東京リビングストーン教会説教

主題:本当にこの人は神の子であった。

 

最後に、暗闇における3つ目の声は、イエスの声ではありませんでした。人々の声です。特に、ローマの百人隊長の声です。

 

54百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 

 

ローマ人はイエスを直接的に十字架に釘付け、イエスの死を確認した人々です。しかし、イエスの十字架の死を目撃し、彼らは意外にも「本当に、この人は神の子であった」と言いました。彼らは本来、神の言葉を知らない人々です。律法も知らず、ユダヤ教の礼拝にも参加したことのない人々でしょう。それだけでなく、神の子であるイエスを直接的に十字架にかけた人々です。ある意味、イスラエルの神から最も遠い所にいる人々です。最も神から見放され、神に裁かれるべき存在だったはずです。しかし、彼らがイエスについて「本当に神の子であった」と信仰告白しています。彼らが救われたのは、まさに神の恵みの故でした。世の中には、そのような事が度々起こります。イエスを十字架に付けた異邦人であるローマ人たち、そしてその近くにはイエスを信じた女性たちがいました。そこには最も神に近い存在であった祭司達や、イスラエル人男性の名前はありません。ここには女性と異邦人たちの名が記されています。彼らこそ、「本当に、イエスは神の子であった」と告白したのです。最も神から遠く離れていると思われていた人々が、十字架を通して、最も神に近づけられました。これが神の恵みです。神の恵みは、神の前で相応しいと思われる人々を神に近づけるよりは、神の前で最も相応しくないように思える人々を神の近づけるのです。そのような神の恵みにより、私達は救われたでしょうか?そのような神の恵みのみに頼り、今日も神に近くいるでしょうか?

 

有名な神学者であるジョン・ストットは、

「イエスの十字架は私達の為になされた出来事である前に、十字架は私達の手による出来事である」

Before we can begin to see the cross as something done for us (leading to faith and worship), we have to see it as something done by us (leading us to repentance). 

 

と言いました。十字架の死は、私達の為に示された最高の愛の表現です。しかし、その前に、十字架の死は、イエスに対する、私達の手による最悪の罪の表現です。私達は十字架を通して、私自身の手による罪を悟り、悔い改めながら、同時に、私のために身代わりに死なれたイエス様の犠牲の死を思う時に、神の前にひれ伏すしかありません。十字架を通して示された、人間の罪と神の愛こそが、福音のメッセージであり、イエスが成し遂げた救いであると信じます。ダビデがイエスの十字架の苦難を預言した詩編22編はこのようにして終わります。

 

詩編22:30命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得 31,32子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。

 

神の子であるイエスが、父なる神に見捨てられたのは、私達が二度と主から見捨てられない神の子になるためです。イエスが神に拒まれたのは、私達が神に受け入れられるようになる為であり、イエスが呪われた十字架の死刑を受けたことで、私達は罪の呪いから解放されたことを感謝します。それこそが、詩編22編31節に示された、成し遂げられた恵みの御業であります。私達はこの偉大な救いの御業を、文字通り民の末に語り告げる者になりましょう。それは、あらゆる人々に十字架の救いの恵みを告げ知らせることです。今年の受難週が、多くの人々とイエスが成し遂げた恵みの救いを分かち合い、復活の栄光と勝利に期待して歩む私達になりましょう。

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