2010-03-23 22:05:51
卒業
テーマ:人生
6年間だというのにもう終わりかー。という思い。
せっかくだから自分の6年間を振り返ってみる。長いっす。ごめん。
1-3年は部活してた。
医学部でない人はほとんど知らないだろうし
医学部の人にとっては常識だと思うんだけど、
医学部の人は結構部活が学生生活の中心になる。KOの学生は特にそうかも。
医学部の大会があってそれに勝つために結構な人が本気になってやってる。
入学当初はびっくりしたけど、どんな先輩もそういう過程を経て、立派な医者になれていた。
だから四の五の疑問を持つ必要はなく、ただ打ち込めばよかった。
ヨット部と卓球部をやった。
両方とも初心者でも認めてくれる部活だったし先輩方もやさしかったから。
そして中高やってたバドミントンとは別なもんがしたかったから。
ヨット部は毎週合宿だった。
大変だったけど、気の合う人たちと一緒に寝泊まりするのは逆に楽しかった。
そしてヨット部はなんか意識が高かった。
学校休んで合宿するのも当然、という流れで僕もそれに従っていた。
だから全日本選手権の予選出たし、本選も出た。
06年の東医体という大会での写真。僕は→。
あと部でいわゆるダンパとかもやってた。僕は1,2年のときは数枚しか売れないお荷物だったが
3年のときにmixiを駆使するという技を覚えて100枚売った。
あれは勉強になった。
卓球部はあんまり大変じゃなかった。けど大変にやろうと思えばできた。
卓球は個人競技で、練習は結構好きにできるし、やれば伸びるからよかった。
だからヨットのない冬とかはかなりやった。
途中でとてつもないコーチが現れて部は大変な方向に向かったけど、ある意味成長できた。
医学は正直実習とテストだけやってた。
で、僕に転機が訪れたのは間違いなく3年の冬。
当時友人となんか儲けるサイトを作ろうという話になり、
プログラミングなど全然よくわからんままXOOPSというWebアプリを改造するという作業をやった。
その作業をしてるうちに、「あれ、プログラムって医学に生かしたら強くね?」と思ったのだ。
そして同時に
・部活って世間からすれば遊びじゃないのか
・部活やっても紋切り型の人間ができるだけなんじゃないのか
・部活のスキルが将来にどう生きるのだ
・もともと自分は研究がしたかったはず。研究にいそしむ学生もいるというのに自分は何やってんだ
などと思った。これはまぁ若気の至り的な要素もあるんだが、
とにかく3年の冬、不義理にもヨット部をやめることになった。
こんな辞め方をしたのに今でもヨット部と仲良くさせていただいているのは本当に仲間に恵まれたからで、
感謝してもしきれない思いである。
僕の学生生活の大きな財産と思ってる。
ちなみに卓球部は辞めなかった。辞めなくても研究できたし、
引きこもらずなんかの活動に所属することが大事と思ったし。
コーチもろもろで結局大変だったのだが、5年の8月まで続けて、その時の大会で団体3位になれた。
これがとれたのもコーチあってのものだなーと、今振り返るとかなり思う。
けどこれも仲間がいなけりゃ取れなかったわけで、ここで出会えた人達も大切な財産だなと思う。
特に僕の学年の代表はホントに部のことを考えてやってくれた。
団体3位になったときのアホ写真。
4年は研究してた。
そんなこんなでヨットをやめてから僕は毎日のように研究室に通うことができたのだ。
こんなハッピーな時間はなかった。
僕は学術に触れ、新たな発見があり、また自分が成長してゆくというプロセスがとても楽しみになった。
これが大学じゃん、という気持ちをここで初めて抱いた。
僕は量子化学計算という、医学部にあるまじき分野を選んで研究した。
コンピュータを用いる、ということと、根本原理から出発する、ということが魅力だった。
シュレーディンガー方程式がついに医学に使われるのかと思うと、興奮だった。
AQP1というタンパクがなぜ水は通しプロトンは通さないのか、を
2つのアスパラギン残基から考える研究だった。
ヒスチジンとアルギニンも候補に挙がっていた。今はどうなってるんだろう。
研究室は本当に楽しい場所だったが、
5年になって臨床実習が始まると、次第に足が遠のいていった。
そこまでモチベーションが保てなかったのはなんだろう・・・。
今分析すると、もっとやりたいことが見つかっていたからかと思う。
それが、勉強のためのプログラム、だった。
5年は勉強のためのプログラムを作ってた。
4年の途中から、勉強のためのプログラム、powerlinkerを開発していた。
これはそもそも研究分野において物理化学やコンピュータなど分からないことが多すぎ、
なおかつ研究室は生物系であったために理論的背景について会話が反復されることはあまりなかったため、
勉強しても忘れてしまう、という問題点を解決するために開発したものであった。
人に見せてみると、意外にも反応がいい。「製品にしろ」とか言う人も出てきた。
だから僕は、本格的にこれをブラッシュアップすることにした。
開発経験などないけど、とにかくやみくもにコードを書いた。
そして5年の1月、ついにサイトが完成した。このときはまぁホントに感慨深かった。
それで勢いづいてこのブログも始めた。
powerlinkerの画面。
2月には特許を取るぞーと思い、ついにこの開発のことを人に言えなくなった。
孤独すぎた。そもそも周囲にプログラムかける人もいなかったし。
で、結局特許は、とれなくて、割と挫折して心がぐちゃっとなっていた。
6年は、ダメダメだったが最後に大逆転した。
4月、どの評論家も6位と予想したので、「どんなに弱いのか見てみたい」という理由から
横浜ベイスターズにはまり、毎日just○n.tvで試聴する日々が続いた。
だから横浜の選手はほぼ覚えた。
ハマのおじさんが46歳で1勝を挙げた瞬間も、
佐伯がホームスチールを決めた瞬間も、
月間MVPを挙げた山口俊が次第にうたれていく様も全部見ていた。
案の定ダントツ6位で終了したベイスターズ。僕の気持ちも落ち込んだ。
とにかくそんな4月、僕は仲間を見つけた。
「そのプログラムいいっすね。一緒にやりませんか?」と。
一緒にやってみたがその人たちはプログラムが書けなかった。
僕は当時、プログラムを書くことこそがサービスの根源であり、一番エライことだと思っていた。
だから自分の頑張りがないと活動は進まないんだな、という微妙な思いでいた。
しかし、9月に伊藤忠商事のビジネスコンテストに参加したことがひとつの転機となる。
ビジネスについて向き合うこと。
「プログラムは、カネで作れる。ビジネスモデルを出せ」
という考えに触れ、自分の今までの活動ってなんだったんだろーっていう気持ちに襲われた。
そして、ユーザーの気持ちにたって作らないとだめだ。と思った。
だから僕は独りよがりなpowerlinkerというサービスをやめ、
非公開だけど新たな勉強支援サービスを思いついて、開発した(まだ試作段階よ)。
そんな中で、一緒にやっている後輩は本当に頼りになった。
彼の能力と勇気は僕のエンジンを動かしてくれた。
そして伊藤忠商事のビジネスコンテストの最終審査で優秀賞を頂き、シリコンバレー視察に行くことになった。
シリコンバレーでは、起業することは変わったことでもなんでもないし、失敗するのも当たり前。
チャレンジすることが大事、ということを学ぶことができた。
国家試験終了後、別に応募していた3月13日ネットプライスドットコム社のビジネスコンテストがあった。
このときは僕がちょうど旅行から帰ってきたばかりのときで、後輩たちが主導で動いていた。
彼らも試験があるなかプレゼンについて、また僕たちの今後についても真剣に考えてくれた。
何日も夜通し話し合っていたそうだ。テスト期間中なのに。
そんな努力の結果結果優秀賞を頂き、
1000万円で事業化する権利を得ることができた。
5年のとき、ずっと一人で開発してきて、当初は「僕が作ったんだ。僕のものだ」という
つまらないプライドがあったが、このとき心の底から仲間と一緒に
このプロジェクトを進めることができて本当によかったと感じた。
そして僕はこのチャンスを逃してはならないと感じた。
僕は研修医をやめ、その事業を推進することに決めた。
最後に自分にも思いもよらない大逆転が来て、自分自身びびっている。
このチャレンジがどんな結果になろうと経験を積む権利を得たのは大きい。
それは、自分を支えてくれた仲間と、自分の歩んできた道のおかげだと思ってる。
今日は卒業式で、卒業アルバムをもらった。
アルバムのなかのランキングコーナーで僕は
「将来ビッグになりそうな人」「ポテンシャル高い人」で1位を頂いた!
本当にうれしい!今は不安だらけで自信もなんもないので、すごく後押しになれた。
将来ビッグになるかどうかはホントにわかんないけど、
とにかくこの6年間のいろんな選択を正しかったと言えるような未来を創っていきたいなと思った。
せっかくだから自分の6年間を振り返ってみる。長いっす。ごめん。
1-3年は部活してた。
医学部でない人はほとんど知らないだろうし
医学部の人にとっては常識だと思うんだけど、
医学部の人は結構部活が学生生活の中心になる。KOの学生は特にそうかも。
医学部の大会があってそれに勝つために結構な人が本気になってやってる。
入学当初はびっくりしたけど、どんな先輩もそういう過程を経て、立派な医者になれていた。
だから四の五の疑問を持つ必要はなく、ただ打ち込めばよかった。
ヨット部と卓球部をやった。
両方とも初心者でも認めてくれる部活だったし先輩方もやさしかったから。
そして中高やってたバドミントンとは別なもんがしたかったから。
ヨット部は毎週合宿だった。
大変だったけど、気の合う人たちと一緒に寝泊まりするのは逆に楽しかった。
そしてヨット部はなんか意識が高かった。
学校休んで合宿するのも当然、という流れで僕もそれに従っていた。
だから全日本選手権の予選出たし、本選も出た。
06年の東医体という大会での写真。僕は→。
あと部でいわゆるダンパとかもやってた。僕は1,2年のときは数枚しか売れないお荷物だったが
3年のときにmixiを駆使するという技を覚えて100枚売った。
あれは勉強になった。
卓球部はあんまり大変じゃなかった。けど大変にやろうと思えばできた。
卓球は個人競技で、練習は結構好きにできるし、やれば伸びるからよかった。
だからヨットのない冬とかはかなりやった。
途中でとてつもないコーチが現れて部は大変な方向に向かったけど、ある意味成長できた。
医学は正直実習とテストだけやってた。
で、僕に転機が訪れたのは間違いなく3年の冬。
当時友人となんか儲けるサイトを作ろうという話になり、
プログラミングなど全然よくわからんままXOOPSというWebアプリを改造するという作業をやった。
その作業をしてるうちに、「あれ、プログラムって医学に生かしたら強くね?」と思ったのだ。
そして同時に
・部活って世間からすれば遊びじゃないのか
・部活やっても紋切り型の人間ができるだけなんじゃないのか
・部活のスキルが将来にどう生きるのだ
・もともと自分は研究がしたかったはず。研究にいそしむ学生もいるというのに自分は何やってんだ
などと思った。これはまぁ若気の至り的な要素もあるんだが、
とにかく3年の冬、不義理にもヨット部をやめることになった。
こんな辞め方をしたのに今でもヨット部と仲良くさせていただいているのは本当に仲間に恵まれたからで、
感謝してもしきれない思いである。
僕の学生生活の大きな財産と思ってる。
ちなみに卓球部は辞めなかった。辞めなくても研究できたし、
引きこもらずなんかの活動に所属することが大事と思ったし。
コーチもろもろで結局大変だったのだが、5年の8月まで続けて、その時の大会で団体3位になれた。
これがとれたのもコーチあってのものだなーと、今振り返るとかなり思う。
けどこれも仲間がいなけりゃ取れなかったわけで、ここで出会えた人達も大切な財産だなと思う。
特に僕の学年の代表はホントに部のことを考えてやってくれた。
団体3位になったときのアホ写真。
4年は研究してた。
そんなこんなでヨットをやめてから僕は毎日のように研究室に通うことができたのだ。
こんなハッピーな時間はなかった。
僕は学術に触れ、新たな発見があり、また自分が成長してゆくというプロセスがとても楽しみになった。
これが大学じゃん、という気持ちをここで初めて抱いた。
僕は量子化学計算という、医学部にあるまじき分野を選んで研究した。
コンピュータを用いる、ということと、根本原理から出発する、ということが魅力だった。
シュレーディンガー方程式がついに医学に使われるのかと思うと、興奮だった。
AQP1というタンパクがなぜ水は通しプロトンは通さないのか、を
2つのアスパラギン残基から考える研究だった。
ヒスチジンとアルギニンも候補に挙がっていた。今はどうなってるんだろう。
研究室は本当に楽しい場所だったが、
5年になって臨床実習が始まると、次第に足が遠のいていった。
そこまでモチベーションが保てなかったのはなんだろう・・・。
今分析すると、もっとやりたいことが見つかっていたからかと思う。
それが、勉強のためのプログラム、だった。
5年は勉強のためのプログラムを作ってた。
4年の途中から、勉強のためのプログラム、powerlinkerを開発していた。
これはそもそも研究分野において物理化学やコンピュータなど分からないことが多すぎ、
なおかつ研究室は生物系であったために理論的背景について会話が反復されることはあまりなかったため、
勉強しても忘れてしまう、という問題点を解決するために開発したものであった。
人に見せてみると、意外にも反応がいい。「製品にしろ」とか言う人も出てきた。
だから僕は、本格的にこれをブラッシュアップすることにした。
開発経験などないけど、とにかくやみくもにコードを書いた。
そして5年の1月、ついにサイトが完成した。このときはまぁホントに感慨深かった。
それで勢いづいてこのブログも始めた。
powerlinkerの画面。
2月には特許を取るぞーと思い、ついにこの開発のことを人に言えなくなった。
孤独すぎた。そもそも周囲にプログラムかける人もいなかったし。
で、結局特許は、とれなくて、割と挫折して心がぐちゃっとなっていた。
6年は、ダメダメだったが最後に大逆転した。
4月、どの評論家も6位と予想したので、「どんなに弱いのか見てみたい」という理由から
横浜ベイスターズにはまり、毎日just○n.tvで試聴する日々が続いた。
だから横浜の選手はほぼ覚えた。
ハマのおじさんが46歳で1勝を挙げた瞬間も、
佐伯がホームスチールを決めた瞬間も、
月間MVPを挙げた山口俊が次第にうたれていく様も全部見ていた。
案の定ダントツ6位で終了したベイスターズ。僕の気持ちも落ち込んだ。
とにかくそんな4月、僕は仲間を見つけた。
「そのプログラムいいっすね。一緒にやりませんか?」と。
一緒にやってみたがその人たちはプログラムが書けなかった。
僕は当時、プログラムを書くことこそがサービスの根源であり、一番エライことだと思っていた。
だから自分の頑張りがないと活動は進まないんだな、という微妙な思いでいた。
しかし、9月に伊藤忠商事のビジネスコンテストに参加したことがひとつの転機となる。
ビジネスについて向き合うこと。
「プログラムは、カネで作れる。ビジネスモデルを出せ」
という考えに触れ、自分の今までの活動ってなんだったんだろーっていう気持ちに襲われた。
そして、ユーザーの気持ちにたって作らないとだめだ。と思った。
だから僕は独りよがりなpowerlinkerというサービスをやめ、
非公開だけど新たな勉強支援サービスを思いついて、開発した(まだ試作段階よ)。
そんな中で、一緒にやっている後輩は本当に頼りになった。
彼の能力と勇気は僕のエンジンを動かしてくれた。
そして伊藤忠商事のビジネスコンテストの最終審査で優秀賞を頂き、シリコンバレー視察に行くことになった。
シリコンバレーでは、起業することは変わったことでもなんでもないし、失敗するのも当たり前。
チャレンジすることが大事、ということを学ぶことができた。
国家試験終了後、別に応募していた3月13日ネットプライスドットコム社のビジネスコンテストがあった。
このときは僕がちょうど旅行から帰ってきたばかりのときで、後輩たちが主導で動いていた。
彼らも試験があるなかプレゼンについて、また僕たちの今後についても真剣に考えてくれた。
何日も夜通し話し合っていたそうだ。テスト期間中なのに。
そんな努力の結果結果優秀賞を頂き、
1000万円で事業化する権利を得ることができた。
5年のとき、ずっと一人で開発してきて、当初は「僕が作ったんだ。僕のものだ」という
つまらないプライドがあったが、このとき心の底から仲間と一緒に
このプロジェクトを進めることができて本当によかったと感じた。
そして僕はこのチャンスを逃してはならないと感じた。
僕は研修医をやめ、その事業を推進することに決めた。
最後に自分にも思いもよらない大逆転が来て、自分自身びびっている。
このチャレンジがどんな結果になろうと経験を積む権利を得たのは大きい。
それは、自分を支えてくれた仲間と、自分の歩んできた道のおかげだと思ってる。
今日は卒業式で、卒業アルバムをもらった。
アルバムのなかのランキングコーナーで僕は
「将来ビッグになりそうな人」「ポテンシャル高い人」で1位を頂いた!
本当にうれしい!今は不安だらけで自信もなんもないので、すごく後押しになれた。
将来ビッグになるかどうかはホントにわかんないけど、
とにかくこの6年間のいろんな選択を正しかったと言えるような未来を創っていきたいなと思った。







