Prof_Hiroyukiの語学・歴史談義

・歴史旅行記や言葉(日本語・フランス語・ドイツ語など)へのこだわりを書き綴ろうと考えています!    
                      
<本記事を引用された場合、その旨を御連絡頂けると有り難いです。>


テーマ:
由良姫の存在意義を有耶無耶にした為、義朝が唯の「わがまま男」に(大河ドラマ考No.71 清盛⑮) に続く「大河ドラマ考」です。


今週の「平清盛」は、第16回「さらば父上」

平家の大黒柱・忠盛(清盛の父)が今回の最後に亡くなり、清盛が新棟梁に。

「嵐(前回)は過ぎ去った」せいか、新当主のもとでも纏まり感は失われておりません。


一方、源家(河内源氏)は為義・義朝父子が対立・・・と言いましても顕著な変化ではありません。

但し、今回は「義朝の館」なるものを敢えて描写。

これによって、両者の関係が更に疎遠になったという演出は成されている様です。


(1)そして、今回は藤原忠通・頼長兄弟の対立も深刻化。

この時点での両者の官職は、次の通りです:

藤原忠通・・・摂政・前太政大臣

藤原頼長・・・左大臣・内覧・藤氏長者


ここでの注目点は、「摂政」と「内覧」の並立。

内覧とは、例えば醍醐天皇が摂政・関白を置きたくなかったために、摂関(摂政・関白)の職掌のうちの一部「天皇に奉る文書や、天皇が裁可する文書などを先に見る権利」のみを藤原時平・菅原道真に与えた事に始まる様です。

ここで「一部」とは書きましたが、内容を御覧頂ければ分かります様に「絶大な権能」を持ち得ます。

・・・この期に及んで、実質上は「二人の摂関の並立」という様相を持つに至ったのです。


これだけでも大変な事態なのですが、この藤原忠通、やる事成す事が藤原摂関家の衰退に導く事ばかりの様に思われるのです。


(2)忠通は、弟の頼長を養子に・・・これが全ての始まりに。

忠通は男子に恵まれず、23歳も下の弟・頼長を養子に迎えました。

実はこの兄弟、長い間「父子」に擬せられた関係だったのです。

摂関家の後継者なので、頼長の官位は若くして高かったという訳ですね。


(3)忠通の養子縁組の決断は早すぎた。なぜならば・・・。

養子縁組の時点で忠通は29歳。

実際には40歳代以降になって何人もの男子に恵まれますので、早まったという感は否めません。

そして、何とか実子を後継者に・・・とは誰しも考える訳です。

天智天皇が大友皇子(弘文天皇)に、足利義政が足利義尚に跡を継いで貰いたいと考えたために、それぞれ壬申の乱、応仁の乱という日本史上の大乱が勃発した事は良く知られている事でしょう。


実子を後継者とするために、忠通が頼長を「義絶」。これで対立は決定的となります。

そして、これに起因する保元の乱は「武家の台頭」を許してしまい、相対的に摂関家の地位を低下させのです。(←訂正有り)


(4)頼長抹殺で忠通の息子が摂関家後継者に。しかし・・・。

兄の基実(近衛)の系統よりも弟の兼実(九条)を後継者にするべく画策し、これが近衛家と九条家との「摂関家分裂」に繋がります。

この分裂が摂関家の更なる弱体化に。

近衛家が近衛・鷹司に、そして九条家が九条・一条・二条に分裂して「五摂家」に至る頃には、彼らが天下に号令する事は到底出来なくなってしまっていたのです。


忠通が若い頃に男子に恵まれなかった事を責めるのは酷ではあります。

しかしながら、早まった養子縁組、我が子可愛さによる養子縁組解消時のトラブル、そして庶子の偏愛・・・これら全てが摂関家の衰退に拍車を掛けた・・・と申しても、決して言い過ぎではないでしょう。

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