jp/linqno1/entry-12244788196.html

 

ところで、私の金属コンプレックスですが、これはまず、何度も申しあえげておりますが、「冬季限定」であります。そしてこれは「痛み」に由来するものであると申し上げております。この痛みが原因となり金属コンプレックスを誘発させるわけですが、感の鋭い方はここでお分かりかと思いますが、冬季限定であるのは「静電気」が原因となり、体に蓄積された電気が金属に触れることにより放電され、あの鋭い痛みにコンプレックスを感じるわけです。しかしながら、静電気の放電だけで冬季限定の金属コンプレックスになることは考えにくく、当然、その他の理由があります。私は幼少期の頃に右手の骨を2度も骨折しております。一度目は幼稚園の年長くらいの時に右ひじを、小学校の2年の時に右手首を骨折しております。一度目の痛みなどはほとんど覚えておりません。しかも、骨折したことすら覚えてなかったのですが、私が35歳くらいの頃、それも真冬に金属製のドアのノブを利き手である右手で触った時に強烈な放電が起こりました。その時に不意に思い出したのが過去の二度の骨折の事でした。一度目の骨折の時の痛みはそれほど覚えていないのですが、二度目の骨折の時は医師の判断により手術による骨の修復ではなく、腕を引っ張ることによるいわゆる「骨接ぎ」を行うことにより骨の修復を行ったのです。その時の痛みたるや、まさに地獄でありまして、痛みの極みでありました。ところが、痛かったことは覚えているのですが、痛みそのもの、いわゆる「地獄」の部分は全く思い出すことはできません。それ以外にも小学校の4年生くらいの時に刃物で右手中指を大きく負傷し、切断に近い状態でしたが無事に完治し、人間の治癒力というものを子供ながらに驚いたのですが、その時も相当な痛みを伴ったことは鮮明に覚えておりますが、「地獄」の部分は思い出すことはできません。

 

以前に足の小指を家の柱にぶつけたときの痛みの例でお話したことがありますが、痛かったことは思いだせるのですが、痛みそのものを再現することはできません。これは何が作用しているかというと、痛みなどの辛いことはそれこそ個人的無意識に格納され、自我から「分離」させられます。しかしながら、これは分離したにすぎず、データとして残っているのが厄介なのです。このように考えますと、意識と無意識との分離というものが重要になるという論者もいるのですが、これがあるきっかけでよみがえることもあるわけです。そうです、それが冬季における静電気の放電によりその時の痛み(骨折時の痛み)が再現され、その痛みの原因が非常によく理解できるために、冬季に金属を見ると自我が拒絶反応を起こすのです。それにしても一旦は分離された痛みが再現されるのはなぜか?という方が私にとっては興味のあることで、深層心理学者の多くもこの点についての方に重点を置きます。というのも、それは何かの知らせかもしれないと考えるためです。

 

深層心理学の中でもとりわけ、ユング派においては人生というのは最初から決まっていると考えます。要するに、人間の能力には限界があると考えます。しかしながら、難しいのは、その限界の中での「無限」を知ることがユング派の考え方であり、それゆえに、冬季限定ではあるけれども、35歳にして痛みという苦痛を伴わなければならない理由があると診断します。なぜなら、意思そのものは自由であるだけに、間違った判断を犯し、自分の都合のいいように解釈するのもまた人間の性なのです。そうすると、見えてくることがあります。例えば、これは健康上の問題ですが、私は20代のころは低血圧で悩まされておりました。血圧が低すぎて生きているのが嫌になったこともありました。といいますか、低血圧の方ならご理解いただけるかと思いますが、血流が悪いと生きている心地がしないのです。それが年を重ねるにつれ、食生活が良くなってきます。外食も増え、お酒もたくさん飲めるようになり、自炊するにしてもたくさんの調味料を使うことができるようになります。そうすると、私の場合、血圧が上昇してまいりました。ちょうど35歳の時の血圧は140ありました。かなり危険な状況です。時期を同じく、その時に金属コンプレックスが発症したことを考えると、高血圧が理由で、「冬季」に心臓に異常をきたし、死ぬかもしれないよ、という警告だと感じ取り、まずは食生活を改め、お酒の量も減らし、そして運動することもし、今では健康体を取り戻しました。しかし、35歳にして血圧が140出たとき、その時に健康診断したときの医師は何と言ったかというと、「まだ若いから心が落ち着かず、血圧が不安定なだけ」と言っておりましたが、ユング派の考えでいう「共時性」という概念からしても、この時の医師の判断は間違っているのではないか?と私は診断しております。

 

このように、コンプレックスや布置の考え方を応用し、それを地域性というものを考えるための分析ツールとして考えた場合、北海道ではメタル、沖縄県ではハードロックというようなコンプレックスを誘発させる「核」が見えてくるという仮説を私は提示しております。これが最近になり注目されるようになってまいりました。これは非常にうれしいことです。しかしながら、コンプレックスや布置に関する正しい理解がなければ誤った結論が導き出されます。そのようなことがないように、コンプレックスと布置に関する正しい理解をしていただきたく、事例を変えながら何度も繰り返し説明を行ってきました。これで皆様はほとんど完璧な理解ができたものだと私は信じておりますが、以下の書物も参考にしていただき、理解をさらに深めていただきたいと思います。

 

C.G.ユング著 高尾浩幸訳 『診断学的連想研究』 人文書院

C.G.ユング著 林 道義訳 『連想実験』 みすず書房(内容は『診断学的連想研究』と重なる部分がありますが、翻訳者の立場の違いを知るには良いかと思います。)

※河合隼雄著 『こころの最終講義』 新潮文庫

 

これも先に解説書である河合隼雄博士の書物から読むのをお勧めします。とりわけ、『こころの最終講義』は河合先生が京都大学の最終講義にて「布置」を題材とし、講義したものを収めたものでありますから、深層心理学において布置の議論がいかに重要であるかということを知ることができます。

 

以上、長きにわたりコンプレックスについてお付き合いいただき、誠にありがとうございました。私のコンプレックス理論における地域創生理論が今後も世間様のお役に立つことを願いつつ、継続して研究に励んでまいります。ご高覧、ありがとうございました。

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お待たせしております。新年度より体制が変わりましてかなり忙しくなってきました。基本的に本ブログとLinQのブログに関しましては月に2報ずつ、合計で4報は入れる予定ですが、場合によってはこれを下回る月も出てくるかもしれません。ご了承のほど、よろしくお願いします。

 

ところで、これまで時間をかけてコンプレックスや布置に関することを説明してきましたが、今回で12回目ということで、進めば進むほどにわけが分からなくなってきているはずです。ユング心理学は実践を伴わなければ非常に理解に苦しむ心理学ですから、このブログを読んだ方はぜひとも実践をしていただきたいとともに、実践できる環境にある方、本ブログはいわゆる「芸能人」を対象としておりますので、それ以外の方が読んでも理論は理解できたとしても、実践することは非常に困難なことになりますから、読むなとは言いませんが、「芸能界ではこのように事が進められている」という、第三者的な目で、読み物程度にとどめておくことをお勧めします。そしてこのあたりで私が説明するコンプレックスの理論についてより深い理解をしていただくために、ぜひとも参考書として読んでおいていただきたい書物を下記にしたためておきます。

 

C.G.ユング著 小川捷之訳 『分析心理学』 みすず書房

※河合隼雄著 『コンプレックス』 岩波新書

※河合隼雄著 『ユング心理学入門』 培風館

※河合隼雄著 『無意識の構造』 中公新書

 

いきなりユングの全集などを読むのも方法の一つですが、やはり、注釈書から攻める方が時間がかかるようで、実は時間の短縮につながります。その意味で、先頭にユングの訳書を引いておりますが、実際には河合隼雄博士の『コンプレックス』から読み始めるのがよいかと思います。

 

これまでは決まったパターンのコンプレックスを見てきたわけですが、それまでの例でお分かりのように、いろんな感情が絡まりあった心理状況のことをコンプレックスということをご理解いただけたかと思います。また、私はそのことを伝えたかったわけです。しかもそれは非常に個人的なことであり、個人的な体験や歴史の中で蓄積された「いろんなこと」が個人的無意識という層に格納され、それがコンプレックスを形成します。ですから、コンプレックスは悪いことばかりではなく、良いこともあり、それらすべてを含めるがゆえに「コンプレックス」なのです。さらに、このコンプレックスは神話類型、いわゆる「元型」と結びつき、さらに複雑な「コンプレックス」を形成する場合もあり、このことがコンプレックスがコンプレックスと呼ばれる所以であると思うと同時に、自我まで含めてコンプレックスという場合もありまして、ではコンプレックスとは何か?という答えに関して、ユング心理学を学んだ人と同じ数だけの回答があるとしか言いようがなく、その意味でも文献による知識の習得とその後の実践が必要となるわけです。私は芸能界のための戦略論を展開することがその意図ですから心全体を本来ならば「自己」とするべきところを、「コンプレックス」と表現すこともありますが、これは芸術というものがいかに複雑な心理状況を必要とするのかを表現するためにこのようにしている場合もありまして、その意味でもやはりぜひとも実践を伴った学習というものをお願いしたいです。

 

ここで話を戻しまして、布置という視座からのコンプレックスですが、そもそもコンプレックスとは何か?という基本的なことを思い返していただきたいのです。本ブログの「ツボを知る」の最初の方だったと思いますが、コンプレックスの根本的な問題について触れております。そこまでさかのぼるのが面倒だという方のために一言でコンプレックスを表現しますと、「理由なくイライラする原因」のことをコンプレックスとしたはずです。男性ならマザーコンプレックスを思春期に経験しているはずです。思春期の男子が母親を見て「イラッ!」とこなかったら、えらいことになります。思春期の女性も同じことです。これがコンプレックスです。このように説明すると前回までに実際の事例として取り上げていた、私自身の「冬季限定の金属コンプレックス」というものが理解できるかと思います。要するに、冬場に「金属」という言葉を聴くだけでも体が拒否反応を起こすのです。こうなるともはや「イラッ!」ではなく、「恐怖」となるのですが、ではそのコンプレックスがなぜコンプレックスを形成するのかを見ていくのに「布置」を使ってみていくのです。ですから、金属というのはあくまでも「核」の部分であり、原発巣といわれるやつでして、この原発巣を構成する要因を紐解くとコンプレックスは解消されます。ですから、私は冬場でも金属弦のエレキギターを触ることができます。しかし、これはかなり意識しながら触っておりますので、感覚的にはものすごく変な感じです。大きなイベント会場において、ギターアンプとギターとをケーブルで直でつなぎますと、どうしても多少の感電を避けることはできず、もともと金属コンプレックスである私のその時の心の折れようは相当なものですが、電気的な痛みを感じながらのプレーが超越機能を引き起こし、それが自我肥大となり痛みの感覚を忘れる作用が働いたところで、観客が転移の作用を起こすという流れを作ってやろうという思いのみがコンプレックスの解消へとつながっております。これは私のコンプレックスの解消法でありますから、他の人にはまた別の方法があり、これを考えていくのが深層心理学の醍醐味であります。

 

では、私のコンプレックスの形成の概要を見ていきたいのですが、これはまず金属が核となっているからといって、金属が直接関係してくることではありません。何度もいっておりますように、コンプレックスは様々なことが絡み合っている状況ですから、金属というものはコンプレックスを引き起こすきっかけでしかありません。換言すれば、コンプレックスの核はコンプレックスを引き起こすきっかけであると定義できます。では、金属とコンプレックスつなぐものは何か?ということになるのですが、ここに「痛み」という大きなキーワードが入ってきます。もう少し深く説明しますと、私の個人的無意識の層には「痛み」という大きなキーワードがあります。そこに外的な要因である「金属」というものが加わります。そうすると発作が起こるわけです。その発作とは、すなわち金属コンプレックスであり、金属を見るだけで気分が悪くなるという現象です。それも冬季に限られるという不思議な現象であります。

 

私が今月にライブを行います沖縄県ですが、この地域はハードロックを核と考えると理解しやすいかと思われます。これが北海道になるとメタルが核となるかと思われます。これはこれらの地域の布置とコンプレックスとなっておりまして、ゆえに、例えば北海道ではメタルの対極になる「アコースティック」な曲も同時に人気が出るわけです。また、ゴシック様式のものが受け入れられやすいことも意味します。そしてこれが北海道の地域性となり個性化となり、経営学的には「差別化」や「強み」といえるでありましょう。

 

次回に私の痛みの歴史をたどり、布置の議論におけるコンプレックスの形成過程を見ていこうと思います。ご高覧、ありがとうございました。


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前回は布置に関する議論の前置きをお話しして、今回に引き継いでおります。この布置ですが、英語では「コンステレーション」と呼ばれておりまして、意味は星座です。星の一つ一つを線で結んでいくと一つの絵が浮かび上がるわけですが、それを人間の心に適応させた考え方です。これをユングという心理学者が言い出したのですが、この考え方は体得すると非常に便利な考えであります。ただし、一般的に「布置」という言葉からそう簡単にいろんなことが連想されることはないでしょうし、むしろ思考の停止につながると思います。しかしよく考えてみてください。何か事を起こそうとして前進しようとしているときになぜか前に進めないことがあるかと思いますが、それはいわゆる進行という現象の逆の「退行」という現象でありまして、まさに創造的過程に入ったことを意味します。しかし、その先があまりにも辛いので自我は動きを止めてしまうのです。ここでの例でいうと、布置という文字を見ただけで難しそうなので、知りたいけれども頭が動かないという状況です。これを動かすにはどうするか?教科書通りに考えると「耐える」しかないのですが、まあ、ここはひとつ事例をもとに、その事例に食いついてもらうという方法にて布置をお伝えしようとするものです。

 

布置はかつて日本におけるユング心理学において河合隼雄というものすごく偉い先生がおられたのですが、その河合先生が京都大学での最終講義の題材としたのがこの「布置」であります。そのくらいに大切な概念だと思うのですが、何分、わかりにくいと思います。そこで私はかつてどこかのブログで「プロファイリング」と翻訳したことがありますが、これは似て非なるものでありますが、イメージとして、プロファイリングを参考としていただければ入口に近づくと思います。というのも、なぜ布置が重要なのかというと、患者の見えない心の部分を見ていくのに、主に夢分析と共に使用するからです。夢の断片を聞き手が把握し、神話や昔話、さらには易経や中国哲学などを用いながら断片を「線で結ぶ」作業をし、それを患者の心に戻していくという一連の作業があるのですが、この一連の作業を河合先生は「物語化」と晩年に論じておられましたが、この物語化こそ「布置(コンステレーション)」といわれるものであります。

 

前述の議論からお分かりかと思いますが、この布置の議論は非常に無意識の深い層、いわゆる「集合的無意識」から意識の層を含め、自我との関連までにまで結びつけて考えるものですが、これのもう一段前の段階である「個人的無意識」を考えるときにもかなりの効力を発揮します。というのも、個人的無意識というのは非常に個人的な思いが詰め込まれた無意識の層でありますから、個人のとったこれまでの行動の履歴が非常に複雑に絡み合っており、それをどのように解釈するかについての客観的な指標として何を素材とするかとなった時にこの布置を使うのです。ここですこし主観と客観のお話をしておきますと、主観と客観そのものの意味についてはあまりにも基本的なことですからここで説明しませんが、ユング派では主観的であればあるほど「普遍性」がでてくると考えます。換言しますと、主観的であればあるほど、客観性が増すと考えます。というのも、ユング派での主観というのはすなわち「集合的無意識」の層から出てくる「元型イメージ」を指し、元型であるがゆえに普遍性があり、何よりも客観性に優れたものとなると解釈します。ですから、個人的に経験したことこそ、客観的であると考えまして、ゆえに、それがある個人の体験や経験に基づいている限り、そのことは「客観的」と判断します。例えば、私がこれまで研究してきた心理学や経営学の理論というのは実のところ一般的な表現では主観的でありまして、非常に個人的なものであります。ですから、私のこの研究者という肩書に惑わされて私の言っていることが客観的だと思い、そのまま鵜呑みにすると大変な間違いを犯すことにるわけです。ここに「パクリ」の落とし穴があるともいえまして、マネをするだけでは必ず行き詰まる、その原理がここにあります。

 

これで個人的無意識について概要的にお分かりいただけたかと思いますが、この個人的無意識というのもまた、集合的無意識と同じほどに面白いものでありまして、これはあくまでも個人的な経験や体験から「のみ」現れる無意識であるため、その人独特の症状を見るときに、当然のごとくその人の過去の経歴についてを空想するところから始まります。例えば、前回に私の「冬季限定の金属製品コンプレックス」などは、これは非常に私の個人的なものでありまして、全世界を探しても私と同じ体験をしない限りにおいてこのようにはならないと考えられます。似たようなものはあったとしても私と全く同じ体験を同じ年数をかけて体験することはほぼ不可能でありますから、その意味で非常に個人的であり、かつユング派の考え方でいえば、客観的であります。なぜ客観的であるかといえば、それは行動の基準は客観的に行っており、意思決定の段階では心の程度は非常に分化しているからです。一般的な解釈では私の行動は主観的であり、それ故につまづくのだとされるのですが、客観的であるがゆえにコンプレックスを形成すると考えるのがユング派の思考パターンです。そして私の体験や経験はそう簡単に納得できる人はなく、ようするに、詳しい説明が必要となるわけで、そこに主観的な要素を入れない限り永遠に理解不能となりますから、主体と客体とを接ぐもの、「布置」をここで導入し、物語化しようとするものであります。

 

ここで明らかとなりましたように、布置というのは行動の主体の内面と外界とをまずは結び、その後に主体と客体とをつなぐという二重の構造によってはじめて成り立つ考え方であります。ここにおいてはじめて「ツボ」という理解のありかたが布置の議論の難解さを和らげてくれるのではないかと思うのですが、人間の過去の経歴や、ましてや心のあり方というのは非常に複雑である反面、ある一点の「核」となる要素を持っており、したがって、この布置も中心に核を持ち合わせており、その中心を突くとコンプレックスの解消となったり、また、布置を構成する要素をパズルのように組み合わせていくとその核が判明し、それを製品開発やマーケティングなどに活用するなど、様々な利点を開発することができます。しかしながら、この布置の議論からすると無意識の主体と客体とのキャッチボールがそのまま創造的過程となるかについては疑問があり、布置の議論からすると主体の主観を大切にし、客体が主体の主観のありのままを見ていくことからくる創造的過程という心理学的プロセスからくる、経営学への疑問であり、この点に関してまた別のブログ(私が個人的に運営している内閣官房のブログ)にて書いておりますから、合わせてご覧ください。

 

次回より、具体事例をもとにして解説を展開していこうと思います。ご高覧、ありがとうございました。

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