先週は何もする気が起きなくて、ぼんやりとビデオでも見ようかなという気になって、私としては絶対欲しくて毎回予約して集めた『精霊の守り人』全巻を二日で見てしまいました。(26話分)
 そうしたら、最後に仕事を終えたバルサが、国境を越えて育ての親であるジグロの魂を葬るために故郷に向かうところで終わっていて、どうしても続きが読みたくなって『闇の守り人』を引っ張り出してきて読みました。
 守り人シリーズはこの後もずいぶんと続くのだけれど、特にこの二つは繋がりも深く、なんとしても『闇の守り人』はアニメにしてもらいたいなぁと思っていました。と言うよりも、『十二国記』があそこまでやったのだから、当然なるだろうと思っていたので、今でも切望しています。

 『精霊の守り人』の中で、バルサは自分がこれまでたどってきた過酷な運命と、親友の娘である自分を守るためだけにジグロが引き受けなければならなかった苦悩を、同じく過酷な運命を生き、大勢のために自らの命をかけなくてはならなくなったチャグムに話して聞かせます。チャグムはその話を聞き、自らの運命を受け入れ、精霊の守り人としての役割を果たすことを心に決めます。しかし、バルサはその話の最中に、今は既に亡き人であるにもかかわらず、父を殺し、ジグロに友人たちを殺させ続けた敵であるログサム王への恨みは、消えることがないこともチャグムに打ち明けます。
 ジグロは病死する間際に、バルサには自由に生きるように箴言します。「お前、英雄にでもなる気か。」というジグロの言葉は、昔英雄であった自分への諌めの言葉でもあります。英雄などというものは「どこの、だれのための、なんのための」ということを突き詰めて考えると、実に厄介で簡単に受け入れられるものではないということがジグロにはよくわかっていたからです。
「それでも人々は英雄を欲しがるものだ。」

 『闇の守り人』では、ジグロは死人になってからも元「王の槍」の一員として山の王を守るヒョウルとして存在しています。
 貧しい山岳国のカンバルでは、この山の王から数10年に一度賜る宝石ルイシャがなければ国民は飢えて死んでしまいます。時期になると山からの声が聞こえて、王と〈王の槍〉は山に入りルイシャ贈りの儀式を行います。そこで〈王の槍〉の中の槍試合の勝者がヒョウルに打ち勝てばルイシャが手に入ります。ところが、ヒョウルには邪な心が読めて、少しでも邪な心が見えれば生きては帰れない。
 実はジグロは王の計略により、カンバルでは国賊として忌み嫌われる存在になっています。バルサはとっくに亡くなったものになっており、ジグロはバルサを助けたことにさえもなっていないのです。それでも、バルサは何とかしてジグロの汚名を晴らそうとします。
 もちろんバルサもいてはいけないものになっているのでカンバルでは追手がかかります。
 その中で、バルサは困難をかいくぐり、自らがルイシャ贈りの儀式の場へと到着します。そこで、運命に抗えずに王の槍としてヒョウルとなったジグロと戦います。
 戦いの最中、ヒョウルのジグロは「ほんとはお前が憎かった。」と言います。バルサも「助けてほしいなんて一言も言わなかった。」と。二人は本音を言いながら激しく戦い、ついには(ないしょ・本を読んでね(^_-))で、ジグロの魂や他の王の槍の魂は生者とのほんの束の間のふれあいの後天に昇り、その後悔や懺悔が宝石の光となって現れるのです。それを山の王がある方法で加工し、王と王の槍が取りに行く。
 と、こういったお話なのです。

 ここで私が何をいいたいかというと、高価な宝石になって人々の口を養うようになったものが、実は王の槍という英雄たちの後悔や懺悔だったという点が、作者である上橋美穂子さんのすばらしい視点であるということです。
 世間では、王の槍の死霊がヒョウルになるということは秘密になり、山の王の宝石の神殿で王の槍が山の王の従者であるヒョウルに勝って、その主人たる王がルイシャを受け取るという武勇伝に変えられています。実際は英雄たちの数々の苦しみを弔う儀式であり、その苦しみこそが宝石の源であるのに。

 英雄の苦悩を思う想像力は、確かに私たちに宝をもたらします。
 英雄の英雄たる所以は、その強さもさることながら、英雄であることに耐えうる精神力。戦いを強いられた武人ならばなおのこと、そうであろうと思います。
 英雄を欲しがる私たちの心理は、脆弱な国家というものの形を、私たちの絆を、思い起こさせて頼りがいのあるものにしようというものです。しかしその裏で強さは奢りを生み、敵を作り、戦いに人を駆り立てます。
 英雄の苦悩は永遠に続くのですが、それこそが人としての愛を持って生きていることなのだと思います。

 この時期に、いい本が読めたなぁ。
 この本がアニメになって見られたら幸せだなぁ(切望×切望)
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