教授 田中誠一の実学道

内閣官房公認のブログ。Thanks for MI6, CIA, SVR、総務省


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前回は布置に関する議論の前置きをお話しして、今回に引き継いでおります。この布置ですが、英語では「コンステレーション」と呼ばれておりまして、意味は星座です。星の一つ一つを線で結んでいくと一つの絵が浮かび上がるわけですが、それを人間の心に適応させた考え方です。これをユングという心理学者が言い出したのですが、この考え方は体得すると非常に便利な考えであります。ただし、一般的に「布置」という言葉からそう簡単にいろんなことが連想されることはないでしょうし、むしろ思考の停止につながると思います。しかしよく考えてみてください。何か事を起こそうとして前進しようとしているときになぜか前に進めないことがあるかと思いますが、それはいわゆる進行という現象の逆の「退行」という現象でありまして、まさに創造的過程に入ったことを意味します。しかし、その先があまりにも辛いので自我は動きを止めてしまうのです。ここでの例でいうと、布置という文字を見ただけで難しそうなので、知りたいけれども頭が動かないという状況です。これを動かすにはどうするか?教科書通りに考えると「耐える」しかないのですが、まあ、ここはひとつ事例をもとに、その事例に食いついてもらうという方法にて布置をお伝えしようとするものです。

 

布置はかつて日本におけるユング心理学において河合隼雄というものすごく偉い先生がおられたのですが、その河合先生が京都大学での最終講義の題材としたのがこの「布置」であります。そのくらいに大切な概念だと思うのですが、何分、わかりにくいと思います。そこで私はかつてどこかのブログで「プロファイリング」と翻訳したことがありますが、これは似て非なるものでありますが、イメージとして、プロファイリングを参考としていただければ入口に近づくと思います。というのも、なぜ布置が重要なのかというと、患者の見えない心の部分を見ていくのに、主に夢分析と共に使用するからです。夢の断片を聞き手が把握し、神話や昔話、さらには易経や中国哲学などを用いながら断片を「線で結ぶ」作業をし、それを患者の心に戻していくという一連の作業があるのですが、この一連の作業を河合先生は「物語化」と晩年に論じておられましたが、この物語化こそ「布置(コンステレーション)」といわれるものであります。

 

前述の議論からお分かりかと思いますが、この布置の議論は非常に無意識の深い層、いわゆる「集合的無意識」から意識の層を含め、自我との関連までにまで結びつけて考えるものですが、これのもう一段前の段階である「個人的無意識」を考えるときにもかなりの効力を発揮します。というのも、個人的無意識というのは非常に個人的な思いが詰め込まれた無意識の層でありますから、個人のとったこれまでの行動の履歴が非常に複雑に絡み合っており、それをどのように解釈するかについての客観的な指標として何を素材とするかとなった時にこの布置を使うのです。ここですこし主観と客観のお話をしておきますと、主観と客観そのものの意味についてはあまりにも基本的なことですからここで説明しませんが、ユング派では主観的であればあるほど「普遍性」がでてくると考えます。換言しますと、主観的であればあるほど、客観性が増すと考えます。というのも、ユング派での主観というのはすなわち「集合的無意識」の層から出てくる「元型イメージ」を指し、元型であるがゆえに普遍性があり、何よりも客観性に優れたものとなると解釈します。ですから、個人的に経験したことこそ、客観的であると考えまして、ゆえに、それがある個人の体験や経験に基づいている限り、そのことは「客観的」と判断します。例えば、私がこれまで研究してきた心理学や経営学の理論というのは実のところ一般的な表現では主観的でありまして、非常に個人的なものであります。ですから、私のこの研究者という肩書に惑わされて私の言っていることが客観的だと思い、そのまま鵜呑みにすると大変な間違いを犯すことにるわけです。ここに「パクリ」の落とし穴があるともいえまして、マネをするだけでは必ず行き詰まる、その原理がここにあります。

 

これで個人的無意識について概要的にお分かりいただけたかと思いますが、この個人的無意識というのもまた、集合的無意識と同じほどに面白いものでありまして、これはあくまでも個人的な経験や体験から「のみ」現れる無意識であるため、その人独特の症状を見るときに、当然のごとくその人の過去の経歴についてを空想するところから始まります。例えば、前回に私の「冬季限定の金属製品コンプレックス」などは、これは非常に私の個人的なものでありまして、全世界を探しても私と同じ体験をしない限りにおいてこのようにはならないと考えられます。似たようなものはあったとしても私と全く同じ体験を同じ年数をかけて体験することはほぼ不可能でありますから、その意味で非常に個人的であり、かつユング派の考え方でいえば、客観的であります。なぜ客観的であるかといえば、それは行動の基準は客観的に行っており、意思決定の段階では心の程度は非常に分化しているからです。一般的な解釈では私の行動は主観的であり、それ故につまづくのだとされるのですが、客観的であるがゆえにコンプレックスを形成すると考えるのがユング派の思考パターンです。そして私の体験や経験はそう簡単に納得できる人はなく、ようするに、詳しい説明が必要となるわけで、そこに主観的な要素を入れない限り永遠に理解不能となりますから、主体と客体とを接ぐもの、「布置」をここで導入し、物語化しようとするものであります。

 

ここで明らかとなりましたように、布置というのは行動の主体の内面と外界とをまずは結び、その後に主体と客体とをつなぐという二重の構造によってはじめて成り立つ考え方であります。ここにおいてはじめて「ツボ」という理解のありかたが布置の議論の難解さを和らげてくれるのではないかと思うのですが、人間の過去の経歴や、ましてや心のあり方というのは非常に複雑である反面、ある一点の「核」となる要素を持っており、したがって、この布置も中心に核を持ち合わせており、その中心を突くとコンプレックスの解消となったり、また、布置を構成する要素をパズルのように組み合わせていくとその核が判明し、それを製品開発やマーケティングなどに活用するなど、様々な利点を開発することができます。しかしながら、この布置の議論からすると無意識の主体と客体とのキャッチボールがそのまま創造的過程となるかについては疑問があり、布置の議論からすると主体の主観を大切にし、客体が主体の主観のありのままを見ていくことからくる創造的過程という心理学的プロセスからくる、経営学への疑問であり、この点に関してまた別のブログ(私が個人的に運営している内閣官房のブログ)にて書いておりますから、合わせてご覧ください。

 

次回より、具体事例をもとにして解説を展開していこうと思います。ご高覧、ありがとうございました。

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長らくのお付き合いありがとうございます。前回にて既によく議論されているコンプレックスについての話を終えました。元々は布置の議論をするために始めましたこの「ツボを知る」シリーズですが、いろいろと活動をするうちに結論が先に出てしまいまして、それゆえにプロセスを逆に時間をかけて行えるようになったと、積極的な解釈をさせてもらいました結果、このシリーズも10回を迎えることになりました。ひょっとすると無駄な作業かもしれないと思いつつも、現代に生きる人々にこそこのコンプレックスの問題は非常に大きな問題となってきているように思いますし、また、現実的な問題として、このコンプレックスが身体的な影響にまで及ぼし、ノイローゼになっている人が増加傾向にあることを踏まえると、ますますこの「個人的」な症状を、それもその症状を患っている人こそ知らなければならないと思うのですが、その予備軍的な人々はノイローゼを発症する前にぜひとも心が及ぼす身体的な影響について知り、健康な生活を送れるように予防の対策を講じていただきたいものであります。

 

コンプレックスというのはいわゆる個人的な体験からくる蓄積される記憶や体験が時系列的に何層もの、それも縦横無尽に絡み合っている状況のことをいいますが、これまでお話してきました、例えばカイン・コンプレックスなどはいろいろあるコンプレックスの中でも多く見るけられる症状としてのコンプレックスであり、例えば、マザー・コンプレックスについてもそうですが、一般的によく議論されるコンプレックス以外のものはコンプレックスではないというわけではなく、個人的な無意識の層にて蓄積、ないしは抑圧された体験や記憶のことを全て「コンプレックス」と呼ぶようになっております。といいますか、ユングがそのように定義しておりますので、ユング派においてはそう考えるのです。もう少し詳しくお話ししますと、人間生きていますと人生山あり谷ありです。そのすべてを含めて人生であり、その人の個人的な履歴となります。そしてそれは嫌でも心に蓄積されるものでありまして、その蓄積されていく心の場所が「個人的無意識」といわれる無意識の層であります。ですから、私などは41年生きておりましてその山も谷も全て個人的無意識に詰め込まれているわけです。思い返してみると面白いもので、本当に山もあり谷もあります。ところが、あまりにも辛かったことはこの個人的無意識に格納されて自我が認識できないことがあります。例えば、皆様方でも3歳くらいの時の出来事をいくつか思い出すことができるかと思います。しかし、1か月前の職場で起きた嫌なことは思い出せない人がいます。また、思春期の数年間の辛い時期をはっきりと言葉に表現でき、その時の苦しみをそのまま体験できる人はどのくらいいるでしょうか。もう少し卑近な例をいきますと、足の小指を柱に打ち付けたときの痛みを思い出せる事はできるでしょうか?これを日常的に思い出し、体験できる人は多くないと思います。なぜなら、そのような辛い思いは人間は忘れるようにできております。しかし、足の小指を打ち付けたときの痛みをそのまま心の中で体験できる人が少なからずいます。それがいわゆる「俳優」と呼ばれている人たちでありまして、あの方々は個人的無意識を意識の層にまで高め、それを自我と格闘させ同一視、ないし、自我肥大を起こさせることにより表現力を高めるわけです。

 

俳優はなぜカメラを前にしてすぐに泣けるのか、不思議に思う人も多いかと思います。これは実際の撮影に立ち会うとよくわかるのですが、涙を流すシーンを撮影するときのほとんどは、俳優の目の前にあるのはカメラでありまして、人間ではないことが常です。ですから、カメラを見つめながら「泣く」ことを要求されます。しかし、彼らは泣くことができるのです。不思議ではありますが、どのようにして感情を高めるのか聞いてみると、やはり嫌なことを思い出すことが一番重要なことだと、どの俳優も主張します。しかし、先ほども申しましたように、嫌なことは記憶から遠ざけられ、思い出すというのはほぼ不可能です。それを思い出すことができるというのは、やはり、個々の層には意識と無意識とが存在し、そして、あくまでも個人的な問題を取り扱う無意識の層である、「個人的無意識」が存在するといわざるをえません。ところで、カメラの前での具体的な泣き方ですが、これは先ほどから例にしております「足の小指を柱に打ち付けたとき」を思い出しますと、当然にそれだけでも心だけは痛いのですが、具体的に足の小指は痛くありません。これでは泣けないので、これをどうするかですが、先ほどの死ぬほどの痛みを思い出しつつ、体のどこかに少し痛みを与えてやるといとも簡単に足の小指を打ち付けたときの痛みに達することができ、涙が出てきます。その多少の痛みを与える方法は人により違いますが、例えば、手の甲をつねりながら思い出すなどもあるかと思います。ただし、これは個人的無意識が自我との対話がなされる必要がありますから、そのための訓練が必要となりますが、これから俳優を目指す方、ないしは既に俳優でありながら、急に泣くことができない方は参考にしていただけたらと思います。

 

これは俳優という、非常に意識的に無意識を操るプロの仕事の話でありますが、一般の人でもいとも簡単に泣いてしまうことが時にはあるかと思います。例えば、家の柱を見るとそれだけで恐怖心がでるとか、冬場になると、金属製品を見ただけで寒気がし、気分が悪くなる人などがいるかとお思います。例えば、上述の冬場の金属製品コンプレックスですが、実はこれは私のコンプレックスでありまして、冬場の金属製品はとんでもなく触れるのが嫌です。エレキギターなどは弦が既に金属ですから、普通の人ではありえないほどに触れるのが嫌になることが常です。あくまでもこれは「冬限定」のことで、それ以外の季節ではなんともないのですが、とにかく、12月から2月までの間で金属製品を触れるのはものすごく嫌なのです。なぜこうなるのでしょうか。ここに布置の議論が成り立ってくるのですが、この続きは次回にしようと思います。

 

ご高覧、ありがとうございました。

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前回はカイン・コンプレックスについてお話をしました。これは兄弟間の敵対心を意味するコンプレックスでありますが、問題はそれでだけでとどまることはなく、納豆コンプレックスやアニマの問題という、複数の心的問題が絡み合って病を引き起こしておりました。心の問題というのは何か一つだけのことが原因で問題となることはなく、複数のことが同時に絡み合うことにより起こるというのが一般的な理解であります。もう少し深く探りますと、ユングによれば心は3層構造となっております。ゆえに、「心全体」を意味するときに「コンプレックス」と言う場合がありました。とりわけ、ユングの中期以降、心理学的類型が発表された後にペルソナの議論がなされる頃になると心全体をコンプレックスとよんだりしております。なぜこのような曖昧ないい方になるかというと、時代により彼の考えは変わり、発表の内容も変化するからです。しかしながら、心理的問題としてのコンプレックスと心全体としてのコンプレックスが同一視されていることからしても、心というものは相当複雑であるとという共通認識を持つことを必要とすると考えております。

 

ところで、このような複雑な心を持つ人間ですが、心が複雑であるだけに生活の基盤となる「社会」という空間についてはせめて人々が生きていきやすいものを目指していきたいわけですけども、実際はそうはいかず、様々な問題を抱えるわけです。心自体が複雑で、考える主体の心が複雑であるがゆえに社会も複雑になるのは当然であると考える方法もありますが、そのことにより心身に支障をきたすのであれば、そのような社会はやはり見直すべき点があるのではないかと考えるのが私の立場でありまして、そこで今回はディアナ・コンプレックスというものをとりあげ、社会というものを考えるその視点に限り、お話をしてみようと思います。

 

ディアナ(英語読みではダイアナ)・コンプレックスというのは女性が男性的な立場を主張したい、ないし獲得したいとするコンプレックスであります。これもコンプレックスでありますから本人は気づかないのですが、周りにいる人は相当このコンプレックスを感じるのでありまして、また、感じている本人も実はそれを欲求している部分もあり、これからして心がいかに複雑であるかということがお分かりいただけるかと思います。

 

このディアナ・コンプレックスの特徴は何といっても女性が男性的な立場を獲得しようとする、ないし、獲得後に男性のように振る舞うコンプレックスであり、その行動はまさに女性でありながら「男性」そのものであります。職場という現場において例えますと、これはホワイトカラーやブルーカラーを問わずそのような女性はいらっしゃいます。ホワイトカラーの職場におきましては、とにかく多くの仕事を抱え込み、その割にはその抱え込んだ仕事を全て見事に処理する女性です。残業もいとわなく、トータルの仕事の量としては男性よりもはるかに多い割に、それを楽しんでいるかの如く行動する女性です。ブルーカラーでの現場におきましては、通常は男性が行うような仕事、例えば1トンを超えるプレス機の責任者となるとか、建設現場で断熱壁をいとも簡単に運び、またそれに生きがいを感じているなどです。すべての人に共通する具体例としては海外のテレビドラマや映画の「チャーリーズ・エンジェル」や「ニキータ」などを例にすると理解しやすいかもしれません。彼女たちの任務は古い考え方では男性が行う仕事でありますが、それを女性が行うわけです。それも男性よりも力が強く、そしてその任務に対して誇りを持っておりまして、ディアナ・コンプレックスというものを見事に描き出している作品であると感じております。このように、物語としてこのコンプレックスを見る場合、とても創造的な面があることも理解でき、その意味では悪いことばかりではないことを付け加えておきます。

 

女性の社会進出というものが議論され始めてかなりの年月が経っております。それは非常にいいことだと思います。心というものを通じて人間を見る場合、男性も女性も関係ないことに気づくわけですが、しかしながら、肉体的には非常に違うことが医学的に証明されており、女性の社会進出に関してその平等性というものの基準をどこに設けるかについてはさらなる議論が必要となると考えております。というのも、ディアナ・コンプレックスというコンプレックスが存在することからお分かりのように、基準を間違うと問題が起こるわけです。現代における男女平等社会というのは、その基準が男性側に設定される傾向が強く、それ故に女性が男性と同一の関係になろうと努力することに、このディアナ・コンプレックスの問題があるわけです。かといって、では男性が女性の基準に合わせればいいのかというと、そうなると今度はアニマの世界に突っ込むことになり、極度の男性の女性化が進行し、これまたバランスが悪くなります。また、コンプレックスで問題がとどまる間はまだ解決への方法も早期に見つけ出すこともできるかもしれませんが、ディアナ・コンプレックスがさらに進行してアニムスに結びつき、自我と結合を果たすとき、その女性は肉体的にも男性となってしまおうと努力するようになります。

 

このように書くと性同一障害は唯一、社会環境により起こりうるというように思われるかもしれませんが、私が言いたいのは、性同一障害に関しては先天的なものもあり、また、社会環境的な問題で後天的なことが原因で起こりうることもあるでしょうが、そのような病名に関する議論でなく、ある人間の人格を変えてしまうまでの社会環境をどうにかしない限り、心の病を持つ人が増加の一途をたどるということを言いたいのです。ディアナ・コンプレックスも考えようで、そのようなコンプレックスも創造的過程の一歩であるから発症したときに考えればいいというのではなく、発症する前に予防することを考えないと、個性化にまでは非常に時間を要し、さらに、すべての人が個性化に成功するわけではありません。ですから、真剣にこの問題を考えなくてはいけないと思うのです。

 

では逆にディアナ・コンプレックスを抑圧する女性がいたならどうしましょう。心理学的にこのような女性は女性的な一面しかありませんから、男性からはかなりの好待遇を受けます。要は男性のアニマ像を確立させやすいわけです。ところが、女性的な一面しかないがゆえに同性の女性からは相手にされにくくなります。というのも、何度も繰り返しておりますが、人間の心には男女両面の心のありようがあって初めて「心」であります。ですから、とりわけ、同性同士での付き合いとなると、女性なら男性的な面、男性なら女性的な面がなければ成立しないという基本的な心のあり様が存在します。ゆえにディアナ・コンプレックスを過度に抑圧している女性は女性から嫌われる傾向にあります。

 

今まで議論してきたように、コンプレックスというものは実に個人的な話でありつつも、女性が男性の方向へ向かうという点においては集合的無意識というものを意識せざるをえません。現代に生きる私たちは既に集合的無意識の存在を知っているがゆえに、前述の例などに触れると集合的無意識を自然と意識できるのですが、集合的無意識の存在がまだ概念として確立していない頃、ユングはこのコンプレックスの問題に取り組んでいるときにある特定の個人特有の問題を越えて、人類共通の型があると考えました。それが集合的無意識における「元型」であります。最近では元型だけを取り出してユングとは違う意味での「元型論」が発生したり、「元型論者」などと言ったりする場合があります。しかし私はそのような考え方には賛成できず、やはり元型は「自己」と共に考えるべきであると思っております。見えないものを見ようとする努力には感服いたしますが、見合ないものを見えないままそっとしておくのもユング派心理学の奥義であると思います。

 

ご高覧、ありがとうございました。

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コンプレックスシリーズも8回目に入りました。長く続けておりますが、今回はカイン・コンプレックス、次回にディアナ・コンプレックスをお話しした後、コンプレックスのまとめへと入っていこうと思います。ですから、今回を含めあと4回くらいは続きますから、お付き合いの程、よろしくお願いします。

 

少しコンプレックスを解説するのに時間に余裕ができましたので、フロイトのエディプス・コンプレックスからスローペースで話を展開しておりまして、前回は時系列的にアドラー理論に関するコンプレックスの話を展開しました。なんといいますか、前回の話では話の最後の方はストーカーに近い話で物語は終結するわけですが、ストーカーの心理というのもいろいろありまして、メサイヤ・コンプレックスのみがストーカーへ発展する心理過程ではないということを申し添えておきます。また、深層心理学で出てくる具体事例は時として人々の興味を非常に引き付け、それが笑いとなったりする場合が多々あるのですが、しかし、直観的に「おもしろい」と思っても、その症例は症例を起こしている本人にとっては非常に辛い現状でありますので、決して笑ったり、朝の朝礼の話題にするようなことは避けていただきたいです。実は、今回はカイン・コンプレックスの話をするのですが、症例そのものは本人の許可を取っているとはいえども、本人にとっては非常に辛い現実でありながら、第三者的に見ると、見方によっては「笑い」になってしまう可能性もあり、そのあたりのことを私は気にしておりますので、皆様方のご協力をお願いしたい次第であります。

 

話は変わりまして、私には10年来の友人がいまして、その友人はベーシストなのですが、私が主催するバンドでは大変いつもお世話になっているベーシストでありまして、私自身も強い信頼を置いている人物であります。人柄もよく、よく働き、ベーシストとしての腕前も非常によく、見た目もかっこいいのですが、なぜか3年前まで結婚できずにおりました。そんな彼は料理が好きで、独り身という身軽さもあり料理教室へ通うことに決めたのです。なんといいますか、私も含めミュージシャンというのは料理が好きな人が多く、舞台上では強い男の顔をしておきながら、実は朝から手の込んだ朝食を自分で作るようなミュージシャンが多く、その意味でも芸術家というものはやはりアニマというものを自然にうまく取り入れているものだと感心させられることが多々あります。話はそれましたが、その料理好きなベーシストは料理教室に通い、より一層に腕を磨こうともくろんだのでした。

 

ところがです、運命というものがいたずらするもので、料理教室という場は皆様方も既にご存知だと思いますが、主に女性が通う場でありまして、別に誰が決めたわけでもなく、男性にも開かれた場であるにもかかわらず、結果として女性が多く集まる場となっておりまして、そこにある程度の年齢を迎えた男性が入っていくと、そこにいろんな感情がうまれてくるものであります。そのベーシストはいい年をして結婚できない原因の一つとして、アニマ像の確立ができていないことは容易に想像できます。それができていれば結婚ができているはずです。ましてや職業柄、日常的に女性と接する機会は多く、出会いに困っていたわけではありません。しかしながら、どういうわけか彼は結婚に至るまでのアニマ像を確立することができずにこれまで過ごしてきたわけです。

 

もとは自分の腕を磨くため、また食べることが好きであるがゆえに通いだした料理教室であったのですが、前述のように、その場は女性がたくさん集まる所で、さらにその女性達が手の込んだ手料理をしているのを見ているうちに「料理ができる女性」において彼のアニマ像の芽生えが生じたのでありました。簡単に言うと、好きな女性ができたわけです。こうなると好きな料理はますます好きになり、もともと料理の腕前が素晴らしい彼はその腕前と持ち前の人の良さとを懸命にアピールし、その距離は徐々に近づいていくのでした。そして、いよいよある行動に彼は出たのです。それはつまり、自分が出演するライブに彼女を誘ったのであります。まあ、ここまでくるとだいたいの結論はお気づきだと思いますが、その彼女は彼の誘いを受け入れ、ライブに行くことを承諾したのでありました。彼は相当うれしかったことでしょう。なにせ、ミュージシャンの業界において、あれほど女性のファンをつかんでおきながらアニマ像を確立できなかったその人が、アニマ像を確立できたわけですから、その喜びたるや、尋常ではないはずですし、現実的に尋常、否、異常なほどでありました。というのも、そのお相手の彼女は、交換条件に彼にある頼みごとをしたのでした。それは、「納豆のかき揚げ」の作り方を教えてほしいというものでした。その彼女はものすごく納豆が好きで、家では納豆の創作料理を多く手掛けていたそうですが、納豆を油で揚げるという調理法において、なかなかうまくいかずに悩んでいたというのであります。そして、料理の腕前がいい彼ならきっと極上の「納豆のかき揚げ」を作ることができると考えた末のことであります。

 

しかしながら、関西人の彼は誠に残念ながら納豆が大嫌いでありました。誤解のないように明記しておきますが、関西のスーパーマーケットに行けば一目瞭然ですが、納豆売り場の占有率は非常に大きく、これは何を意味するかというと、関西人は実は納豆が好きであるという事実であります。その証拠に私も妻も納豆は好きであります。実はそのベーシストも納豆は食べることはできるはずではないか?と思う反面、嫌いなものを無理に勧めるわけにもいかないので、それまでの付き合いの中ではそっとしておいたのですが、前述のような彼女からのまさかの誘いにより事態は急展開し、納豆嫌いの克服を念じ、私のところへ相談しに来たわけです。

 

それにしてもその彼がどれほどまでに納豆が嫌いかを尋ねるところからカウンセリングは始まるのですが、まあ、なんといいます、納豆が嫌いな話が永遠と続くわけです。それもその時の彼の目はステージでベースを弾いているときよりも輝いており、かなり異様な光景となったわけです。しかし、私がそこで疑問に思ったのは、納豆が嫌いなことに対する思いがあまりにも客観的であり、他人を納得させるものがありました。そのような状況は逆に言えば納豆を客観的に見れているという何よりの証拠でありまして、実は納豆が好きであることが私には理解できました。そうはいっても無理やりに君は「納豆コンプレックス」であると決めつけて、それに対する療法を提供したところで何も起こらないであろうと思いつつも、一応は納豆コンプレックスであることを彼に告知したのでありました。ここが重要なのですが、告知していい人と悪い人がいまして、彼は告知してもいい人と診断しましたのでそうしたのであります。そうすると、こちらの思惑通り、しっかりとその事実を受け止めたのですが、何を思ったか、その彼は、今後の彼女との付き合いのためにも自分がどれほどまでに納豆が嫌いであるか証明したいから、自分の目の前に納豆を置いてくれと言い出したのです。しかし、既に診断は下して本人も納得しているのにそこまでする必要は何もないと思ったのですが、一応、ユング派の人間として彼の意見を尊重することとして、納豆を本人の目の前にしてみることにしました。なにか体調の変化があってはならないので、知り合いの内科医に相談してその診察室にて納豆を彼の目の前に置いた瞬間、信じられないことが起きたのであります。なんと、彼は何の前触れもなく鼻血をだしたのでした。

 

その場で内科医に鼻血の処置をしてもらい、精密検査を受けてもらったのですが、これがやはり何の異常も見つからないのです。心理学的にはノイローゼということもいえますが、そのノイローゼに至るプロセスが大切でありまして、これは納豆コンプレックスというだけでは問題は解決しないと判断し、いよいよ本格的に納豆コンプレックス解消に向けた聞き取り調査を始めたわけです。そうすると、やはり大きな問題が出てきまして、それは彼の実の家族においての幼少期における心の外傷が大きく影響していたのでした。具体的には、彼には3つ上の兄がいるのですが、この兄がまた非常に優秀なお兄さんで私も知っている有名な学者であります。一方、相談者のベーシストは勉強が苦手で、いつも両親から兄と比べられ、しかもその兄は毎朝、大量の納豆をかき混ぜながら勉強をやらない弟に勉強の大切さを、子供でありながらも親以上に説いていたそうで、それも、その説教はなぜかどんぶりのなかに大量につめこんだ納豆をかき混ぜているときにしか言うことはなく、かき混ぜた後においしそうにその大量の納豆を食べる姿を見ているうちに、いつのころからか鼻血が出るようになったというのです。

 

この話だけを聞くと笑い話となりますが、本人にとっては深刻でありまして、例えば、ホテルの朝食で隣の席の人が納豆を食べている横で、鼻血を出す彼がいるわけで、さらには、納豆のかき揚げのレシピと作り方を教えてほしいというアニマ像の対象への接近方法を解決しなければならず、事態は至って深刻であるわけです。ところで、このように詳細に調べてまいりますとその根本となることがわかってきました。それは言うまでもなく、「カイン・コンプレックス」であります。このカイン・コンプレックスというのは兄弟間での敵対心を意味するコンプレックスでありまして、それが納豆コンプレックスと結びつき、ノイローゼを発症していたのでした。さらに、せっかくのアニマ像を上述のコンプレックスが邪魔をし、自我との格闘は相当なものとなっており、彼の史上における最も困難な精神状況に追い込まれていたのでありました。

 

しかし人間というのは強くできているもので、アニマ像に対する思いが個人的無意識、いわゆるコンプレックスの働きをはるかに強い力で排除したこともあり、彼のノイローゼは思いのあるその女性に、より強力な思いを寄せることにより、ノイローゼを克服したのでありました。愛の力というのは病まで直せるわけですから、神秘とはこのようなことをいうのであるといえるでしょう。

 

次回はディアナ・コンプレックスについてお話をしようと思います。ご高覧、ありがとうございました。

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それにしてもこのコンプレックスのシリーズも7回目となりました。皆様方、お付き合いいただき、ありがとうございます。まだ終わりません。次もありますからお楽しみ。

 

前回は劣等感コンプレックスについて吟味しました。コンプレックスは無意識ですからコンプレックスが外界へ向けてエネルギーを発散するとき、行動の主体はそれを感知することはできません。それを感知するのは客体であり、その客体はそのコンプレックスによって真っ白な心に影響し、その影響は客体の個人的無意識に押し込められ、忘れ去られるのですが、しかし、それも積もり積もるとコンプレックスとして表出化されます。このように見てみると、コンプレックスというものは誰しもが持ち合わせるものであり、その意味で、組織性であるとか、もっと大きくとると地域性、最終的には国民性というように広がっていきます。ですから、地域研究を行う際にこの地域におけるコンプレックスを見抜くことにより、該当地域のマーケットの深層を理解することができます。また、組織文化論を専攻する人は、組織におけるコンプレックスを見抜くことにより該当組織の文化を見抜くことができ、その文化の強みと弱みを活かしながら組織改革へと導くことが可能となるであろうと考えられます。少なくとも私はその方法を採用しております。

 

ところで、前回において吟味した劣等感コンプレックスですが、ある抑圧されたコンプレックスが表出化される際に主体の劣等部分がここぞとばかりに出てくるわけですが、その時にその劣等部分に個人差が出てきます。例えば、前回に例とした下手なギタリストであれば、例えば、ギターの演奏が終わった後に自分がジミヘンのごとくのギタリストであるとの言葉を発したと仮定してみましょう。その表出化は、それは自分の劣等感をジミヘンというギタリストの「神」へ投影されたものであり、それが言葉として表現されたものであり、自分自身がある種の「神」のごとくの存在であるとの認識であると確認できます。こうなってくるともはや個人的無意識、いわゆる、主体が経験したことを抑圧した部分がただ単に浮いて出てきたとは考えにくく、むしろもっと無意識の深い層、すなわち、普遍的無意識より出てきた老賢者的な無意識と「ミックス」されて表出化され、そのミックスされた無意識を自我が同一視し、結果として「自我肥大」をおこしていると見立てるのが妥当であるといえます。これがもう一段ひどくなると言葉だけではなく、行動にも表れるようになります。それが「メサイヤ・コンプレックス」であります。

 

メサイヤ・コンプレックスは自分の劣等感を隠そうとするあまり、思わず行動に出てしまうコンプレックスの症状であります。例えば、年齢や入社への経緯はここでは考慮しませんが、新入社員が上司の指示なしに勝手に行動し、さらに失敗するようなケースです。その人物はとにかくあれやこれやと様々なことを思いつき、それを上司に提案することもします。そしてその上司は最初のうちは「できる部下」だと安心するのですが、次第に独りよがりな行動が目立ってきます。例えば、上司がデスクワーク中に頼んでもいないコーヒーを持ってきたり、事細かく指示したはずの資料作成に関し、指示した以外の余計な添付資料を作ってみたり、挙句の果てには、だれにも知らせていない隠れ家的な居酒屋に仕事の終わりに立ち寄ると、突如としてその部下が現れ、頼んでいない明日の会議の資料を作成したので目を通してほしいなどと懇願することがあったりします。これは自分の劣等感からくる正義感が全面的に出てきている症状でありまして、一般の人では誰にも止められません。心理療法家でもこのような症状の人を前にするとその先のかじ取りにかなり高度な判断を求められます。さらに注意が必要なのは、前述の「神ギタリスト」のように、普遍的無意識、とりわけ、アニマやらアニムスが絡んだメサイヤ・コンプレックスとなるとものすごく対応が難しくなります。男性なら女々しい正義感、女性なら男らしい正義感を全面的に出し、それが自我肥大、すなわち、その人にとってそのような状況は正当化されているわけですから、むやみに注意するわけにもいかず、組織の運営に大きな障害となるわけです。

 

実際の人間界にはいろんな問題が生じます。いわんや、人間の心は二律背反するように構造化されており、正常な人でもそのコンプレックスがいつ発症するかわからず、企業文化や地域性などを考える場合、その組織に属する人、その地域に属する人は知らずしてコンプレックスを全面的に表出化しておりまして、例えば、北海道の人が私を見て、「あっ!関西人だ!」と瞬時にして思うのは、関西人コンプレックスを表出化しているからにほかならず、逆にいえばそのコンプレックスを武器にして創造的過程としての個性化の過程を歩んでいるわけであります。

 

とはいうものの、前述のメサイヤ・コンプレックスの人を前にして指導者としてどうすればいいのか?という根本的な疑問が消えるわけではありません。もし事態が深刻な場合は産業医や医療機関に相談していただくことをお勧めします。

 

ご高覧、ありがとうございました。

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