気まぐれ更新 




今日の新ロック格言 「三本のロックンロール」



  • 10 Dec
    • ジャスティス・リーグ

      バットマンやワンダーウーマンなど、DCコミックのスーパーヒーローが結集して戦うアクション超大作。「バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生」で描かれた、自らの命を賭して地球の危機を救ったスーパーマンの行動によって、人類への信頼を取り戻したバットマンが、迫りくる強大な敵に立ち向かうため、ワンダーウーマンとともに新たな仲間を探していく。そうして集まったのは、バットマン、ワンダーウーマンに加え、アクアマン、サイボーグ、フラッシュという、いずれも一筋縄ではいかない個性の強い超人たち。バットマンは彼らをまとめあげ、地球崩壊の危機に立ち向かわなければならないが……。(映画.comより)ジャスティス・リーグ、よかった。ぼくは安心した。でも不安もあった。そんな鑑賞の感想をとりとめもなく書き付けていきたい。マーベルにはアベンジャーズがある。でもそれはDCのジャスティスリーグを参考にしたもの。つまりDCが元祖ヒーロー集合といえるだろう。しかしそれはコミックの話。さて果たして映画的にはどうか。マーベルは「マーベルシネマティックユニバース」がある。アイアンマンから始まり最新作、ブラックパンサーまで一つの世界観を共有している。その数、なんと現在まで22作品。ドラマも続々と作られてNetflixなどで公表配信中である。ディズニー傘下になってからというもの、素晴らしい勢いである。DCにはジャスティス・リーグがある。そんなマーベルに追いつけ追い越せのDCだったが、映画のコケっぷりは凄まじいものがあった。DCも世界観を統一させるため「DCEU」(DCエクステンドユニバース)を作った。当然ながら第1作目の『マンオブスティール』は新生スーパーマンの映画だった。こけた。こう、なんというか、いまひとつ面白くなかった。続く『バットマンVSスーパーマン』、同年の『スーサイドスクワッド』も面白くなかった。いや、本当にスースクはつまらなかった。何を伝えたいかもさっぱりな上に、突っ込みどころが異常に多い。マーゴット・ロビーが可愛いのとカーラ・デルヴィーニュがエロかった以外に見所がまるでなかった。もはや虫の息、というところで今年の夏に『ワンダーウーマン』が上映された。これが面白かった。戦場で人々の期待を背負い頑張るワンダーウーマンの姿には心打たれた。ストーリーもよかった。クリス・パインはいい演技をしていた。最高だった。ちょっと盛り返した。1勝3敗である。で、『ジャスティス・リーグ』はどうだったのかというと、うん、面白かった。ストーリー的にはステッペンウルフという悪役が「キューブ」と呼ばれるエネルギーの塊を求めて地球に降り立ってくるというストーリー。それぞれのヒーローの良さを生かした戦いを繰り広げる。ただ、思い入れが薄いので見ていても「お祭り映画」とまでは行かなかったのが残念だ。そこはそれぞれの映画をしっかりと作り込んで視聴者を引き込んで欲しいもんだとおもった。

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    • 移民の歌

      レッド・ツェッペリンの名曲『移民の歌』を聞いたことのない人はどれくらい居るだろう。いろいろな作品のテーマソングとして使われていたから耳にしたことくらいはあるだろう。実はそんな『移民の歌』だが、偶然か狙ってかDCとマーベルの2大アメコミ巨頭に関わる歌となっている。今日はそんな『移民の歌』とアメコミの関係性について考えたい。 そもそも『移民の歌』とは。1970年にレッド・ツェッペリンによって発表された。作詞作曲はジミー・ペイジとロバート・プラント。演奏時間2分20秒。レッド・ツェッペリンを代表するヒットナンバーである。独特のイントロと忘れられないシャウトから始まるからみんな一度聞いたら忘れられないんじゃないかな。前述の通り、今までにいくつのテーマソングになったんだろう。Wikipediaによればプロレスラーのブルーザー・ブロディ、真壁刀義、東北楽天ゴールデンイーグルスの細川、NFLのミネソタ・バイキングが使用しているらしい。ひとつの曲でこれだけ使われるのはなかなか珍しい。どうしてこんなに使われるか。それは歌詞の中身が男らしいからだと僕は思う。Ahh-ah, ahh-ahWe come from the land of the ice and snowfrom the midnight sun where the hot springs blowThe hammer of the gods will drive our ships to new landsTo fight the horde singing and crying,Valhalla, I am comingリズムを無視して文法的に正しく訳すと我々は氷と雪の大地からやってきた熱泉が吹き出す白夜の大地からやってきた歌い叫ぶ大群と戦うために神々の 槌が我々を新大陸へと駆り立てる「ヴァルハラよ、今いきます」雄々しい歌だね。まさに「闘いの歌」って感じ。しかも最後に「ヴァルハラよ、今いきます」ってあるのがカッコいいよね。ヴァルハラっていうのは北欧神話である主神オーディンの館のこと。戦士たちの霊は死んだ後にここに集められるという。つまりヴァルハラに想いを寄せるということは「闘いで名誉の戦士を遂げることを厭わない」という超人的、現代の価値観からしたら異常とも言える考えということになるね。その超人的な考え方が『ソー ラグナロク』にも当てはまっている。詳しく書くとネタバレになるから書けないんだけど、話の中身と『移民の歌』は合致してる。まあ、ソー自体が北欧神話をベースとしているからテーマソングとしてはピッタリなんだよね。 一方のDCの方と『移民の歌』はどう関わりがあるか。ワンダーウーマンと関わりがある。ワンダーウーマンがDCEU(DCエクステンドユニバース)に初登場したのは2016年の『バットマンVSスーパーマン』だった。バットマンとスーパーマンという人と神の戦いという構図に出てきたもう一人の神様的な存在。構図を崩しにきたのかお前は、などと言われることなく見せ場をバシッと作って帰って行ったワンダーウーマンに話題はかっさらわれた。その時に流れていたテーマソング。このサビの部分が『移民の歌』に似ているのである。ワンダーウーマンは地球の守護者、誇り高き女戦士、ゴッドキラーとなかなかなハイスペックキャラクターなんだけど出身はアマゾン族ということで機械化文明を知らない。WW1時も弓と剣で闘う感じだ。はあー、テレビもねえ、ラジオもねえ、といった生活をおくるアマゾン族だがワンダーウーマンは「おらこんな村いやだー」と嘆かず潔く暮らしている。それでも彼女らに文明と秩序はあり、道徳と信仰を持っている。ワンダーウーマンとは「高貴な蛮族」なのである。それは古典的なキャラクターであり、たとえば『白鯨』に出てきたクィークェッグなんかもそれに該当する。全身入れ墨、ピアスだらけで言葉も通じづらいが南の島の王族出身で独自の信仰と高潔な精神をもっている。 話はもどるけど、『移民の歌』は北欧バイキングが荒々しくそして潔く荒波に飛び出し西を目指す歌である。彼らは野蛮だが文化をもつ誇り高い戦士である。そういった部分と、先程説明したワンダーウーマンの要素がリンクするのではないかと思った次第である。

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  • 05 Nov
    • キングアーサー ーエンタメ職人ガイ・リッチーの描く神話とはー

      名実共に優れた偉大なる監督であるにも関わらず多分あたまの中身は17歳くらいから変わってないだろうなあ、と思わせてくれるイカしたイギリス人監督ガイ・リッチー。どちらかというとパンク魂というかブルーカラースピリットに溢れた男だが、今回の作品はテーマがアーサー王だと?! 観に行くしかねえ、と息巻いて劇場に行ってやっぱり面白かった。てな感じで今日は『キングアーサー』の話です。 予告編というかタイトルからいつの間にやら「聖剣無双」という文言が消去されていて笑った。コーエーテクモがすぐに「聖剣無双」という商標をとったかららしい。そりゃ彼らからしても「無双」という言葉を便乗みたいな形で使ってほしくはなかろう。(あらすじ) 「シャーロック・ホームズ」「コードネーム U.N.C.L.E.」のガイ・リッチー監督が、中世から語り継がれているアーサー王伝説をモチーフに手がけたソードアクションエンタテインメント。王の子でありながら路地裏のスラムで育った貧しい青年アーサーが、伝説の聖剣エクスカリバーを手にし、救世主として語り継がれる存在へと成長していく姿を描いた。「アーサー王」というのはイギリスの建国神話で、少年アーサーが聖剣エクスカリバーを抜いたりなんかして円卓の騎士を率いて王様になるってお話。いわゆる建国神話だね。自家の血筋が統治することの正当性を主張するためのものだ。日本であればそれは『古事記』が該当する。まま、よくある話ですな。それでもいまだに多くのイギリス人がアーサー王伝説を愛する。イングランドの危機の際にはアーサー王が復活し、収束させてくれるという伝説があるからだ。だから『アーサー王伝説』を扱った作品は結構な数が出ていると言っても過言ではない。二次創作まで含めたらもう数え切れない。(ちなみにFateに出てくるセイバーとはアーサー王のことである。イギリス人キレてもいいと思う) アーサー王伝説を扱った作品でもっとも有名、というか多くの人が見たのは1963年のディズニー映画『王様の剣』だと思う。 王様の剣 [DVD] 3,024円 Amazon 少年時代のアーサーが剣を抜き王となる、という話だ。ちなみにしばしば間違えられるがあの岩に刺さっているのはエクスカリバーではない。エクスカリバーは最初の剣が折れたのちに湖の精霊からもらったものである。 とまあ、前置きが長くなったが今まで「ウィットに富んだポップな映画」を撮りまくっていたガイ・リッチーがそんなアーサー王伝説を描くというのに驚いた。たしかにイギリス人ではあるが、その、適さないんじゃないかな。ガイ・リッチーの作家性と『アーサー王伝説』はかけ離れすぎている気がした。日本で言えば園子温が少女漫画原作映画を撮るようなものである。 ガイ・リッチーの持ち味といえば前述の通り「ポップさ」と「テンポのよさ」と「やたら喋る」である。ヒット作『スナッチ』や前作『コードネームU.N.C.L.E』を見れば分かる通り登場人物がずーっと喋っている映画が多い。ただそれがクソ邦画のような技量不足による説明セリフではない。会話そのものが独特のテンポとユーモアで映画のエッセンスとなっている。(特にコードネーム〜のラストはまさかあんな会話で終わるとは思わなかった)よく喋っているが、まるで嫌味でもないしむしろずっと聞いていたいという質の高さがそこにはある。 今回、スラム街で育ったアーサーが王になるまでを描いた話である。ということは幼少時代はまじで退屈である。実際、アーサーはポン引きや喧嘩で小銭を稼ぐだけの少年時代を送る。それをすっ飛ばしてのちにセリフで説明するのが邦画で、なんと、『キングアーサー』は幼少時をすっ飛ばすことなくテンポいい音楽でミュージックビデオ風に追っていったのである。これにはマジで仰天した。「ああ、幼少時のシーケンスだりいなあ」と予想していたぼくの思考を見透かしたようにテンポと音楽で無理くり引っ張っていったのである。さすが、観客の気持ちを理解している。 アーサーは粗っぽいところも含め、ついていきたくなるような男らしさがある。粗野ではあるが下品ではない。心の底にある気高さが要所要所で光る。だからこそ観客は逆境に立たされたアーサーを応援するし、活躍しているときは喜ぶ。王としての物語ではなく、王になる男の成長物語として描かれた今作はガイリッチーなりのアーサー王の解釈と言える。観て損はないぜ。 ところで、どうしてかは知らないが中国人が武術を教えていた。無茶苦茶な設定だが、これが不思議と馴染む。んー、すげえ技量だ。

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  • 29 Oct
    • 怪盗グルーのミニオン大脱走 ー伝説の怪盗と3人の少女と黄色い何かー

      「黄色くてよくわからん奴」ことミニオンに妻は夢中である。ゲーセンでプライズを見つければゲットし、ぷっちょのオマケは集め、ハッピーセットのグッズまで買う。イルミネーションスタジオが違う作品を作れば「早くミニオンをつくれ!」と文句まで言う始末。そんな妻が「怪盗グルー3」が出ると知ったときは狂喜乱舞だったのは言うまでもない。今日は『怪盗グルーのミニオン脱走』のお話しです。 ミニオンそのものの話は何度かしたから割愛するね。 怪盗グルーは怪盗なはずなのに今では悪人退治に精を出すエージェントに。そんなグルーに不満ぶーぶーのミニオン達。そう、ミニオンたちはグルーと楽しく悪ライフを楽しみたいのだ。それはそれとしてエージェント活動に勤しむグルー。その目の前に現れたのはプラット・バルタザールという元子役の悪党。自身が活躍した80年代の音楽と文化をビコビコ纏いながらグルーに挑むのだった。 グルーはあといっぽのところまでプラットを追い詰めるが逃がしてしまい、その責任を取る形でエージェントをクビになる。落ち込むグルーだったが、生き別れの双子の兄弟がいることが判明したのだった。 今回の悪役「プラット・バルタザール」はかつて80年代に子役として人気を博したヴィラン。でも思春期に入り人気ががた落ち。世間から忘れられた存在となってしまった。だから悪の道に染まり世間に復讐するとかしないとか。 やはり子供向け作品というだけあって悪党はあくまで悪党にすぎない。良くも悪くもそこを出ない。Evil=邪悪というよりもBad=ワルって感じで、あくまで己の美学を貫き通そうとするキャラクターが魅力的だ。だが今作のプラット・バルタザールはちょっとサイコパスっぽい。身にまとう空気はあくまで80’sの再来ということでポップな感じだけど行動原理がまったくもってサイコとしか言いようがない。プラットもグルーも望むのは「自身の実力の誇示」だが、グルーは未来を向いているのに対してプラットは過去しか向いていない。 グルーは未来を向いているキャラクターである。3人娘、マーゴ、イディス、アグネスと嫁のルーシー、あと自分を取り巻くミニオンたちと共に前向きに生きている。ワルをやめてエージェントになっても燻る「ワル魂」に折り合いをつけながら愛する家族のためにカタギとなって働く。 そんな健気な姿は『龍が如く』シリーズの主人公、桐生一馬のようだ。桐生ちゃんもヤメゴクの後に沖縄で孤児院を経営したり福岡でタクシー運転手をしたりしている。そういえば桐生ちゃんは『龍が如く5』で「俺は反吐が出るくらい極道者なんだよ!」と心の内を吐露しながらロケット弾をよけたり車のウィンドウガラスを素手でぶち破ったりしていた。グルーも『怪盗グルーの月泥棒』のラストで娘たちを助けるために素手のワンパンチでサメを倒していた。そうか、グルーは桐生ちゃんと被るキャラクターだったのか。(違う) 対するプラット・バルタザールはあくまで自身が子役として活躍していた80’sから抜け出すことができないでいる。それはどこか童心から抜け出せていない今の大人への問題提起のにように思えるけど、まあ気のせいだろう。イルミネーションスタジオがそんなことするわけがない。おそらく80年代に活躍した若手俳優を「プラットパック」と呼ぶから、そこからつけたんじゃないかななどと思ったり。でも、過去を向いているキャラクターなのは間違いない。目的の遂行のみに固執していたときのグルーとどこかかぶる。やはりグルーは出会いの中で成長し、心が豊かになっていったからこそ未来を向いていられるのだろう。完全肯定するだけでなく時には衝突もするような間柄。そういった人と出会えたグルーだから変わった。  でもそれは偶然でしかない。もしかしたら、バルタザールだって出会いによって変われるかもしれない。映画を見ていると、そう思えて仕方なかった。 2年ぶりのミニオン最新作ということでワックワクのドッキドキで観に行った。うん、面白い。面白いけど恐ろしいほどに中身がない。 でも中身がないけど、面白い。いや、かなり笑えるんだよね。ぶっちゃけ笑いっぱなし。たぶん、ブルーレイも買うと思う。ミニオン可愛いし。でも中身がないんだよ。中身がないけどそれに怒りは覚えないんだよね。なんだろう、んー、うまい棒みたいな感じかな。中身がないことを前提に話が進んでいく、みたいなね。 だから、うまい棒バナナ味を作ればいいんだよ。なんの話だ。

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  • 22 Oct
    • ハードコア ー酔うか酔われるかー

       映画を見る上で事前の知識が必要なことがある。欧米の映画であればキリスト教的価値観を知らずに映画を見ると「なんじゃこりゃ」となることがある。でもそれは知識であって、素質ではない。見る上で素質が必要な映画もある。『ハードコア』もその一つだと思う。あらすじ サイボーグ化された男性が愛する妻を救うべく壮絶な戦いに身を投じる姿を、主人公の一人称視点のみで描いた新感覚アクション。ロシア出身の新人監督イリヤ・ナイシュラーが制作したプロモーション映像がネット上で大きな反響を呼び、クラウドファウンディングによって長編映画化が実現。2015年トロント国際映画祭のミッドナイト・マッドネス部門でプレミア上映され、ピープルズチョイス・ミッドナイトマッドネス賞を受賞した。見知らぬ研究施設で目を覚ましたヘンリー。彼の身体は事故によって激しく損傷しており、妻と名乗る女性エステルによって機械の腕と脚が取り付けられる。さらに声帯を取り戻す手術に取り掛かろうとした時、施設を謎の組織が襲撃。脱出を試みたもののエステルをさらわれてしまったヘンリーは、超人的な身体能力を駆使して救出に向かう。「第9地区」のシャルト・コプリー、「イコライザー」のヘイリー・ベネット、「レザボア・ドッグス」のティム・ロスらが出演。 原題は『HARDCORE HENRY』訳すなら「筋金入りのヘンリー」というところだろうか。事故でサイボーグ化した上にサイキック野郎が自分の恋人を攫うもんだから、武装してぶっ倒しにいく!という単純明快、銃口花火、機械人間、まさにハードコアヘンリーなのである。喋れないし主観視点だから顔もわからないけど。 さてこの作品、始まってから終わるまでずーっと一人称視点なのである。一人称視点といえば『ブレアウィッチプロジェクト』とか『クローバーフィールド』を思い浮かべるかもしれない。だがあれはあくまで「資料映像」という視点で取られていたが今作は違う!主人公はサイボーグ!サイボーグだから目玉はカメラ!観客は本当に主人公の視点で映画を追体験するのだ!て感じである。 そう、これはFPS=ファーストパーソンシューティング(一人称視点のシューティング)映画なのである。 ティムロスなんて本当に少ししか出てこないし、シャルトコプリーはよく死ぬし、撃って殴って刺してぶっ殺す。 「正義とは」とか「人間とは」とかまるで関係ない。 テンション爆上がりでトリガーハッピーだ馬鹿野郎!以上、感想というか単なるぶちまけでした。

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    • ミス・ペレグリンと奇妙な子供達 ーこれXメンじゃね?ー

       原作小説は『ハヤブサが守る家』だった。すげえかっこいい名前じゃん!と思ったが、映画公開と同時に「ミス・ペレグリンと奇妙な子供達」にタイトルが変更になった。だせえ!むしろ映画のタイトルを変えやがれ、と割と本気で僕は思った。 今日はそんな『ミス・ペレグリンと奇妙な子供達』の話です。あらすじ 周囲になじめない孤独な少年ジェイクは、唯一の理解者だった祖父の遺言に従い、森の奥にある古めかしい屋敷を見つける。そこには、美しくも厳格な女性ミス・ペレグリンの保護のもと、空中浮遊能力を持つ少女や透明人間の男の子、常に無口な双子といった、奇妙な子どもたちが暮らしていた。 はい、あらすじを読んでいてあなたは気づいたでしょう。「またティムバートンのこれかよ!」というあれです、あれ。つまりですね、このおじさん、そうバートン監督。いい笑顔。このおじさんの作品の多くに共通するテーマは「社会に馴染めない自分が居心地がいい場所ってここだよね」という、永遠に終わらない自分探しのようなもの。『バットマン』も『ナイトメアビフォアクリスマス』もそんな感じだった。このおじさんも社会から疎外感を覚えているのだろう。で、今作の『ミス・ペレグリン』はマジで本当にそれ以外の何物でもない感じだった。 毎日こんなこと考えているからヘレナ・ボナムカーターの別れたのか?と思わざるを得ない。まあ、そんなことないんだろうけど。 とりあえず作り続ける作品の全てにそんな個人的な感情をぶっ込んでも批判されないのはもはやすげえとしか言いようがない。世間が求めているか諦めているか気づいていないかの3パターンである。 というわけで今後もバートン作品はこんな感じなんだろうなと思わされる。 だがそんなものはごく一部のシネフィルくらいしか気にしない。僕が最も気になったのは全編から漂うX-MEN感である。(いや、それは原作が悪いのか?)その能力とは・空気より軽い・降霊術で人形に命を吹き込む・指先から炎を出す・透明人間・怪力・植物の成長を早める・お腹の中に蜂を飼っているなどなど。 まじ全員ミュータント、これはまごうことなくミュータント。X-MENの中に出てきてもきっと違和感がないだろう。特に「指先から炎を出す」ね。これはマグニートー側のパイロと近い能力だ。あ、サンファイヤかも。どっちでもいいけど。 特殊能力を持った子達が世間から身を隠すように寄宿舎で共に学び合うその姿はまさにX-MEN。ほとんど一緒じゃん!違うのは指導者がハゲか綺麗なお姉さんかだ。 まあ、指導者としては確実にエグゼビア教授の方が質が高いので迷ったらX-MENに行けばいいと思う。(なんの話だよ) そしてこのブログ、ここまで書いておいてまるでストーリーに触れていないという意識の低さ。いや、でも、ティムバートンの映画だし。ストーリーとかみんな気にして観てるの?という個人的な偏見によってそうなっているのである。 だが安心してほしい。この映画、観たところで「とっても心に残った」とか「明日も頑張ろうと思えた」とかそういう気持ちには一切してくれない。「へえ、そうなんだ」という割とどうてもいい気持ちにさせてくれる。知人が「自分の子が幼稚園の運動会で活躍する様を話してくれた時」に似ている。 豊作続きの今年にしては、凡作、という印象を受けたことは否めない。そして近頃よく見る「またサミュエル・L・ジャクソンの悪役かよ」である。あの人悪役多くね?自分の目で確かめてほしい。そして鑑賞後、あなたはこういうだろう。「これX-MENじゃね?」

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  • 21 Oct
    • 美女と野獣 ー

      『ララランド』を蹴ってまでエマ・ワトソンはこの『美女と野獣』に出たかったらしい。そこまでして思い入れが強いかそうか見てみようぜ、と映画館に乗り込んだ僕を待ち受けていたのは複雑に絡み合う悲劇だった。そんな『美女と野獣』の話です。 そういや数年前にも『美女と野獣』は映画化されたがあれは原作の映画化であり、今回はディズニーアニメの映画化なので名前は同じでも実質別物である。なんてったって今回はミュージカル。アニメの方はアカデミー賞にもノミネートされた名作だから期待は自然と高まるよね。デートムービーとして最適でしょ!嫁さんと観に行ったぜ!(僕は本当は『ハードコア』が見たかった) そして始まるオープニング。以下、僕の当時の心境を主観的に書く。お察しください。 ベルが高らかに状況説明をしてくれているぞ。そうか、女に教養なんていらないと思われていた時代なのか。ふーん、へえー。この時代のフランスに黒人がいるのかえ。あー、ロバを使って自動洗濯マシーンを作ったのね。へえー……あー、あれはガストンか。ケツアゴじゃねえんだ?横にいるのはディズニー映画初のゲイキャラのエミールだな。動きがジャックブラックそっくりだな。もうジャックブラックにやってもらえよ……あ、ガストンよく見たらルーク・エヴァンスじゃん。おまえ、『ドラキュラゼロ』に戻りやがれ。ふーん、へえー……あ、オープニング終わった。というわけでお分かり頂いたと思うが、オープニングが絶望的につまらんのである。しかしアニメの方では別にそんな気はしなかった。おそらく、アニメは「アニメだしね」という前提が心にあったからだと思う。いや、まて、それでも他の作品と比較してもあのオープニングは出来が悪かったな。 そもそも『美女と野獣』は良い意味でも悪い意味でも『ララランド』に引き摺られている。つまり、『ララランド』を見て「ミュージカルって面白そう!」とミュージカルへの抵抗を排除された人が劇場に来ることになった。だが『美女と野獣』のオープニングを見せつけられて「ララランドの方がオープニング良かったなー」と思われるのである。同じ時期にミュージカルが二つ出てくるってのは稀有なことだが、起きてしまったからには仕方あるまい。 でも観客はオープニングが始まった瞬間に期待するよね。「これからどんな話が始まるんだろう」と。たとえば『ヘアスプレー』の「Good morning Baltimore」とかね。「この女の子がどんな状況に見舞われるのだろう」って思うよ。というかあの歌、かなりどうでもいいことを歌ってる。「腹へった」とか「バーで人が飲んだくれてる」とか。 でも、太ったトレーシーって名前の女の子がなんか楽しそうにしているのだけはわかる。時代背景、人物設定、それをショットで見せて歌にのせて流す。だから、その世界に強く惹き付けられる。単なる説明に止まらない。 『ララランド』の「Another day of sun」なんかは真逆で、高速道路の渋滞から突如として歌が始まる。しかも歌ってる人は主人公でもなんでもない。このシーンにしか出てこない人たち。それでも周囲を巻き込んでミュージカルが始まるっていうその絵面には凄いパワーがあった。何も説明しない。感性で「こういう世界です」とぶつけてくる感じ。「えれえモノが始まったぜ!」と僕たちに期待させてくれる。 対する『美女と野獣』のオープニングは引き込む力が弱かった。「あら、そう」という感想しか生まれてこなかった。残念。というかのっけからこれかよ、と不安に思ったが実は隠れ名シーンがこの映画にはあった。 ベル絡みのシーンは殆どつまらない。あの舞踏会のシーンもこんなにつまらなくなるのかと違う意味で感心した。ただー、先述のガストンが絡むシーンはだいたい面白い。なぜならガストンは悩まない脳筋だからだ。酒場で高らかに歌い上げて「俺は男前で腕っぷしも強いぜ!」と言って憚らない様は映画ならではの馬鹿馬鹿しさに溢れている。そして、エネルギッシュだ。みんなで酒場で楽しそうに歌うからこっちもなんか楽しくなってくる。「真実の愛を見つけないと死ぬ」的なバケモノがお城で引きこもっている間に、街中では馬鹿が楽しく酔ってるんだぜ。その馬鹿の方がよっぽど人間らしいわ。そう、ミュージカルとは「楽しそうだ!」と思えるシーンが素晴らしいのだ、たぶん。というわけで敵役の方が魅力的という本末転倒なミュージカルだと思ってくれ。しかし、実は、それだけではない。今作においてもっとも重要な課題は解決されないまま話は進む。それは「エマ・ワトソンがベルに見えない」という根本的な課題である。だって、ずっと不敵な笑みを浮かべたままなんだもん。あれ、ベルって不敵な笑みを浮かべる人だったっけ?画像検索をした結果、そうでもなかった。たしかにディズニー映画が女性の立場を反映させて「意志の強い女性」を出そうとするのはわかる。だけどさ、だからって、ずっと眉を潜めて片口上げてるニヒリズムを貫かなくてもいいんじゃないかな……いやもうこれ今後、エマ・ワトソンがどの映画に出てもそう見える気がする。いつでも自信満々に不敵な笑みを浮かべるあれ。たぶん、悪女役には出来ないど正面な不敵さは使い所が難しいだろうな。本人はフェミニストだから男に媚びるような笑顔は出来ないだろうし。関係ない話だけど、この人って顔が男前だからまるで性的な感じがしないよね。さあ、こんなにグダグダと書いているが世間の中では評判は悪くない。むしろ僕の周りには高評価を下す人も多かった。

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  • 05 Oct
    • ”ありがとうと無視”

      そんな非科学的なことがあるかよ。なんで炭水化物が言語とそれに込められた意味を理解できるんだよ。用意された瓶に付着していた菌の差としか思えない。改めて別の機会で突っ込みをいれるとしよう。

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  • 01 Oct
    • ザ・コンサルタントー不正会計を暴力で正せー

       ベン・アフレックを見るたびに僕は「わあ、かっこいいなあ」と思うが妻は「ケツアゴだなあ」と思うらしい。お陰で妻の中では「ケツアゴの人」というあだ名がついたらしく、「あのケツアゴの人の映画ってなんだっけ?」というアーロン・エッカートのような他のケツアゴに申し訳ない会話が我が家では繰り広げられるのだった。今日はそんなベン・ケツアゴ・アフレックの『ザ・コンサルタント』の話です。【あらすじ】「アルゴ」のベン・アフレックが、凄腕の殺し屋の顔を持つ謎の会計士を演じたサスペンスアクション。田舎町のしがない会計士クリスチャン・ウルフには、世界中の危険人物の裏帳簿を仕切り、年収10億円を稼ぎ出す命中率100%のスナイパーというもう一つの顔があった。そんなウルフにある日、大企業からの財務調査の依頼が舞い込んだ。ウルフは重大な不正を見つけるが、その依頼はなぜか一方的に打ち切られ、その日からウルフは何者かに命を狙われるようになる。(映画.comより)本作、単なるアクション映画ではない。主人公がアスペルガー症候群を患っているという障害者映画でもある。通常、障害者映画(邦画)では「愛情」とか「友情」とかで障害を認めた上で「障害も個性のひとつだよね」という手垢の着いた理想論で終わることがある。障害者の役もイケメンが演じることが多い。『サブイボマスク』の天真爛漫な小池徹平とか見てて「そんな奴はいねえよ」と本気で思った。 今だから言うけどな、ああいう知的に障害をおもちでらっしゃる方にまとわりつかれるのはかなり精神的なダメージを受けるからな。俺なんか転職したのにはしゃぎ回る子供を見るたびにフラッシュバックして辛いんだぞ。PTSDかよ。だから邦画の障害者映画を観るたびに、真面目に障害者に取り組みやがれ!必要以上に美化されても何も伝わらないだろ!監督は『チョコレートドーナツ』観ろ、ぼけ、カス!あとファンキー加藤……あれ、消えたな。とまあ、ぬるい感動の道具として障害者は扱われることが多い。だがしかし、今作はそんな生ぬるくない!主人公クリスチャンの父親がバリバリの軍人である。そのため「障害を矯正する」と謎の発想を展開。・強いフラッシュライトを当てる(アスペルガーは感覚刺激に敏感)・爆音でメタルを聞かせる(アスペルガーは感覚刺激に敏感)・脛をすりこぎ棒でこする(アスペルガーは感覚刺激に……あれ?)と、常軌を逸した矯正が行われるのである常人でも気が触れると思う。(ちなみにこの段階で奥さんは逃げた。当たり前だ)更に父親は息子クリスチャンを鍛えるためにインドネシアに移動。本場のシラットを学ばせるのだった。目の付け所はいいけど違うと思う。 そりゃあ障害者の方は手に職つけた方が後々就職などで便利かもしれない。でもだからって何で本場のシラットなの。シラットを身につけると本人にどう有利なの?そんな僕たちの些細な疑問を無視してメキメキと鍛えられていくクリスチャン。 お陰で立派な戦闘マシーンとなってしまった。もう父親が本気で矯正させる気持ちがあったか怪しい。たぶん、真面目に調べないで思い込みだけでやってたと思う。ていうか真面目に調べたら「障害は矯正するもんじゃないな」って結論に行き着くと思う。こんなのが軍人だったなんてアメリカ軍は人材の宝庫だな!途中、いじめっ子に素手で立ち向かう、というベストキッド的な展開もあったが「シラットで立ち向かうってやべえだろ」と応援する気持ちが1mmも生まれない主人公になったとさ。まあ、そんなこともあったけど軍には入れたからいいよね……ってなところでクリスチャン紆余曲折あって刑務所に。そこで囚人から会計学と人間関係を学び、アスペルガー特有の場の空気を完全無視した発言で凍りつく周りに「冗談だよ」と言えるくらいのスキルを身に付けたのだった。 ちなみにこのスキルが役に立つのは冒頭40分まで。後はもう会計も冗談もないくらいの殺戮ショーが始まる。よくある「障害に悩む」とか「障害故に人から傷つけられる」とかそういった要素まるでなし。「どうして人と分かりあえないんだろう」などと一言も言わないし思ってもない。 もう単にキレたベン・アフレックが正確な射撃とイカれたシラットで敵をぶっ殺す様がスクリーンに流れるし、見ていてアドレナリンも流れた。やっぱり映画はこうでなくちゃな!昨今の邦画みたいな「学園一のイケメンが普通のあたしと」的な映画が好きな奴はこれみて学べ。いざというときに役に立つのはシラットと銃撃。どんなときでもヘッドショットは欠かさないプロ根性。いつだって冷静でいる心の落ち着き。どうだ、線の細いイケメンにはできまい。いや、普通の人にもできない。 さて、僕はベン・アフレックがどれくらい苦戦するかを映画館で注目するという実にしょーもない癖がある。ヒーロー映画やアクション映画に多く出演からこそ気になるってもんである。今回の敵は、正直そうでもなかった!結局はベン・アフレックの殺戮ショーに蹂躙されて終わりだ。残念、もうちょっとガンバってほしかった。ちなみに個人的にベン・アフレックがもっとも苦戦したのは『ゴーンガール』のロザムンド・パイクだと思っている。というかロザムンド・パイク自身が007を手伝ったり爆発から酔っぱらいを超技巧ドライビングで救ったりとエグい活躍っぷりを見せつけてくれているから苦戦するのもやむ無しって感じである。今年公開の『ジャスティス・リーグ』では、ベン・アフレックの苦戦が期待される。どれくらい苦戦し、またどれくらい盛り返すかを確認しよう!(やべ、ザ・コンサルタント関係ないや)

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  • 17 Sep
    • 東京新聞の望月衣塑子記者を応援しよう!

      どうも。弐番です。まずはこちらをご覧ください。東京新聞・望月衣塑子記者が産経記事「リーク」発言を撤回 官房長官会見で「まず初めに」と切り出して一方的に…東京新聞社会部に望月衣塑子という記者がいる。これがすごい。何がすごいかといえば官房長官の記者会見で一方的に演説のように話したり、他社のソースで質問したり、トンチンカンな質問をしたりするのだ。どんなトンチンカンな質問かといえば「菅官房長官も出会い系バーで調査しないのか」「金正恩第一書記の要望に応えるように日韓に働きかけないのか」「最近、ネットで私に対する批判が多いけど官邸はどう思うのか」はっきり言って、記者としてのクォリティにいるとは思えない。僕からしたら高校生がなんとなく考えてみた質問をぶつけているようにしか見えない。そしてなんと、自分でこう思っているらしい。望月衣塑子 それでも私は権力と戦う「権力と戦う」これは、戦えている人間が言うべきセリフである。望月は戦えていない。噛み付いているだけである。トラックを犬が追いかけていて、犬は戦っているつもりでもトラックはそんなつもりはないだろう。戦いとは同じ土俵に立つもの同士で起こる。望月はその土俵に立てていない。同じ土俵に立てているというなら証拠を見せて欲しい。彼女は自分自身をジャンヌダルクだと思っているらしいが、その実はドン・キホーテでしかない。さしずめ東京新聞はロシナンテってところか。「勘違い」の風刺画がそのまま歩いているような女である。というか自社の内部も調べられないとか記者の能力としては壊滅的に無に等しいとしか思えない。勘違いと妄想だけで生きているんだろうな。というわけで望月記者を「反権力会のドン・キホーテ」と呼ぶことにする。さて、望月も相当だが、その彼女を応援する奴らも相当である。ツイッターがバカ発見器と呼ばれて久しいが、本当にバカしかいないと思った。彼らのツイートの内容は望月記者への応援で溢れており、応援する理由は「菅官房長官が質問で困っているから」というものであった。これをバカと言わずになんというのか。というわけで奴らが望月記者以外に応援していそうなものを考えた。高速道路の渋滞(官房長官も渋滞とか困っちゃうよね)地球温暖化現象(熱帯夜とかで寝苦しいよね)指の関節を刺す蚊(めっちゃ掻きづらいよね)夜中の酔っ払い(うるさいしくさいよね)ゴミを出すときにちゃんとネットに入れない人(カラスが荒らすんだよね)こんなもんじゃないか。だって奴らは「菅官房長官を意味もなく困らせるもの」を応援するんだから上記のものだってきっと応援しているはずである。そうじゃなければ彼らの目からみた望月記者はとても真を喰った質問をする敏腕記者という姿に見えることになる。え、見えてるの?あそう。さて、タイトルの「応援しよう!」という気持ちに嘘はない。望月記者が頑張れば頑張るほど東京新聞の異常性が露見されるからである。これからも頑張れよ。

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    • <大人>という幻想

       フランスの歴史家、フィリップ・アリエスが著書『〈子供〉の誕生』で述べるには、なんと中世のフランスには子供と大人の線引きは特になかったというのである。別に恋愛も飲酒も8歳くらいから好きにさせてたというのだ。現在の「子供は教育しなきゃだめだよね」という価値基準から判断するなら完全にアナーキズムである。そりゃペストも蔓延するぜ、というと誰かに怒られそうなんだけど思っちゃいませんかね? まあ、現代と中世フランスは社会構造そのものが違うから比較するのもなんともナンセンスといえばそうなんだけどね。 「大人」「子供」と書いてて思ったけど、最近、中島馬旺くんという小学生哲学者の存在をテレビで知った。どうやら“バオ”と読むらしい。”バオー”だとばかり思っていたよ。バルバルバル。それで、彼は小学生ながら哲学者としていろいろな活動を広げているらしい。ツイッターを軽く読んでみたが、まあ、なんだろう。子供が一生懸命に考えた「哲学っぽいこと」が並べられているだけで、特に心に響かなかった。 子供というのはシンプルな世界観を持つ生き物だ。それ故に多角的にものを見られないが、それ故にこだわりなくものことを見ることがある。いい意味でも悪い意味でも「偏見がない」のだ。偏見=バイアスとはその人のバックグラウンドから生まれる。ではバックグラウンドなきバイアスとはいったいなんだろうか。実体験を伴わない「知識」だけではなかろうか。馬旺くんの言葉が僕に響かなかったのは彼自身の経験のなさが彼の言葉から透けて見え、そして彼もそれを覆い隠すようにレトリックやメタファにこった言い方をするのがヤダ味に感じられるからだ。彼自身は「子ども扱いしないでほしい」というが、彼が大人たり得るだけの根拠がない現状ではどうしても子ども扱いせざるを得ないのである。大人である条件を満たす前に「大人扱いしてくれ」というのであれば、それは破滅願望と大差ないと思う。馬旺くんは不登校児童だ。別にそれはいいんだけど、それを正当化するように「僕はほかの子供と違う。もう大人なんだ」と思っているなら、それは現実を直視することを拒否しているだけでしかないだろう。今現在に大人扱いをされたとき、はたして彼は彼の貧弱な社会経験で生き延びることができるのだろうか。はなはだ疑問である。いや、違うな。問題なのは彼が自身が大人であることを他を利用して既成事実化させようとしていることだろう。名乗ったところで大人にはなれないのに。 「大人と子供」というのは自身の中で巻き起こる成長であり、同時に老化でもある。それは永遠のテーマだろう。小林幸子の「ポケットのファンタジー」という歌は「早く大人になりたいんだ」の歌いだしから始まる、大人から子供へ、子供から大人へのメッセージをうたった作品だった。大人というのは子供にとって大きな存在だ。行動範囲だって広がるし財力もあるから何でもできるように思える。逆に大人からすれば子供にはしらがみといったものがないから、自由な存在に思える。どっちにせよ無いものねだりでしかない。そうしてこの歌を聴いているうちにある疑問が思い浮かぶ。はたして「大人」とはなんなのか。 『リトルプリンス』を見ていて思ったが、人が「大人」というキャラクターに対して抱くイメージというのは「感情を捨てた合理主義者」「夢と理想を否定する現実主義者」てなもんである。そして今強く思う。それならどれほどいいだろうか。もしすべての大人が本当にそうなら世の中はシステマティックに回っているはずである。だがしかし、そうではない。世の中はいまだに大人になりきれない人間が大勢いる。「子供っぽさ」と大人になりきれない人間はまた違う。うまくは言えないが判断基準が成熟しているかどうか、というところが大人かそうでないかを分けると思う。そして判断基準なんて自分の立ち位置や時代によって大きく揺れ動くものだから、自信が持てなくても仕方がない。だから時たま「自分は社会に適合できているのだろうか」とか思うのも無理はないのだ。と自分を正当化する。とにかく、税金を払っている時点で大人だもんねえ。と思っている。 今、再発見されるべきは〈大人〉ではないだろうか。

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  • 16 Sep
    • 悪党論 第三回 ミスターフリーズ

      どうも。酔ってます。弐番です。バットマンに登場するヴィラン(悪役)に「ミスターフリーズ」というのがいる。ぼくはこのヴィランが好きだ。なぜなら他のヴィランと少し違う要素があるし、なによりこのミスターフリーズのもつ悲劇性に大きく惹かれて止ま無いからである。というわけで今回は『ミスターフリーズ』を特集する。ところでいうまでもないけど、みんなバットマンは知ってるよね。ああ、知らない。じゃあちょっと説明するね。バットマンことブルース・ウェインは幼少時に両親を犯罪で失う過去を持つ。ブルースは青年期に「影の同盟」という組織に入り鍛え上げ、生まれ故郷であるゴッサムシティに帰還。犯罪者を非合法に取り締まる自警団=ヴィジランテのバットマンとして活躍するようになる。ごめん、酔ってるから説明が適当なんだ。でも、まあ、そういうことだ。ブルースは親から引き継いだ「ウェインカンパニー」で社長をしながら夜な夜な犯罪者を追い詰めている。ハイテクメカとかガンガン使うぜ。私財を投げ打って。それって狂ってるだろ。というわけでバットマンは半分狂人みてえなもんである。だからヴィランも狂人ぞろいである。ジョーカーに、ペンギンに、ポイズンアイビーに、キャットウーマンと。つまりヴィランはバットマンのダークサイドなのである。戦う理由なんていい加減なもので、ジョーカーに至っては「バットマンと戦えるから」とかいうとんでもないものでもある。その中においてミスターフリーズの戦う理由は「妻のため」である。というのも彼の奥さんは不治の病を抱えており現在コールドスリープ状態であり、フリーズは彼女の治療費と治療法のために強盗などを犯すのである。そして科学力がすごい。バットマンのヴィランは結構なアナログ体質が多くてだいたい「銃」とか「爆弾」とか、まあ、スケアクロウが「ガス」という化学兵器を使うくらいか。その中においてフリーズが使うのは「冷凍銃」というハチャメチャにハイテクな代物。さすが天才科学者だぜ。というわけで、彼は本当にすごいやつなのだ。

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  • 13 Jul
    • 悪党論 第二回 トレメイン夫人

      どうも。弐番です。あついですね。本日も悪党万歳のコーナー?です。『シンデレラ』という話がある。いわゆる苦労人の女の子が成功するストーリーだ。いまでも「シンデレラストーリー」と言われるくらい成功物語の一般形容詞化した存在だ。シンデレラには明確な悪役は3人いる。継母とその娘二人だ。といっても別に特殊能力は無いのでシンデレラに嫌がらせを続けるという悪役だ。現実味があって嫌だな。さて、皆さんに問いたい。皆さんはこのシンデレラの継母、トレメイン夫人の最後を思い出せるか?ディズニーは悪役の明確な死を描かない。「死」を匂わせるだけだ。だが、だが、存在そのものがどうなったかと言われるとどうだ。あなたはトレメイン夫人の最後を思い出せるか?僕は一生懸命思い出そうとした。3ヶ月分くらい頭脳を使った気がする。どういうパターンだったか。死の暗示か?でも、死ぬとして誰が殺すんだ。もしくはガストンのような滑落死?どういうシチュだよ。そもそも、あれじゃないか。シンデレラって「最後、王子様と仲よく暮らしました」で終わったよな。そういえば『イントゥザウッズ』では姉妹は鳥に目をえぐられていたな。うーむ、うーむ。必死に頭をひねる。するとどうだ。出てきた答えが焼 き 土 下 座絶対違う。いや、まあ、それはそれで面白いけど。悪役としてみると「意地悪いばばあ」というだけのトレメイン夫人。それゆえになかなか強烈なキャラクターである。見よ、この冷めた目。つまらない芸人を見るような目つきである。ぼくも下ネタで滑るとこういう目を人からされる。ちなみにその視線の先にいるのはシンデレラだ。夫人はシンデレラが自分よりも美しいために嫉妬しているのだという。動機が実にしょうもない。昨今、ディズニーの悪役に焦点を当てた「ディズニーヴィランズ」が流行しているが、トレメイン夫人だけは誰も好きになれ無いだろう。だって、意地の悪い嫉妬に狂ったババアだし。アースラは強大な魔力を持った魔女キャプテンフックは海賊船長マレフィセントはドラゴンに変身できる白雪姫の魔女はりんごに毒を仕込むことができるジャファーも強大な魔法使い魔法使い多すぎ!でも、トレメイン夫人は嫉妬に狂ったババア。ちなみに夫人には実の娘が二人いる。夫人は娘を溺愛しているが理由は一目瞭然。もっとマシな顔で生まれてくればよかったな。まあ、でもマシな顔で生まれてくるといじめられていた可能性が高い。ちなみに3人並ぶとこんな感じである。マーベラス。てなわけで、トレメイン夫人は今後もフィーチャーされることないだろう。だが、一番リアルないやな悪役であることは間違いない。是非ともトレメイン夫人のスピンオフなどをやってほしいものだ。実の娘二人がブッサイクに発達していく様に葛藤する様子を描いて欲しい。

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  • 18 Jun
    • 悪党論 第一回 「ロッツォハグベア」

       どうも。弐番です。 映画の中の悪党というのは、どうも魅力的なものが多い。本当は主人公の邪魔をする立場なのに、ふとすると応援してしまっていることがある。あのヒッチコックも「悪役がダメな映画はダメだ」と言っていたから、案外そういう人も多いのかもしれない。このコーナーではそんな映画の中の悪党で、僕が気になったやつを紹介していく。画像はコーナーとは関係のない、なんとなく作ってみたものである。 さて、記念すべき第一回に取り上げるのは『トイストーリー3』に出てきたピンク色の淫乱テディベアことロッツォである。なぜこいつかといえば、こいつはディズニー作品においても類を見ない可哀想なやつだからである。Wikipediaから概要を拾ってこよう。ロッツォ・ハグベア (Lots-o'-Huggin' Bear/Lotso)長年サニーサイドにいるピンクの熊のぬいぐるみ。苺のにおいがするらしい。日本でも1980年代に『ハグハグベアちゃん』として売られていた。以前の持ち主である少女「デイジー」に後述のビッグ・ベビー、チャックルズと共に手違いで置き去りにされてしまい、自力で帰りついた先(=デイジーの家)で新しいロッツォが可愛がられているのを見て以降、性格が歪んでしまう。サニーサイドを力で支配しており、チョウチョ組のおもちゃが壊されないように、新入りのおもちゃをイモムシ組に閉じ込めている、三作目のウッディたちの敵である。劇中では杖(おもちゃのハンマー)をついているが、これはサニーサイドの前でピザ・プラネットの車から転落し怪我をしたためである。そのシーンの前後で歩き方が異なっている。  これにまつわる映画ライター高橋ヨシキ氏と小玉ゆうい氏のやりとりが面白かった。 小玉ゆういが「ロッツォは可哀想な子。ちゃんと愛情を注いでやれば更生する」と主張し、自分もロッツォのぬいぐるみを購入して可愛がっているのだという。 それに対する高橋ヨシキの反論が面白い。「ロッツォって逆恨み復習型の悪役ですよね。そういうやつってなかなか更生しないと思う」 だが小玉ゆういも引き下がらない。「でも、映画で最後にゴミ収集のお兄さんに拾われたじゃないですか。彼が可愛がってやればいい」 高橋ヨシキ、何を考えているのか「あれは『トイストーリー』に出てきたシドですよね。あいつはおもちゃを改造して遊ぶやつだから」 小玉ゆうい、気分を害しながら「なんでそんなこと言うんですか」と少しキレる。 まあ小玉ゆういの気持ちもわからんでもないが、実際にロッツォを拾ったのはトイストーリー1の悪役、シドである。「同じTシャツ着てるだけじゃないの?」とお思いかもしれないが、声優も同じなのでシドなのである。わざわざ引退した声優をこのために引っ張ってきたのだ。ちなみにこのシド、最終的にロッツォを収集車のバンパーにくくりつけて運転する。やっぱり性格が治っていないシドであった。いや、もしかしたら悪意なくやっている可能性も十分にあり得る。でもそれはそれで嫌だ。というかこのシチュエーションって『マッドマックス2』のロードウォリアーが交渉しにきたシーンに似ている。(マッドマックスFRでもリブートしたこのシーンは最高だ)シド、時代が時代ならヒャッハー!していたに違いない。 さて、ロッツォの立場というのは非常に面白い。やつの心は深く傷ついていて、というのも信じていたものに裏切られた悲しみ故だからであり、そのせいで人間性を失ったとも見える。 おもちゃというのは人の手によって作られ、人に娯楽を与えることが使命であり天命であるとして存在する。おもちゃにとって人間とは持ち主であり、それは人間社会に置き換えるところの「主」すなわち神と等しい存在である。 人は神の愛を受けようと善行を積む。ウッディたちも持ち主であるアンディに遊んでもらうために必死に努力する。(報われないけど) ウッディたちは一度、アンディの元を離れるが最終的に帰っていく。諦めかけたが彼らは最後までアンディを信じた。だから途中、溶鉱炉に落ちそうになるシーンで救われたのも必然と言える。神は自らを信じるものを捨てたりはしない。 ところが、人間を信じなくなったロッツォにはバンパーに括り付けられるというパンクな最後が待っている。ロッツォは神に見捨てられた存在なのだ。 ロッツォもアンディも「不慮の落下からの生還」という行為は果たしている。だが、その先に持ち主がちゃんとしていたかそうでないかで彼らの命運が分かれた。ロッツォだって元の持ち主が新しい自分と同タイプのぬいぐるみを買っていなければああはならなかったろう。そこがロッツォの試練だったのだと思う。 そこがロッツォの試練だったのだ。 あれを乗り越えて神を信じ続ければロッツォにも救いはあったのではないかと思われる。 だがまさに世は不条理。与えられた試練が大きすぎる。 と、ぼくは思うのだった。 ちなみにロッツォがこれから救われる方法というのは、電気ショックというものがある。 のちにキリスト教の聖人となる男が神を憎んでいた際、落雷に会い「なぜ私を憎むのか」という声を聞き、改心したというエピソードに基づくのだ。だからロッツォよ、嵐を待って頑張れよ!まあ、改心してもバンパーに括り付けられたままだけど!

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  • 24 May
    • 攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL

      GHSOT IN THE SHELL監督ルパート・サンダース製作アビ・アラドアリ・アラドスティーブン・ポールマイケル・コスティガンキャスト スカーレット・ヨハンソン少佐 ピルウ・アスベックバトー ビートたけし荒巻 ジュリエット・ビノシュオウレイ博士 マイケル・カルメン・ピットクゼゴーストインザシェルを見てきた。原作は「攻殻機動隊」という漫画というかアニメというかアニメ映画というか、まあ、いろいろである。あまりにも多すぎて「どこから手をつけていいかわからない」状態の人もいると思われる。ていうか、ほとんどの人がそうだと思われる。なぜそんなに多いのかといえば、それは待ちわびるファンが多いからに他ならない。ファンとしては多くの形の攻殻機動隊を見たいのだ。リブートにリブートを重ねる攻殻機動隊をファンは愛してきたのだと思う。ちょくちょく変わる設定も、別に愛嬌って何も感じてなかったでしょ?そういう意味では、今作の実写映画も攻殻機動隊の一つの形ではある。僕は特別に攻殻機動隊が好きなわけでもないので、上映後に「おもしろかったなあ」という感想しか抱かなかった。だが、攻殻ファンの嫁さんは「こんなの違うやい!」と憤慨していた。どんな感想でも人それぞれだからどうでもいいんだけど、どうやらファンとしては抑えがたいエモーションがあったらしい。具体的にはネタバレになるから言えないが、ファンは怒るのだそうだ。そういえば、今作は「ホワイトウォッシュ」が問題になっていた。ホワイトウォッシュっていうのは、非白人のキャラクターを白人が演じること。最近だと、 PAN〜ネバーランド、夢のはじまり〜【Blu-ray】 [ ヒュー・ジャックマン ] 1,500円 楽天 PANのインディアンの酋長の娘であるタイガー・リリーをルーニー・マーラが演じたことが問題視された。人種問題の根深いアメリカならではといえるだろう。無論、今回の「少佐」もホワイトウォッシュではないか、と議論になったようだ。だが、僕は思う。少佐は全身が義体(サイボーグ)だから、容姿は実にどうだっていいのだ。というかそもそも作品によって大きく見た目が異なるのだから今更どうだっていい。むしろ変に日本人がするんじゃなくて、ちゃんとした女優でよかったよ!などと思う日本のファンは少なからずいたと思う。しかし、本作の世界観を劇場で見られたのは本当に幸福だと思う。ブレードランナーに端を発するサイバーパンクな情景においては、やはり自身の感覚を埋没できるくらいの大きさが欲しい。となるとHMDがいいなあ、などと思うがいや、それよりは映画の大画面でしょう。なども思う。

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  • 23 Apr
    • ストレンジャー・シングス 未知の世界

      イギリス人の友達と飲んでいるときに「Netflix入ってるなら、ストレンジャー・シングスみなよ!」と熱弁された。軽く酩酊状態だった僕はうんうんと頷いていただけだったが、意識のはっきりしていた弟はその話をしっかり聞いていた。そして翌日、二日酔いでぐったりしている僕のもとに弟からLINEが入ってきた。「一話見たけど、ちょう面白いぜ!」そんな弟に倍プッシュされてなんとなく見た『ストレンジャー・シングス 未知の世界』だが、これは想像をはるかに超える面白さに溢れた作品だった。おもしろすぎて一気見してしまった。【あらすじ】1983年11月6日、インディアナ州で、12才の少年ウィル・バイヤーズが失踪する。ウィルの母のジョイスは半狂乱となって息子を探す。警察署長のホッパーが捜査を始める。翌日、不思議な能力を持つ謎の少女が現れ、暗く邪悪な物事も起き始める。(wikipediaより) 本作はE.Tとか遊星からの物体Xのような80年代SFに対して強烈なオマージュを捧げる作品である。たしかに今のSFは少しシビアすぎる。それに比べて80年代のSFはちょっと抜けた感じもあってぶっちゃけ微笑ましかった面もある。(あ、エイリアンシリーズはちっとも微笑ましくなかったです) ということで時代設定も1983年。BGMは無論バッキバキのシンセサイザーがびっこびこである。OP画面なんかノイズまで入ったりして思い切り80年代っぽいのがいい感じだ。主人公のナード少年たちもTRPGやったり、ATARIに興奮したり「ああ、古い」と思える。いいね。 今作を簡単に説明すると失踪したウィル少年を探す友人、マイク、ダスティン、ルーカスの前に謎の少女 イレブンが現れる。次第に街に異変が起こり始める。というもの。 だからウィルとイレブンの関係性が大いに重要なファクターとなる。明かされる謎にグイグイと引き込まれることは間違いない。ところで僕はとある作品と共通点を見つけた。「漂流教室」である。あ、漫画のほうね。 漂流教室は、小学校が未来世界に飛ばされ小学生たちがバトルロワイアルするという話。現実世界では小学校がガス爆発でぶっ飛んだことにされている。だが実際は少年たちは未来世界に言ってしまっているのである。 主人公の翔ちゃんのお母さんは自分の息子が別世界で生きていることを感じ取り、なんとかコンタクトを取ろうとする。その様は側から見たら完全に狂人。周囲の人間も「息子を亡くして以来狂ったのね」とアレな人に対する反応である。しかし翔ちゃんとお母さんは時間を超えて通じることができるようになる。親子の絆が時間を超えたのだ。 こんかいもウィルの母親であるジョイスは「息子は死んだ」と言われ続けても頑なに信じなかった。電飾を部屋にぶらさげまくり、必死に呼びかけるのである。警察署長とか身内からも「おかしくなった」と言われるがそれでも息子の生存を信じて必死に呼びかけるのである。 偶然というか「親子の絆」を表しているからよくある話なのかもしれない。 『ストレンジャー・シングス 未知の世界』はよくできたドラマである。破竹の勢いでドラマを作りまくるNetflixから目が離せない。今年はMCUに所属するディフェンダースも始まる。

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  • 01 Apr
    • インパルスのコントは考察不足?

      インパルスのコントで「悪霊に取り憑かれた少女と神父」というコントが行われていたんだけど、ちょっと疑問。キリスト教って悪魔払いはするけど、悪霊払いはしなかったはず。もともと「霊」を恐れるのは仏教で、キリスト教は悪魔を恐れる。だから神父は悪魔払いしかしないはずだったんだけど。

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    • キングコング:髑髏島の巨神

      かつて「週刊文春」に円谷英二の下で特技として働いていた男性のインタビュー記事が載っていた。いわく「やっぱり怪獣の造形は日本人じゃないと駄目だな。『クローバーフィールド』も『パシフィックリム』もまだまだだ。甘いね」欧米は「モンスター」であり、日本は「怪獣」であり、この両者には単なる訳うんぬんを越える遥かに大きな隔たりがあると僕は感じていた。「俺たちの怪獣オタク」ことギレルモ・デル・トロもそこを見抜いて『パシフィックリム』では敢えて「KAIJU」としていたが、やはり「怪獣」には近づけていなかった。彼は大の親日家であり、日本のオタク文化に精通した……いや、日本の少年がそのまま大人になったような男である。そんなデル・トロですら作れなかった「怪獣」その原因とはなにか? 僕は宗教観なのではないかと考えた。 キリスト教において人間とは自然の征服者である。人は神に近い形を持つから尊いので、神の姿から遠ざかった存在は軽視される傾向にある。日本では有名なファーブルですら、地元では「誰?」状態である。あのファーブルだぜ? みんな小学生の時に読んだことあるでしょ? やっぱり昆虫という人から遠い生物を研究するから無名なんだな、きっと。 対する日本は仏教的価値観もさることながら、アニミズムの国であったため昔より森羅万象に敬意を払う習慣があったように思われる。というか天災が多いから自然の驚異に晒され続けて開き直ったのかもしれん。アニミズムは割と原始的な発想故に、日本はキリスト教に比べて科学は発達しなかった。 自然に対するスタンスがモスラやキングギドラといったカッチョイイ怪獣を産み出したのではないかと思う。虫やとかげに親しむ人は、それらを見ても嫌悪感を抱かない。時にはそれらの機能や造形に対して「すげえ」という一種の感動すら覚える。その感動が、日本の怪獣には反映されているのではないか。合理性とか一切無視したダイナミズムはあくまで「すげえ」の延長線上、極めて主観的な存在とすら言える。だからこそ、客観性のかけらもない子供という存在に好かれるのだろう。 そして「日本には怪獣がいた、という実感があった」という高橋ヨシキ氏のコメントが、現代でも日本の怪獣文化を支える支柱の存在を言い当てていた。日本では昔より怪獣の着ぐるみが街中を破壊してきた。犠牲となったランドマークは数知れない。国会議事堂とか東京タワーとかやたら東京のシンボルが破壊されるせいで、幼少時に港区に住んでいたうちのお袋は「やばい、ゴジラがこっちにくる」と本気で思っていたらしい。その実在感というか「身近に感じること」も怪獣を作る上での大きな要因となっていると予想する。 前置きは長くなったが、今回の『キングコング髑髏島の巨神』の監督は日本人ではない。もともとキングコングってのは1933年に作られたストップモーションアニメだ。オリジナルでは15mくらいの大きさ(まあシーンによって違うけど)で、金髪美女に目がなくてエンパイヤステートビルに登って撃墜されてしまった。怪獣映画かと言われると少し微妙ではあるが、とりあえずエポックメイキング、今でも語り継がれる伝説の作品である。そんなコングの新作が発表されるときに大きさを聞いて驚いた。30mである。ちょっと、それはデカすぎませんかね。一気に今までのコングの2倍の大きさになってしまった。さすがに大きい。だが、それがいい!今回のキングコングは「2020年にゴジラと戦う」ために大きな設定となっているのだ。あれ、でもギャレゴジ(2014年ゴジラ)って100mくらいあるよな。キングコングが戦うには少し差がありすぎるな。(ちなみに1962年の『キングコング対ゴジラ』ではキングコングが電撃で巨大化していた。これは最初のプロットがゴジラではなくてフランケンシュタインの怪物だったことが原因である)どうやって大きくなるかは不明だ! さて、本編に話を戻す。ストーリーとしては、まあ、科学者一行がコングら巨大生物の調査のために髑髏島に上陸するというもの。でもそんなもの途中でどうでもよくなるよ。だって最初の頃からすごい勢いで巨大生物が出てくるからね。出し惜しみしまくっていたギャレゴジとは大きな違いだ。開始20分くらいでキングコングがヘリを撃墜しまくっていたのは見ていて大興奮したね。そう、怪獣映画の醍醐味とは「大きなやつがいろいろぶっ壊しながら戦う」というものである。リアリティとかどうだっていいんだよ!そんな感じで爆発と怪獣がたくさん出てくる。1933年のオリジナルコングが好きすぎてたまらない人にはちょっとお勧めできない。あの映画にあったコングの哀愁というか「あれ、こいつマジでかわいそうなやつじゃね?」という感じは一切しないからである。繰り返すがでけえ怪獣が暴れまくる映画である。それが好きなら行け! 3回くらい見ろ!そうでもないなら、まあ、やめておけ。 今回、話が「ビキニ環礁の水爆実験はある生き物を殺すためだ」というセリフからわかる通り、ギャレゴジと強いかかわりがある。それもそのはず、コングとゴジラはモンスターバースとして20年に戦うことになっているのである。そういう意味ではまあ前哨戦みたいなものだった意味合いも強いっちゃあ強い。でもいいんだよ!コングが暴れるだろ! 最高だよ! ちなみに、スタッフロールが流れた後におまけ映像が流れる。僕はこれにえらく興奮したのでみんなちゃんと見るように。 

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  • 20 Mar
    • ラ・ラ・ランド  ハリウッドミュージカルの再来

      デイミアン・チャゼル監督最新作、『ラ・ラ・ランド』を観てきた。はっきり言おう、歴史的傑作だ。ぼくはハリウッドミュージカルが31歳の若き監督によって為されるとは思いもしなかった。前作、『セッション』においてチャゼル監督の音楽の録り方は音楽家たちから批判された。「音楽はもっと楽しくて人を幸せにするものだ」たしかに、『セッション』は音楽を格闘技のように描いていた。それで批判を喰ったので、『ララランド』は愉快で綺麗な作品に仕上がったのかな、と思う。La La Landの”La”とはL.Aすなわちロサンゼルスを意味する。ハリウッドで成功を夢見て現実を直視しないような男女のことを”La La Land”と呼ぶ。これはそんな夢を追いかける二人の男女の恋物語であるーーとまあ、前提は多分皆さんご存知だからいいとして僕の感想を書かせてもらう。批評じゃない、感想。なぜなら僕にはこれを批評するだけの知識がない(笑)ああ、ミュージカルって素晴らしい……そう思える作品だった。初期のフルカラーになったころのような鮮やかな色づかい。思わずリズムを取りたくなるようなダンスと音楽。全ては現実離れしているように見えて、実はとてもリアリティがある。それを強く感じたのはグリフィス天文台でのシーンだな。二人は浮遊し星間を漂うという場面だけど、そこで気づいた。今作は主観を拡大させたものなのだな、と。 気分が昂ると思わず歌い出したくなる、踊り出したくなるような気持ちになる。恋をしているときは特にそうなんじゃないかな。グリフィス天文台のシーンは「天を舞うような気分」を表したものだろう。別に本当に宇宙にいったわけじゃないよ。パリコレで大袈裟な衣装が出るのと似ているのかな。だから、ラ・ラ・ランドで思わず歌い出すようなシーンに違和感がない。誰しもそういう気分のときはそんな行動に出たくなるからだ。主観を拡大させるとああなるし、拡大された主観だからこそ共感できるんだと思う。全然関係ないけど、冒頭のシーンで店のオーナーとしてJ・K・シモンズが出てくるんだけど身構えるよね。「フレッチャー」を思い出して。て考えたけど『セッション』以降、『ズートピア』『ザ・コンサルタント』とよく彼の出演作を見るから別に気にはしなくなったぜ。その前に『クローザー』とか『スパイダーマン』にも出ていたけどね。以下、ネタバレ注意。激しく注意。ていうか見た人ではないと多分、分からない。主人公であるセブとミア。彼らは多分、チャゼル監督自身のことだと僕は感じた。デイミアン・チャゼル監督は若い頃、ジャズミュージシャンを目指した。高校の頃にドラムを練習するが、プロにはなれないと本能で悟ったチャゼルは映画制作の道に進むことになる。何本か脚本の仕事をこなしたチャゼル監督。メキメキ頭角を表し、『セッション』でその名を有名にする。そして満を持して『ラ・ラ・ランド』を作った。チャゼルは挫折と栄光、そして新たな夢を知っている。それがすごく強く反映されている。ラスト。 セブとかつての恋人ミアが5年ぶりにセブが経営する店『セブズ』で出会うシーン。セブはミアが他の男と結婚した事を知る。セブはミアと初めて出会ったときの曲を弾き始める。そこでストーリーをダイジェストするかのように始まるシーケンス。でもそれはダイジェストではなくて、セブが思い描いたミアとの理想の生活だった。ジャズクラブを経営する、という念願の夢を叶えたと同時にミアとの理想の結婚生活という夢が確実に砕けた事を理解するセブのあの顔。「全てが上手くいっていたらこうなってたね」というシーンは『タイタニック』でのラストの舞踏会のそれに近い。だからこそ、切ない。現実と違うからこそ、悲しい。ありえないから、綺麗に見える。でもそれで終わらない。セブとミアは互いを見て、微笑んで別れる。その微笑みは多分、納得し互いを応援するような笑みだと思う。(『レスラー』の最後と”納得”では似たような意味か?)だからこそ最後、セブがピアノに向かって「1・2・3・4」とリズムをとって演奏を始めようとするシーンが輝いて見える。前述のセブが自分の店でピアノを弾き始めるシーンでは泣きに泣いた。それは二時間という短い時間の間で、セブとミアの二人の人生を共有したからだ。絶対に上手くいく関係なんてない。それでも「もし」を考えてしまう。学生時代、あんなに愛していた女がいたのにいま僕は別の女性を妻に持っている。僕は自分の事をとても幸せだと思うし、妻のことは心から愛している。でも、ふと思うときがある。もしあの娘と結婚していたら、どうなっていたろう。そういう誰しもが持つ「もし」に直撃する要素があったから、ラ・ラ・ランドは泣けるんだろうな。素敵だ。本当に素敵な2時間を過ごせた。ありがとう、ラ・ラ・ランド。 

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  • 17 Mar
    • アサシンクリード  アイエエエエ! アサシン、アサシンナンデエエエエ!?

      アサシンクリードが実写化すると聞いたとき「多分、面白くなるな」と直感した。現在、欧米ではゲームはかつてと違い大人の娯楽として認識されている。いわゆる「洋ゲー」とよばれる作品は大人向けとして作られているからだ。それらの作品は・完成度の高い脚本・リアルなグラフィック・高いリアリズムを備えている。大人のプレイに耐えうるだけのものがある。日本らしい子供向けゲームに慣れた人には違和感を覚えるかもしれないが、それが世界の主流になりつつある。映画原作の『アサシンクリード』もそんな作品の一つだった。主人公はアサシン教団のアサシン(暗殺者)となり、テンプル騎士団の要人を暗殺していくのだ。派手な戦闘を避けこっそり忍び寄り殺害する、というステルスゲームの基本を踏襲しつつも、飛び出す暗剣アサシンブレードなどのギミック、高所から飛び降りるイーグルダイブなどの派手な技で大いに楽しませてくれた。なによりも宗教ネタに踏み込んだことに大きく驚愕した記憶がある。だからこそ映画化すると聞いたとき楽しみでもあり不安でもあった。それはゲームと映画の差にある。「没入度」である。ゲームはキャラクターを操作するため、その世界に入りやすいという特徴がある。自分の意思が画面に反映されるからだ。特にリアルに作り込まれた洋ゲーだと本当にそうだろう。かくいう僕の妻も「ウィッチャー3」という作品をずーっとプレイしていて(それこそ、本当にレベルカンストするまでやり込んだ)ダウンロードコンテンツまで終わろうとしたときにぼそっとつぶやいた。「あー、ゲラとの旅が終わっちゃう」ゲラとは主人公、ゲラルトのことである。妻はゲラルトを操作するうちに、本当に彼の旅を追っているかのような感覚になってしまうのだ。これはゲームの大きな特徴と言えるかもしれない。対する映画というのは、受け手の意思と関係なく物事が進行する「時間芸術」のために没入度はゲームと比べると劣る。だが、逆に言えば進行のリズムを掌握できるということだ。だから展開とテンポで観客を掌握することもできる。僕の大学の先生は「攻殻機動隊」を見たときに「終わらないでくれ」と本気で思ったらしい。そんな畑違いゆえに弱点も長所もあるゲームの映画化。アサシンクリードはどうだったかといえば、結論から言おう。そんなに面白くなかった。前述の「没入度」でいうとゲームとの差がどうのこうの、ではない。そもそも映画としてアラが多すぎて入り込めない。まず、ゲームと同じように映画もDNAに記載された祖先の記憶を辿るという手順をとってアサシンの世界に入る。つまり主人公(現代)のシーンアサシン(中世)のシーンの二つが同時展開されることになる。それが仇になった。中世のシーンをぶつ切りにしたせいで、観客の知らぬ間に人間関係が変化するという事態が発生。よく事態が飲み込めないまま劇が進行していくという「確信犯的観客置き去りスタイル」という新しいカタチを見せつけられる。制作サイドは感情移入とか観客の気持ちとか考えて作ったのか不明である。そして今作最大の問題点は「忍ばないアサシン」である。冒頭、王子奪還のためにアサシンたちは集団でテンプル騎士団に襲いかかる。昼間に。確かにアサシン=暗殺者は、別に闇に忍ぶという意味ではない。ゴルゴだって立派な暗殺者だ。目立ちまくっているけどね。しかし、原作ゲームでは「周囲に紛れて暗殺する」というコンセプトがあったからもちろんながら期待する。しかし、百歩譲って「原作は原作である」という意見があることもわかる。じゃあどうして冒頭で「闇に生き、光に仕える」とか言ったんだ。あれはなんだ、教団の大事な教義じゃないのか。おまえらお題目でも唱えていたのか!そんな僕の願いもむなしく、忍ばないアサシンたちは大暴れをしていく。その暴れっぷりは凄まじく、アサシンというかウォーリアーに近い。逃走のシーンでも派手に逃げまくるため、自然と「こいつら隠れるの下手なんじゃね?」と思えてくる。本当にアサシンなのか、こいつら。そんな疑念のなか、彼らの大暴れは続く。アイエエエエ! アサシン、アサシンナンデエエエエ!?と、本気で思う。いや、もしかすると認識を改めなければならないのかもしれない。彼らは派手に、かつ、大っぴらに活動する新しいアサシンなのだ。と思うと、最後に闇に潜むシーンがあった。なんなんだよ、おまえら!ああ、もう見ていて本当にイライラした。最後の方なんか「早く終わってくれ」と本気で思った。マジでプロデューサーのミヒャエル・ファスベンダーが雰囲気だけで作ったということだけがよくわかった。MFいわく「これは三部作なんだ」とのことらしいが、あと二つを誰が見るものかと思った。アサシンが狙うべくはテンプル騎士団じゃなくて制作サイドなんじゃないかな。

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