失恋は、初めて飲むブラック・コーヒーのよう。

苦くて、渋くて、ちっともおいしくない。

 

でも、何度も飲んでいると、その深い味わいがわかってくる。

ただ甘いだけの飲み物もいいけど、この苦さもいいものだ。

 

最初はわからなかったけど、今はそのおいしさもわかる。

ブラック・コーヒーは、以前と変わらない。

変わったのは、私の認識。

 

失恋も、味わってみると意外といいものだ。

愛の深さがわかる。

その辛さや悲しさの中に、深い愛を感じる。

 

世の中の出来事は、全て必然で無駄がない。

自分にとって、有益なことしか起こらない。

失恋には、失恋の良さがある。

 

それがわかったとき、人は本当の意味で幸せになれる。

だって、自分にとって、良いことしか起きないことを知ったのだから。

「幸せは すべて自分の 心が決める」

言わずと知れた相田みつおさんの言葉。


多くの人が共感する。感動する。

でも、実践する人は少ない。


恋人に浮気された。

近所の人から中傷された。

親が愛してくれない。

....

だから、幸せになれないと言う。


良い言葉を知っていても、実践しなかったら宝の持ち腐れ。

当たり前のことなのにね。


やってみようよ、勇気を出して。

過去の自分と決別して、新しい自分に生まれ変わろうよ。

そうすれば、人生が変わるよ。

お金を手に入れたかったら、お金の使い方を考えなくてはなりません。

お金の使い方が悪いと、お金は逃げて行ってしまうのです。

お金の使い方がうまいと、お金は他のお金を誘って、あなたの元へ帰ってくるでしょう。

 

●特上 : 他の人のためにお金を使うこと。

他の人が喜ぶように、何かを買ってあげるのです。直接お金を上げてもいいでしょう。

評価したものには、適正な対価を払いましょう。

「他の人」とは、それを作った人や売る人も含まれているのです。

 

●上 : 自分への投資のためにお金を使うこと。

新しい技術や知識を身につけるために、有益な本を買うために、見聞を深めるために使うことです。

同じ旅行でも、自分が楽しみたいだけなら「下」ですが、見聞を深めるためなら「上」です。

 

●中 : 株を買ったり、銀行へ預金すること。

回りまわって社会への投資となるでしょう。タンス預金では、利息も生みません。

 

●下 : 自分の楽しみのためだけにお金を使うこと。

自分がおいしいものを食べたい、おしゃれをしたい、高級な車に乗りたい。

そういう自己満足のためだけにお金を使うことです。

 

「今、少ししかお金がないから」という理由で上手に使わないとしたら、一生「今、十分にお金があります」という状態にはならないでしょう。

今、手にあるお金を上手に使うのです。

手放すのが惜しいと感じる前に、手放してしまうのです。

 

誰かが喜んでくれるならと、惜しげもなく使いなさい。

そうすれば、今度はお金があなたを喜ばせてくれるでしょう。

 

感動したなら、それに見合ったお金を払いなさい。

そこで払えないなら、代わりに他へ寄付しなさい。

あなたが適正な評価をすれば、他の人もあなたを適正に評価するようになるでしょう。

 

良いものを買うのに、お金をケチってはいけません。

万引きや窃盗は、お金をケチることに他なりません。

お金をケチれば、あなた自身が粗末な価値のないものになってしまうのです。

夫婦は別れれば赤の他人だが、子供は別だという。
いわゆる「血のつながり」が、愛情の基になるというのだ。


本当にそうだろうか。
ただそう信じているからだけではないのか。
その信念を、「一度でも愛した」ことが愛情の基になると変えるだけで、もっと愛せるのではないだろうか。


配偶者の裏切りで別れたとき、相手を恨む必要があるのだろうか。
では、もし子供に裏切られたら、同じように一生許せないと思い続けるだろうか。
その答えがNOならば、配偶者に対しても同じように思えるのではないか。


血がつながっているから愛しいのではないのです。
私が一度愛したから愛しいのです。
愛することで、あなたは私の分身、私の一部になったのです。
どうしてそれが、「もう私の一部ではない」と簡単に言えるのでしょう。


あなたは私の分身です。私の一部です。いや、私自身なのです。
なぜなら、私があなたを愛したから。
だから、どんなに裏切られても、あなたには幸せになってほしい。
私が私の幸せを願うように、あなたの幸せも願うのです。

聖書に、「汝の敵を愛せ」として、次のような内容があった。

「右のほほを打たれたら、左のほほも打たせよ。」

「上着を奪う者には、下着も与えよ。」


なぜ?どうして自分の身を守ることさえしない?

「自分を愛してくれる人を愛したとて、それが何になろう。」

「そんなことは罪人でもする。」


だから、神のように慈悲深くなれと言うのか?

神が罪深い私を許されるように、私も同じようにせよと?

私が罪人だと言うなら、そんな私のどこに、神のような力があろうか。


そんな疑問を、以前は抱いていた。

しかし今、私は私を裏切った人にさえ、その幸福を願い、さらに多くを与えたいと願っている。

誰も理解してはくれないが、私にとっては、とても自然なこと。


「あなた」は「私」です。

気がついていないだけで、別のバージョンを生きている私なのです。

私が私自身の幸せを願う。

私自身のために、私にできる最大限のことをする。

そんなあたり前のことなのです。

よく見てたアニメ「ルパン3世」のテーマ曲の歌詞の中で、「男の美学」という言葉が出てくる。

「男には自分の世界がある 例えるなら空を翔る 一筋の流れ星」と歌詞は続く。

わかったようでよくわからないが、それでもなぜか惹かれてしまう歌だ。


自分流で解釈すれば、社会規範だとか、世の中のあらゆる取り決めに縛られず、ただひたすらに自分の生き方を全うすることのように思う。

何もルール違反を推奨するわけではない。

ルールだから守るのではなく、ルールを守ろうと決めたから守るという姿勢なのだ。


昔は、「お天とうさんが見てる」とか「神様がいつも見てる」と言われて、例え人に見られていなくても正しい行いをしなさいと仕付けられた。

今は、そんなものがあって、悪いことをすればバチが当たるなんて、とても信じることはできない。


でも、自分自身に対する規制は、子供の頃よりしっかりとしたものになっている。

「それは自分らしいことか」

それだけが唯一の規範となっている。

理由は、自分を美しく輝かせたいから。


時には、ルールを侵してでも、家族を犠牲にしてでも、自分の命を投げ出してでも、やらなければならない。

それはただ単に、「そうすることが自分らしいこと」だと思うからだ。

そうすることで、相手や社会に対して何も求めない。

ただ、自分がそうしたいからするだけ。

誉められてもよし。けなされてもよし。理解されなくても恨まない。


こんなことを考えている私は、どうも一般的ではないようだ。

頭が固く、他人の助言を素直に受けないと思われ、疎まれることもある。

ただ、それはそれ。反省すべきは反省しよう。

でも、自分は自分だ。

信頼する人から、裏切られた。

考えてもいなかったことを理由にして、ぼくを悪者にした。

一度だって、彼のためにならないことをしなかったのに。

いつもいつも、彼のことを優先して考えていたのに。


悔しかった。

涙が出そうなくらい、悲しくて、切なくて、仕方がなかった。


怒鳴りたかった。

そんな理由にもならないことを理由に非難したことの矛盾を、暴いてやりたかった。


しかし、ふと、なぜ彼がそうしたのかを考えてみた。

彼もまた、苦しんだのではないか。

その苦しみから逃れようとして、理由にもならない理由に救いを求めたのではないか。


それが正解かどうかはわからない。

しかし、そう考えてみることで、彼を許せるような気がした。

ぼくが信頼した人じゃないか。

最後の最後まで、信頼してみようよ。


自分自身に、そう言い聞かせた。

事実は変えられない。

しかし、それにどんな意味を与えるかは、自分でどうにでもできる。

前に向かって歩き出そう。

ぼくは、そう決めた。

<1999年7月4日のHPより>


あなたも里親になりませんか

 

援助されてきた日本
 

 経済大国となった日本。その日本にも、どん底の時代があったんだね。50年前、敗戦によって荒廃し、焼け野原に多くの人がバラックの家を建てて暮らしていたころのことだよ。飢えが日常にあった。みんなは、明日食べるものの心配をしながら、やっとのことで生きていたと聞かされたよ。
 子供の教育など、考える余裕すらなかったと思うよ。でもそのころ、アメリカやカナダから、子どもたちの未来のために支援が始まったんだってね。その支援は基督教児童基金(CCF)として、1948年から1975年まで延べ86,500人の、日本の子どもたちの生活を支えてきたんだ。(※)

※CCFについての記述は、CCWA発行のパンフレットを参考にしました。

 

今度は私たちが
 

 日本は復興し、経済的に大変豊かになったよ。今の日本で飢えて死ぬ人は、まずいないね。でも、豊かなのは一部の先進国だけ。地球上にはまだ多くの貧しい国があるんだ。戦火におびえ、明日食べるものの心配をしながら暮らす、たくさんの人々がいるよ。生活のために、学校に通えない子どもたちもね。
 あなたはこれを放っておける?今のぼくたちには、彼らを支援する力があるよね。だって、ぼくらにとってはたった100円でも、それで子供の命が助かる国もあるんだからね。「誰かもっと豊かな人がやればいい」、そう思うの?あなたはそれで満足できる?
 できることをすればいいんだよ。少しから始めればいい。できない理由を探さずに、あなたの中の優しさ、愛情、そういったものを大切にしてほしいな。

 

子どもたちのために
 

 未来は、子どもたちによって作られるって言うよね。だから、子どもたちが安心して暮らせるように、きちんと教育を受けられるように支援したい。それが里親運動なんだよ。
 といっても、本当に養子縁組をするわけじゃないよ。支援する人を里親と呼び、里子として選ばれた支援される子どものために、毎月一定額のお金を会費として収めるんだ。里親と里子は、文通などによって交流できるよ。いわば、「足長おじさん」のようなものだね。それに、グループで里親になるのもOKだよ。学校のクラスや職場の仲間で、一人の里子を支援している例もあるんだよ。

 

 

里親運動ってどんなこと


プーさん里親になる
 

 ぼくが里親になったきっかけは、「プーさんのつれづれぐさ」の「プーさんの里子」を見てね。今(99年7月)は、CCWAという団体で、2人の里子の支援をしているんだよ。
 ときどき、里子からの手紙や成長の記録が届くんだ。何だかラブレターでももらったようにウキウキするよ。元気かなぁ、幸せに暮らしているかなぁって、里子のことをあれこれ考えてしまうね。

 

CCWAの里親運動
 

 CCWAでは、フィリピンを対象に国際精神里親運動をやっているんだ。里親会費は毎月4,000円。これで、1人の里子を支援できるんだよ。他にも会費2,000円の協力会員や、書き損じハガキなどでも参加できるんだよ。
 里親会費の約25%(=1,000円)は、CCWA東京事務所の経費として使われ、約3,000円が現地センターの運営と、里子のための各種プログラムに使われるんだって。ぼくたちの感覚では、たったそれだけで何ができるのかって気がするけど、フィリピンでは貧しい家庭の月収に相当する額なんだよ。
 支援プログラムには、教育費・給食費・衣料費・医療費などの支援、技術修得支援、保健衛生指導、親たちの自立支援など、いろいろあるみたいだね。それらのすべては、里子の住む地域社会が支援なしで自立することを目指しているんだ。(※)

※CCWAの活動についての記述は、CCWA発行のパンフレットを参考にしました。


本当の援助
 

 そんなプログラムより、里子の家族にお金をあげればいいじゃないかって思うかな。でも、考えてご覧よ。そうしたら、里子やその家族は、援助なしには生きていけなくなるんじゃないかなぁ。これは、相手の力を弱めてしまうことだよね。それで幸せになれると思う?相手の力が弱まれば、援助する側はいつまででも頼られる。頼られることは嬉しいかもしれないけど、そういう状態に相手を追いやって、それで満足できるのかなぁ。
 本当の援助は、相手の力を強めることだと思うんだよ。だから、自立を支援することが、本当の援助になると思うんだ。もちろん、緊急避難的な直接援助が必要な場合もあるよ。でも、最終的には援助なしにやっていけること。いつか里子から、「今は援助なしでやっていけます。それどころか、他の困っている人のために援助してあげられるようになりました。」という言葉が聞けたら、最高に幸せだね。ぼくはそう思うよ。あなたもそうでしょ。

 

 
CCWAについて


CCWAとは
 

 基督教児童福祉会・国際精神里親運動部のこと。「Christian Child Welfare Association」の頭文字をとって、CCWA(シーシーワ)と呼んでいるんだよ。1975年から、CCFの精神を受け継いで、フィリピンへの支援を始めたんだ。
 
連絡先は次の通りだから、連絡してみてね。パンフレットを希望すれば、送ってくれるよ。
CCWAは2005年3月7日をもちまして特定非営利活動法人チャイルド・ファンド・ジャパンへ法人変更をいたしました。


里親になると

 里親会員になると、CCWAからフィリピンに住む里子が紹介されるんだ。里子は乳幼児から17歳ぐらいまでで、学校を卒業して働けるようになるまで支援することになる。でも、ときには家族が援助地域外に引っ越したりして、途中で援助が打ち切られることもあるけどね。
 里子には手紙を書くことができるんだ。もちろん、返事も来るよ。手紙は英語でもいいし、日本語への翻訳もCCWAでやってくれるよ。フィリピンは郵便事情が悪いところもあるし、現地の言葉と英語、それから日本語への翻訳もあるので、手紙が届くまでには1ヶ月ぐらいはみておいてね。
 それから年に1回、里子の写真付きの成長記録が届くよ。里子の体格や性格、学校の成績など、里子の様子がよくわかるし、1年前と比べてみると、その成長ぶりがわかって嬉しいね。



ChildFundJapan
 チャイルド・ファンド・ジャパン

SVA(シャンティ国際ボランティア会)

ダルニー奨学金(日本民際交流センター)

<1998年10月以前のHPより、「プーさんの里子」として載せたシリーズ>


●援助とは(№6)

 

 1997年春、ぼくが住んでいた所の近くのプロテスタント教会で、CCWAの集会があった。CCWAの援助を受けて、地域の支援活動を行っているフィリピンのキリスト教会の修道女が来日し、各地で集会を行っていたのだ。集まった人の多くは近所の主婦で、いつもその教会に集っている人たちだった。

 集会の後、クッキーとコーヒーをご馳走になりながら雑談をした。その中で、「こちらが援助しても、お礼の気持ちを持ってもらえなかったら嫌になる」という話が出た。何人かがそれに同意した。おばさんたちの井戸端会議のようなものだったので、敢えて反論はしなかった。

 でも、援助って何のためだろう。精神的里親になって10年、そんなことを考えてみた。孟子に「惻隠の情」という言葉がある。一方で豊かな生活があり、もう一方で貧困に喘ぐ人がいる。「平気な顔をしていられるのか」という声が聞こえてくる。一方で、彼らは怠け者だからという人もいる。それも一理ある。

 今は、怠け者でも食事に困ることなく、衛生的な生活を送ってほしいと思っている。援助に対するお礼なんて要らない。幸せでいてくれればいい。宮沢賢治が言ったように、世界の人全てが幸せでなければ自分の幸せはない、という気持ちだ。それに、むしろこちらがお礼を言いたい。援助を快く受けてくれてありがとうと。


●レックスとメアリ・アン(№7)

 

 ジョアンへのサポートが終わり、レックス・ブトワン(12才)をCCWAから紹介された。歌が得意でバスケットボールが好きな少年だ。軽度の栄養不良という。 神妙な顔つきのレックスは、何を考えているのだろう。どのくらいの付き合いになるかわからないけど、よろしく。

 レックスのサポートと同時に、もう一人、里子を増やすことにした。生活にゆとりができたことと、まだ多くの子供がサポートを求めているという声に、知らんふりをしていられなくなったからだ。

 一時的な寄付でもよかった。これまでも、ユニセフを中心に何度となくやってきたし、これからもやっていくつもりだ。でも、里子を援助することにした。簡単に援助を止めるわけにいかないからだ。自分の責任として、一人の子供をサポートし続けたかった。

 紹介された2人目の里子は、メアリ・アン・マグバタ(11才)。バレーボールとダンスが好きな、快活そうな女の子だ。 笑顔がとってもチャーミングなメアリ・アン。はじめまして、よろしく。


●心の里子たち(№8)

 

 一人ひとりの里子と、深く関わったわけではない。ほんの挨拶程度の、手紙のやり取りがあっただけだ。彼ら彼女らについて、ほとんど何も知らないに等しい。覚えていない部分も多い。それでも、里子の写真を見ると、元気でいるかなと思う。手紙を書けば、幸せでいてほしいと祈る。その時だけかもしれないけれど、愛しているから。

 里子たちは、成長とともにぼくのことは忘れるだろう。それでいいし、そうあってほしいと思う。誰から援助されたかなど、どうでもいいことだ。そんなことは忘れていい。ただ、そこに愛があったことを覚えていてほしい。愛されたという気持ちを少しでも持っていてくれたら、それで十分だ。愛されたという思いがあれば、人を愛することができるから。

 今、ぼくの里子は2人。のべ6人になる。これを10人まで増やしたいな。のべ100人の里子を支援したい。これがぼくの目標。そして生きがいでもある。そして、いつかこういう支援そのものが必要ない世の中にしたいな。


●再びマリ・エラ・ヘレン(№9

 

 先日、歌舞伎町のテン・ツー・ファイブへ行ってみた。すると、その店はなくなっていて、別の店の看板がかかっていた。もちろん、店があったとしても、そこにマリ・エラ・ヘレンがいる訳はないのだが、何となく思い出を尋ねてみたのだ。

 彼女は今ごろどうしているのだろう。どこかで幸せに暮らしているのだろうか。恋した訳ではないが、幸せになってくれればいいなと思っていた。きっと幸せに暮らしている。そんな気がする。


CCWAは2005年3月7日をもちまして特定非営利活動法人チャイルド・ファンド・ジャパンへ法人変更をいたしました。

<1998年10月以前のHPより、「プーさんの里子」として載せたシリーズ>


●マリ・エラ・ヘレン(№1)

  ぼくが初めてフィリピーナに会ったのは、歌舞伎町のテン・ツー・ファイブという店に行ったときだった。そこでは5人のフィリピーナがホステスとして働いていた。初めて見るフィリピーナは、純朴で明るかった。家族思いの彼女たちが、遠く離れた日本で一生懸命働いている姿を見ると、知らず知らず応援したくなった。

 月に1~2回の割合でお店に通った。そのうち、一人のフィリピーナと親しくなった。彼女の名は、マリ・エラ・ヘレン。マニラの大学に行っていたというが、本当かどうかわからない。華奢な体つきで、愛敬のあるタイプの女の子だ。

 半年して、彼女たちは帰国することになった。6ヶ月で就労ビザが切れるためだ。最終日にお店に行くと、いつもの制服姿ではなく、少しラフな服装だった。聞くと、最後だから私服を着ているという。どちらかといえば安っぽい感じのブラウスだ。

 一生懸命働いて、自分の服を買うことも我慢して、家族のためにお金を貯めたのだろうか。同じ地球上の同じ時代に暮らしながら、この違いは何なんだろう。一方で1回の飲み代に5,000円を平気で使う人たちがいて、もう一方では1ヶ月一生懸命働いて、やっと5,000円を稼ぐ人たちがいる。何かしなければ。何かしたい。突き動かされるように、何かすることを求めた。

 そんな時、新聞広告で日本フォスタープラン協会(以下JFP)を知った。早速資料を取り寄せ、月々5,000円でフォスター・ペアレントになることにした。1回飲みに行くよりも、一人の子供の生活をサポートしたかった。

●サラ・アビナ(№2)

 

 フォスター・ペアレントというのは、精神的な里親のことだ。援助地域の子供を紹介され、その子供、つまり精神的な里子(フォスター・チャイルド)と文通などで交流しながら、支援をしていく方法だ。里子との関係はあくまで精神的なもので、法律的に養子縁組をするわけではない。(※)

 1988年6月、JFPからサラ・アビナ(10才)を紹介された。とてもキュートな女の子だ。毎月、5,000円をJFPに振り込んだ。その5,000円は、全てサラに送られるわけではない。会の運営費にもなるし、多くは援助地域の振興プロジェクトに使われる。お金が直接家族に渡ると、もらえる者ともらえない者で差が付き、コミュニティーが崩壊しかねないからだそうだ。 ぼくは、毎月の会費を振り込みながら、サラの幸せを祈った。サラはまだ幼くて手紙を書けないので、絵を描いてくれた。また、お母さんが代筆した手紙が送られてきた。ぼくも苦手な英語を使って、日本のことや自分のことを紹介する手紙を書いた。楽しい文通は、1年あまり続いた。

 その後、サラの家族に幾分ゆとりができて、援助を必要としなくなったということで、ぼくのサポートは1990年2月で終わった。それから彼女がどうしているのか、ぼくは知らない。ただ、今でも心の里子として、彼女の幸せを祈っている。

名称およびその定義、支援内容は、支援団体によって異なります。正式な名称などは、各支援団体のHPなどでご確認ください。


●ジョイ・ルフォ(№3)

 

 JFPで里親になってから、「ありがとうフィリピン」という本を見つけた。もう内容を忘れてしまったが、ドキュメンタリーでフィリピンを取材したカメラマンが、現地の子供たちとの交流を書いた本だったと思う。その本の中に、社会福祉法人・基督教児童福祉会(以下CCWA)が紹介されていた。この会も精神的里親運動をしているという。資料を請求し、これも何かの縁と思い、月々4,000円で里親になることにした。

 紹介されたのはジョイ・ルフォ(8才)。貧困のため、小学校に行けないでいるという。水運びなど家の手伝いをよくするというジョイ。ぼくは彼の写真を見ながら、彼の生活を想像してみた。

 ジョイは、大きな文字で手紙を書いてくれた。タガログ語なので、英語の翻訳付きで送られてきた。手紙には、フィリピン国旗や家の絵が描かれていた。

 ジョイとの交流はあっという間だった。約1年で、彼の家族が引っ越すことになったからだった。CCWAの援助対象地域から出て行けば、もう援助を続けることはできない。彼の家族がどうして引っ越したのか知らない。助けてもらえる親戚のところへ行ったのかもしれない。それが彼の家族にとって、最善の選択だったのだろう。


●クレセンシア・デラ・クルズ(№4)

 

 サラの援助が終わった後、JFPから紹介されたのがクレセンシア(12才)だった。教師になりたいという活発で健康的な感じがする女の子だ。 彼女が家族と一緒に写った写真の背景に、トタン屋根の粗末な家があった。彼女の家だろうか。台風の多いフィリピンで、雨風をしのげるのだろうか。

 彼女は、英語で手紙を書いてきた。小学校を卒業したときは、大喜びした様子を書いてきた。お母さんから服と靴をプレゼントしてもらって、本当にうれしかったとあった。

 2年ほどして、クレセンシアが住む地域がJFPの援助対象外になったため、彼女へのサポートは打ち切られることになった。彼女は私立のハイスクールに通うようになっており、確かに援助されるほど貧困ではなかったのだろう。今、彼女は夢を達成しただろうか。教師となって、生徒を前にしている彼女を見てみたい気もする。


●ジョアン・ソリアノ(№5)

 

 ジョイの後にCCWAで紹介されたのは、ジョアン・ソリアノ(9才)だった。この頃、彼女への援助が8年もの長いものになるとは、考えてもいなかった。

 ジョアンとの手紙のやり取りは、それほど多くない。足長おじさんとしては、彼女の生活に多く関わらない方が良いのではないかと思ったからだ。それに、彼女の誕生日が12月27日ということもあって、クリスマスと誕生日と新年のお祝いの手紙(カード)が1回で済んでしまうということもあった。
 それでも、彼女からの手紙は楽しみだった。幼い頃はタガログ語の手紙だった。英語の翻訳付きで、私のサポートに対してお礼が書いてあった。また、クリスマス・カードは、いつも彼女が絵を描いてくれた。

 年に1回送られてくるジョアンの成長記録も楽しみだった。身長、体重、成績、健康状態、性格などが書かれている。それと、彼女の最近の写真も。今それらを並べてみると、彼女の成長の様子がよくわかる。133㎝だった身長がハイスクールの2年で155㎝となり、それからは伸びが止まってしまったとか、小学校6年から責任感の強さが特徴として表れてきたとか。顔つきも、幼さがだんだんとなくなり、大人っぽくなってきた。

 今は18才となり、すっかり大人びた感じのジョアン。彼女は、今年(1998年)3月にハイスクールを卒業した。それと同時に、彼女へのサポートも終わった。地域の指導者としての活動に興味を覚え始めた彼女は、いつかケース・ワーカーとして、自分がしてもらったように子供たちの世話をするのかもしれない。