不倫の認識

不倫・・・その言葉はいつも2人の頭をかすめていた。


でもだからといって離れることは出来なかった。


メールも休日は絶対にしない。


電話はメールで確認をとってから。


お互いに家族と一緒の時間を大切にする。


こんな約束事がどんどん増えていく関係でありながらも


静かに燃える小さな炎を消さないように、月日を重ねていった。


昼間のわずかな時間、人目を忍び郊外のレストランでランチをとることもあれば


フリータイムを使ってラブホテルでひたすら求め合う時間をつくることもある。


麻耶は幼い頃からどこか冷めた目で自分自身を見ている・・・


それなのに自分のことながら理解しきれない自分自身に戸惑う。


恵吾も昔はこんな風に優しく労わるように抱いてくれただろうか。


そんなことさえ思い出せない。


博之の前では完全に一人の女として自分をさらけ出す。


博之に喜んでもらいたい気持ちもあったが、博之の身体の全てが愛しく、


導かれもせず、博之自身を口に含んだ自分にも驚いた。


女性が出来てからの半ば強制的で、そして義務的な恵吾とのsexでは感じることなどなかった。


手を抜いた少しの前戯では濡れることもなく行為が済んだあとは局部の痛みだけが残った。


そしてそんな行為すらなくなり、母という女の部分だけが残った時に博之と知り合い


麻耶はどこにこんな欲望が隠れていたのだろうと自分自身が時に怖くなる気さえした。


博之もこんなに愛せる女性に出会ったことはなく、身体を重ねるごとに麻耶が開花していくのが嬉しかった。




琴絵はそれ以来、自分から求めることは一切せずに気持ちを切り替えたらしい。


子供達の親として、一緒に生活していきましょう。でも夫婦としては終わりよ。


そんな意味合いの言葉を何度も繰り返し言われ続けた。


そんな頃から博之は後腐れない関係を持てる女性と性的欲求を満たすことで心の隙間を埋めようとし始めた。


営業でいろんなところを回っているとまともではない金が入ってくる。


それが博之の小遣いになった。


だが、博之の前を通り過ぎる女性の中に引き止めたいと思う女性は一人もいなかった。


相手が博之を気に入って連絡をしてきても、断る事の方が多かった。


それに、その女性がどんな女性なのかも忘れていた。


どんなsexプレイにも応じてくれる女性もいた。


しかし、刺激的なプレイにひととき満足してももう一度会いたいなどとは思わなかった。


仕事の腕は上がり、社会的ポジションは高くなる。


でもそれは心の隙間を埋めてくれるわけではない。


琴絵にしてみれば、博之の肩書きは十分、友達にも自慢出来るものだった。


ただそれだけのことだった。


そんな時に何気なく繋げたインターネットで麻耶と知り合った。


最初は何ら特別な感情はなかったが、電話で話をしているうちにどうしても気になる存在になった。


そして初めて会ったその日、博之は生まれて初めて女性に一目惚れをしたのだ。


美しい顔立ち、振り向きざまに揺れる淡いブラウンの上品な髪、細く白い手、そして何より男に媚びない姿勢。


全てが博之の心の中にストレートに飛び込んできた。


この女性だけは失いたくない。


人妻であることもわかっているし、一緒になることもない。でも手放してはいけない。


だから身体を求めることよりも、まず心の繋がりを築きたかった。


博之にとって麻耶との出会いは、一生に一度あるかないかの衝撃的なものだった。




博之と妻の琴絵は友人と飲み会に行った席で知り合った。


と言うより隣の部署に配属されていたひとつ下の明るい女性で顔だけは知っていた。


後で聞いた話だがもともと琴絵は博之に好意を持っておりその席は


はじめからセッティングされていたものだったらしい。


琴絵に関心を持っている人間は多かったらしく、そういう噂を聞くと男とはおかしなもので


自分のものにしたいという精神が働く。


琴絵の自信満々のアプローチに半ば押され気味だったが、明るくかわいい面もあり


何となく付き合い始め、全く結婚を意識していなかったのだが、


あまりに結婚にこだわらない博之の態度に琴絵は作戦を練って子供を作ってしまった。


もちろん、博之も子供が出来たからには当然結婚だと思っていたし、


その後、2人目の子供も生まれ結婚して良かったと心から思っていた。


しかし、琴絵は子育てで終わる毎日の不満を博之にぶつけるようになっていった。


博之が休みの日は朝から晩まで私も働きたいと言い、結局は小さな子供達を預け


ちょっとしたパートに出るようになった。


それでも、次は疲れた身体で子供を迎えに行くことが苦痛になり、3ヶ月ほどで辞めると博之のことを詮索し始めた。


急な残業で遅くなると、本当は残業じゃなかったんでしょと問い詰めるようになった。


そして、ある日大学時代の連絡網で同じサークルだった女性からのメールを見つけ、


博之を責め始めた時、博之の中で何かが切れた。


だが、「いい加減にしてくれよ。」と大声を出しても怯むことなく問い詰める琴絵に


もう何も言っても無駄だと思い、とにかく謝った。


それで機嫌が直るならと思ったが大間違いだった。


それから琴絵は3ヶ月もの間、食事の用意だけはするものの口を聞くことがなかった。


「俺と2人の時はそれでもいい。でも、子供の前では話してくれないか。」と頼んでもそれに応えることはなかった。


そして3ヶ月が経った頃、ようやく口を聞いてくれるようになったが、今度は離婚したいと言い出した。


でも、それが本気ではないことも博之はわかっていた。


お嬢様育ちの琴絵にとって、自分で何でもしなければいけない生活は相当きつかったのだろう。


それまでの生活が温室であればあるほど、現実は厳しいと思うはずだ。


ただ、少しずつ琴絵も変わっていこうとしている。博之はそう思うようにした。


そうして月日を見送っていたのだが、琴絵の詮索だけは続いた。


残業の度に疑いの目を向けられいつしか夜の生活もなくなっていった。


琴絵が博之を求めても博之がそれに応えることが出来なくなっていたのだ。




時に真剣に時に笑いあいながら時間が過ぎていき、博之はソファから立ち上がると


そろそろ出ようか?と言った。


え?・・・麻耶は驚いた。その顔を見て博之は言った。


「あのね、俺、2人っきりになりたかったんだ。麻耶を抱こうと思ってここにきたんじゃないんだ。


麻耶は真面目でかわいくて綺麗な女性だ。


だから、大事にしたいんだ。わかってくれるかな。」


麻耶はその言葉だけで十分だった。


嘘でも何でも私を大事だと言葉にしてくれる人がいる。それだけで嬉しかった。


その日の夜、ベッドに入ってから唇にそっと指をあててみた。


博之の唇がまた触れたような錯覚にとらわれ、隣で寝ている恵吾に対して申し訳なさを感じながらも


女性としての喜びを感じる事が出来た。


翌日からも博之からの連絡は途絶えることがなかった。


恵吾に女性がいるということが確実なものになってきていて穏やかではいられないものの、


博之の存在が麻耶を強くしていたことは間違いなかった。


麻耶は恵吾の妻として、そして子供達の母親として凛とした態度を崩すことはなかった。


そして博之と麻耶が本当に結ばれたのは7回目の逢瀬だった。


博之が先にシャワーを浴び、続いて麻耶もシャワーを浴びた。


バスローブを着た麻耶をベッドに招き、唇を合わせた。


バスローブをゆっくり脱がすと、麻耶の身体を見て「とても綺麗だ。」と言った。


2人の子供を産んでいて、決して若い女性のように綺麗な身体ではないはずなのに


そう言われると麻耶はその言葉に溺れていくような気がした。


博之の口が胸を愛撫し手は下へと下がって行く。


麻耶は恥ずかしいほどに感じていた。


博之はそれを確認するとそっと麻耶の上に覆いかぶさってきた。


麻耶の足を広げ、潤った部分を刺激しながら、ゆっくりと入ってくる。


完全に博之のものが麻耶の中に入った時、麻耶は初めての快感に頭が真っ白になった。


これが不倫という関係から来るものなのか、恵吾に対するあてつけからくるものなのか


それとも本当に女性としての快感なのか、それはわからなかったが


麻耶はそれまで感じたことのない悦びに身体が震えた。


博之は無理なことは何もしなかった。


恵吾の計算の上でのsexでさえ、正常位だけに留まることはない。


どちらかというと恵吾はバックが好きであり、麻耶に淫らな格好を求める。


もちろんそれは最初からではなかったが、徐々に大胆なsexを好むようになり


それは義務のようなsexでも変わることはなかった。


もちろん、博之もはじめてのsexでそんなに大胆なことはしないだろう。


それにしても、麻耶にとってはあまりにも優しいsexだったのだ。


数え切れないほど唇を重ね、博之は麻耶の髪を静かに撫でながら長い時間2人は繋がっていた。


そして博之が麻耶の中で果てた後も博之は麻耶を抱きしめ続けた。


抱きしめながら博之は言った。


「ごめん。何だか俺恥ずかしくて、早々に麻耶の中に入ってしまってムードも何にもなくて・・・」


「ううん。そんなことない。繋がってる時間がとても優しくてしあわせだったわ。」


麻耶は博之の腕枕の中で何年も感じた事のない温かな余韻に浸っていた。




博之の告白

「でも良かったぁ・・・俺ね、インターネットでチャットしたのって実は初めてでさ・・・


とてもラッキーだったんだよね。だって麻耶みたいな人と会えたんだから。」


「私も本当に同じなの。あの日、たまたま主人が子供達と出かけていて、チャットのシステムさえわからなかった。


でも博之はかなり女性と遊んでるような感じがするんだけど、それは当たってる?」


博之は少し考え込んだ後、話し始めた。


「俺は・・・正直に言うと遊んでいたよ。でもインターネットとかじゃない。よくあるでしょ。テレクラとか・・・


仕事って成績さえ良ければ昇格していくし、会社を出て少しでも時間があれば遊んでいたよ。


その日限りっていうこともあったし、何回か会った女性もいるし。


何人の女性と寝たのか考えたこともない。


でも虚しかったんだ。会社に戻ると、俺、何やってんだろって毎回思った。


心が伴わないから、ただの性欲処理みたいなもんだったんだろうな。


嘘だと思われても仕方ないけど、女房とはもうずっと関係がない。


2人目の子供が生まれた頃から女房は俺のかばんや携帯電話をいつもチェックしていて


何の関係もない女性の名前を見つけてからは、3ヶ月もの間、一言も口を聞かなかった。


ただの知り合いだって言っても理解してくれなくて、子供の教育上悪いからと言っても、変わらなかったんだ。


そして、やっと口を聞くようになってからも、俺の私物は毎日チェックしていたし


離婚に関する本を大量に買ってきては、本棚に並べて・・・


そしたら抱けなくなっちゃったんだよ。


女房も言うんだ。


「もう触らないでね。」って。


だけど、2人の子供にとってはいい母親なんだ。


彼女は子供が大きくなるまでは離婚はしないつもりなんだろうな。


俺も子供はかわいくて仕方ない。


だから、俺もあえて波風立てるようなことはしない。


でも、愛する人がいないんだ。


もちろん、抱けるはずの女房も抱けなくなった。


そのうち、俺はどんどん乾いていった。


そして、お金で女を買ったり、テレクラで知り合った女性とホテルに行ったり


そんなことばかり繰り返してた。


あからさまにお小遣い頂戴って言われれば、あーそうかって感じでお金渡してたしね。


そういう小遣いはいくらでもあったんだよ。会社の組織ってさ、どうにでもなるところがあるからね。


そんなことを繰り返してるうちに、麻耶と出会った。


麻耶と電話をしてる時は、虚しさなんてなかった。むしろ、ただ話してるだけで嬉しかった。


もし、それまでの俺だったら最初に会った日に間違いなくホテルに誘っていたしね。


でも大事にしたかったんだ。


こんなに遊んでて恥ずかしいんだけどね。麻耶は初めて会った時から


絶対に手放したくない女性になっていたんだ。」


麻耶の頭の中には、博之はいつもこうやって女性を落としていたのかなという思いも駆け巡った。


だが、


「ありがとう。いいのよ。正直に話してくれたことが嬉しいから。」とだけ返した。


そう言う麻耶の唇にそっと唇を重ねてきた。


とても短い、そしてとても優しいキスだった。


それからまた、お互いにいろんな話をした。


麻耶は夫に女性の影が見えるとだけ話した。




心の準備

3回目の逢瀬は山中がドライブを提案し、それに麻耶は快く応じた。


30歳半ばの大人同士、3回目の逢瀬。


そこに何があるか、麻耶は理解していた。


有休を全くとっていなかった山中が麻耶の子供が通う小学校の開校記念日に合わせ


休みまでとってくれたのだ。


その日、麻耶は子供達を幼い頃から行き来している友人宅に預け、


11時に麻耶の住む駅の2つ先の駅で山中と待ち合わせた。


ゴールデンウィーク間近の少し汗ばむような太陽の日差しを浴びながら


少し遅れそうだったため待ち合わせ場所へと急いだ。


先に着いた山中は横浜ナンバーのシルバーのBMWを駅の前のロータリーに停めていると


メールを入れていた。


麻耶は駅のトイレで自分の服装やメイクを再確認し、シルバーのBMWを見つけると小走りに駆け寄った。


山中は、麻耶の姿を見つけると車を降りて右側の助手席のドアに手をかけ


「子供がいれば大変だよね。そんなに慌てなくて良かったのに。


さ、早く乗って。クルマの中は涼しいよ。」と笑顔で迎え入れた。


「ごめんなさい。いろいろと手間取ってしまって・・・」


「麻耶さんは何時ごろに帰ればいいのかな。それによって行く場所を決めよう。」


「主人の帰りは遅いし、子供達は友達のところで夕飯もご馳走になるから8時か9時ごろまでに帰れればいいの。」


「じゃあ、そうだな。湘南あたりでも行ってみようか。たまに海をみて食事をするのもいいでしょ。」


「わー嬉しい。海なんて何年ぶりかしら。」


都内を抜けるまでは多少渋滞していたものの、渋滞を抜けてしまえば湘南まではあっと言う間だった。


そして山中が時々行くという国道沿いのレストランに着くまでの間に2人の距離が縮まっていた。


「山中さん」「麻耶さん」と呼び合っていた2人だったが、


「麻耶」「博之」と呼び合うように変わっていたのだ。


いつまでもこの呼び方ではちょっとね。という山中の提案で笑いながら練習し、違和感を感じながらも


お互いに少し縮まった距離を喜び合った。


2人はシーフードがメインのランチを堪能し、少し砂浜も歩いた。


博之はこの日、初めて私服で麻耶の前に現れたのだが、スーツ姿よりもっと若く見える博之の姿に


何か少年のような面影さえ感じた。


そしてミュールを履いていた麻耶の足元を気遣うように、歩きやすい場所を探しながら


先に歩を進ませる博之の優しさがひどく嬉しかった。


しばらく海を眺め、お互いの家族の話をしたり、趣味の話をした後、


博之は「もし・・・嫌じゃなかったら少し休んでいかない?」とストレートに聞いてきた。


麻耶はもう既に心の準備が出来ていたし躊躇うことなく頷いた。


麻耶は決して軽い女ではなかった。


まして恵吾と知り合ってから他の男性とこういうところに足を踏み入れることなど考えたこともなかった。


心の準備が出来ていたとはいうものの、


車を滑り込ませたホテルに入ってから、博之にどんな部屋がいい?と聞かれても、何も返事が出来なかった。


そして部屋に着くまで顔を上げることすら出来なかった。


無言のまま博之の手を握り、部屋に入り顔を上げるとそこには、麻耶が想像していたような部屋ではなく


とても明るく、清潔感漂う部屋が飛び込んできて心底安心した。


博之は、麻耶をソファに座らせ、冷蔵庫からコーヒーを取り出しながら


「僕は運転しないといけないからアルコールは無理だけど、何か飲みたい物はない?」と聞いてきた。


「じゃ、私も博之に付き合って、コーヒーをいただこうかな。」


「了解!」


博之は明るく笑うと麻耶にコーヒーを渡し、麻耶の隣に腰をおろした。




ときめき

麻耶はお気に入りの黒いモヘアのセーターの上に黒いコートを羽織り、待ち合わせた新宿の東口へと急いだ。


雪のせいで、当初履いて行くはずのパンプスがブーツに変わったことを除けば、


その冷たい雪さえも愛おしく感じるほど麻耶は胸が踊った。


改札を抜け、東口に向う途中に携帯電話が鳴り、出ると既に山中は東口に着いてるとのことだった。


「電話は切らないで。何色の服を着てるのかな?」


「私は黒のコートを着て、もう東口に着きます。」


雑踏の中、山中の声を聞き逃さないように電話を耳に押し付けて話していると、


「麻耶さん?」と、後ろから声をかけられた。


麻耶は一瞬、ビックリして振り向くとそこには、麻耶がほぼ想像していた通りの、優しそうな男性が立っていた。


「はじめまして。山中です。いやぁ…あんまり若くて綺麗な人だから人違いだったらどうしようかと思っちゃったけど


本当に麻耶さんですよね?」と言われ、


麻耶は思わず笑ってしまった。


「お世辞の上手な人…でも私も安心しました。だって怖そうな人だったらどうしようかと思っていたから。」


そんな会話をしながら、駅からそう遠くない喫茶店に入って2人はまるで何度も会ったことがあるような錯覚に陥るくらい


自然に打ち解け、会話も途切れることがなかった。


38歳という山中は、少し癖のある髪を後ろに流しているせいかまだ30代前半のように若く見え、


スーツがとても似合っていて、話の進め方も麻耶を飽きさせることなく、麻耶は時間の経過と共に


山中に惹かれていくのを感じていた。


それは山中も同じだった。


子供がいるとは思えないスタイルの良さや整った顔立ち、そして何より時折見せる笑顔が


山中の心を揺さぶっていた。


夕方近くに麻耶が「もう帰らないと…」と言うと、山中は言った。


「また会えるかな」


「また会いましょう。会いたい。」


麻耶の素直な気持ちに山中は飛び上がりたいほど嬉しかった。


帰る頃には雪も止み、車で来ていた山中は改札で麻耶を見送った。


そして山中は右手を差し出し、麻耶は差し出された手をそっと握り返した。


温かな手…麻耶は心の中でそう思った。


そしてまたこの人に会える。その思いで胸が熱くなるのを感じた。


その日を境に、2人の連絡手段は携帯のメールになった。


時間のある時はパソコンのメールで近況報告をし、連絡をとらない日はなくなった。


もう一度会いたい、また会える日が来るようにと・・・


多分、2人共に同じ気持ちを抱えていたのだろう。



山中は大手企業に勤めるサラリーマンだった。都内の支社に籍を置き、そこにいる人間は


一人一人ブースを与えられていたため、パソコンの窓をいくつか開けて時々気晴らしをする。


麻耶と再会の約束を交わした後、何回かそのチャットを利用した。


とは言うものの、もともとゆっくり座っていられる時間などごくわずかで、


麻耶との約束の時間に座れないことも多く、運良く話せても10分程度だった。


そんな状況の中で山中は自分の携帯番号を教え、嫌じゃなかったら連絡が欲しいと伝えた。


まだ麻耶も山中もお互いに何の感情も持っていなかったし、


良い話し相手に恵まれたぐらいにしか思っていなかった。


もちろん、その後に訪れる苦悩や喜び、悲しみなど予想する術もなかった。


不思議と麻耶は何のためらいもなく翌日には山中の携帯電話に電話をかけた。


どの時間帯に電話していいのか検討がつかなかったのでスリーコールで出なかったら


電話を切るつもりだった。


やはりスリーコールで山中が出ることはなかったが、最初から半ば諦めていたこともあり


またかけ直せばいいという気持ちでエプロンのポケットに電話をしまった途端、着信音が響いた。


【もしもし】


初めて聞く山中の声だった。


もう少し鳴らしてくれても良かったのにという声はとても穏やかで優しい声だった。


麻耶は多少緊張したものの以前から知り合いだったように話す山中の優しい声に


心が軽くなっていくのを感じながら、30分ほど他愛ない話をしては笑っていた。


その後、何度か電話で話しお互いに会ってみたいと思ってることを伝え合い、


近いうちに会う約束をするまで時間はかからなかった。


山中は一度、会社を出てしまえば自由な時間がつくれるからと、麻耶の都合に合わせてくれた。


最初にチャットで出会ってから1ヶ月ほど経っていただろうか。


前日まで晴れていたというのに、初めて会う約束をした日は粉雪が舞う2月だった。



心の病

学校から帰って来た子供達は麻耶の変化にすぐ気がついた。


「わー、ママ綺麗!」と飛びつかれ、何だか恥ずかしい気持ちと嬉しい気持ちでいっぱいになった。


だが、恵吾が帰宅したことによって、その嬉しさは完全に払拭されてしまった。


髪を切ったことも、綺麗に染め直したことも、


上品に身体のラインを浮かび上がらせる洋服にさえも気付かず、浴室へと消えて行った。


麻耶は結婚してから始めて涙を流したかも知れない。


それでも声を出して泣くようなことはなかった。


頬を伝う涙をそっと拭うような、ひっそりとした静かな涙だった。


ただ、その日を境に言いようのない不安に襲われ、上手く呼吸をすることが出来ない状態が頻繁に起こるようになった。


夜中に寝ていても発作の度に起き上がらなくてはいけなくなり、恵吾も心配してくれるのだが、


麻耶は恵吾の睡眠を妨げてはいけないと思い客間で眠りにつくことにした。


そんなことが続いたある日、ふとパソコンで調べてみようと思い立ち


いろんなワードで検索しながら自分と同じ症状に悩む人たちが集うサイトにたどり着いた時は


何か一筋の光が見えた気がして夢中で掲示板を読み、麻耶自身も自分の症状を書き込んでいた。


そして、自分のかかるべき病院は心療内科であること、心療内科を訪れることは決して恥ずかしくはないこと、


そのサイト内にあるこれらの言葉に励まされ、翌日には隣町の病院を訪れていた。


初診ではいろんな検査をしてもらい、症状も十分に聞いてもらった。


拭えない不安感や苛立ち、眠れぬ夜のことなど誰にも言えなかったことを吐き出し


何種類かの薬をもらった時は、安堵感から笑みがこぼれそうになった。


それから、麻耶はサイトで知り合った人たちとそれぞれ服用している薬の情報を交換したりするうちに


症状が軽くなっていく自分を感じながら、自分の存在価値について考えるようになった。


恵吾にとって自分はどんな存在なのか、子供達の良き母親としていなければならないだけの存在。


ただそれだけでも仕方ないのだろう。恵吾の心が麻耶に向いていなくても子供達にとって、


両親が揃っていることが何よりも大事なことなのだ。


親として、温かな家庭をつくるパートナーとして、恵吾は申し分ない。


麻耶を抱かないこと以外は、そして女性の影をちらつかせない事以外はパーフェクトなのだ。


ある休日、子供達が珍しく恵吾と出かけ、家事一切を終えた麻耶はパソコンに向かった。


よく訪れるサイトからリンクをたどり、ひとつのチャットを見つけた。


今もあるのだろうか、誰かがメッセージを打ち誰かが入ってくるのを待っている。


卑猥な言葉で異性を誘っている部屋もあれば、無難に「お話しましょう。」とだけメッセージを出している部屋もある。


もちろん、麻耶は中に入るとどんな風になってるかも知らなかった。


少しの胸の高まりを覚え、平凡なメッセージを出している部屋にカーソルを合わせた。


別に実際に会うわけではない。気に入らなければさっさと出てくればいいだけだ。


入室してみると、すぐに「こんにちは。」という文字が目に飛び込んできた。


相手もそれほどチャットというものに慣れていないらしく、のんびりとしたペースで何気ない会話が交わされた。


卑猥な言葉などは一切使われることなく、お互いの自己紹介みたいなものが延々と続き、


最後には次にまたここで会いましょうと、約束を交わした。


麻耶の相手は38歳


山中博之という既婚男性だった。


この頃の恵吾は仕事の忙しさに拍車がかかり、帰宅も午前様が当たり前のようになったが、


麻耶はどんなに帰りが遅くても恵吾が帰って来るまで寝ることはなかった。


そしてある晩、【残業続きで申し訳ないね。】と言いながら脱いだ背広から恵吾が使っていない香水の香りに気付いたが


麻耶は何も言わなかった。


接待でどこか女性のサービスがあるところに行っていたのかも知れないし、満員電車の中で香水の匂いが移ったのかも知れない。


それにもし、他の女性と一緒に居たのだとしても麻耶は何も言うつもりはなかった。


麻耶は心に決めたことがあった。どんな時も笑顔を絶やさないと。


麻耶の死んだ父親は給料を母親に一銭も渡さず他の女と遊びまくっていたことを知っている。


それに比べ、恵吾は給料を全額家に入れてくれるし、優しさも結婚前と変わらない。


大きな家にかわいい子供達、何も不自由のない生活。


そして恵吾はいつも麻耶が笑顔でいてくれることが最高に嬉しいと言った。


麻耶が笑っていれば、恵吾も子供達もしあわせに違いなかった。


麻耶は心の渇きを感じながらもいつも微笑んでいるように努めた。


それからも恵吾の午前様の生活は続いた。そして相変わらず背広から漂う香水の香りが変わることはなかった。


無造作に置かれた恵吾の携帯電話を横目で見ながらも、それを開くこともしなかった。


それが麻耶の唯一のプライドだったのかも知れない。


その頃はもう、恵吾が麻耶を抱く事はほとんどなくなっていた。


たまに恵吾に抱かれても心が潤うことはなく、これは恵吾の計算なのだと思う自分がいた。


計算されたsexほど虚しいものはないと求められるたびに思い、


それでも、麻耶は自分の存在が恵吾の中にあるからこその行為だと言い聞かせた。


ある日、いつものように笑顔で家族を送り出した麻耶は寝室を掃除していて


ふと鏡に映った自分を見て驚いた。


毎日、何気なくドレッサーの前に座り簡単に化粧を済ませていたが、


うつむき加減で鏡に映った自分は、青白い顔をした何の魅力も無い、頬のこけた女だった。


掃除機のホースが手からするりと抜け、麻耶は呆然と自分の姿を見ていた。


どのくらいそんな自分を見ていただろう。


われに返った麻耶は櫛を通していない髪を慌ててブラシでとかし、頬を何度も触ってみた。


頭頂部の髪は黒々として下にいくほど茶色い上に艶もなく、


肌はかさかさとして、場末のスナックで働く女のようだ。


子供が小学校に上がってからというもの、買い物以外ほとんど外出せず


時々、友人とランチをするような生活の中で自分というものを失いかけていた。


麻耶は掃除をやめ、入念に化粧をした後、美容院に行き髪を10㎝ほど切り綺麗に染め直した。


そしてトレーナーを脱ぎクローゼットの奥からグレーのセーターと黒いパンツを取り出し着替えた。


体型が変わっていないことにホッとし、再びドレッサーの前に立つと、


そこには、しばらく見ていなかった以前とあまり変わらない麻耶がいた。


麻耶35歳


忘れかけていた女というものを取り戻した年になった。